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イーペル
Battle of Ypres


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イーペル(フランス語表記Ypres、オランダ語表記Ieper(ここはオランダ語圏なのでこちらが正式)、英語では通常Ypres、日本ではイープルとも表記)は中世時代、イングランドとの繊維貿易として栄えた。街の周囲を堀で囲って城塞化した。
写真はイーペルの象徴である繊維会館。元は中世13世紀末の建物。
第一次世界大戦中、町は砲撃により瓦礫となり、戦後繊維会館とその周囲が元通りに修復(というよりは一から再建)された。
古い重厚感がありながら、壁が結構綺麗なのはその為だ。
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第一次世界大戦が始まり、ドイツ軍はベルギーを通過してフランスのパリに向けて進撃した。
1914年9月5日〜12日にかけて、マルヌ川沿いに英・フランス連合軍が反撃しこれを撃退(第一次マルヌ会戦)、連合軍は続く第一次エーヌの戦い(〜28日)で反撃に転じた。
ドイツ軍は前線の北側から連合軍の側面、背後に回りこもうとし、連合軍はそれを防ごうと北に守りを伸ばしたため、結局10月19日頃に前線が北に北海まで延びた(後に「海への競争」と呼ばれる戦い)
これにより戦線は膠着し、以降1918年にドイツ軍が大攻勢に出るまでの間、塹壕戦が戦われた。

北海に近いベルギーの町イーペルは、「海への競争」が終わった時点で連合軍支配下にあったが、突出部の様に前線からドイツ軍陣地内に張り出していた。
両サイドが北海に到達したのと同じ1914年10月19日、ドイツ軍はイーペルへの攻撃を開始した。ドイツ軍は学生や老人からなる予備兵を投入し、多大な損害を出しながら進撃に成功し、連合軍側の突出部は小さくなったがイーペルの街自体は連合軍が支配していた。
第一次イープルの戦いは冬の到来と共に11月22日には終了した。

翌年の春、1915年4月22日から5月25日にかけて、第二次イープルの戦いが行われた。
ドイツ軍は史上初めて毒ガスを戦闘に使用し、大きな戦果を上げた。
これによりドイツ軍はイーペルの街を東から見下ろす高地をほとんど占拠した。

その後2年、イーペル周りの戦線に大きな動きは無かった。

2週間に渡る準備砲撃で450万発の砲弾をドイツ軍陣地側に撃ち込んだ後、1917年7月31日、英連邦(+少数の仏、ベルギー)軍は大反撃に転じる。
砲撃と、大雨により土地は泥沼と化していた。ライフルは詰まり、戦車は頓挫し、兵士と軍馬は泥に溺れた。3ヶ月以上をかけてこれまでになく支配地を広げることが出来た(最大進出は約8km)が、それはドイツ軍側に食い込む突出部が大きくなっただけの事を意味する。ドイツ軍の前線は崩壊していなかった。しかし、英軍司令官のヘイグ元帥は結果に満足していたという。
進出した村の名前を取って、この第三次イープルの戦いは「パッシェンデールの戦い」ともいわれる。

さて、全体的に見れば長らく膠着状態だった西部戦線にも変化が出る。1917年4月に大国アメリカが参戦し(ただし前線参加は翌年5月)、ドイツ軍には不利になる一方、ロシアと1917年12月に講和を結び、東部戦線にいたドイツ兵を西部に回すことができるようになった。、
翌年春、ドイツ軍は最後の攻勢に出る。西部戦線の随所で進撃を果たし、パリに近づいたものの、結局進撃は止まってしまう(春季攻勢1918年3月21日 - 7月17日)。
この時、イーペル周りでもドイツ軍は支配地を拡大している(ジョルジェット作戦、レイエの戦い1918年4月7日〜29日)。
イーペルの街にも、これまでに無くドイツ軍が迫ったものの、街自体は連合軍の手にあった。

連合軍はアメリカ兵を仲間に、最後の大反撃を行う(「100日攻勢」1918年8月8日〜11月11日 スタートはアミアンの戦いから停戦まで。100日無いけど...)。
イープル周囲でも9月28日〜10月2日にかけての反撃により、ドイツ軍はかつてないほど押し戻された。最終的に連合軍はイーペルから30km前進している)

ここでドイツ国内で反乱が起きドイツ皇帝は退位、1918年11月11日に第二次世界大戦は停戦(終戦ではない)となる。
そしてついにイープルの街 〜連合軍が手中にしていた唯一のベルギーの大きな町〜 は一度もドイツ軍の手に落ちることは無かった。

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62高地に残されているイギリス軍の塹壕。
ここは1915年5月〜1915年7月までの前線に位置する。
コンクリート製の土嚢で再現したり、地形が埋まりかけている塹壕が多い中、このような形で保存されているのは見事。
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62高地に保存されている、薬きょうと砲弾の山。

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ガスマスクを着用したフランス兵。

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毒ガスと共にガスマスクも進化する。軍馬にもガスマスク。
オーストラリア戦争記念館にて。

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第三次イーペルの戦い(パッシェンデールの戦い)で、泥沼と化した戦場をパッシェンデール村に向かって進み、途中ドイツ軍を捕虜にしたオーストラリア軍のジオラマ。
オーストラリア戦争博物館にて。

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イーペルの中心部、繊維協会建物の横にあるけど、これはイーペルの戦いに限らず、イーペル出身の、ベルギー軍兵士および民間人の第一次世界大戦に於ける犠牲者を追悼するもの。後に第二次世界大戦も加えられた。第三次世界大戦が加わらないことを願うばかりだ。
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聖ジョージ記念教会。
第一次世界大戦が終結(本当は停戦)してから英連邦軍犠牲者追悼の為に建てられたもの。内部も追悼記念の品々で一杯。
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堀に囲まれた城塞都市の入口、メニン門で毎晩8時に行われる「ラストポスト」と呼ばれる追悼式典。
門の内側の壁一面には、イーペルの戦いで行方不明となり、遺体の見つかっていない英連邦軍兵士の名前がびっしりと彫られている。その数は54,395名(これが全てではない。スペースが無くて書き切れなかった分やニュージーランド、ニューファウンドランド兵については別の場所に記録されている。
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おまけ。イープルで有名な猫祭り。3年毎に開催される(写真は2006年撮影)。
パレードがやたらと長い。
最後に、繊維会館の鐘楼から黒猫(の縫いぐるみ)を放り投げる、という何かわけの分からんお祭り。昔は悪魔祓いの為に本物の猫を投げたとか。
しかしお祭り期間中、見かけるのは猫のコスプレと縫いぐるみばっかりで、本物の猫はついに見かけなかった。別にいいんだけど。
猫は嫌いじゃないんですが、やはり犬の方が好き。犬は主人に忠実。表情が豊か。表現がストレート。
猫なんかニャーって寄ってきて、甘えたいのかな?と抱き上げると爪出してたりしますからね。良くわからん。
ちなみにマレーシアのクチン(マレー語、インドネシア語で猫の意味)という町にも行きましたが、ここでも本物の猫は見かけず。猫は皆コタツならぬクーラーの前で寝てるのかな?



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