トラファルガー海戦
Battle of Trafalgar

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ロンドンのトラファルガー広場にある、ヴィクトリー上でトラファルガー海戦で重傷を負うネルソン提督を描いたレリーフ。下縁に書かれたEngland expects every man will do his duty は開戦直前に艦隊の全員に伝えた訓辞。
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フランス革命が生んだ野心家で英雄にして権力者の皇帝、ボナパルト・ナポレオンは欧州大陸を陸の軍備を持って制圧し、一方で英国海軍は海を制覇していた。
ナポレオンは英本土攻略を計画し、その為には英仏海峡の制海権を握る必要があった。

1805年当時、英海軍の海上封鎖の為、フランス海軍は艦船の移動が限られていた。
ナポレオンの立てた計画によると、フランスのヴィルヌーヴ提督がスペインの港町カティス及び地中海に居るフランス・スペイン連合軍の艦隊を集結させ、英軍の海上封鎖を突破して西インド諸島の艦隊と合流、その後フランス北西部の港町ブレストの艦隊と合流して英仏海峡を制圧し、フランス軍の英本土上陸を可能にする。

ヴィルヌーヴは予定通りフランス、スペインの艦隊を終結させて西インド諸島の艦隊と合流したが、途中英軍との競り合いでスペイン艦船2隻を失った為そのままブレストには向かわず、スペイン北西の港、フェロルに寄航した。そこでナポレオンからの「予定通り北進してブレストに行け」との命令を受け1805年8月10日に出航、しかし英軍の追尾を避ける為一旦南進してスペインのカティスに向かった。
8月25日になっても予定された艦船が現れない為、ナポレオンは英国上陸の為温存していた兵力をドイツとの戦いに回した。
ここで事実上英本土上陸作戦は破綻する。

ネルソン提督は旗艦ヴィクトリーで9月15日に英国を出航し、9月25日にスペインのカティス沖で他の艦隊と合流した。補給を受けながらフランス艦隊の出航を待つ英国艦隊。

一方、ヴィルヌーヴのフランス艦隊はカティスの港に停泊していたものの、長い航海の後であり、また英国の海上封鎖の為に物資が不足しており、兵隊の錬度も不満足だった。

ナポレオンは9月16日の時点でヴィルヌーヴに対し出航命令を出していた。期を待ち出航し、カルタヘナのスペイン艦隊と合流し兵をナポリまで運ぶこと。

ヴィルヌーヴが出航したのは10月18日の事であった。恐らく後任者が到着して解任されるのを恐れての事であろう。
ジブラルタル海峡に向かう途中の10月20日夜、英軍の追跡に気付く。
翌10月21日の朝6時、フランス・スペイン連合艦隊を追撃する英国艦隊のネルソン提督は戦闘準備を命令する。

そして朝8時、ヴィルヌーヴはカティスへの反転を命令する。
不安定な風の下での反転は、経験の浅いクルーが多いフランス・スペイン艦隊にとって極めて難しく、艦隊はだいぶ散らばってしまった。

英艦隊27隻に対しフランス・スペイン艦隊33隻、砲門数2148に対し2568、兵力17000に対し20000と一見英軍不利な状況だが錬度では負けない。

当時の海戦では敵、味方共に一列の隊列を組み、平行に向かい合いながら戦うのが基本だった。
一列の艦隊は命令を順次伝えやすく、損害を受けた船が隊列を離れるのもたやすい。

しかし、ネルソンの英艦隊は2列の隊列を組み、方向転換して北進するフランス・スペイン艦隊に対し直角にぶつかる方向に進み戦闘に挑んだ。T字戦法である。
フランスも接近戦を予想し、マストや甲板に狙撃手や斬込隊を配していた。

ネルソン提督は旗艦ヴィクトリーから「英国は皆が職務を果たす事を期待する」(England confides(=expects) that every man will do his duty)の旗信号を送った。

1805年10月21日の正午、スペイン南部のジブラルタル海峡西のトラガルファー岬の沖合いで、後世に語り伝えられる海戦が始まった。

英艦隊が次々と連合軍艦隊に突っ込み交戦する。
ネルソンの旗艦ヴィクトリーはフランス旗艦ブセンタウルをかすめながら砲撃し損傷を与えた後、フランス艦ルドゥタブルとの一騎打ちになった。
銃弾の飛び交う中、ネルソン提督はルドゥタブルの狙撃主に撃たれて重症を負う。
ルドゥタブル上の歩兵がヴィクトリーに乗り込もうとした時、英軍の別の艦船の砲撃でルドゥタブルに多くの被害が出た。
艦長のルカも負傷し、フランス艦ルドゥタブルは午後2時前に降伏した。
結局この海戦でフランス、スペインは22隻を失い(内2隻はフランス・スペインが回収に成功)、11隻はかろうじてカティスにたどりついた。英国は船を失わなかった。英国の圧倒的勝利はネルソンタッチと呼ばれるT字戦法と、英軍の錬度の高さによるところが大きい。

射撃されてから3時間半後、英軍の勝利が確定してからネルソン提督は死亡した。最後の言葉は「責務を果たして良かった」(Thank God I have done my duty)だった。
遺体はラム酒漬けにされ英国に戻り、セントポール大聖堂に葬られている。
ヴィルヌーヴ提督は捕虜になった後恩赦で釈放されたが、パリに戻る途中で自決した。

バトルオブブリテンで、英国上空の制空権を取れなかったヒトラーが英本土上陸を諦めたように、トラファルガー海戦で退廃し、英仏海峡の制海権が取れないナポレオンが英国本土上陸を試みることは無かった。
ただし、フランスは制海権を完全に失ったもののナポレオンの大陸制覇は続き、ナポレオンが完全に退陣するには10年後の英国との最終対決、すなわちワーテルローの戦いを待たねばならなかった。

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コンスティトゥーション、三笠と並んで世界3大記念艦のH.M.S.ヴィクトリー号。
ポーツマスの乾ドックに置かれている。隣接する博物館ではオリジナルの帆も展示されている(これは撮影出来ない)
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船体横には3層に渡り砲が並ぶ。
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船室から見た大砲の列。

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後部ギャレーは幹部乗組員の食堂になっている。
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後部ギャレーを外から見る。現代の水準からは無駄にしか見えないデコレーション。

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ヴィクトリー号の全景が判る模型。
記念館三笠の艦内展示。

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ロンドンのマダムタッソー館に居るネルソン提督。右腕は戦争で失った。

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ロンドンの中心部にはトラファルガー広場があり、ネルソン提督は1843年に作られた塔の上から、敵国フランスの方角を今日も見つめている。
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オーストラリアの大都市、シドニーにあるLord Nelson Hotel Breweryは1841年創業。
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1階(地上階)の様子。トラファルガー海戦、ネルソン提督にちなんだ絵やグッズが飾ってあり、ビールのメニューもそれにちなんだもの。
Victory Bitterは恐らく全国ブランドVictoria Bitterのパロディ。
看板ビールの 3 Sheetsはロープが緩んで船が不安定になること、転じて泥酔いの意味。
対戦したフランスと大英帝国の国旗が並ぶが、料理はイギリスよりもはるかにおいしく、フランス程手は込んでいない。素材を活かした典型的なオーストラリア料理。



1941年の映画「美女ありき」にはネルソン提督が登場し、トラファルガー海戦のシーンもある。さすがに模型を使った軽い映像には時代を感じる。

ハリウッドのメジャー映画「マスターアンドコマンダー」は同年代の海戦の様子や大英帝国海軍の組織運用活動が判る(トラファルガー海戦に直接関係は無い)。
1隻対1隻の戦闘なのだが迫力満点。CGを使っているらしいのだが、実写撮影完了から公開までの間にCGの調整に充分な時間を確保したのが功を奏したのか、海戦の様子など極めてリアル。





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