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シンガポールの戦い
Battle of Singapore

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左:マレー作戦の仕上げとしてシンガポール攻撃を指揮した大日本帝国陸軍第25軍司令官、山下泰文将軍(マレー作戦当時は中将、最終階級は大将)。

右:マラヤの英連邦軍指揮官で、シンガポールへの総員退却によりいよいよ追い詰められていったパーシバル中将。
フォード工場跡の博物館にて。
二人の銅像はブキ チャンドゥの戦争記念館Reflectionsにもある。

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シンガポールの戦い関連地図。クリックで拡大。

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シンガポール上陸から英軍降伏に至るまでの、大日本帝国陸軍第25軍各師団の進撃ルート。
赤:近衛師団、黄:第5師団、青:第18師団

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シンガポール側から見た、ジョホールバルにある旧ジョホール州政府の建物。
写真左手前の木はシンガポール側のもの。
見張りの塔からはシンガポールを見渡すことが出来た。
1 27 28 N 103 45 40 E

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パーシバル将軍は当初、シンガポール市街中心部近くにあるフォートカニング(シンガポール在住日本人なら誰でも知っている日本食材スーパー、明治屋の向かいの丘)を司令部としていた。
写真はフォートカニングにある旧司令部で、現在はホテルになっている。
1 17 45 N 103 50 44 E

開戦直前、司令部を島中心部に近い、サイムロード英陸軍基地に移すことにした。
英空軍の司令部もサイムロードに移った。

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移転先の司令部。
サイムロードの英陸軍基地内にある建物。
1 20 15 N 103 48 50 E

元々は極東司令官ブルックポプハム英空軍大将の為に建てられたもので、当時は緑色に塗られていたことから「グリーンハウス」と呼ばれた。
太平洋戦争開戦直前の1941年12月6日から、シンガポール陥落前の1942年12月10日まで、マラヤの英連邦軍司令部として使われた建物で、マレー作戦中、パーシバル中将をはじめとする英軍の「駄目な決断」の多くは、遠く前線から離れたこの場所で決められた。
いよいよ日本軍が迫ってくると、マラヤ英連邦軍司令部は市街中心部近くのフォートカニングに戻された。
日本軍はサイムロード一帯を占拠すると早速この建物を司令部として使った。
日本軍占領下の昭南島時代には付近一帯が捕虜収容所(後に女性の敵性民間人収容所)となった。
現在は個人の土地と住宅になっている。

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司令部を移動したサイムロード陸軍基地一帯は現在ゴルフ場になっている。
司令部の建物は残っていない様だが、付近を防衛するために設けられたトーチカ群の1つが残っている。
このトーチカ、銃眼の上に「山砲陣」と彫られている様に見える(写真はコントラストを上げている)。これは戦争中のもの?
1 20 22 N 103 48 42 E
近辺にもまだ他にトーチカが残っているかもしれないのだが、個人の土地になっており探索できない。

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カラン飛行場は1937年、民間飛行場としてシンガポール島の南に開業した。
飛行艇も揚陸できるよう海に面してランプが設けられていた。
シンガポールシティギャラリーで飛行場跡の現在の様子が模型で再現されており、独特の円形飛行場の名残りが判る。
円の真ん中を左右に貫く道路がかつての滑走路の名残り。
太平洋戦争勃発時にはブリュースターバッファロー戦闘機2飛行隊の基地でもあった。
日本軍がジョホールを占領すると共に、軍用飛行場セレター、テンガー、センバワンが砲撃射程距離に入り、それら基地の航空機はインドネシアのスマトラ島に避難したが、戦闘機の一部はカラン飛行場に移動してきた。
バッファロー戦闘機6機、ハリケーン戦闘機8機がシンガポールの英軍最後の航空兵力となった。
戦後は英空軍が再度使用し、1949年からは民間空港となり、1955年パヤレバ空港の開業と共に廃港となった。

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現在カラン飛行場関連設備で残っているのは管制塔付のターミナルで、これは開港当時からあるもの。
1 18 27 N 103 52 25 E

飛行場の敷地の大部分はドーム付競技場、博物館、モール、駐車場、高速道路となり、飛行場が存在したことを示すものはこの建物くらいしか残っていない。
尚、後継のパヤレバ飛行場は現在空軍基地で、シンガポールの国際空港としてはチャンギが玄関口となる。

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コーズウェイと呼ばれる、マレー半島とシンガポール島を結ぶ道。クリックで拡大。
左がシンガポール島、右がマレー半島のジョホールバル。

石造りの土手で、1924年完成。
全長1060m、幅20m。
開通当初より鉄道、道路、水道が通る。

現在は更に水道管3本が引かれており、内2本は現マレーシアからシンガポールに水を輸送、残り1本はシンガポールで浄水した水をマレーシアに送っているもの。
現在のシンガポールの水道水は、このマレーシアから買った水を浄化したもの、島内のダムのもの、海水を淡水化したもの、下水を再処理したものを適宜混ぜて配水している。

コーズウェーは、平日はマレーシアからシンガポールに働きに来る人、休日はシンガポールからマレーシアに遊びと買出しに行く人で慢性的に渋滞している。
仕事や休暇で何度か渡ったが、コーズウェー自体が緩衝地帯となっており、シンガポール出国をシンガポール側で、マレーシア入国をマレーシア側で行う度にバスを降りなければならず面倒くさい。
(シンガポールを出国したらマレーシアに必ず入国するので出入国審査をくっつければいいのに...)

マレー半島を日本軍に追い立てられて南に撤退した英軍は、このコーズウェイを渡ってシンガポールに退却した。
1942年1月31日、最後の兵が渡る時、英陸軍のアーガイル アンド サザーランド ハイランダーズによるバグパイプが演奏されていたという。
退却後、コーズウェイの一部をインド軍の工兵が爆薬で長さ20mに渡り破壊し、日本軍の進撃を遅らせようとした。
結局、2月11日に修復され近衛師団が渡った。
1 27 09 N 103 46 09 E

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1942年2月7日深夜、大日本帝国陸軍の近衛師団はシンガポール北東にあるウビン島に兵400名で上陸した。山砲も上陸させた。島の防備は軽微で、すぐに制圧できた。
これにより敵英軍を出来るだけシンガポール本島の東側に引き付け、本命の上陸を敢行する島の西側の警備が手薄になることを狙った。
写真はシンガポール・チャンギ空港の02C滑走路を離陸した飛行機から見た光景。中央の大きな島が現シンガポール領のウビン島。島の中に青く見える湖は、採石場跡に水が溜まったもの。
島には乗合いボートで渡ることが出来、島内はレンタサイクル(またはマイ自転車持参)で回れる。
別に何があるという訳でもないのだが、公団住宅、コンドミニアムと商用ビルばかりの本島とは次元の違った長閑な風景が見られる。
写真右が北のマレー本島(現マレーシア)、写真左はシンガポール本島。
1 24 36 N 103 57 49 E

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ウビン島中央部から6km離れた場所に位置するジョホール砲台。
ジョホール海峡に侵入し、センバワン軍港に近づこうとする敵艦船を破壊する目的で建設され、1938年に完成。
ここには3門の口径15インチ砲が置かれ、射程距離33km。

現在は砲のレプリカが置かれ、地下設備を示すラインが地上に引かれている。
当時は要塞周辺は開けていたのだが、現在は周りに木が茂り、木陰にカフェが作られている。
1 21 55 N 103 58 47 E

3門の内2門は海とは反対方向の内陸側(マレー半島側)にも発射できた(レプリカの置かれている場所の砲だけは海側にしか砲撃できなかった)。
この内陸にも砲撃できる2門は、2月5日の時点で既に日本軍に対し応戦を開始しており、ジョホール市や連絡橋コーズウェイに向けて発砲している。
2月8日、ウビン島に日本軍が上陸したのを受けて、近隣のチャンギ砲台群(6インチ、9.2インチ砲)と共にウビン島に向けて砲撃をした。
しかしウビン島の近衛師団の実態は少数で薄く分散しており損害は軽微だった。
また、13日からのパシルパンジャンでの死闘でも援護の砲撃をしている。
2門で計194発を発射した後、英軍は砲を破壊して撤退している。

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上はジョホール砲台への入口を示す標識。1 21 58 N 103 58 32 E

下は、シンガポールの運転免許試験模擬問題集からの抜粋。

この標識の示す方角には何があるのでしょう?
(A) ジョホール銘柄の電池を売っている所
(B) ジョホールにある面白そうな場所
(C) 興味のありそうな場所

これ、まあ簡単そうで奥が深い。よくこんな問題考えたな、と。
一番目は英語のBatteryが砲台と電池の双方の意味を持っていることから。
二番目は、面白そうな場所というのは合っていても、この砲台の場所はジョホール(マレーシアの最南端)では無い。ジョホール砲台はシンガポール島の東端、チャンギにある。
では何でジョホール砲台なのか、というと、ジョホールのスルタン王が英植民地政府に寄付をして、その寄付金で砲台が作られたから、ということらしい。
結局(C)が正解。

シンガポールでの本番の運転免許試験ではこんな変な、交通ルールや安全運転に直接関係無い問題は出てこなかった。
私の場合、日本の運転免許とシンガポール就労ビザがあるので実技は免除、筆記というか、タッチスクリーン選択式のみ。
無事免許取得したのだが、結局シンガポールでは運転したことがない。
しかしシンガポールの免許は英語表記なのでマレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、米国でそのまま(国際免許無しに)運転できたのは非常に便利。

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2月8日10:00頃から、日本軍はコーズウェイ西側のオーストラリア軍陣地を中心に激しい砲撃を開始した。
これにより通信網が破壊され、英連邦側は効果的な連絡、連携ができなくなった。
シンガポール北西部、日本軍の上陸地点サリンブンを示す記念碑。
左奥が上陸地点一帯となるが、マングローブが茂り、更に不法入国者防止のフェンスが張られており海岸線には出られない。
解説より
1942年2月8日の22:30頃、味方の砲撃による援護を受けながら、第5、第18師団が小舟で海峡を渡り上陸を試みた。
最初の2波は一帯を守るオーストラリア軍第22旅団の機銃により撃退されたが、3波で防衛線は突破され、日本軍は上陸に成功する。
1 26 15 N 103 41 54 E

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リム チュー カン(林暦港)通りの突端にある桟橋。
この一帯にも日本軍が上陸した。 上陸した日本軍は、通りを南下し、テンガ空港の確保に向かった。
また、最初の上陸から丸1日ちょっとを経た2月10日の夜明け前、早くも山下中将はこの地点に上陸した。
戦車も艀に乗せてここから陸揚げすることが出来た。
1 26 44 N 103 42 27 E

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桟橋の突端から、日本軍が上陸したビーチ一帯を振り返る。クリックで拡大。
上陸は写真と同じ、満潮時に行われた。
写真向かって右には現在水上警察の基地がある。
画面左、桟橋の上に建てられた家は戦前からあるもので、裕福なカシン一族が建てた保養の家。シンガポール攻略を扱った日本の映画「マレー戦記 進撃の記録」(1942年)にも登場する。
画面左端に見える対岸がユーラシア半島本土のマラヤ(現マレーシア)。

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1942年2月9日の渡河上陸作戦を記念した鯉兵団(第五師団)のボード。
現在オーストラリア・キャンベラの戦争記念館に展示されている。

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オーストラリア軍第22旅団の司令部があったアマケン集落の近辺。
1 24 10 N 103 42 03 E
旅団長テイラー准将は、現在の防衛範囲があまりにも兵力に比べ広すぎることから、前線をアマケン集落(キュランジ川始流)〜スンゲイベリー入り江(Sungei Berih)を結ぶ線まで後退させることを計画した(こうすることにより防衛線10km超から4kmに縮まる。
しかし結局、日本軍の進撃速度が速すぎ、通信網は破壊され、更に自軍の損害が大きすぎて、テンガー飛行場まで撤退することになった。

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日本軍の重要攻略目標であったテンガー飛行場。
1 22 25 N 103 42 39 E
周囲はフェンスと塀に囲まれており中は殆ど覗けない。
現在はF-16C/Dの基地で、F-16Cを装備するアクロチーム「ブラックナイツ」もここがベース。
当時ここにはブレニム爆撃機2個飛行中隊が配備されていたが、太平洋戦争勃発と共に爆撃を受けており、ジョホールが日本軍に占領された後、日本軍の砲撃射程距離内にある飛行機はカラン飛行場に避難していた。
ここは2月9日の午後に日本軍の手に落ち、10日には山下中将が司令部をジョホールバルからこの近くに移した。

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クランジ川の河口。現在は水門と堤防が設けられ、ダム化している。
画面中央にコーズウェイが見える。画面左側はマレー半島(現マレーシア)。
最初のシンガポール上陸から丸1日たった2月9日夜から10日未明にかけて、帝国陸軍の近衛師団は舟艇で上陸を試みた。
場所は画面右、マングローブの木が茂っているあたりからコーズウェイの手前にかけての一帯
尚、この海岸線は戦後埋め立てにより少しマレーシア側に寄っている。
この一帯はオーストラリア軍第27旅団と、シンガポール地元民から成る義勇兵「ダルフォース」が配備に付いていた。
当時は干潮だった。最初に上陸を試みた一団は、泥に足をとられ、油にまみれた。油はウッドランズの石油貯蔵庫のものを英軍側がが故意に投棄したものだった。油に火が点けられた。
近衛師団長の西村中将は上陸部隊が全滅したと勘違いしパニックになった。
これで一旦は撃退できたものの、上陸済みの日本軍5,18師団に西から攻め込まれて退路を失うのを恐れて、オーストラリア軍とダルフォースには南方への退却命令が出た。かくして近衛団も上陸に成功する。
1 26 25 N 103 44 37 E

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マレー作戦に参加した近衛師団の司令部庁舎。1910年建造。
現在は東京国立近代美術館工芸館として使用されている。
35 41 23 N 139 45 02 E
当時、近衛師団は第1〜第5歩兵連隊を中心に編成されていたが、この内第3、第4、第5歩兵連隊がマレー作戦に参加した。

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シンガポールのブキパソ通りにある新加坡晋江会館は、1918年に晋江出身の華僑が設立した。
華僑動員総会の拠点となり、英軍に労働力や義勇兵(ダルフォース)を提供した。
昭南島時代には日本軍が入居、戦後は華僑の教育や文化伝承をサポートしている。
1 16 45 N 103 50 26 E

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オーストラリア軍、インド軍が保持しようとしたジュロン〜クランジ防衛線を解説する記念碑。
いやぁ、公団団地(HDB)のど真ん中にこんな記念碑を作られてもねぇ... まぁ、当時の面影を残す場所が開発されてしまったり、立入り出来ないのでしょうがないのでここにしたんだろうが。
1 21 13 N 103 43 01 E

以下解説より。
ジュロン川とキュランジ川各々の始流を結ぶ細い尾根は、市街地への北西からの侵入を阻止できる天然の防衛線だった。英連邦の兵は、侵入してくる日本軍に対しここで強固に防衛するはずだった。
しかしながら、「止むを得ない場合に限り市街を囲む最後の防衛線まで後退せよ」というパーシバル将軍の秘密命令を守備隊は誤解する。
結果としてインド軍第44歩兵旅団及び第12歩兵旅団、オーストラリア軍第22旅団(北西部サリンブン海岸からの撤退後に補充増強されていた)はこのジュロン〜クランジ防衛線を2月10日に放棄し撤退してしまい、これにより日本軍は防衛線を難なく通過してブキティマへの攻撃に移った。

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ブキティマ山(標高164m)に登るハイキング道麓に置かれた記念碑。
1 20 54 N 103 46 37 E
日本軍は西、北から攻め込み、付近一帯で攻防戦が繰り広げられた。
ブキティマには飲料水の水源であるダム、食料貯蔵庫、弾薬庫があり、また、ここから市街中心にはブキティマロード1本で到達できる為、英連邦軍としては絶対守るべき場所であった。
10日に一帯を日本軍が確保、英連邦軍の反撃も効果なく、大日本帝国の紀元節である2月11日には日本軍によるブキティマの安定占領が決まった。
水源地近辺の丘は保護されているが、周囲の戦跡は宅地開発により当時の面影が残っている場所は殆どない。

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シンガポール上陸後、日本軍が戦車を初めて投入したのはブキティマの戦い。
写真は95式軽戦車(ハ号)で、マレー作戦ではこれと97式中戦車(チハ)が日本陸軍の主力戦車だった。
敵英連邦軍に戦車部隊がおらず(装甲車はあった)、装甲が薄く武装が貧弱なハ号でも充分に戦果を上げることが出来た。
写真は日本から輸出されて元タイ(シャム)陸軍で使われていたもので、バンコクのナショナルメモリアルに野外展示されている。

2月10日未明から10日深夜にかけての24時間、アジア地区英米蘭濠の司令官、ウェーヴェル大将がシンガポールの戦況を視察に来た。
彼はパーシバルの上官に当たり、マラヤとインドネシアをカバーしていた。
彼は、チャーチル首相から、全部隊をもって敵と交戦せよ、と言われていたが、実際にシンガポールでの惨状、特に兵士の士気の衰えと規律の無さを目の当たりにし、パーシバルの指揮では事は改善しないと確信した。
最後まで粘り戦う様命令を伝え、サンダーランド飛行艇(シンガポール近辺は制空権が無いのによく来たな...)で司令部のあるジャワに戻ろうと内火艇に乗り込もうとしたとき、足を滑らせて転び、背骨の小骨を2本骨折した。
結局シンガポール陥落までの間、ウェーヴェル大将はジャワで床に伏せていた。

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当時の日本軍が主力で使っていた九二式重機関銃。
海外にも輸出され大量に残っているらしいが、タイ海軍博物館では3丁を並べて展示するという贅沢というか、工夫が無い展示をしている。しかも、この写真の後ろ側にも更に3丁が全く同じ展示をされており、さすがに全6丁の水増し展示はいかがなものか。こんだけ数があるのだから一部は分解するとかしたらいいのに。
ちなみに、同じくタイのナショナルメモリアルでも同機関銃を3丁展示しているのだが、こちらは三脚射撃状態、運搬状態、対空機銃状態と変化を付けている。

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日本軍の38式歩兵銃と鉄兜。何故かニュージーランド空軍博物館にて展示されている。

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2月11日、海軍基地が日本軍の近衛師団に侵略される危険性から、この地区の防衛を担当していた英インド第V軍団指令のヒース中将は、センバワンの海軍基地を放棄することにした。
海軍基地防衛隊はセンバワン飛行場まで撤退したが、破壊活動が間に合わず多くの設備が無傷で日本軍の手に入った。
写真は現在の様子。 1 28 00 N 103 49 50 E
中央から左側がオリジナルの岸壁で、画面奥および右の埠頭と浮きドックは戦後のもの(戦前の浮きドックは日本軍の接近と共に英海軍が自沈、後に日本軍が引き揚げ使用したが爆撃を受け破壊された)。
センバワンは、シンガポール独立後、英海軍が撤退し、民間のドックとなった。
また、現在、米海軍がセンバワンに需品拠点を設けている。

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ボーリュー(フランス語で美しい場所)ハウスという名を付けられている建物。
1910年代にユダヤ人が別荘として建てたもので、センバワン英海軍基地を設立する際、1924年に植民地政府が買い上げた(基地の完成稼動は1938年)。
基地建設中は技術者幹部の住居となり、その後1940年からシンガポール陥落前までの間、英海軍中国艦隊長(後に東洋艦隊長)のサー ジェフリー レイトン中将(最終階級は大将)が使用した。
現在はレストランになっており結婚式も出来るらしい。

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写真は海軍基地防衛の為に、軍港後ろの丘の上に設置されたトーチカ。結局役立たず。
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2月12日、日本軍に押される英連邦軍は市街地を囲む最後の防衛線を構築することにした。
日本軍はここに来て焦りだした。英連邦軍が防御陣地を固めてしまうと、こちらの兵力と弾薬では制圧できない可能性がある。
山下中将は攻撃を2方向に集中させることにした。
一つは島の南沿いに、、18師団による東進でアレキサンドラバラックを目指す。
この部隊は、パシルパンジャン地区のブキチャンドゥ丘陵で、マレー旅団による抵抗に合う。
写真は激戦現場となる、ブキチャンドゥの丘の駐車場に設置された記念碑。
1 17 01 N 103 47 26 E
ブキチャンドゥの丘は、イギリスのアヘン工場があったことから当時はオピウムヒルと呼ばれた。堂々とアヘン工場というのがスゴいが...

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マレー連隊の英雄とされる、アドナン サイディ少尉。
彼の率いる第1マレー旅団C中隊は、日本軍の攻撃に対し最後まで抵抗し、部隊はほぼ全滅する。
サイディ自身は日本軍に捕まり木に逆さ吊りにされて日本軍に銃剣で刺されて殺された、というのがシンガポールの「定説」。
パシルパンジャンにある戦争博物館(というより反日博物館)「リフレクションズ」の展示。

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ブキチャンドゥでの日本軍の攻撃に対し抵抗したマレー師団将校の礼服。戦闘時は無論英軍仕様のヘルメットを被る。
パシルパンジャンにある戦争博物館(というより反日博物館)「リフレクションズ」の展示。

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ブキチャンドゥの麓にあるトーチカ。戦闘の痕が見られないので、直接戦闘には関わらなかったのかもしれない。
本来は海岸からの敵上陸を想定している。
1 17 20 N 103 46 41 E

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迫撃砲を撃つマレー師団の銅像。訓練中の写真を元に再現したもの。「リフレクションズ」入口の展示。
マレー師団第一大隊C中隊は殆ど全滅するまで戦い続けた。
植民地支配者の英国軍でも、その連邦国家であるインド軍でもオーストラリア軍でもない、地元のマレー系兵士による部隊が粘り強く戦った。
現代のシンガポールとしてはこの美談を放っておく手は無い。
ブキチャンドゥの丘に博物館を設置し、マレー師団がいかに果敢に戦ったか、日本軍が如何に残忍であったかを出土品、ジオラマ、パネル、アニメ、ホログラム等を駆使して説明している。
かつては大英帝国と協力してマレー系住民を搾取して利益を得ていた華僑・華人。それが今や大英帝国がいなくなってしまい、更にはマレーシアからシンガポールが切り離された為、マレー系住民を大量の労働力に使って華僑・華人が大量搾取というビジネスモデルが成立しなくなってしまった。
しょうがないのでマレー系住民にももっと真面目に働いてもらいたい。そうでないと華人国家シンガポールは沈没する。そこでマレー師団の活躍(玉砕とも言う....)を大々的にPRする博物館を作った。
華僑・華人の味方、英連邦を正当化するために勿論日本軍は悪者。反日にバイアスがかかる。
私が訪問した戦争博物館のワースト1はここ「リフレクションズ」で決まり、だ。
1 16 46 N 103 47 39 E

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「リフレクションズ」の屋内展示。出鱈目な説明、反日丸出しの解説。

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ケッペル港防衛の為に建造されたパシルパンジャン要塞。現在はラブラドール公園になっている。
対岸のシロソ要塞とペアで、ケッペル港に西側からアプローチしようとする敵艦船を撃沈出来るよう、1878年に建設された要塞。
太平洋戦争勃発当時、ここには6インチ砲2門が設置され、重量102ポンドの砲弾を射程16km以上撃つことができた。
写真の6インチ砲は、ビーチロード駐屯地跡地の地下1mに埋められていたものをここに移してきたもの。
砲身は本物だろうが、照準器や駐退復座機はレプリカの模様。尾栓は失われている。
他に12ポンド速射砲2門もおかれていた。
北西方向からブキチャンドゥに攻めて来た日本軍に対し、パシルパンジャン要塞では砲を内陸に向けて支援したがそれも2月13日には終わった。この日の深夜、チャーチルからの命令がフォーとカニングのマラヤ司令部から伝達され、要塞砲は敵の手に落ちないよう全て破壊した。
しかし、その後占領した日本軍は1門を修理して配備したと言われる。
1 15 57 N 103 48 12 E

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シンガポールの要塞化は海からの攻撃を前提としていた。
要塞は島の南側に集中して築城されており、トーチカも要塞を守るように、また、海からの敵上陸を防げるように優先的に建造されていた。
ただし、全ての固定陣地の大砲が海上の敵に向かってしか発射できない、というのは間違いで、全体の3/4は陸に向かっても発射することが出来た。
問題は砲弾の種類で、在庫の大部分は船舶を直撃して沈める為の徹甲弾(AP弾)で、陸上を進む歩兵や車輌に効果のある榴弾(HE弾)は1割未満だった。
写真左は太平洋戦争中の6インチ砲の徹甲弾。写真右は7.62mm砲弾ケースだがマレーシア紛争期のもの。
シンガポール国立博物館での暫定展示。

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パシルパンジャン要塞で、方向及び距離を指示する観測所跡。
発射煙に視界を遮られないように風上で観測する必要があるので、砲台の両側にある。
現在は木が茂っているが、当時は当然海に向かって開けていた。

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パシルパンジャン要塞のビーチ沿いに設置されているトーチカ。
中央上が観測と照明、下左右二つが機銃室で銃眼のスリットが開いているのだが埋もれてしまっている。
1 15 46 N 103 48 18 E

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パシルパンジャン要塞があった、現ラブラドール公園の公衆トイレ脇に放置されているトーチカ跡。
開口部は塞がれ、樹木が育ち隠されつつある。
1 15 54 N 103 48 13 E

19420208_BattleOfSingapore_65.jpg
ブラカンマティ島(現セントーサ島)全景。
島の向かって右端の岸辺に見える高床式の建物は、サーチライト小屋
島の手前側(西側)が、ケッペル港防衛の為のシロソ要塞になっていた。
セントーサ島は、戦後埋め立てにより写真奥方向に向かって拡張されており、カジノ、テーマパーク(ユニバーサルスタジオ)、高級住宅などが建つ。
1 15 34 N 103 48 31 E

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シロソ要塞の監視壕(左上)と、兵士用娯楽場。

写真左下に見えるのは9.2インチ後装砲。以下解説パネルより、

英9.2インチ砲は、ドイツのクルップ社製24cm砲に対抗すべく、19世紀末に設計されたもので、当初艦載として、後に敵艦からの長距離砲撃を防ぐ沿岸防衛砲として使われました。
1914年までには9.2インチ砲が大英帝国植民地の防衛用に沿岸に配備され、シンガポールには5門がありました。
展示されている2門の砲(注:もう一門は画面外)は、第二次世界大戦前、セントーサ島東端のコノート堡塁(現在は撤去)の砲台に据え付けられていたものです。
1942年2月13日、これらの砲は、テンガー飛行場を占領した日本軍に向けて、主に徹甲弾からなる備蓄を全部撃ちつくしました。この時連続発射に向いていないライフル砲身は激しく磨耗しました。
1974年にコノート要塞近くで回収され、シロソ要塞に移され展示されています。

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砲台と12ポンド速射砲。砲や弾薬はレプリカ。

シンガポール陥落間際にはブキチャンドゥで戦うマレー師団に援護砲撃をし、画面奥に見えるブコム島の石油精製施設が日本の手に落ちないよう砲撃した。
他には2月12日に日本軍の弾薬運搬船をパシルパンジャン要塞と共に砲撃し、これをセントジョン島近くで沈めている。
また、ケッペル港に繋留していた2隻の艀(1隻は空荷、もう一隻は英軍の弾薬満載)が沖に流されてしまったので日本軍が利用出来ないよう砲撃して撃沈した。

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6インチ後装砲のレプリカ。砲身と尾栓周りの軸がずれてますが...
6インチ後装砲はシロソ要塞に2門配備。
対艦船用の砲だが、本土の日本軍に対して砲撃を加え、また、日本軍艦艇攻撃、ブコム島石油精製施設破壊にも活躍。

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6インチ砲の砲弾(レプリカ)は要塞地下に保管されており、エレベータ(レプリカ)にて地上まで持ち上げる。

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シロソ要塞の砲撃観測所。1942年2月14日の状態を再現。
現在は樹木が茂っているが、当時は海に向かって視界が開けていた。

壁にかかっているのは日英軍艦識別図1941年版。

左列は英国海軍。上から
戦艦 ウォースパイト
戦艦 クィーンエリザベス
戦艦 キング・ジョージ5世級 (マレー沖で沈んだプリンスオブウェールズはキンググジョージ5世級)
戦艦 マラヤ
巡洋戦艦 レナウン (マレー沖で沈んだレパレスはレナウン級)
空母 フォーミダブル級(注:イラストリアス級)
空母 フューリアス
空母 ハーミーズ
軽巡洋艦 リアンダー級
軽巡洋艦 モーリシャス級(注:クラウンコロニー級)
軽巡洋艦 ニューキャッスル級(注:タウン級)
重巡洋艦 ドーセットシャー級(注:カウンティ級)
重巡洋艦 ロンドン級(注:カウンティ級)
A級、B級駆逐艦
E級、F級駆逐艦 (右上はデコイ)
G級、H級駆逐艦


左は大日本帝国海軍。上から
戦艦 陸奥、長門
戦艦 日向、伊勢
戦艦 扶桑、山城
戦艦 榛名、金剛、比叡
空母 蒼龍、飛龍、Koryu(←そんな空母は無い)
空母 龍驤
空母 加賀
重巡洋艦 最上型
重巡洋艦 利根、筑摩
重巡洋艦 愛宕、摩耶、鳥海、高雄
軽巡洋艦 夕張
那智、足柄、妙高、羽黒
重巡洋艦 衣笠、加古、青葉、古鷹
日向、伊勢 (注:2番目と重複)
駆逐艦 吹雪型
駆逐艦 響型 (注:響は吹雪型の22番館)
駆逐艦 陽炎型
駆逐艦 朝潮型

現代の情報と照合すると色々と突っ込みどころはありますが、いずれにせよ軍艦の識別って難かしいな、と。

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各施設を結ぶ壕とトンネルシステム。

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シロソ要塞では、シンガポールの戦い当時だけではなく、それ以前の様子も再現している。
手前の砲台に展示されているのは、要塞完成当時の1885年に配備されていた64ポンド前装施条砲。
砲台は、マレー作戦時には対空機銃陣地になっていた。
奥の2門は日本占領下で日本海軍が持ち込んだ50口径三年式14cm砲だが、シロソ要塞に配備されていた訳ではない。

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これも要塞完成当時から配備されていた7インチ前装施条砲。

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7インチ前装施条砲(レプリカ)の砲身本体を、据付場所の高台まで揚げている場面を再現。
工兵の仕事だが要塞兵、徴用地元民も作業に加わった。

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要塞完成当時の兵舎の様子。金属製のベッド、足元にはロッカー、上からは蚊帳。

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要塞建設当時の厨房の様子。解説板より、
要塞での兵士の食事は、主に肉、パン、じゃがいもなどを使ったものでした。食事の用意は現地の人が、木炭か薪のかまどで簡単な道具を使っていました。時にはカレーなどの地元の料理も入っていたようです。

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こちらも要塞完成当時の1885年の様子。以下解説板より、
洗濯は自分でしてもよいし、ドビ ワラーと呼ばれる洗濯男に出すこともできました。大抵の場合、ドビ ワラーは英国の軍隊に雇われた地元の人で、湯沸し、流し台、手動アイロン、木のバケツ、洗濯板といった簡単な道具と、持ち前の強い腕を使って洗濯をしていました。また、少し余分に払えばアイロンかけもしました。

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太平洋戦争勃発当時、シンガポールのブラカンマティ島(現セントーサ島)にはシロソ、セラポン、コノートの3つの砲台が現役で、ケッペル島への入口を守っていた。
写真はそれ以前に建設されたインビア砲台。
1880年台に建造され、第一次世界大戦当時は9.2インチ沿岸砲1門を装備していた。
1930年代、島東部に9.2インチ砲3門を配備するコノート砲台が完成するとインビア砲台の砲は撤去され、倉庫となった。
よって、シンガポールの戦い時には戦闘機能を有していない。
昭南島時代には日本軍が見張りや倉庫として使ったらしい。
戦後は英軍が倉庫として使用したが、シンガポール独立後は廃墟となり、近隣周辺が観光開発で大きく変化しても砲台の跡は幸い手付かずで残っている。
砲座固定のボルトが一部ナット付で残っているが、コンクリートの角柱は戦後のどこかで追加されたものらしい。
画面左の階段は現在立入できないが、砲台下の弾薬庫に通じる。
1 15 24 N 103 48 53 E

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インビア砲台のすぐ後ろに、管制室の建物が残っている。その後ろに兵舎があったが、現在は取り壊されてしまっている。

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ブラカンマティ島(現セントーサ島)のビーチにあるトーチカ。
超悪趣味な塗装を施されてしまっている。
反日もいいけど、まずは観光客を呼んで観光収入の安定確保。その為には邪魔なトーチカは撤去したい。でもお金がかかるから、とりあえずお洒落に塗装しておこう、という華人の魂胆丸見え。
しかしデザインセンス悪すぎ。
ピンクの要塞前に立つ緑色のフィギュア(インド兵?)がナイス。これ、トーチカの機銃室から配線が伸びているので夜ライトアップするみたいだけど、それはそれでコワイと思うぞ(夜は行っていないので判らんが...)
1 14 59 N 103 49 16 E

19420208_BattleOfSingapore_57.jpg
同じくセントーサ島のトーチカ。およそ550mおきに配置されていたという。
上の開口部はサーチライト用、下は2丁の機関銃用。これもまだマシだけど、塗装が....

19420208_BattleOfSingapore_64.jpg
日本軍が市街に迫り来る中、何千人もの民間人が船で脱出を試みた。
向かう先はジャワ島が多く、運良く辿り着いた場合、その先インドやオーストラリア、英本国に向かった。
しかしシンガポール島周囲の制空権、制海権は日本軍の手中にあり、多くの船が沈んだ。
1月中旬より少しづつ行われた民間人の船による避難は、2月14日以降禁止された(実際には少なくとも1隻が14日の早朝出港した模様)。
写真は脱出の為船が出港したケッペル港。
1 15 43 N 103 49 13 E

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1942年2月13日、シンガポール総督のシェントン・トーマスは、官邸が砲撃された為、当時赤痢で寝込んでいた夫人と共にフラトンビルディング(1 17 11 N 103 51 11 E)に避難した。
写真上は旧総督官邸(現シンガポール大統領官邸)の入口、写真下はフラトンビルディング(現フラトンホテル)。

フラトンビルディンぐは1928年に完成したビルで、官庁や取引所、シンガポールクラブ(白人専用社交クラブ)等が入居していたが、シンガポール攻防戦が始まってからは病院として使われていた。
パーシバル中将は翌日2月14日にトーマス総督とここで面会し、戦闘継続の意思を伝えた。
昭南島時代は日本軍が使用し、2001年からはホテルとなっている。

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パシルパンジャンを制圧した18師団は東進し、市街地への入口となるアレクサンドラバラックスを目指した。
1942年2月14日、イギリス軍のアレクサンドラ病院敷地から銃撃を受けた。
日本軍は病院を報復襲撃し、病院スタッフと患者合わせて200人以上が死亡したと言われる。
1 17 11 N 103 48 04 E

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こちらはパシルパンジャンと並ぶ、もう一方の日本軍の主力攻撃、サイムロードの戦場。
サイムロード(左)、アダムロード(後方)、ローニーロード(前方)の交わる交差点は日本軍の激しい航空攻撃を受けたので、英軍兵士は「ヘルファイヤーコーナー」と呼んだ。
第5師団は戦車を伴ない、画面左から攻めてきた。
1 20 09 N 103 49 07 E

19420208_BattleOfSingapore_79.jpg
サイムロードのゴルフ場。画面奥方向から島田戦車隊が手前に向かって攻撃してきた。
1 20 20 N 103 48 55 E

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靖国神社 遊就館に展示されている97式中戦車。
島田戦車隊は97式中戦車、95式軽戦車の混成だった。

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戦場の一部となった、サイムロード付近一帯の華僑墓地。付近一帯を英軍が守り、責める日本軍の使っていたハ号、チハでは墓地を乗り越えられず、敵の征圧は歩兵に頼るしかなかった。
アダムロード東側で土地開発が進んでおり、古くからある墓地の多くは移転している。
1 20 07 N 103 49 09 E

19420208_BattleOfSingapore_99.jpg
日本軍の攻撃に追い立てられた英軍は、14日夜から15日にかけて、暗闇の中、大規模な華僑の墓地であるブキブラウンに逃げ隠れた。
1 20 10 N 103 49 24 E

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2009年から2011年にかけてサイムロード周辺の土地開発中、出土した英連邦軍の遺留品、弾薬やベルトバックルなど。
シンガポール国立博物館の展示。

19420208_BattleOfSingapore_42.jpg
19420208_BattleOfSingapore_98.jpg
サイムロード一帯の戦闘により、日本軍が完全に手中に収めたマックリッチー貯水池。
1 20 40 N 103 49 48 E (写真上) 1 20 36 N 103 50 07 E (写真下)

当時、シンガポールの主要水源は、マレー半島ジョホールからコーズウェイを渡るパイプライン、セレター貯水池(現アッパーセレター貯水池)、ピアース貯水池(現ローワーピアーズ貯水池)、マックリッチー貯水池で、
パイプラインは英連邦軍がマレー半島からシンガポール島に撤退する時にコーズウェイの一部共々破壊、セレターとピアーズは近衛師団により制圧されており、マックリッチーは最後の貯水池だった。
その他、フォートカニングの敷地に揚水式の貯水池があったが供給量は限られた。

19420208_BattleOfSingapore_96.jpg
画面右に95高地、中央奥にウォータータワーヒルがあった。
現在は高速道路の開通により共に消失してしまった。
1942年2月13日の未明、日本軍が画面奥(西)、後に右(北)からウォータータワーヒルを攻め、あっというまに占領した。
英軍は反撃に出たが多大な犠牲を出しただけで奪還できず、95高地は守り抜こうと陣地を構築した。
画面左端がアダムパークロードの高級邸宅街、画面右端は司令部のあったサイムロードになる。
1 20 03 N 103 48 48 E (ウォータータワーヒル)
1 20 03 N 103 48 56 E (95高地)

19420208_BattleOfSingapore_56.jpg
英陸軍ケブリッジシャイヤー連隊 第1大隊は、2ヶ月の航海を経て、シンガポール攻防戦が始まる直前の、1942年1月29日にシンガポールに到着した。
まず、北部のセレター空軍基地の守りについたが、日本軍の上陸と共に南方に撤退し、2月12日、アダムパークロード付近に陣を固めた。

アダムパーク7番地の邸宅は、当時英陸軍ケブリッジシャイヤー連隊 第1大隊の司令部になっていた。
1 19 46 N 103 48 50 E
周辺にも同じような邸宅が並び、英軍は守りを固めていたが、日本軍は何度も攻め込んできた。

19420208_BattleOfSingapore_97.jpg
アダムパーク19番の家。英軍が守備に付いていたが、14日、お隣さん(とはいっても豪邸なので距離はある)である左隣20番の家から日本軍の銃撃を受けた。
1 19 55 N 103 48 48 E

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日本軍第5師団歩兵第41連隊が占拠に成功した20番の家。
1 19 55 N 103 48 49 E

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アダムパーク16番地の邸宅は一際大きく、敷地も広い。
日本軍はこの建物を占拠し、英軍に向かって発砲した。
大きな庭でプール、ミニゴルフ場付という贅沢。今はカワイイ犬コロもいる。
1 19 54 N 103 48 41 E

アダムパーク一帯では一進一退の戦闘が15日まで続いたが、日本軍は英軍の右翼にあたるサイムロード一帯を確保、ケブリッジシャイヤー連隊 第1大隊は退却を要請したが、司令部からの返事は「その場で降伏せよ」だった。

19420208_BattleOfSingapore_95.jpg
英陸軍ケブリッジシャイヤー連隊所属兵卒の墓。第一、第二大隊共にシンガポールで降伏した。
この兵はその後泰緬鉄道に関わったのか、1944年5月に死亡し、タイ王国カンチャナブリにある、チョンカイの切り通しの近くにある墓地に埋葬されている。
14 00 18 N 99 30 53 E
奥さんからのメッセージは「永遠の愛の記憶を。いなくなってしまったけど、忘れない」。

19420208_BattleOfSingapore_39.jpg
デンプシーヒル 1 18 17 N 103 48 37 E にはイギリス軍の駐屯地があり、ブキティマが日本軍に陥落したので、ゴードンベネット少将は司令部をここに移していた。
尚、司令部の建物 1 18 18 N 103 49 06 E は現在外務省が入っており一般人は近寄ることができない。

19420208_BattleOfSingapore_40.jpg
シンガポールの市街中心部にあるセント アンドリュース大聖堂は、島内で一番大きい教会。
シンガポールの攻防戦後半、ここは空襲の負傷者を収容し、臨時病院として使われていた。
1 17 32 N 103 51 08 E

上空を飛ぶヘリはシンガポール空軍のCH-47チヌークと、AH-64アパッチ。
撮影時は建国記念パレードの予行演習で市街地上空を飛行中。

手前の道路はシンガポールF1のコースになっており、F1の為臨時フェンスや照明を取り付けるポールが設置されている。

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シンガポール陥落直前の2月14日,英軍の対空砲火により撃墜された日本陸軍第27飛行戦隊所属の99式襲撃機のエンジン部分。
1988年にトアパヨの建設現場で発掘された。
シロソ要塞の展示物。

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冒頭で書いたとおり、マレー作戦開始直前から、パーシバル将軍は司令部をサイムロードに置いていたのだが、ここはブキティマ村のすぐ近くで、戦闘での機銃音がはっきりと聞こえてきた。
この為2月11日朝、司令部を市中心近いフォートカニングに再び戻した。
ただし戦前の司令部の建物(現ホテルフォートカニング:本ページ冒頭の写真)ではなく、同じ砦敷地内の、「バトルボックス」と呼ばれている地下施設を司令部とした。
1 17 44 N 103 50 47 E
写真はフォートカニングの丘。元々はマレーの王族がここに宮殿を建てていた。

19420208_BattleOfSingapore_32.jpg
1819年に植民地支配者の大英帝国がここに総督の邸宅を建て、後に要塞化した。
写真は19世紀の9ポンド砲。要塞完成時既に時代遅れで、装飾や、セレモニーなどに使った。

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要塞入口のゲート。完成当時は壁と堀に全周囲まれていた。手前が堀側。

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地下壕「バトルボックス」への入口。地下壕自体は1936年から1941年の間のどこかで完成したらしい。

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シンガポールシティギャラリーにあるシンガポール中心部の模型でフォートカニングパーク一帯が再現されている。

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バトルボックス内の各部屋を結ぶ通路。
戦後1945年に地下設備は閉鎖されたが、1988年から博物館として公開されている。
バトルボックス内部の写真は2012年に撮影したもので、この時は自由に見て回ることが出来、写真撮影も出来た。
その後再び閉鎖されたが、2016年現在は再開されている。
しかしガイドツアーでしか回れず、写真撮影も出来なくなってしまった。

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バトルボックスの通信室。
映画「レイルウェイ 運命の旅路」の主人公、エリック ローマックス中尉(当時)は、砲兵隊の通信将校としてマレー半島に配属され、開戦時にはクアンタンにいたが、英軍の撤退と共に南下、1942年1月の後半にシンガポールに退却し、バトルボックスに3週間篭り、最後まで命令伝達、情報収集に関わった。
映画の要塞のシーンはオーストラリアで撮影されている(本ページ末尾参照)。

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通信室の壁に残されている、日本軍によると思われる鉛筆の覚え書き。
防空隊、憲兵隊本部、憲兵隊分隊  この他にも色々ある。また、英兵による落書きも残っている。

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要塞軍指令(キース シモンズ少将)の部屋。パーシバル中将がバトルボックスに居る時はこの部屋を使った。
左がパーシバル、右はシモンズ。

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固定防衛陣司令官、カーチス准将の勤務室を大英帝国戦争博物館所蔵の写真を元に再現

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水洗トイレ

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地下要塞からの非常脱出口。地上部に出られる。
要塞内の移動は制限されていたので、この脱出口の存在を知っている人は少なかった。

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防空管制室。地図はマレー半島。

1942年2月13日、パーシバルはバトルボックス内でヒース中将、ベネット少将、シモンズ少将らと緊急会議を開き、戦闘継続を訴えたが全員に反対された。ヒース中将は即時降伏を勧めたが、結局パーシバルは戦闘続行を命じた。

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2日後の1942年2月15日0930〜1115まで、再び英連邦軍幹部を集めた会議がバトルボックスで開催された。
当時空調が敵の攻撃で故障しており、熱気、臭気で不快な状況だったという。
この時の様子を現地で蝋人形で再現してある。クリックで拡大。

場所はワイルディ准将の部屋を使い、参加者は以下12名。
アーサー パーシバル中将  マラヤ英連邦軍司令官 (この後、日本軍との降伏調印に参加)
ルイス ヒース中将  インド第3軍司令
キース シモンズ少将  要塞軍司令
ゴードン ベネット少将  オーストラリア第8師団司令
イヴァン シムソン准将  インフラ責任者
ルーカス准将  総務責任者
ニュービギン准将  参謀官 (この後、日本軍との降伏調印に参加)
ワイルディ准将  防空責任者
エリック グッドマン准将  砲兵アドバイザー
トランス准将  参謀官 (この後、日本軍との降伏調印に参加)
ディッキンソン准将  警察長
シリル ワイルド少佐  ヒース中将の参謀長 (この後、日本軍との降伏調印に通訳として参加)

これら会議参加者は皆日本軍の捕虜となるが、ベネット准将だけは下級将校、民間のヨーロッパ人数名と共に小型船を徴用してスマトラ島に逃げ、3月にはオーストラリアにたどり着いた。この時、小型船に同乗していた将校の一人に、後のジェイウィック作戦に参加するロス中尉がいる。
尚、ベネット准将の他に幹部クラスでは英空軍のプルフォード少将、英海軍のスプーナー少将、英陸軍第12旅団(インド)指令のパリス准将もシンガポール陥落時直前に脱出できたが、ベネット以外は船が日本軍に沈められた結果死亡している。

会議では戦況が確認された。
日本軍は市街北部の防衛線を突破している。
フォートカニング貯水池以外の貯水池が全て日本軍の支配下に入った
(ただし何故か市街への給水は一部続いていたが、水道菅破裂で大半の水は届いていない。また、フォートカニングも1時間分程度しか残っていない)
食料は2日分だけ。ブキティマ、レースコース(競馬場)の貯蔵庫の大量の在庫は敵の手にある。
小銃弾は未だ充分にあるが、25ポンド砲は予備が無く、ボフォース対空砲の砲弾も尽きかけている。
燃料は備蓄が殆どなく車輌のタンクに入っている分だけ。
ヒース中将は、これ以上の抵抗はできず直ちに降伏するしかない、本当は2日前に降伏すべきだった、と言った。
ベネット少将も同意した。
パーシバル中将は、ワーヴェル大将の命令で最後まで戦うのが我々の任務である、と言った。
「間もなく反撃をしようと思う。ブキティマの貯蔵庫を奪還する。これは出来るだろう?」
しかしベネット少将、ヒース中将共に現実的ではない、無理だと言った。
意見を求められたシモンズ少将は、「降伏したくはないが、他に選択肢は無いだろう」と返事した。
パーシバル中将は、実はワーヴェル大将から降伏許可をもらっていた。
(そのワーヴェル大将もチャーチル首相の了解をもらっていた)

パーシバルは降伏を決めた。

早速1115にニュービギン准将、フレーザー植民地長官、ワイルド少佐(通訳)の3名がブキティマロードを北西に向かった。
砲撃により道が破壊されており移動速度は遅かった。
日本陸軍18師団の歩哨が1300頃彼らに気付き、日本軍の参謀、杉田中佐と面会した。

杉田中佐は山下将軍に指示を仰ぎ、1400に日の丸国旗を渡して、英軍御一行は引き返した。
英軍は、指示に従い、当時島内で一番高いビルだったキャセイに渡された日の丸を揚げた。
1600に、今度はパーシバル司令官とその幕僚であるニュービギン准将、トランス准将及び、通訳のワイルド少佐が白旗とユニオンジャックを持ってブキティマロードを北西に向かった。
(ニュービギン准将、ワイルド少佐はこの日2往復していることになる)

19420208_BattleOfSingapore_13.jpg
降伏調印は、フォードの工場にて行われた。
元々は東南アジアにおける初の自動車組立て工場だったが、マレー作戦の時には、英空軍が、分解されて運ばれてきた戦闘機の組立に使っていた。
ブキティマ陥落後、山下将軍が第25軍司令部として2月13日夜明け前から使っていた。

1700頃、白旗とユニオンジャックを掲げた英軍の代表団4名が、画面右奥から手前にかけて日本軍に護送されながら行進し、写真左に見える入口から建物に入っていった。
この時の記録映像はあまりにも有名。

19420208_BattleOfSingapore_B5.jpg
こちらはフォード工場前を手前から奥に向かって歩かされる英軍の視点。

その後終戦まで、この施設は日産が軍用車などの組立工場として使った。
1947年にフォードが自動車組立を再開したが、1980年に撤退し、貸工場として最後はブリジストンが入居していた。2006年から博物館として公開。

尚、現在はシンガポールに自動車工場は無い。
1 21 10 N 103 46 08 E

19420208_BattleOfSingapore_B6.jpg
フォード工場跡地内、降伏調印がされた部屋。テーブルのオリジナルはオーストラリア戦争記念館にあり、それを採寸してレプリカを作ったもの。チーク材製。
椅子は当時同じものが数十脚フォードの工場にあったそうで、その内の4脚。
(蝋人形が座る、下の写真の椅子もフォードの工場にあったもの)

19420208_BattleOfSingapore_15.jpg
降伏の交渉と調印の場面を記録した有名な写真、ニュース映画、絵画を元に再現した蝋人形。
セントーサ島のシロソ要塞内の展示。

山下中将軍(最終階級大将)は「マレーの虎」でお馴染み、第25軍司令官。
二.二六事件の際、青年将校をかばう発言をした為幹部や天皇から疎まれていた。
シンガポール陥落の立役者だがその後満州勤務で干され、フィリピン防衛戦に駆りだされた後敗戦を迎え、マニラでの虐殺の責任を問われて米軍により絞首刑となる。
昔、水曜ロードショーで解説をしていた人とは別人なので念のため。

池谷大佐は作戦課長で、シンガポール攻略の作戦を主任参謀の辻政信中佐(降伏調印には参加していない)と共にまとめた人。

鈴木中将は後の1945年にフィリピン戦線で戦死、死後大将に昇進。

杉田中佐は米国での駐在経験があり、ここでは通訳を勤めている。
その後も専ら参謀として活躍、戦後シンガポールでの華僑粛清でワイルド大佐(手前左の中佐がその人)に逮捕されるが、ワイルドが事故死してからは検察側証人となった。
その後警察予備隊を経て自衛隊に入り、最終的に幕僚長となる。

南遣艦隊を代表して参加した永井海軍中佐は海軍兵学校48期(1920年)生、最終階級大佐。
連絡参謀として海軍から派遣され、陸軍の第25軍司令部と共に行動していた。

馬奈木少将はこの後、ボルネオの37軍司令となり中将に昇進、比較的平穏無事に終戦を迎え戦争を生き延びた。

林少佐は1944年に飛行機事故で死亡

藤原少佐は開戦前からタイに駐在し、F機関を指揮しており、地元民を味方に付けて情報戦、心理戦を行った。
谷豊の取り込み、インド国民軍の創設に関わった。
戦後は陸上自衛隊の師団長を務めた。

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無言・無表情が恐い、日本軍の面々。
実際には部屋は蝋人形で再現されている日英幹部15名の他に、警備兵、新聞記者、カメラマン、映画撮影班など40名程でごった返していたという。
当初日本軍側が用意した通訳(菱刈隆文)は要領を得ず、業を煮やした山下将軍が「君はイエスかノーかだけ聞けばいいから」と言ったのが拡大解釈されて、
「降伏すんの?イエスかノーか?」
とパーシバルに迫った、という逸話になっている。
結局この通訳に代わり、杉田が通訳となった。

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元気がなく、山下に押され気味のイギリス軍代表団。

降伏文書にサインしているのがパーシバル将軍。18:10頃サインしている。
パーシバルは軍人ではない家系の出身で、第一次世界大戦の勃発と共に兵卒で英陸軍に入隊する。
ソンム戦を将校として戦い、大戦間はロシア内乱に義勇軍として参戦したり、IRAとの紛争に参加したりした。
1941年4月に中将となりマラヤの英陸軍の指揮を任され、結局は日本軍に対し降伏。
半年程チャンギの捕虜収容所で過ごした後、台湾、後に満州の捕虜収容所で過ごした。
終戦後、戦艦ミズーリー甲板上での降伏文書調印式に立ち会った後、1948年に軍を退役した。
元捕虜の待遇向上に尽力し、映画「戦場にかける橋」の内容に抗議(みっともないぞ...)したりしたが、「英軍史上最大の降伏を招いた指揮官」と言うイメージは払拭できていない。

パーシバルの向かって左隣がトランス准将。降伏調印の英軍一団がフォード工場に入るまでの有名な映像では、パーシバルの向かって左隣を手ぶらで歩いていた人。
この人はカナダ生まれで、第一次世界大戦にカナダ軍として参戦した後英軍に移籍、インド勤務を経てシンガポールに来てパーシバルの参謀長となった。
降伏後は台湾、日本、満州の捕虜収容所で過ごしたが健康を害しており、戦後1948年にカリブの保養先で死去。

画面向かって一番左がニュービギン准将。フォード工場に入るまで英国旗ユニオンジャックを持っていた人。
ちなみにその時の国旗は太平洋戦争中チャンギの捕虜収容所にワイルド少佐が隠し持っており、現在は大英帝国戦争博物館に保管されている。
この人、軍人一家の出身らしいが、情報が少なく詳細不明。多分1891年生、1968年没。

画面向かって一番右の、シリル ワイルド少佐は、フォード工場に入るまで白旗を持っていた人。
彼はオックスフォード大学を卒業すると、石油会社シェルの日本法人に就職した。
10年程日本の神戸で働いた後、陸軍に入隊し、ヒース将軍の下で情報将校として活躍、シンガポールで降伏することになった。
彼は通訳として付いてきたのだが、会見当時通訳として日本語がそれ程達者という素振りは見せていない。
山下は結局自分の通訳、後に杉田を通訳に使っているし、英日辞書が机の上に置かれている(杉田によると、ワイルドはしょっちゅうそれを見ていた)。
もっとも、私の経験からすると「自分の語学力の実力よりも下手に見せかける」というのはビジネス交渉の場ではそれなりに有効で、相手は油断して身内でぺらぺらと余計な事を話しだすし、こちらには丁寧にゆっくりと簡単なことばで話しかけてくれるし、その間にこちらは相手への回答をじっくり考える時間が生まれる。
大英帝国きっての危機の時に、ワイルドがそこまで小狡く振舞っていたのかは判らないが。
終戦後ワイルドは大佐に昇進、太平洋戦争に於ける戦争犯罪調査の責任者となった。
1946年9月、東京からシンガポールに向かう途中、中継点の香港で飛行機が離陸に失敗し死亡。

とにもかくにも、1942年2月15日、英軍が降伏しここにてシンガポールが日本軍に占領された。


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クランジの英連邦軍墓地は元々英陸軍の弾薬庫で、昭南島時代には捕虜収容所となり、近くのウッドランズ病院の死者の埋葬地でもあった。
戦後、シンガポール島内の他の場所や、フランス領インドシナからも遺体がここに移され、英連邦軍の墓地となった。
マレー作戦中から日本軍占領下での、英軍、オーストラリア軍、インド、カナダ、ニュージーランド、オランダ、南アフリカ、地元義勇兵の死者約4500名が埋葬されている他、戦前、戦後の兵士、兵士の家族、ドイツ兵捕虜の墓もある
写真手前は英インド軍兵士の墓石。ほとんどがイスラム教徒で、現パキスタン出身の模様。
奥は行方不明者24000名の名前を彫った記念建造物。縦の柱は陸軍を、水平な屋根は空軍の翼を、真ん中の塔は海軍潜水艦のタワーを表す。
1 25 06 N 103 45 29 E

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シンガポール陥落当日、2月15日に死去したオーストラリア陸軍 第8師団 第27旅団 第2/29大隊所属 伍長の墓石。
シンガポール・クランジの英連邦軍墓地にて


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マレー作戦を勝利に導いたがその後冷遇され、最後はフィリピン防衛の司令官として降伏、戦犯として裁判により絞首刑となった。墓が多磨霊園にある。
35 41 02 N 139 30 54 E



映画「レイルウェイ 運命の旅路」(2013年)は、日本軍がシンガポールを占領し、若き英軍兵士の主人公が捕虜として泰緬鉄道に関わるという実話ベースの映画。
シンガポール陥落のシーンでは、主人公が通信兵として任務に就いていたバトルボックスが舞台となっている。
撮影はバトルボックスはなく、オーストラリアのクィーンズランド州にある、英植民地時代にブリスベン川河口防衛の為に作られたリットン砦(現在はフォートリットン国立公園)で行われている。
下の写真は、この要塞屋外シーンの撮影地。
ここのシーンはYoutubeなどで見られる映画予告編に含まれていますので、見比べてみて下さい。

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映画にて、日本軍に占領され、豆戦車やトラックが終結していた場所。上空を飛ぶ戦闘機CGではなく、オーストラリアの愛好家が保有するYak-18(あるいは南昌CJ-6か?)を飛ばしたとのこと。
27 24 37 S 153 09 05 E

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映画の中、英軍全面降伏により、主人公が地下通信室から地上に出て来た時のトンネル。
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映画の中で、シンガポールで日本軍の捕虜となった主人公が泰緬鉄道建設のためマレー半島を北上しタイまで移動する時に乗せられた貨車を牽引していた蒸気機関車。
C5615はタイ国鉄713号として動態保存されているもの。
上の写真はバンコク中央駅開業100周年式典にて撮影、下の写真ではクウェー川鉄橋のイベントに参加する為、古い貨車(ただし戦前のものではない模様)を連結してカンチャナブリ駅の待避線で待機中。



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