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ヴェルダンの戦い
Battle of Verdun

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ドイツ軍の攻撃目標、ヴェルダンの街。
ミューズ河沿いのこの町は、シャンパーニュ平野への入り口、ということで古くから防衛の要所だった。
入り口ゲート 49 9 43 N 5 23 12 E

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ヴェルダンの町入り口横にある記念碑
49 9 44 N 5 23 17 E

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上の記念碑から通りを挟んで反対側にある、サライユ将軍の像
49 09 43 N 5 23 18 E
第一次世界大戦開戦時にアルデンヌ〜ヴェルダンを担当した第3軍を指揮し、ヴェルダン手前でドイツ軍を食い止めた。
その後サライユ将軍はマケドニア戦線に転戦し、いわゆるヴェルダンの戦いの時には不在だった。
しかしドイツ大っきらいな陰湿国家フランスとしては、まさかヴェルダン攻防戦の英雄、ペタン元帥の像を残すわけにも行かず、しょうがなく今一パッとしないサライユ将軍の像がヴェルダンの入口にあるのだろう。


ヴェルダンの町の中央には、ボーヴァンが17世紀に建築した城砦がある。
その後19世紀末に、町中心部から半径8km程度の円周上に18個の要塞を多大な費用をかけて建設した。
更に20世紀初頭に特に北、東に位置する要塞は補強増強された。


1914年に第一次世界大戦が勃発、西部戦線は途端に塹壕戦による膠着状態となり、ドイツ軍にとってパリ進撃は夢となりつつあった。
フランス軍が確保しているヴェルダン地区は、戦線が突出するようにドイツ軍側に食い込んでいた。
ドイツ軍参謀総長のファイルケンハインは戦後の回顧の中でこう言っている:
「当時、大攻勢は無理でも、フランス軍に甚大な損害を与え続ければフランスを負かすことが出来ると思った。
フランス軍が戦略的にも国民のプライドにかけてでも退却出来ないような場所を攻撃するべきと思った。」
そうして選ばれたのがヴェルダン、という訳である。
ただしこの説には疑問もある。最初からその狙いだったのだろうか?単に(ベルギーのリエージュやナミュールの要塞攻略成功に気を良くして)要塞で固められたヴェルダンを攻撃したが、予想外の長期戦と自軍の損害の言い訳を戦後になって言ったのではないか?
とにかく、ドイツ軍はヴェルダンに全面的な攻勢をかけることを決定した。


フランス側は焦っていた。
ベルギーのリエージュやナミュールの要塞がドイツ軍の用意した超重砲に簡単に陥落してしまったのを教訓に、1915年8月以降、ヴェルダン要塞は無用と見なされ、砲や弾薬の半分が持ち出され、ドーモンやヴォーなど一部の要塞は用廃にして爆破の準備をしていた。
要塞には合わせて300門の砲しかなく、兵員も保守要員を中心にしたものになっていた。
フランスの情報部が、ドイツ側のヴェルダン攻撃準備を察知すると、フランスは急遽この地区の増強にかかったが、ヴェルダン戦が始まる時点でドイツ軍72大隊、砲1400門に対しフランス軍は34大隊、砲300問という兵力差があった。


ヴェルダンの戦いは1916年2月21日朝に、10時間に渡る砲撃で幕を開けた。
続いて歩兵部隊が突撃を開始し、翌日には5km程前進していた。
24日にはドーモン堡塁を約100名からなるドイツ軍の襲撃隊が襲い、双方発砲しないままフランスの保守点検部隊は降伏した。
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ドゥーモン堡塁
ヴェルダン周辺の要塞郡の中でも最大で、かつ最も高地にあった。
49 13 1 N 5 26 20 E

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ドゥーモンの集落跡
1914年には288人の住人が住んでいたが、激戦により跡形も無く消滅した。
そこに家があったことを示すポールだけが残っている。
49 13 12 N 5 25 53 E

当時フランス陸軍大尉だったシャルルドゴールは、1916年3月2日、ドゥーモンの戦い
でドイツ軍の攻撃を受け負傷し捕虜となり、3年近くドイツ軍の捕虜となった。

ヴェルダン地区の司令官にペタンが任命された。ペタンは直ちに防衛線を設定し、堡塁の増強にとりかかった。
フランス軍の立て直された防衛や、降り積もる雪と溶け出した泥濘により、また、ヴェルダンの町に近づくにつれフランス軍の砲撃レンジに入るようになり、ドイツ軍の進撃は遅くなった。

ドイツ軍は正面からの攻撃が進展しないと悟り、3月になってからは左右側面から町を攻めることにした。
モールオムの丘と、304高地などが集中砲火を受け、地形がすっかり変わってしまった。
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モールオム(死んだ男)の丘
ILS NONT PAS PASSEは、ニヴィルが述べた言葉で「奴らを通すべからず」
フランス軍の大砲陣地があり観測にも適していた為ドイツ軍から集中砲火を受け、ドイツ軍に占領された。
「死んだ男の丘」はいかにも戦場っぽい地名だが、名前の由来は戦争に関係なく、山に入って行方不明になった男に由来するという。
49 13 41 N 5 15 4 E
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304高地
49 13 31 N 5 12 26 E

5月22日に、フランス軍はドーモン堡塁を奪還すべく攻撃。
フランス軍は堡塁の主要構造物を半日程確保出来たが、結局堡塁を奪還出来なかった。

ドイツ軍の攻撃の主力は今度はフランス軍右翼の、ヴォー堡塁に集まってきた。
6月1日にドイツ軍が1万の兵力を持って攻撃し、翌2日に堡塁上部を占領したが堡塁の中は相変わらずフランス軍が占めていた。
堡塁内をドイツ軍は一部屋ごとに攻略し、ついに6月7日、飲料水の無くなった守備軍は降伏した。
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ヴォー堡塁。猛烈な攻撃を受けた為、外部は原型を留めないほど破壊されているが、内部は全然くずれていない。
当時堡塁の武装は殆ど外されており、75mm砲は戦後に展示の為に再度装備したもの。
49 12 2 N 5 28 12 E
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ヴォー堡塁に保存されている、フランス軍守備隊が放った、救援を求める望みを託した最後の一羽の伝書鳩の剥製。
鳩は何とかフランス側に到着して力尽きて死んだ。また、援軍を送るにも時既に遅かった。
鳩には勲章が与えられた。

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ヴェルダンの戦いとは関係ないが、
ヴォー堡塁近くにある第二次世界大戦中のレジスタンスの記念碑
ヨーロッパで戦跡巡りをしていると、第二次世界大戦と第一次世界大戦双方の戦跡が混在している場所があり、2度も大戦争をしてしまった事をあらためて感じさせられる。
49 11 20 N 5 27 36 E

いよいよドイツ軍はミューズ川右岸から、ヴェルダンの町に向かって進撃することになった。
6月21日、フルーリーの廃墟を占領した
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フルーリーの集落は当時、占領者がドイツ←→フランスと、16回も変わった。
戦闘に巻き込まれ現在は跡形もない。
住民は他所に避難し、町があり生活があった場所は砲弾により地形が変わってしまい、げんざいはそこにどんな建物があったを示す説明板があるのみである。
ここはカフェと食料品店。
場所はヴェルダンメモリアル博物館のすぐ隣。
49 11 47 N 5 25 48 E

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フロワテデール堡塁
小規模な堡塁。1916年6月22日の砲撃の後、翌日ドイツ軍が占領すべく屋根の上までやってきたが結局退却。
大して破壊されていない状態で残っている。
内部は廃墟で特に制限なく入れるが、照明が無いので深入りは出来ない。
49 11 53 N 5 24 14 E

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4本の煙突、と言われる場所。
フロワテデール堡塁のすぐ近く。
実際には煙突ではなく通風口。
10m下に連隊司令部と兵舎が置かれた。
ドイツ軍はここに1916年6月23日に到達し、この通風口から手りゅう弾を投げ落としたが、結局反撃にあって退却した。
49 11 58 N 5 24 42 E

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地下壕の病院への入り口
49 10 60 N 5 27 22 E

しかし、ヴェルダンの町に向かって下るには、最後の障壁であるスーヴィル堡塁を攻略しなければならない。
既に堡塁の上層階はドイツ軍の砲撃により破壊していたが、最深部の回廊は残っていた。
要塞攻略の為、7月10日、まず敵砲兵に向け毒ガスを散布したがフランス軍はガスマスクを備えていて無事だった。
スーヴィルの堡塁には砲弾30万発が襲いかかった。
そして歩兵が突撃を敢行したが、堡塁へ通じる通路に兵があふれ返った所にフランスの砲弾が注いだ。
なおも堡塁に迫るドイツ兵には、廃墟から出てきたフランス兵が機銃で応戦した。
7月12日に少数のドイツ兵が堡塁本体の天井部に到達した。そこからは最終目標であるヴェルダンの町も見えた。
しかしそれもつかの間、フランス軍の砲撃と手りゅう弾での反撃に押されて退却したり降伏したりした。
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ドイツ軍の攻勢を撃退出来たスーヴィル堡塁。激しい砲撃や1930年代の植林により写真の区画を除き殆ど残っていない。
クレーター、不発弾、廃墟など現在も危険が残る場所だ。
49 11 7 N 5 26 13 E

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スーヴィル堡塁の近くにある機銃陣地のトーチカ。構造の大部分は地下にある。地下通路でスーヴィル堡塁本体とつながっているのだろうか。
49 11 20 N 5 26 32 E


連合軍は、ドイツ軍の兵力をヴェルダンに集中させない目的もあり7月に北部のソンムで攻勢に出た。
これによりドイツ軍は砲兵の一部を北部に移動させなければならなかった。
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ヴェルダンメモリアルの博物館にて。開戦初期のフランス兵とドイツ兵。
特にフランス兵はカモフラージュという概念が全く無いのか、とても戦闘服とは思えない。

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フランス軍のヴェルダン地区への兵員と物資補給は、鉄道が破壊されていたためトラックにて行われた。
当時としては史上最大のトラック輸送ルートの確立であり、ヴェルダンに続く1本道路は「聖なる道」と呼ばれた。
写真は当時輸送に使われたトラック。

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地上戦、特に砲撃戦が主流だったヴェルダンの戦いであるが、
はじめて航空機が戦略的に大量投入されたことも特筆すべきである。
ドイツ軍は既に時代遅れになっていたフォッカーアインデッカーだが、
フランス側はニューポール11を投入し、ドイツ軍に対し優位に立った。


フランス軍は10月に、ドゥーモン堡塁を奪取すべく、反撃を行った。
大規模な準備砲撃は6日間続き、400mm列車砲の砲弾も着弾した。砲撃に耐えられなくなったドイツ軍は堡塁を放棄し、ドゥーモン堡塁は10月24日にフランスの海歩兵隊と植民地兵が奪還した。
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ドゥーモン堡塁をフランスが再び確保してから付近に設けた塹壕線。これはロンドンコミュニケーション塹壕と呼ばれていた。

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ドイツ軍の進撃を食い止めた場所を示す、死に行くライオンの像
49 11 31 N 5 26 16 E

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横たわるフランス兵の像。
49 12 29 N 5 25 41 E

ヴォー堡塁も400mm列車砲の攻撃を受け、11月2日にドイツ軍は堡塁から撤退した。
12月15日にはさらに大規模かつ広範囲な反撃が行われ、1日半の内に捕虜1万1千名を捕らえた。
これでいわゆるヴェルダンの戦いは終わった。
翌1917年8月にはオムの丘と304高地を反撃により奪還し、ドイツ軍が作った前線と銃後を結ぶ大規模なトンネルシステムもフランス軍の手に落ちた。
結局、この地区での小競り合いは第一実世界大戦の終戦まで続いた。

ヴェルダンの戦いはドイツ側死者14万、フランス側死者16万を数え、負傷者は双方合わせて40〜70万名とみられる。

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フランス軍の墓地と、犠牲者の納骨堂。
建物の床下には身元不明の兵士の亡骸がおかれている。
49 12 30 N 5 25 25 E

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身元不明の兵士の亡骸

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納骨堂の塔からの眺め。
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墓地にはアラブ系の植民地兵も埋葬されており、
イスラム教徒が祈りをささげるモスクも墓地横にある。
49 12 32 N 5 25 41 E
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納骨堂と墓地の向かいにある、「壕320」の通風口
49 12 22 N 5 25 36 E
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Fort Thiaumont ティオモン堡塁  
49.206706,5.420058 49 12 24 N 5 25 12 E
納骨堂の南西にある小規模な堡塁。420mm砲の攻撃を受け、残骸しか残っていない。

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銃剣の塹壕と呼ばれる場所。フランス軍の塹壕が崩れ、兵士が生き埋めになった場所をそのまま墓にしている。
49 12 51 N 5 25 32 E

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ヴェルダンの町から東に出た所に有る墓地には5000名のフランス兵が埋葬されてい
る。
写真左の大きな十字架は墓地中央に位置するもので、この十字架の周りには現在7名
の無名兵士が眠っている。
ヴェルダンの戦場跡の様々な場所から8名の身元不明の遺体が選ばれ、更にその内の1
名が1920年11月10日に列車でヴェルダンの駅を出発しパリに向かった。
翌日の停戦記念2周年の日にパリ凱旋門の下に、フランスの無名兵士の代表として安
置され、永遠の炎が灯された。
そして残りの7名がここの十字架の周りに埋葬されている。
49 9 57 N 5 24 18 E

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こちらは、そのヴェルダンから運ばれた無名兵士が眠るパリの凱旋門
48 52 26 N 2 17 42 E

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早朝、人気のないブラ シュル ムーズのフランス兵墓地。
49 12 26 N 5 22 33 E

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マジノが負傷した場所
49 11 12 N 5 25 54 E
第一次世界大戦の開戦時、マジノは政治家で下院の陸軍次官だったが、前線勤務を志願し、兵卒からスタートした。
ヴェルダン戦当時軍曹だったマジノは1916年11月9日にここで脚を負傷したが前線に留まり、夜になって兵2名に伴われて野戦病院に向かった。
戦後は再び政治家となり、伸び悩む人口と対ドイツ防衛の必要性から、ドイツ〜フランス国境線沿いに要塞線の建設を提唱する。いわゆるマジノ線の生みの親。
ペタン、ドゴール、マジノといった、その後の第二次世界大戦のフランスの運命を司る者が皆ヴェルダンの戦いに関与していたのも興味深い。

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ヴェルダンメモリアル博物館前に置かれた各種砲
49 11 42 N 5 26 0 E
ヴェルダンの戦いは砲撃戦が主体だが、要塞の攻略と奪還が注目され要塞戦と誤解されてしまった。
実際には要塞の放った砲弾は全体のごく一部である。
リエージュ陥落などの経験から既に要塞は時代遅れとされながら、ヴェルダン戦により再び見直されることになり、
これが、ひいてはフランスをマジノ線建設に向かわせることになる。

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ヴェルダン街中にある戦争の記念碑
49 9 41 N 5 23 2 E

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おまけ その1
ヴェルダン名物のお菓子
アーモンド片に甘いコーティングを施している。
結構おいしい。
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おまけ その2
第一次世界大戦でのヴェルダンの英雄、ペタンは、第二次世界大戦でナチスドイツに敗れたフランスにヴィシー政権を樹立し、「おフランス健在」をアピールしたが中身はバリバリの傀儡政権だった。
英雄か国家の裏切者か。その評価は現在も確定していないと言っていい。




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