軽巡洋艦HMASシドニーU 対 仮装巡洋艦コルモラン
Light Cruiser HMAS Sydney II v.s. Auxilary Cruiser Kormoran

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西オーストラリアの北部は、荒涼としたアウトバックが海岸線につながっている。滅多に車の走らないダート道を走っていると、HMASシドニーU記念塚入口の看板が現れる。
24 24 42 S 113 24 18 E


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HSK8コルモラン(奥)と、HMASシドニーU(手前)
この模型は、深海探索チームに、探すべき目標物の形状感覚を掴んでもらう為に製作したもの。

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通常は貨物室に偽装されている150mm砲。ブリッジ下方の喫水線下に開いている穴が魚雷発射口。


【HMASシドニーU】

HMASシドニーUは1934年進水、総排水量8940トン、最高速度34ノット、主砲6インチ砲×8門、副砲4インチ砲×4門、4連装13mm機銃計12門、7.7mm機銃12門、2連装魚雷管計8門を持つイギリス製の軽巡洋艦。
第二次世界大戦勃発後は、中近東及び地中海で作戦に従事、1940年7月26日にはクレタ島沖でイタリア巡洋艦バルトロメーオ・コッレオーニと交戦、これを撃沈している(この時、シドニーは煙突に軽微な損傷を受けたのみ)。
1941年2月9日にはシドニー市にて乗組員が凱旋パレードをしている。
以降、オーストラリア近海のパトロール、シンガポールやニュージーランドでの船団護衛任務などに就いている。
1941年11月19日当時は、シンガポールへの船団護衛任務の帰りで、西オーストラリアのフリーマントル港に戻る途中だった。

【コルモラン】

コルモランは、元々はシュタイアーマークという名の客船としてドイツのハンブルグで建造、1938年に進水したが、客船として就航することなく、まもなく補助巡洋艦として改造された。
補助巡洋艦(ドイツ語Hilfskreuzer、米語Auxiliary Cruiser、イギリス英語ではArmed Raider武装襲撃船)は、連合軍側の艦船を襲撃し、破壊または拿捕できるよう武装を施された船。
武装は150mm砲6門、37mm対空砲2門、20mm対空砲5門
両舷の水面下には魚雷発射管があり、更に機雷320発と、ドイツ空軍のAr196水上機を2機搭載していた。
いずれも隠されており外観は通常の貨物船を装っていた。
総排水量8736トン、最高速度18ノット。
改造に伴い、船名は、獲物の魚を捕まえるのが上手な鵜(う)を意味するコルモランと改名された。
1940年末から実戦参加し、大西洋、インド洋で商船襲撃の他、味方潜水艦への補給などでも活躍し、連合国、中立国の船舶11隻を撃沈または拿捕している。
コルモランは1941年11月19日、オーストラリア西岸沿いに北東に進みながら、シャーク湾出入り口を塞ぐ機雷敷設を行っていた。
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HMASシドニーU記念塚。ここの沖合いで海戦があり、相打ちにより双方撃沈。
また、この海岸一帯にコルモランから脱出したドイツ水兵の多くが上陸した。
この時の救命ボートがカーナボンに保存されているらしいのだが、クリスマス休暇で見学できず残念。
記念塚の座標は24 24 40 S 113 24 08 E
一方、 コルモランの残骸は26 05 46 S 111 04 33 E (水深2560m)
シドニーは26 14 31 S 111 12 48 E (水深2470m)
すなわち海戦場所はこの記念塚の西南西250kmのあたり。

【海戦】

1941年11月19日16:00頃、コルモランはシドニーを発見。補助巡洋艦は商船を攻撃するのが任務で、まともに武装した軍艦相手では不利なので、西に進路を変更し、逆光に紛れて発見されない様にした。
最高速度で逃げ切ろうとしたが、ピストンロッドが破損し14ノットしか出なかった。

しかし、シドニーはコルモランを発見しており、速度を上げて接近しつつ、船名確認を求めてきた。
90分の間、コルモランはオランダ商船「ストラートマラッカ」のフリをして、信号旗での通信(煙突に隠れて相手に見づらい位置に旗をあげたりした)で時間を稼いでいた。

17:00にはシドニーがコルモランの右舷にかなり接近し、もしもコルモランが交戦すれば武装の威力が充分発揮できる距離にまで迫っていた。
しかし、コルモランは逃げ切ることを望んで「QQQQ」(不審船発見)を無線で発進する。つまり、シドニーがオーストラリア近海に居る不審なドイツ艦艇ではないか、襲撃されるかもしれないというメッセージをシドニーに受信させることにより、シドニーにコルモランが連合国側の商船であると納得させようとした。
このメッセージはオーストラリア西海岸のジェラルトンでかすかに受信されていた。恐らく軽巡洋艦シドニーも受信していたことだろう。

次にシドニーは「目的地?」と聞いてきたのでコルモランは「バタヴィア(現ジャカルタ)」と返信。

シドニーは「IK」という二文字を送ってきた。
これは連合国側の取り決めで、オランダ商船ストラートマラッカには「IIKP」という4文字の秘密コールサインが割り当てられており、その真ん中の2文字を送ってきたもの。
本物の船であれば「IIKP」と返信すべきであるが、偽者であるコルモランには知るすべもない。

シドニーは最後に「秘密のコールサインを示せ」と要求してきた。
シドニーとの距離は1300m、コルモランの右舷にシドニーが並ぶ形で、双方14ノットで西南西のコースを取っていた。
もはや民間商船に偽装し続けることは無理である。

17:30にコルモランはオランダ国旗を降ろし、ドイツ海軍旗を揚げて砲門を開いた。

ドイツ生存者の証言によると、砲撃でシドニーのブリッジと管制室を破壊。
魚雷2発を発射。
次に前方砲と艦載機(オーストラリア空軍のスーパーマリンウォーラス偵察機を載せていた。結局発進していない)を無力化。
艦載機の燃料が甲板に飛び散り火災が見えた。
距離が近かった為、37mm及び20mm対空機関砲も発射し効果があったという。

シドニーは残りの砲で応戦し、コルモランの煙突、エンジン、電気系統に命中し、コルモランでは火災が発生。

その時、コルモランが先に放った2発の魚雷の1発が、シドニーの前部砲塔付近に命中。
シドニーは鋭く旋回してコースを南に取り、コルモランとの衝突コースに乗せてきたが、衝突は免れ、コルモランの船尾近くを通過。
距離が離れると共にシドニーは魚雷を4発々射したが命中せず、シドニーは炎上しながら南南東にゆっくりと航行。

18:25にコルモランは射撃を中止し、シドニーは視界から見えなくなった。

水平線の彼方に炎上の明かりが22:00頃まで見えたが、それもその後は時折の点滅となり、真夜中までには完全に見えなくなった。

コルモランも消火が出来ないので艦長が総員退艦を命令、真夜中に自沈装置が作動し、ゆっくりと沈んでいたが、船上の機雷が誘爆して11月20日00:30にコルモラン沈没。

コルモランは乗員393人の内、80名が死亡・行方不明となり、残りは救命ボートでオーストラリア西海岸に辿り着いたり、付近の艦船に救助されたりして戦争捕虜になった。
コルモランの艦長は、1941年12月4日付で、本人不在のまま騎士鉄十字章を受勲している。

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コルモランに乗船していた将校が海中投棄したと思われる1934年型モーゼル拳銃の残骸。
2007年にジェラルトンのサーファーが発見した。

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カーナボンの町に続く道路の両側に、HMASシドニーU犠牲者追悼の植樹がされている。一人に付き1本。
木の前には犠牲者の名前のプレートが埋め込まれたブロックが置かれているのだが、何故か訪問した時にはプレートが無くなっており、ブロックの多くも破損していた。
24 53 55 S 113 41 52 E

【捜索】

連絡の途絶えたシドニーと乗員645名の捜索は11月24日から始まったが何も見つからなかった。
以降、ドイツ捕虜からの証言以外に、シドニーに起こった出来事と消息をたどる方法は無かった。
海戦から8日後に無人のゴムボートや救命胴衣が漂着した。
クリスマス島で身元不明の水兵と思しき救命ボートに乗った死体が1942年に漂着した。
しかし、結局シドニーのものかは判っていない。
「国際法違反の口封じの為ドイツ軍に虐殺されていた」「実は日本海軍の潜水艦が沈めた(本海戦の時点では日本は参戦していない)」といった噂が流れた。
2001年に財団が結成され、シドニーの残骸の捜索に必要な資金を集めだした。
深海ソナー探索の結果、2008年3月12日にコルモランの残骸が見つかった。
「シドニーは南南東に向かって見えなくなった」というコルモラン生存者の話を元に捜索した結果、海戦から66年以上経った2008年3月16日に、長年の謎とされていたシドニーの残骸も発見され、深海探査艇が船体・残骸の写真撮影に成功した。
船体の場所、破損状況などドイツ捕虜の証言と概ね一致している。

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パースから400km北上した、ジェラルトンという町の観光名所のひとつがHMASシドニーU犠牲者の記念碑。
ただしこの場所は撃沈場所から最寄の比較的大きな町ではあるものの、かなり(400km以上)離れている。
ドームを舞う鳥645羽はシドニーUの犠牲者の数。
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シドニーという名のオーストラリア海軍の艦船は4隻ある。
1隻目の軽巡洋艦は第一次世界大戦で活躍。
3隻目は航空母艦で朝鮮戦争参戦、ベトナム戦争撤退に関わった後スクラップ。
4隻目は巡航ミサイルフリゲート観。つい最近の2015年11月に退役。
現在はシドニーという名の軍艦は就役していない。
写真は1隻目のマストを記念に保存してあるもの。シドニー湾に面したブラッドリーズ・ヘッドというこの場所、要塞があったりミッションインポシブル2の撮影地(悪役の屋敷)だったりと興味は尽きない。
33 51 12 S 151 14 47 E
尚、最初のシドニーの主砲はキャンベラのオーストラリア戦争記念館で展示されている。

一方、コルモランも戦後の西ドイツ海軍のミサイル艇の名前で再登場している。
更に西ドイツ海軍の空対艦ミサイルの名前にもなっている。
痛み分けとは言え、よっぽどシドニー撃沈が嬉しかったんだろう、ドイツ海軍。
そろそろ海上自衛隊も、三笠とか復活を....
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右下がコルモラン空対艦ミサイル。コブレンツの国防技術博物館にて。




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