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前線壕は英軍(手前)とドイツ軍(奥の森の手前)との距離が妙に近いのが印象的。 50 22 18 N 2 46 17 E |
ドイツ軍は第一次世界大戦初期の、海への競争(Race to the sea)の時に尾根を確保していた。 フランス軍は1914,1915年に激戦を通じて少しづつ戦線を東に広げることに成功したが、ヴィミーの尾根を奪取することは出来ず、ドイツ軍は防衛をより強固なものにしていった。 1916年2月、フランス軍に代わってBEF(英国大陸派遣軍)がこの地区に配属された。 同年5月、ドイツ軍は尾根の東側(英軍からは見えない)からの砲撃を援護に前進し、英軍の作った坑道もドイツの手に落ちてしまった。 BEF軍に代わってカナダ軍がこの地区に就いたのは1916年10月のこと。 翌年4月に大規模な攻撃が予定されており、その一部としてヴィミーの尾根の占領準備が進められた。 計画では6.4km幅の前線で、小口径砲による砲撃を行い、砲撃の目標を少しづつ前進させながら、その直後を兵が前進する。 これにより尾根の占領をめざす。 中、大口径砲はさらに深い所を砲撃し敵を予め無力化させておく。 予定通りに行けば攻撃初日の昼過ぎには尾根全体を占領できる。 作戦は慎重に計画され、似た地形を利用して攻撃の練習が行われた。 一方、地下では坑道戦が行われ、ドイツ軍防衛拠点の下に爆雷を仕掛けたり、特殊な爆雷により攻撃が始まった場合、無人地帯に横長の穴を明けて壕に利用出来る様に準備された。 準備砲撃は3月20日から始まり、ドイツ軍は2週間に渡る連続砲撃のため塹壕の多くが破壊、食料配布も困難になり、志気は大いに低下した。 全ての準備砲撃がほんの短い間止んだ。これは総攻撃に備えて全砲が装てんを一斉に行い待機したからであった。 1917年4月9日朝5:30、英軍と砲兵の援護を受けたカナダ軍の全4師団がヴィミーの丘に総攻撃をかけた。 一斉砲撃が始まり、この時のために地中に埋めた爆雷が炸裂した。 軽砲による着弾は、およそ3分毎に90メートル前進し、その直後を歩兵が進撃した 。中、重砲は事前偵察で判っている拠点を中心に砲撃を行った。 息の合った砲撃と進撃のタイミングが功を奏し、同日午後には目標の大部分を占領し、145高地は翌日確保することが出来た。 そして4月12日には「吹き出物」(Pimple)と呼ばれた頑強に防衛された小丘も確保、尾根は完全に連合軍のものになった。 この頃の作戦としては珍しく迅速な進出と成果が得られた。 カナダ軍の犠牲は死者4千、負傷者7千名。 ドイツ軍の死傷者は不明だが4千名が捕虜になっている。 この成功によりカナダは国際的地位の向上を果たすことが出来た。 このヴィミー尾根の占領は英連邦軍によるアラスの戦い(Battle of Arras) の一部で、さらにこのアラスの戦いは翌週のニヴェル攻勢の前哨戦である。 すなわち、アラス地区でドイツ軍が防衛に兵力を裂いている隙に、南東部のエーヌでフランス軍の総攻撃を行い戦線を48時間以内に突破し、こう着状態を打破しようというもの。 しかし結果としてフランス軍だけで10万を優に超える損害を出し、前線突破は成らず、連合軍の惨敗に終わり、計画立案者のニヴェルは更迭された。 |
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現クロアチアにある、ローマ時代の石切り場から運んできた白い大理石を用い、11年の歳月をかけて作った記念碑であるが、北フランスの気候には合わなかったのか損傷が激しく、2005年〜2007年までの間全面的に修復を必用とした。 50 22 46 N 2 46 26 E |
ここからは東方向に広がる平野が何10kmも見渡せるので砲撃観測に最適で、一旦 この尾根を確保されたドイツ軍ははるか東に撤退を余儀なくされ、尾根の東側は 急斜面になっているので尾根の再占領が極めて難しくなる。 撮影場所は 50 22 46 N 2 46 26 E 炭鉱を掘ったときに出た盛土の山は 50 26 39 N 2 46 50 E |
50 21 00 N 2 44 48 E |
50 22 39 N 2 45 49 E |
埋葬されているされている人の殆どはヴィミーの尾根の戦い初日に戦死したカナダ兵。 50 21 17 N 2 46 41 E |
50 20 33 N 2 45 14 E |