50 0 14 N 2 38 53 E 前線に近い為ドイツ軍の砲弾が着弾し、町はかなり破壊されていた。 町の中央にはノートルダムブレビエール教会があり、キリストを ソンム攻勢の始まる1年半ほど前の1915年1月、ドイツ軍の砲撃により像は傾き、かろうじて落ちずにいた。 手前の壁画はその時の様子を描いたもの。 ソンム戦に向かう兵の多くがこの像を見た。壕からも、ドイツ軍側からも見えた。 英軍は「金の聖母」「前かがみの聖母」と呼んでいたが、英連邦オーストラリア軍は「ファニーデュラック」と呼んでいた。 これはオーストラリアの女性水泳選手(1912年ストックホルムオリンピック水泳100m自由形で金メダル)の名で、まるで彼女が水に飛び込む姿の様だから。 いつしか、英軍の間では「像を落としたら戦争が終わる」(ここで戦争が終わるとドイツ軍の進撃を許したままなので困る) 一方のドイツ軍は「像を落とした方が戦争に負ける」(負けたら困る) というジンクスが広まり、双方とも像を落とさないようにした。 ソンム戦が終わった翌年1918年3月、春の大攻勢によりドイツ軍がアルベールを占領した。 翌月、教会の塔を観測所として使われるのを恐れた英軍は教会を砲撃し、像が落ちてしまった。 ジンクスは外れた(戦争はその後100日攻勢を経て停戦するまで続き、結局英国は戦勝国になった)。 戦後、町は区画整理され再建され、教会と像は元通りに復元された。 |
しかし時を同じくして南方でドイツ軍によるヴェルダン攻勢が始まり、フランス軍はそちらに人員物資を割くことになり、ソンム戦におけるフランスの兵員は減らされた。 そしてヴェルダン戦の激化と共に、ソンム攻勢を計画する意義が、ドイツ軍に対する決戦的な攻撃から、ソンムでのドイツ軍の勢力を和らげることに変わっていった。 長い準備期間を経て攻撃用意が整い、まず準備砲撃が行われた。 砲撃により敵塹壕をつぶし、敵の戦意を削ぎ、有刺鉄線を寸断するためである。 準備砲撃は7日間続き、150万発以上の砲が英軍により発射された。 英国の海外派遣郡(BEF)にとって最初の大規模な攻勢となるソムの戦いは、1916年7月1日に始まった。 朝の07:20から、10箇所で坑道に仕掛けられた爆雷が爆発した。 |
|
敵陣の下まで長いトンネルを掘り、大量の爆薬を仕掛けて敵の塹壕を破壊したり、進撃する友軍が使える壕を出現させる。 あるいは敵塹壕の指揮所までトンネルを掘り、敵の会話を盗聴する、といったことも行われた。 アルベールにある塹壕の博物館にて。 |
ここでは27トンの爆薬が炸裂した。 奥にいる人と比べるとその巨大さが判る。 場所はラ ボワセルの南東 50 0 56 N 2 41 50 E |
英軍は、補給が追いつかないのを見越して各兵に30Kgを超える装備を持たせた。 すなわち、小銃、弾薬、銃剣、手りゅう弾2個、食料、塹壕堀りの道具、土嚢袋、ワイヤーカッター、信号弾などである。 このため突撃のような素早い歩行は出来なかった。 ドイツ軍の塹壕の作りはしっかりしており、兵は地下にかくれ大した被害を受けなかった。 そうしてドイツ軍は準備砲撃に耐え、砲撃が止むと英軍の突撃に備えて配置についた。 ゆっくりと、横一列になって向かってくる英軍に対し容赦ない砲撃と機銃掃射がはじまった。 英軍はあちらこちらでバタバタとなぎ倒された。 有刺鉄線も砲撃により切られるどころか、かえってこんがらがり突破を困難にしていた。 |
将校の多くは貴族出身で教養があり、この将校の様にフランス語の新聞が読める者も居た。 |
当時英軍は徴兵制を布いておらず、1914〜15年の戦闘の消耗を穴埋めすべく、ニューアーミーの志願兵を募っていた。 パル(pal)とは仲間の意味で、職場や地域のコミュニティーで誘い合って志願してきた仲間を集めた部隊だった。 同師団はセールを攻略したが反撃に合い、結局撤退し死傷者・捕虜4000名近くを出した。 |
ドイツ軍はしっかりした塹壕で砲撃を生き延び、前進してくる英軍を迎え撃った。 50 6 22 N 2 39 24 E |
50 6 22 N 2 39 20 E このようなこじんまりとした英連邦軍の墓地はソンム古戦場の至る所にある。 |
ホースロンクレーターで24トンの爆雷が爆破されるとドイツ軍は攻撃があることを知り待ち構えた。 突撃を開始した第29師団は無人地帯を進撃中に次々と機銃の餌食になり、敵塹壕に全くたどり着けなかった。 その後第一ニューファンドランド連隊が投入された。 予備壕にいたニューファンドランド連隊は、前線壕への道が死傷者で塞がれているため、予備壕から飛び出して進撃を開始した。 |
|
同連隊の紋章になっているカリブーの記念碑と、英連邦側の前線壕。 戦場付近はニューファウンドランド公園としてカナダに寄贈され、英連邦軍、ドイツ軍の塹壕が保存されている。 また、公園内には英軍墓地や記念碑もあるが、不発弾が残り立ち入りできない場所もある。 50 4 26 N 2 38 54 E |
自軍の前線壕にさえたどりつかない内に損害を出し、英軍の有刺鉄線の切れ間を抜けて前進しようとしてドイツ軍の集中砲火を浴びることになる。 それを生き延びた兵は、荒れた地に立ち残っている木の方を目指した。 |
デンジャーツリー(危険の木)と呼ばれる立ち枯れした木。 この周りに不発弾が多数あり、Dangerの看板が林立したことからこう呼ばれるようになった。 羊の集まるあたりにドイツ軍の塹壕がある。 |
実は前の日に同連隊の斥候が「有刺鉄線は破壊されていない」と報告しているが、上層部は「突撃したくないので嘘を言っているのだろう」と報告を無視した。 攻撃は失敗し退却、この日、ニューファンドランド連隊の9割にあたる700名近くが犠牲になった。 ニューファンドランドはカナダの東方にある島国で、当時は英連邦だった。 その後英国の植民地を経てカナダの一州となった。 |
ニューファウンドランド公園内だが不発弾が残る為立ち入りできない。 |
|
準備砲撃が止むと同時に突撃し、ドイツ軍の前線壕と予備壕を確保したが、無人地帯にドイツ軍の砲撃が始まると補充が困難となり、夜には撤退を開始した。 |
|
これは北アイルランドにある、部隊が訓練した地にある塔のコピー。 50 3 40 N 2 40 49 E |
フリクール、マメ、モントルバン一帯では多大な犠牲を出しながらも、ある程度前進することが出来た。 この地区のドイツ軍の守りは弱く、一方の英軍はニューアーミーでありながら良く訓練されていた。 更に、右翼に位置するフランス軍の援護砲撃を受けることが出来た。 こうして、作戦初日の英軍は、有史以来の多大な犠牲を出しながら殆ど得るものがない、という結果になった。 一方ソンム川沿い及びその南のフランス軍は順調に進撃し、特にソンム川の南では予定以上の前線前進を果たした。 ソンム川北側の進撃については、実はもっと進撃出来たが英軍がモントルバン止まりだったので前進を停めたという。 作戦初日の英軍は、一日の損害としては史上最多のとなる、死者2万名を含む6万名の犠牲を出した。 一方のフランス軍の損失は初日で7000名、ドイツ軍1万名といわれる。 |
記念碑には英軍行方不明者の名が刻まれている。 墓地は手前は英軍、奥はフランス軍。ただしティプヴァル近辺は英軍の担当区域である。 50 3 2 N 2 41 8 E |
|
ゴールを決める(敵陣に到達する)ことなく敵の銃撃の前に倒れたという。当たり前か... |
その後に続く戦いで英軍は序所に戦線を北東に進めることが出来た。 しかし、初日ほどではないにせよ、相変わらず損害も大きかった。 一方、フランス軍は英軍の進行に合わせるように進撃し、損害も英軍ほどは多くなかった。 |
|
写真はコンタルメゾンにあるマックレー大隊の記念碑。 マックレー大隊は英国スコットランドのエジンブラに本拠地を置くサッカークラブの選手、ファンが中心となった大隊。 ソンム戦初日だけで選手を含む200名以上が戦死し、結局コンタルメゾンの村を占領したのは10日目だった。 同大隊の記念碑を作る話は1920年代からあったが、実現したのは何と戦いから90年以上を経た2004年。 ソンムに数ある記念碑の中でも最も新しいのものの一つ。 石はスコットランドから持ってきている。 50 1 21 N 2 43 47 E |
第一次世界大戦でオーストラリア軍が出した最大の損害はガリポリ上陸作戦での死者7600名を含む犠牲者26000名だが、これと並ぶ損害の大きさだ。 しかもガリポリ戦は1915年4月〜12月までの8ヶ月間だったのに対し、ポジエール近郊の戦いは1.5ヶ月である。 アメリカ合衆国同様にオーストラリアは歴史の浅い国だが、歴史が浅い分歴史を記録するのが熱心で、随所にANZAC記念公園があり、首都キャンベラにある無名兵士の墓にはポジエール地区の土が撒かれている。 |
|
16 55 22 S 145 46 45 E 第一次世界大戦でのオーストラリア軍の参戦と犠牲を記憶に留めるべくモニュメントが置かれている。 片側のつばが折れた帽子はオーストラリア軍のトレードマークで、現在もパレードなどで見られる。 |
ここ一帯で7月23日から9月5日までの間オーストラリア軍が北方への攻撃を行った。 手前は、戦車の記念碑。 50 2 41 N 2 44 11 E ソンム戦は戦車が始めて使われた戦場で、3箇所で作戦に参加した。 すなわちロンギュヴァル近郊のデルビルの森で最初に使われ、次にフレール、クレスレットの攻撃に使われた。 ポジエール近郊を出発した戦車はクレスレット方面に進撃した。 |
全滅したと思われていた、33名配置のこの場所では、負傷した4名が、敵を撃退して3日間持ちこたえて生き残った。 オーストラリア戦争記念館のジオラマ。 戦闘のあった付近の座標は50 3 5 N 2 42 46 E |
50 2 52 N 2 45 30 E |
50 1 36 N 2 48 45 E |
ソンムの攻勢は、冬が到来し進撃が困難になるまで続いた。 すなわち、1914年11月18日に、4ヶ月半つづいた戦いは終わった。 結局戦線の突破はならず、10km程度の前線の東進と引き替えに、英連邦は42万(内死者行方不明10万)、フランス軍は20万(内死者行方不明5万)を失った。 一方、ドイツ軍は犠牲者47万(内死者行方不明は16万、捕虜3万)と言われる。 双方とも多くの地を流し、戦線に大きな影響は無かった。 ドイツ軍は翌年ヒンデンブルグ線まで後退した。 そして、1918年には春の大攻勢により、連合軍があれほど苦労して得た土地はあっけなくドイツ軍に制圧されてしまった。 |
50 0 16 N 2 42 54 E 赤い男爵(レッドバロン)として有名なリヒトホーフェン男爵もここに埋葬されたが、後に親族が本国に埋葬し直した。 |
この場所はオーストラリア軍の管理地域で、伝説の撃墜王の乗っていた機体にはたちまち兵が群がり、機体はバラバラにされ記念に持ち去られたという。 写真は、オーストラリアのメルボルン近郊、ムーラビン飛行場隣接の航空博物館に展示されているフォッカーDR.1戦闘機の燃料タンク。黄銅製という。1980年代に寄贈されたものだが関係者不明。 これが撃墜されたリヒトホーフェン機のものではないか?と言われているが真相は不明。 ちなみにこの文章を追記しながら気づいたのだが、本日2018年4月21日はリヒトホーフェンの命日100周年だ。 |