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マレー作戦
(タイ、マレーシア上陸からジョホールバル到達まで)
Malayan Campaign

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第25軍司令官としてマレー作戦を指揮した山下泰文将軍(マレー作戦当時は中将、最終階級は大将)。
ブキ チャンドゥの戦争記念館Reflectionsにて。
いやぁ、映画って本当に....(それはべつの人)

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イギリス軍司令官のアーサーパーシバル中将



交戦戦力比較
  大日本帝国 英連邦
軍指令 山下中将 パーシバル中将
兵力 約6万 約13万(英、濠、印)
航空機 陸海軍合わせて約600機 英空軍(濠含む)約170機
戦闘経験 中国で豊富な戦闘経験
ジャングル戦を事前に訓練
一部英軍はフランスの戦いで経験あり、
インド兵は北アフリカ向けに砂漠戦を訓練
戦車 チハ、ハ号
戦車4連隊
無し
海軍兵力 巡洋艦1隻
駆逐艦10隻
潜水艦5隻
(フォースZ)
戦艦2隻
巡洋艦1隻
駆逐艦4隻
空母は途中で座礁して到着できず


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1941年12月6日(土)の朝、コタバルを基地とするオーストラリア空軍第1飛行中隊のロッキードハドソンA16-19が、ベトナムの沖で25隻の兵員輸送船を発見する。
写真はニュージーランド空軍博物館に展示されているロッキードハドソン偵察機V型。

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翌12月7日朝、シンガポールのセレター飛行場を飛び立った英空軍のカタリナ飛行艇が撃墜された。これは艦隊から発進した日本海軍の水上機により被弾しこの時無線機が壊れ、後に陸軍の97式戦闘機5機に撃墜された模様。英国側の記録では行方不明となっている。
これが初の太平洋戦争に於ける英軍の損失。
写真はカタリナ飛行艇だがこれはインドネシア空軍が使っていた、水陸両用型のPBY-5A型。
ジョグジャカルタのインドネシア空軍博物館にて。
実際に撃墜されたのは着陸ギアの無いカタリナI型(PBY-5相当)と思われる。

同日、ハドソン機が再び艦隊を視認するが既にマレーシアの海岸まで60海里まで迫っていた。

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2月8日の0208から、オーストラリア空軍第1飛行中隊のハドソンは250ポンド爆弾で爆装して、コタバルに上陸する日本軍に攻撃を加え、淡路山丸を炎上、他2隻を損傷させたが、A16-94及びA16-19の2機が撃墜された。
このロッキードハドソンA16-19 US◎Bは、6日に日本の船団を発見追跡していた機体でもある。
同機は対空砲火に撃墜され沖合いに墜落し、クルー4名の内3名は死亡したが、機外に放り出された副操縦士のドゥイー少尉は負傷して漂っていた所を日本軍の捕虜となり、インドシナ→シンガポールに収容された後、泰緬鉄道建設に駆りだされた。そしてシンガポールに戻り終戦と共に開放された。
写真はオーストラリア戦争記念館の展示で、1976年に漁師が見つけて引き上げた、A16-19に装着の左側のエンジン残骸。右エンジンも同館に展示されている。
R-1830 ツインワスプ系は当時の代表的な空冷エンジンで、ハドソンの他、F4Fワイルドキャット、B-24リビレーター、C-47/DC-3系、PBYカタリナなどに搭載。

飛行場に日本軍が迫ってきた為、同飛行中隊は8日の1700にコタバル飛行場を放棄、稼動できた5機のハドソンにクルーと基地人員を可能な限り乗せてクアンタンに避難した。

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日本軍は1941年12月8日 日本時間0215より、タイ及びマラヤ(現マレーシア)に一斉上陸を開始する。
ちなみにこれはシンガポール時間では12月8日0015、ハワイ時間では12月7日0615である。
真珠湾攻撃はハワイ時間12月7日0800なので、その約2時間前にタイ及びマラヤへの上陸が行われたことになる。

写真は1941年12月8日、近衛師団の吉田支隊がタイ進駐の為上陸したサムットプラカーンのバンプー桟橋と保養所(洋上レストラン)。
この桟橋に船を横付けして上陸し、バンコクに向かった。
この場所は乾季の間、渡り鳥である(←知らなかった...)かもめの大群が見られる。
13 30 49 N 100 39 14 E

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桟橋の手前にある記念碑。
13 31 02 N 100 39 18 E
英文(陸側:写真)とタイ語(海側)を併記してある。
「1941年12月8日未明、このスクタ橋にて、第4近衛師団の第3大隊が上陸した。
これは日本軍によるプラチュワップ キーリーカン、チュンポーン、ナコーンシータンマラート、ソンクラー、パッターニー、アランヤプラテートへの連動した上陸・攻撃の一つであった。
ここの北西2kmの場所に、勇敢な地元の勢力が防衛拠点を設置する為に急遽集まった。
この勢力は警察、少年兵、民間の有志から成り、皆サムットプラカーン県の人たちだった。
日本軍と衝突する直前に、タイ政府と日本との合意が成立し、日本軍は支障なくタイ領土を通過できることになった。
少数の勇敢な愛国者が、多勢に対しても祖国を守ろうと決意した、輝かしく名誉ある出来事である。」

この場所は無血上陸できたので良かったが、
日本軍の上陸・進駐を阻止しようとして、タイ側に全国で195人の死者(兵127名、警察11名、少年義勇兵5名、民間人52名)が出た。

いくらその前(1941年5月)の失地回復で日本がタイに恩を売っていたとは言え、やはりいきなり敵対勢力ではない他人の敷地に突然断り無く踏み込んで、合意前に駐留通過させろというのは良くないです...

タイ側の交渉相手が雲隠れしてしまったというのもナニですが。

というか、実は、当時のタイの首相、ピブーンは有能かつしたたかで、日本が米英と戦争すればやがては日本が敗北するであろうことを見抜いていたのではないか。
かといってやる気イマイチの英軍とタイがにわかに協力した所で上陸する日本軍を撃退はできそうもないので、仕方なく当面は日本に協力せざるを得ない、しかしやがては日本が敗北した時タイが共倒れにならないよう、「日本軍が攻撃してきたんですぅ、仕方なく協力したんですぅ」という言い逃れが出来るようにしなければならない。
その為、一時的に日本とタイが交戦状態となる様に、肝心の時に連絡出来ない場所に逃れていたのではないだろうか。
かくして思惑通り日本は敗戦し、タイは敗戦国とならず日本から戦時賠償金まで得ることができたのは歴史が証明した通りである。
意図的な雲隠れが事実であれば、相当に有能な政治家と認めざるを得ない。

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バンコクのスワンナブーム空港R/W19Lを離陸して、南下する飛行機から眺めたチャオプラヤ川河口。
サムットプラカーンのバンプー桟橋(画面中央下、海に突き出た桟橋と洋上の白い建物)が見える。ここに上陸し、内陸の幹線道路(スクンビット通り)を、画面右上のバンコク市街に向かった。
このスクンビット通りが「く」の字に曲がる近辺でタイ側の警察、少年兵、民間の有志が守りを固めていた。

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フランス領インドシナから国境を越えて陸路でタイに進行した近衛師団は12月9日ドンムアン空港に到着し、同日夜ルンピニ公園で野営した。
写真はルンピニ公園で無料のエアロビに興じるノリノリ(?)な地元民。
13 43 53 N 100 32 30 E

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1903年に建造され、当初デパートとして開業したが後にタイ中国商工会議所となり、太平洋戦争中はタイに駐留した大日本帝国陸軍・南方軍の第18方面軍が司令部に使った建物。2002年以降、ブルーエレファントという有名高級タイ料理店(料理学校併設)となった。

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こちらも日本軍が上陸したタイのプラチュワップ キーリーカン。クリックで拡大。
半島に芝の緑地と滑走路が見えるが、ここが当時も今も、タイ空軍の基地。
大日本帝国陸軍 第15軍 第55師団 歩兵第143連隊(宇野支隊)の一部(約1000名)は、半島奥の山の影及び島々の後ろに船舶を停泊させて上陸してきた。
11 47 18 N 99 48 17 E (空軍基地滑走路の座標)

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別角度、クラビ〜バンコク(ドンムアン)行きの飛行機から見たプラチュワップ キーリーカン。
ちょっと雲がかかり気味だが、半島に十字にクロスする2本の滑走路がはっきり見える。

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プラチュワップ キーリーカンのタイ空軍基地に配備されていたのと同型のカーチス ホーク V 戦闘機。
バンコクにあるタイ空軍博物館にて。この博物館、世界に唯一機、二機しか残っていない貴重な機体が結構展示してある。かとおもうとサーブ グリペンという現役の戦闘機も(スウェーデンから機体購入のオマケでもらった)初号機が置いてあったりする。
プラチュワップ キーリーカンの現地にもカーチス ホーク V が展示されているが、そちらはレプリカ。

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プラチュワップ キーリーカン上陸は無血上陸という訳にはいかなかった。
日本軍を侵略軍と思い(そりゃそうだ...)、空軍基地を守るパイロットや地上勤務兵が日本軍を迎え撃った。
迎撃した空軍関係者の勇気を称え、犠牲者名を刻んだ記念碑。
11 47 12 N 99 48 39 E

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続々と上陸する日本兵と、必死に抵抗するタイ空軍関係者の等身大ジオラマ。
武器は双方とも38式歩兵銃(日本がタイに輸出していた)。
日本兵が全員同じ顔に見えるのだが....スターウォーズのクローン戦争!?
バンコクのナショナルメモリアルの展示。

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バンコクの空軍記念公園のレリーフ。クリックで拡大。
タイ空軍機は左から中島97式戦闘機、中島1式戦闘機隼、、カーチスホークV、ヴォート コルセア。
右下はタイと日本の地上軍対決だが空軍関係施設の展示品なので恐らくプラチュワップ キーリーカン上陸を空軍警備員が阻止しようとしている所。
タイ空軍に於ける97式戦闘機配備は1942年、隼は1943年なので、絵の左側と、中央から右とは別々の時代と見るべきだろう。

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プラチュワップ キーリーカンにある記念レリーフ。クリックで拡大。
半島の左右から上陸する日本軍を中央で迎え撃つタイ空軍の兵士。
中央上ではパイロットがカーチス ホーク V戦闘機でスクランブル発進しようとしている。
右端は怒ったりビビッたり逃げたりする民間人。
左から攻める日本軍と中央で守るタイ空軍の間にある切り株上にはトカゲがいる。
11 47 10 N 99 48 40 E

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レリーフの裏側。クリックで拡大。
無線機の故障で停戦連絡が遅れたが、やっとバンコクから連絡が来て平和が戻った。
「タイの皆様、これからしばらくお世話になります。いきなり上陸して悪かったね(まさか連絡入ってないとは...)」
「マイペンライ。迎撃して悪かったね」
と何事もなかったようにたちまち仲直りする日本兵(右)とタイ兵(左)
市民は歓迎(皆日本軍進駐に喜んでいるようにしか見えないのだが...)のあまりタイダンスを踊る人もいると思えば、遊びでそれどころではない子供も。
右上ではもう戦車が進撃の準備をしている。

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レリーフの側面。さぁ、気を取り直して前進しよう!
(といってタイ軍はビルマの英軍を攻撃して痛い目にあった...)

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レリーフの反対側。
えっと....猿? 鳥? リス? お参りする人?
上陸作戦とも日本軍駐留とも関係ないじゃん。
平和が一番?
こういうのが、アメージングタイランド!なんだな。

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日本軍の上陸を阻止しようとして戦ったタイ空軍の兵士を称える「英雄の塔」。
11 47 13 N 99 48 40 E
日本とタイは宣戦布告しておらず戦争をしていないが、一時的に戦闘状態にはなったという関係。
後方の島の方から日本軍が上陸してきた。

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停戦条約署名場の記念オブジェ。
停戦から33時間経った1941年12月9日に双方の軍が整列し、互いに銃剣と侍刀(軍刀のことだろうが)を交換した後、この場で停戦条約の締結を行った、ということが英語、タイ語、日本語で書かれている。
11 47 09 N 99 48 39 E

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チュンポーンで日本軍が上陸したビーチを見晴台から俯瞰して見た所。クリックで拡大。
ここには大日本帝国陸軍 第15軍 第55師団 歩兵第143連隊(宇野支隊)の一部(2200名)が上陸。
かなり遠浅の海なので船が近づけず、輸送船2隻は沖合い(画面右端あたり)に停泊して、長い距離を兵は歩いて上陸したという。
手前はタプハップ川の河口とその集落。タオ島行きのフェリーもここから出発する。
10 26 19 N 99 15 05 E (見晴台の位置)
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日本軍が上陸したビーチの現場。クリックで拡大。
ほぼ満潮時の撮影。
住民が、浅瀬を泥に足を取られながら徒歩で向かってくる日本軍に気付き通報、チュンポーンに駐屯している第38歩兵大隊から迎撃の兵が向かうことになったが現場到着まで時間がかかるため、警官と青年義勇兵が時間稼ぎで日本軍を食い止めることになった。
10 27 00 N 99 14 21 E

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「父さん、母さん、これから侵略軍を迎えに行きます」
少年義勇兵が召集を受け出発する所。チュンポーンの国立博物館にて。

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チュンポーンに上陸し、ターナーサンの橋を渡ろうとする日本軍を迎え撃つタイの警察と少年義勇兵。
この戦闘で指揮官のタウィン大尉他数名が戦死した。
バンコクナショナルメモリアルの展示ジオラマ。

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これも同じく、チュンポーンに上陸し、ターナーサンの橋を渡ろうとする日本軍を迎え撃つタイの警察と少年義勇兵のジオラマ。
チュンポーンの国立博物館にて。

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上のジオラマで再現されている戦闘のあった現場付近のパノラマ写真。クリックで拡大。
右がタイ側、中央左奥が日本軍が攻めて来た方向。画面中央奥に現在のターナーサン橋が見える。
10 28 39 N 99 12 31 E

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現在のターナーサン橋。手前が海側(日本軍側)、橋の向こうに少年義勇兵と警察が待ち伏せしていた。
橋は架け替えられており、片側2車線の立派なもの。
ラオス、ベトナム、カンボジアなどの近隣国と比べると、さすがにタイの道路インフラは立派なものだ。
写真左、バイクが逆走しているのも、いかにもタイ。
10 28 38 N 99 12 31 E

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現在の橋の北側すぐ隣に、昔の橋柱が残っている。水道管が邪魔で見にくいのが残念。チュンポーン国立博物館の係員に聞いたらこれが戦争当時のものとのこと。
10 28 38 N 99 12 32 E

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少年義勇兵が戦った場所に設置されている銅像。
10 28 40 N 99 12 29 E
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銅像のアップ。記章や銃剣付ライフル(38式歩兵小銃)が細部まで再現されている。
この像は、チュンポーンでの戦闘を描いたタイ映画「少年義勇兵」の冒頭に登場する。

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チュンポーンに上陸する日本軍を迎え撃った少年義勇兵のマネキン。
バンコクナショナルメモリアルにて。

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クアラルンプールからバンコク(ドンムアン空港)に向かうエアアジア便から遠望するバンドン湾(左奥)。
スラータニーの町は湾の奥にある。
バンドンの海岸には宇野支隊の一部が上陸、スラータニーでタイ側と交戦した。
手前の大きな島はサムイ島で、秘境でも何でもない、俗化したリゾート街が特に島の北側(右下)に広がる。一応海は綺麗だ。

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バンコクからシンガポールに向かうタイ航空のA350機載カメラから見た、日本軍が上陸したクランタンの海岸。
前方が南(シンガポール)方向。
実際に上陸したビーチや最初の攻略目標だったクランタン飛行場の真上が航路になっている様で、残念ながら胴体の下に隠れて飛行機からはそれらを直接見られない。

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英海軍の軍艦、プリンスオブウェールズ、レパルスは日本軍を迎え撃つ為にフォースZとしてシンガポールのセンバワン英海軍軍港を出港、ジョホール水道を東進して外洋に出て、マレー半島沿いに北上を開始。
写真は同じルートでセンバワン港から外洋に向かうタイコンデロガ級アメリカ海軍のミサイル巡洋艦 CG-63 USSカウペンス。本艦はこの後佐世保に向かった。
シンガポール側から撮影、背後に見えるのはマレーシア本土。
尚、現在シンガポールの軍港はセンバワンからチャンギに移っており、海外軍艦の寄港もチャンギが多い。

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ダックスフォード大英帝国戦争博物館の対日戦コーナーで展示されている、上から一式陸攻、レパルス、プリンスオブウェールズの模型。
スケールがバラバラだけど、
一式陸攻(11型) 全長19.97m、全幅24.88m
巡洋戦艦 HMS レパルス 全長:242m、全幅27.4m 基準排水量27,750 トン
戦艦 HMS プリンスオブウェールズ 全長227m、全幅31.4m 基準排水量36,772 トン

左下は1942年4月5日、日本海軍の九九艦爆によってインド洋で撃沈された、カウンティ級重巡洋艦ドーセットシャーから退避する乗組員がブリッジから持ち出した時計。この海戦では姉妹艦コーンウォールも沈んだ。

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シンガポールからプーケットに向かう航空機から見たマレー半島東岸。
川はパハン川で、河口にある町がペカン。
川の北側(画面左側)一帯がクアンタン。
3 31 57 N 103 28 14 E (河口の座標)
フォースZの戦艦HMSプリンスオブウェールズ、巡洋艦HMSレパルスは、クアンタンの海岸に日本軍が上陸している、とのガセネタによりここに近付きつつある所を、2隻共に日本海軍航空機の魚雷攻撃により1941年12月10日、あっさりと沈められてしまう。

「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」(ウィンストンチャーチル著「第二次大戦回顧録」)

沈没場所はペカンの沖合い110km程度の地点(画面右奥の水平線のあたり)。
現場はシンガポールから直線距離で260km程度なので、当時配備されていた航続距離1500km超のバッファロー戦闘機が迎撃に駆けつけることは充分可能だったはずだが、レーダー管制の対空砲を過信したのか、英艦隊が空軍の支援を要請したのは日本海軍の航空攻撃を受け始めてから30分後だった。
尚、結局クアンタンには日本軍が陸路で到達し、1942年1月3日に制圧した。

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シンガポール・クランジの英連邦軍墓地にて、レパルス、プリンスオブウェールズの戦死者が並んで眠る。
左はレパルスの機関下士官、右はプリンスオブウェールズの上等水兵。
共に船が撃沈された1941年12月10日に死亡。
1 25 08 N 103 45 29 E

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レパルス、プリンオブウェールスを沈めたのは大日本帝国海軍の九六式陸攻(爆撃、雷撃)と、一式陸攻(雷撃)による攻撃だった。
九六式陸攻は現存機なし、一式陸攻はニューギニアのジャングルで回収された残骸が米国のプレーンズオブフェーム博物館に展示されていた(現在はレストア中?)。

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日本陸軍将校(中尉)の軍服と軍刀。オーストラリア戦争記念館にて。

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大日本帝国陸軍の代表的な装備、38式歩兵銃
その他銃剣、戦勝記念の酒杯・徳利など
シンガポールの国立博物館にて。

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こちらは何故かニュージーランド空軍博物館に展示されている日本軍の装備。
13番:銃剣、14番:軍刀、15番:操縦桿(ブーゲンビル島で回収されたもので零戦用という)、17番:双眼鏡、19番:円筒形航法計算尺、20-21番記章類、右中央は航法用計算尺。あとはナチスドイツ関連で機銃はドルニエDo17搭載のMG15。

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日本軍の飯ごう、歯ブラシと水筒。
飯ごうと水筒には本来携行用のストラップが付く。
シンガポールのフォード自動車工場跡での展示品。

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女性千人に交代で結び目を縫ってもらう千人針。弾よけのお守りとして日露戦争〜第二次世界大戦に参戦した日本兵に贈られた。川崎市平和館の展示。

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日本軍の将校が使っていた双眼鏡。
KAIKOSHA(偕行社)ブランド。6X24は6倍、口径24mm。
シンガポール国立博物館にて。

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日本陸軍の代表的な九二式電話機。
タイ・カンチャナブリのJEATH博物館(橋から遠い方)の展示。これは安立電気株式会社(現アンリツ株式会社)製のもの。

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日本軍の素早い進撃を可能にしたのが自転車。
写真はシンガポール国立博物館の展示だが英国製の自転車が多い模様で、歴史的価値の無い、あくまでもイメージ的なオブジェ。

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日本軍の代表的機関銃、九二式重機関銃。
バンコクのナショナルメモリアルにて。
ここには対空機銃架上、通常射撃時及び写真の運搬用棒を取付けた状態の3丁が展示されている。
昭和15-16年製で、日本からタイに輸出されたものと思われる。
こういった日本製兵器が結構良い状態で保存展示されているのもタイの軍事博物館の魅力。

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日本軍の九二式歩兵砲(木製車輪型)
ブキチャンドゥの戦争博物館前にて。

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マレー作戦で活躍した95式軽戦車のレプリカ。
アメリカのケーブルテレビ会社HBOのミニシリーズ「ザパシフィック」(2010年)用に4台製作された内の1台。
シンガポールの国立博物館の展示物。
尚、別のレプリカ1台は日本にある。

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一応こちらはレプリカではない、本物の95式軽戦車だけど…。
多分世界中の保存戦車の中で一番悪趣味な塗装。
タイのナコンランパーンにある駐屯地のゲートガード。
18 17 44 N 99 31 07 E

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陸軍少年戦車兵学校の跡地に建てられた若獅子神社に展示されている97式中戦車。
サイパンで1975年に回収されたもの。随所に着弾の跡があり一部は貫通している。
戦車第九連隊所属で、同時期に帰還したもう一両は靖国神社の遊就館で展示されている。

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イギリス軍の装備。
洗面器型ヘルメット、銃はリー エンフィールドの7.7mmライフル。
原型は19世紀末からあるもので、現在も一部で使われており非常に長寿。
シンガポールの国立博物館にて。

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マレー作戦前から日本軍の諜報活動をしていた「怪傑ハリマオ」谷豊を記念する碑(墓標ではない。遺体埋葬場所は不明)。シンガポールの日本人墓地にて。
1 21 56 N 103 52 35 E
谷は福岡生まれだが幼少期に一家でマレーに移住。
本人が日本帰国中に、満州事変勃発に触発された華僑暴徒に妹を殺され、マレーに戻り復讐の為盗賊団を結成し華僑や英人を襲った。ムスリム(イスラム教徒)に改宗。
英軍に捕まるが日本軍工作員の助けで出獄し、自らも工作員となった。
マレー作戦前から活躍し、作戦中は謀報・物資調達・日本軍進路確保・マレー人の日本軍への協力取り付け、英軍に同行するマレー義勇軍の中立化、撤退する英軍の橋梁爆破阻止などの活動を行う。

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マレー作戦中諜報活動をしていた谷豊だが、マラリアに感染し、日本軍が占領したばかりのシンガポールにある、写真のタン トク セン病院に入院したが30歳の若さで死亡。
1 19 16 N 103 50 45 E

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谷豊の葬儀が行われたシンガポールにあるパラジンモスク。
1 19 16 N 103 50 45 E
前述の通り谷豊の埋葬場所は不明だがこのモスクの近辺か?

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ペナン島のジョージタウンにある中華街。
ペナン島攻略に先立ち日本軍はジョージタウンを爆撃したが、最も激しい爆撃を受けたのが中華街地区だった。
5 25 04 N 100 20 02 E

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1941年12月14日、日本軍はペナン島を占領。
地上軍の接近に伴い、ペナン島では白人住民のみを避難させて、英連邦軍は撤退した。
日本軍はこの事実を最大限プロパガンダに利用した。

写真はペナン島にあるコーンウォリス要塞で、世界遺産の一部。
5 25 14 N 100 20 38 E
1786年に建造、1810年にレンガと石で作り直され、この状態が現存する。
中庭の丸屋根は弾薬庫。
この要塞は実戦では使われず、植民地政府の行政機関が使った。
日本軍がペナンを占拠してからは倉庫・作業場・拘留所として使われた。
マレー作戦当時、英軍は要塞の壁の外に後装6インチ Mark VII砲を2門設置していたが、日本軍の手に落た。
尚、日本軍占領中のペナンには日本海軍だけでなくドイツ海軍も基地を置き、計41隻のUボートが「モンスーン船隊」としてインド洋で連合軍商船を撃沈したり、本国に錫・ゴム・タングステンなどを輸送した。

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1941年12月26日、日本軍はイポーを占領。19世紀から錫の採掘で栄えた町。独特の形の丘が周囲を囲む。
4 35 57 N 101 05 28 E (時計塔の座標)

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1942年1月11日、日本軍の第5師団はマラヤの首都クアラルンプールを占領する。
同日早朝英軍インド人部隊が退却し、事実上の無血占領であった。
写真はペトロナスツインタワー から俯瞰した、マレーシア観光情報センターの建物。
元々1935年に裕福なゴム取引を営む華僑が建てた家で、後に英軍が接収していた。
日本軍がクアラルンプールを占領してからは日本陸軍の司令部として使用した。
3 09 25 N 101 42 25 E

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1942年1月15日、港町マラッカを占領。

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東海岸のクアラロンピン近辺の海岸線。
2 47 32 N 103 30 17 E
無数の川が海に流れ込むマレー半島で、海岸近くを進軍する日本軍にとって橋の攻略確保が肝であった。
英軍もそれを承知で退却と共に橋を爆破するようにしたが、退却スピードに爆破が追いつかず、また、日本軍も工兵隊が効果的に橋を補修している。

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恐ろしく蛇行したエンドウ川が流れ込む、エンドウの町。
2 39 24 N 103 37 17 E
エンドウの町は、コタバルに上陸して以降東海岸沿いに南下していた第18師団が1942年1月21日に確保した。
第18師団は主力を乗せた輸送船を送り出し、9隻がタイのソンクラー(マレー語でシンゴラ)に1月23日上陸し車両で南下、輸送船団残りの2隻(関西丸、カンベラ丸)は航空資材と関係する兵を乗せてエンドウに上陸することになった。
1942年1月26日の0745に、オーストラリア空軍のハドソン哨戒機が、北方15km程度を南下してエンドウに向かう日本の船団を発見する。電波妨害の為通報できず、更には97式戦闘機に襲われたがシンガポールに逃げ切り、着陸後に船団発見の報告をした。
1月26日朝、2隻の輸送船はエンドウ川の河口沖に投錨し上陸を開始した。

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バンコク(スワンナプーム空港)からシンガポールに向かうシンガポール航空のボーイングB777の、エコノミー席最後尾近くから撮影した、エンドウ沖海戦の現場。

Aがエンドウの町、Bはセリブア島、Cはセムビラン島、Dはアチェ島。

1942年1月26日、日本軍が護衛を伴った輸送船2隻をエンドウ川の河口に停泊(Jの辺り)させて上陸を開始。

英連邦軍は同日昼間、シンガポール及びスマトラ島パレンバンからの航空兵力(ロッキードハドソン哨戒爆撃機、ヴィッカースヴィルデビースト雷撃機、フェアリーアルバコア雷撃機 護衛にホーカーハリケーン戦闘機とブリュスターバッファロー戦闘機)をもって輸送船を攻撃したが、日本陸軍飛行第1戦隊の97式戦闘機に撃墜されるばかりで戦果は乏しかった。
特に1928年初飛行のヴィルデビーストは退役間近の旧式機で、それまでもマレー作戦中に多数撃墜されていたが、エンドウ沖では延べ20機が参戦し11機撃墜される(最終的にマラヤ方面に配備されていた同型機は全滅)という悲惨な機種である。

日付が27日になって間もなく、英海軍の駆逐艦HMSサネットと、オーストラリア海軍の駆逐艦HMASバンパイアがEの方から到着し、一旦Fで北北東に進路を変更した後Gで方向を変えて停泊地Jに向かった(こうする事により英連邦軍の艦艇は背後にティオマン島(画面外)が位置するので発見されにくくなることを狙った)。
サネット、バンパイア共に第一次世界大戦中に建造された旧式艦だった。
バンパイアはプリンスオブウェールズとレパルスが航空攻撃により撃沈された時、生存者を救出してシンガポールに送り届けていた。

上陸作戦を護衛していた日本海軍の艦艇はJの周囲に、海方向に扇形に展開しており、これらと交戦する。

日本側の護衛は軽巡洋艦川内、駆逐艦朝霧・夕霧・天霧・初雪・白雪・吹雪及び掃海艇等小型艦艇、合計20隻超で、戦力で英連邦を圧倒している。

当初英連邦軍は日本軍に護衛がいないものと思っていたが、実際には遥かに劣勢であることが判り、0240〜水上戦が始まったが逃げ切るほかなくなる。

結果、サネットはKの位置で0400過ぎに撃沈されるが、バンパイアは煙幕に紛れてEの方向に向かい、シンガポールに逃げ戻った。
日本軍としてみれば、圧倒的に優位な状況で1隻撃沈したもののもう一隻は取り逃がしてしまった。

この海戦で生き残った駆逐艦HMASバンパイアは、翌年4月9日のセイロン沖海戦で、空母HMSハーミーズを護衛中に空母共々日本海軍の艦載機に撃沈された。

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先の写真と同じフライトで、シンガポール空港混雑の為、上空待機で右旋回中に撮影出来た写真。
別角度から見たエンドウ沖海戦の現場。記号は先の写真と同じ。
手前右に見えている大きな島が観光地として有名なティオマン島の一部。
このフライト、出発が遅れていた上に着陸時間調整の為ティオマン島上空で右旋回1回転し、更にトンでもない事にシンガポール空港着陸直前、ゴーアラウンドをやらかしてくれたのだった。
天気もまぁまぁだし、特に急いでいた訳ではないので、ゴーアラウンドは決して悪い経験ではないのだが。
飛行機でのフライトは正確に記録していないが500〜700回程度経験しているはずで、そんな中でゴーアラウンドに遭遇したのはこれ1回だけだその後、バンコク→那覇便で恐らく台風による強風の為ゴーアラウンドも経験している。その後無事着陸。もし降りられなかったらどうなってたんだろう?台湾に向かった?

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輸送船関西丸、カンベラ丸はエンドウで日本陸軍第3飛行集団第96飛行場大隊の航空資材と兵を揚陸した(陸上戦闘部隊ではない)。

同大隊の任務は、クルアン飛行場(2 02 31 N 103 18 29 E)とカハン飛行場(場所不明・メルシン〜クルアンの間)を立ち上げることである(エンドウ上陸の時点ではこれらは敵の支配下にあった)。

クルアン飛行場には1942年1月10日編成の「Y中隊」と呼ばれる英空軍、オーストラリア空軍合同の訓練飛行隊が駐留しており、オーストラリア空軍第21飛行中隊から移籍されたウィラウェイを10機配備していた。

ウィラウェイはオーストラリアのCAC社が、米ノースアメリカン社のNA-16系をベースにライセンス生産されたもの。
Y中隊はウィラウェイU型を使用していた。

写真はメルボルン近郊の博物館で展示されているT型(A20-10)で、U型は垂直尾翼が波板から平板になる以外は同じ。
胴体後部が鋼管溶接布張りの古い設計だが、本来の練習機・汎用機以外に地上攻撃・爆撃任務にも使用しており、非常時(英国が欧州で孤立していて同盟国や連邦国に戦闘機を輸出できない)なのでウィラウェイを戦闘機としても使わざるを得なかった。
機首にヴィッカースの7.7mm機銃2丁を固定搭載、後部乗員用は7.7mm機銃1丁又は2丁を台座に乗せて操作できる。
急降下により日本の戦闘機(飛行第11戦隊の隼)を撃墜した記録もある(A20-103による。この機体はオーストラリア戦争記念館でレストア中)。1939年〜1946年までの間に各型合わせて755機生産。

尚、クルアン、カハン飛行場は日本軍が確保した後、スマトラ島パレンバン攻撃の際の航空基地として使われた。
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右下がメルシンの町。
ジョホール、シンガポール方面に街道が延びており、その街道は海岸から近い、とあって英軍は上陸防止重要拠点と見なし、戦前に第12旅団(インド)、後にオーストラリア軍第8師団隷下の第22旅団が、マレー半島最強と言える防衛陣地を構築していた。
海岸沿いに地雷、有刺鉄線、トラップを仕掛け、水際をガソリンの炎で覆う準備もあった。
内陸の砲は海岸線及び洋上から近づく船を砲撃出来る様調整済みであった。

しかし、結局日本軍の第18師団木庭支隊は陸路でメルシンを通過しジョホールに向かった。

守るオーストラリア軍第22旅団はメルシンを放棄し、ジェマルン手前まで後退し、街道両側のゴム園に布陣した。
1月26日深夜から27日朝にかけて、オーストラリア軍はここで襲撃し、日本側に比較的大きな損害を与えた。

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1942年1月31日、タイ・マレーシア上陸開始から55日で、日本軍第25軍はマレー半島最南端にある都市、ジョホールバルに進軍。ここまでの距離1000km。
これにてマレー半島制圧。英軍はシンガポールに逃げている。
山下将軍はスルタン宮殿に司令部を設け、シンガポール攻略の準備を始めた。
当時ジョホール州政府の建物の一部だった塔からは対岸のシンガポールが見渡せた。
当時はジョホールバルで一番高い建物だった。今でも非常によく目立つ。
1 27 28 N 103 45 40 E


ハワイマレー沖海戦は1942年公開の帝国海軍協力映画。
前半では予科練からパイロットになるまでが詳細に描かれており、記録としても貴重。
後半ではハワイ真珠湾攻撃とマレー沖海戦。
セットと模型を使った特撮も時代を考えると悪くないのだが、マレー沖海戦では九六式陸上攻撃機の実機が大活躍。特に離陸を広角で撮影している所など本物でないと味わえない質感と迫力がある。

加藤隼戦闘隊は第二次世界大戦中の1944年に公開された映画。
前半はマレー作戦が中心になっている。
帝国陸軍全面協力で本物の陸軍機多数のみならず、敵米英機も鹵獲した実物が登場。
墜落シーン、破壊シーンなどは模型や張りぼてを使っているが、空撮を含む実機の映像が圧倒的に多いのでぐいぐいと引き込まれて見てしまう。
70年以上も前にこの様な映画が作られ、今は殆どあるいは全く現存していない飛行機が活き活きと記録されているのが驚き。
飛行機だけでなく、当時の軍隊の生活の様子も判り興味深い。ただ、そこは戦意高揚映画だけあって鉄拳制裁とか無い訳だが。

大日本帝国(1982年)
悪い意味で典型的な戦後作られた日本の戦争映画。
チープなストーリー、中途半端な反戦、詰め込みすぎな設定、チラみえエロス、低予算、日本人俳優の大げさな演技、名も知らない白人俳優の台詞棒読み....
マレー作戦は映画の前半(というか前1/3)で真珠湾攻撃と共に描かれている。
英軍が持っていないはずの戦車(タイ陸軍のM41ウォーカーブルドッグを撮影に使用)が登場したり、砲撃が終わってすぐ進軍再開とか、白旗揚げて降伏とみせかけ銃撃してくる英軍とか、デタラメもいい所。
ラブシーンの直後に場面が切り替わって、いきなり戦場で大砲ドカーン!ってウケ狙いで編集してるのかな?
あと、どうしても一言。夏目雅子ってそんなにいい女優か?




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