100日攻勢(大攻勢)
100 days offensive

第一次世界大戦における西部戦線は、1914年以降戦線が長らく膠着していたが1918年に入りドイツ及び中央同盟国がロシアと講和を結んだことから、東部戦線の兵力を西に引き充てることができるようになった。

1918年3月からカイザー戦が始まるとともに、ヒンデンブルグ線から出たドイツ軍は、英仏軍の塹壕線を突破し一気に前進し、一時はパリまで120kmの地点まで到達した。

しかしドイツ軍の進撃はここまでだった。
英仏連合軍が戦線を再構築し戦線が再び膠着、ドイツの形成は段々と不利になっていった。

1918年7月15日から行われた第二次マルヌ会戦がドイツ軍最後の攻勢となり、これは失敗に終わった。
連合軍は早速7月18日から反撃に転じ、第二次マルヌ会戦は8月6日に終わった。

1918年8月8日に連合軍はアミアンで戦車を大量に投入してドイツ軍に攻撃を仕掛け、その日の内に大勝利を収め、ルーデンドルフにとっては「ドイツ陸軍の暗黒日」となった。

8月21日にはソンムで連合軍の攻勢が始まり、続くいくつもの攻撃により、ドイツ軍は1918年9月2日にはヒンデンブルグ線のあたりまで押し戻された。

1918年9月26日からはミューズアルゴンヌ攻勢が始まった。
これはヴェルダン西方から北に向かい、ヒンデンブルグ線を突破してセダンの攻略を目指すもの。
フランス軍とアメリカ軍による攻勢で、アメリカ軍にとっては第一次世界大戦における最大規模の戦いとなった。

しかし要所であるモンフォコンの攻略に米軍は手こずり、フランス軍に比べ進撃は遅かった。

10月末に米軍は15km前進しアルゴンヌの森を制覇したのに比べ、フランスは30km前進し、エーヌ川に到達していた。

同様にサンカンタン運河の戦い、第5次イープル戦、カンブレ戦などによりヒンデンブルグ線が随所で突破された。

ドイツ軍は多大な損害をこうむると共に戦意が低下していき、やがてキールでの水兵の反乱をきっかけとしたドイツ革命が起こり皇帝は退位、1918年11月11日に第一次世界大戦は休戦となった。

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ドイツ軍が強固に抵抗した激戦地、モンフォコンの丘の上にある、破壊された教会。
49 16 22 N 5 8 30 E

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モンフォコンにあるミューズアルゴンヌの米兵墓地。
墓標の日付1918年9月26日はミューズアルゴンヌ攻勢の初日。
アメリカ兵の墓地というと映画プライベートライアンにも登場した、オマハビーチ沿い(約9千人埋葬されている)が有名だが、ここミューズアルゴンヌの方が規模が大きく、1万4千人以上が眠っていて海外にある米兵墓地としては最大。
49 19 58 N 5 5 37 E

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ブランモン(白い山)と言われる丘。
砲撃観測に適した丘を占拠するドイツ軍には、フランス第4軍傘下のアメリカ海兵隊
がしきりに攻撃を仕掛け、激戦の末に占拠した。
丘の上にはアメリカ軍の記念碑が建ち、四方に展望が開ける。
49 17 3 N 4 32 10 E

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スダン近郊、ミューズ川沿い(西岸)にある米軍第一歩兵師団の記念碑。
第一次世界大戦の停戦間際に米軍がここまで進出したことを記念するもの。
緑の木の後ろにチラッと見えているのがミューズ川。
実はこの場所、1940年の電撃戦でアルデンヌの森を抜けたドイツ軍が渡河した場所と殆ど同じだったりする。
49 40 26 N 4 56 50 E
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こちらは英連邦の管轄区。
カンブレ近郊、アヴランクールからエルミーに向け、運河(当時は未完成で水は無かったが谷は深い)を超えて軍を進める為、1918年9月にニュージーランドの工兵が架橋した橋が現在も残る。
砲弾の降り注ぐ中、岸で橋を組み立てて、それを滑らせて位置に固定した。
50 6 37 N 3 3 59 E




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