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1561年9月10日、上杉謙信と武田信玄が対決した有名な戦い。 武田は、当時交通の要所であった川中島を含む北信州(現長野県北部)の支配を得ようとし、 一方の上杉は、武田の支配が自領である越後(現新潟県)に及ばぬよう、川中島で食い止めようとした。 戦いは最初の内は上杉軍有利であったが、後に武田軍が勝利した。 武田軍20000名の内4600名が死亡、13000名が負傷 一方の上杉軍は12000名の内3400名死亡、6000名負傷 上杉軍は敗退し、武田は川中島周辺(現長野市)を手中に収めることに成功した。 |
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36 35 28 N 138 11 11 E 写真は、戦いが終わってから、武田側が周辺の戦死者の遺体約6000を、敵味方の別なく集めて手厚く埋葬したという首塚。 それを聞いた上杉は感激し、礼に塩を送ったという(武田の出身地甲州は内陸なので塩は貴重)。 これが「敵に塩を送る」の語源(?) |
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1969年寄贈。 謙信(右)はただ一騎で信玄の床机の元へ乗りつけ、三尺一寸の太刀で切りつけた。 一方の信玄は、床机に腰を掛けたまま軍配団扇で受け止めたと言われる。 情熱に燃える謙信と、冷静沈着な信玄の対比が面白い。 |
信玄と謙信との一騎打ちが描かれている。 |
しかし槍はそれて、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去ってしまった。 謙信を取り逃がした原大隅は、「こんちくしょう」とばかりに傍らの石を槍で突き通した。 なるほど、石には貫通穴が..... |
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信玄が謙信との対決に備えて築城を命じ、1560年頃完成した。 第4回川中島合戦において、信玄はここを基地として出撃。 明治の廃藩置県後も残っていたがその後消失。 現在、堀周りと入り口が再現されているが天守閣は無い。 36 33 57 N 138 11 45 E |
合戦の両軍戦死者を供養するもの。 36 34 51 N 138 11 20 E |