24 24 42 S 113 24 18 E |
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この模型は、深海探索チームに、探すべき目標物の形状感覚を掴んでもらう為に製作したもの。 交戦時は、模型配置とは逆で、コルモランの右舷にHMASシドニーUが並走していた。 シドニーUは当初単色塗装で、その後1940年に2色迷彩となり、更にパターンの異なる迷彩に塗り直された。 |
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【HMASシドニーU】 イギリス製の軽巡洋艦、HMASシドニーUは第二次世界大戦勃発後、中近東及び地中海で作戦に従事、1940年7月26日にはクレタ島沖でイタリア巡洋艦バルトロメーオ・コッレオーニと交戦、これを撃沈している(この時、シドニーは煙突に軽微な損傷を受けたのみ)。 1941年2月9日にはシドニー市にて乗組員が凱旋パレードをしている。 以降、オーストラリア近海のパトロール、シンガポールやニュージーランドでの船団護衛任務などに就いている。 1941年11月19日当時は、シンガポールへの船団護衛任務の帰りで、西オーストラリアのフリーマントル港に戻る途中だった。 【コルモラン】 コルモランは、元々は東アジア航路に就航させる、シュタイアーマルクという名の貨客船として1938年に進水したが、まもなく補助巡洋艦として改造された。 補助巡洋艦(ドイツ語Hilfskreuzer、米語Auxiliary Cruiser、イギリス英語ではArmed Raider武装襲撃船)は、民間籍を装い連合軍及び協力国の艦船に近づき襲撃し、破壊または拿捕できるよう武装を施された船。 武装や艦載機、高速艇はいずれも隠されており、外観は通常の貨物船を装っていた。 様々な船に偽装できる様、木材・布・ペンキ・国旗などを大量に搭載していた。 シュタイアーマルク号の補助巡洋艦への改造に伴い、船名は、獲物の魚を捕まえるのが上手な鵜(う)を意味するコルモランと改名された。 1940年12月3日に実戦初出撃し、大西洋、インド洋で商船襲撃の他、味方潜水艦への補給などでも活躍し、連合国、中立国の船舶11隻を撃沈または拿捕している。 初出撃以降、補給を受けたものの一度も寄港しておらず、1941年11月19日には、オーストラリア西岸沿いに北東に進み、シャーク湾出入り口を塞ぐ機雷敷設を予定していた。 両艦の仕様を以下に比較する。
最大排水量13トン、全長12m 全幅3.5m 乗員7名 (母艦乗員に含まれる) 武装(母艦とは別) 20mm機関砲 ×1、機銃 ×1、魚雷発射管 ×2、機雷 ×4 最高速度40ノット |
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また、この海岸一帯にコルモランから脱出したドイツ水兵の多くが上陸した。 この時の救命ボートがカーナボンに保存されているらしいのだが、クリスマス休暇で見学できず残念。 記念塚の座標は24 24 40 S 113 24 08 E 一方、 コルモランの残骸は26 05 46 S 111 04 33 E (水深2560m) シドニーは26 14 31 S 111 12 48 E (水深2470m) すなわち海戦場所はこの記念塚の西南西250kmのあたり。 |
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【海戦】 1941年11月19日16:00頃、コルモランはシドニーを発見。補助巡洋艦は商船を攻撃するのが任務で、まともに武装した軍艦相手では不利なので、西に進路を変更し、逆光に紛れて発見されない様にした。 最高速度で逃げ切ろうとしたが、ピストンロッドが破損し14ノットしか出なかった。 しかし、シドニーはコルモランを発見しており、速度を上げて接近しつつ、船名確認を求めてきた。 90分の間、コルモランはオランダ商船「ストラートマラッカ」のフリをして、信号旗での通信(煙突に隠れて相手に見づらい位置に旗をあげたりした)で時間を稼いでいた。 17:00にはシドニーがコルモランの右舷にかなり接近し、もしもコルモランが交戦すれば武装の威力が充分発揮できる距離にまで迫っていた。 しかし、コルモランは逃げ切ることを望んで「QQQ」(不審船発見)を無線で発進する。つまり、シドニーがオーストラリア近海に居る不審なドイツ艦艇ではないか、襲撃されるかもしれないというメッセージをシドニーに受信させることにより、シドニーにコルモランが連合国側の商船であると納得させようとした。 このメッセージはオーストラリア西海岸のジェラルトンでかすかに受信されていた。恐らく軽巡洋艦シドニーも受信していたことだろう。 次にシドニーは「目的地?」と聞いてきたのでコルモランは「バタヴィア(現ジャカルタ。インドネシア人はバタフィアと発音していたが...)」と返信。 続いてシドニーは「IK」という二文字を送ってきた。 これは連合国側の取り決めで、オランダ商船ストラートマラッカには「IIKP」という4文字の秘密コールサインが割り当てられており、その真ん中の2文字を送ってきたもの。 本物の船であれば「IIKP」と返信すべきであるが、偽者であるコルモランには知るすべもない。 シドニーは最後に「秘密のコールサインを示せ」と要求してきた。 シドニーとの距離は1300m、コルモランの右舷にシドニーが並ぶ形で、双方14ノットで西南西のコースを取っていた。 もはや民間商船に偽装し続けることは無理である。 シドニーの砲はコルモランに向けられている。しかしデッキでは休んだりのんびりこちらを見ている水兵が見える。総員配置ではない。敵は油断している! 17:30にコルモランはオランダ国旗を降ろし、ドイツ海軍旗を揚げ、隠していた火砲が砲門を開いた。 距離が近かった為、主兵装である15cm砲のみならず、37mm及び20mm対空機関砲も発射し効果があったという。 砲撃でシドニーのブリッジと火器管制室を破壊。 魚雷2発を発射。 次に前方砲と艦載機(オーストラリア空軍のスーパーマリンウォーラス)を載せていた。結局発進していない)を無力化。 艦載機の燃料が甲板に飛び散り火災が見えた。 |
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(その後、1948年の空母HMASシドニー(V世)導入と共に海軍航空隊を結成している。) スーパーマリン ウォーラスは、オーストラリア空軍の要求仕様と、英国スーパーマリン社自社開発中のシーガルVの性能とが近いことから採用になった機体で、スピットファイアと同じミッチェルの設計。 オーストラリア空軍の他英海軍、英空軍、ニュージーランド、アイルランド、アルゼンチンなどでも使用された。 オーストラリア空軍では1935年〜1937年に受領したウォーラスにA2-1〜A2-24のレジを与えた。 第二次世界大戦勃発後更に37機をイギリスから受領したが、これらはA2-ではなくオリジナルの英国式レジをそのまま使った。 HMASシドニー艦載のウォーラスは、当時の他オーストラリア海軍艦載機同様オーストラリア空軍第9飛行中隊の所属で、 偵察、対潜、砲撃観測などのミッションを行った。水陸両用だが、発艦はカタパルトで行う。 写真はオーストラリア空軍博物館に展示されているスーパーマリン ウォーラスHD874。 元々は英海軍に納入された機体で、1943年にカンタス航空経由でオーストラリア空軍第9飛行中隊所属となり、戦後は空軍籍で南極探検に参加(黄色の塗装はこの時のもの)したが、1948年ハード島にて強風の為大破した。 1980年に空軍が現地から回収し、レストア後展示されている。 尚、コルモランとの交戦時、HTMSシドニーに実際に搭載されていたのはウォーラス L2177で元英海軍航空隊の機体。 一方のHMASシドニーは残りの砲で応戦し、コルモランの煙突、エンジン、電気系統に命中し、コルモランでは火災が発生。 その時、コルモランが先に放った2発の魚雷の1発が、シドニーの前部砲塔付近に命中。 シドニーも左舷の魚雷を放っていたがコルモランには命中しなかった。 シドニーは鋭く旋回してコースを南に取り、コルモランとの衝突コースに乗せてきたが、衝突は免れ、コルモランの船尾近くを通過。 距離が離れると共にシドニーは右舷の魚雷を4発々射したが命中せず、シドニーは炎上しながら南南東にゆっくりと航行。 18:25、目標との距離が離れたのでコルモランは射撃を中止し、シドニーは視界から見えなくなった。 水平線の彼方に炎上の明かりが22:00頃まで見えたが、それもその後は時折の点滅となり、真夜中までには完全に見えなくなった。 コルモランも消火が出来ないので艦長が総員退艦を命令、真夜中に自沈装置が作動し、ゆっくりと沈んでいたが、船上の機雷が誘爆して11月20日00:30にコルモラン沈没。 コルモランは乗員393人の内、76名が死亡・行方不明となり、残り317名が救命ボートでオーストラリア西海岸に辿り着いたり、付近の艦船に救助されたりして戦争捕虜になった。 コルモランの艦長は、1941年12月4日付で、本人不在のまま騎士鉄十字章を受勲している。 |
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2007年にジェラルトンのサーファーが発見した。 |
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木の前には犠牲者の名前のプレートが埋め込まれたブロックが置かれているのだが、何故か訪問した時にはプレートが無くなっており、ブロックの多くも破損していた。 24 53 55 S 113 41 52 E |
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【捜索】 連絡の途絶えたシドニーと乗員645名の捜索は11月24日から始まったが何も見つからなかった。 以降、ドイツ捕虜からの証言以外に、シドニーに起こった出来事と消息をたどる方法は無かった。 海戦から8日後に無人のゴムボートや救命胴衣が漂着した。 クリスマス島で身元不明の水兵と思しき救命ボートに乗った死体が1942年に漂着した。 しかし、結局シドニーのものかは判っていない。 「国際法違反の口封じの為ドイツ軍に虐殺されていた」「実は日本海軍の潜水艦が沈めた(本海戦の時点では日本は参戦していない)」といった噂が流れた。 2001年に財団が結成され、シドニーの残骸の捜索に必要な資金を集めだした。 深海ソナー探索の結果、2008年3月12日にコルモランの残骸が見つかった。 「シドニーは南南東に向かって見えなくなった」というコルモラン生存者の話を元に捜索した結果、海戦から66年以上経った2008年3月16日に、長年の謎とされていたシドニーの残骸も発見され、深海探査艇が船体・残骸の写真撮影に成功した。 船体の場所、破損状況などドイツ捕虜の証言と概ね一致している。 |
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ただしこの場所は撃沈場所から最寄の比較的大きな町ではあるものの、かなり(400km以上)離れている。 ドームを舞う鳥645羽はシドニーUの犠牲者の数。 28 46 23 S 114 36 58 E |
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1隻目の軽巡洋艦は第一次世界大戦で活躍。 2隻目が本稿で紹介している軽巡洋艦で第二次世界大戦中ドイツ海軍補助巡洋艦との海戦で沈没 3隻目は航空母艦で朝鮮戦争参戦、ベトナム戦争撤退に関わった後スクラップ。 4隻目は巡航ミサイルフリゲート観。つい最近の2015年11月に退役。 現在はシドニーという名の軍艦は就役していないが、5隻目としてホバート級ミサイル駆逐艦HMAS シドニー V (DDG42)が2018年に進水しており近々就役する予定。 写真は1隻目のマストを記念に保存してあるもの。シドニー湾に面したブラッドリーズ・ヘッドというこの場所、要塞があったりミッションインポシブル2の撮影地(悪役の屋敷)だったりと興味は尽きない。 33 51 12 S 151 14 47 E 尚、最初のシドニーの主砲はキャンベラのオーストラリア戦争記念館で展示されている。 一方、コルモランも戦後の西ドイツ海軍のミサイル艇の名前で再登場している。 更に西ドイツ海軍の空対艦ミサイルの名前にもなっている。 痛み分けとは言え、よっぽどシドニー撃沈が嬉しかったんだろう、ドイツ海軍。 そろそろ海上自衛隊も、三笠とか復活を.... |
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