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電撃戦とストンヌ村攻防戦
Battle of Stonne and the Blitz

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。
そしてフランス、英国が共にドイツに宣戦布告したものの、しばらくはドイツ、フランス共に交戦せず、ただ睨みあう「おかしな戦争」が続いた。
ただしドイツ側はフランス攻略の作戦をしっかりと練っていた。
陸軍参謀長ハルダーは、ベルギーの平野部を通過しフランスに攻め込み、ドイツフランス国境(アルザスロレーヌ地区)のフランス軍を背後から殲滅させる、という計画を立てた。
これはフランス攻略の為に19世紀に作られたシェーフリン計画に基づくものである。
しかしヒトラー総統はこの計画に満足していなかった。正面戦争では準備に時間がかかりすぎる、というのである。
そしてそれはA集団のフォンルントシュテット将軍も同じであった。より奇襲性の高い作戦でなければ突破は有りえない。
突破がならなければ戦線は膠着し、第一次世界大戦の二の毎になってしまう。
フォンルントシュテットは、彼の参謀であるフォンマンシュタイン将軍に計画を立てるよう指示した。
フォンマンシュタインはXIX軍団指令とも相談し、スダンから西進して英仏ベルギー軍の背後を断つことによりパニックを起こさせる計画書を作成し、1939年10月に提出したが陸軍総司令部から却下されてしまった。
あげくにハルダーに疎まれて、フォンマンシュタインはプロシアの軍団の指令に転属となった。
しかしフォンマンシュタインの計画はヒトラーの耳に入り、更にはハルダーの作戦を記した計画書を持った空軍幹部を乗せたBf-108連絡機がベルギーのマースメルヒェンに不時着し、計画書がベルギー情報部の手に渡ったことから、フランス攻略にはフォンマンシュタイン計画が採用されることになる。

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フランス軍にバレることなく、アルデンヌの森林を抜けるドイツ軍、の等身大ジオラマ。フランスの博物館 Musee Guerre et Paix en Ardennes にて。
バイクはツェンダップKS600、車輌はホルヒKfz15、牽引するのはPAK 35/36 37mm対戦車砲。

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いくらアルデンヌの森突破を連合軍側が予測していなかったと入っても、フランス軍の部隊が全く居なかったわけではない。
「おかしな戦争」の時期、駐留するフランス軍、の再現ジオラマ。赤い服はアルジェリアの植民地兵。車輌は左からP107ハーフトラック、1934年式オッチキス25mm対戦車砲、ルノーUEトラクター。
同じくMusee de la Batalle des ardennesの展示。

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フランス国境に近いベルギーの町、ブイヨンは1940年5月12日朝ドイツ軍に占領された。
高台にあるオテルパノラマ(写真中央右上の大きな建物)に、第19機甲師団指令のグーデリアン将軍は指令所を設置した。
その日の夕方、連合軍機の空襲を受けたドイツ軍の隊列は弾薬が誘爆、衝撃で執務室にはガラスが飛び散り、猪頭部の剥製がグーデリアンのすぐそばに落ちたが本人は無事だった。
画面中央左に見える橋は、もう一つの橋(画面外右)共々破壊されており、ドイツ軍は隣に仮設橋を架けて市内を流れるスモワ川(ミューズ川の支流)を画面右から左に向かって渡河した。
川沿いの建物の多くは戦争破壊されていた。
49 4741 N 5 04 20 E (オテルパノラマの座標)

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ブイヨンに於ける、第19機甲師団の車輌がスモワ川を渡河した場所。赤い車の停車しているあたり、浅瀬なので架橋せず渡ったらしい。画面右から左に向けて渡河。
その後師団はセダンでミューズ川を渡るべく南進する。
49 47 49 N 5 04 15 E
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第10装甲師団によるミューズ川の渡河地点。
ちなみに信濃川が千曲川に名を変えるのと同様、この川はミューズ川(フランス)、ムーズ川(ワロン地方でミューズの発音違い)、マース川(オランダ)と名を変える。
49 40 29 N 4 56 52 E

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よく言われるように、アルデンヌ地方の国境沿いにフランスはマジノ線を構築しなかったが(マジノ線はモンメディまで)、小規模のトーチカは点在していた。特にミューズ川沿いの幹線道路沿いのトーチカ群はそれなりにドイツ軍を悩ませた。
ワダランクールの国道沿い、踏み切り際のトーチカ(Bloc220)は全方向から銃撃、砲撃を受けた跡があり、1940年5月13日に立てこもって抵抗し、ドイツ軍の捕虜となった147RIF(要塞連隊)の兵10名が記念プレートに記されている。
49 41 20 N 4 56 21 E

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道沿いのトーチカ。銃眼はミューズ川に向けて開けている。
49 40 18 N 4 56 58 E

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牧草地の真ん中に残る観測所
49 40 02 N 4 57 39 E

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幹線道路沿いのトーチカ。
49 39 48 N 4 58 23 E



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やる気満々(には見えないが)、1940年のドイツ戦車兵。当時はベレー帽着用。
カレーの第二次世界大戦博物館にて。

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やる気まるで無し、のフランス兵たち。少尉(左)と軍曹(右)の顔が全く同じに見えるのだが....
同じく、カレーの第二次世界大戦博物館にて。

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フランス軍の戦車兵。47は大隊番号。

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1940年5月19日にドイツ軍に投降した、第11軽機械化旅団長のGeorges-Saint-Ange Moulin 准将の軍服という。

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1940年5月13日にスダン近郊でミューズ川渡河に成功し、橋頭堡を築いたドイツ第19機甲師団は、翌日、早速西進を開始する。上層部は後続部隊が追いついて橋頭堡の守りを固めるまで待つよう指示していたが、グーデリアンはこれを無視してスピードこそ命であると西への進撃を開始した。
その一方で南から反撃を試みるフランス軍を押さえる為、グーデリアンはグロスドイッチェランド歩兵連隊と第10戦車大隊をスダン南方のストンヌ高地に向かわせた。
フランス軍はスダン陥落にパニックとなり総崩れになりつつあったが、組織的な反撃による橋頭堡奪還の為、フランス第2軍は隷下の第21軍団を送り込んだ。
写真はミューズ川からストンヌに向かう道。高台の上にストンヌの村がある。ストンヌに向かうドイツ軍の第10戦車大隊も同じ光景を見たのであろう。左の小高い丘が335高地、通称Pain de Sucre (砂糖の塊の意味。英語のシュガーローフに相当。リオの有名な丘や沖縄の戦地と同じだ)。
49 33 06 N 4 56 44 E

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335高地から北側への眺め。クリックで拡大。
この眺望の為にストンヌは戦略的に重要な意味を持つ。
すなわちフランス軍がここを占拠すれば敵の動きを追ったり着弾観測が出来るので効果的な反撃が出来る。
一方ドイツ軍は橋頭堡安定確保の為にここを渡す訳にはいかなかったのである。
49 32 60 N 4 55 56 E (見晴台)

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第21軍団指揮官Flavignyはフランス軍において戦車運用の権威の一人であった。
ストンヌ高地に向かう途中、ビュルソン村の戦いから敗走する213歩兵連隊の将校から「ドイツ軍の何百もの戦車がミューズ川を渡って攻めてきている」と伝えられた。
Flavignyが受けている命令は、ドイツ軍がパリへ南下出来ないように道沿いに予備的な防衛線を築きながら、セダンのドイツ軍を攻撃する、である。しかし大規模なドイツ軍が南下しているのであれば、防衛線を強化すべきではないか?
彼は反撃ではなく防衛を選んでしまう。

1940年5月15日早朝、4号戦車6輌の車列が北側から村に侵入し、村の目貫道を東から西に進んだ。路地に配置されていたフランス軍の25mm対戦車砲が、先頭のW号戦車を破壊、続いて2輌目も停止させ、3輌目は燃料弾薬に引火して木端微塵に爆発した。
写真左側の路地(現在は無くなっている)に25mm対戦車砲が隠れており、画面手前から奥(西)に進軍するドイツ軍W号戦車の隊列が襲われた。
49 33 02 N 4 55 42 E

25mm対戦車砲は村の西に再配置され、間もなくドイツ軍の歩兵隊とU号戦車が現場に到着、破壊されなかったW号戦車と共に村を占拠し、外周の守りを固めた。ストンヌ村は15日朝、ドイツ軍が確保した。

尚、写真の、ストンヌ村を通る県道9号線は、現在、「1940年5月15日通り」という名が付けられている。

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フランス軍は反撃して村を奪還しに来た。オッチキスH39戦車13輌が街に攻め込みドイツ戦車を破壊したが、一部が返り討ちにあった。H39には歩兵が付かなかったのでやがて村から撤退した。
次にフランス戦車、B1bis 3輌が村に侵入した。巨大な車体にドイツ歩兵はビビッて後退したが、B1bisとしても味方フランス歩兵が随伴していないので村には侵入せず、村の外で停止した。
写真はソミュール博物館のB1bis。砲塔の着弾跡が生々しい。
板金プレス加工のキャタピラがチャームポイント(かよ?)
運転手が操作する75mm砲は上下のみで左右には動かない。
このため精密な旋回制御が出来るナデラ型トランスミッション(油圧サーボにより、デフを介しての出力左右配分を制御する)が備えられていたが高度なシステム故に故障に悩まされ、稼働率が下がった。
教訓:フランス人は高度な機構に挑戦してはいけない。名古屋空港のエアバス墜落事故も人災だ。

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ドイツ軍はB1bisを仕留めようと写真(ドイツのジンスハイム科学技術博物館撮影)の様な37mm対戦車砲3門を持ち出してきた。
B1bis戦車は前進を始めた。ドイツ軍の37mm砲が発砲したが、弾丸はB1bisの分厚い前面装甲にことごとく跳ね返されてしまった。
フランスの戦車は無線の欠如(他の戦車や歩兵と連携できない)、故障率の高さ、航続距離の短さ、巡航速度の遅さといった欠点があったものの、基本的に装甲は丈夫で、いざ戦場ではドイツ軍の37mm対戦車砲は歯が立たなかった。
対戦車砲隊はピンチに陥る。その時、ドイツ軍はB1bis車体左側面(ドイツの記録では右になっているが実際には左。戦闘の混乱で勘違いしたか、向かって正面右という意味か?)のグリル部に気づき、そこを狙った所エンジンに命中し発火した。
他のB1bisもドイツ軍が撃破した(こちらはW号戦車によるものか?)。
その後もフランス軍のB1bis、H39、FCM36が続いたが村を奪還できず、準備砲撃に続く歩兵を随伴した軽戦車によりフランス軍は15日昼前に村を奪い返した。

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村の西端にある給水塔(外部に損傷が目視確認できないので戦後再建したもの?)は村及び村に近づく敵を俯瞰できるのでドイツ軍が機銃を設置した。
49 32 58 N 4 55 26 E

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5月15日中に村はドイツ軍→フランス軍→ドイツ軍と何度も占領者が変わり、15日夜はドイツ軍の支配下にあった。
16日未明のフランス軍によるストンヌ村への準備砲撃に続き、17輌というまとまった数のB1bis戦車が村の西から村を攻撃した。
写真はストンヌ村に保存されているB1bis戦車。この位置、この方向から攻撃してきた。
車体左側面のグリルは、砲撃されるとエンジンに命中してしまうアキレス腱。
ソミュール博物館の車輌同様、ストンヌ村のB1bisも多数の着弾の跡がある。
49 32 59 N 4 55 26 E

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隊長のビヨット大尉の駆るB1bis「ウール(Eure)]号は村の教会前あたりで目貫通りに入った。
通りの左右には、フランス軍攻撃の為に車列を組む準備をするドイツ軍戦車(U号戦車が主体、一部V、W号)が10台以上並んでいた。
ビヨット大尉は、運転手(75mm砲手を兼ねる)に先頭の戦車を攻撃する様命じると共に、自らは47mm砲で最後尾の戦車を砲撃した。(47mmで先頭、75mmで最後尾とする資料もあるが?)
写真左が教会、「ウール」号は教会向かい、画面右側(一番右の電柱付近)から目貫通りに突入し、画面奥から手前に向けて進撃した。
49 33 02 N 4 55 37 E

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目抜き通りに入ったビヨット大尉のB1bis「ウール」号は、先頭、最後尾のドイツ軍戦車を攻撃して身動きが取れなくした後、前進(画面奥から手前に向けて)しながら全ての戦車を破壊した。ドイツ軍も手をこまねいて見ているだけでなく応戦したが全く効果が無く、「Eure」号はこの間140発の命中弾を受けながらどれも貫通しなかった。
近辺の建物はストンヌ村攻防戦でことごとく破壊された為、いずれも再建されたもの。
49 32 59 N 4 55 50 E

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335高地から見下ろす。
49 32 60 N 4 55 60 E (撮影場所)
ビヨット大尉の「ウール」号はまず画面中央奥から画面左下にかけてドイツ軍戦車の隊列を破壊しながら進んだ(目貫道はこの写真では見えない)。
道はヘアピン状に180度左カーブし、画面右の、麓に下る道に通じている。
このヘアピンの途中(画面中央下あたり)にドイツ軍の37mm対戦車砲が待ち構えており、「ウール」号はこれを破壊。更にヘアピンを曲がりきり、画面右の下り坂の一本道を少し進んだ所にいた別の37mm砲も破壊。その更に先にまで進んでからUターンして村まで戻ってきた。
街道左右には13輌の破壊されたドイツ軍戦車が無残に並んでいた。
ただし、前日に破壊された車輌も含まれているはずなので実際に「ウール」号が破壊したドイツ軍戦車は10輌程度か。

「ウール」号車長のビヨット大尉は、ドイツ軍B集団を迎え撃つ為ベルギー侵攻したフランス第一軍指令ビヨット将軍の息子。
ストンヌでの活躍の後も「ウール」号を駆りドイツ軍と戦い、6月13日のポセエスの戦いで駆動系損傷により「ウール」が動けなくなると、敵の手に落ちないよう、クルーが自ら破壊した。
この時ビヨット大尉は負傷し、ドイツ軍の捕虜になった。
しかし転んでもただでは起きない、ドイツ領ポメラニア(犬でおなじみ....)の捕虜収容所から脱走に成功しソビエトに逃れ、自由フランスとしてモスクワ、イギリスに所在、パリ開放に参加した。将軍に昇進し戦後まで軍に在籍した後政治家に転向し、各大臣を務めると共にパリ郊外のクレテイユ市長にもなった。

とにもかくにも、「ウール」号の活躍もあり16日の朝、ストンヌはフランス軍のものになった。
しかしその後ドイツ軍の激しい砲撃に耐えられずフランス軍は村から撤退し、夕方ストンヌはドイツ軍が占領した。

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1940年5月15日〜17日の3日間で、ストンヌ村の占領者はドイツとフランスが交互に17回も変わった。結局ドイツ軍はストンヌ村を確保し、ストンヌ周辺での戦闘は更に1週間程続くが、ドイツ軍にとってセダンでの橋頭堡保持と渡河は問題なく、フランスは反撃の機会を失ってしまった。

その間B集団の主力は破竹の勢いで西進、1940年5月20日、グーデリアンの率いる第19機甲師団の先鋒部隊が英仏海峡に到達した。
B集団の攻撃を迎え撃つ為にベルギーに入ったフランス軍、BEF軍とベルギー軍は完全にドイツ軍に包囲された。フランス電撃戦は成功したのである。

写真はストンヌ村の東端、335高地麓に記念として置かれている戦後のAMX13軽戦車。
戦車を上から俯瞰できる機会は意外と少ない。
前方配置のエンジン、エンジン横のドライバーシート、砲の上下と共に動く上部砲塔(キューポラも迎角が付いてしまうがいいのか?)など色々と面白い。
49 32 58 N 4 55 55 E



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さて、これまでアルデンヌの森林地帯を抜けたドイツ軍が、ミューズ川を渡りストンヌ村を押さえるまでを見てきたのだが、ストンヌ村周辺ではその後もしばらく戦闘が続いていた。
ストンヌ村を基点に周回する歴史街道が設定されており、標識もしっかりしており案内解説が15箇所(地図上A〜O)にある。
ストンヌ村を基点に、この歴史街道を紹介しよう。
道中の解説パネルはそれなりに詳しいが、一部内容は場所により重複しており、ここでは細かい部隊名なども省略して紹介する。
フランスの大都市から遠く、公共交通機関での訪問はまず不可能、周りに目ぼしい観光地も無いが、フランスの長閑な田舎の丘陵地帯のドライブが楽しめる。
そんな辺鄙な所行けないよ、という方は、2017年1月現在グーグルのストリートビューで近辺が殆ど網羅されているのでバーチャルな旅をするのもよろしいかと。
地名はこの地図を参照下さい。
地図の元ネタは、ストンヌ村のB1bis戦車向かいにある石板地図。

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ストンヌ村の外れ、地図上"B"にはドイツとフランスの仲直り記念碑がある。1962年5月除幕。
...うーん、本音では今もドイツ人はフランス人が嫌い。ドイツ人と話すと判る。
テキト〜に付きあってやれ、というのが本当のところだろう。この記念碑もテキトーな付き合いのためのもの。
ドイツ〜フランスは陸続きなので、嫌い合いながらもテキトーな付き合いをしないといけない。
49 32 30 N 4 54 38 E 地図上"B"

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ストンヌ村からレ グランド アルモワーズに向かう道路がアルモワーズ川を渡る橋(ガードレールが左右にあるあたり)の下には野戦病院が置かれた。
49 32 05 N 4 53 48 E

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14日〜24日までの間、レ グランド アルモワーズはストンヌ高地制覇を目指すドイツ軍の主要攻撃目標であった。
交通要所でありフランス軍の連隊司令部も置かれていた。
村の南西に隣接するフェの森には補給所が隠されており、これを発見したドイツ軍は空爆、砲撃を加えたので村は廃墟になった。
23日から24日にかけて、ドイツの地上軍が村に隣接する森に迫ってきた。フランス軍は部隊を撤退し、新たな防衛線をスュの森〜オシュの間に築いた。
写真はレ グランド アルモワーズの村。背後の森林はフェの森。
49 31 55 N 4 53 32 E (地図上"C"、解説板の座標)
49 32 01 N 4 53 39 E (写真撮影位置)

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レ グランド アルモワーズの教会。ドイツ軍は左奥方向。
ニワトリ放し飼いは東南アジアでは当たり前の光景(私の会社の近くでも放し飼い。あるいは野良?)だけど、フランスだとかなりのド田舎の証拠。
「あの人小さな風見鶏、私達は立派なニワトリよ」
ちなみに私のサイトのタイトル「戦跡散歩」は「遺跡散歩」のオマージュです。わかる人には判ると思いますが。
散歩といいながら大部分の戦跡は車で回っています。
49 31 53 N 4 53 35 E

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14日、フランス軍の歩兵と砲兵が到着するまで、この地で偵察隊がドイツ軍の侵入を抑えていた。
15日、フランス軍は戦車による反撃を試みたが壕により進めず断念。23日になって増強されたドイツ軍は森林地帯全体で攻撃に及び、濃密な砲撃の支援も受けていた。西と南からドイツ軍が迫り、24日から25日にかけての夜、フランス軍がスュに向け撤退する際には細い回廊しか残っていなかった。
49 33 22 N 4 51 38 E 地図上"D"

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フランス軍第一軽騎兵隊が守るこの地域は、23日にドイツ軍の大規模な攻撃を受け、タネーを見下ろす276高地を占領されてしまう。
一旦はフランス戦車の反撃でドイツ軍を撃退したものの、24日にドイツ軍の再度の攻撃を受けタネーが占領され、一帯を南から包囲される危険が迫ったので24日夜〜25日朝にかけて撤退し、新たな防衛線をスュの森〜オシュの間に築いた。
49 32 50 N 4 51 04 E 地図上"E"
写真左の高台が276高地。タネーの村は前方。

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アルデンヌ運河を渡りタネーに通じる道。前方(東)がタネー村。これは攻撃をしかけるドイツ軍の視点。奥にバール川が流れる。
49 31 53 N 4 48 59 E

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バール川を渡りタネーに通じる道。タネーの教会が見える。
49 31 42 N 4 49 27 E

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5月17日、ドイツ軍はタネーの村を西方から攻めていた。フランス軍はアルデンヌ運河の東に陣取っていた。
22日にフランス軍は部隊交代と共にバール川東岸まで後退したが、23日の朝、ドイツ軍の6個大隊の攻撃を受けタネー村の東に退却した。
午後には戦車の支援を受けてフランス軍が反撃、ドイツ軍は道路の西まで後退した。
24日18:00にタネーの村を奪還し、ドイツ軍をアルデンヌ運河の西にまで押し戻すようフランス軍の命令が下った。反撃の統制が悪くフランス軍には大きな損害が出たが、ドイツ軍の攻撃も弱まってきた。
25日に、フランス軍にはタネー一帯からの退却命令が出た。
49 31 33 N 4 50 01 E 地図上"F"
写真はタネー村の中心にある教会。
教会隣にある解説板や記念碑ではこの教会に言及しておらず、情報も無いのだが、何とこの教会、地上階部分に銃眼が多数設置されている。縦長は弓矢の時代の開口部にも見えるが、横長銃眼の形状はどうも近代(20世紀)のもの。1階部分は上部と石の色が違い、新しいようにも見える。こんな教会はここでしか見たことが無い。
銃眼は主に西向き。また、教会の東側(方角的にはフランス軍が反撃する側)は弾痕が多数見られる。
教会が何時建てられたのか、トーチカ構造は最初から設けられていたのか、内部はどうなっているのか、1940年5月の戦いではどのような役割を果たしたのか、など興味と疑問は尽きないのだが、残念ながら情報が無い。

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15日、ドイツ軍はバイロンとル シェーヌを占拠したが、フランス軍の防衛によりアルデンヌ運河とバール川は渡らせなかった。
しかし23日には276高地が占領され、24日にはタネーの村が占領されてしまう。フランス軍の反撃で村は奪還できなかったが、この交差点や近くの(西の)バール川にかかるの橋はフランス軍が死守した。
49 31 09 N 4 49 28 E 地図上"G"

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276高地は近辺を見下ろす戦略的に重要な拠点だった。
23日のドイツ軍による大規模攻撃では、ドイツ軍がアルデンヌ運河、バール川を渡り276高地とタネーの村を占領されていまう。同日フランス軍の反撃で276高地は奪還された。25日には一帯を退却し、ドイツ軍による包囲を免れた。
49 31 22 N 4 51 21 E 地図上"H"

19400516_BattleOfStonne_35.jpg
フランス軍の第45戦車大隊はH39戦車を装備し、14日から戦闘に参加して、ロクールの森で最初に会敵してからはストンヌ村争奪戦及びデュー山の森の戦いに参加。
23日に276高地がドイツ軍の攻撃により占拠されてからは、この交差点を通り反撃に参加、多大な犠牲を出しながら276高地の東側を奪還した。
49 31 27 N 4 51 56 E 地図上"i"
画面奥がスュの村、276高地は背後右。

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レ グランド アルモワーズ〜スュ〜ブリユ シュル バールを結ぶ街道は5月14日〜25日にかけて主要な補給ルートであった。
このためドイツ軍は砲撃、爆撃を激しく行った。スュ〜ラ ベルリエールの間に4、ブリユ シュル バールに1隊が配置された。
5月23日の反撃時には2万発以上の砲弾を発射した。
25日の撤退で、砲兵はオート(Authe:ブリユ シュル バールの南。地図外)地区まで撤退し、6月7日まで砲撃による支援をした。
49 30 57 N 4 52 08 E 地図上"J"
スュの村に砲兵隊駐留を記念してM1897 75mm速射砲が置かれている。
これは19世紀の設計で世界初の水圧式駐退複座機を備える。第二次世界大戦時も現役だった。当初木製スポーク付のタイヤだったが展示品は近代的なゴムタイヤ付になっている。
この大砲、向きが南西を向いているが、当時敵は北に居たはず....

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オシュとラ ポルカを結ぶ尾根は北側を見渡す戦略上優位な場所になる。
5月25日から6月9日までの間、フランス軍はここに塹壕、鉄条網、地雷を設置し守備を固めた。
6月9日〜10日にかけてドイツ軍は猛攻撃を仕掛けてきた。フランスはしぶとく守り抜き、ドイツ軍は途中負傷兵回収の為2時間の停戦を申し入れるほどであった。オシュの村は完全に破壊された。
南の背後をドイツ軍に取られ、包囲される危険性を察して、フランス軍は6月10日〜11日の間の夜にかけて撤退した。
49 30 21 N 4 55 45 E 地図上"K"

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サン ピエルモン村入口の、農家の家の玄関周り・窓の周りには弾痕が残る。
着弾の方向から見て、家に立てこもるフランス軍に対し、画面右奥から攻めるドイツ軍が発砲攻撃したものと思われる。
49 29 07 N 4 56 09 E
当サイトのトップページの写真はここのもの。

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サン ピエルモンに立つ第一次世界大戦の戦没者追悼碑。
この類の碑はフランス中にあるが、ここの碑はフランス兵の像が着色されているのが珍しい。
映画「ブラックボード 戦火を生きて」に同様の記念碑が映るが、最近はフランス中にもあるのだろうか。
第二次世界大戦が始まるずっと前に建てられたはずのこの像、フランス兵の見つめる先からドイツ軍精鋭が攻めてきたのだから皮肉なものだ。
台座には近辺出身の兵で犠牲になった9名の名前が彫られ、その下には1940年5月20日に戦死した1名の名が記載されている。
台座を取り囲むのはグレーに塗装された、信管を抜かれた砲弾。
49 29 09 N 4 56 18 E

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6月9日に始まったドイツ軍の猛攻撃の中、ラポルカの集落にいるフランス軍はここを守り続けた。
午後になって、フランス軍はルノーFT-17戦車の支援を受けながら歩兵が反撃を試みたが失敗した。
10日の時点でも持ちこたえていたが、南部に敵が回りこみ包囲されるのを恐れて、フランス軍は6月10日〜11日の間の夜にかけて撤退した。
49 30 26 N 4 57 38 E 地図上"L"

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ラ ポルカの集落に居た警戒心の強い犬。ドイツ車が嫌いなのか、フランス人ともドイツ人とも違う匂いのする東洋人が嫌いなのか?

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5月14日、フランス軍はストンヌとボーモンを結ぶ防衛線を築いていた。
これを支援する為、ソモトに砲兵が配置された。
49 29 56 N 4 59 09 E  地図上"M"

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5月15日、ロクール(地図外、ラ ブサスの北)、ラ ブサスからヨンク、ボーモン方面に向けて、ドイツ軍は戦車の支援を受けた猛攻撃を仕掛けてきた。後にラ バニョールの交差路にも攻撃してきた。
フランス軍は午後反撃し、先遣隊はムーゾン(地図外 ホンクの北東)まで達し、ストゥネに通じる道はフランスが押さえた。
5月16日、ドイツ軍はラ ブサスからラ バニョールにかけて航空機の支援を受けながら再度攻撃してきたが成功しなかった。
しかしフランス軍は包囲されることを恐れて、ストンヌとボーモンを結ぶ防衛線に戻った。
49 32 39 N 4 58 25 E 地図上"N"
ラ バニョールの交差路を南の記念碑の位置から見る。ドイツ軍は前方、手前が守るフランス軍。

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5月14日に、ストンヌ〜ボーモンを結ぶ防衛線を構成するためにここレ サンドゥリエールの農家の周りにもフランス軍部隊が配置された。
15日にドイツ軍の攻撃を受けたが持ちこたえた。17日、ドイツ軍は猛烈な準備砲撃に続き、レ サンドゥリエールのフランス軍を殲滅にかかったが、頑固なフランス軍の抵抗を破れなかった。
23日、信じられないほどの砲撃の後、ドイツ軍は農家の周りに煙幕を張って攻撃しフランスの防衛線を突破した。フランス軍の果敢な応戦むなしく、敵の数に押されて損害が増え、弾薬も乏しくなり、生き残った20名程のフランス兵は降伏した。
49 32 45 N 4 56 49 E 地図上"O"

以上にて、ストンヌ村を基点に周回する歴史街道の旅はおしまい。


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(BGMは映画「禁じられた遊び」のテーマで)
「ボッシュにあっという間に負けちゃったよ...」
「C'est la vie (セ・ラヴィ)、しょうがないね、かれら異常に動きが良かったから...」
「ウィ、じゃあメシでも食おう。」
という会話が聞こえて来そうな、捕虜になったフランス兵のイケメンスキンヘッドマネキン。
カレーの第二次世界大戦博物館にて。

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電撃戦の最中、撃墜されたモランソルニエMS406の尾翼部分。ラダー舵面は当時主流だった布張りではなく金属製の様だ。
当機は、フランス空軍III/6戦闘グループの、第5飛行中隊所属でランス近郊のヴェル チュイジー飛行場をベースとしていた。
1940年5月21日、カンブレ南でのミッション中、ドイツ空軍戦闘機に撃墜され墜落、パイロットのThiroux軍曹は死亡した遺体は翌年4月になるまで発見されなかった。
ゴネリューに埋葬されたが、この尾翼の残骸は牧師が教会のオルガンの後ろに隠しておいた。1979年に再発見され、ランスの降伏調印博物館に展示されている。



フランス映画「禁じられた遊び」(1952年)
暗い。とにかく暗い。救いようの無い暗さと、救いようの無いストーリーと、救いようの無いラスト。
多分淀川長治さんだったと思うが、「主人公の女の子が可哀想だとおもったら思いっきり泣いてください」とTV放映が始まる前に念を押していた。
でも結局泣けなかった。主人公の女の子や少年に感情移入出来なかった。
ドイツ空軍の戦闘機が地上攻撃するというので目を凝らして見ていたが、Bf-109ではなく108だった。これは悲しかった。
ドイツがフランス侵攻する時の話だけど、ドイツ軍はBf-108しか出てこなかったのが悲しかった。
そんな風に映画を見ているとロクな大人にならないな、と少年ながらに思った。
確かその時は中学生だった。
当時、周囲ではギターを習うのが流行っていて、多くの人がこの映画のテーマ曲を弾いていた。あちこちで暗いメロディが流れた。皆下手だった。
僕はギターには見向きもせず、プラモを作っていた。ハセガワの1/72、Bf-109だった。
それ以降この映画見ていないと思う。でも結構強烈に覚えているのでインパクトのある映画だったのだろう。
そしてやはりロクな大人にならなかった。


フランス、ベルギー合作「ブラックボード 戦火を生きて」(2015年)
日本では劇場未公開。先ほどTVで見た。
英語タイトルはCome What May(何が起きようとも...) Mayは電撃戦の5月に引っ掛けているのかな?(考えすぎ)
これも暗い。しかしこちらは面白い。ジャンルとしては戦争サバイバルものだろうか。
戦争難民の話なのは禁じられた遊びと同じ。
ドイツ軍のフランス電撃戦の最中、パドカレーの小さな村の住民がディエップに疎開しに行く話。
1940年の話だが、舞台は第一次世界大戦中に戦線が停滞していた地域なので、英軍戦没者墓地などが登場する(墓石は戦後仕様では?)。
フランスの村民の疎開スピードは遅く、途中でドイツ軍に追い抜かれる。
話は面白いので見入ってしまうのだが、やはり兵器に気が行ってしまう。
飛行機はJu-87がCGで登場。ヤダな、CG。 戦車もCGか。V号戦車にV突が混ざっている。
そんな映画の見方をしている私、やはりロクな大人にならなかったな...




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