しかし、第一次世界大戦が始まった1914年、フランスへ侵攻するためにドイツはベルギーを侵略し、第一世界大戦が休戦となる1918年までベルギー国土の大部分がドイツに占領された。 休戦からしばらく経ち、ドイツではナチスが台頭してきた。 ベルギーは再び中立国であることを選び、その頃からベルギーはドイツに対する防衛を強化していった。 1935年までに、ベルギーの対ドイツ防衛線強化は一通り完了した。特にマーストリヒト〜リエージュの間は入念に防御網を築いていた。 |
2階建てのトーチカで、一見、民家に見せかけてある。 50 41 13 N 5 40 22 E |
本体はコンクリート製で、外壁にカモフラージュのレンガを貼り付けたらしい。 N50 38 29.2 E05 38 31.5 |
1Fは機銃、2Fは大砲とライトとのこと。 N50 38 31 E05 38 32 |
入り口は塞がれ、カムフラージュ用のフックは、自動車販売店の広告を引っ掛けるのに使われる。 50 44 39 N 5 42 5 E |
運河の水門の壁がトーチカになっており、銃眼が設けられている。 50 54 7 N 5 41 0 E |
50 26 38 N 4 54 27 E |
1936年に国王レオポルドV世が中立宣言をした。 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻することにより第二次世界大戦が勃発したが、その後ドイツ、フランス共に睨みあうおかしな戦争が続いた。 万一ドイツ軍がベルギーに侵入した場合は、ベルギー軍はミューズ川及びアルベール運河に沿った、アントワープ〜リエージュを結ぶ防衛線でドイツ軍を出来るだけ長く食い止める。 その間にフランス軍、英軍がベルギー領に入り、アントワープ〜ナミュール〜ジヴェの防衛線でベルギー軍と連携しドイツ軍を止める、という計画であった。 |
大小口径弾の弾痕が壁面に残る。 50 25 60 N 4 55 2 E |
50 27 19 N 4 56 12 E |
リエージュ防衛網の整備には前世紀の要塞も活用された。 リエージュの環状分派堡は19世紀末に完成しており、 第一次世界大戦緒戦でドイツ軍の砲撃により次々と陥落したが、 リエージュを囲む12の堡塁の内、ミューズ川東半分を中心に再整備した。 第一次世界大戦では堡塁内の換気の悪さにより硝煙とトイレの悪臭が漂い耐え切れずに降伏した堡塁も多く、 従って再整備にあたり換気には特に気を遣い、堡塁から少し離れた所に見張りの塔を兼ねた給水塔に見せかけた換気塔が設置された。 |
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堡塁本体中心部から250m程離れており、堡塁本体とは地下通気口で結ばれている。 見張りの塔、トーチカも兼ねており、外観は給水塔に見せかけている。 金属の手すりは最近になって設置されたもの。 50 40 23 N 5 41 10 E |
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砲撃を受けたのか、西側がかなりボロボロになっている。 堡塁本体は1880年代に作られ、鉄筋ではないコンクリート作りで要塞砲の攻撃に次々と陥落したが、 給水塔は1930年代の増設なのでちゃんとした鉄筋構造になっている。 50 36 38 N 5 27 59 E |
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こちらも砲撃を受けた跡がある。換気口の基部はトーチカになっていて、通気路兼通路を使って堡塁本体まで往来できる。 50 34 45 N 5 31 29 E |
それらは北から南に、 エベンエマール 50 47 49 N 5 40 50 E ヌシャトー 50 43 18 N 5 47 24 E バティス 50 38 49 N 5 50 2 E タンクレモン 50 33 11 N 5 47 28 E である。 |
50 38 49 N 5 50 2 E |
1940年5月10日、「おかしな戦争」の静寂を破り、ドイツ軍は突如オランダとベルギーに侵攻した。 攻撃の先陣は音も無く空から舞い降りた。 この日未明、ドイツのケルンからJu-52輸送機40機あまりが、それぞれにグライダーを曳航して離陸した。 グライダーはドイツ空軍のDFS230型で、コッホ突撃大隊の降下猟兵を乗せていた。編隊は無線封鎖を守りながら目標へ向かった。 |
Ju-52はドイツ空軍の輸送機として戦前、戦中を通じて活躍。 戦後もライセンス生産されフランス、スペイン、スイスなどで使われたので飛行可能現存機も多い。 この機体はノルウェーの凍結した湖に着陸し、そのまま氷が解けて湖底に40年間沈んだものを引き揚げてレストアした。 現在はドイツ・ハノーファー近郊のJu-52ホールに展示されている。 程度は極めて良好。 |
残念ながらレプリカ。 |
ドイツ博物館のものよりも雑な作りで、ホームセンターで買ったと思しき尾翼を構成するベニア板には値札のシールが残っていたりするのだが、内部が見えるようになっていて面白い。 |
途中、1機のグライダーのロープが切れてドイツ領内に不時着した。このグライダーにはエベンエマール要塞攻撃隊の隊長が乗っていた。 更にもう一機が予定よりも早く切り離してしまい、目標に到達できなかった。 残る編隊は、目標手前30kmのドイツ上空高度2000mにて、曳航していたグライダーを切り離した。 コッホ突撃大隊を乗せたグライダーが目指すのは、マーストリヒト近郊でアルベール運河にかかる3つの橋と、その橋を守る、当時世界最強と言われたエベンエマール要塞だった。 エベンエマール要塞は、1932〜1935年にかけて建設された。 要塞は変形ダイアモンド形で、北西部はアルベール運河から切り立った崖により守られ、他の周囲は乾堀により囲まれていた。 基本設計は19世紀末にブレアモンが設計した堡塁のものを踏襲しているが、サイズはより大型で、東西に600m、南北には750m程の大きさがあった。 第一次世界大戦での教訓を元に 砲塔の配置を分散 コンクリートがコールドジョイントにならないように配慮 弾薬室は地中深くに配置 換気装置を改善 など改良が加えられている。 兵力1200名、武装120mm砲×2(連装)、75mm砲×16門、60mm対戦車砲×11門を装備し、更に要塞周囲、要塞上部の敵を倒せる様機銃、対空砲が多数配置されていた。 かくして、エベンエマール要塞は当時世界最強の要塞と言われた。 エベンエマール要塞は、アルベール運河にかかる3つの橋を射程に収め、橋に近づくドイツ軍を撃退する役目を担っていた。 当初はグライダー11機の予定だったが、途中2機が脱落したため、エベンエマール要塞の天井部平地にはグライダー9機が05:20に着陸した。 グライダーが空挺作戦に使われるのはこれが最初である。 降下猟兵は速やかにグライダーから飛び出し、砲塔や観測所に駆け寄り爆薬を仕掛けた。 爆薬は厚い鋼板を貫通できる成形炸薬で、実戦で使われるのはこの時が最初である。 機銃陣地、隠顕式砲塔、回転式砲塔、観測キューポラなどが成型炸薬で次々と無力化されていった。 2連装120mm砲の砲塔だけは成型炸薬では破壊できず、砲身を直接破壊した。 |
定数1,200名だが攻撃を受けた当時、駐留していた兵は定数を割っていた。 |
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直径30cm程にゆるく窪み、その中央に直径8cm位のメタルジェットによる貫通穴がある。 殆ど全ての砲塔、キューポラにこの跡が見られる。 |
グライダーの曳航索が切れてドイツに不時着していた攻撃隊長が代替機で着陸した。 全ての上部構造物の火砲を無力化し終わった頃、要塞の中からベルギー兵が出てきて反撃が始まったが、ドイツ降下猟兵はこれを撃退し、ベルギー兵を要塞内に釘付けにした。 当初は着陸後数時間以内に地上軍が来るはずだったが、結局到着したのは翌5月11日の朝0700だった。 その後到着した援軍と共に地上軍は要塞出入り口を攻撃し、1940年5月11日1200時、死者60名負傷者40名を出した要塞の守備隊は降伏した。 |
それぞれの橋の運命を見ていこう。 |
近くのトーチカを制圧し、橋に仕掛けられた爆薬を取り除いた。 近くの陣地から砲撃を受けた始めたので空からのサポートを要請し、Ju-87急降下爆撃機が砲を制圧した。 同日夜遅く、2130になってやっとまとまった地上部隊が到着した。 なお、翌々日の1940年5月12日には、英空軍第12飛行中隊のフェアリーバトル3機が爆撃、橋の1径間が崩れ落ちた。 ドイツ軍は速やかに架設橋をかけ、進撃に殆ど遅れは出なかった。 50 51 35 N 5 38 18 E |
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もう一機は高射砲に撃墜されオランダ領に墜落した。 グライダーから次々と降りた降下猟兵は、手早く爆破装置の置かれたトーチカを制圧した。 同日夜の2140になって地上部隊と交代するまで、占領した橋を守り抜いた。 翌々日の1940年5月12日には、英空軍第12飛行中隊のフェアリーバトル2機がドイツ軍の進撃を止めるため橋を爆撃ししたが橋に目立った被害は無かった。 最近まで運河が狭くなっていたが、船が航行しやすいように大戦当時の橋は外されてしまい、写真撮影時(2008年)には仮設橋をかけて両岸を広げる工事中。 50 49 51 N 5 38 34 E |
50 48 38 N 5 40 16 E |
カナダで使われていた機体だが、博物館での展示の為、ベルギーに移譲された。 ベルギー軍が破壊に失敗した橋を爆撃する為、英空軍のフェアリーバトル爆撃機が出撃した。 フェアリー・バトルは1936年に初飛行した英空軍向けの単発爆撃機で、1940年9月までの間に2185機が生産された。 翼内の爆弾槽に250ポンド爆弾×4発=1000ポンド、翼下のラックに更に計500ポンドの爆弾を搭載することが出来た。 第二次世界大戦を通して名エンジンであるロールスロイス・マーリンを搭載していたが、 如何せん遅い速度(最高410km/h)と 貧弱な武装(右翼に固定7.7mm機銃×1、後部銃手に7.7mm機銃×1) が災いし、第二次世界大戦が始まった時点で既に時代遅れになっていた。 最初からダメダメな駄作機の様だが、実は第二次世界大戦中、敵機を最初に撃墜した英空軍機はバトルだった。 開戦間もない「おかしな戦争」中の1939年9月20日、バトルの後部銃手がBf-109を撃墜した。 フランスの戦いでは、進撃するドイツ軍を食い止めるべく、バトルは低空爆撃任務に借り出され、敵戦闘機と対空火器により、連日甚大な被害を受けた。 1940年5月12日、ドイツ軍のマーストリヒトからの西進を食い止めるため、第12飛行中隊のバトル5機がアルベール運河にかかる2箇所の橋を爆撃した。 これらの橋はいずれも前々日にドイツ軍が空挺作戦により占領したもので、橋を攻撃出来るエベンエマール要塞もドイツ軍により無力化されているので、爆撃して破壊する必要があった。 フェルドウェーゼルトの橋の攻撃に参加したのは以下3機: PH◎K(P2204) 橋を破壊。機は撃墜され全員死亡 パイロット:ガーランド中尉(ヴィクトリア勲章受勲) 観測員:グレー軍曹(ヴィクトリア勲章受勲) 無線手:ローレンス一等兵 PH◎J(L5527) 撃墜され全員死亡 パイロット:マーランド軍曹 観測員:フットナー軍曹 無線手:ペリーン一等兵 PH◎N(L5439) 撃墜され不時着。全員捕虜となる パイロット:マッキントッシュ少尉 観測員:ハーパー軍曹 無線手:マックノートン一等兵 攻撃に参加した全機が被弾し、墜落または不時着した。 フェルドウェーゼルトの橋は1径間が崩れ落ちた。 フェルドウェーゼルト橋に命中弾を落とした機のパイロット、ガーランド少尉と、観測手のグレー軍曹には、戦死後に英軍最高栄誉のヴィクトリア勲章が授けられた。 しかし、ドイツ軍は速やかに仮設橋を架橋したため、この英空軍にとっての戦果も、ドイツ軍の進撃には殆ど影響が無かった。 フルーンホーフェンにある橋の攻撃に参加したのは以下2機: PH◎G(L5241) 橋の攻撃中、対空砲に被弾し観測員と無線手はパラシュート脱出、パイロットは機を不時着。 パイロットと観測員は自軍に歩いて戻ったが、無線手は足を骨折しており捕虜となる。 パイロット:ダヴェイ少尉 観測員:マンセル軍曹 無線手:パターソン(?) PH◎F(P2332) 対空砲と敵戦闘機に撃墜され不時着。全員捕虜となる パイロット:トーマス中尉 観測員:キャレー軍曹 無線手:カンピオン伍長 フルーンホーフェンにある橋は破損しただけだった。 そして、その後も低空昼間爆撃に於けるバトルの被害は大きく、英空軍では1940年10月を最後に前線任務から外した。 その後バトルは練習機、標的曳航機、回転銃座の訓練機などに使われた。 |
エベンエマール要塞の陥落により、ドイツ軍は速やかに地上部隊をアルベール運河西岸に渡らせることが出来た。 ドイツ軍のベルギー侵攻に対応するためベルギー内に進出した英、フランス連合軍は、突如アルデンヌの森を抜けてきたドイツのA集団に後方から回り込まれ、包囲されてしまった。 連合軍はベルギー国境に近い、フランスのダンケルクから英国に脱出した。 脱出したフランス兵の多くは再びフランスに戻り戦い続けたが、ドイツ軍はパリを占領しフランスが降伏、西ヨーロッパ大陸での戦いはドイツの大勝利に終わった。 |
ブリュッセルの王立軍事博物館にて。 |
第一次世界大戦と第二次世界大戦の犠牲者がそれぞれ区分けされ埋葬されている。 墓標は同じデザイン。 将来拡張されて第三次世界大戦コーナーが出来ないことを願うばかりだ。 第二次世界大戦中の民間人(レジスタンス)の犠牲者も埋葬されている。 |
ブリュッセルの王立軍事博物館にて。 |