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米国では1800年から1860年頃にかけて、南北の差が広がっていった。 南部はテキサスなど新しい土地を領土に加え、特に南に行くほど農業が盛んなのに対し、北部は工業が発展しつつあり、人口も南部よりも格段に増えていた。 奴隷制度は北部の多くの州で廃止/禁止されていた。 工業化を進めて保護貿易を必要とする米国北部と、奴隷を使った綿花輸出の為自由貿易が欲しい米国南部との対立は、1860年の大統領選で奴隷制の拡大に反対している(この時点では、廃止とは言っていない)リンカーンが大統領に選出されると共に合衆国南部の州が離脱し始める事態となった。 リンカーンが大統領に就任する翌年3月までに、南西部の奴隷州7州が合衆国から離脱し、南部連合を作った。 南部連合の7州はサウスカロライナ、ミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス。 1861年4月12日、サウスカロライナにある、合衆国兵の駐留するフォートサムターを南軍が襲撃・占領したのを皮切りに南北戦争が勃発した。 開戦後直ちに合衆国は南部連邦の港を海上封鎖した。これにより南部からの、綿花の対英輸出が激減し、南部連邦は経済的に破綻へと向かっていく。 リンカーン大統領は志願兵を募り、これに反発する形で開戦2ヶ月以内にヴァージニア、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシーが南部連合に加わり、合計11州となった。 戦争は長期化し、南北双方とも志願兵だけでは足りず、南部連邦は1862年4月から、合衆国は同年7月から徴兵制を取り入れた。 戦闘は、当初は南部連合が有利だったが、1863年7月1日〜3日にかけてのゲティスバーグ戦で合衆国軍が勝利したのを機に、以降、工業力と人口に勝る北軍が優勢となる。 戦争は丸4年間、1865年4月9日まで続き、合衆国の勝利となった。 この戦争による犠牲者は合衆国側が36万、南部連合側が26万で、合わせて63万程度と言われる(内、直接戦闘による死者は21万程度)。 当時の人口の2%近くが死亡したことになり、第一次世界大戦の米人死者12万、第二次世界大戦41万、 朝鮮戦争4万、ベトナム戦争6万などと比べても、いかに南北戦争の死者が多かったかが判る。 南北戦争とは、国力維持の為合衆国からの脱退を認めない北と、自分たちの権利を守ろうとする南の戦いであり、単純な奴隷解放戦争という訳ではない。 |
1862年12月、南部連邦のテネシー軍司令官、ブラッグ対象の命令を受けたフォレスト准将は、騎兵連隊を率いて、テネシー州西部の、北軍補給線と輸送拠点を攻撃した(西テネシー襲撃)。 12月中旬から下旬にかけ、ジャクソン周辺からユニオンシティの間でフォレストの軍による襲撃が繰り返され、鉄道沿いの電信線、防衛拠点、橋梁などが破壊され、武器弾薬が略奪された。 攻撃を繰り返す度にフォレストの軍勢は地元シンパなどが加わり兵力が増えていった。 フォレストの度重なるゲリラ襲撃に業を煮やした、ジャクソンの北軍司令官サリバン准将は、ダナム大佐とフラー大佐に南軍を抑え込むよう命じた。 |
写真は北軍が守るパーカーの交差点に立って(現在は道の配置が変わっている)北西方向を見たところで、画面右奥の森の奥からフォレストの南軍が近づいてきた。砲撃を加えてくる南軍に持ちこたえることができず、本来フォレストの軍勢を抑え込むはずだったダナムの軍は、パーカーの交差点に向かって画面奥から手前にかけて退却した。 北軍は交差点を守り切れず、ここを放棄して南(画面左後ろ)に向けて後退した。 現在は道の配置が変わっている。 35 47 37 N 88 23 23 W |
北軍は画面奥(南)に退却した。フォレストは隊を2つに分け、主力部隊は北軍を東から攻めるべく、画面の手前を右から東に向けて移動し、北軍の東側に回り込んだ。 |
ダナムの指揮する北軍は、総勢1500名のフォレストの南軍により挟み撃ちされ劣勢になった。 この日の午後、南軍は大砲を配置し北、東、西から北軍を砲撃し、騎兵は馬を降りて取り囲んだ北軍を攻撃した。 本体から分断された北軍の中には降伏する兵も出てきた。 ビジターセンター前に展示されている大砲は3インチ軍用ライフル砲で約1000門が生産されアメリカ合衆国軍に配備されたが南軍も鹵獲したものを使った。 35 47 11 N 88 23 36 W |
交差点の名前の由来となったパーカーが所有する木造の家がここにあった(右端に見えているレンガの建物の近辺にあった)。 交差点近辺に応援にかけつけたフラー大佐の部隊が大砲を布陣した。パーカーは頑固たる合衆国支持者だったが、北軍に「ここで戦争しないでくれ」と頼んだ。北軍の将校に「お前の家と合衆国とどっちが大事なんだ?」と聞かれると「家」と答えたが聞き入れられず、応戦する南軍の砲丸が近辺に着弾した。結局パーカーは南部連合寄りに鞍替えした。 南軍は南北両方向から北軍に挟まれる形になり一気に形勢がやばくなった。 馬を押さえていた兵はパニックになり逃げ出してしまった。 挟まれたフォレストは「両方向に突撃せよ」と命令を出した。 兵300名が捕虜になったものの挟み撃ちを脱することが出来た。 まさか反撃するとは思わなかったフラー大佐の軍勢は一瞬ひるみ、その隙にフォレストは軍を南に脱出させて逃げ切ることが出来た。 |
20万丁以上が生産された。 |
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ホープ型サドル(手前)とマックレラン型サドル(奥)。 前者は南軍の、特にテキサス出身の騎馬兵が使った。 後者は1859年にアメリカ合衆国陸軍が採用し広く使われたもので、騎兵隊が実戦で最後に活躍した第二次世界大戦に至るまで使われていた。現在でも儀礼の騎兵が使っている。 |
南北戦争におけるパーカーズクロスローズの戦いから82年が過ぎた1944年12月のアルデンヌ大反撃で、西進するドイツ軍を食い止めようとパーカー少佐率いるアメリカ陸軍の第589野砲大隊がバラック デ フレテュールの十字路を3日に渡り守ったが最後には制圧された。交差点はこの時負傷した司令官の名前を取ってパーカーの交差点(パーカーズクロスローズ)と呼ばれるようになった。 アルデンヌの戦い、南北戦争共に、パーカーズクロスローズの戦いは雪景色の中で戦われた。 50 14 58 N 5 44 15 E |
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南北戦争勃発当時、マーシャル郡の住民の多数は南部連邦を支持し、裁判所前に集まり志願手続きの情報を求めた。 同郡からは戦争中、20個中隊以上が編成され、歩兵(主に郡南部出身)、騎兵(主に郡北部出身者)半々だった。 アメリカ合衆国を支持する人たちは他の地域に移って北軍に志願した。 チャタヌーガを目指す北軍の第10イリノイ歩兵歩兵連隊が1863年8月22日にルイスバーグを通過、この時何人かの兵が裁判所内でウィスキーを略奪したという。 35 26 59 N 86 47 17 W |
南軍テネシー軍(紛らわしい...)を指揮するフッド中将は、敵の補給線・通信線を攻撃して北軍の更なる進撃を遅らせようとした。 10月5日、南軍はアラトゥーナでアトランタとチャタヌーガを結ぶ鉄道と橋梁を破壊しようとしたが、北軍の要塞の守りは固く失敗した。 ちなみにこの路線は2年半前の1862年4月に北軍の工作員が機関車を乗っ取り南軍の補給路線に対する破壊工作を試みていた(機関車大追跡)。 次にフッドはテネシー川を渡り北上する試みに出た。渡河場所をアラバマ州のディケーターに設定し、1864年10月26日〜29日にかけて攻撃した。 |
34 37 22 N 86 58 34 W 最初に架けられた橋は南北戦争中に破壊され、フッドの軍勢が渡河の為に攻めてきた当時は浮橋が架けられていた。 南軍フッドのテネシー軍4万はこの橋を確保して左(ディケーター市街側)から右へ渡ろうとした。 守る北軍は兵力5000と劣勢ながら、テネシー川に砲艦を浮かべ橋の周りは堡塁と塹壕で固めていた。 南軍は結局、敵防衛拠点を破るには多大な犠牲が出ると判断し、ここでの渡河を諦め、10月31日に西のタスカンビア近郊でテネシー川を渡った。 尚、ディケーターの鉄道橋は南北戦争後の1885年に跳ね橋に架け替えられ、1970年代に現在の昇開橋となった。 |
ロッテ「パイの実」CMソングは東京節の替え歌だが、これも元々はMarching through Georgiaというアメリカの行進曲で、南部随一の中核都市アトランタを1964年9月2日にシャーマン将軍の北軍が制圧した後、11月〜12月にかけて400q南東の港町サバナ攻略に向け進軍した事(Sherman's March to the Sea シャーマンの海への進軍)を称える曲として書かれた。 小説・舞台・映画で有名な「風と共に去りぬ」もこの北軍によるアトランタ占領を背景にしたもの。 タスカンビア及び対岸のフローレンスにて部隊集結と補給物資到来を待っているフッド中将の元にも、シャーマン将軍の海への進軍開始の知らせは届いたが、今更アトランタ方面に戻っても進軍を押さえることは出来そうもないので、代わりにケンタッキー州の都市ナッシュビルを北軍から奪還し工業設備を手中におさめることにした。 フッドは軍を一旦3つに分けて11月21日に北上を開始、90q先のマウントプレザントにて再集結した。 写真はマウントプレザントの中心部で、典型的なアメリカの田舎町。 開戦直後の1861年4月20日にここで結成式が行われ軍旗を受領した、志願兵によるビグビーグレイス中隊を記念する南軍兵士の像が建つ。 ビグビーグレイスは南軍テネシー軍の従軍する殆ど全ての作戦に参戦、1864年11月26日にはこの町を通過している。 |
南軍テネシー軍隷下、フォレスト少将が指揮する騎兵隊がここを攻撃し北軍を後退させた。 フォレストは遊撃を繰り返しながら先遣としてコロンビアでダック川の渡河場所を探した。 |
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ポークは南北戦争中は南軍の将軍となり1964年6月アトランタ近郊で戦死する。最終階級は中将。 この教会の周りでも小競り合いが起こっている。 |
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元々は女子校として開設されたが南北戦争中は南軍兵が居留し、その後北軍の支配下ではネグリー、シェフィールド将軍が司令部として使った。南軍のフォレスト将軍が訪問した記録もある。 |
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南軍兵士の像は通常は街の中心部に建てられるので、このように墓地に佇むのは珍しい。テネシー州ではここだけとのこと。 |
ナッシュビルにはトーマス少将が守りを固めており、これと合流すれば今は優勢な南軍も恐れるに足りなくなる。 南軍フッド中将はコロンビアに一部の兵を残し、ダック川を渡ると逃げる北軍を南北で挟み撃ちにすべく、スピリングヒル方向に急いだ。 ちなみにフッドとスコフィールドはウェストポイントの同級生で、トーマスはその教官だった時期がある。 写真はスプリングヒルの古戦場。 1864年11月29日、南軍は北軍の行く手を阻むと、守りについた北軍の陣地を攻撃してきた。 画面左がフランクリン、ナッシュビル方向、右がコロンビア。南軍は画面奥から手前にかけて攻めてきたので、大砲(レプリカ)の置かれている位置にいた北軍はたまらず後退した。 |
「勝負はついたも同然、明日北軍を壊滅させてやる」フッドはここでゆっくり寝た。 スプリングヒルはカントリー&ウェスタン音楽の聖地であるナッシュビルの南50qに位置し、大御所女性歌手タミーワイネットが夫の歌手ジョージジョーンズと共にこの屋敷に住んでいたこともある(1970年代)。 映画「ブルースブラザース」で田舎のバーで歌われる「スタンドバイユアマン」は彼女の代表曲。 |
スコフィールドの北軍は夜のうちにこっそりと道路(左に見えている)を北上し、南軍の包囲を脱した。コロンビアから逃げてきた部隊とも合流していた。 北軍を包囲したと思い完全に油断していた南軍は翌30日の朝に目覚めてびっくり、北軍がいなくなっていたのだ。 北軍が終結する前に個別撃破しようとしていたフッドはチャンスを逃してしまった。 「ばかやろう、逃げられちまったじゃねぇか...」フッドは幹部将軍たちに当たり散らした。 |
この時朝食会に参加した将軍の内、実に5人がその日の午後、フランクリンの戦いで戦死する。 |
フランクリン制圧には成功したものの、将官6名戦死を含む南軍の損害は大きく、もはや大規模作戦を遂行できる兵力は残っていなかったのが実情である。 北軍スコフィールド少将はテネシー州最大の都市ナッシュビルで守りを固めていたトーマス少将の軍勢と合流した。 要衝であり工業都市でもあるナッシュビルを手中にすれば作戦の遂行目的を達成出来る... フッドの軍は壊滅寸前であったが最後の力を振り絞りナッシュビルに攻撃を仕掛けた。 写真は早朝にナッシュビル空港を離陸する国内線のバリバリにエコノミーな席から見た風景。 写真右上、街の明かりが集まているのがナッシュビル中心地。 1864年12月15日、フッドの軍勢は画面左(南)からナッシュビルを総攻撃し、中心部から5q程度の所まで攻め込んだが敵の反撃に耐えられずその日の夜に3q程退却、翌16日北軍から正面及び右翼、左翼の攻撃を受け壊走を始めた。 北軍の追撃を振り切り12月28日にテネシー川を渡ったフッドのテネシー軍は、作戦開始当初の兵力4万から半減しており、戦闘能力を喪失した。フッドは翌年1月にテネシー軍司令官を辞任し、2度と指揮を執ることは無かった。 一方、ジョージアを出発し焦土作戦を展開しながら南東に進軍したシャーマンのテネシー軍は12月22日に港町サバナに到着していた。その後シャーマンは北東に引き続き焦土作戦を取りながら進み、南北戦争は終結に向かった。 |
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英語ではReenactmentと言う。 愛好家が集い行うもので、米国各地で行われているようだ。 公開模擬戦は広場を借り切って、有料(たまに無料のものもある)で見物できる。 写真は昔住んでいた、カリフォルニアにて、サンフランシスコ郊外のペタルマ及びサンノゼで行われたもの。 カリフォルニア州は当時は合衆国側に属していたが、南部連邦と隣接していないこともあり戦場にはならなかった。 紺色の軍服が北軍、グレーが南軍。工業化の遅れた南軍はユニフォームも武器も今ひとつ統一されていなかった。 |
元々はこの地を収めていたスペインが湾を英、露から守る為、18世紀末に土壁作りの砲台施設を設けたのが最初。 その後メキシコ領を経て米国領となり、ゴールドラッシュが発生したことからサンフランシスコ湾をしっかりと防衛する為、1853年に陸軍が要塞建設に着工し、南北戦争最中に完成した。 南軍は私掠船によるサンフランシスコ襲撃を試みたが、結局ポイント要塞の砲が敵に発射されること無く終わった。 現在は国史跡として国立公園局が管理しており、内部見学出来る。 37 48 38 N 122 28 38 W 後方を航行するのはアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦ベンフォールド (DDG-65)で、1998年サンフランシスコフリートウィークの観艦時の撮影。 |
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灯台は南北戦争中の1864年に設置され、ゴールデンゲートブリッジの橋柱が完成した1934年まで使われた。 |
【機関車大追跡】 ウェスタン アンド アトランティック鉄道はジョージア州アトランタ〜テネシー州チャタヌーガを結ぶ鉄道として1849年に全線開通した。 蒸気機関車「ジェネラル」号は、当時の蒸気機関車製造の大手、ロジャーズ ケッチャム アンド グロスヴェナー社が製作し、1855年12月にウェスタン アンド アトランティック鉄道に納入された。 南北戦争開戦から1年程経った1862年4月12日の早朝4時頃、「ジェネラル」は客車および貨車を引っ張り、南部連合の一部を成すジョージア州のアトランタ駅を出発した。 朝5時頃、マリエッタ停車場から乗客が乗りこんできた。 実は彼らは北軍の工作員である。アトランタとチャタヌーガを結ぶ鉄道路線に対し出来る限りの破壊活動を行い、北軍がチャタヌーガを攻略する際南軍の援軍・物資の到着を遅らせるのが目的である。 工作員は22名から成り、怪しまれないように小グループに分かれて行動し、アトランタとビッグシャンティの間にあるマリエッタ停車場からちゃんと切符を買って5時の列車に乗りこんでいたのだった。 ただしマリエッタに集合する途中で2名は捕まり、2名は何とホテルで寝過ごしてしまった為、実際に列車に乗り込めたのは18名である。 リーダーのアンドリュースは北軍のスパイで民間人、他にもう一人民間人がおり、残りは北軍からの有志である。 マリエッタを出発した列車は6時頃、ビッグシャンティ(現ケネソー)に近づいた。 「20分停車します」車掌のフラーが叫んだ。乗客の朝食休憩と機関車給水だ。 乗員と乗客の一部は近くの「レーシーホテル」に向かった。 ビッグシャンティ駅の近くには南軍のマクドナルド駐屯地があるものの、駅自体には電信の送受信設備が無いので軍に通報されるまでの時間が稼げる。列車を乗っ取るのなら今である。 工作員たちは停車中の列車から客車を切り離すと、機関車「ジェネラル」と貨車3輌を奪って北に向かった。 「何だ?!汽車が動き出したぞ!」たまたまそばにいた車掌のフラーが異変に気づき、他の「ジェネラル」乗務員ケイン、マーフィーの2名と共に走って列車を追った。 この時点では、汽車を奪ったのは北軍の破壊工作員ではなく、南軍の脱走兵だと思ったのだという。 「駄目だ、追いつかない」。当たり前である。 しかし「ジェネラル」号の方も、ビッグシャンティを出発して1km走るか走らない内に停車してしまう。ダンパー(ブラストチューブ上の開閉装置のこと?)が開いたままだったのだ。 工作員のナイトがダンパーを閉じ、再び動き出した。 追跡者たちは2km程走って追っかけた後、ムーンズの待避所にあった、保線に使う手漕ぎのトロッコを引っ張り出して盗まれた汽車を追っかけた。 ムーンズにいた従業員、ボンドも加わり追跡者は鉄道関係者4名となった。 幸いエトワ川に向かって線路は緩やかに下っており、手漕ぎトロッコでもスピードは上がった。 工作員は途中、電信のケーブルを切断しながら北上した。エトワ川を渡る橋のすぐ手前ではレールを外した。 更に渡り終えたエトワ川の木造橋梁を燃やそうとしたが、少し前に降った雨で湿っていて上手くいかなかった。エトワ川はメキシコ湾に注ぐモービル川、アラバマ川、クーサ川の支流である。 エトワ川を渡ってすぐの所から、エトワの町とクーパー製鉄所に向かう数キロの短い支線が分岐していた。 その支線上に短距離支線用の蒸気機関車「ヨナ」号が停車しており、従業員と思しき人も数名見かけた。 これでは機関車を破壊できない...仕方なくそのまま進んだ。 「ジェネラル」を追跡するトロッコは、途中アクワースで応援2名を乗せ、追跡を続けた。もうすぐエトワ川を渡る。スピードが出るのもそこまで、なので構わず走り続けた。 エトワ川の手前アラトゥーナでレールが外されており、トロッコ列車はあっというまに脱線し、乗っていた男たちは宙に投げ出されたが全員無事だった。 徒歩で橋を渡り、支線にいた「ヨナ」号に乗り換えて出発した。今度は蒸気機関車でGo!もとい、追跡だ! アンダーソン達工作員が乗った「ジェネラル」はキングストンの分岐地点で時間をロスした。 ここはローム、チャタヌーガ、アトランタ方面の路線が集まる要衝であり、普段でも待ち時間が多いのだが、当時はアラバマ州のハンツビルが北軍に占領されたばかりで、 このため南軍の補給はローム方面に西進しており交通量が多く1時間足止めされた。 やっとのことで工作員達の「ジェネラル」号はキングストンを出発し、入れ替わるように追跡者の「ヨナ」号が到着した。 追跡者たちはここで機関車を乗り換える。本来ロームに向かう郵便列車の「ウィリアム R スミス」号なら本線上からすぐに発車し、追跡を開始できたのである。 しかしキングストン駅を出発して間もなく、フラーが機関室から前方を注視していると、またもやレールが外されているのに気づいた。今度は急停止し脱線を免れたが、仕方なく徒歩で追跡を開始する。 「ジェネラル」号との距離は再び開いていった。 「ジェネラル」号と工作員達はアデアーズビルの停車場で対向列車の通過待ちをした。 さすがにアトランタと長時間連絡が取れず、その後キングストンとも連絡が取れなくなったアデアーズビルの鉄道員たちは「ジェネラル」号の乗務員を不審な目で見て質問責めにしたが、 アンダーソンはうまく言いくるめて「南軍の特別任務の列車である」と納得させた。 やがて単線の前方から対向してきた「テキサス」号が引っ張る貨物列車をやり過ごした後、「ジェネラル」号は北進を再開した。 工作員達の乗った列車は山間部に差し掛かっていた。途中、「カトゥーサ」号ともすれ違った。 |
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南進する「テキサス」号の機関士ブラッケンは、アデアースビルとキングストンの間で、前方に徒歩でこちらに向かってくる会社の同僚、フラーたちを発見した。 彼らはレールが外されていたために「ウィリアム R スミス」号を放棄した所から3km程徒歩で進んでいたのだった。 事情を聞いてフラーたちを乗せると、「テキサス」号はバックして「ジェネラル」号の追跡に入った。 今や前方に連結している貨車がじゃまなので途中の待避線に切り離して放り込み、追跡を続ける。 「カトゥーサ」号と側線ですれ違い、状況を理解した「カトゥーサ」号も「テキサス号」の後に続きバックで追跡に参加した。 キャルフーンを過ぎたあたりで、北軍の工作員と、南部の追跡者はお互いを視認できる距離まで近づいていた。 レサカ町のすぐ南を流れるウースタナウラ川に架かる屋根付橋を燃やして落としてしまおうと、アンダーソン達は牽引している有蓋貨車を切り離し、火をつけて橋の上に停めた。 「テキサス」号が近づき、煙の立ち込める橋に侵入し、貨車を押し出して難を逃れた。 懲りずに工作員は今度は枕木(米語:Railroad Tie、イギリス英語:Sleeper と言う。なるほど枕木という言葉はここから来ているのか...)を線路に落として通行を妨害しようとしたが「テキサス」号と「カトゥーサ」号は追跡を続けた。 この頃には南軍にも異変の知らせが届き、軍が出動した。 午後1時、7時間に渡り距離140kmに及ぶ逃走と追撃の末、テネシー州境手前のギングゴールドを通過した所で、北軍の工作員達が乗る「ジェネラル」号はバルブが故障して動かなくなってしまった。 更に燃料の薪も尽きている。 周囲を南軍に囲まれ、後方からは「テキサス」号、「カトゥーサ」号が迫る中、北軍工作員達は列車を放棄しバラバラに逃走した。 西方に向かいアラバラ州内に突出している北軍の陣地にたどり着くことを目指したが、結局、列車を強奪した18名の他にも、集合前に捕まった2名、列車に乗り遅れた2名、計22名が全員が南軍に捕まった。 リーダーのアンドリュースを含む8名はスパイとして6月に処刑、8名は10月に脱走に成功、そして残る6名は翌1863年3月に捕虜交換で合衆国に戻った。 民間人2人を除く乗車メンバー全員には、設定されたばかりの米合衆国軍の最高栄誉である名誉勲章が送られた。 工作員の一人、ピッテンガーは自身の体験を複数の本に記した。 「ジェネラル」号は北米中を回って公開され万博でも展示、現在は、最初に列車を乗っ取られたケネソー(旧ビッグシャンティ)に設立された博物館で展示されている。 追跡した「テキサス」号の方はアトランタの博物館で保存展示されている。 アトランタ〜チャタヌーガ間の路線はダムの建設などにより一部ルートは変わったものの、貨物列車専用として存続している。 相変わらず単線。レールは5フィート軌から全米統一の標準軌に変わり(何と全線に渡りこの変更作業を24時間で実施したという)、列車の大型化に伴いトンネルや橋梁も新しくなっている。 喜劇王バスターキートンは「キートン将軍」(1926年)という無声映画で、また、ディズニー映画は「機関車大追跡」(1956年)という実写映画でこの事件を再現してる。 線路を壊す為の工具不足や雨で放火に失敗した事などにより、北軍にとって戦術的な戦果は皆無といっていい作戦だが、敵陣に潜入してのサボタージュを試みた冒険精神、滑稽なトロッコチェース、愛国心に燃えての追跡劇はアメリカ人の琴線に触れるのであろう、南北戦争の中でも有名なエピソードの一つだ。 私は現地を訪問していないが、「事実は小説より奇なり」を地でいくこの列車追跡劇は日本語文献が殆ど無いので紹介してみた。 下の写真は映画「キートン将軍」の1シーンを再現したもの。「軍隊に入って」と恋人に言われたが、南軍には入隊を拒まれ落ち込む機関士は、連結棒の上で放心状態、そのまま汽車はゆっくりと走り出す。 この後、史実に近く「ジェネラル」を奪う北軍工作員をトロッコで追跡に入り、レールが外され脱線するシーンはスタント無しに本人が演じている。 北軍工作員のサボタージュ、テキサス号での追跡(正面向きだが)もゆる〜く史実通りだが、その後北軍司令部で侵攻計画を知った機関士は機関車とさらわれた恋人を奪還して南部に逃げ、これを追う北軍と決戦、蒸気機関車が橋から落ちるシーンはCGでもミニチュアでもない本物。最後は南軍が勝利して敵将軍は捕虜、機関士も中尉として南軍に入隊できてメデタシ、という全体的に好戦的な南軍讃歌の戦争冒険映画(基本はドタバタコメディなのだが)となっている。 |
SLは南北戦争とも映画とも直接関係のない、太平洋戦争中に日本軍が国内で徴用して東南アジアに持ち込んだC56型の内の1輌。 その他、南北戦争を扱った映画としては、実話ベースの「グローリー」が秀絶。 「コールドマウンテン」はニコールキッドマン(オーストラリア人だけどアメリカ南部訛りを流暢に話す。これ凄くないか?)が戦争に巻き込まれる民間人の典型的な悲劇を演じる。 敗退する腐りきった南軍。第二次世界大戦末期のナチスドイツを彷彿とさせる。 一方、大日本帝国は終戦間際は一億火の玉、一致団結なので全体破滅という最悪の方向へ。いかにも日本らしい。 最近某総理が一億総活躍とか言っていたが、国民が付いていっていない。 既得権にしがみつこうとする人たちがワークシェアリング、女性の活躍、産休育休の取得、若者の結婚を直接あるいは間接的に邪魔する。 どうなる?現代日本!?内戦も起きないままこのまま破滅か? |
1869年〜1877年まで第18代アメリカ合衆国大統領。 退任後、夫人を伴い世界旅行の途中、1879年に日本を訪問し、明治天皇と接見している。 上野公園で大歓迎会が行われ、その際に植樹した。これ記念して後年(1929年)になって「グラント将軍植樹碑」が建てられた。 35 42 56 N 139 46 23 E グラントはアメリカ合衆国大統領経験者としては初の来日となる。 現役の大統領が来日するのは1974年のフォード大統領。 |