ドイツ、ルクセンブルグ、ベルギー国境沿い全部に渡り防衛帯を構築すれば良い。 紆余屈曲の末、ドイツ〜フランス国境沿いのフランス側を中心に要塞を建設し、帯状の防衛線を構築することにする。 コルマールからモンメディにかけて、1929年〜1934年にかけて「マジノ線」と呼ばれる要塞群が建設され、建設推進者だった陸軍大臣から「マジノ線」と名付けられた。。 マジノ線の建造により航空機や戦車機動部隊の拡充に予算が回らずこの分野で立ち遅れてしまう。 また、ベルギー〜ドイツ国境沿いは「低地は地盤が緩く地下要塞が作れない」という名目で要塞群が作られなかった。 結局、1940年5月10日、ドイツ軍のB軍集団が、マジノ線には目もくれずベルギー北部に侵攻し、これを迎え撃つべくベルギーに入った仏、英軍の背後を絶つように今度はドイツ軍のA軍集団がアルデンヌの森を通り抜け、フランスに入り仏、英軍を包囲。 包囲されたフランス、英軍はダンケルクから撤退し、ドイツ軍は南下しパリを陥落させる。 これまでの間、マジノ線近辺では殆ど戦闘が無かった。 続いて、ライン川沿いのマジノ線にドイツ軍が攻撃を仕掛ける。 こちらは比較的初期に作られたもので大規模地下要塞ではなく、地上露出部の多い要塞、堡塁、トーチカ群であった。 ドイツ軍の88mm対空砲の水平射撃により次々と陥落していく。 巨費を投じたフランスのマジノ線は活躍の無いままフランスが敗北する。 フランス降伏時、フランス北東部のドイツ国境沿いのマジノ線地下要塞群は殆ど無事だった。国滅びて要塞残る.... 日本語で殆ど情報の無いマジノ線。 私が見学したのは全体のごく一部だが、その巨大地下空間に圧倒される。 この規模の要塞を多数作っていたのだから驚きである。 しかし単に壮大な無駄、と言ってしまっていいのか? 例えば現代の国家の敵はテロリスト(しかもその多くは自国民)の形で襲ってくるのにF-22とかF-35とかに金をかけていいのか? マジノ線、立派な歴史教材で見学の為整備されているものが多い(逆に現代では観光以外に活用しようがない)のに、見学者はフランス人ばかり、なのは残念。 |
49 26 58 N 5 40 04 E |
49 03 33 N 7 22 18 E |
49 26 58 N 5 39 57 E |
建物上部に水平に張られている金属棒は無線のアンテナ。 49 03 35 N 7 22 10 E |
49 27 22 N 5 39 39 E |
49 27 22 N 5 39 30 E |
左右にある黒いカバーが付いているのは砲弾を持ち上げる昇降機。 フェルモン要塞隣接の博物館にて。 |
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左奥に見える時計の様なものは、アクション、砲撃目標、角度修正等の命令を伝える指示器。 船舶の指示器(bridge engine order telegraph)と似たようなもの。 |
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一番左の兵が指示器を操作して命令を伝えている。 |
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レール幅60cm。写真はシムセールホフ要塞の機関車。 |
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ちなみにシムセールホフ要塞でもトロッコ列車には乗れるが、テーマパークのライドの様に展示を見る為のものになっておりつまらない。 |
発電機のロータが取り外されている。 |
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食事の旨いフランス軍で良かった、と実感するこの時....なんでしょう。 あっという間に食事のマズいドイツに負けちゃったけど。 |
白雪姫の小人のハイホーハイホーと、丸大ハムの大男のハイリハイリフリハイリホーは似ている、とおバカなことを考えてしまう私であった。 |
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フェルモン要塞の戦闘室上からの眺望。 |
マジノ線建造計画の初期に完成したもの。 この要塞、1940年フランスの戦いの時は実戦は無かったが、1945年1月初頭に「ノルトヴィント作戦」にてドイツ軍の反撃が始まると、アメリカ陸軍第14機甲師団の一部がこの要塞に立てこもり抵抗した。 マジノ線の投資に見合ったかどうかはともかく、ドイツ軍に抵抗し、後方で防衛線を固めるまでの時間稼ぎにはなったのかもしれない。 この時のドイツ軍による砲撃跡が要塞の外壁に生々しく残る。 結局1月21日に米軍が近辺から撤退した。 48 53 35 N 7 59 25 E |
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扉の上に要塞の完成年1931が見える。 |