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バトルオブブリテン
Operation Sea Lion / The Battle of Britain

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ロンドン中心部にあるバトルオブブリテン記念碑のレリーフ。
爆撃を投下するドルニエ爆撃機、迎撃する高射砲、恐れおののく市民。
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英国スコットランドのエディンバラから、フォース川を渡って北上するフォース鉄道橋。
2015年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
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ドイツ空軍による、第二次世界大戦初の英国本土への爆撃空襲は、1939年10月16日、このフォース鉄道橋の東側(画面だと橋の右側)の河口に停泊しているという情報の入った、巡洋艦HMSフッドを狙ったものだった。
Ju-88型爆撃機12機で襲撃。英国側は早期警戒が機能せず、敵機が上空に現れてから対空砲が配置に付く有様だった。
列車は通常通り運行しており、橋を渡る列車の窓から、攻撃の水柱やドイツ空軍爆撃機がそばに見えたので、乗客は列車と橋が攻撃されているのではないかと思い生きた心地がしなかったという。
(攻撃目標は橋ではなく軍艦。英民間人を殺傷しないようヒトラー直々の通達が出ていた)
当日フッドはドック入りしており、爆撃機は代わりに停泊中の他の英海軍艦艇を攻撃し、英国側に死者24名、負傷者44名の損害が出た。
実戦初参加となるスピットファイアが出撃し、ドイツ空軍爆撃機3機を撃墜、内パイロット4名が捕虜となっている。
この襲撃の模様はGPOフィルム(英国郵便局の一部門)が戦意高揚映画に使用し、(軍艦ではなく)橋が攻撃されているという内容になっている。
バトルオブブリテンが始まるずっと前、おかしな戦争の間の出来事だったが、これを機に英国本土の防衛が強化されることになった。
尚、当初目標であったHMSフッドは、1941年5月24日にドイツ戦艦ビスマルクとの海戦により爆沈している。


BEF(英軍の海外派遣軍)がドイツ軍に囲まれダンケルクから命からがら撤退し、フランスが陥落すると、ヒトラーの次の目標はソ連だった。
欧州情勢を不可解たらしめた独ソ不可侵条約はあったものの、ナチスと共産党は共存出来ず、ソ連はヒトラーが遅かれ早かれ対決しなければならない敵だった。
ただ、英国とソ連との同時2面戦争は避けたい。第一次世界大戦の二の舞は御免だ。しかし、今回はフランスを屈服させる事が出来た。
英国は大陸での戦争に敗北した。ヨーロッパ大陸はナチスドイツのものになった。英国は講和を協議するテーブルに間もなく着くだろう。

ところが英国は休戦講和に応じる気は全く無かった。
フランスが降伏する直前、首相のチャーチルは国会で演説した。
「フランスの戦いは終わった。英国の戦いが始まる」
そして、「もしも大英帝国とその連邦が千年栄えるなら、(英国の戦いが)最も輝いた時だったと称えられるだろう」と締めくくった。

1940年7月16日、ヒトラーは英国上陸作戦の準備を進める様に命令した。
作戦はアシカ作戦 (ドイツ語:Unternehmen Seeloewe 英語:Operation Sealion)と名付けられ、決行は9月中旬に定められた。
数週間の内に港に船舶多数と艀2000隻以上が集められた。
ヒトラーは、作戦の準備を英国が察知して交渉のテーブルに着くかもしれない、と期待した。

上陸には英仏海峡横断が必要だが、英海軍が強大な勢力を誇るのに対しドイツ海軍はノルウェー戦で大打撃を受けていた。
この為、レーダー提督は、上陸作戦が英海軍の妨害を受けるので完全に制空権を握っていないと無理だ、と進言していた。

この時、ドイツ空軍は2800機の航空機が使えた。英国はその半分の1500機くらい。
しかし英国にはレーダー防空網がありドイツ空軍の襲来を早く知ることが出来るはずである。
また、英本土にドイツ軍機が攻める形になるので、ドイツ機の撃墜はパイロットの損失を意味するのに対し、英側は例え撃墜されてもパラシュート脱出出来れば(着地後、パブで一杯引っかけた後で)原隊に変える事が出来た。不時着出来れば飛行機も修理できるかもしれない。

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「英国を救った」スーパーマリンスピットファイアー。
バトルオブブリテンではT、U型が活躍。
「私にスピットファイアを下さい」とガーランドがゲーリングに言った台詞は有名だが、総合性能はBf-109と互角だろう。
武装、旋回性能、生産性、速度、機動性など性格の異なる機体の比較は難しいが。共通するのは両者とも航続距離がかなり短いということ。
だたし迎撃に徹するスピットファイアの場合それは問題にならなかった。
写真は、英国コスフォードの空軍博物館に展示されているスピットファイアーT初期型。
風防が膨らみのないストレートタイプ。
機体下面は右半分が白、左半分が黒。これは識別を容易にして、かつ高射砲の狙いをそらせるため。効果あったんだろうか?その後消えたところを見ると効果無かったんだろうな。
映画「ダンケルク」に登場するスピットファイアがこの下面塗装を施されている。

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バトルオブブリテン参加機中、唯飛現在行可能な機体でバトルオブブリテンメモリアルフライトの所属のTa型
オランダのフォークル空軍基地の航空ショーにて撮影。

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同じくスピットファイアーTa型。ロンドンの科学博物館にて

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ホーカーハリケーン。鋼管組み布張りという旧式構造ながら安定した性能で、主に爆撃機への迎撃に活躍した。
バトルオブブリテンではT型が活躍し、途中から速度に勝るU型が参加。
写真はロンドンの科学博物館にて展示されているT型。

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ボールトンポールデファイアント。重い、遅い、前に撃てない、狭くて銃手はパラシュートを着けられない、など、駄作機の代表格。
損害が大きすぎて全機用廃にしてマーリンエンジンだけハリケーンやスピットファイアに乗せ替えるという案が出たほど。
昼間戦闘機として使用していたが損害の多さに夜間の対爆撃機へと切り替え。
結局1941年には前線を離れて銃座の射撃訓練やドローン曳航といった任務に回された。
この機体はMkTの夜間戦闘機型で、唯一完全な形で残っている貴重なもの。
ロンドンの英空軍博物館の展示だが現在は再レストア中らしい。

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イギリスとは地球の反対側に位置するニュージーランドの空軍博物館にて。
バトルオブブリテンにて、敵機来襲に備えて待機する間、犬と遊んだり雑誌を読んだりして時間をつぶすニュージーランド空軍のパイロット。
長い退屈な待機時間と、短時間の決戦だったという。

1940年7月10日〜10月31日までの間に1回でも出撃したパイロットは2937名で、内8割の2342名は英国籍。
残りはナチスドイツ本国占領に伴い英国に亡命したポーランド(145名)、チェコ(88名)、ベルギー(28名)、フランス(13名)及び英連邦/英植民地のニュージーランド(127名)、カナダ(112名)、オーストラリア(32名)、南アフリカ(25名)、ローデシア(3名)、バルバトス(1名)、ジャマイカ(1名)、ニューファンドランド(1名)、更には中立国の米国(9名)とアイルランド(10名)からも参戦している。

英空軍隷下にポーランドが第302、303飛行中隊、チェコが第310飛行中隊、カナダが第1飛行中隊を有していた。

有名な「イーグルスコードロン」は3つの飛行中隊から成り米国人のボランティアパイロットにより構成されている(英国人も含まれている)が、上記期間中、1940年9月に第71飛行中隊が稼動したばかりなので米国籍パイロットのバトルオブブリテン参戦は9名に留まる。
(他に国籍をカナダなどと偽って参戦した米国人が相当いるらしい)
1941年5月には第121飛行中隊が、同年7月には第133飛行中隊が加わった。
1942年9月には3飛行中隊は英空軍から米陸軍航空隊の第8空軍隷下にスピットファイア戦闘機共々転籍された(後にP-47に入替え)。
これらは米陸軍航空隊の第334,335,336飛行中隊となり、現在はF-15Eストライクイーグルを装備している。

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アメリカ・カリフォルニア州サンタモニカの航空博物館で、カナダ製ホーカーハリケーンMK.XIIの前に立つイーグルスコードロンのパイロットのコスプレ。


6月、7月とドイツ空軍は英国の港湾施設及び、英国海峡を往来する輸送船を狙って攻撃していた。
8月12日、ドイツ空軍の第210実験飛行隊 (Erprobungsgruppe 210) が英軍の防空レーダー基地4箇所を襲撃した。しかし被害はすぐに修復された。
1940年8月13日は鷲の日(アドラータグ)と言われる。大規模な攻撃の初日で、5波に分かれたドイツ爆撃機が英国の航空基地を次々に襲った。
そしてこの日から防空システムと航空基地への攻撃が続いた。
しかし、やがてレーダー基地への攻撃は効果無しと見なされたのか、止めてしまった。
Ju-87はピンポイント爆撃に有効だったが鈍足で英戦闘機の餌食になるので戦線から引き上げた。
Bf-110も空中戦には不向きで、Bf-109では不可能な長距離ミッション以外には余り使われなくなった。
ドイツ空軍の主力はBf-109戦闘機と、He-111、Ju-88、Do-17の双発爆撃機だった。

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ドイツ軍の主力戦闘機、メッサーシュミットBf-109E-3型。
この機体はスペイン内戦に参加し、そのままスペイン空軍で使われた。
戦後、設計者のメッサーシュミット博士の尽力でドイツ・ミュンヘンにあるドイツ博物館の展示品となった。

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こちらも同じくBf-109E-3型。
英国・ロンドン郊外の英空軍博物館所有。
バトルオブブリテンの最中、英国の手に落ち敵機評価に使われたもの。

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これもBf-109E。結構な数が残っている。
ドイツ・ベルリンの科学博物館の展示機Bf-109E-3。

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バトルオブブリテンの最中、4/JG26所属のBf109E-3は英国南部海岸沿いのビーチーヘッドで撃墜され胴体着陸し、パイロットのホルスト ペレツは捕虜になった。
当時の状態に復元されている。
英国・ダックスフォード帝国戦争博物館の展示

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バトルオブブリテンの撃墜王の一人、アドルフガーランドの飛行服。
ハノーファーの航空博物館に展示されている。


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Bf-110。ドイツ・ベルリンの科学博物館にて。
これは東部戦線に参加したF型。
バトルオブブリテンに参加したC型でエンジン周りなどかなり異なるが、残念ながらこの型は完全な形では残っていない。

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急降下爆撃機ユンカースJu-87(の残骸)
初期の電撃戦では地上部隊の支援に大活躍したが、ドイツ側制空権が不完全なバトルオブブリテンでは英戦闘機の餌食となり多大な損害を出し、早々と引き揚げられてしまった。
その後東部戦線で使われ再び大活躍、戦車撃破王ルーデルなどを生み出した。
この残骸も東部戦線のもの。ベルリンの科学技術博物館にて。

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ドイツ軍の主力爆撃機、ハインケルHe-111。
スペイン空軍で使われていたタイプ(CASA2111)は沢山残っているが、これは元祖ドイツ空軍のもので大変貴重。ただし、残念ながらバトルオブブリテン参加機ではなく、1944年に作られた兵員輸送用のHe111H-20型。
英国・ロンドン郊外の英空軍博物館にて。

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こちらは飛行可能なCASA2111。スペインでライセンス生産されたHe-111でエンジン周りが大きく異なるが、このアングルだとオリジナルとの違いはそれ程気にはならない。
映画空軍大戦略では多数出演していたが、今や飛行可能で残るのは本機のみ。
アメリカ・カリフォルニア州のプレーンズオブフェーム博物館主催の航空ショーにて1998年の撮影。垂直尾翼に正しくスワチカが描かれているのがアメリカ流。ヨーロッパの展示機は欺瞞だらけだ。

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ドイツ空軍爆撃機の主力はHe-111だが、他にJu-88、Do-17も使われた。
写真はJu-88だが残念ながらバトルオブブリテン参加の型ではない。
アメリカのオハイオ州デイトンにある空軍博物館にて。

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ドイツ空軍の爆撃機クルー。
カレーの第二次世界大戦博物館にて。

それまでドイツ軍の攻撃は航空基地や産業施設に限っていた。
ロンドンを始めとする都市部への爆撃はヒトラーが禁じていたが、航法ミスなどにより何度か都市部に爆弾が落ちた。
8月24日夜にはロンドンが夜間爆撃された。
8月25日〜26日にかけて、英空軍がベルリンを報復に爆撃した。
9月4日、ヒトラーは演説した。「ドイツの都市への爆撃をやめないなら、イギリスの都市を抹消する。」
ロンドンへの大規模爆撃は9月7日に始まった。爆撃は昼夜問わず続き、子供は郊外に疎開した。
これがドイツ軍にとって命取りになった。

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空襲を受けた街角で住民を励ますチャーチル首相。
ベルギー・ブリュッセルにある王立軍事博物館にて。

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世界最大の観覧車、ロンドンアイから眺めたロンドン中心部。
右下の川沿いにバトルオブブリテンの記念碑(黒い2本の帯状のもの)が見える。
ロンドン随所が爆撃を受けた。

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空襲に備えるお子様。
これじゃあオヤツが食べられないよ....
ロンドンの帝国戦争博物館にて。

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何度か爆撃されたバッキンガム宮殿。
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衛兵パレードは有名。すごい観光客の数。日本も観光立国を目指すなら皇居前で陸上自衛隊のデモンストレーションとかやればいいのに....って、見に行くのはミリタリーマニアだけか。
当時の英国王、ジョージY世は、周囲の避難勧告を無視してロンドンの宮殿に留まり、結果的に市民の励みになった。
ロンドンロンドン楽しいロンドン....確かにロンドンは楽しい。パリ、ベルリンも楽しいがロンドンはもっと楽しい。土曜日の早朝、住んでいたドイツ・デュッセルドルフの空港からスタンステッド空港に格安航空会社で飛び、スタンステッド特急でリバプール駅に到着、地下鉄1日パスを買ってホテルで荷物を預かってもらい、近くの店でイングリッシュブレクファスト、それから大英博物館とか帝国戦争博物館とか英空軍博物館とか科学博物館(全部タダ)を見学し、昼飯はフィッシュアンドチップス。三越を冷やかしてハロッズでバーゲン品購入、オヤツにクリスピークリームドーナツを買って、2階建てバスで市内を徘徊、タワーブリッジやベルファスト、ビッグベン(大きなベン。大便)、ホームズの家など観光名所を見てまわり、夜はインド料理屋でインドビールにナンとカレー、デザートはビアードパパのシュークリーム、日曜夜の便で帰宅という至福の週末を何度か過ごした。

8月24日からドイツ空軍は英空軍基地を集中的に攻撃しており、特に8月30日の戦闘で英空軍には50機の損害が出た。それまでにない損失だ。
ところが9月7日以降、攻撃が航空基地から都市部に移ったことで、甚大な被害を受けていた英空軍の航空隊は立ち直ることが出来た。
主な攻撃目標をロンドンに移したことにより、航続距離の足りないBf-109はロンドン上空での滞空時間が殆ど取れず、護衛無しの爆撃機の被害が増大した。
英軍は航空機の損失に対する補充を、ドイツよりも早いペースで行うことが出来た。

9月15日、ドイツ軍のかつてない大規模な攻撃があった。1000機がロンドンを昼夜に渡り爆撃した。
英空軍は全戦闘機をもって迎撃した。この日、ドイツ軍は60機を失い、英軍の損失は26機だった。
ちなみに英国はドイツ機を175機撃墜したと発表した。どこの国も戦争中やることは同じだ。
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スクランブルでパイロットが駆け出す。
ロンドンにあるバトルオブブリテン記念碑。場所はテムズ川を挟んでロンドンアイの真向かい。
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ヒトラーはアシカ作戦の延期を決めた。もう秋だ。
秋には天候が悪くなり海峡を渡ったり効果的な航空支援が出来なくなる。
やがて英国上陸は事実上の無期延期となり、年末には計画が消滅した。

英国上陸の危機は去った。ただしロンドン他都市部への爆撃は続いた。

バトルオブブリテンが何時終わったか、という決まった日付は無い。
英国では現在、9月15日をバトルオブブリテンの日、としている。
ドイツ軍上陸の危機が無くなった10月末としたり、爆撃機をバルバロッサ作戦に回す為英、本土への飛来がめっきり少なくなった翌1941年5月とする考え方もある。
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写真右下が英国の戦時内閣室(キャビネットウォールーム)の入り口。
ロンドン中心部にあり、空襲を受けたとき内閣が執務を継続できるよう施設の計画は1920年代からあった。
1938年に建設が始まり、第二次世界大戦勃発直前の、1939年8月27日に完成。
場所は閣議室と首相官邸の中間にある。
あくまでも空襲下の臨時閣議場所だったはずが、結局太平洋戦争が終わるまで使われた。
現在は内部が公開されている。
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戦時内閣室内の、チャーチル首相の寝室。。
朝8:30に起き、トレードマークの葉巻に火をつけ、廷臣と話をした後、主要新聞に目を通し、執務を行い官僚・軍幹部と打ち合わせを行った。
昼寝はしたもののその後真夜中過ぎまで打ち合わせを行い、深夜3時過ぎまで働くことが良くあった。
ここに常に寝泊りしていた訳ではなく、首相官邸が空襲で危険と予想される場合に宿泊した。

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戦時内閣室では途中から掃除用具を入れる小部屋を改造して、秘密の電話室を設けた。
チャーチルはアメリカのルーズベルト(後にトルーマン)大統領と、スクランブルをかけた電話で直接話すことが出来た。

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戦時内閣室の中に設けられている地図の部屋。
開設された初日から使われ、日本が降伏した翌日に閉鎖された。その時のままで保存されている。
ドイツは完全に制空権を失った後も、報復兵器V-1飛行爆弾,V-2誘導ロケットで執拗に攻撃した。

1940年の7月〜10月までの間、英側は戦闘機900機以上を失いドイツは戦闘機、爆撃機合わせて1700機を失った。
英連邦は戦死者500名、ドイツは死者・行方不明3000名。



英国の戦い〜バトルオブブリテンはそのものずばり、"Battle of Britain"というタイトルで映画化されている。
何でこれが日本語だと空軍大戦略になるかな〜
映画はまずフランス戦で敗退する英軍から始まり、ダンケルクの撤退をバックに、チャーチルの演説から取った「バトルオブブリテン」という言葉が流れる。
そしてオープニングに流れる曲はAces High、カッコイイけどこれは敵国ドイツ軍のテーマ。
とにかくドイツ軍は最初から最後までやたらとカッコイイ。対して、勝者だけど始終モサいイギリス軍。軍服、トラック、ハリケーン、オネーサン(オバサン)みなイモばっかし。最後は勝ったからいいんだろうけど。
キャストには元オーストリア海軍トラップ大佐、狙撃屋ジャッカル、パイパー改めへスラー大佐、拷問好き歯科医ゼル博士、ネクタイ絞殺魔、海運王ストロンバーグなど、とにもかくにも豪華。
しかし、全編の半分以上が空中戦という内容は、総豪華キャストの存在をも小さく見せる。
とにかく生きている飛行機が乱舞する映画。飛行機は当時飛行可能なスピットファイア(主に\型)、ハリケーンを集めてきた。
ドイツ側の飛行機Ju-52、Bf-109、He-111はどれもスペイン製のもので、スペイン空軍のお古を買い取って使った。
Bf-109(映画ではHA-1112)、He-111(映画ではCASA2111)のエンジン周りが「ホンモノ」とは違うがこれは許そう。
He-111と言えばファンタジー映画、ナルニア物語の冒頭でロンドン夜間空襲のシーンがあり、こちらは本家のHe-111が登場するが、所詮はCGなので臨場感が無い。エンジン周りが多少違ってようとやっぱり実写だ。
ただし、さすがの空軍大戦略も、Ju-87だけはラジコン。
また、ハリケーンは機数が揃わなかったのか、英軍の迷彩に塗りなおしたHA-1112(Bf-109)がエキストラとしてハリケーンの編隊に混ざってたりする。
細かい突っ込み所はあっても、とにかく実機を使った空中戦シーンは大迫力。最近のCG全開のヒコーキ映画の、ヌメっとした機体の質感や、やたらと軽々しい機動が無いのがこれまたいい。
空軍大戦略を超える空中戦映画は永遠に出来ないかもしれない。

「戦場の小さな天使たち」(原題Hope and Glory)はバトルオブブリテン下の英国を描きながら、妙に明るい面白い映画。墜落したドイツ機のクルーがいい男なのでオネーサンが色目使ったり、パラシュートの絹にオバサン達が群がったり、「蟻」の下ネタもナイス。
最後は学校が爆撃されて休校になって子供たち大喜び。
戦争中の市民を描いた映画というと、暗いイメージになりがちなのにこれは明るい。さすが戦勝国(というよりもブラックユーモア大国か)。日本でこんな明るい戦争映画は絶対に生まれないだろう。

イギリス映画「脱走四万キロ」(原題The One That Got Away)は、バトルオブブリテン最中の1940年9月5日に、BF-109E-4に搭乗していたドイツ空軍のエース、フランツ フォン ヴェラが英国件と上空で撃墜され捕虜となり、後に護送されたカナダで1941年1月21日脱走に成功、当時中立だったアメリカに入り、中南米・スペイン・イタリア経由で同年4月18日ドイツに戻ってきたという実話の映画化。
白黒の古い映像だが見ておく価値はある。
こういう内容を映画化する所が戦勝国の余裕。
尚、フォンヴェラ大尉は、半年後にBF-109F-4で飛行中、行方不明になっている。

同じく実話ベースの白黒イギリス映画「殴り込み戦闘機隊」(原題Reach for the Sky)はアクロバット飛行中の事故で両足を失ったパイロットの不屈の物語で、空中戦シーンはバトルオブブリテンを中心に描かれている。
飛行機は実写、記録フィルム、模型を混用しているが、特に実写はスピットファイア(バトルオブブリテンには出ていないXVI型後期マーリンエンジン、涙滴風防)、ハリケーン(これも大戦後半に出てきたU型)の他に、アブロ504K、ブリストルブルドッグ(実際に事故を起こしたのはグロスターゲームコック)などが見られて大収穫。実写フィルムにHS-129が混ざっているのはご愛嬌。
しかし、こうやってみるとバトルオブブリテン関連の映画のタイトルって、どれも原題と日本公開時のタイトルがエラく違っている。

そしてもう一つ、ダンケルクの撤退からバトルオブブリテンまでを描いたのがイタリア映画「空爆大作戦」。原題はイタリア語でLa battaglia d'Inghilterra(英国の戦い)、英語タイトルはEagles Over London。イタリア映画、空爆、大作戦、英国の戦い、鷲のキーワードでもう判ると思うが、こちらはB級の匂いプンプンの映画で、「空軍大戦略」と「鷲は舞い降りた」を足してトマトソースをぶっかけたようなマカロニ戦争映画。
登場人物もやたらとラテンの入った濃ユ〜い男女。どう見ても英国人、ドイツ人には見えないよな...
B級なので飛行機の模型もチャチだけど、模型だけではなく、空軍大戦略同様にスペイン空軍などの実機を塗りなおして使っていてなかなか頑張っている様子。
しかし、ここでB級全開。何と、スピットファイアがドイツ軍の塗装を纏い、そして、BF-109をベースにしているHA-1112が英空軍の塗装なのだ。
最初に(確か高校生の頃)テレビで見たときは「何だこりゃ!?」と目を疑って、それ以来ずっとあれは幻だったのか勘違いだったのか悪夢だったのか、と思っていたのだが、最近DVDをレンタルして見て、やはり英独機が入れ替わっているのを確認。
B級映画とはかくあるべき、といった見本か。
とにかくこんなスゴい勘違い映画がある、という存在感のためだけにでも見ておく価値は充分ある。

間違いなく駄作映画である「パールハーバー」、多くの戦争映画ファンや飛行機ファンの皆様はカウチポテトで画面を指差して「ふざけんじゃねぇよ〜」と激怒していることでしょう。ちなみにアメリカの映画館で見てた非国民は私です。
ご存知の通り突っ込み所満載の映画。
ただ、バトルオブブリテンにそれなりに時間が割かれていて、ここのシーンはそんなに悪くないと思う。零戦vsP40と異なり、スピットファイアvsBf109(実際にはHA-1112を使用)はCGではなく実写が殆どの様で、CG特有の「爬虫類の様な機体の質感」「妙に機敏な運動性」も無いし。
まあスピットファイアは3枚と4枚ペラが混ざっているとか(機数揃えるので難かしいでしょうが)、「イーグルスコードロンに」とかいいながらポーランド人部隊の303飛行隊(コードRF)で飛んでるとか突っ込みどころは相変わらずあるのですが。




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