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ディナンの戦い
Battle of Dinant



現ベルギーにあるディナンの町は、ミューズ川渡河地点として戦略的重要と考えられ、中世から第二次世界大戦まで戦闘や内乱の舞台となってきた。
11世紀に町と川を見下ろす崖の上に城塞(シタデル)が建造された。
その後改築と破壊を経て、1821年に現在の城塞がオランダ(当時ディナンはオランダ領)により作られた。

1914年8月4日、ドイツ軍はベルギーとルクセンブルグに進攻を開始した。
ベルギーと同盟関係にあったフランスとイギリスはベルギーに進軍し、ディナンでは8月14日までにフランス第5軍が守りを固めた。

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8月15日、ドイツ第3軍は南西方向からディナンに近づき、守るフランス軍を襲撃した。
昼前に城塞からフランス兵を追い出し、続いて町からもフランス兵を追い出した。
ケーブルカーは当時無かったので、フランス兵は階段を降りて逃げたという。
調子に乗ったドイツ軍は橋を渡って西岸に進撃した。フランス軍は西岸の丘陵一帯に隠れた。
麓にあるのはノートルダム聖堂。他の聖堂同様に、上から見ると十字架の形をしている。
50 15 42 N 4 54 46 E (城塞の位置)

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ディナン城塞争奪戦での白兵戦の様子を再現。

ドイツ軍は「ピッケルハウベ」と呼ばれる、皮製で天っぺんに金属スパイク付のヘルメットを被っている。
このヘルメットは1916年以降、シュタールヘルムと呼ばれるヘルメット(いわゆる「ドイツ軍のヘルメット」、ただし第二次世界大戦中のものより一回り大きい)に置き換わっていく。

フランス軍は赤と青の軍服。これは礼服ではなく戦闘服なので念のため。
普仏戦争(1870〜71年)の時の軍服と変わっていない。
さすがに20世紀にもなると目立ちすぎるのではないかと見直されたが、国旗色をアレンジした軍服の廃止は軍や国民の反対に合い、フランスはこの服装のまま第一次世界大戦に突入してしまう。(騎兵に至ってはワーテルロー戦役とほとんど変わらない衣装だった)
さすがにこれではマズイ、ということで開戦後すぐに青灰色の軍服に置き換わった。

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ディナンの城塞は、第一次世界大戦の時には既に時代遅れとされ、城塞としては使用されていなかった。
現在は観光地化されて、築城当時から第二次世界大戦までの武器も展示してある。
写真上は恐らく築城当時の頃の前装砲。壁の紋章は、ベルギーのものだと思うのだが、或いはオランダ?
この手のライオン紋章は色々な国や団体や団体が使っているので良くわからん。
写真下は第二次世界大戦中にベルギーを占領していたドイツ軍の置き土産、2 cm Flak 30高射機関砲。

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8月15日午後、西岸のフランス軍は橋を渡って反撃に転じ、ドイツ軍は東岸に押し戻され、やがて城塞もフランス軍が奪還した。
写真奥がフランス軍側の西岸、手前はドイツ軍側の東岸。
後のフランス大統領となるシャルルドゴール少尉(当時)は、城塞奪還の為の攻撃中、この橋を渡ろうとして足を負傷した。
写真撮影時(2008年)には無かったが、その後橋の西岸たもと(画面右上)に若きドゴールの像が建てられた模様。
橋は第一次世界大戦で破壊されており(撤退するフランス軍が爆破?)、現在のは再建されたもの。シャルルドゴール橋と呼ばれている(同じ名前の橋はフランス国内やフランス植民地にもある)。
50 15 37 N 4 54 41 E

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フランス軍は、ディナン西岸と、ディナンの橋周りで守備を固めた。
体勢を立て直したドイツ軍は8月23日になって本格的にディナン再攻略に乗り出す。
ディナンよりも上流、下流各々で西岸に渡った。
フランス軍は退却を開始し、ドイツ軍は橋の修復に取り掛かった。この時住民がドイツ軍に発砲し、ドイツ軍は見せしめに住民を集めて処刑した。
ディナンおよびその近郊での処刑、戦闘、流れ弾、放火などによるベルギー人民間犠牲者は674名とされている。
連合軍はドイツ軍の残虐行為として大々的に宣伝し、アメリカの参戦を促そうとした。
写真はディナンの橋の下流側(北側)。堰と水門のある近辺でドイツ軍は東岸から西岸に渡った。

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8月24日、ドイツ軍は橋より南の町に放火し、これにより歴史的建物の多くが破壊された。
この頃にはフランス軍は退却し、周辺はドイツ軍が制圧した。
写真の市街地はディナンの橋よりも南側(上流側)の部分で、火災や砲撃により多くの建物が失われ、再建された。

第一次世界大戦開戦から30年後の1944年12月23日、アルデンヌの森を抜けたドイツ軍の先遣偵察隊3名は、米軍から拿捕したジープに乗って、ミューズ川渡河地点を探して川の東側(画面左側)を川沿いに北上(画面左億から手前に向かって)していた。
市街地に差し掛かった所で、町を守っていた英軍に殺された。
アルデンヌの戦いでドイツ軍が最も遠くまで進出した場所はディナンの町の入口までだった。
目標とされたアントワープまでは直線距離でも110km以上あった。

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城塞の麓、橋のたもとにあるノートルダム教会。13世紀の建造という。
洋ナシ形(私には蟻の腹に見えるのだが)の鐘楼が印象的だが、この部分は屋根共々第一次世界大戦で破壊されており、再建されたもの。
ディナンはサクソフォン発祥の地としても有名で、随所にサックスのオブジェや照明がある。
50 15 40 N 4 54 44 E

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城塞近くにあるフランス兵の墓地。1200名程を埋葬している。墓標の戦死日付はいずれも1914年8月後半のもの。
画面右奥に見えるのは、8月15日に於けるディナン城塞の奪還を記念する、突撃するフランス兵の像。
...って、1週間位しか奪還確保できておらず、結局その後第一次世界大戦の終戦(正確には停戦)まで、連合軍はディナンとその城塞を取り戻せていないのだが...
50 15 41 N 4 54 56 E

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おまけ。ディナン名物のお菓子「Couque de Dinant」。
小麦粉と蜂蜜だけが原料で、これを硬めに練って木の型に押し付けて形を作り焼く。
焼き上がりはかなり硬い。お菓子というより保存食に向いているのではないか?
ベルギーの食べ物は全体的にかなり美味しいのだが、これはちょっと.....




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