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薩英戦争
Anglo-Satsuma War

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1862年9月14日、江戸での幕府との会議会談(文久の改革)を終えた薩摩藩・島津久光の行列が、東海道を京都に向かっていた。
一方、横浜方面からはイギリスの民間人4人が馬に乗って観光の為川崎大師を目指して進んでいた。
写真はJR鶴見線の国道駅ホームから見た旧東海道で、薩摩藩の行列は手前から奥に進んでいた。
35 30 02 N 139 40 33 E

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イギリス人4人は馬を降りずに薩摩藩の行列(注:大名行列ではない)とすれ違うことになり、狭い道で往生してしまい隊列を乱したとして薩摩藩の侍に切り付けられた。
これがいわゆる生麦事件で、写真はその発生現場。左の家の塀に解説パネルが掲示されている。
35 29 40 N 139 40 18 E

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4人の英国人の内、上海で貿易商をしていたリチャードソンは横浜方向に逃げたが重傷を負っており、落馬して動けないところを薩摩藩士にトドメを刺された。
写真はその場所に立つ記念碑。
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イギリス商人マーシャルと商店勤務のクラークの二人は傷を負っていたが現在の東神奈川駅近くにあるアメリカ領事館に逃げて助けを求めた。
写真は当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺。
35 28 19 N 139 37 36 E
残る一人、香港在住イギリス商人の婦人であるボロデールは無傷で横浜の居留地に逃げた。


以下湯之平展望所の解説パネルより。

江戸時代の文久2年(1862年)に、生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で大名行列(←注:本当は大名行列ではない)を乱したイギリス人を薩摩藩士が殺傷(生麦事件)した。
その報復として、英国艦隊7隻が鹿児島の錦江湾(鹿児島湾)に現れ、事件の実行犯の処罰と賠償金を要求。
薩摩藩がこれを拒否したため、薩摩藩船3隻を拿捕して焼き払い、薩摩砲台と砲撃戦を展開。
この砲撃戦で近代工業の先駆けとなた集成館が消失、また上町一帯を中心に約500戸が消失。
薩摩藩も奮闘し、敵に多大な被害を与え撃退したものの、イギリスの近代兵器に驚かされた。
これをきっかけに「敵に勝つには敵から学べ」とイギリスに留学生を派遣する契機となった。

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現場地図。湯之平展望所と祇園中州砲台跡にあった解説パネルを元に作成。
鹿児島市中心部側は埋め立て、桜島側は大正時代の溶岩流入により海岸線が当時とは変わっている。

1963年8月11日、英艦隊が交渉の為錦江湾に入り、Aに停泊

翌日、西瓜売り(!)に化けた薩摩の決死隊が来たのでこれを避けるため停泊地をBに移動。

8月15日早朝、交渉に圧力を加えんと、英側は錦江湾北部にて天祐丸など3隻の薩摩船を拿捕し、地図上に示す位置に曳航した。

天保山砲台の砲撃を合図に各砲台が砲撃開始。英側は特に桜島側の袴腰砲台に驚く。

ハボック号は拿捕した3隻の薩摩汽船のそばに残り、この3隻に火を放つ。

残りの英艦隊6隻は体制を整え南下を始め(C)、単縦陣で城下側に艦砲射撃を加えた。
艦列は先頭よりユーライアス、パール、コケット、アーガス、パーシュース、レースホースの順。
琉球船、集成館の近代工場が消失。市街地も最終的に1割程度が消失。

先頭の旗艦、ユーライアラス号が集中砲火を浴び、艦長、副長らが戦死(地図D)。

一方、最後尾のレースホース号が、地図上祇園之洲沖の浅瀬(地図E)に座礁。
しかし、祇園之洲砲台の砲は既に破壊されており射撃不可能。
レースホースは別の艦船に救出され脱出。

英艦隊は15日から16日にかけて地図上Fに停泊。

16日に英艦隊は南下を開始し、沖小島と桜島の間を通過しようとしたが、沖小島の砲台からの砲撃を避ける為進路を変更、結果として薩摩の仕掛けていた水雷を避けて無事に横浜に戻った。

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桜島の、湯之平展望所から薩摩藩城下町(鹿児島市)側を見る。写真左端の河口の向かって右横に、祇園之洲砲台がある。

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祇園之洲砲台跡。
以下、ここの解説パネルより
このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていたが、島津家27代斉輿(なりおき)の元で藩政改革を断行した調所広郷(ずしょひろさと)が、兵士の屯集所として埋め立てた。
その後斉彬(なりあきら)がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に供された。
正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し双方に相当の被害が出ていた。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が目の前で浅瀬に乗り上げたのはその時。
ところがすでに砲台はイギリスの誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送った。
イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名だったが、城下の被害はすさまじく、西洋との差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めた。

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鹿児島市側から桜島方向を見る。フェリーがこちらに向かっているが、フェリー船着場の対岸(現かごしま水族館。金色の屋根)が新波止砲台跡。
湾内を写真左から右(北から南)に進行した英艦隊は薩摩城下に艦載のアームストロング砲、ロケットで攻撃をしてきた。

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桜島の、湯之平展望所から南方向の眺め。
英艦隊は写真右から左に南下して撤退。
写真左の島が沖小島。右の島は神瀬。
手前の桜島本島の部分は1914年の噴火により溶岩が流れ込み、地形が変わっている。
薩摩藩は沖小島と桜島本島の間に水雷を設置して待ち構えていたが、沖小島砲台の砲撃を避けるため進路を変えたので、水雷でダメージを与えることは出来なかった。

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おまけ。活火山、桜島。2012年4月の撮影。このときは一日に何度も噴火・爆発があった。
九州という所、修学旅行、出張、航空ショー見物などでそれまでも何度か来たことはあったのだが、会社の転勤で短期間ながら居住する機会に恵まれ、ゆっくりと観光できた。
信じられないような観光名所ばかりで驚いた。PRが下手なのか、あまり観光客に来て欲しくないのか、関東人には知られていない、他では中々見られない自然景観や歴史遺産が沢山ある。


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薩英戦争少し前の1863年6月〜7月にかけて、攘夷(じょうい:外国排除)を支持する長州藩は馬関海峡で外国船を次々と攻撃し、その結果、1863年7月と1864年8月の2度に渡り欧米の報復攻撃を受け、海峡の長州藩砲台は破壊・占領された(下関戦争)。
写真は壇ノ浦砲台跡で、長州砲のレプリカが置かれている。
33 57 56 N 130 57 25 E
当時、関門海峡沿いには10数か所に砲台が設けられていたという。

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同じく壇ノ浦砲台跡に展示されている、天保製長州砲のレプリカ。
フランスが戦利品として持ち帰ってパリのアンヴァリッド(廃兵院)が所有していた砲が、貸与で里帰りした際に複製したもの。


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欧米との戦闘で、薩摩藩と同様に、戦力・技術力の差を身をもって知った長州藩は、攘夷から倒幕へと思想が変わって行った。
開国以降、元々は公武合体(朝廷と幕府を結びつけて強化する)思想の薩摩藩と攘夷(外国排除)思想の長州藩とは仲が悪く武力衝突も起きていたが、薩英戦争・下関戦争を経て思想が変わり、1866年に薩長同盟結成、その後の倒幕と明治政府樹立(明治維新)では薩摩と長州が中心的役割を果たしていくことになる。
写真は京浜急行立会川駅前に建つ坂本龍馬像で、薩摩藩が英国から仕入れた武器の一部を長州藩に販売する際、彼が設置した商社が介入、薩長同盟結成に向けて両藩の仲介に尽力した。
35 35 52 N 139 44 21 E




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