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第二次アルトワの戦い
Second Battle of Artois

連合軍は1915年5月9日から6月18日まで、戦線を東に進めヴィミーの尾根、そして更にその東のドゥエー平野を支配下に収め、これによりドイツの幹線鉄道を使えなくさせる目的で第二次アルトワの戦いが戦われた。
ちなみに第一次アルトワの戦いは1914年9月〜10月にかけて、海への競争の中で戦われたドイツ軍の攻勢と、守りを固めるフランスの戦い。

第二次アルトワの戦いは、英軍とフランスによる同時作戦で、フランスからは第10軍が参加した。
準備砲撃は1週間前の5月3日から始まり、5月9日の1000時に攻撃を開始、フランス軍はドイツ軍の塹壕を突破し3km東進出来たが、予備が後方に留まり過ぎたこと、最前線のフランス兵には砲兵の援護が届かなかったことなどからまもなく進撃は停滞し、ドイツ軍が反撃を開始した。
戦いはロレットノートルダムの高原で続き、連合軍はカロンシーとアンブレンサンナゼールを確保したものの、ヴィミーの尾根やその東のドゥエー平野は確保出来なかった。
この戦いでフランスは犠牲者数が甚大で10万名、英連邦は1万名程度の損害を出した。そして戦略的に得るものが無かったこの攻撃は失敗だった。
この後、1915年9月15日〜11月4日まで、第三次アルトワの戦い(ロースアルトワ攻勢)により英仏軍によるドゥエー平野の確保を目指したがこれも失敗。
結局ヴィミーの尾根とドゥエー平野のコントロールには2年近く後になって、カナダ軍の活躍を待たなければならなかった。


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丘の上の納骨堂と墓地
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手前はユダヤ教徒の墓。その奥はアラブの植民地兵の墓。
宗教によって墓標の形が異なる。

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墓地横の博物館の敷地には当時のドイツ軍と連合軍の塹壕が保存されている。
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アンブレンサンナゼールの、破壊された教会
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