全長8m、全幅3.9m、武装6ポンド砲×2、乗員8名、最高速度約6Km/Hr、最大装甲厚さ12mm、重量28トン 第二次世界大戦で使われた戦車や航空機の現存でさえも、その殆どが塗り直されているが、この第一次世界大戦期の戦車の塗装は何とオリジナル。 赤白のストライプは英軍の識別標識 |
攻略目標は交通の要所であるカンブレで、戦車を大量投入して戦線を突破しようと試みた。 奇襲効果を狙い準備砲撃は行わなかった。 1918年11月20日のAM0620時に攻撃が始まった。 1000門の砲が戦車部隊の前方300mに発煙弾や砲弾、毒ガス弾を落とし、400輌近いMk.W戦車が進撃を開始した。 そして、その後に歩兵が続いた。 戦車の進撃と共に砲の着弾も前進した。 イギリス軍は塹壕、トーチカを次々と攻略し、ドイツが突破不可能と豪語したヒンデンブルグ線は戦車と歩兵の協同作戦により破られることが証明された。 作戦初日に英軍は最大7km前進したが戦車の半分に相当する180輌が被弾、故障や壕にスタックし動けなくなった。 初日の英軍側死傷者は4000名程度で、前進できた距離を考えると少ない損害である。 ドイツ軍が頑固に抵抗していたフレスエキエールの集落でも、夜になってドイツ軍が撤退した。 作戦初日はまずまずの成果であったが、翌日から進撃は鈍りだした。 一気に進撃したこともあり予備兵力が間に合わず、ドイツ軍の抵抗や反撃も強くなった。 作戦開始後一週間経た27日の時点で幅11km,奥行き10kmの突出部を作った。しかし、カンブレー中心まではまだ3km以上あった。 英軍の進撃はここまでだった。 1917年11月30日、今度はドイツ軍が総反撃を開始した。 ドイツ軍は20師団を用意し、浸透戦術により英軍の陣地を次々と突破した。 ドイツ軍の反撃により、戦線北部では英軍が5km程度後退したもののヒンデンブルグ線の一部は英軍が確保したままとなった。 しかし南部ではドイツ軍が大きく前進し、ヒンデンブルグ線を取り戻しただけでなく、カンブレ戦開始時点の地点よりも西まで戦線が動いた。 こうして1917年12月8日、カンブレーの戦いは終了した。 カンブレーの戦いを通じた戦死者は、英側4万4千、ドイツ軍も同程度と言われる。 戦略的な意味、領地の確保という意味では双方引き分けに終わったが、戦車により塹壕が突破できること、 バックアップの部隊がいなければ占領地の保持が難しいこと、浸透戦術の有効性などが貴重な教訓になった。 |
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周囲の戦況を説明するパネルもある。 50 7 11 N 3 7 21 E |
解説板が無いので良く判らないが、戦車が通った道だろうか? 奥から手前にかけて進撃してきたということで方角は合っていそう。 |
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モンス、アラスなど第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦場が同じ、ということは良くあるが、こんな小さな村に3つも記念碑があるとは... 50 7 26 N 3 6 57 E (座標は余り正確では無いかも) |
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墓石には、兵科である戦車のエンブレムが描かれている。 50 7 30 N 3 7 30 E |
この手の墓地としては比較的小規模なもの。 50 8 12 N 3 0 54 E |
ドイツ軍はここに機銃陣地を構えて応戦した。 第一次世界大戦で破壊された為再建し、その後第二次世界大戦でも破壊された為再度立て直したという根性の城。 昔の設計を踏襲するのがヨーロッパ流。 50 6 33 N 3 5 6 E |