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リエージュの戦い
Battle of Liege

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フランスとドイツに挟まれた不運な国ベルギー。
第一次世界大戦中、オランダは中立を守ったが、中立を宣言していたベルギーの運命やいかに。

オーストリア皇太子の暗殺が引き金となり、オーストリアの同盟国ドイツはロシアに宣戦布告、そしてドイツはロシアの同盟国フランスに最後通達を送った。
フランスを打ち負かすためにはフランス軍の打倒と首都パリの占拠が必要。
そして、その為にはシュリーフェンプラン(改訂版)に基づきベルギーの通過が必要だった。
ドイツは中立国ベルギーに対し、軍隊の通過を「お願い」した。

私はドイツのデュッセルドルフに5年間住んでいた。その間、フランスのパリには何度も遊びに行った。
パリは面白い。歴史の町。おいしい(高い)レストラン、装飾の見事な建物、美術館。郊外には宮殿、仕事で行く近郊の会社の事務所、有名な航空ショーが開催される空港(航空宇宙博物館併設)もある。
パリに行くには、ベルギーのリエージュを抜け、ナミュール・モンスを通って行くのが一番早かった。それは今も昔も変わらない。リエージュをすぎれば平坦な道。パリに行くとき、ベルギーはただ通り過ぎることが多かった。

第一次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がまずフランスを叩くことを目指した時、首都パリを目指すドイツ軍は、当然の如くベルギーを、リエージュを経由して進軍する必要に迫られた。
ドイツとフランスはアルザス・ロレーヌで隣接しているのでベルギーを通らずにフランスに行くことも出来るが、仲の悪い国同士が領土問題を抱えて隣接している国境だけに守りは堅かった。
アーヘンからベルギーに入り、リエージュを過ぎれば目の前は平地だ。
ベルギーの鉄道を「借用」して、リエージュから一気にフランス国境に行き、フランス軍が終結する前にパリに到達する。
動員開始後、パリ占領まで14日ありば充分なはずだった。

さて、ベルギーは領土内のドイツ軍通過の「お願い」は断った。
ドイツはベルギーを強行して通過しなければならなくなった。
1914年8月3日、ドイツがベルギーに宣戦布告した。
ベルギー国王アルベールが軍の最高司令官となり、リエージュでドイツ軍を食い止めるべく準備し、また、鉄路がドイツ軍に使われないようアーヘンとリエージュの間のトンネルを爆破した。
リエージュ市を守る第三師団および、リエージュを囲む要塞群の指令にはレーマン将軍が任命された。
12箇所の要塞に合計6000名の兵、そして要塞間の塹壕に30000名の兵が配置された。

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自動車がまだ殆ど普及していなかった時代、ベルギー軍の、機銃運搬には犬が使われた。
この犬種は今は残っていないらしい。
犬の名はもちろんパトラッシュ....かどうかは知らない。
ロンサン堡塁付属の博物館にて。



交通の要所、リエージュは環状に配置された堡塁によって守られていた。
設計者はフランス人アンリ ブリアルモンで、アントワープの堡塁の近代化、ナミュールの堡塁も彼の設計による。
リエージュの堡塁は全部で12個あり、三角形または4角形に掘られた幅8mの乾堀に囲まれ、遠くの敵を撃破するための120mm、150mm及び210mm砲や、夜間索敵用サーチライトを備えた本体の建物が置かれていた。
本体の角近くには57mm速射砲も配置さてており近距離の敵を撃破した。堀の角部には、堀に降りてきた敵を銃撃できるよう2階建ての機銃陣地があり、地下通路で本体と結ばれていた。

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リエージュの堡塁を建設中の様子。木枠にコンクリートを流し込んで作っていくが、ベルギー人はキッチリと休みをとるので、コンクリートが固まってしまってから次のを流し込むので、各層同士がコールドジョイントになっており期待した強度は無かった。

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リエージュを守る12箇所の堡塁。堡塁間の距離、中心部からの距離はグーグルアースで緯度経度を調べ、座標から距離を計算している。
巷にあふれる書籍やインターネットの解説は結構いいかげん。
ランタンとロンサンの位置が入れ替わって間違って解説されているものも多い。
左下から右上に流れるのがミューズ川




以下、リエージュの要塞の構造(ナミュールの要塞も同じ)を写真で紹介する。


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大規模三角堡塁の一つ、ロンサン堡塁の模型。(大きすぎて全体が撮影出来なかった。基本的に左右対称)
記号は以下に解説する装備・部屋に相当する。
一番下の堀(C'-C')が小規模と比べ軽く「へ」の字に曲がっている。
これは左のトーチカ陣地D-1が右の乾堀C'を、右のD-1は左のC'を受け持つようにする為。

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小規模三角堡塁の一つ、ランタン堡塁の模型。
記号は以下に解説する装備・部屋に相当する。
一番下の堀は大規模と比べ一直線。
裏側の居住区(B)は入り口(A)の片側(ランタンの場合は左側)にしかない。
メインの居住区(D)は左右対称。



【入り口(A)】

模型ではAの部分。
いずれの堡塁も、入り口はリエージュ中心部に向かって置かれている。
防衛上こちらが裏側になり、リエージュ中心部の反対側が表側(攻撃を受けると想定している側)となる。
全体的に表からの攻撃に強く、裏からの攻撃には弱かった。

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Aの、入り口の両側にある機銃の銃眼。下の銃眼が、堆積物や敵兵の死体などで使えなくなると上から射撃した。ただし中二階構造でC-1の様な完全な2階建てではない。

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赤斜線の床板部分は右にスライドするようになっている。
通常は人・車が通れるようになっているが、戦闘時には赤斜線の床が右にスライドし、幅3.7m、奥行き5.7m、深さ4mの落とし穴が現れるようになっている。

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床を左右に動かす機構。レールの上をスライドする。



【裏側の居住区(B)】

大規模要塞の場合は入り口の左右両側に、小規模要塞の場合は入り口の左側または右側片方に、乾堀に沿って一直線に並ぶ区画。
通信室、幹部の居住区、修理工場、洗濯場、調理場と食堂、パン屋、倉庫、留置所、トイレなどがある。

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パン屋の模型(左右別々の写真を合成しているで壁のパースが狂っている)。
右の部屋の、左奥にあるパンこね機が面白い。実物は下の写真。

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本物のパン屋。当時のパンこね機がある。

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腹が減っては戦は出来ぬ。キッチン。左の窓から出来た食事を渡した。
オレンジ色の鍋はおフランスのルクルーゼ?
右に見えるのは暖房の通気口

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ロンサン要塞のトイレ。汲み取り式トイレと換気の悪さの為、いざ戦闘が始まるとトイレの悪臭と湿気が要塞内に充満した。

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ポンティス要塞のシャワー室



【乾堀と堀の防衛(C)】

三角堡塁は3辺、四角堡塁は4辺の乾堀(空堀・模型のC)に囲まれている。
幅8m、深さ6m程度。
乾堀に敵が侵入した場合倒せるように、乾堀の片端に2階建ての機銃と57mm砲の陣地が配置されている(C-1)。
大規模の場合は空堀は入り口の所で少し「へ」の字に折れ曲がっている。(C')
そしてこの折れ曲がりの所に2階建ての機銃と57mm砲の陣地が、互いに向き合う様に配置されている(D-1の部分。例外あり)。
陣地の反対側の端には、飛んでくる弾丸・砲弾が堀の壁を破壊しないよう、弾丸を吸収させるための土を盛った穴と、弾丸をリコイルさせるためのコンクリート製の丸柱が置かれている(C-3)。

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乾堀の様子

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三角堡塁の場合、三角形の頂部(入り口から最も遠い場所)に、左右の堀を守るための2階建てのトーチカ陣地があった(C-1)。
右の銃眼は左の乾堀を、左の銃眼は右の乾堀を受け持つ。
この陣地には地下通路を伝って中央部から出入りする。
乾堀から直接出入りはしないが、万一地下通路がふさがれたときの為に秘密の非常脱口があり、通常は薄いコンクリートで覆われ、非常時にそこを壊して出入りする。
写真左に開いているのがその非常口。
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二階建て陣地(C-1)の内部模型。
二階の床の穴は、一階が使えなくなり二階に移動する際、57mm砲をチェーンで吊って引き上げるためのもの。

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二階建て陣地(C-1)の内部の通路。この写真は2階部分で、床に砲を引き上げる穴(転落防止に網で塞いである)がある。

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陣地と反対の堀の端には、陣地から発射された弾丸を吸収して壁への破損を防ぐ為の穴とコンクリート円柱がある(C-3)。
穴の内側には土があり弾丸を吸収する。
円柱は弾丸をリコイルさせて威力を弱めると共に、大規模堡塁の場合は死角にいる敵を倒す役目もある。

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三角小規模、四角小規模及び四角大規模堡塁の場合、このように画面左の弾丸吸収部(ただし穴には壁を付けて物置に使われている)と画面右の機銃陣地が角をなして隣り合うことになる。右がC-2、左がC-3.
他に弾丸吸収部同士(C3同士)、陣地同士(C2同士)が隣り合う所もある。

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堀の防衛に使われた57mm砲。C-1,C-2,D-1に機銃と共に配備されていた。

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三角堡塁の場合、二階建て陣地へは中央部から、堀の下を通るトンネルを伝ってアクセスする。EからC-1へ向かう通路。

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トンネルから二階建て陣地(C-1)へ上る階段



【主居住(D)区】

裏側の居住区と堀を挟んで中央部側には兵、下士官、士官の居住区、火薬・弾薬室がある。

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下士官の居住区

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主居住区を外から見る。
大規模堡塁の場合、空堀は入り口の所で少し「へ」の字に折れ曲がっている。(乾堀C'-C'は一直線になっていない)
そしてこの折れ曲がりの所に機銃と57mm砲の陣地(D-1)が、互いに向き合う様に配置されている。

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大規模要塞の、主居住区にある防衛陣地D-1の内部。
台座は57mm砲のもの。
コンクリートの層間はコールドジョイントになってしまい、砲撃の振動で水平方向にヒビが入っている。



【中央部(E)】
堡塁の心臓部である中央部には
単装210mm砲(E-1)
二連装150mm砲(E-2)
二連装120mm砲(E-3)
サーチライト(E-4)と観測所
が置かれている。
また、守備兵の集合場所、地図室、将校の食堂、司令室、発電&ボイラー室、守備兵の中央部上への出入り口があった。
コンクリート厚さは4m、更に砲の周りはキューポラと呼ばれる鉄板で覆われて保護されていた。
周辺は土と草に覆われ、着弾の威力を弱めることが出来た。
中央部の周りには57mm砲(D-2,F)が配置され近づく敵を撃つことが出来た。
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ランタン堡塁の中央部キューポラの様子。死角が出来ないよう、周辺の地形よりも1m高くなっている。
ロンサン以外の殆どの堡塁では金属が回収されてしまった。よってこの各砲塔はレプリカ。天井部分は鉄板に覆われていたがこれは再現されていない。
手前が210mm砲(E-1)、その奥が2連装150mm(E-2)、一番奥の一番高いところにあるのはサーチライト(E-4)。
左右は2連装の120mm砲(E-3)。

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観測所のレプリカ。

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隠顕式57mm砲(D-1,F)の動く模型。上下動のカウンターバランスの重りが面白い。

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57mm砲室(F)につながる階段

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ロンサン堡塁に残る210mm砲(E-1)。
爆発の圧力により砲が上に飛び出し、ひっくり返った。
したがって砲の下の部分を上にして残っている。

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ロンサン要塞の中央部にある、傾いてしまった150mm砲(E-2)

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ロンサン要塞の120mm砲(E-3)。着弾の痕跡がある。向かって右の砲周りと、周囲の雨よけは最近修復したもののようだ。

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ランタン堡塁に残っている、120mm砲(E-3)の旋回メカ。内歯車を切った旋回輪を、手動の小歯車で回す。

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直径60cmの隠顕式サーチライト(E-4)。霧が出ていなければ3km先まで照らすことが出来た。

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隠顕式サーチライト(E-4)。蒸気圧で駆動する。
ロンサン要塞の爆発により、間口を下倒れてしまった。

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ランタン要塞の司令室



リエージュを攻略するドイツ軍はミューズ軍と呼ばれる、第2軍団から抽出した、6旅団と騎兵軍団からなる兵力60000の軍団だった。

8月4日朝、ドイツ軍が国境を突破してベルギー領を侵略。
ベルギー軍はリエージュの要塞にて守りを固め、8月5日、ドイツ軍はリエージュ郊外に達し、堡塁を攻撃したり、堡塁間の突破を試みたが損害が出るだけで突破できなかった。
リエージュの要塞群は210mm砲の砲撃に耐えられるように設計されており、砲撃は余り効果無かった。
8月6日、ミューズ軍を構成する第14旅団指令が戦死し、第二軍団参謀長代理のルーデンドルフ将軍が指揮をとった。

ドイツ軍は要塞の間をすり抜けることに成功し、リエージュ中心部を見下ろす地点に到達した。そこから着弾観測をして、リエージュ中心部を砲撃しだした。
リエージュの中心部に居たレーマンは、司令部をミューズ川西岸の要塞、ロンサン堡塁に移した。

8月8日、歩兵の攻撃がとどめとなり、ついにミューズ東岸のバルションが陥落した。

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最初に陥落したバルション堡塁。まだ超大口径砲は持ち込まれていなかった。



しかし他の要塞はまだ突破できず、ドイツ軍を撃退している。
同日、リエージュの中心部がドイツ軍の手に落ちた。
しかし鉄道も幹線道路もまだパリに向かうには使えない。

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2番目に陥落したのは、エヴネ堡塁で8月11日に降伏。
現在は軍需工場として使われており立入出来ない。航空写真を見る限りかなり施設が変わっている。


ドイツ軍はオーストリア軍からショコダ社製の30.5cm砲を借り、また、ドイツのクルップ社に作らせていた42cm砲を持ち込んむことにした。

8月12日から超大口径砲による攻撃が始まり、次々と要塞が陥落した。

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写真:42cm砲の砲弾。薬莢部はオリジナルで、グレーの弾頭はレプリカ。
手前はリエージュの要塞が装備していた210,150,120mm砲弾。
隣のオジサンはロンサン堡塁のボランティアガイド。

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420mm砲の攻撃をうけ、4番目に陥落したポンティス要塞。

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8月15日朝、8番目に陥落したボンセルの堡塁。
入り口は弾痕だらけ。この要塞は第二次世界大戦緒戦でも攻撃を受けているのだが、どちらの時のものだろうか。
周囲は住宅に囲まれていて、ボンセル堡塁跡の半分は整地されている。

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8月15日昼に陥落したランタン要塞。



8月15日夕方。既に残る要塞ミューズ川西岸のロンサン、オローニュ、フレマレの3つになっていた。

16時にドイツ兵が降伏勧告と見せかけ白旗を高く持ってロンサン堡塁に近づいた。本当の目的は42cm砲の命中精度を上げるため、位置のマーキングであった。
歩哨がこのドイツ兵を射殺した。
17:30に420mm砲が堡塁本体のほぼど真ん中に落ち、火薬室の火薬が誘爆、堡塁中央部が大爆発を起こした。死者350名の内、250名は瓦礫の下に今も眠る。

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直撃を受け大爆発を起こしたロンサン堡塁。「ロンチン堡塁」と記述している書物もある。
画面手前が爆発を起こした火薬庫のあったところで、水たまりになっている(2月に訪問しているので凍っているが)。
画面奥では、120砲の2連装の砲塔(E-3)が無残にも崩れている。

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ロンサン堡塁内部。奥の部分が崩れていて、その先には死者が今も眠る。
手前のレンガの壁は占領したドイツ軍が部屋を塞ぐために設けたもの。



残りの2つの要塞も翌日に全て降伏した。

ロンサンを司令部としていたレーマン将軍は瓦礫に埋まったが、要塞を占領したドイツ兵に引っ張り出され、リエージュ市内に連れて行かれた。

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司令部をリエージュからロンサン堡塁に移したリエージュ防衛司令官、レーマンの部屋。Dの区画にある。



ミューズ軍団長、フォンエミッヒに合うとレーマンは軍刀を差し出し降伏した。
フォンエミッヒは、「軍刀は貴方が持っていてください」と断った。

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降伏したベルギー軍のレーマン将軍(右)と、ドイツ軍のフォンエミッヒ将軍

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ロンサン要塞が陥落した翌日に降伏したフレマレ堡塁。
現在は射撃クラブが使用。上部に居るのはサバゲーのアメリカ軍らしい。

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フレマレ堡塁が降伏した直後、12番目すなわち最後に陥落したオローニュ堡塁。
本当に最後の最後まで粘った。



以下の表に、リエージュ堡塁の位置、戦闘状況と現状をまとめる。
堡塁は北から順に左回りに記す。
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リエージュ攻略の為のミューズ軍団は解散し、進撃する他の軍団に組み込まれた。
8月19日、ドイツ軍はリエージュの西、フランス国境の手前にあるナミュールに到達した。
ここもリエージュ同様、環状の堡塁に守られていた。ドイツ軍は同様30.5cm砲、42cm砲を持ってきて攻撃し、今度は2日で落とした。
ナミュールに居たベルギー軍はフランス軍と合流すべく、シャルルロアまで後退した。

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ナミュールのデーヴ堡塁
ナミュールの要塞群はリエージュと同じブリアルモンによる同時期の設計。
ナミュールの堡塁の数は10個。

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デーヴ堡塁の乾堀。入り口から入って西を見たところ。壁面は砲弾による破損が著しい。
かなり木が伸びている。

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その名もフォールデーヴ(デーヴ堡塁)という村にある戦争記念碑。
左が第一次世界大戦で、右が第二次世界大戦のもの。
フランスとドイツの間にあって中立を保つという事が不可能な事が2度も証明されてしまった。



8月17日、首都ブリュッセルにドイツ軍が迫ったので、ベルギー政府と国王はアントワープに避難した。
アントワープもブリアルモンが設計した環状要塞群に守られていた。
ただし設計時期が異なり(1879年)、2重環の要塞20個からなる。
低地という特性上、ナミュールやリエージュの様な乾堀が設けられないので、要塞本体は地面よりも上に置き、要塞周囲に水を張った堀を設けた。
8月26日、ベルギー軍6個師団がアントワープの守りに付いた。(残り1個師団はナミュールを撤退した後、シャルルロワにてフランス軍に合流していた)

ドイツ軍の目標はパリだったが、アントワープでのベルギー軍の抵抗も無視出来なかった。
パリとは方向が違うが、港町アントワープのベルギー軍も降伏させる必要があった。
9月28日から、ドイツ軍はアントワープへの攻撃を本格的に始めた。
再び42cm,30.5cm砲を初めとする大砲が要塞を攻撃した。
そしてリエージュやナミュールよりも設計の古い要塞は次々と破壊されていった。

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アントワープの2重の環状堡塁の内、外側にある要塞の一つ、リーゼレ堡塁。
アントワープの要塞は、低地にある為乾堀は作れず、堀に水を張っている。
リエージュ、ナミュールに比べ10年程前に設計・完成した。

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同じくアントワープのブレーンドンク要塞。
リエージュ要塞に比べ損傷が見られない。
ここは第二次世界大戦中、ドイツの強制収用所として使われた。



10月3日から4日にかけて、英海兵隊の旅団が応援に到着したが遅すぎた。
ベルギー軍と英軍はアントワープから撤退を決めた。

1914年10月9日、防衛する者の居なくなったアントワープにドイツ軍が入った。



リエージュの攻城戦によりドイツ軍はフランスへの進撃に遅れが出た。遅れは2日間とも10日とも言われる。
これにより英、仏軍は貴重な時間を稼ぎ出し、マルヌ川沿いに防衛線を築き、ドイツ軍へのパリ進撃はついに成らなかった。
戦争になった場合、全く防衛は当てに出来ないだろうと英、仏が思い込んでいた小国ベルギーは、初戦で十分に防衛に尽力したといえる。

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リエージュの抗戦を称えてフランスが贈った勲章。


結局、第一次世界大戦中の大部分の間、ベルギーはほとんど全土がドイツ軍に占領され、唯一フランダース地方のイープルだけが連合軍側の確保出来たベルギーの大きな町だった。


第一次世界大戦中、一部の要塞はドイツ軍が修復し、防備を増強して使用した。
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ポンティス堡塁の乾堀に、出っ張る様に設けられたトーチカ(色の濃い部分)は、第一次世界大戦中、ここを占拠したドイツ軍が増設したもの。



第一次世界大戦が終わると、ベルギー軍は再び敵の攻撃に備える為、ミューズ川東岸の要塞を中心に改修した。
リエージュの戦いでは換気の悪さ(火薬の爆発により発生する有毒ガス、湿気、トイレの悪臭)が原因で降伏した要塞が多かった為、改修時には要塞から少し離れた場所に換気塔を設け、そこから新鮮な空気を引き込むようにした。
更に、ミューズ川東岸の、既存の堡塁よりも更に外側に、より強力な巨大要塞を3つ作った。

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大戦間にアップグレードされた堡塁の一つ、バルション堡塁に新たに設けられた換気塔。
見張りの塔も兼ねる。
総コンクリート造りの堡塁と異なり、こちらはちゃんと鉄筋構造になっている。
頂部の手すりと梯子は最近取り付けられたもの。




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