ワーテルローの戦い
Battle of Waterloo

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ワーテルローの戦いで対決したウェリントン公(写真左 1769-1852)と、皇帝ナポレオン(写真右 1769-1821)の蝋人形。
ロンドンのマダムタッソー館にて。

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写真はワーテルローの戦いの模擬戦にてマスケット銃一斉射撃の構えをするスコットランド兵。

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ディズニーランドのミッキーマウス同様、ワーテルローの古戦場周辺には色んなポーズ・色んな服装のナポレオンがあちらこちらにいる。
どうみてもウェリントンよりも多い。
何も知らないでワーテルロー古戦場を訪問すると「勝ったのはナポレオン!?」と勘違いしてしまう人もいそう。



ナポレオンボナパルトは1769年8月15日、コルシカ島に生まれた。
当時のコルシカ島はジェノバ(現イタリアの一部)領だったが独立運動が高まり、これを抑えられなかったジェノバはフランスに統治を依頼した。

ナポレオンの父はフランスに転向し、これによりフランス貴族と同等の身分を得てフランス本土に渡った。

ナポレオンはパリの陸軍士官学校を卒業し、1785年に砲兵士官として任務に就いた。

1789年のフランス革命に続く戦争に乗じて頭角を現し第一次対仏同盟を崩した。

1798年7月にエジプトに上陸、カイロを制圧したが、フランス艦隊が大敗したことによりエジプト遠征軍が孤立、
第二次対仏同盟が成立するとナポレオンはエジプト遠征軍の指揮を放棄してフランスに戻り、
クーデターを起こして政権を握った。

以降、オーストリアに勝利し北イタリアを獲得、イギリスとも講和を結ぶと国内の復興と法の整備にとりかかった。
ナポレオンは権力を集め、1804年に皇帝の地位に着いた。

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ナポレオンの載冠式。1804年、パリのノートルダム大聖堂にて行われた。
ナポレオンが冠を被せているのが奥さんのジョセフィーヌ(1763-1814)。
ナポレオンの依頼により、お抱え画家のジャック ルイ ダヴィッド(1748-1825、有名なナポレオンのアルプス越えも彼の作品)が作成した油彩画。
同じ絵が2枚存在し、1808年完成の1枚目はルーヴル美術館に展示されている。
ナポレオン没落後の1822年、同じ画家による複製が完成、これは現在、ヴェルサイユ宮殿に展示されている。
この写真はヴェルサイユ宮殿に展示されている絵を撮影したもの。


勢力を取り戻すべく、英国はオーストリア、ロシアを誘って第三次対仏大同盟を結成する。
ナポレオンはイギリス上陸を計画していたが1805年に英海軍とのトラファルガー海戦で制海権を失い断念。
しかし結局、オーストリア・ロシア連合軍とのアウステリッツの戦いで大勝利を収め第三次対仏大同盟も崩壊。
この勝利を記念してパリで凱旋門の建設が始まった。

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写真は勝利を記念するカルーゼル凱旋門。
48 51 42 N 2 19 59 E
一般的に「凱旋門」として知られるエトワール凱旋門と同様、ナポレオン存命中には完成しなかった。
カルーゼル凱旋門、エトワール凱旋門、そして近代の新凱旋門が一直線に並んでいる。


その後ロシア・イギリス・プロイセンが第四次対仏大同盟を結成するも、またもやフランスが勝利を収め、1806年ベルリンを占領する。

最盛期にはイギリスを除く西ヨーロッパを制圧していたナポレオンのフランスだが、
1808年スペイン内戦へ介入し敗れたのを機に勢力に陰りが見えはじめる。
今度はオーストリアとイギリスが第五次対仏大同盟を結成、フランスは辛くもこれを破った。

1810年、ナポレオンは子供を産めないジョセフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリールイーズと結婚。
翌年ナポレオン2世が誕生。

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14世紀に作られたコンピエーニュ城は、ルイ16世とマリーアントワネットの出会いの場でもある。
フランス革命で調度品は失われてしまったが、皇帝になったナポレオンはここを改装してマリールイーズを迎え入れた。
現在は美術館という扱いになっている。
そこに展示してあるナポレオンの石像。う〜ん、微妙。(というか、悪趣味)



今度はロシアが大陸封鎖令を破り英国と貿易を始めたため、ナポレオンは1812年にロシアに向かった。
モスクワにたどり着いたものの、退却するロシア軍は町に火を放ち、飢えと寒さに耐えられずナポレオン軍は退却する。
1813年に第六対仏大同盟が飽きもせず結成される。
ついにライプツィッヒの戦いでフランスが大敗し、1814年、フランスはオーストリア・プロイセン・スウェーデン・イギリス連合軍に囲まれ、皇帝ナポレオンは退位させられた。

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フォンテヌブロー宮殿内、1814年4月6日にナポレオンが退位にサインしたテーブル

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退位させられた元皇帝ナポレオンがエルバ島に送られる前、老親衛隊に別れを告げたフォンテヌブロー宮殿の広場
48 24 08 N 2 41 56 E



ナポレオンの後継者にはブルボンのルイ18世(1755-1824)が王座に就いた。
ウィーンのシェーンブルン宮殿で戦後処理と再建を話す為諸国が集まったが、「会議は踊る。されど進まず」。

その頃、ナポレオンはエルバ島の統治者(事実上の島流し)だった。
エルバ島は 42 49 00 N 10 19 56 E。
ここはなかなか良さそうな所。でもこれで満足しないのが皇帝閣下。
エルバ島にいるナポレオンの耳にも、ウィーン会議が進まないことや、ルイ18世が不人気であることが伝わり、1815年2月、エルバ島を脱出する。
3月にパリに戻り、ナポレオンは再び皇帝となる。

連合軍は再び兵を動員したため、ナポレオンは各軍が集結する前に個別撃破を決意。
6月12日にパリを出発し北上、15日にベルギーのシャルルロワに入った。
16日、フランス軍の主力はシャルルロワ北東のリニーでプロイセン軍と対決し、プロイセン軍は敗走を始めた。
このリニーの戦いがナポレオン最後の勝利となる。

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「リニーでフランスに負けちまったぜ」「次は勝とう。とりあえずビールだ」
やけに明るいプロイセン軍の負傷兵とそれを救出するカメラート。

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プロイセン軍のブリューヒャー元帥(1742-1819)の蝋人形。
首元にはプロイセン最高位勲章のプール ル メリット(映画ブルーマックスでお馴染み)。
彼は過去にナポレオン軍を追い詰めパリに入城している。
そしてナポレオンが退位してエルバ島に送られてからはブリューヒャーも隠居生活をしていたが、
ナポレオン復帰の報と共にベルギー駐留プロイセン軍の総司令官に任命された。
しかし早速リニーの戦いでフランス軍に敗退し、自身も負傷している。
ナポレオンはグリーシー元帥(1766-1847)に3万3千の兵を与え、敗走するプロイセン軍を追撃させた。

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リニーの戦いと同日の1815年6月16日、ベルギーのカトルブラ(リニーの東にある。カトルブラは4本の腕の意味で、要は4差路の交差点)ではイギリス・オランダ連合軍と、フランス軍のネイ元帥率いる部隊との間で交戦となった。
ネイの部隊はブリュッセルとシャルルロワを結ぶ幹線道路の交差点を確保した後、リニーに向かい、フランス軍主力と交戦しているプロセイン軍を側面から襲うはずだった。
写真はカトルブラを守る部隊の司令官、オラニエ公ウィレム(後に第2代オランダ国王となる。1792-1849)。
彼の部隊と競り合い、ウェリントン率いる英軍が応援にかけつけ、結局フランス軍のネイはカトルブラの交差点を制圧できなかった。
一方、このカトルブラの戦いに勝利した英蘭連合軍も、プロイセン軍が敗走していることからカトルブラ交差点の死守を諦め、北に後退し陣地を再構築することにした。

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こちらはカトルブラで戦ったオランダ軍。
手前の緑服は第27猟兵団。

1815年6月17日、ナポレオン率いるフランス軍主力はネイ元帥の部隊と合流し、北上して英蘭連合軍の追撃にはいったが、会敵できなかった。
その日の夜には雨となった。
ウェリントンの指揮する英蘭連合軍はフランス軍を迎撃すべくブリュッセルの南にあるワーテルローの町中に司令部を置き、その南方で、フランス軍が攻めてくるであろう方向を見渡せる丘の稜線に兵を配置した。

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写真はライオンの丘頂上より西を見る。
画面左下から右上に通っているのが、英蘭連合軍が布陣したオヘイン道路。
画面右が敵フランス軍側。
当時、道沿いがちょっとした尾根の高台で、道自体は窪んでいた。
これが遮蔽となり、フランス軍側から英蘭連合軍の様子がわかりづらく、英蘭軍の守備に有利という状況。
しかし、オランダによる記念碑「ライオンの丘」(影が映っている)を作るため尾根や土手が削られてしまい、地形が大きく変わってしまったという。
1826年に戦場跡を訪問したウェリントン公は、「They have spoiled my Battlefield」(私の戦場を台無しにしやがって!)と叫んだという。
また、オヘイン道路は現在リオン道路(ライオン通り)という呼称になっている。
立ち木に囲まれて見にくいが、画面左右に伸びているのがブリュッセルとシャルルロワを結ぶ幹線道路。
幹線道路とオヘイン道路の交差点の所にウェリントンは前線司令部を置いた。

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写真は会戦(模擬戦)に備えて野営する英蘭連合軍。
ウーグモン農場の敷地(元フランス式庭園のあった所)にて。
兵士だけでなく民間人も当時のコスプレ。
チキンを薪で焼いているけど、本当にこれで焼けるのか?(家でオーブンで焼いておいたのを持ってきてるんじゃないか?あるいは、近所のカルフールスーパーで焼いてあるやつを買ってきたんじゃないか?))

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ワーテルローの戦いにて、ナポレオンが前泊し、当日朝まで司令部をおいたル カイユー農場の建物(写真右側)。
現在は博物館となっている。
道路はブリュッセルからワーテルロー、カトルブラなどを経由してシャルルロワへ向かう幹線道路(現在は国道N5号線)。
前方彼方やや右がワーテルロー戦の主戦場となるが、ここからは直接見ることが出来ない。。
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写真は会戦前夜、ナポレオンが宿泊したル カイユー農場の寝室。
警備しているのは親衛隊。
机の上にはナポレオンのデスマスクの複製。

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1815年6月18日 04:00頃、大雨が止んだので、ナポレオンは開戦を06:00に決める。
しかし軍が終結し終っていないので、ナポレオンは開戦を09:00まで延ばすことにする。
06:00〜10:00までの間、両軍は朝食をとる。
写真は英軍の野営地(上)と、フランス軍の野営地(下)。

ワーテルロー会戦での開戦時の兵力はナポレオンのフランス軍73000、ウェリントンの英蘭連合軍68000
東方ではグルーシー将軍率いる33000のフランス兵が、リニーの戦いで敗退・敗走するブリューヒャー将軍のプロイセン兵67000を追撃していたが会的出来ていなかった。

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08:00にナポレオンはル カイユー農場で将軍たちと朝食をとりながら作戦を協議した。
その後ル カイユー農場を去り、ラ ベル アリアンス宿場を前線司令部とし、09:00にそこに到着した。
写真はライオンの丘から見たラ ベル アリアンス。
フランス軍の兵は未だ集結中で、ナポレオンは開戦を再度延期し今度は11:00とする。
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作戦を確認する参謀と幹部。
写真上:左より

ネイ元帥(1769-1815)
フランス革命の時から活躍、1804年に元帥となり対プロイセン、半島戦争に参加した後ロシア戦役へ。
ナポレオン失脚後ルイ18世に忠誠を誓い、ナポレオンがエルバ島を脱出したときには「ナポレオンを鉄の檻に入れて連れてきます」と豪語したが、案外簡単にナポレオン側に寝返った。
ワーテルロー戦後反逆罪で銃殺刑となる。

レイユ将軍(1775-1860)
フランス革命から活躍、ナポレオン失脚後はルイ18世の元歩兵師団を指揮。
ナポレオンの100日天下では、フランス軍左翼の第二軍団を指揮したが、部下であるジェロームボナパルト(1784-1860ナポレオンの弟)が本来陽動作戦であるウーグモン農場攻撃にのめり込み、成果の無いまま兵力を回してしまう。
その後爵位を授かり、フランス元帥、議員となる。立ち回りの上手い人だ。

カンブロンヌ将軍(1770-1842)
近衛隊を率いてナポレオンと同行しエルバ島に行く。エルバ島脱出も当然同行。
ワーテルロー戦では最後に近衛兵を率いて英軍に降伏を迫られたが、「近衛兵は死すとも降伏せず」と叫んだ。"Merde"(糞)と言ったの真相か?
結局生き延びて反逆罪に問われたが放免され、ワーテルロー戦で介護してくれたスコットランドの看護婦と結婚し、ルイ18世の元リール軍の指揮官を任された。

スルト元帥(1769-1851)
フランス革命前から王国の軍人。フランス革命と共にスピード昇進、ナポレオン下でドイツ、スペインで活躍。
ナポレオン失脚後戦争大臣を務めるがナポレオンがエルバ島を脱するとナポレオン軍の参謀総長となる。
ナポレオン流刑後、巡り巡ってフランスの首相となる。出世だけは上手い。


写真下:左二人目より(左端は上写真と重複するスルト元帥)

ベルトラン元帥(1773-1844)
エジプト遠征から参戦。ナポレオンに忠実で、退位後エルバ島に同行。
その後セントヘレナ島にも同行し、ナポレオンの死後、ルイ18世が恩赦により身分を取り戻す許可を出してからフランスに戻る。
1840年にはナポレオンの亡骸をパリに移送するのにも同行した。あくまでもナポレオンに忠誠な人だ。
(しかしワーテルロー戦では何をしていたのだ....?)

ドルーオ将軍(1774-1847)
ナポレオンと同じく砲兵隊出身。
トラファルガー海戦、ワーテルロー会戦双方に参加している
エルバ島に同行し、知事を勤めた。ワーテルローでは近衛隊を指揮したが、一緒に玉砕はせずナポレオンと共に戦場を離脱している。
反逆罪に問われたが無罪となり年金をもらった。退役した近衛兵の待遇向上にも尽力した。

ケレルマン将軍(1770-1835)
父親もフランス革命とナポレオン戦争で有名。
騎兵出身で、ナポレオン戦争で専ら騎兵隊の指揮者として活躍する。
ナポレオンがエルバ島送りになった後も将軍の地位で留まる。
ワーテルローでも騎兵を指揮し負傷もしている。
ナポレオン失脚後は名誉剥奪となるが、後に父親の爵位を継承した。

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フランス軍幹部将官のコスプレ。
そのまま宝塚歌劇団で出演できそうな豪華な衣装。
紅白歌合戦とかにも呼んでほしい。歌うのは勿論ABBAの「恋のウォータールー」

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こちらもセレブ全開の、騎馬したフランス軍幹部将校。

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戦場に向け行軍するフランス兵。熊皮帽は老親衛隊。

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フランス軍の太鼓隊。前線に立って兵士の意思を奮い立たせた。

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フランス兵。先頭二人目は斧を持っている工兵。
二角帽子を被ったフランス兵は1807年頃までのもので、ワーテルロー会戦の頃にはシャコー帽が主流になっていた。

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フランスの軽歩兵。帽子上の飾りが豪華。

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フランス騎兵。一口に騎兵(Cavery)といっても、当時は
胸甲騎兵Cuirassiers
軽騎兵Hussar
竜騎兵Dragoons
槍騎兵Lancer
猟騎兵Chasseur
と分かれる。
右の二人が竜騎兵、左から二人目の赤服は竜騎兵の軍楽隊、一番左は軽騎兵

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フランス軽騎兵。豪華な衣装、豪華な馬具。

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前進するオランダ兵

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実戦経験のあるものは米英戦争に送られており、未経験者の多かった英軍歩兵。

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スコットランドハイランダーズ。第92及び第42連隊が参戦。
彼らはカトルブラの戦いにも参加している。
前から4人目の兵はバグパイプを演奏する。
スコットランド軍は14世紀頃から戦地でバグパイプを演奏していたと言われる。
第一次世界大戦の時は、塹壕を出て攻撃に移る際バグパイプが演奏された。
さすがに第二次世界大戦の時は前線での演奏は禁止されたが、1944年6月6日、英コマンド部隊のビル ミリン兵卒(1922-2010)はキルトを履きバグパイプを演奏しながらノルマンディのスウォードビーチに上陸し、空挺部隊が確保するペガサス橋に向かった。
彼の上官は「お前と俺はスコットランド人。バグパイプ禁止は英国のルール」と言った。

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出撃を前に観閲を受けるイギリス砲兵隊。
馬車を使わず人手で砲を移動させるFoot Artillery。

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写真は英軍右翼に位置するウーグモン農場の当時の様子を再現した模型。こちらが東側になる。
堅牢な城館で、果樹園やフランス庭園が併設されていた。
07:00に、ここをウェリントン公が視察している。
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写真はウーグモン農場の壁内側で守りに付くイギリス兵

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結局11:30頃、フランス軍はこのウーグモン農場への攻撃を開始した。これが開戦とされる。
前夜の雨の影響で周囲がぬかるんでおり、両陣とも意図的に開戦を遅らせていた。
フランス軍によるウーグモン農場攻撃は陽動作戦で、フランス軍から見て戦場左端のこの戦場を攻撃することによりイギリス軍の予備兵力を誘い出し、正面が手薄になったところで中央右寄りを突破する予定である。
(シンガポール攻略の時のウビン島みたいな...)
しかし予定通りにはいかず、結局フランス軍はウーグモン農場制圧に手こずりかなりの兵力を割いてしまう。

写真は実際にウーグモン農場の敷地で行われた模擬戦。2006年の撮影。攻撃するフランス兵。

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写真左に見えている、閉まっているゲートが北門。
連合軍はこの門から兵や物資の補給を受けていたので、門を閉じている間もかんぬきだけで、バリケードなどは築かなかった。
12:30頃、フランス軍はこの門を斧で壊して突入に成功、中庭に30名程侵入したが、イギリス軍に門を奪還され、ウーグモン農場防衛の司令官、マクドネル中佐(1781-1857)自らがグラハム伍長(1791-1845)他部下数名と共にかんぬきで門を閉鎖、閉じ込められたフランス兵は(10代前半の、太鼓の少年一人以外は)全滅した。
ウェリントン公は、ワーテルロー会戦で最も勝利に貢献した人物はグラハム伍長であるとしている。
2015年のワーテルロー会戦200周年に合わせて農場はレストアされ、現在は北門も会戦当時の様に復元されているらしい。

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こちらはウーグモン農場の南門。
門を突破して城館を制圧しようとするフランス軍と、守るイギリス軍との間に壮絶な白兵戦が繰り広げられた。

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13:00頃から始まったフランス軍のウーグモン農場への砲撃により、城館の殆どの建物は破壊された。
南側の庭師の住居と、中庭の礼拝堂だけは奇跡的に残った。
この礼拝堂、レンガに漆喰を塗ったものだったが、戦災と風化により漆喰がすっかり失われてしまった様子。
(タイのアユタヤ遺跡みたい...)
その後会戦200周年に合わせてレストアされた模様。

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ウーグモン農場での模擬戦を終えて、参加者揃って記念撮影。手前がフランス軍、奥に英蘭プロシア軍。
実際にはここで戦っていない部隊が殆どなのはご愛嬌。
ワーテルロー会戦中、結局ウーグモン農場が完全にフランス軍の手中に落ちることは無かった。
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写真は行軍中のプロイセン軍。左端で一眼レフをぶら下げながらビデオ撮影をしているのはPKの隊員!?

リニーの戦いで敗走したプロイセン軍は、ワーテルローの戦場に向け絶賛行軍中。
ナポレオンはグルーシーの2個軍団でプロイセン軍を追わせていた。
グルーシーの役目はプロイセンと英軍が合流出来ないようにすることだったが、未だ補足できていない。

プロイセン軍が到達する前にナポレオン軍が英蘭連合軍を撃破できるか?が戦争の勝敗を決める。

ナポレオンは13:00頃、このワーテルローの戦場に近づきつつあるプロイセン軍を視認。
ナポレオンはグルーシーがプロイセン軍を押さえ込めていないと理解し、グルーシー元帥に至急ワーテルローの戦場に来るよう手配する。
参謀長のスルト元帥は伝令を一組出したが、この伝令は道に迷ってしまう。

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ウーグモン農場攻撃開始とほぼ同じ頃、フランス軍の砲兵隊が戦線中央で砲撃を開始した。
写真はフランス軍の砲兵隊。

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英軍から見て中央左寄り尾根の、フランス軍から見える斜面に配置されていた為フランス軍の砲撃をモロに受け後退したオランダ軍。

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写真はマスケット銃を発砲するフランス軍。

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写真は英軍のスコットランドハイランダーズ。
13:45頃、英軍から見て中央やや左を攻めてくるフランス軍の攻撃を阻止しようと、反撃の先頭に立っていた英ピクトン将軍(1758-1815)はスコットランドハイランダーズに突撃を命じたが、直後マスケット弾に当たり死亡した。
(実は彼はその前のカトルブラで既に負傷していたがそれを隠して戦闘を指揮していた)
フランス軍は撃退された。

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フランス軍の中央への攻撃は、英騎兵隊2旅団により撃退された。

英軍騎兵は勢いに乗ってフランス歩兵を襲撃、軍旗を2本奪うことに成功する。

しかし更に調子に乗ってフランス砲兵陣地を襲ったところでフランスの槍騎兵と胸甲騎兵の返り討ちにあい、英騎兵のポンソンビー将軍(1772-1815)が戦死する。

写真上は英騎兵隊の攻撃に参加して多大な損害を出したと言われるKDG(キングスドラグーンガーズ近衛竜騎兵)

下は英騎兵を迎え撃ち多大な損害を与え、敗走させたフランスの重騎兵(胸甲騎兵)。

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イギリス軍歩兵。左奥はスコットランドハイランダーズ。

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英軍第18軽騎兵隊のコスプレ。
乗馬クラブの仲間なのか、女性騎手が多い。

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写真はフランス軍
その後戦線中央では一進一退の攻防戦が繰り広げられる。

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オランダ軍

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フランス軍の方陣のデモンストレーション

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フランス軍の負傷者を軍医が治療する。左手切断中(ぎゃぁ)。

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突撃するオランダ軍

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オランダの砲兵

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赤いジャケットは、気合の入ったフランス軍のスイス人傭兵。
フランスの傭兵と言えばやはり外人部隊。
日本古来の傭兵と言えば...猿とキジと犬!(キビ団子を報酬に桃太郎に雇われたのは明らかに傭兵)

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フランス軍ですがよくわかりません。
こんなに軍服種類あって、戦場ではよく敵味方見分けつくな....

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これもよくわからん。英軍に組み込まれていたナッソー軍またはブルンスヴィック軍?
こいつら、模擬戦ではフランス側で戦っていたのだが....

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英軍に組み込まれていた現ドイツのハノーファー兵からなるKGL(ドイツ軍団)の軽騎兵。
ワーテルローでは余り活躍していない模様。

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15:00頃、ナポレオンは前線司令部のラ ベル アリアンスを一旦離れ、後方のル カイユーに戻った。
ここで仮眠を取る。疲れていたのか、歳なのか、持病の痔が辛かったのか。
この間の指揮はネイに任された。
写真は出身地のメッスに建つネイの銅像。

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ウェリントンの英蘭軍が退却すると勘違いしたネイは、16:00、前線中央に騎兵隊を突撃させる。

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英蘭連合軍は退却ではなく100歩後退だった。
彼らは方陣を固めて、フランス騎兵隊の総攻撃をしのいだ。
歩兵や砲兵の支援の無いフランス騎兵の突撃は失敗に終わる。
ネイはこの後17:30頃にも再度騎兵攻撃を繰り返すが突破できず。

それにしてもこの騎兵のコスプレ、馬が必要、乗馬技術必須(しかも武器を持っているので手綱は片手操作)、人間用だけでなく馬具も当時のレプリカを用意しないといけない、など結構大掛かり。
騎兵はブルジョアの道楽、庶民は歩兵のコスプレでもしていろ、ってか。

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フランス騎兵隊の一斉攻撃の様子を描いた壁画。クリックで拡大
フランス人画家ルイ デュムーラン(1860-1924)が1912年に完成させたパノラマ画で、高さ12m、1周110mという巨大なもの。
撮影時には修復の為の足場が英軍側に組まれていて残念ながら完全な360度パノラマ合成は出来ていない。
絵の解説はこちら
絵が飾られている場所(ライオンの丘横のパノラマ館)
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と同じ所からの眺めが描かれている模様。

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フランス軍騎兵による総攻撃の際、パノラマ画にも描かれている、英軍砲兵隊が居た位置。
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真正面中央の白い建物がラ ベル アリアンスで、英軍陣地からフランス側の動きは全部見えるのが判る。

石碑の碑文には以下が書かれている:
「この石碑の場所で、1815年6月18日のワーテルロー会戦にて、A.G.マーサー大尉が指揮する英軍騎馬砲兵G隊が最後まで踏みとどまり、フランス騎兵の攻撃を打ち負かすのに多大な貢献をした」

奥から手前に向かってフランス軍の騎馬兵が集団で突撃して来た。
この時、砲兵隊の兵には防御の術が無いので、歩兵の方陣に逃げ込むしかない(方陣の中央に逃げるのではなく、銃剣を構える兵の下に伏せたらしい)。
しかし、マーサー大尉(1783-1868)は方陣に逃げ込む命令を無視し、攻め来るフランス騎兵に対し砲撃を続た。
フランス騎兵の先頭は多大な損害を受けたためそれ以上の進撃に躊躇する一方、後続の騎兵が後ろから迫るのでその場で渋滞し、やがて騎兵は退却した。
2度目のフランス騎兵総攻撃の時は、大砲に弾を2重に込め(砲丸と、キャニスター弾)て砲撃した。近くに居たブルンスウィック(英軍ドイツ兵部隊)の歩兵からの射撃と合わせて、フランス騎兵はバタバタとなぎ倒され、馬と騎兵の死骸で進撃が出来なくなった。
マーサーは最終的に将軍に昇進し、ワーテルローでの戦記は死後に出版された。

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前線の中央に位置し、戦略的に重要な意味を持つラ エイ サント農場。
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右の建物(納屋)はフランス軍の砲撃により火災となった。
農場周囲をフランス軍に囲まれ、納屋への入口(写真手前側)では農場に入ろうとするフランス軍と、守る英軍との間で壮絶な攻防戦となった。
攻撃するフランス軍は厩舎(細長い建物)の屋根に登り、そこから中庭にいる守備隊の英軍ドイツ兵を攻撃した。

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ラ エイ サント攻防戦に参加した、英第95ライフル連隊。
農場内ではなく、通りを挟んで向かいの砂坑(現在は失われている)周りに配置されていた。
密集集団で行動する赤服の通常の歩兵とは異なり、2-3人の組で行動する緑服の彼ら少数精鋭のシャープシューターズ。
マスケット銃ではなく、前装式ライフル銃(ベイカー銃)を装備していた。
プランスノワで行われた模擬戦にて撮影。ただし、英軍はプランスノワの戦いに実際には参加していないのはご愛嬌。

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ブリュッセル〜シャルルロワ街道から見たラ エイ サント農場。外観は当時と殆ど変わっていないが、一般公開されていないので中は入れない。

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結局、17:00頃にラ エイ サント農場の守備隊は弾薬が尽きる。
18:30には守備隊が撤退し、農場はフランス軍が占拠した。
写真はフランス軍が突入したメインゲート。

あともうすこしでフランスは戦線中央突破できるところまできた。
ネイはナポレオンに増援を依頼するが、プランスノワに親衛隊を投入していることもありかなわず。

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15:00頃からプロイセン軍は戦場に到着しだし、フランス軍の右翼を攻撃しだした。
フランス軍の右翼後方にあるプランスノワの村では16:30頃からプロイセン軍が攻撃を開始し、17:30にナポレオン軍を村から駆逐した。

写真は実際にプランスノワ村で撮影したプロイセン軍のコスプレ。

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行軍する若年親衛隊。
ナポレオンはプランスノワ村奪還の為に若年親衛隊を送り、18:00頃プロイセン軍から村を奪還できた。

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激しい市街戦と争奪戦が繰り返されたプランスノワの村の中心部。クリックで拡大。
2005年の模擬戦会場だった。ここはフランス軍対プロシア軍の戦場だったが、模擬戦ではプロシア軍は少人数(画面中央手前)だけで、本来いないはずの英軍、オランダ軍が多数を占める。
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英蘭軍にとって最左翼の陣地の一つ、パプロットの農場。
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ここは比較的早くにフランス軍に制圧されていたが、ここにも19:00頃にプロイセン軍が到着。
プランスノワ近辺のプロイセン軍とあわせて、フランスの右翼にはプロイセン兵がどんどん増えつつあった。
19:30にはプロイセン軍の数5万ほど。
頼みのグルーシーが来ないので、ナポレオン軍は数で劣勢。

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オランダ軍の大砲

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写真:ナポレオン最後の切り札、老親衛隊。

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19:30、ナポレオンは中央突破のため最後の予備で取っておいた親衛隊を出撃させる(遅すぎる...)
写真は老親衛隊(左)と英軍の白兵戦。
不敗の親衛隊の攻撃は失敗し、フランス軍の戦意が一気に低下した。

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フランス軍のスイス傭兵が負傷して仲間に救出される。

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プロイセン軍(奥)に押されるフランス軍(手前)。
20:00、英蘭とプロイセン軍が連携に成功する。プロイセン軍が一気になだれ込む。ナポレオン軍の敗退が決定的となり、フランス軍は総崩れとなり後退を始める。
20:30にウェリントンは全軍に前進を命令する。

尚、最後までフランス軍が保持していたプランスノワは21:00頃プロイセン軍がついに奪還し、ワーテルローの戦いは完全に英蘭プロイセンの勝利となった。

21:30に日没(緯度の高いヨーロッパで、夏至近くなので日没は遅い)。

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退却するフランス兵

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フランス軍撤退時も、老親衛隊はその場に留まった。
敵に包囲され、降伏を勧告されたカンブロンヌ将軍は"Merde"(糞)と言った(←バルジのマッコーリフ准将1898-1975か?)
老親衛隊は玉砕したがカンブロンヌ将軍は負傷して気絶し、捕虜となった。

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ラ ベル アリアンスの建物。当時は旅館だった(現在はナイトクラブ)
会戦時にはナポレオンがこの近辺で指揮を取っていた。
勝敗が付いた22:00頃、ブリューヒャーとウェリントンがここで面会し、勝利を確認し合った。
敗走するフランス軍の追跡はプロイセン軍が担うことになった。
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ところで、会戦中ナポレオンが呼び戻そうとしたグルーシーの軍3万3千は、ワーブルでプロシア軍の、フォン・ティールマン将軍(1765-1824)の兵1万7千と戦っていた。
このプロイセン軍は、要はフランス軍足止め部隊である。
ワーブルの戦いは16:00に始まった。
グルーシーは19:00頃、道に迷って時間を大幅にロスした伝令から「ラベルアリアンスのフランス軍主力と合流するように」というナポレオンからの命令書(13:00付)を受領する。しかし西進しようにも、リマルでプロイセン軍の足止めにあってしまう。
翌19日朝、つににリマルとワーブルのプロシア軍を打ち負かしたグルーシー軍だったが、10:30にフランス軍主力敗退の連絡を受ける。
グルーシー軍自身も勝利した英蘭プロイセン軍に包囲される危機から、速やかにパリに向け撤退した。

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オランダのオラニエ公ウィレム2世は、現在ライオンの丘がある場所でマスケット銃の銃弾により肩を負傷した。
オランダ国王ウィレム1世(1772-1843、ウィレム2世の父親で初代オランダ国王)は、1820年にこの場所に記念碑の建造を命じ、1826年ライオンの丘が完成した。
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人工丘の頂上ではライオンの像がフランスの方向を睨みつけている。
私がベネルクス観光に使っていた地球の歩き方にも「ナポレオン軍の大砲を溶かして作った」と書かれているが、この話は都市伝説らしい。
このライオンを見て「狛犬?」「シンハビール?」と思ってしまう私は思いっきりアジア人。

ワーテルローの戦場は現在はベルギーだが、ワーテルロー会戦時はフランス領であり、1815年のウィーン会議でオランダに併合、
しかし1830年に独立戦争が発生し、ベルギーとして独立する。
ベルギーは永久中立国を目指したが、ドイツ&フランスの間に位置する為にその後フランス攻略を目指すドイツ軍に2度も占領されたのはご存知の通り。
その為、ワーテルローの他、第一次世界大戦・第二次世界大戦の戦跡が多く見られる。
「海外旅行の行き先として 忘れられている ベルギーと共に」
谷山浩子(1956-)訳 フィンランドはどこですか、より。
オリジナルはモンティパイソンのFinlandという歌。「A poor seond to Belgium when going abroad」
いや、そんなことは無いです。ベルギーは何度も行きました。フィンランドは行ったこと無いけど....

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ライオンの丘頂上からの360度パノラマ。
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地名解説付はこちら

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ライオンの丘頂上から見た、各軍の主要な動き。
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奥の方の、半透明青色がフランス軍の開戦時の配置。
フランス軍の予備部隊はラ ベル アリアンス(水色丸)の後ろ(南)に、シャルルロワ街道沿いに置かれていた。

左右の半透明赤は英蘭連合軍の前線位置
英蘭連合軍の予備部隊は前線の後方に広く待機しており、フランス軍からは直接見えなかった。


11:30頃にフランス軍がウーグモン農場への攻撃を開始(紺色の矢印)
フランス軍はその後も攻撃を繰り返したが、英軍は農場城館への通路(ピンク色点線)を確保しており兵と弾薬の補充が可能で、結局会戦中ウーグモン農場は英軍が守り通した。

ウーグモン農場攻撃開始とほぼ同じ頃、フランス軍の砲兵隊が戦線中央で砲撃を開始、13:00頃には中央に歩兵と騎兵が攻撃をかけた(青矢印)。
この攻撃は英軍に撃退された(赤矢印)のだが、攻撃を命じたピクトン将軍は13:45頃戦死している。
反撃に参加した英軍騎兵2旅団はフランス歩兵を襲い、軍旗を奪い、フランス砲兵隊陣地まで進出する(赤点線矢印)が、14:15頃フランス騎兵の反撃に会い敗走、ポンソンビー将軍が戦死する。

13:00頃には東彼方にプロイセン軍が見え、ナポレオンは軽騎兵を迎撃に出す(青点線矢印)。

15:00にナポレオンは前線司令部(水色丸)を離れ後方でご休憩。

この頃から、東から到着し出したプロイセン軍がフランス軍の右翼、右翼後方を脅かし始める(緑矢印)

フランス軍の指揮を任されているネイは、砲撃を避けるため全軍100歩後退する英蘭軍を退却と勘違いし、16:00に英軍から見て中央右側へ騎兵を突撃させる(水色点線矢印)。
英蘭軍は方陣を組み防御、歩兵や砲兵の護衛が付かないフランス軍の騎兵攻撃は失敗する。
17:30にネイは2度目の騎兵攻撃を概ね同じ場所に行う(水色点線矢印)がこれも失敗。

同じく17:30頃、プロイセン軍はプランスノワを占領、これを奪還するためナポレオンは若年親衛隊を送り込む(青点線矢印)
若年親衛隊により18:00頃、プランスノワ(緑丸)をプロイセン軍より奪還。

一方、ラ サイ エント農場(赤丸)の英蘭軍守備隊は弾薬が切れて退却、18:30にフランス軍が制圧。

勢い付いたフランス軍は英蘭軍の戦線中央を攻める(水色矢印)。
もう少しで突破できそうなので、ネイはナポレオンに予備兵力の親衛隊を出す様要請するが、プランスノワ防衛で手一杯で叶わず。

戦線中央突破の危険にさらされていた英蘭軍は19:00頃、予備兵力で中央防御を強化し、フランス軍のによる英蘭軍戦線突破は不可能となる。

19:30にナポレオンは中央突破に親衛隊を出動させる(青矢印、水色矢印)が、それまで無敵だった親衛隊が追い返される。
プロイセン軍も英軍と連携に成功し、戦場になだれ込んできた。

20:00、フランス軍の敗北が決定的となりパニックが広がる。

20:30にウェリントンは全軍前進を命じる。フランス軍は隊列を崩し、戦場を離脱、敗走し始める。
21:30、フランス軍が全面退却する中、ナポレオンの老親衛隊はその場に留まり(水色丸付近)結局玉砕する。

22:00にウェリントンとブリューヒャーがラ ベル アリアンス(水色丸)で会って互いに勝利を確認した。

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ライオンの丘頂上からのパノラマと、パノラマ壁画を同じ角度で並べて見た所。
クリックで拡大。
実際にはライオンの丘とパノラマ壁画は、視点が少しずれているので完全に同じ角度にはならないが、前線の位置、フランス軍騎兵の突入方向などがわかる。

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イギリスは、ワーテルロー会戦でナポレオンに戦勝し永遠に押さえ込めたのがよっぽど嬉しかったのか、英連邦・英植民地のいたるところにウォータールー(ワーテルローの英語読み)の地名や通りの名を付けた。
写真はシンガポールのウォータールー通り。
1 17 59 N 103 51 09 E

ベルギーのワーテルロー市は愛知県長久手市と姉妹都市。うーん、微妙かも。
ちなみにゲティスバーグと関が原も姉妹都市提携、やっぱこっちでしょう。


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6月18日のワーテルローの戦いに敗れたナポレオンは6月21日朝、パリに戻ると翌日22日退位。
その後、南大西洋にある英国領の孤島、セントヘレナ島
15 57 00 S 5 40 59 W (←本当に絶海の孤島だ)
に幽閉された。
回顧録を口述筆記し、1821年に死去した。

死因は胃癌と言われる。(暗殺説もあるが)

1840年、遺体はフランスに戻り、自らが建設を命じたものの生きて通ることが出来なかった凱旋門をくぐり、廃兵院に安置された。
写真上は廃兵院のナポレオン像、下はナポレオンの棺。

48 51 18 N 2 18 45 E

棺の下の床には、ナポレオンの軍が戦った主戦場が記載されている。順に

Rivoli
リヴォリの戦い(1797年)
イタリア戦役において、オーストリアと交戦して勝利

Pyramides
ピラミッドの戦い(1798年)
エジプト遠征にて、オスマン帝国領エジプトのマムルーク軍とカイロ近郊で戦い勝利

Marenco
マレンゴの戦い(1800年)
現イタリアのマレンゴにて、オーストリア軍と交戦して勝利

Austerlitz
アウステルリッツの戦い(1805年)
現チェコのアウステルリッツ(現スラフコフ ウ ブルナ郊外で、ロシア・オーストリア連合軍に勝利

Iena
イエナ アウエルシュタットの戦い(1806年)
ドイツのテューリンゲン、イエナ、アウエルシュタットにてプロイセン王国軍と交戦し勝利

Friedland
フリートラントの戦い(1807年)
現ロシアのフリートランドで、ロシア軍に勝利

Wagram
ヴァグラムの戦い(1809年)
オーストリアのウィーン近郊で、オーストリア軍に勝利

Moscowa
モスクワ遠征(1812年)
ロシアに侵攻しモスクワ入城を果たす。しかしロシア軍を制圧撃破できず撤退

尚、ライプツィッヒやワーテルローの記載は....無い(さすがフランス)。

映画「パリは燃えているか」で、撤退するドイツ軍は、ヒトラーの命令によりパリを灰にするため、ここにも爆弾を仕掛けに来るシーンがある。戦場名を順に読み上げ、最後のモスクワだけはため息混じりに2回読み上げるのが印象的。

ナチスドイツによりパリが占領された時、ヒトラー総統(1889-1945)の計らいによりオーストリアのウィーン(当時はドイツの一部)に埋葬されていたナポレオンの息子(ナポレオン2世1811-1832)の墓がここに移され、以降今に至るまでここにある。
ヒトラーはナポレオンの崇拝者だったという。
経済や社会システムへの良い意味での影響、一時は英国以外の欧州殆どを征服したこと、英国上陸を計画したが断念したこと、ロシア(ソ連)侵略により奈落の道へ落ちた所、など二人の共通点はかなり多い。
しかし、決定的に違うのは、現在もナポレオンはフランス人にとって英雄であるが、
ヒトラーはドイツ人にとって「いなければよかった人」であること。
ちなみにドイツ人に「ナポレオンは好きか?」と聞いたら「彼はフランス人だろ...」と鼻であしらわれた。まあそんなもんか。
フランス人に「ヒットラーは好きか?」と聞い......た事は無い。



ワーテルローの戦いを描いた映画は、ずばり「ワーテルロー」(1970年)がある。
旧ソ連で撮影された、壮大なスケールの映画。
この映画の為に戦場の地形を作り(遠くに山が見えている、とかあら探ししてはいけない)、軍隊を集めて空撮を交えた撮影を行っている。
映画文化に力を入れていた旧ソ連だからこそ出来た映画といえる。
CGの無い時代、特撮さえも使わない壮大な戦争映画。圧巻である。
戦闘シーンのスケールに比べ人間ドラマ部分は緊迫感が薄いというか、ちょっと安っぽく思えてしまうのだが...
日本語版のDVDはずっと未発売だったので、ヨーロッパ版(オランダ版)をワーテルロー戦跡の土産物屋で買ってPCで見ていたのだが、最近は日本語版が出ているらしい。


個人的に007映画で最もボンド役にハマッているのはティモシー ダルトン(1946-)だと思っているのだが、彼は結局2作しか出演しておらず残念。
その最初の作品、リビングデイライツ(1987年)に出てくる悪役ウィティカーは、戦争歴史オタクという設定。
歴史上の指導者の等身大フィギュア(ヒトラー、ナポレオン、ジンギスカン、シーザー、アレクサンダー大王、アッティラの服装が確認できる。ただし顔はウィティカーのものに変えられている)、
戦場のジオラマ(ゲティスバーグ、ワーテルロー、アジャンクールが確認できる)を、モロッコのタンジールにあるという設定のアジトに飾っている。ちなみに撮影場所も同じ。
さて、ラストでボンドとこのアジトで対決、ウィティカーはラ エイ サント農場周りを再現したワーテルローの戦いのジオラマ上に倒れこむ。
ここでボンドの決め台詞は「He met his Waterloo」
英語の言い回しで、「ついに大敗を喫する」の意味。
DVD日本語字幕だと「この通り」(死んでる)で、この面白さは伝わらず。



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