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九州上空の重轟炸機
Chinese Air Force drop Leaflets over Kyusyu


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英語版


【概要】

本土初空襲と言えば1942年4月18日のドーリットル空襲が有名だが、それ以前に日本本土上空に侵入した敵機があった。
日中戦争中、蒋介石率いる中華民国が日本への爆撃を計画、ドーリットル空襲よりも4年前となる1938年5月19日にマーチン 139WC (マーチンB-10の輸出型) 爆撃機 2機が中国本土の基地を離陸、約900qを飛行し、日付が変わった翌20日、九州の海岸に到達した。
月齢19日の月明かりの下、未明にかけて熊本から宮崎にかけて搭載物を落としたが、これは爆弾でも焼夷弾でもなく日本の軍閥を批判するビラ、いわゆる伝単だった。
尚、中華民国側は九州北部の長崎、佐賀、福岡上空を飛行したと思っていたらしい。
九州上空では日本軍戦闘機の迎撃はおろか、高射砲の洗礼もないままに無事ミッションを完了、2機は味方基地に着陸した。
パイロットの一人、徐 煥昇は戦後、中華民国(台湾)空軍の大将となった。


【馬丁重轟炸機】
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1930年2月、マーチン社が自社開発したマーチン123型が初飛行した。
全金属製、引込脚、胴体内爆弾槽を持つ当時としては先進的な双発爆撃機である。
同機はXB-907としてアメリカ陸軍で評価を受けた後、空軍の提案に基づき前部に手動回転銃座を設け、エンジン載替え、翼延長といった改修を行った。
当時の他の爆撃機よりも格段に速く飛行し、大抵の戦闘機では迎撃できなかった。
1933年〜1936年までの間にYB-10, YB-10A, B-10A, B-10B, B-12A (エンジン違い)計166機がアメリカ陸軍に納入された。
結局アメリカ陸軍/陸軍航空隊所属のB-10系爆撃機は実戦参加していない。

アメリカ向けの生産が完了すると輸出許可が出た。
輸出型は189機(デモ用1機を含む)が生産された。

アルゼンチン陸軍が26機、アルゼンチン海軍が13機を購入した。
写真のアメリカ空軍軍博物館展で展示されている機体は、元アルゼンチン海軍所属機である。

タイ空軍は1937年に6機を購入、インドシナのフランス植民地軍との領土を巡る紛争に投入した。
また、後述の通りタイ空軍では1942年降伏したオランダ東インド陸軍航空隊所属機を追加で導入し、結局1949年まで同型機を運用した。

トルコ空軍では20機を購入。

ソ連では評価用に1機だけ購入している。

当時国民軍と内戦状態にあったスペインの共和国人民戦線政府からも引き合いがあったがアメリカ政府が販売を禁止した。

オランダ東インド陸軍航空隊では1936年〜1939年にかけて、各型合わせて116機を受領した。
1942年には日本軍との戦闘に投入されたが、既に時代遅れとなっており多数が撃墜されたり地上で撃破されたりした。
オランダ領東インドの降伏に伴い1機はオーストラリアに脱出し、アメリカ陸軍航空隊の所属となり汎用機として使われた。
一方、日本軍が鹵獲した機体9機はタイ空軍に引き渡された。

中国空軍ではマーチン139WC型「馬丁重轟炸機」を6機(9機説もあり)を導入し、この内の2機が日本々土への初の襲撃を行った機体となる。

マーチン B-10B 爆撃機 諸元
全長 44フィート9インチ (13.64m)
全幅 70フィート6インチ (21.49m)
全高 15フィート5インチ (4.70m)
全備重量 14,700ポンド (6,670kg)
最高速度 215マイル/時 (344Km/時)
巡航速度 183マイル/時 (293Km/時)
航続距離 1370マイル (2,200Km)
上昇限度 24,000フィート (7,300m)
武装 ブローニング 0.3インチ機銃×3丁
搭載量 爆弾2,200ポンド (1,000Kg)
乗員 4名

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タイ空軍博物館に掲示されてる、国境紛争で宿敵・フランス軍に爆弾を落とす、タイ空軍のマーチン139Wの油絵。



【準備】

1938年3月頃より、中国空軍はマーチン139WC型爆撃機(馬丁重轟炸機)を使った日本々土への長距離飛行のため、航法、指揮命令、連絡、天気予報といった訓練と準備を、内陸部の四川省成都近郊で開始した。
同爆撃機は1937年に米国より6機を購入していたが、事故や日本軍の空襲で失われ、残るは2機のみになっていた。
爆弾倉には長距離燃料タンクを設置、ドイツ製の無線方向探知機を設置した。
地上では衢州から寧波までの間に4つの幹線無線局、長沙、温州、麗水の3つの補助線無線局を用意した。
日本々土の天候は判らなかったので、近隣の東アジア各地の情報を参考にするしかなかった。


【往路】

1938年5月19日、中国時間のマーチン139WC型爆撃機(馬丁重轟炸機)2機が重慶を出発し、経由地漢口を1523に離陸し、前線基地となる寧波に向かった。
送受信機能の確認、同士撃ち防止の為、飛行中は地上と無線交信した。
中国時間の1755には寧波櫟社の飛行場に着陸した。
ここでクルーは夕食を済ませ、一方爆撃機には満タンの燃料と積み荷を搭載した。
第2爆撃大隊第14爆撃飛行隊所属の徐 煥昇が操縦する隊長機と、トウ彦博の副隊長機の2機(機番1403及び1404)が、2348に寧波を離陸した。
クルーは本来の定員である1機あたり操縦士、爆撃手兼前方旋回機銃手、後方機銃手兼副操縦士、無線通信士のクルー4名とする資料と、長距離ミッションの為重量軽減・燃料追加の為に3名とする資料がある。
日付が変わり0050に日本軍の占領下である浙江省定海区近くを飛び、爆音を聞いたのかサーチライトが索敵していたが、マーチン爆撃機は雲上で見つからなかった。
中国時間0240(日本時間0340)、日本本土の海岸に近付いた。


【九州上空】

中国空軍側では、中国時間0245に長崎市上空に到達したと判断した様だが、実際にははるか南の熊本県南部に到達していた。その後、中国空軍のクルーは、長崎市、佐賀市、久留米市、福岡市上空を飛び、街の明かりが見えた、ビラと照明弾を落としたと言っているが、実際には長崎県や福岡県の上空は飛行せず、熊本県から宮崎県にかけての、人口の少ない山岳地帯を飛行していた模様だ。

【日本側の記録】

特高警察の内覧誌である特高月報の内、特高外事月報1938年5月号に航空機の目撃及び爆音聴音状況、ビラ散布状況及びビラの内容、関わる影響が詳細に報告されている。
これによると以下で怪飛行機を観測:
佐敷監視哨にて0414頃に爆音
水俣監視哨にて0423頃に爆音
牛深監視哨にて0435頃東より西南に向け燈火(一機を)現認
富岡監視哨にて0530頃双発重爆機と思われるものを視認
甑島の里監視哨にて0515頃南方に爆音
甑島の手打監視哨にて0516頃北より南に向かうダグラス機と思われる機体現認
出水監視哨にて0520頃爆音

飛行ルートは以下ではないかと分析している:
中国空軍2機は0400前後、熊本県西南部方面の海岸線に沿って北上、熊本県葦北郡水俣町、佐敷町、日奈久町を通過し、球磨川下流に出てこの川に沿って上流に向かい、
内一機はこの辺り下松球麻村より反戦印刷物を漸撒布しつつ球磨郡人吉町、川村、山江村、四浦、黒肥地村、湯前町、水上村を経て宮崎県西臼杵郡椎葉村方面に飛翔、
他の一機は人吉町より僚機と別れ藍田村を経て宮崎県小林町に入った。
その後、2機は宮崎県上空で合流し、延岡市富島町附近上空を東に大平洋岸に出で、海上で旋回し帰途につき、熊本県人吉町の方面に向って往路と概ね同じコースで飛び去ったと思われる。

最初にビラに気づいたのは熊本県球磨郡黒肥地村の農業・源島芳治さん(45歳)で、朝の0740頃に洗面の為屋外に出た所、「日本工商業者に告ぐ」と題するビラ二枚を拾い村役場に届けた。
その後熊本県、宮崎県の各地で計五種類にわたる反戦印刷物の発見拾得届出があり。
両県の警察はビラが民衆に渡らないよう消防組員多数を動員して苦労の末、広範囲で1,520枚のビラを収集した。

ビラは以下の場所で発見回収されている:
湯前町 ほか13町村 933枚
下松求麻村 28枚
延岡市 2枚
門川町 ほか6町村 365枚
諸塚村 ほか1町村 102枚
小林町 ほか1村 50枚
美々津町 ほか1村 40枚 (注:外事月報では美々町と記載されているが美々津ではないかと思われる)

支那側の放送では十万枚(20万枚・100万枚説もあり)を撒いたと言っており、誇張されているにしてもそれなりの数を撒いているに違いない。
結局、ビラは人口密度の低い山岳地帯を中心にバラまかれたために、中国側の期待する「民衆を動かす」様な効果は全く見られなかった模様だ。
しかし特高ではビラの内容を記録し、また、出所を確認するために紙質の鑑定を依頼している。

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中国空軍によるビラ撒きに関連する地名を示す。赤枠内は下の九州南部詳細を参照。

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戦後に米陸軍が作成した地図に、特高の月報(外事月報)に掲載されている推測飛行ルートと、同報告書に記載されている地名をマークしたもの。
緑丸はビラの紙質鑑定を以来した王子製紙株式会社矢代工場の場所。


ビラは5種類が回収されている。

「日本商工業者に告ぐ」 (ビラ) 中華民国総商会より

「日本労働者諸君に告ぐ」 (ビラ) 中華民国総工会より

「日本農民大衆に告ぐ」 (ビラ) 中華民国農民協会より

「日本政党人士に告ぐ」 (ビラ) 中華民国外交協会より

「日本人民に告ぐ」 (パンフレット) 中日人民反侵略大同盟より


紙質鑑定は熊本八代郡太田郷町にある王子製紙株式会社八代工場 (32 30 17 N 130 37 27 E 現在の日本製紙株式会社八代工場 )に、「日本工商業者に告ぐ」ビラの紙質鑑定を依頼している。
1938年5月24日付の同社からの報告によると、
砕木パルプ 85% 亜硫酸パルプ 15% 無サイズ新聞用紙 製造後1〜1.5年経過
この新聞用紙は日本では製造が稀な種類で、恐らく外国製、特にカナダ太平洋岸の製紙工場製と判断している。


【5種類のビラの内容】

原文は特高月報の内、特高外事月報1938年5月号に記載されている。
また、「戦前反戦発言大全」(高井ホアン著 2019年)にも一部の漢字を常用漢字にしたものが掲載されている。
以下は現代語に極力直したもの。オリジナルをご覧になりたい方は上記資料を参照ください。
「日本人民に告ぐ」の中で鹿地亘がさりげなく自分を宣伝しているのが面白い。

日本商工業者に告ぐ (ビラ)

皆さん、日本参謀本部によりて長年の間計画された改革戦争はもう十ヶ月経ちました。
しかし、ファシスト軍部が皆様に約束した諸言は何一つ履行されていません。
即決戦は日本国民を狂気じみた軍部に引きずらせ、益々深刻な状況に陥りました。
軍部、財閥はあえて日本国民の生命と利益を軍事冒険に浪費しています。
戦争は如何なる利益を皆様にもたらしているのでしょう?
長年に渡り皆さんが苦心して経営した商工業が、一撃にしてみじんと化し、広大なる支那市場が破壊され、
更に日本インド、日本オーストリア、日華などの貿易協定も無用の長物となり、欧米諸国の市場までも喪失したはずです。
一方でまた、占領地の経営には実に莫大な生命と資金を浪費しており、太洋の真中に埋立地を築く様なものです。
彼ら軍需商売人達は戦争成金になるに違いありません。
だが、戦争は商工業者には、ただ単に破滅の運命をもたらすはずです。
我等は戦争を好むものではありません。しかし、国家の生存、民族の自由が脅かされ、平和に絶望した時にあえて武器を取らざるを得なかったのです。
支那は赤化されている、と日本ファシスト軍部は宣伝していますが、何を指して赤化と言うのでしょうか。
ひたすら彼等は戦争の目的をごまかすのみです。
我等はこの神聖な自衛戦争において国家の統一を完成し、軍隊は質と量において古いやり方を改め、
国民は勇敢に前線に参加し、長期抗戦の意志は増々堅固になってきました。
我々は断然、災いを幸福へ変えるでしょう。日本軍は目下、予想外に苦戦し、戦争が長引くと共に困難な状況が益々増えつつあります。
日本は今や破滅の道を辿りつつあるのです。
ここで真に国を愛する人であれば、それを阻止しなければいけません。
我々は日本民族に仇も恨みもない、正常な経済関係を密接にすることを切に希望しています。
だが武力的侵略には断じて服せず、経済的提携を平和の基礎の上に置きます。東洋永久の平和のため、侵略戦争に反対してください。
中華民国総商会より


日本労働者諸君に告ぐ (ビラ)

親愛なる兄弟たち、我々は、諸君の仲間で捕虜となった日本の労働者出身の兵士が、血涙を呑んだ言葉を伝えなければなりません。
「私たちは隊の中でよく話し合った。戦争というものが残酷で不道徳なことが骨身に染みた。これから男の子が生まれたら指でも切って障がい者にしてやろう。」
また、こうも言いました。「私たちは子供じゃないから知っている。
二・二六事件を見ても解ることだ、戦争をしたいのはあの人達だ、偉くなりたいのは軍人だけで、軍人は何時引っ張り出されるかとビクビクしている」と。
皆さん、これは真実の言葉です。彼は故郷の家族らの写真を抱いて泣いていました、飢えているだろうと泣いていました。私たちも泣いて悲しみました。
一体この戦争は日本人民の何の為になるのでしょうか?
ただ人民を中国北部の戦地で飢えさせ残酷な血を流し、しかも皆様労働者を兄弟殺戮の為、軍機の戦争の為、日夜酷使するだけではありませんか。
親愛なる日本の兄弟、我々は諸君に敵意を持ってはいません。日本軍事フアシストは最後の血の一滴まで戦うでしょう。
我々は第一に国家民族の戦線を守らねばならなりません。奴隷には決してなりません。
第二に、我々が敗北すれば、両国の人民は永久に苦悩地獄に陥いります。この事を理解した、日本兵捕虜の中に、最近は続々と我々の戦線に参加するものがいます。
皆さん、待っていても回復の時がありますか?
生産掌握者である日本の軍閥の心臓を握っている労働者兄弟の皆さん、皆様の偉大なる力を自覚しましょう。
君たちに東洋の運命は握られています。日本の軍閥を指導して下さい。両国人民の苦悩を解く為にストライキをもって戦って下さい。
中華民国総工会より

日本農民大衆に告ぐ (ビラ)

日本の農民大衆諸君。
戦争を10ヶ月しました。皆さんの中から沢山の兵隊が取られ、沢山の人が死傷したはずです。
我々は本当に気の毒に思います。我々は決して皆さん日本人民の敵ではないからです。
皆さんの家族で、我が中国の捕虜になった人は皆、こう言っています、
「皆さんの畑の作物を踏み荒して戦争する時、本当に勿体ない事だと思った。農民は農民の苦労をよく知っている。戦争とは本当に罪なことだ。」と。
皆さんの田畑は働き手を失って荒れていませんか?蚕は腐っていませんか?一体百億円というべらぼうな銀利を皆さんはどうして払えるのでしょう?
何の為の戦争ですか?皆さんには何の利益があるのでしょうか?この東洋の恐ろしい不幸はいつまで続くのでしょうか?
国の独立を脅かされてる我々は、最後まで戦いを止めず、決して奴隷にはなりません。最後の血の一滴をも惜しみません!!
何の為の戦争か?この事は日本の戦死者の日誌の中に沢山書いてあります。
日本人が様々な口実をつけようが、要するに皆さんに血税と肉弾とを強制して我々中国人を奴隷にし絞り上げる目的です。
満洲や北支を見て下さい。王道楽土の言葉の裏にある地獄の事実を見て下さい。農民は粉々と武装して侵略者に向かって抗戦しています。
平和な農民が遂に堪え切れず、鋤(すき)を捨てて剣を取るのは余程の事と察して下さい。
両国人民を飢餓に陥れ、主人を奪い生命を犠牲にする日本軍事政権を打ち倒しましょう。
人民と人民との殺し合いは奴等にしてやられるだけです。
「農民の苦労は農民が知っている」という事実を、日本の兄弟よ、我々がおろそかにする訳がありません。
人民の日本を救って、人民の中国と共に平和な東洋を建設しましょう。人類の盗賊と日本人民を惨殺する凶手を倒しましょう。
中華民国農民協会より

日本政党人士に告ぐ (ビラ)

日本の政治家の皆様へ
皆様が一般人民の代表として警告してください。
蘆溝橋事件以来、一ヶ月経った大陸では正視に堪えない両国人民の流血が続けられています。
何の為の戦争か?人民の為と諸君はあえて言いますが、貴国の戦死した将兵の日記で、我軍の手に入ったものでこの疑問に言及していないものは皆無と言っていいでしょう。
翻って、我々は目下、民族生存の脅威者とは最後まで戦うでしょう。誠にやむを得ないですが、我々は甘んじて奴隷とはなりません。
「人民のため」に戦わなければなりません。
もちろん、皆様の非公式な言葉では、皆様が本心では軍閥等の軍事冒険に賛成していないと察しておりますが、
百億の軍事費負担と人民を塗炭に陥れ、生産を破滅させ、国家を滅亡に導く事が人民のためになるか考えてみてください。
軍閥の勝利は決して人民を救いません。手柄のために多くの人が犠牲になるだけではありませんか?
皆様の偉大なる先輩が、流血の辛苦を経て戦い取った憲政が、
今日では五・一五事件、神兵隊事件、二・二六事件など一連の軍閥らの暴挙になったことを思い起こしてください。
近来に於ける議会政治の種々なる不良学徒を駆り立てて、政党本部の破壊等、正に彼等は人民の権利の土台に食い入っているではありませんか。
人民の労苦を見てください。自由は何処にありますか?
これらの事実の国外に於ける半面こそが、満州事変から今日まで一貫した侵略行動です。
要するに彼等が国内の暴力的支配を、全アジアの暴力的支配へと延長しただけです。
で、彼等の勝利は中国の不幸のみならず日本人民の不幸であることは明らかではないでしょうか。
日本人民の代表者諸君、皆様の偉大なる歴史的責任のために奮闘してください。
皆様の先輩の、光輝く憲政のために闘争を辱めないでください。土地を失わないでください。
既に戦略軍閥らは深い泥に足を踏み入れています。
今こそ東亜両国を永年の暗黒生活から救う時です。
人民の自由は、独立せる国家によってこそ真の中日親善を実現することが出来ます。
人民の政士を呼び返しましょう。彼等を犠牲にしないよう、軍閥を打倒しましょう。

日本人民に告ぐ (パンフレット)

親愛なる日本人民の皆様!
蘆溝橋事件発生以来、我が中国は貴国軍閥の侵略に対して抗戦を続けること既に10ヶ月になります。
この間、中国も日本も余りに(多くの)兵の生命を犠牲にし、巨大な物力と財力とを消耗しました。
我々の損失はさておき、貴国の兵士について言えば、各戦場に於ける死傷者の数はもはや三十万人にのぼっています。
我々は死傷した諸君に対し、我国の受難中の同胞及び死傷兵士に対すると同様、全く同情に堪えません。
又、日本国内に於て軍閥の搾取の為に窮乏の生活に堕された皆様に対しても充分に関心を持っています。
我々はまさにこう考えます。我々はいつも中日両国を「同文同種」と言い「唇葉の如き関係」と言いました。
ではなぜ今度の戦争を起したのでしょうか?
どうして戦争をしなければ両国間の紛糾(ふんきゅう)を解決出来なかったのでしょうか。
この問題については今、戦場にいる貴国の兵士達が明瞭に答えています。
我々は戦場で貴国の兵士が秘かに撒布したビラを発見しました。
内容は「我々は戦争を止めよう、国内のフアシスト軍閥が彼等の野心を満足させる為、資本家が腹を肥す為にこの戦争を起して我々を死地に送ったのだ」と。
この答えは何と正確で深刻なものでしょう。
中国兵士と日本兵士との間には元より何の怨みも仇もない、従って砲火を交える必要は全くないのです。
歴史上の事実から見ても中国人が世界中で最も平和を愛する民族です。
過去に於て我々はあらゆる方法をつくして戦争の惨虐をさけました。
満洲事変以後も我が政府は、あくまでも忍容と屈辱との中に日々をすごしました。
特に塘沽協定成立後、我が政府は最大の忍耐をもって貴国軍閥の圧迫を忍受しました。
この様な忍容はいずれの国家に於ても出来るものではありません。
だが我政府はそれをしました、目的は貴国軍閥の反省を促すことで、それを待ったのです。
甚だ不幸にして我政府の努力は水泡に帰し、貴国軍閥は反省どころかかえって日毎に横暴を極めてきました。
昨年7月、突如として我が蘆溝橋を進攻し、続いて我旧都北平(現・北京)を陥れ、すぐ又天津を奪取しました。
貴国軍閥は華北全部を占領し、続いて中国全部を占領しなければその野心の満足が得られない様に見受けられました。
親愛なる日本人民諸君!黄河流域の北部は我が祖宗の発祥の地であり、我が文化の揺籃(発祥地)です。
全中国は言うまでもなく、我らの衣食する母邦です。
貴国軍閥がこうも無理をつづける上は。我々最も平和を愛する中国民衆も到底忍ぶことが出来なくなりました。
そこで我々はやむを得ず起(おこ)って抗戦し、侵略者に打撃をもって応えなければならなくなりました。
これは全く我民族の生存を求め、国家の独立を保障し、又、東亜の平和と世界の正義を擁護する為でありました。
貴国軍閥は猛烈な砲火をもってすれば、我が中国を征服し得るものと夢想し、南京を陥落すれば容易にわが政府を「屈膝」させ得るものと思っておりました。
だが事実は彼等の想像が全く誤りであった事を証明しました。
今度の中国の抗戦は、全中華民族の生存の為であります。全民族を後楯としている政府が「屈膝」できるでしょうか!
そこで南京の守りを失っても、中国政府は屈膝しないばかりでなく、かつて堅い意志に貫かれて民衆を率いて大規模な祖国を守る戦争を展開しつつあるのです。
この戦争は我々にとって正当にして、かつ、神聖なものであります。だからこそ、我々は広大な国際的な同情を獲得したのです。
皆様、心静かに考慮して下さるなら、必ず我々の正当性を認め、我々に同情して頂けると信じます。
貴国の正義感に富み、平和を愛する人々は、例えば鹿地亘氏とその夫人がすでに我々の側に立ってくれました。
又、帰国内においても多数の誠の愛国者にして世界平和の友だちが牢獄に入れられたと聞いています。
だが、貴国のファシスト軍閥は、依然として悔悟(かいご)の意を示さず、占領した地域に少数の腐敗分子を利用して傀儡組織を製造し、
我が行政の完整を破壊しようと企て、又、各種の陰謀詭計(いんぼうきけい)を弄(もてあそ)ばして我国家の統一を切り崩そうとしています。
だがこれらの全ては無駄で、ただ日本軍閥の窮餘(きゅうよ)の策の拙さを示すに過ぎません。
一切の陰謀詭計は我々に対して、ただ挙国一致の抗戦の決心を堅固にさせ、挙国一致の団結を促すのみです。
南京に傀儡組織が成立するとすぐ、 我々は軍事上津浦線において日本の少壮派軍人と称する板垣の師団(第5師団)と、磯谷師団(第10師団)を殲滅し、
抗戦以来の空前の勝利を博しました。
一方で我が政府は、最近開会した中国国民党臨時全国代表大会の決議によって、抗戦建国の具体的綱領を発表しました。
これらは十分に以上の事実を説明しているではありませんか。
我が全中華民国の国民は、この国難深刻な今日、かつてなき真心の統一を完成しました。
我が国の全力量を蒋介石委員長の指揮の元に発揮し、必ず日本ファシスト軍閥を粉砕すると確信しています。
我々はあえて断言します!
貴国軍閥の中国になせる冒険行為は、必ず貴国の光輝ある前途を葬るばかりであると。
彼等は中国に於いて傀儡組織を製造し文化機闘を破壊して民衆を惨殺し婦人小児に凌辱を加え、夙(しゅく)に世界の公正なる人々に唾棄されています。
しかも彼等は貴国の勤労大衆の骨血を搾取して、いわれなく消費し、貴国の優秀なる青年諸君を駆って、言われなき犠牲に供し、その罪や誠に重大です。
今、彼等は侵華軍事上において既に行き詰まり、迅速なる進展は難しく、種々な事情を総合しても、もはや袋小路に入ってしまいました。
我々の戦士は目下、一層勇敢に一層堅固な意志をもって、平和の擁護のため、国の保衞のために神聖なる戦争に参加しています。
我々は最後まで戦うでしょう!日本の民衆及び兵士諸君は決して我々の仇敵ではありません。
逆に皆様は我々の良き友人でこそあります。
東亜両大民族の共同の利益のために、我々は熱烈なる握手を皆様に求めます。
親愛なる日本人民の皆様!貴国のファシスト軍閥は不断に貴国内の民衆を搾取し、勤労大衆を駆って中国の兄弟と互いに殺し合うような事をさせました。
今は、もうかかる暴挙に反抗する時が来ました。
我々中日両国の人民は堅く手を握って共同の敵、暴戻なる日本ファシスト軍閥を打倒しましょう!
我々は正に力を尽くしています。皆様の努力を希望します!
日本民衆解放万歳!
中華民族解放万歳!
中日兩大民族万歳!
中日人民反侵略大同盟より

ビラの文章は作家で反戦運動家の鹿地亘(かじ わたる)によるもので、自著 『回想記「抗日戦争」のなかで』 にて以下の経緯を記載している。

『軍事委員会委員長蒋介石からの緊急極秘命令で、その日(注1)のうちに六種類の対日宣伝ビラを準備せよという。それをわたしに書け、というのだ。
六種類とは、労働者、農民、商工業者、教育文化界、政界、青年婦人のそれぞれを対象にしたもので、それを飛行機で日本国内に空から降らせようという計画だ。
これまで空軍を日本の空に送ったことの一度もない中国が わたしとしては、たいへんな気張り方である。
「委員長があなたにとても期待しておられるんですよ」と第七処(注2)処長の苑寿康がいった。
わたしは終日第三庁(注2)に罐詰にされて、夜半までかかってそれを書いた。
内心ひそかにまず当面の中国が日本国民に訴えるには、そんな色分けをするより、なぜ中国が自分の存亡をかけた抗戦をよぎなくされているのか、そのため仲よくすべき両国民がどんな災害を受けているか、平和をとりもどすためにはどうしたらよいか、それを日本人にひろく理解してもらうような内容のものを、一種類でよいから大量にばらまくことを実行する方がよいのではないか、などと考えながら。』

青年婦人向けは日本人民向けになったのか?
教育文化界向けのビラが九州で回収されていないが、見つからなかったのか、そもそも印刷しなかったのか、爆撃機に搭載しなかったのか?

注1) 「抗戦日記」 鹿地亘著 九州評論社 昭和23 によると5月15日に作成

注2) 国民政府軍事委員会政治部には軍隊・軍事学校の政治訓練と党務を管理する第一庁、民衆運動と国民の軍事訓練を管理すろ第二庁、宣伝に関する事項を所轄とする第三庁があった
第三庁は武昌の曇華林に所在していた。第三庁の配下には第五処(一般宣伝)、第六処(芸術宣伝)、第七処(敵対宣伝)の3つから成り定員300名
これに四抗敵宜伝隊や10抗敵演劇隊などを加えると総勢3000人の規模だった


【帰路】

再び中国側の記録に戻る。
九州上空では別れていた2機だが、中国時間の0332に再度合流し、0400に再び洋上に抜けた。天候は帰投時には悪化しており、雲によりお互いの機が視認できず分かれて飛行し、ビーコンを頼りに飛んだ。
1403号機は0615に、1404号機は0616に中国本土の海岸を認めた。
0712に両機は三門の湾上空で、停泊中の日本海軍の軍艦からと思しき対空砲火の洗礼を受けたが被弾しなかった。
0737には臨海上空におり、誘導を受けて1404は北上して0848に寧波近郊の玉山飛行場に、1403は0932に南昌に着陸した。
各々給油後、1132には両機とも漢口に帰投した。


【二匹目のどじょう?】

熊本県・宮崎県でのビラまきの約2か月前、1938年2月24日にも中国空軍機が九州に近づきつつあるという情報を元に警戒警報が出されたようだが、結局日本本土上空には到来しなかった。
そして、ビラまきの10日後となる1938年5月30日には、再び中国空軍機と思しき敵機来襲騒ぎがあったと当時の新聞等に記載されている。
同盟旬報によると同日2100頃から翌日0100にかけて、恐らく2機が侵入、鹿児島県、熊本県、宮崎県を北上するものと、福岡県を東進するものが別々に行動していたとしている。
今回は山口県を含む広範囲に警戒警報が出されたが、ビラや爆弾が落とされた形跡はなく、中国側も宣伝していないので、果たして本当に敵機だったのか?という疑問が大いに残る。
空襲の翌々日、6月1日の読売新聞に「帰途行方不明か 九州飛来の怪飛行機」と題し以下記述がある:
[香港本社特電](31日発) 30日夜 九州上空に現れた怪飛行機につきし支那側は31日午後に至るも何ら発表をなさざるため或いは帰途行方不明となり帰還しなかったのではないかとの風説が次第に信ぜられている。


【参考文献】

時々「何を見て書いているのですか」と聞かれるので、今回は真面目に情報源その他参考情報をリストアップします。
最近は、国会図書館デジタルコレクションの膨大な冊数の書籍類を、強力な検索機能で探せるので、通常ではまず手にすることは無いであろう本に隠れている情報にも触れることが出来ます。


日中戦争当時の資料

特高外事月報 昭和13年5月分 内務省警保局保安課 1938年
航空機の目撃聴音情報、ビラの散布状況などに基づく飛行経路の推定、海外放送の紹介、地域での影響、ビラの紙質鑑定、ビラの内容紹介など(31ページ〜)
文政書院や政経出版社から復刻版が出ている

東京朝日新聞 1938年5月21日
「支那?怪飛行機 九州に現はる」の記事
目撃者が「白色ダグラス型」と証言しているが、中国空軍のマーチン139WC型は全面濃緑ではなく、下面が明色に塗られていた時期があるのだろうか?

東京日日新聞 1938年5月21日
「九州までは来たが 忽ち バレた楽屋裏 猪口才な志那飛行機」 の表題で、東京朝日新聞よりも詳しい記事が記載されており、これによると
・現時点(原稿の関係で5月20日夕方?)までに回収されたビラは5〜600枚
・ビラ4種(表題と発行者を紹介)とパンフレット(表題と発行者を紹介)
・ビラは四六版、パンフレットは四六版10ページ いずれも薄黄色のザラ紙に六号活字で不鮮明に印刷
川村の目撃者の話として、0400頃に低空を飛んでいた、濃霧の中、主翼で青い光が点滅
同系列の大阪毎日新聞も同日付で概ね同じ内容を記事にしている

東京朝日新聞 1938年5月31日
「昨夜敵機現る」の記事
どうでもいいが何で21日は「現はる」で31日は「現る」なんだ?

読売新聞 1938年5月31日
「昨夜九州上空に敵飛行機現はる」の記事

読売新聞 1938年6月1日
「帰途行方不明か 九州飛来の怪飛行機」の記事

同盟旬報 (No.33) 第2巻 第14号 1938年5月30日発行 【1938年5月中旬号】
1938年5月20日のビラ撒きに関するニュース配信記事あり (25ページ)

同盟旬報 (No.34) 第2巻 第15号 1938年5月10日発行 【1938年5月下旬号】
1938年5月20日のビラ撒きに関する海外報道の情報、5月30日の敵機飛来と警報に関するニュース配信記事あり (15ページ〜)

物理学周辺 中村清二 河出書房 1938年10月
宣伝ビラを拾って最初に届け出たのは椎葉村の村長であるという記述(302ページ)

日米新聞
1899年〜1941年まで米国で発行されていた、主に日系移民向けの日英語の新聞
1938年2月25日付で中国空軍機が九州に接近し警戒警報が出されたことが紹介されている
英語版も同じ内容が記載されているが、スタンフォード大学のデータはピントが合っていないのが残念
1938年6月1日号では5月30日の来襲を紹介している

時局特報 (第29号) 台湾総督官房外事課 1938年6月22日
漢口発信の本土空襲の情報(17ページ〜)
ビラは5種類と言っているので鹿地の作成した「教育文化界向けはやはり印刷されなかったのか?

時局特報 (第30号) 台湾総督官房外事課 1938年7月2日
マニラ発信の本土空襲後の反応などの情報(21ページ〜)

昭和13年支受大日記 陸支密受第1828号 1938年2月24日 陸軍省
1938年2月24日に敵機約10機の動向に基づき九州と山口に警戒警報を発する件とその解除

国際パンフレット通信 (世界政治外交日誌第109輯/世界経濟日誌第45輯)(1112) タイムズ出版社 1938年
九州のビラ撒き(149ページ)
九州敵機再飛来に伴う空襲警報(155ページ)

支那事変実記 第10輯 読売新聞社編輯局 昭12至13
「熊本・宮崎地方に支那機」と題して紹介(184ページ〜)
「敵機・けふ九州に現はる」と題して紹介(265ページ)

気象報管制実施に関する件報告 1938年5月27日 陸軍省
支那軍飛行隊が大挙して日本の西部地方を空襲する意図ありとの情報に基づき日本の気象情報が敵に利用されないよう報道管制するという件

支那軍兵器一般 第2篇 萱場四郎 萱場製作所 1938年
様々な国から多種の兵器を輸入して使っていた、当時の支那軍所有陸空兵器を紹介した本 爆撃機は(18ページ〜)で紹介


戦後発行の書籍

昭和特高弾圧史 5 -庶民にたいする弾圧 全 明石博隆・松浦総三 大平出版社 1975年
特高外事月報 昭和13年5月分の「支那飛行機の南九州における反戦宣伝ビラ散布状況」を転載している(86ページ)
旧字は常用漢字に直されており読みやすい。ビラの内容は要約のみで全文は掲載されていない。

戦前反戦発言大全 - 戦前ホンネ発言大全 第2巻 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る 反軍・反帝・反資本主義的言説 - 高井ホアン 合同会社パブリブ 2019年
特高月報を元ネタにありとあらゆる反戦メッセージを紹介した本 面白い
そういえば私の親父は湖畔の宿の替え歌(昨日生まれた豚の子が...)歌ってました
九州ビラ撒きは特高外事月報 昭和13年5月分の関連報告を一部常用漢字にしたものが転載されておりビラの全文も読める(195ページ〜)
姉妹編で戦前不敬発言大全もある

日本兵士の反戦運動 鹿地亘 同成社 1962年
九州に撒かれた反戦ビラの写真あり(巻頭)
鹿地が反戦ビラ6種を作成するまでの経緯あり(15ページ〜)

抗戦日記 鹿地亘 九州評論社 1948年
1938年5月15日の日記でビラを作成したこと、5月20日の日記で中国空軍が長崎、福岡などの一帯にビラを落として全機無事に帰着したことを記述している(45ページ)

回想記「抗日戦争」のなかで 鹿地亘 新日本出版社 1982年
ビラの原稿を作成したときの様子を回想している(174ページ〜)

中国的天空 - The Skies over China - (上) 中山雅洋 大日本絵画 2007年
元々エアワールド誌に連載されていた記事をサンケイ出版で単行本化したものに改定追記をしたもの
非常に読みごたえがあり、8章と14章で、マーチン139WC型の購入から、外国人傭兵パイロットの採用、上海爆撃、中国人だけでのビラ撒き準備と実行が描かれている

戦史叢書 19 本土防空戦 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1968年
日本の防空の歴史の中で1937年11月11日に日本で初めて警戒警報が発令された事、1938年2月23日に台北が爆撃された事、1938年5月20日及び同5月30日に敵機が本土上空に侵入した事などを紹介(46ページ〜)

戦史叢書 79 中国方面海軍作戦<2> -昭和十三年四月以降- 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1975年
1938年2月23日に台北が爆撃された事、1938年5月20日及び同5月30日に敵機が本土上空に侵入した事などを紹介 ビラを撒いたのはハインケル爆撃機としている(67ページ)

宮崎駿の雑想ノート 宮崎駿 大日本絵画 1997年
模型雑誌モデルグラフィックスの不定期連載マンガをまとめて単行本化したもの。映画化された「紅の豚」等、読んでいて引き込まれる話が多い
フィクションとノンフィクションが混在しているが、No.6 「九州上空の重轟炸機」でマーチン爆撃機による九州ビラ撒きが紹介されている
当サイトのタイトルは当然ながらこのパクリであります

熊本県議会史 第4巻 熊本県議会事務局 熊本県議会 1975年
当時の記録をもとにした熊本県球磨郡に反戦ビラが落ちた事の紹介(1320ページ〜)
また、89ページ〜の年表では1938年5月20日のビラ撒き、5月30日の敵機来襲と、2月24日の警報についても言及されている

熊本県警察史 第二巻 (大正 昭和前期編) 熊本県警察史編さん委員会 熊本県警察本部 1982年
エアワールド誌1980年4月号(中国的天空の元記事)を元に紹介(1096ページ〜)

日本 第三十六巻 第六号 1986年6月
同誌の記事「ある米国人の支那事変観」井星英 (25ページ〜)にて当時の支那側発表、新聞記事を元にした九州へのビラ撒きと、そこに至った背景を解説
著者は国粋主義者なのか、蒋介石嫌いなのか、そういったバイアスが感じられる

熊本兵団戦史 第二 熊本兵団戦史編纂委員会 熊本日日新聞社 1965年
熊本県人吉地方が日本の初空襲を受けた地であることを紹介(148ページ)

鹿児島百年 下 南日本新聞社 春苑堂書店 1968年
「ビラは風にのって鹿児島県北の町や村にヒラヒラと舞い落ちた。そのビラは日本農民大衆に告ぐ=中華民国農民協会、日本労働者諸君に告ぐ=中華民国総工会、日本商工業者に告ぐ=中華民国総商会、日本政党人士に告ぐ=中華民国外交協会 の四種」
との記載がある(440ページ)ので、一部は鹿児島県北部にも着地したのであろうか。

水上村史 高田素次 水上村教育委員会 1970年
中国軍機がビラを撒いて以降、灯火管制が厳しくなったという記述(479ページ)
湯前町史と同一の文面(著者も同じ)

湯前町史 高田素次 湯前町 1968年
中国軍機がビラを撒いて以降、灯火管制が厳しくなったという記述(672ページ)
水上村史と同一の文面(著者も同じ)

1930年代中国政治史研究 -中国共産党の危機と再生- 田中仁 勁草書房 2002年
国民政府軍事委員会政治部の組織など(151ページ)


論文

初期本土空襲から見る日本の防空体制における問題と限界
―1938年の九州への中国軍機来襲を中心に―
小谷怜央
明治大学博士課程の論文が公開されている 日本語のみですが、様々な方面から資料を当たって考察されています


ネット記事

520 Airdrop Mission over Kyushu, Japan
https://air.mnd.gov.tw/EN/PastCurrent/PastCurrent_Detail.aspx?FID=28&CID=175&ID=1274
現在の台湾空軍公式サイト内にある、九州ビラ撒きミッションの説明 長崎福岡上空を飛んだと明記されている。

多くの人が知らない「幻の空襲」の実態…日本初空襲は中国軍によるものだった!
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/86154?page=4
「戦前不敬発言大全」「戦前反戦発言大全」の著者、高井ホアンによる九州ビラ撒きの紹介

中國飛機尋根(之三十)民國二十七年我空軍遠征日本之馬丁一三九型轟炸機(Martin 139)黄孝慈
https://web.archive.org/web/20131020064937/
中国語の解説 出典不明でアーカイブ版だが詳しい

人道遠征
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%81%93%E8%BF%9C%E5%BE%81
(タイトルの遠は、中国語簡易体でしんにょうに元)
中国語版wikiの記事 wikiは著者が不明だったりしてあまり参考にしないようにしているのだが、マーチン139WC型2機8名のクルー名とその後などが記載されている

初めての日本本土空襲は中国人による「ビラ攻撃」
japanese.china.org.cn/politics/txt/2010-11/19/content_21379009.htm
本文冒頭は出鱈目の創作ではないか
中国の新聞報道のコピーあり

「九州上空の怪飛行機」 編集委員 上別府 保慶 西日本新聞 2019年
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486444/
福岡日日新聞記事の紹介など

Martin B-10
https://www.joebaugher.com/usaf_bombers/b10.html
Martin B-12
https://www.joebaugher.com/usaf_bombers/b12.html
米軍シリアルナンバーを紹介しているBaugher氏のサイトにある、マーチンB-10及びエンジン違いのB-12関連記事

Martin B-10
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/197393/martin-b-10/
国立アメリカ空軍博物館の公式サイトでの、B-10爆撃機の説明

SDASM Archives
https://www.flickr.com/photos/95151620@N08/galleries/72157633282029579/
サンディエゴ博物館の所有する写真コレクションの内、マーチンB-10系爆撃機のもの

Illusive Target: Bombing Japan from China Richard L.Dunn 2006年
https://www.warbirdforum.com/elusive.htm
中国から日本を爆撃する記録 最初に中国空軍のビラ撒きが紹介されている。




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