戦跡散歩Home

昭南島
日本占領下のシンガポールと、特殊部隊Zのシンガポール港攻撃
Shonan To and Attack on Singapore Harbour by Special Force Z

【戦争捕虜】
19420216_ShonanTo_24.jpg
降伏した英連邦軍の捕虜が収容されていたチャンギ捕虜収容所。
元々刑務所で、現在も刑務所として使われている。
写真は収容所内にあった礼拝堂を復元したもの。
1 21 44 N 103 58 27 E

19420216_ShonanTo_56.jpg
チャンギ刑務所の入口を見下ろす警備塔。目隠しの壁が設けられているものの、塔は第二次世界大戦当時のままだ。

19420216_ShonanTo_58.jpg
セレター飛行場の施設建物。恐らく戦前・英植民地時代のもの。
1 24 35 N 103 52 15 E
1941年12月7日、ここから出撃した英空軍205飛行隊のカタリナ飛行艇は南シナ海で日本軍艦艇を捜索していた所、日本陸軍の97式戦闘機5機に襲われ、無線連絡を入れる間もなく空中爆発した。
1942年2月11日には英空軍が撤退し、14日に日本軍が確保した。
シンガポール陥落後は飛行場を日本軍が接収し、英連邦軍インド兵の収容所となった。

19420216_ShonanTo_39.jpg
19420216_ShonanTo_40.jpg
捕虜になった英軍兵士と、本国の家族との間でやりとりされた郵便。
上はロンドンに住む夫人が捕虜収容所に捕えられている夫の二等兵に送ったもの。
下は捕虜収容所からロンドンに送られたもの。

19420216_ShonanTo_18.jpg
やせ細った捕虜の銅像。


【大検証】
19420216_ShonanTo_33.jpg
19420216_ShonanTo_32.jpg
華僑の多いシンガポールなので、中国本土での反日活動を支えている者が多数いるのではないか?ということで身元検査を実施しているという設定のジオラマ。
シンガポール国立博物館に展示されていたジオラマだが、改装に伴い現在は見られなくなっている。

19420216_ShonanTo_04.jpg
シンガポール・チャイナタウンの一角。
ここに検問場があったことを示す記念碑(写真だと判りにくいが中央下)が建っている。以下記念碑の和文より
--------------------------------------------------------------------------------------------------
「大検証(粛清)」検問場
ここは憲兵隊がいわゆる「華僑反日分子」の選別を行った臨時の検問場の一つである。
1942年2月18日、憲兵隊による「大検証」が始まった。
18歳から50歳までのすべての華人男性は、取調べと身元確認のため、これらの臨時検問場に出張するよう命じられた。
幸運なものは顔や腕、あるいは衣類に「検」の文字を印刷された後開放されたが、不運な人々はシンガポールの辺鄙な場所に連行され処刑された。犠牲者は数万人と推定される。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
1 17 01 N 103 50 46 E

19420216_ShonanTo_07.jpg
ジョホール海峡に面したプンゴルのビーチ。
1 25 17 N 103 54 38 E
1942年2月28日に大検証で抗日と判断された三百〜4百人が補助憲兵銃殺執行隊により殺害されたという記載の記念碑が設けられている。
奥に見えるのがシンガポール領のウビン島、航行する軍艦はアメリカ海軍のタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦 CG-63 USSカウペンスで、この後外洋に出て佐世保に向かった。

19420216_ShonanTo_08.jpg
チャンギ空港北のチャンギビーチ。このビーチはマレー系の人が多い。
ここにも粛清の記念碑があり、1942年2月20日にここの水際で66人が殺されたとことが記載されている。
1 23 29 N 103 59 29 E

19420216_ShonanTo_25.jpg
チャンギ空港ターミナルT3と、その前に広がる滑走路。
この近辺は埋め立て前は海岸線で、多数の人が処刑された場所、とされている。

チャンギ空港は、意外と知られていないが、元々は昭南島時代に日本軍が英連邦軍捕虜を使って作った飛行場で、当時は南北(現在の02R滑走路とほぼ同じ場所)と、東北方向に2本の滑走路があった。
その後英空軍が使用し、英軍撤退と共にシンガポール空軍基地となったが、間もなく民間空港として滑走路が新設され、シンガポールの玄関口として現在に至る。現在チャンギ空港の滑走路は軍民共用である。

写真の航空機はエアバスA380。
私は飛行機に乗るときは出来るだけ窓際に座るようにしている。
理由は単に外の景色を見るのが好きだから。
しかしA380はその2階建ての構造が災いして窓際席と窓の距離が離れており、更に窓のかなり内側に保護アクリル板がある為視角が狭くなっておりロクに外が見えない。
1回だけ搭乗したが、二度と乗りたくない機種だ。

19420216_ShonanTo_59.jpg
アラブストリートで行われた大検証では、敵性と判断された人たちは、サルタンモスク前に停められたトラックに乗せられ、どこかに連れて行かれたという。
1 18 08 N 103 51 33 E
この地区の責任者だった憲兵隊の水野少佐は戦後の裁判で終身刑を言い渡される。

19420216_ShonanTo_17.jpg
ブキ チャンドゥにある戦争博物館「リフレクションズ」の展示。
ここはマレー人部隊が日本軍と激戦を交えてほぼ全滅した場所で、博物館のテーマも多くの展示内容もマレー人部隊の活躍を扱ったものとなっている。
そこに展示してあるジオラマの一つ。
左下は日本軍と英軍の戦闘か?軍服の色などでたらめもいいところ。
フィギュアは非常にチープな玩具然とした出来だけど。
右上は英軍降伏調印の場面か?日英共に人数が合わないけど。激戦場のすぐ隣でこういう調停をしているというのも不思議なジオラマ。流れ弾飛んでくるだろうに。
で、左上では、未だ激戦が続いている中、抗日分子と思わしき人たちが後ろ手に縛られて連行され、処刑されている。
統一性の無いチープなジオラマ。
これは恐らく祖先先輩達の戦いぶりを見るためにこの博物館を訪問したマレー系の人たちに、実は私たち華僑はこんなに不条理な目にあったのですよ、と訴える反日展示なのではないか?
これ以外にもここの博物館は兵器の展示、マレー兵士のホログラム映像の会話内容、捕虜になったマレー系兵士の扱いとかでも、反日色が目に付く。
日本軍占領下では華僑よりも優遇されていたというマレー系の人たちに、「やはり日本軍は酷いんだよ」、と理解してもらうためにバイアスをかけている展示に思えてしょうがない。
シロソ要塞や国立博物館が現物展示で淡々と出来事を示す努力をしているのにくらべ実に、ブキ チャンドゥは反日丸出しという印象である。
この博物館「リフレクションズ」にはインド国民軍に関する展示もあるのだが、これが極め付けな反日表現。
「1945年9月、(英)インド軍第5師団はシンガポール開放の為に戻った最初の連合軍勢力だった」という表記。
日本軍占領よりもマシだったと言いたいのは判るが、大英帝国植民地支配を再開する為に植民地軍であるインド軍を送り込むことが一体全体どう解釈すると「開放」になるのか、学芸員先生の意見を聞いてみたいところだ。


【忠霊塔】
19420216_ShonanTo_23.jpg
忠霊塔へ登る階段。占領した日本軍が英軍捕虜に作らせたもの。
忠霊塔自体は破壊されており現在は階段だけが残る。
1 21 04 N 103 45 59 E


【通貨と配給】
19420216_ShonanTo_11.jpg
いわゆる南方占領地切手。
8セント切手には昭南忠霊塔、15セントには昭南神社が描かれている。
50セントには現マレーシア・ジョホールバルにある、日本軍が見張りに使った塔(現市庁舎)。
シロソ要塞での展示。
この頃の日本語は右から左に書くのが一般的だった(次の写真の紙幣参照:右から左に大日本帝国政府)のだが、この切手は左から右に大日本帝国郵便とかかれている。

19420216_ShonanTo_38.jpg
19420216_ShonanTo_29.jpg
こちらは日本占領時代、マラヤ(現マレーシア及びシンガポール)で流通していたお札。
10ドル札はバナナの絵柄だったので、10ドルに限らずマラヤで使われた日本通貨は「バナナマネー」と呼ばれた。
シンガポール国立博物館にて。

19420216_ShonanTo_30.jpg
5ドル札1000枚パック。
インフレが進み価値が暴落した。

19420216_ShonanTo_28.jpg
食料は配給制となった。シンガポール国立博物館の展示。


【日本語教育】
19420216_ShonanTo_10.jpg
シンガポールの学校では日本語を教えることが必須となった。
文法的に世界の主流を外れる、つぶしのきかない言語を習得しなければならないというのは如何なものか。
この教科書も「なさいました」「話された」「お習いに」と敬語のオンパレード。
植民地支配と侵略に関して際限なく謝罪するというのはどうかと思うが、日本語教育の強制というのだけはかなり申し訳ないと思う。
一方で、シンガポール人の大人たちは占領軍とのビジネスに必要とのことで進んで日本語を習ったという。
シンガポール国立博物館の展示。

19420216_ShonanTo_37.jpg
日本語習得のバッジ。
え?日本語って、ニッポンゴだったのか?

19420216_ShonanTo_41.jpg
日本語成績証明書。


【接収建物】
19420216_ShonanTo_14.jpg
ヤングマン! 西城秀樹でお馴染み、YMCAのビル。
同じヒデキでも東条英機の時代には日本の占領下で、この場所は憲兵隊の東支部として使われていた。
(もうすこし真面目に解説書けよ...)
無論建物は建て直されている。建物の東端(写真左の画面外)に記念碑がある。
1 17 51 N 103 50 54 E

19420216_ShonanTo_26.jpg
日本の宣伝省が入っていたキャセーのビル。
1 17 57 N 103 50 52 E

当時は東南アジアで一番高いビルだった。
改装に伴い特徴的な入口部分が保存された。(本体は建て直されている)
映画館が入っているので有名。

シンガポールで最初に見た映画は「ダイハード ラストデイ」だった。
Fu○k、S○itといった、4文字言葉連発の映画のはずだけど、シンガポールではそれらの会話が検閲によりカットされており、音が何度も途切れた。その為か全然面白くなかった。二度とシンガポールで映画を見るものか、と思った。
その後日本でDVDを借りて見直してみたけど、結局面白くなかった。会話がカットされていて面白くなかったのではなく、映画自体が面白くなかったのだ。
ダイハードは1作目がダントツで面白く、2,3作目もかなり面白い、しかし4.0からつまらなくなってきた。

その後マレーシアでGODZILLA ゴジラを見た。
この映画、日本発のキャラクタ、日本人俳優も出演なのに、マレーシアの方が日本よりも早く公開していた。(全く日本の映画業界は...)。
英語の会話にマレー語と中国語の字幕が付いてウザいことこの上ない。でも安かった(300円くらい)からいいか。

結局もうシンガポールで映画館には行かないぞという誓いを破って、写真のキャセイで「フューリー」を見てしまった。
ボービントン博物館のタイガー戦車実物を楽しみに見に行ったのだけど、光線銃撃ちまくりとか、SSがやたらと弱いとか、もうアホ全開の映画。この程度の映画だったら飛行機の画面で見れば充分。

19420216_ShonanTo_87.jpg
ブキパソ通り一帯は開発を免れ古い町並みが残されている。
日本兵向けの慰安所が点在していたという。
1 16 44 N 103 50 27 E

19420216_ShonanTo_88.jpg
同じくブキパソ通り沿いにある怡和軒倶楽部の建物。
怡和軒倶楽部は1895年に設立された裕福な華僑/華人会で、この場所には1925年に移り(建物の完成は1927年)、1937年に日中戦争が始まると、中国の抗日活動を支援していた。
昭南島時代には大日本帝国海軍が接収し将校倶楽部として使った。現在も華人の社交クラブとして機能している。

19420216_ShonanTo_67.jpg
ビクトリアシアター&コンサートホールは19世紀後半〜20世紀初頭にかけて、大きく2回に分けて建設され、元々は集会所や演奏会場・劇場として使われた。
第二次世界大戦中は病院として使われ、戦後は日本兵の戦犯裁判が行われた。
現在はコンサートホールとして使われている。

建物前に建つサー トーマス スタンフォード ラッフルズ像は1887年にパダン広場に設立されたものだが、シンガポール設立100周年の1919年にこの場所に移された。
昭南島時代の1942年9月、銅像は昭南博物館(旧ラッフルズ博物館、現国立博物館)に移された。戦後の1946年7月に、この場所に戻された。
1 17 17 N 103 51 07 E

尚、石膏製の像の複製が、ラッフルズ上陸の地に1972年に置かれた。
1 17 16 N 103 51 03 E

19420208_BattleOfSingapore_68.jpg
パーシバルがシンガポール陥落直前に司令部を置いていた英軍の地下施設、バトルボックスでは、日本軍の遺留品が見つかっている。
上着は昭和17年(1942年)製とのこと。
手前は手回し発電機とそのカバー。昭和17年11月 中央工業(現ミネベア)大森工場製、定格出力25W

19420216_ShonanTo_60.jpg
昭南島時代に日本海軍が持ち込んだ45口径三年式12cm砲。
1944年呉海軍工廠製。1979年にアッパーピアース貯水池で発見されたもの。
セントーサ島シロソ要塞の展示物

19420216_ShonanTo_62.jpg
こちらもシロソ要塞に展示されている日本海軍の50口径三年式14cm砲。
1 15 35 N 103 48 32 E
1923年呉海軍工廠製。原生林の中で1966年見つかったもので経緯不明とのこと。

19420216_ShonanTo_57.jpg
シンガポールに英軍が設営していた飛行場、軍港、兵舎などは日本軍が有効利用した。
デンプシーヒルは英陸軍の駐屯地だった。ここの教会礼拝堂は日本軍の弾薬貯蔵庫として使われた。
シンガポール陥落の2日前、牧師はステンドグラスを守る為に外して地面に埋めた。しかし牧師は死亡してしまった為、オリジナルのステンドグラスは未だに行方不明になっている。
現在一帯はタングリンモールと呼ばれ、兵舎は小洒落た店の集まりになっており、教会はカフェになっている。
1 18 17 N 103 48 54 E


【ジェイウィック作戦】
19420216_ShonanTo_52.png
ジェイウィック作戦、リマウ作戦の関連地図。
赤枠内は下の拡大図参照。

19420216_ShonanTo_53.png
シンガポール、リアウ諸島、リンガ諸島拡大

ジェイウィック作戦及びリマウ作戦の舞台となった地域の地図。
上はインドネシアを中心とする全体。
上の地図の中で、左上の赤枠がシンガポールとリアウ諸島、リンガ諸島で、この部分の拡大が下の地図。
地名、島名、海峡名は本文参照のこと。
シンガポールの地形は太平洋戦争中のものに極力合わせている(現在は埋め立てにより地形が変わっている)。
ジャカルタは元々バタヴィアと呼ばれていたが1942年に現在と同じジャカルタに名称が変わっている。

19420216_ShonanTo_21.jpg
オーストラリア・キャンベラの戦争記念館にて。
オーストラリアのコマンド部隊、Z特殊部隊(Z Special Unit) の旗。
Cloak and Daggerはマントと短剣を意味し、スパイ、諜報、忍びといったニュアンスになる。
このマーキングとロゴは軍のものではなく、戦後に戦友会が設定したもの。

ステンガンはサイレンサー付。


特殊部隊Zはいくつかの対日特殊作戦を実行したが、最も有名なのがシンガポールのケッペル港での敵国船破壊目的のジェイウィック作戦及びリマウ作戦。

ジェイウィック作戦はイギリス陸軍ゴードンハイランダーズのライオン大尉が考案した作戦で、1942年7月にロンドンで承認された。

ライオン大尉はオーストラリアをベースとする特殊作戦部隊でこれを実行することとなり、人員を集めてシドニー近郊で厳しい訓練を開始した。この間、彼は少佐に昇進する。
作戦に使われる船、クレイト号は1942年末、シドニーに到着し、翌年1月、隊員を乗せてケアンズに向かったが道中故障に悩まされ、途中タウンズビルでエンジンが完全に死んでしまったので、以降ケアンズまでは曳航された。
ケアンズではクレイト号のエンジンを載せ替え、隊員は訓練を続けた。

この間、模擬演習として、クイーンズランド州のタウンズビルにて停泊している船にダミーの吸着機雷を取り付けることに成功している。
1943年6月19日の深夜2300頃、Z特殊部隊の隊員たち10名は、タウンズビルの手前で南下してきた列車を降り、タウンズビルの北を流れるブラック川を折りたたみ式カヌーで下り、海に出るとタウンズビルの沖合いに浮かぶマグネチック島に向かった。
日付が22日になって間もなく、タウンズビルの港に向け5隻のカヌーが出撃した。港は機雷で守られていた。
月齢19日の明るさの下、何も知らされていない海軍及び港湾関係者には全く気づかれることなく隊員達は活動し、朝までに駆逐艦2隻を含む15隻の軍・民艦船の水面下に、各3発の吸着爆雷の模擬弾(信管無し、爆薬の代わりに砂入り)を取り付けることに成功した。
その後隊員達は港の脇に流れ込むロス川を遡りカヌーを隠すと、何事もなかったかのように町に入り寝場所を探した。
1000に港は大騒ぎになった。積荷を下ろした貨物船は喫水線が大きく上がり、吸着爆雷(のダミー)が露出したのだった。
隊長のサム キャリー中尉は逮捕されたが後に釈放され、カヌーで敵港に侵入し吸着爆雷を仕掛けることは充分に可能であることが証明された。
この演習はシンガポール港と並行してZ特殊部隊が予定していたニューギニア・ニューブリテン島のラバウル港への攻撃(スコーピオン作戦)の練習なのだが、結局スコーピオン作戦の方は隊員輸送に必要な潜水艦の都合が付かずに中止となった。この時スコーピオン作戦参加予定でタウンズビル港の演習にも参加した濠陸軍のペイジ中尉は、シンガポール襲撃のメンバーになった。

やっと1943年8月9日にクレイト号は隊員14名を乗せてケアンズを出港し、作戦の発進基地であるオーストラリア北西のエクスマウス湾に向かった。ここにはアメリカ海軍の基地があった。

19420216_ShonanTo_22.jpg
19420216_ShonanTo_91.jpg
写真はクレイト号。
元々日本の漁船「幸福丸」で1930年代前半に建造。
シンガポールを拠点としてトロール漁に出ていた。
全長21m、排水量68トンの木造船。
太平洋戦争の勃発と共に英軍に接収され、オランダ民間人262名をビンタン島からスマトラに、英軍兵をシンガポールからスマトラに避難させるのに使われた。
東インドのオランダが降伏したのに伴い、インドに向かった。
その後貨物船に搭載されてインドからオーストラリアに渡り、オーストラリア軍の管理下となり毒蛇の名前である「MV Krait(クレイト)」と名づけられた。
ちなみにオーストラリア人はクレイトではなく、クライトと発音する。これはお約束。
ジェイウィック作戦もオーストラリア人はジャイウィック作戦と呼んでいる。

余談だが、私はオーストラリアの世界遺産、ブルーマウンテン近郊の商店街駐車場で、おばさんが車から降りる時犬二匹に向かって「スタァイ」と言っているのが聞こえて、一瞬何のことかと思ったが、何のことはない、Stay「待てっ」と言ってるだけだった。
あの犬たちはオーストラリア人以外の英語の命令は絶対理解しないだろうな....
「お手」もShakeシェイクではなくシァイクだろうし。

話を戻そう。
ジェイウィック作戦でオーストラリア〜シンガポール沖を往復し、終戦後は民間に払い下げられボルネオ方面で輸送船として使われていた。
1964年にオーストラリアが買い戻して、オーストラリア・シドニーの海事博物館前に停泊展示されてる。
33 52 11 S 151 12 00 E
上の写真は2014年に撮影。恐らく退役時の民間輸送船の状態に近いと思われる。
2017年現在、将来の屋内保存(船は水に浮かんでなんぼ、だと思うが...)に向けて修復レストア中とのこと。
下の写真はレストアの終わった2019年に撮影。レストアに際しジェイウィック作戦時の状態に出来るだけ近づけたとのこと。予算不足により結局屋内展示は実現しなかった模様。

ジェイウィック作戦当時、クレイト号には
ルイス機銃2丁
ブレン機銃2丁
オゥエン自動小銃8丁
7.7mmライフル6丁
磁気吸着水雷(Limpet Mine)45発、プラスチック爆弾155ポンド(70kg)
手りゅう弾200発
17フィート(5m)の折りたたみ式カヌー(Folboats)4隻
食料4か月分 米 小麦 缶詰肉 等
医薬品(ラム酒、モルヒネ、手術用具含む)
タバコ5万本
ギルダー金貨200ポンド相当
を搭載した。
タバコと金貨は、地元民に謝礼として渡したり物資と交換したり、或いは買収したりする為のもの。
鉛筆、歯ブラシなど海面に浮いてしまうものは、万一海に落としてもいいように日本製のものを持っていった。
燃料は船内タンクを増設した上に、44英ガロン(200リットル相当)ドラム缶18本をデッキに搭載し、1万1千海里(2万キロ)の航海が可能。
上記の他、隊員14名人数分の自動小銃とレボルバー拳銃、格闘戦用ナイフ30本、ジャングルナイフ適宜を携行した。

1943年9月2日の1400、クレイト号はエクスマウス湾から出航した。

出港後、乗組員は、攻撃目標がシンガポールであることをライオン少佐から聞かされた。

インドネシアの民族衣装サロンを着用し、髪を黒く染め、肌を暗茶色に塗って地元民に扮装した。
日本の日の丸国旗は、事前に渡されたものが綺麗すぎたので、油などで汚してから掲げた。

9月6日、バリ島とロンボク島の間のロンボク海峡を通過。
カリマタ海峡を通過してリンガ諸島に入ると周囲に漁船や貨物船が増えてきた。

19420216_ShonanTo_46.jpg
テミアン海峡を抜けてポンポン島に辿り着いたのは9月16日午後のことであった。
写真の左中央に見える大きな島がテミアン 0 19 50 N 104 22 22 E で、その手前がテミアン海峡。
コントラストが弱くて判り難いが、写真右上の小さな島(島の上に雲が1個ポツンとかかっている)がポンポン島 0 22 17 N 104 15 29 E
シンガポールからジャカルタに向かう飛行機から撮影。

このポンポン島をベースに物資の一部を陸揚げしてここに隠した。
クレイト号はここから更にシンガポール方面に向かい、攻撃の前進基地となる島を探した。

19420216_ShonanTo_69.jpg
おまけ。
夕暮れに染まるドリアン海峡近辺の島と、スマトラ島本島。
ライオン少佐はシンガポールに駐留していた時に近辺を趣味のヨットで航海しており、シンガポール陥落前に脱出する際にはリアウ諸島西側の島に立ち寄っており土地勘(島勘?)があった。
当初予定ではドリアン島 0 42 52 N 103 42 43 E (写真のA)を前線基地とし、また、クレイト号はスマトラ島のカンパー川 0 23 09 N 103 02 37 E (写真のB)に隠す事を検討していた。
しかし実際にはパンジャン島が前線基地として使えたこと、クレイト号は一箇所に隠さずに周辺を絶えず航海していた方が他の多数の船に紛れて目立たないとの判断から、これらの場所には結局ジェイウィック作戦中は立ち寄らなかった。

19420216_ShonanTo_47.jpg
9月17日未明、パンジャン島 0 48 22 N 104 08 44 E (写真中央。残念ながら雲の奥)の沖に停泊し、攻撃隊員6名は折りたたみ式カヌー3隻に乗り換えた。
クレイト号は乗員8人と共に一旦ボルネオ島南西沖に出て待機し、攻撃隊とはポンポン島で2週間後(10月1日〜2日にかけての夜)に合流する予定である。
攻撃隊員6人はパンジャン島に食料備品を隠し、休憩した後、黒ずくめの服を着て9月20日夕方出発した。
折りたたみ式カヌーには各隻武器、装備、食料等300kgが搭載された。
夜の間だけ移動した。
ブラット島 0 55 32 N 104 02 16 Eに真夜中に到着しそこに泊まった。
翌日21日の朝目覚めると、日本軍の警備艇がすぐ近くで朝食のため停泊した。
しかし日本軍は何も気付かず、長い朝食を終えると立ち去っていった。
21日の夜はボヤン島 1 01 23 N 103 54 49 Eまで進み、蚊の多いその島で昼間の間隠れるように休んだ。
22日の夜、当初予定していた、120高地のある島(スバール島 1 08 43 N 103 49 50 Eのすぐ南、未特定)に向かったが、シンガポール方面の眺めが悪いなどの理由でここはパスし、東に向かうことにする。

19420216_ShonanTo_70.jpg
写真中央がドンガス島。バンコクからシンガポールに着陸する飛行機がバタム島上空で大きく右旋回した時に撮影。
画面右及び上(奥)の陸地はバタム本島。

シンガポールが見渡せる無人島、ドンガス島 1 08 51 N 103 56 43 E には9月23日夜真夜中に到着した。
6人は休養すると同時にシンガポールの状況を視認した。
9月24日夜、ここから攻撃に向かった。シンガポール港まで直線距離で18kmだが、潮流の為上手く目標に進まなかった。
進撃ルートを変えるしかない。
翌9月25日の夜、全員西に向かい、蕨の低木に覆われた無人の岩島、スバール島 1 08 43 N 103 49 50 E に向かった。
この島の目の前には、入港前の検疫を待つ多数の船が停泊していた。
9月26日の夜、ついにシンガポールに向けて出撃する。月は出ていない(月齢27日)。

19420216_ShonanTo_15.jpg
ケッペル港に設置されている、太平洋戦争中のケッペル港に関する説明板。
シンガポールに20箇所ある第二次世界大戦関連記念碑の一つ。
ジェイウィック作戦でクレイト号に乗り込んだ14名+上位組織SRD1名の記念写真が貼付けてある。
奥は埋め立て拡張されたセントーサ島で、カジノやユニバーサルスタジオがある。
当時は日本とその同盟国、被占領国の船で溢れていたが、結局この港の船には水雷は仕掛けられなかった。
1 15 47 N 103 49 17 E

ダビッドソン中尉とフォールズ水兵のカヌーは、途中ベラカンマティ島(現在のセントーサ島)のサーチライトを避けながら、ケッペル港に向かった。
この時点では潮流は穏やかだったが、航行灯を照らした蒸気船に危うく衝突されそうになる。見つからずに済んだ。
ケッペル港には水上フェンスがあったものの開いており難なく侵入できた。しかし港内のドックでは明かりが灯り警備員がうろついており、また、暗がりに停泊している船はいずれも沈める価値の少ない小型の船ばかりだった。
このためダビッドソン組は一旦侵入したケッペル港から出て、港の東側の陸地沿いに停泊している船を狙うことにした。

19420208_BattleOfSingapore_44.jpg
ケッペル港の東の様子。陸地は埋め立てで拡張され、背後に高層ビルがそびえ、港は拡張されて貨物コンテナ船が入港する。おそらく太平洋戦争中の面影は全く無いのだろう。そんな中、地元漁民が小舟で長閑に魚を釣る。
1 16 07 N 103 50 34 E

ダビッドソン組は5000トンクラスの船3隻に水雷を仕掛けると、翌9月27日の0115に現場を離れ、バタム島とビンタン島の間のリアウ海峡回りで戻ることにした。

19420216_ShonanTo_66.jpg
19420216_ShonanTo_65.jpg
ダビッドソン組は、ノングサ島 1 12 16 N 104 04 42 E(上の写真の黄丸)を通り、タンジョンソー島 1 02 32 N 104 10 19 E (下の写真A)に一旦上陸、レパン島 1 01 30 N 104 08 31 E(下の写真B)の北を通過しピアユ岬 0 58 58 N 104 06 01 E(下の写真C)、アナクマティ島 0 57 47 N 104 05 30 E (下の写真D:雲の下で判りにくいが))近くを経てレンパン島 0 50 00 N 104 11 08 E とセトコ島 0 57 03 N 104 03 43 E との間の海峡を南下した。
写真はいずれもバンコクからジャカルタに向かう飛行機からの撮影で、画面右が北側。

クリンキング 0 52 45 N 104 06 33 E 沖で警備艇が現れたので湾に隠れた。
パンジャン島に戻った時猛烈な嵐が襲った。
9月29日の日中はここで休憩し、1900に出発。
アバンベサール島 0 34 58 N 104 12 20 E 沖6kmで雷、強風、荒海の嵐に2時間程さらされた。この島に一旦上陸し、翌日1900に出発した。
10月1日の0100、ついに回収地点のポンポン島にたどり着いた。
クレイト号はほぼ予定通り、翌10月2日の0015、ポンポン島に現れ、ダビッドソンとフォールズは無事乗り込むことができた。
しかし、この時点ではライオン組とペイジ組は島にいなかった。彼らはどうなったのであろうか?無事に合流できるのだろうか?

19420216_ShonanTo_48_s.jpg
シンガポールのケッペル港周りの航空写真。画面奥が西方向。
シンガポール空港RW20を離陸した旅客機が、北上するため左旋回した後に高度を上げつつある時に撮影。クリックで拡大。
無数の貨物船、タンカーは検疫待ちで待機しているもの。シンガポールの海岸からは、水平線が全く見えないほど密集して停泊している。
入港中、停泊中を合わせて常時1000隻の船がいる。シンガポールは世界で2番目に大きな貨物港である(1位は上海)。
シンガポールに寄港せず、海賊の出没するマラッカ海峡を避けてタイ南部のクラ地峡に運河を作る、或いは地球温暖化の恩恵で夏の間北極回りで貨物を輸送する、などの話もあるが実現には遠く、当面シンガポールの貿易拠点としての地位は安泰だ。
黄丸はロング島(別名ジャンク島)、赤丸はブコム島、緑丸は当時検疫待ちの船が停泊していた場所(現在はここに船は停泊していない)
青丸はケッペル港。この辺りは戦後の埋め立てで大きく地形が変わっている。
赤丸の下の大きな島がセントーサ島(当時はベラカンマティ島と呼ばれた)で、この島も埋め立てにより写真手前方向にかなり大きくなっている。

9月26日の夜、スバール島を出発したライオン組とペイジ組の、2隻のカヌーは一緒に行動した。

隊長のライオン少佐とフーストン水兵が一隻のカヌーに乗り、ペイジ中尉とジョーンズ水兵がもう一隻に乗る。
この2隻は並行して進み、ロング島1 12 55 N 103 47 12 E 近辺で一旦別れた。

19420216_ShonanTo_61.jpg
ライオン少佐組のカヌーと、ペイジ中尉組のカヌーは、画面左から右に進み、写真の中央右にある小さな無人島、ロング島で別れた。
セントーサ島にあるシロソ要塞から撮影。検疫待ち、荷揚げ待ちの船が多数待機している。

ペイジの組は2200頃目標地点であるブコム島1 14 03 N 103 45 59 E の桟橋に現れ、適当な船を捜した。
大きなタンカーを見つけたが水雷で効果的に沈めるには大きすぎると判断し、
古そうな輸送船に時限式磁気吸着水雷を仕掛けた。
このあと潮流に乗り途中、検疫待ちの船2隻に水雷を取付けてドンガス島に戻った。

ライオンの組は2230頃目標地点である検疫待ちの船が多数停泊している場所 1 15 N 103 47 E あたりに到達し、目標となる船を捜した。
暗がりで何とか船を見つけた、と思ったがそれはペイジ組が水雷を仕掛けることになっていた船と思われたので、別の船を捜した。
結局、ライオン組は、大きなタンカーを見つけてエンジンルーム、プロペラシャフトの外皮に手持ちの全水雷9発を仕掛けた。
この時、彼らのすぐ上の丸窓から船員が見つめていた。しかしライオン達が船から離れると、船員も窓を閉めて船内の明かりを灯した。警報が鳴らなかったので不審に思わず誰にも通報しなかったのだろう。
ライオン達は無事離脱し、ページ達と同じく、ドンガス島に戻った。

19420216_ShonanTo_49_s.jpg
写真はシンガポール随一の観光ホテル、マリナベイサンズの屋上展望台から撮影。
コントラストが弱いが、写真黄丸がドンガス島。奥はバタム島、その間の海がシンガポール海峡で、検疫待ち、入港待ちの船が多数待機している。ダビッドソン組が停泊中の船に水雷を仕掛けたのも手前の船が停泊している辺り。

ドンガス島でライオン組、ペイジ組は再び合流した。27日の0500から0530位にかけて、仕掛けた水雷が次々に爆発し、港から炎が上がり、船が沈没して行くのが見えた。
警備艇が港周りを走り回り、停泊していた船は錨を上げてあても無く動き出した。明らかにパニックになっている。

27日夕方、帰路についた。
ライオン、ペイジ組の2隻は、ダビッドソン組とは異なり、行きのルート、すなわちバタム島とブラン島の間の海峡を南下する。
幸い警備艇には会わなかった。その次の日の明け方前、適当な島に泊まったが、朝になって見ると周りは華僑の墓地だった。

ダビッドソン達が遭遇したのと同じ嵐に揉まれ、パンジャン島には9月30日の早い時間にたどりついた。
ここからの出発は別の嵐のために遅れてしまう。時間切れになりつつある。最後の45kmは敵に見つかるリスクを冒しながら10月1日の昼間航海することにした。
上空を飛ぶ飛行機からも、レンパン本島パンジャン島近くのある見張り所からも彼らは見られているはずだが何事もなかった。

途中の島で短い休憩をとった後、ポンポン島には待ち合わせ時間ギリギリの10月2日の0300に戻ってきた。
しかしクレイト号は見つからず、夜が明けて見るとテミアン海峡に向かって離れていくクレイト号が見えた。
長居することになるかもしれない...ライオン少佐達は地元島民に会いにいき、米と魚を買った。
結局、1日遅れでクレイト号はポンポン島に戻り、ライオン達全員が乗り込むことができた。

全員回収に成功したのでクレイト号は帰路についた。

10月11日、ロンボク海峡を南下した。この夜は月が出ており明るかった(月齢12日)。
深夜に大日本帝国海軍の哨戒艇に見つかり、100m程の距離まで近づき5分程併走されるが、間もなく離れていった。

こうして1943年10月19日、クレイト号は出港時と同じ14名を乗せて西オーストラリア州のエクスマウス湾に戻り、ジェイウィック作戦は大成功を収めた。
しかし参加した隊員達は、作戦について外部に漏らすことを禁じられた。

ジェイウィック作戦で沈めた7隻の船は合計約37000トンに及び、第二次世界大戦中最も成功した特殊作戦の一つと言われる。
ただしこれは参加した隊員の自己申告に基づくものであり、米軍が傍受した日本軍の通信や、破棄を免れた日本側資料によると1隻は水雷が不発で、沈没は3隻、破損が3隻で、沈没した船の内、1隻は日本側が引上げ修理に成功、恒久撃沈できたのは2隻だけとなる。

ジェイウィック作戦の参加メンバー14名は以下(階級は作戦当事を示す) :
氏名
階級
所属
役割
戦果
(申告)
リマウ
作戦
参加
Ivan Lyon 少佐 GH 隊長 タンカー
1隻撃沈 *1
Andrew Huston 上等兵 RANVR 攻撃隊
Donald Davidson 大尉 RNVR 攻撃隊 貨物船等
3隻撃沈 *2
Walter Falls 上等兵 RANVR 攻撃隊
Robert Page 中尉 AIF 攻撃隊 貨物船等
3隻撃沈 *3
Arthur Jones 上等兵 RANVR 攻撃隊
Hubert Carse 中尉 RANVR 船長
Ron Morris 伍長 RAMC 乗組員
Andrew Crilly 伍長 AIF 乗組員、コック
Kevin Cain 兵長 RANR 乗組員
James McDowell 士長 RNR 乗組員
Horace Young 士長 RANR 乗組員
Frederick Marsh 一等兵 RANVR 乗組員
Mostyn Berryman 一等兵 RANVR 乗組員
2018年現在、ベリーマンのみ存命。                         

AIF Australian Imperial Force
GH The Gordon Highlanders
RAMC Royal Army Medical Corps
RANR Royal Australian Naval Reserve
RANVR Royal Australian Naval Volunteer Reserve
RNR Royal Naval Reserve
RNVR Royal Naval Volunteer Reserve

*1 申告によると、シンコク丸 (10000トン級タンカー)
*2 申告によると、
タイショウ丸(5000トン級貨物船)
5000-600トン級貨物船×2隻
*3 申告によると、
トネ丸級 4000トン貨物船
ナスサン丸級 4000トン貨物船
ヤマガタ丸級 4000トン貨物船

日本側は特殊部隊による仕業とは分からずに、白人に入れ知恵された地元ゲリラの仕業と疑った。
憲兵隊は、街中及びチャンギの敵性民間人収容所に居た、ジェイウィック作戦と実際には無関係な白人や地元民を、10月10日から大量に逮捕し拷問、多数が死亡したといわれる。
この事件は10月10日の日付からDouble Tenth Incident双十節事件と呼ばれている。

19420216_ShonanTo_55.jpg
北ボルネオ出身のエリザベス蔡(英語表記Choi)は、シンガポールが日本に占領されると、夫と共にチャンギの捕虜収容所で売店を営み、収容者に対し食料、金銭、手紙などの便宜を図ると伴に、ラジオなどを密かに渡していた。
ジェイウィック作戦により船舶を沈められた日本軍は、連合軍に情報を渡した疑いのある者の一人としてエリザベスを200日に渡って憲兵隊の建物(先に紹介したYMCA)に拘留し尋問した。
写真はシンガポール国立博物館に展示されている、エリザベスが拘留されていた時着ていた服。
戦後は女性の英雄として英国に招かれ女王とも会見した。


【リマウ作戦】
19420216_ShonanTo_42.jpg
リマウ作戦は、結果として特殊部隊Zから参加したコマンド隊員23名の全員が死亡する。
写真はキュランジの戦没者墓地にあるリマウ作戦犠牲者の記念碑。

ジェイウィック作戦の成功に気を良くして、2匹目のドジョウを探し求めて、次の作戦が考案された。
ホーンビル作戦。隊員の規模を大きくし、新造したエンジン付の船「カントリークラウト」を地元船舶に偽装し、ボルネオ島沖のナトゥナ諸島を長期の隠れ家とし、日本軍が支配するシンガポールやサイゴンで諜報破壊活動を行う。隊員はイギリス、オーストラリアの他、ニュージーランドや自由フランスからも参加させる。
隊員や物資の補給には潜水艦を使う。隊長には再びライオン中佐(昇進している)が任命された。
彼は最新装備を学習しに、また、任務に割り当てられた潜水艦を観閲する為にイギリスに渡った。
ここでSOE(特殊作戦執行部)のウォルター チャップマン少佐(英陸軍工兵隊所属)から、開発されたばかりの特殊潜航艇を紹介される。
これは使えるかもしれない....早速、ロンドン郊外のステインズ貯水池で、英海軍のリッグス少尉によるデモンストレーションを見せてもらい、ライオン自らも操縦させてもらった。
早速作戦用に手配してイギリスを後にした。
しかし結局、ホーンビル作戦は作業員のストによるカントリークラフトの完成遅れ、アテにしていた米軍潜水艦の応援が得られないなどの理由により中止となってしまった。
変わりに浮上したのが、リマウ作戦である。
リマウ(Rimau)はマレー語で虎を意味するハリマウ(谷豊でお馴染み。こちらはハリマオだが)の短縮形。
作戦の名付け親である隊長のライオン中佐の胸には大きな虎の顔の刺青があった。
前回のジェイウィック作戦よりも規模を大きくして、今度は特殊潜航艇を使って、前回と同じケッペル港に向かい敵船に磁気吸着式時限水雷を仕掛けて敵艦船を沈める予定だった。
特殊潜航艇は全長3.9メートル、全幅0.6mの鉄およびアルミ製、満載時の排水量270kg。
一人乗りで、水上、水中両方で使えた。自動車用電池駆動により、水上で4.5ノット、水中では3.5ノットの速度を出せた。航続距離19〜38km(速度による)。
通称スリーピングビューティ(眠れる森の美女Sleeping Beauty略してSB)。
潜航することにより敵から見つかり難くなり、電動化することにより隊員の疲労を和らげ、より沢山の水雷を運ぶことができる。
隊員達は限られた時間で特殊潜航艇の取扱いを学ぼうとしたが難儀し、英国でデモを見せてくれたリッグス少尉が到着してからやっと訓練がまともに出来るようになった。
計画では潜水艦によりリアウ諸島の離れ島をベースとして食料備品を置き、地元の船を拿捕してそれに特殊潜航艇その他装備を乗せる。潜水艦は一旦帰還。
地元の船でシンガポール港の近くまで行き特殊潜航艇に乗り換えて時限装置付水雷を敵艦船(シンガポール港周辺にいるであろう全艦艇を破壊沈没できるよう60隻分の水雷を持っていく)に取り付け、折りたたみ式カヌーに乗り換えてベースの島に向かう(この時不要になった特殊潜航艇、地元の船その他は海中遺棄する)。別の潜水艦が迎えに来てめでたく帰還。しかしこれはあくまでも計画なのであって....


1944年9月11日 英海軍潜水艦HMSポーポイス N14 が、オーストラリア西海岸のフリーマントル近郊にあるガーデン島の軍港を出発した。
潜水艦には指揮官のライオン中佐以下、オーストラリア軍、英軍の22名からなる特殊部隊Zの襲撃隊が乗艦している。
ライオンの他にダビッドソン少佐(昇進している)、ペイジ大尉(昇進している)、フォールズ上等兵、マーシュ上等兵、フーストン上等兵の計6名は前年のジェイウィック作戦にも参加しており、
新たにイングルトン少佐、レイモンド大尉、ロス中尉、サージェント中尉、リッグス少尉、ワーレン准尉、ウィラースドーフ准尉、グーリー軍曹、キャメロン軍曹、フレッチャー伍長、キャンベル伍長、クラフト伍長、スチュアート伍長、ペース兵長、ハーディ兵長、ワーン二等兵が加わった。
襲撃隊の他に、連絡将校として特殊部隊Zのチャップマン少佐と、キャレイ中尉も乗艦している。
19420216_ShonanTo_85.png
9月23日 潜水艦はビンタン島東沖にあるメラパス島 0 55 57 N 104 55 22 E に到着。
コントラストが弱いが、写真の緑丸がメラパス島。1.3km×0.7km肝臓形、最高地点20m。
左の島はマポール島。

メラパス島はリアウ諸島最東の小さな島で、当初無人島と思われたが、潜望鏡で覗くと、マレー人3人が、カヌー2隻でビーチに乗り付けていた。
その日の夜、ダビッドソンとスチュアートの二人が島に上陸して偵察した。当初無人島と思われた島には小屋があり、人が住んでいた。
24日の夜、装備備蓄を陸揚げし、住民はまず来ないと思われるジャングルの茂みに隠し、キャレイがメラパス島に残り装備の番をすることになった。(彼は元々は潜水艦で一旦オーストラリアに戻る予定であった)

9月24日、キャレイ以外の隊員は再び潜水艦ポーポイスに乗り込み、作戦に使う地元の船を捜しにボルネオ島(カリマンタン島)の西岸に向かった。
(ジェイウィック作戦と異なり地元漁民に扮するための船は現地で調達)

仲々適当な船は見つからなかった(というより交通量が全くなかった)が、9月28日午後にボルネオ島西岸ポンティアナックの50km程沖でジャンク船ムスティカ号を発見し、これを拿捕しコマンド隊員7名が乗り込んだ。
ムスティカ号は母港ケタパンとポンティアナックを専ら往復する全長18m、排水量40トンの木造貨物船で、2本のマストに蛇腹様の帆を張って風に乗る。エンジン動力は無かった。
潜水艦ポーポイスは間もなく潜航し、ムスティカ号と共に西に向かった。


19420216_ShonanTo_94.jpg
写真はムスティカ号の母港だった、ボルネオ島のケタパン。

9月29日〜30日にかけての夜、ペジャンタン島 0 07 09 N 107 13 15 E の近郊で潜水艦ポーポイスからジャンク船ムスティカ号に特殊潜航艇7隻、折りたたみ式カヌー、その他装備(計15トン)を移した。
マレー人のクルーは協力的で、航海に必要な識別旗、シンガポールへ向かう時や日本軍に見つかった時のアドバイスをしてくれた。

潜水艦は9月30日の1000に、特殊部隊Zのチャップマン少佐と、ムスティカ号のマレー人クルー9名を乗せてオーストラリアへの帰路についた。
潜水艦ポーポイスは10月11日に無事ガーデン島に帰還した。
ムスティカ号に乗っていたマレー系クルーは終戦までオーストラリアに拘留された。


11月7日から8日にかけての夜に、メラパス島から潜水艦で任務を終えた襲撃隊を回収することになっている。
しかしポーポイス号は修理を必要としており、艦長もストレスで再出撃に耐える状態ではなかった。

代わりの潜水艦として、英海軍の潜水艦HMSタンタルス(P318)を使うことにした。
ただしリマウ作戦専用ではなく、哨戒任務の「ついで」に襲撃隊々員を回収することになる。
艦長のマッケンジー少佐は余り乗り気ではなかった。潜水艦の本来の任務は敵艦船の撃沈である。
襲撃隊を送り届けたポーポイス号が帰港してからわずか5日後の1944年10月16日、タンタルス号は魚雷17発を満載して、オーストラリア西岸のフリーマントル港から出航した。

19420216_ShonanTo_86.jpg
タンタルス号が出港したフリーマントル港。太平洋戦争中は米・英・蘭海軍の潜水艦150隻以上がここをベースに活動した(ちなみにオーストラリア海軍は当時潜水艦を実戦運用していない)。
現在は貨物港で、ロットネス島へのフェリーもここから出る。オーストラリア海軍は近くのガーデン島を基地としている。


この艦には特殊部隊Zの連絡将校チャップマン少佐と、メラパス島に残ったキャレイの代わりに新たにクロトン伍長が乗り込んでいた。
潜水艦は11月2日に日本の商船を沈め、4日、6日には飛行機の海難救助任務のため待機した。
当初予定では11月7日〜8日にかけての夜にメラパス島からコマンド隊員を回収する予定であったが、潜水艦の魚雷や燃料が充分残っていたので、艦長のマッケンジーはチャップマンと相談し、潜水艦の主任務である哨戒と通商破壊任務を優先させて、メラパス島には11月21日〜22日の夜に迎えに行くことにする。どのみちコマンド隊員には11月8日から1ヶ月以内に迎えにいくと伝えてある(3ヶ月分の備蓄を備えている)。無線で司令部からも了解を得た。
結局、11月22日の0200にチャップマンとクロトンがメラパス島に上陸した。岩、沼地、ジャングルを抜けて待ち合わせ場所まで移動する間に夜が明けてきた。結局待ち合わせ場所には誰もいなかった。
チャップマンとクロトンは島を捜索した。
コマンド隊員がそこに居た形跡はあった。そして島の北の丘に調理途中の食料や食器が残っていることから、慌てて脱出したらしい事がわかった。
結局島には犬を連れた日本人?日本兵?と思しき人はいたものの、コマンド隊員は誰も居なかった。失意のままチャップマンとクロトンは同日深夜、潜水艦に戻った。
コマンド部隊の回収任務は失敗に終わったと判断し、潜水艦タンタルスは帰路につき、12月6日にフリーマントル港に戻った。


コマンド部隊には何が起きたのか?
ここから先は特殊部隊Zの公式記録が残っておらず、日本軍側のかろうじて残った記録や連合軍が傍受した日本軍の無線交信、日本軍が捕虜尋問により得た情報、日本軍・地元島関係者や目撃者への戦後の聞き取り調査から推測することになる。

特殊部隊Zの隊員22名の乗ったムスティカ号は、ペジャンタン島沖で潜水艦ポーポイスと分かれた後、10月4日に、メラパス島に立ち寄った。
メラパス島にはキャレイを一人、荷物の番の為に残しているが、ライオンは、キャレイに加えてワーレン、クラフト、ペースの計4人を残すことにした。
彼ら4人の為に折りたたみ式カヌー2隻を荷揚げし、バックアップの脱出ルートについて打ち合わせた。
前年のジェイウィック作戦で後方基地としたポンポン島を、今回は非常時の補給基地とすることにした。
ムスティカ号は襲撃要員19名を乗せて出発、目標であるシンガポール方面に向かう途中、ちょっと迂回してポンポン島に食料備蓄の一部を置いてきた。

10月9日、ムスティカ号はカパラジャーニ島の入り江に停泊し、そこからラボン島 1 05 49 N 103 46 45 E と、前年訪問したスバール島 1 08 43 N 103 49 50 E にカヌーによる偵察隊を出した。

次の日の午後、ムスティカ号はいよいよ特殊潜航艇を発進させる為に北上した。

10月10日の日没2時間前、カス島 1 04 18 N 103 49 23 E にさしかかった所、島の水上集落桟橋に停泊していた小型艇が発進して近づいてきた。
最初は日本軍かと思ったが、それは日本に協力する地元民で構成された「兵補」の警備艇だった。
妙に深い喫水線、マレー系にしては体格の良い乗組員に怪しさを感じたのだった。

19420216_ShonanTo_95.jpg
コントラストが弱くて判りにくいが、黄色丸が、ムスティカ号が停泊中に日本軍傀儡である兵補の警備艇が近づいてきたカス島。シンガポールを離陸する航空機から撮影。手前の明かりはバタム本島の港地区。

ライオンは射撃命令を出していなかったのだが、特殊部隊Z側の誰かが発砲し(パニックになったのかもしれない)それにつられて皆発砲、結局警備艇の中国系通訳一名、警官一名は助かり、3名は死亡した。
この交戦は島のすぐ近くだったので、カス島の島民多数に目撃された。

急襲の効果が無くなった為、ライオンは作戦の中止を決定、隊員たちは4つのグループに分かれ折りたたみ式カヌーに乗り込み、拿捕したジャンク船ムスティカ号と、機密の特殊潜航艇は自沈させた。

しかしこの後ライオンは手漕ぎのゴムボートで部下6名を率いて、結局シンガポールのケッペル港に侵入し、船舶3隻を沈めることに成功した、といわれる。これはどこまで信用していいのか?

カス島に無線機が無かったこともあり、生き残った警備艇の兵補からの報告がやっと13日になってシンガポールの日本軍に伝えられた。
日本軍は憲兵隊、陸軍、海軍、兵補からなる追跡隊が特殊部隊Zを追った。

パンキル島 0 49 30 N 104 21 42 E にライオン、ロス、スチュアート、ダビッドソン、キャンベル、フーストン、ワーンが終結し、前者3人は島の北で、後者4人は島の南の町で地元民と接触し、タバコなどと引替えに情報と食料を入手した。
この島は日本海軍の艦艇の停泊地に近かった。ライオン達は実は任務を諦めておらず、大胆にも折りたたみ式カヌーで行動し、今度は軍用艦を沈めようとしていたのだろうか。

10月15日の夜、ライオン、ロス、スチュアートはパンキル島からすぐ北東のソレ島 0 51 30 N 104 23 16 E に向かった。ここから日本軍艦艇の停泊地であるセツム島 0 52 29 N 104 27 13 Eは目と鼻の先だ。

これと前後して、ライオン達と接触していた地元民が、パンキル島に白人が来たと日本軍に通報し、謝礼金を受け取った。
地元民の通報に気づいたダビッドソンとキャンベルはライオン達に警告する為ソレ島に向かい、フーストン、ワーンはタパイ島に向かった。
結局、日本軍が島に到着した時にはコマンド部隊は島を脱出した後だった。

ライオン、ロス、スチュアート、ダビッドソン、キャンベル達がたどり着いたソレ島は1周1km程度の小さな小さな卵形の島で、山や岩が無く、椰子の植林はあるものの下草が密集しておらず、島の端から反対側が見えてしまうという、隠れるには最悪の場所だった。

10月16日の1400頃、日本軍の憲兵隊(海軍特別警察隊か?)が兵補や地元協力者、通訳を引き連れてこのソレ島に上陸した。
コマンド隊員たちは、一旦は日本軍を島から撤退できた。ダビッドソンとキャンベルは負傷していた。
夕方、今度はビンタン島の日本軍指令官が自ら、約100名の兵を引き連れて再び戻ってきた。
スチュアートは隠れている窪みから見つかることなく手りゅう弾を日本側に投げ込み、ライオンとロスは弾薬を沢山携行して木に登り、上から自動小銃と手りゅう弾で攻撃し、日本側を圧倒した。
消音機付ステン自動小銃は音と火炎を隠し、日本側はどこから攻撃されているのか全然判らなかったのである。
銃撃戦は数時間に及んだ。しかしライオンとロスは結局日本側に見つかって戦死した。

19420216_ShonanTo_84.jpg
ソレ島で日本軍を足止めし、最後には戦死したライオン隊長とロスの遺体はシンガポール・クランジにある英連邦軍墓地に埋葬されている。

ソレ島での日本側の被害は大きく、日本兵・地元協力者合わせて60名超の死傷者が出ている。
日本軍はコマンド隊員が放棄せざるを得なかった食料備品多数を手に入れる。折りたたみカヌーも2隻残してあった。
しかし日本側は島を徹底的には捜索せず、引き揚げてしまった。
ダビッドソンとキャンベルは負傷していたにも関わらず脱出に成功し、タパイ島に向かった。
スチュアートは、カヌーが日本軍に接収された為ソレ島から出ることができなくなってしまった。
結局、スチュアートはソレ島に隠れていたが、10月18日に捕えられている。

19420216_ShonanTo_80.jpg
ソレ島で日本軍に捕まり、後に処刑されたスチュアートの墓標。

同じく10月18日、日本軍の追跡隊がタパイ島 0 46 29 N 104 26 00 E に上陸し、ダビッドソンとキャンベルが青酸カリで自殺しているのを発見した。
青酸カリは、捕虜にならない様、ガラスカプセル入りのものを襲撃隊員全員に渡されていた。

19420216_ShonanTo_73.jpg
タパイ島で自殺したダビッドソンとキャンベルの墓標。シンガポールのクランジにて。
個別の遺骨は判別されていないのか、墓標の一番上に「この近辺に埋葬」と書かれている。

カス島沖でライオン達と別れ別グループで行動していたコマンド部隊の生存者達は無事メラパス島にたどり着き、そこに待機していた4人と合流する。
タパイ島を経由したフーストン、ワーンもメラパス島にたどり着いた。
この時点で戦死したライオンとロス、ソレ島に取り残されたスチュアート、服毒自殺したダビッドソンとキャンベルを除く計18名がメラパス島に集結した。
潜水艦が迎えに来るはずの11月7日の夜はもうすぐだ。あと少し見つからないでいれば帰れる。
この時期はモンスーンで、海は荒れ模様になり、毎日大雨が降る。

19420216_ShonanTo_63.jpg
写真はバンコクからジャカルタに向かう飛行機から見たビンタン島東側の島々。
コントラストが弱く殆ど判らないが黄丸がリマウ作戦の拠点となり、潜水艦で回収してもらうはずだったメラパス島。
赤丸はその後コマンド隊員が隠れたマポール島。

11月4日の午前、日本軍はメラパス島に10人ほどの兵を連れてやってきた。メラパス島で丁度食事の用意をしていたリマウ作戦の隊員たちには寝耳に水だった。
コマンド隊員と日本軍との間で銃撃戦となり、日本軍の隊長の大尉が戦死、日本軍は援軍を要請し、夜になって100名程度が島に到着した。
コマンド隊員は大きく2手に分かれ、ペイジの組は暗闇に乗じてメラパス島から脱出した。
リッグスとキャメロンは他の仲間と連絡が取れず、島の北側で石を積み上げた防御陣地を個々に作り日本軍を迎え撃つ用意をした。
5日朝、日本軍は島の北と南から掃討戦に入った。
リッグスとキャメロンはたちまち見つかり、キャメロンは撃たれて戦死、リッグスはその場から離れ島の南端まで走って逃げ、最後は日本側に立ち向かって銃弾を受け、壮絶な戦死を遂げた。


19420216_ShonanTo_75.jpg 19420216_ShonanTo_74.jpg
写真:メラパス島で戦死したリッグスはその場で埋葬され、一方のキャメロンの遺体は放置された。
1981年にキャメロンの、1994年にリッグスの遺体が再発見され、シンガポールのクランジ英連邦軍墓地に埋葬された。
尚、キャメロンは遺体発見前に、行方不明者として名前を壁に刻まれており、これはそのまま残っている(墓石と壁名双方が存在する)

サージェント組(サージェント、レイモンド、ウィラースドーフ、クラフト、ペース、ワーン)は1944年11月5日の時点でまだメラパス島にいた。
リッグスとキャメロンを殺した銃撃の音を聞き、ジャングルに潜んで日本軍が撤退するのを待った。
日本軍は折りたたみ式カヌーを接収してしまったので、5日夜になって地元民が漁に使うボートを盗んで沖に漕ぎ出した(大軍で来ているのに、日本軍の捜索は穴だらけ....)。
メラパス島には戻れないと判断し、ポンポン島に向かうことにした。

さて、一方のペイジ組(ペイジ、イングルトン、キャレイ、ワーレン、グーリー、フレッチャー、フォールズ、フーストン、マーシュ、ハーディ)は闇に紛れてメラパス島の日本軍から逃れたものの、潜水艦による予定通りの回収の望みは捨てておらず、すぐ隣のマポール島 0 59 29 N 104 49 41 E に待機することにした。
潜水艦と交信できる無線機はメラパス島を去るときに破壊して置いてきてしまった。
ついに約束の11月7日の夜が来た。
ペイジの組から二人が折りたたみ式カヌーでマポール島に向かった。しかし潜水艦は現れなかった。まあいい、まだ近くに日本の船がうろうろしていたので浮上できなかったのかもしれないし、どのみち1ヶ月以内には迎えに来るはずだ。
それから毎晩、二人づつ交代でカヌーでマポール島を往復「通勤」し潜水艦と接触できるのを心待ちにした。
11月21日の夜も、リマウ作戦の隊員2名は島で待機していたはずである。
しかし当日、潜水艦から2名の連絡員が島に上陸したものの、結局接触に失敗している。
チャップマンとクロトンは島へのアプローチと島内移動で難儀し、待ち合わせ場所に来た時には既に夜が明けていた。
この時にはリマウ作戦のメンバーはマポール島に戻ってしまっていた。
また、潜水艦も隊員を降ろした時とは違う位置に浮上したので見つからなかったのだろう。

潜水艦による回収期限である12月8日が過ぎた。
潜水艦による帰還はもはや絶望的である、自力で味方前線に帰るしかない。

ペイジ組は前回ジェイウィック作戦でもベースとして使い、今回も後方基地として備蓄を置いていたポンポン島 0 22 17 N 104 15 29 E に向かった。
ここで彼らは隠してあった装備食料を補充すると、更に二手にに分かれ、南下した。
19420216_ShonanTo_44.jpg
12月15日朝、セラヤー島 0 18 15 S 104 26 32 E に日本軍のパトロールが現れ、ゲリラ隊の情報を提供するよう求めた。
赤丸がセラヤー島。
その上の、写真左上の島はシンケップ島。
写真左手前の大きな島がリンガ諸島最大の島、リンガ島。
リンガとはちん○この意味。
リンガ島の住人は、毎回住所を「ち○んこ諸島州ちん○こ郡ち○んこ島」と書かされているのだろう。ご愁傷様です。

一連の航空写真は、シンガポール発、ジャカルタ行きのガルーダインドネシア航空から撮影。
この写真では、丁度飛行機が赤道上空を通過する所。

セラヤー島にいたペイジ、フォールズ、フレッチャー、グーリーの4人は丁度食事時を襲撃され、負傷したフォールズは捕虜となった。
19420216_ShonanTo_82.jpg
セラヤー島で捕まり、後に処刑されたフォールズの墓。

19420216_ShonanTo_43.jpg
同じく12月15日、イングルトン、フーストン、マーシュ、キャレイ、ワーレン、ハーディ達はブアヤ島 0 10 39 N 104 13 18 E (写真赤丸) 近くの洋上で日本軍に見つかり、フーストンとマーシュが乗っていたカヌーは銃撃で沈没、マーシュは逃げおおせたもののフーストンは溺れ、翌日ブアヤ島に流れ着いた溺死体を日本軍が発見した。
フーストンの埋葬場所は不明で、イギリスのプリマス海軍記念館に遺体不明として名前が記されているという。

12月18日の夕方、ゲンタン島 0 9 31 N 104 17 4 E でイングルトンとハーディが、そして同じ頃セラヤー島でペイジが捕まる。
更に翌19日、セラヤー島でフレッチャーとグーリーも捕まる。
19420216_ShonanTo_76.jpg
ゲンタン島で日本軍に捕まったイングルトンとハーディは後に処刑された。

19420216_ShonanTo_83.jpg
セラヤー島捕まったペイジの墓標。

19420216_ShonanTo_79.jpg
同じくセラヤー島で捕まったフレッチャーとグーリー。

27日にはマーシュ、キャレイ、ワーレンがセンパ島 0 08 20 N 104 19 3 E で捕まる。
捕まった隊員は皆シンガポールのタンジュンページャーにある憲兵隊に送られた。マーシュはこの時点でマラリアと思われる高熱を出しており、1945年1月11日に死亡した。
マーシュはシンガポールのどこかに埋葬されているのだろうが特定されておらず、イギリスのプリマス海軍記念館に遺体不明として名前が記されているという

19420216_ShonanTo_78.jpg 19420216_ShonanTo_77.jpg
センバ島で捕まり、後にシンガポールで処刑されたキャレイ、ワーレンの墓標。

さて、11月5日にメラパス島を離脱したサージェント組の6人(サージェント、レイモンド、ウィラースドーフ、クラフト、ペース、ワーン)は、日本軍に見つかることなく順調に南下していた。
テミアン島 0 19 50 N 104 22 22 E では11月27日の1130に白人2名が居るのが確認されている。

19420216_ShonanTo_45.jpg
写真左上の大きな島Aがテミアン島。赤丸が(コントラストが弱くて見え難いけど)ポンポン島。
この写真、雲が海面に反射していてびっくり。リマウ作戦失敗後の逃走時はモンスーンの時期でここまで水面は穏やかではなかったのだろう。

壮絶なサバイバル航海が始まった。
12月13日から14日にかけて、小さな木造船2隻に分乗したサージェント組は、ボルネオ島西岸に向かい、帰国する為のジャンク船を拿捕しようとした(前回のムスティカ号と同じ要領)が、モンスーン時期になっていて海が荒れているということもあり難儀する。
12月19日頃、中国系の乗組員が運行するジャンク船に乗り込んだ。
その後何が起きたか正確には判らないが、21日頃、ジャンク船の乗組員に数で圧倒された隊員は、ボルネオの西海岸ポンティアナック沖の船上で反撃される。
中国系船員の買収交渉に失敗したのか、船員がコマンド隊員から金品を奪おうと襲撃したのか、船員が船を乗っ取られると思ったのか、白人を乗せていると日本軍に見つかった時ヤバイと思ったのか、ムスティカ号の失踪や警備艇襲撃などの情報を知っていて白人は危険な敵、と判断したのか?
レイモンド、クラフトは殴られて海に放り込まれて死んだ。サージェントはとっさに海に飛び込んだ。

サージェントは木片につかまり10時間漂流して、ボルネオの西海岸ポンティアナック近くに流れ着き、魚を捕る網に引っかかった。12月22日に地元漁師が日本軍に引渡し、ポンティアナック、ジャワ島経由でシンガポールに移送された。

19420216_ShonanTo_81.jpg
写真は中国系船員の操るジャンク船乗っ取り時に海に放り込まれ、後に日本軍に引き渡され最終的にシンガポールで処刑されたサージェントの墓標。

レイモンドとクラフトは溺死体となってボルネオ島西岸に流れ着いた。埋葬場所は特定されておらず、レイモンドはイギリスのプリマス海軍記念館に、クラフトはシンガポールにあるクランジの英連邦軍墓地に遺体不明として名前が記載されている。

ジャンク船に残ったウィラースドーフ、ペース、ワーンの3人が反撃して中国人乗組員を「始末」し(←やっていることは海賊)、ペラピス島1 16 31 S 109 10 1 E付近からボルネオ島西海岸沿いに南下し、プティン岬 3 31 15 S 111 46 12 Eを過ぎ、カダポンガン島 4 42 20 S 115 44 01 E 方向に向かった。

19420216_ShonanTo_92.jpg
シドニーからシンガポールに向かう便(スクートで安い航空券を買ったらシンガポール航空チャーター便に変わった。ラッキー)から撮影したペラピス諸島(写真左下)。この近辺沖でジャンク船の乗組員を制圧したウィラースドーフ、ペース、ワーンは味方前線を目指す長い航海に出る。

19420216_ShonanTo_93.jpg
プティン岬 の沖合いを東(写真右から左)に進んだ。

ワーンは病気が酷くなり、錯乱状態となり、このまま連れて行けないと判断してカダポンガン島に置き去りにされた。

以降、残る2名ウィラースドーフとペースは、中国系船員から奪ったジャンク船で、オーストラリアのダーウィンを目指した。途中、
マサリマ島 5 02 48 S 117 02 26 E
ドアンドアン島 5 15 59 S 117 53 31 E
デワカン島 5 24 24 S 118 25 49 E
に立ち寄り水と食料を探した。
更にカユアディ島 6 49 30 S 120 48 07 Eに到達し、島民に水と食料を分けてもらい、ここには6時間滞在した。

1945年1月17日、東ティモール沖のロマン島 7 33 51 S 127 24 30 E に辿り着いた。
作戦中止を決めてムスティカ号や特殊潜航艇を処分したシンガポール沖から、ここロマン島までの距離は実に3000km。
モンスーンで海が荒れる時期、ここまで辿り着いた裏には、ついに語られることの無かった壮絶な苦労があったのだろう。
ここからオーストラリアのダーウィンまでは700km弱だ。

しかし、翌々日、島の村長が日本軍に通報し、ウィラースドーフとペースは捕まる。ウィラースドーフは負傷していた。
彼らは東ティモールにあるディリの収容所に送られた。
ウィラースドーフは1945年2月に負傷が元で死亡、ペースは1945年6月に飢えで死亡している。

連合軍が傍受した日本軍の暗号通信では、カダポンガン島に残してきたワーンについても言及している。恐らくウィラースドーフとペースを尋問して得た情報であろう。
ワーンはカダポンガン島内に隠れていて地元民にも目撃されていた。
1945年3月に日本軍に見つかりスラバヤに連れて行かれた。病気は回復したが尋問を受け、破傷風治療の別作戦遂行中に捕まったZ特殊部隊2名や米陸軍航空隊パイロット2名、地元民連合軍協力者共々実験台になったという。ワーンは1ヵ月後に死亡した(他の人々は生体実験を生き延びたが処刑された)。

19420216_ShonanTo_71.jpg
ウィラースドーフ、ペース、ワーンの遺体はいずれも特定されておらず、シンガポールにあるクランジの英連邦軍墓地に遺体不明として名前が記載されている。
尚、ここにキャメロンとキャンベルの名前もあるが、この二人は遺体が見つかっており墓標付で埋葬されている。

写真左上に名前のあるクリフ パースキ中尉、ジョン サックス中尉は、ポリティシャン作戦中に日本軍に捕えられた工作員。
ついでなので概要を紹介しておく。
ポリティシャン作戦は米海軍の潜水艦にオーストラリアのZ特殊部隊のコマンド隊員を乗せて、敵地に折りたたみ式カヌーで侵入し諜報活動や破壊活動を実施、再び潜水艦に戻り帰還する、というもので、複数の潜水艦、複数回の出撃、11名の隊員で実施された。
1945年3月7日に、米海軍潜水艦ブリームは就役後5回目(ポリティシャン作戦としては2回目)となる航海に出発した。
14日深夜、マサレンボ島 5 04 36 S 114 36 05 E に停泊している輸送船団を破壊すべく、同島沖で下船したパースキ、サックスは、磁器吸着水雷を取り付るべく折りたたみ式カヌーで向かったが、強い海流の為にコースを外れてしまった。
潜水艦はコマンド隊員回収場所で待機したが、水雷の爆発音は聞こえなかった。
翌日の午後まで島の周囲を探していたが、日本軍の千鳥型水雷艦に見つかった。
激しい爆雷攻撃を受け、海底深さ30mに着低し無音を守ることで攻撃をやり過ごした。この時泥にハマり、爆雷で多数の損傷を受けるが6時間後、再浮上に成功し浮上して逃げた。
その後、17日にコマンド隊員からの無線連絡を傍受する。予め取り決められた字句が抜けていたので、艦長はコマンド隊員達が日本軍に捕まり交信を強要されているものと判断し、回収を断念した。
潜水艦ブリームは3月19日にフリーマントルに無事帰投したが、パースキ、サックスの2名はワーンと同じスラバヤの収容所で人体実験の生検体とされ、結局3月末に断首処刑されたと言われる。


日本軍に捕まったリマウ作戦の隊員達は、一般捕虜とは隔離され、いずれも憲兵隊(恐らく海軍特別警察隊)の尋問・拷問を受け、殆ど全員が作戦概要、作戦経緯のみならず特殊部隊の組織や、前年のジェイウィック作戦、特殊潜航艇の情報を提供し、日本側は全貌や詳細を知ることができた。

19420216_ShonanTo_05.jpg
リンガ諸島、リアウ諸島、ボルネオ島西岸で日本軍に捕まったコマンド隊員たちはシンガポールに送られた。
1945年年7月3日、シンガポールに収容されているリマウ作戦のコマンド兵10名は、日本軍による裁判にかけられた。
コマンド隊員はマレー人に扮装したこと、ムスティカ号を日本籍に偽装したこと、軍港や航行する船の写真やスケッチ、記録を残していたこと(これら物証はメラパス島で日本軍が入手)などからスパイと判断され、全員が死刑判決を受けた。

終戦1ヶ月ちょっと前の1945年7月7日、全員が断首により処刑された。

写真は10名のコマンド部隊兵を処刑した場所に建つ記念碑。
1 18 32 N 103 46 22 E
終戦後の連合軍による戦争犯罪捜査にて、軍服を着用していない英・オーストラリア兵をスパイと断定し処刑したことは妥当と判断され、判決や処刑に関わった日本軍関係者は罪に問われなかった(ただし別の戦争犯罪で裁かれたものが多い)。

19420216_ShonanTo_72.jpg
戦後、シンガポールで処刑された兵はクランジの英連邦軍墓地に埋葬された。
遺骨は個別には判別されておらず、10名の共同墓地。
写真の前列左から右にキャレイ、フォールズ、フレッチャー、グーリー、ハーディ、イングルトン、ペイジ、サージェント、スチュアート、ワーレンの墓標が、名字のアルファベット順にならんでいる。



リマウ作戦の全滅したメンバーは以下(階級は作戦当事、すなわち死亡時の最終階級) :
氏名
階級
所属
Jay
wick

逮捕
日時
逮捕場所
死亡
日時
死亡場所
死因
Ivan Lyon 中佐 BA(GH)
29 44.10.16 ソレ島 銃撃戦々死
Donald Davidson 少佐 RNR
35 44.10.18 タパイ島 服毒自殺
Reginald Ingleton 少佐 RM
25 44.12.18 ゲンダン島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Robert Page 大尉 AIF
24 44.12.18 セラヤー島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Walter Carey 中尉 AIF
31 44.12.27 センパ島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Bruno Reymond 大尉 RANVR
31 44.12.21 ボルネオ島沖 殴打/溺死
Harold Ross 中尉 BA
27 44.10.16 ソレ島 銃撃戦々死
Albert Sargent 中尉 AIF
25 44.12.22 マヤ島近辺 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
James Riggs 少尉 RNVR
21 44.11.5 メラパス島 銃撃戦々死
Alfred Warren 准尉 AIF
32 44.12.27 センパ島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Jeffrey Willersdorf 准尉 AIF
22 45.1.19 ロマン島 45.2月 ディリ 獄中衰弱/病死
David Gooley 軍曹 AIF
27 44.12.19 セラヤー島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Colin Cameron 軍曹 AIF
21 44.11.5 メラパス島 銃撃戦々死
Ronald Fletcher 伍長 AIF
29 44.12.19 セラヤー島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Archie Campbell 伍長 AIF
24 44.10.18 タパイ島 服毒自殺
Colin Craft 伍長 AIF
21 44.12.21 ボルネオ島沖 殴打/溺死
Clair Stewart 伍長 AIF
35 44.10.18 ソレ島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Walter Falls 上等兵 RANVR
25 44.12.15 セラヤー島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Andrew Huston 上等兵 RANVR
20 44.12.15 ブアヤ島沖 溺死
Frederick Marsh 上等兵 RANVR
21 44.12.27 センパ島 45.1.11 シンガポール 獄中病死
Hugo Pace 兵長 AIF
25 45.1.19 ロマン島 45.6月 ディリ 獄中衰弱/病死
John Hardy 兵長 AIF
23 44.12.18 ゲンダン島 45.7.7 シンガポール 裁判後断首処刑
Douglas Warne 二等兵 AIF
24 45.3月 カダポンガン島 45.4月 スラバヤ 獄中病死

AIF Australian Imperial Force
BA British Army
GH The Gordon Highlanders
RAMC Royal Army Medical Corps
RANR Royal Australian Naval Reserve
RANVR Royal Australian Naval Volunteer Reserve
RM Royal Marines
RNR Royal Naval Reserve
RNVR Royal Naval Volunteer Reserve

○は前年のジェイウィック作戦参加メンバーを示す。

メラパス島でのコマンド隊員回収に失敗したチャップマン少佐は、戦後1964年に歴史研究家のインタビューを受けた後、青酸カリ(恐らくリマウ作戦時に渡されたもの)で自殺した。
対照的に、潜水艦タンタルスの艦長だったマッケンジー少佐は潜水艦々隊の長となり、最終階級海軍中将で退役した。

19420216_ShonanTo_68.jpg
オーストラリア・シドニーのビジネス街中心部マーチンプレイスに建てられているコマンド部隊の記念碑。
33 52 04 S 151 12 42 E

左上はM特殊部隊とZ特殊部隊の合同エンブレム、右上はZ特殊部隊(Zフォース)のエンブレム。
いずれも軍のものではなく、戦後の戦友会グループが設定したもの。
M,Zの起源はSOEオーストラリアという特殊部隊で、これは英国のMI6発案によるSOE(Special Operations Executive特殊作戦執行部)の分身として1942年4月に結成され、AIB(Allied Intelligence Bureau)の下に置かれていた。
1943年2月組織再編成によりSOEオーストラリアは解散、代わりにSOA(Special Operations Australia)が(AIBの下ではない自立した組織として)結成され、AIBで特殊作戦を請け負っていたZ特殊部隊もSOA隷下となった。
間もなく任務を隠匿する為にSOAはSRD(Services Reconnaissance Department)と呼ばれるようになった。
一方でAIBに残ったオーストラリア陸軍兵は新たにAIBの下に結成されたM特殊部隊に配属された。
M, Z特殊部隊共に、兵は原隊の所属を保持したままでMまたはZ特殊部隊の任務をこなした。
例えばライオン中佐はゴードンハイランダース連隊所属でZ特殊部隊の任務に従いていた。

中段及び、下段の左3つは独立中隊規模で個別に設立されたオーストラリア陸軍のコマンド部隊。
中断左より、
第2/1コマンド中隊 (緑)元々北アフリカ戦線用に設立、ニューギニア戦で多大な損害を出し1942年解散
第2/2コマンド中隊 (赤)ティモール、ニューギニア、ニューブリテンで作戦従事
第2/3コマンド中隊 (水色)ニューギニア、ボルネオで作戦従事
第2/4コマンド中隊 (紺)ニューギニア、ボルネオで作戦従事
第2/5コマンド中隊 (黒) ニューギニア、ボルネオで作戦従事
第2/6コマンド中隊 (紫) ニューギニア、ボルネオで作戦従事
下段左より
第2/7コマンド中隊 (茶) ニューギニアで作戦従事
第2/8コマンド中隊 (白) ニューギニアで作戦従事

下段の右3つは騎兵コマンド連隊。
下段の左から3番目、4番目、5番目は順に
第2/7騎兵コマンド連隊(青/赤) 第6歩兵師団隷下
中近東派兵後ニューギニアで作戦従事。1943年4月以降は2/3、2/5、2/6の各コマンド中隊を隷下に置く。
第2/6騎兵コマンド連隊(茶/赤/緑) 第7歩兵師団隷下
中近東派兵後、1943年12月に再編され、2/7、2/9、2/10の各コマンド中隊を隷下に置きニューギニアで作戦従事。
第2/9騎兵コマンド連隊(緑/赤/茶) 第8歩兵師団隷下、後に第9歩兵師団隷下
中近で作戦従事後、1944年1月に再編され2/4、2/11、2/12の各コマンド中隊を隷下に置きボルネオで作戦従事。


【ストラッグル作戦】
19420216_ShonanTo_89.jpg
英海軍ではX級と呼ばれる特殊潜航艇を作戦投入し、ノルウェーに停泊しているドイツ海軍戦艦ティルピッツへの攻撃を実施するなど大西洋方面で使用した。

その改良型であるXE級は4人乗りで大戦中に6隻が建造され、対日戦に投入された。

ストラッグル作戦ではシンガポールに停泊している日本海軍の重巡洋艦高雄及び重巡洋艦妙高を沈める事を目標とし、XE1艇とXE3艇が出撃した。
1945年7月30日、英海軍の潜水艦に曳航されたXE3艇は2300に切り離され、31日の1300にシンガポールのセレター軍港に停泊している高雄に吸着爆雷を仕掛けた。
艦底はフジツボの覆われ磁気吸着しないので、潜水除去作業に苦労したという。
同艦は1944年10月に米海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて破損し、11月以降シンガポール対空防衛の為に停泊していた。
XE3艇の吸着爆雷攻撃により艦底に亀裂が出来、一部浸水したが軽微な損害だった。
写真は靖国神社の遊就館に展示されている高雄の模型。
XE3艇の艦長フレーザー大尉と潜水作業で爆雷を仕掛けたマゲニス伍長はビクトリア勲章を受勲した。
XE1艇は目標を発見できずに帰投した。
尚、高雄は同じくシンガポールに損傷の為航行できず停泊していた重巡洋艦妙高共々、戦後自沈処分された。
高雄攻撃と同じ1945年7月31日、フォイル作戦にてXE5艇がホンコンとシンガポールを結ぶ日本軍の海底通信ケーブルをラマ島沖で切断した。
同日、セイバー作戦にてXE4艇がサイゴンとシンガポールを結ぶ日本軍の海底通信ケーブルをメコンデルタ沖で切断した。

【林謀盛】
19420216_ShonanTo_03.jpg
抗日の英雄、林謀盛の記念碑。
シンガポール屈指の太平洋戦争中の英雄ということになっているが、日本語では殆ど情報が無く、英語の情報も乏しい人。
英語の伝記本を読むのも面倒なので英語のマンガ伝記本を買って読んだのだが、結局何の功績があった人か良く判らん。
中国生まれ、シンガポールに住む中国国籍の華僑で、日本軍の侵攻と共にシンガポールを脱出、インドでイギリスが抗日情報部隊を組織する手助けをしたらしい。
SOEのフォース136所属で現マレーシアのペラ州を中心にスパイ活動をしていたが1944年3月〜4月頃、日本の憲兵隊に捕まり、同地の収容所にて1944年6月に死亡。
戦後遺体がシンガポールに運ばれた。没後に中華民国から陸軍少将の位を授けられている。
...って、この人、シンガポールには戦前住んでただけで、マレーシアと中国にとっての抗日英雄じゃん。
1 17 19 N 103 51 11 E


19420216_ShonanTo_12.jpg
林謀盛の墓。中華民国から授かった陸軍少将の役職が記載されている。
1 20 31 N 103 49 51 E


【インド国民軍】
19420216_ShonanTo_54.jpg
インド独立の英雄、チャンドラボーズの像。インドのチェンライにて。
13 03 22 N 80 16 55 E

チャンドラボーズは1987年インド生まれ、学生の頃からインド独立運動に参加しており、「敵の敵は味方」と、1941年ナチス政権下のドイツに亡命し、北アフリカ戦線で捕虜となった英軍インド兵から志願者を集い、自由インド軍団を結成した。
しかしナチスドイツの消極的な態度に業を煮やし、一方で日本軍がマレー作戦で英軍を打破したことから日本軍と協力することになる。
1943年2月〜5月にかけて、ドイツ・日本の潜水艦と飛行機を乗り継いでフランスから日本に渡り、その時既に結成されていたインド国民軍の指揮をとることになる。

どうでもいいけど、インドで見かけた女性は皆サリーという民族衣装を着いている。
日本では着物を着用するご婦人なんでもはや絶滅危惧種なのに。

19420216_ShonanTo_31.jpg
シンガポールのシティホール。
現在はナショナルギャラリーとなっている。
1 17 26 N 103 51 06 E

英軍降伏の翌日1942年2月16日に日本軍はこの建物の前でパレードを行った。

日本軍は英連邦軍捕虜の中からインド人兵士の有志を集い、イギリスと戦う為のインド国民軍を編成した。
このシティホールの前で1943年7月、インド国民軍はパレードを実施した。
チャンドラボーズや当時シンガポールを訪問していた東条英機が閲兵した。
その後インド国民軍はインパール作戦に参加することになる。
また、終戦後、南方軍の降伏調印はこの建物内で行われた。

i19420216_ShonanTo_09.jpg
インド国民軍設立の記念碑があった場所。
終戦後乗り込んできたイギリスがたちまち破壊した。
1 17 22 N 103 51 13 E

19420216_ShonanTo_27.jpg
インド国民軍兵士の帽子。INA(Indian National Army)のバッジ付。
シンガポール国立博物館にて。


【終戦】
19420216_ShonanTo_13.jpg
シンガポールのシティホールにて1945年9月12日、降伏調印する南方軍、西南方面艦隊の面々を再現した蝋人形。
シロソ要塞の展示。
手前より
福留繁中将
柴田彌一郎中将
木下敏中将
板垣征四郎大将
木村兵太郎大将
中村明人中将
沼田多稼蔵中将

19420216_ShonanTo_36.jpg
あ〜あ、大東亜戦争負けちゃったよ。しょうがねぇな、サインしてやっか。
やっぱアメリカにちょっかい出したのまずかったよな。あいつらモンロー主義がどうたらとか抜かしてたくせに、戦争で儲かるって判ってやる気満々だったもんな。
それにしても中国にフランスとオランダ、貴様ら戦勝国のオマケだろうに何でここに居るんだ?
大体イギリスとかオーストラリアとか、別に大日本帝国は貴様らに負けたわけではないぞ。
そもそも貴様らロクに失地取り返してないだろ。
あとインド、貴様がうるさくしつこく独立戦争とか言うからインパールに出兵したのに、こんな場所にのこのことイギリスの仲間の代表ですぅ、って顔して出てきやがって....
もう絶対インド人がうるさい事言っても言うこと聞かねぇぞ。(←私もインド人については常日頃そう思います)この恩知らずめ。貴様ら肉の入っていないカレーでも食ってろ。
という台詞を今にも言いそうな渋い顔の板垣さん。(←本当にそう思っていたかどうかは知りませんが)
降伏文書は11部にサインがされた。
本来、南方軍総司令官を始終勤めた寺内元帥が調印するものだが、この時は病気を理由に板垣大将が代理で参加。

19420216_ShonanTo_06.jpg
降伏調印式を欠席した南方軍総司令官、寺内元帥の墓。
シンガポールの日本人墓地にて。
1 21 56 N 103 52 39 E

19420216_ShonanTo_35.jpg
こちらは連合軍の面々。
手前より
Dirk Cornelis Buurman van Vreeden大佐 (オランダ代表)
Adrian Lindley Trevor Cole空軍中将 (オーストラリア代表)
Feng Yee小将 (中国代表)
Sir Keith Park空軍大将 (東南アジア連合軍空軍最高司令官)
General Sir William Joseph Slim (東南アジア連合軍空軍参謀)
Lord Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten提督 (東南アジア連合軍最高司令官)
Raymond Albert Wheeler中将 (アメリカ合衆国代表)(この写真ではマウントバッテン卿の陰に隠れてよく見えない)
Sir Arthur John Power提督 (英海軍東洋艦隊)
General P. Leclerc (←戦車でお馴染み。フランス代表。何だ、フランスも居るのか....)
Kodandera Subayya Thimayya 准将 (英領インド代表)

19420216_ShonanTo_64.jpg
バンコクにあるワット ラーチャブラナには、終戦時に第18方面軍参謀だった辻大佐が日本人僧侶に変装して潜伏していたといわれる。
13 44 33 N 100 2 '58 E
辻はマレー作戦における作戦参謀で、シンガポールの華僑粛清を企画した人物ともいわれる。


【現代】
19420216_ShonanTo_19.jpg
大日本帝国は南方作戦でアジアの国々を解放した、などと言うつもりはない。
そのような名目上の大義名分は、軍事的侵略について日本国民や侵攻先の人々、現場で戦う兵士を納得させるためのものにすぎない。
当時の日本の侵攻理由は各国に自由独立を与えるためではなく、支配か、傀儡政権の樹立により日本に有利に事を運ばせるのが目的。
結果論として、大日本帝国の南方進出がきっかけとなり、アジアの国々が植民地支配から脱することが出来た(あるいは独立が大幅に早まった)というのは紛れもない事実だろう。
でも、その事を日本に感謝しろ、と言うつもりはない。
しかし、だ。シンガポールよ、最近(2010年)開業したMRT鉄道駅の名前に、かつての植民地支配国である英国の司令官マウントバッテン卿の名前をつけるのは一体どういう思惑なのだろうか?
私が思うに、シンガポールを含むマラヤにいた華僑・華人は、ここを植民地化していた英国と一緒になって、マレーの地元民を搾取することにより英国と共に発展していこう、というのが心底にあったのだろう。
だから、華僑・華人が大半を占めるシンガポールにとっては、折角英国に協力してボロ儲けしていた所に日本軍がやってきて経済が停滞し、英国が戻ってきてくれたとおもったらマラヤ全体が英国から独立してしまい、更には国家シンガポールとしてマレーシアから分離独立の憂き目にあった。
すなわちシンガポールにはマレー系が少ないので搾取の量が減ってしまう。
これはシンガポールの大半を占める中華系にはやるせない思いなのでは?
昔のイギリス人は良かった!というノスタルジーを込めた思いでこの駅名にしたのではないか?
1 18 22 N 103 52 59 E

19420216_ShonanTo_34.jpg
ちなみにこちらが駅名由来のマウントバッテン卿の(出来がイマイチな)蝋人形。
日本軍の降伏文書にサインする所。

19420216_ShonanTo_20.jpg
マウントバッテン駅の隣駅で同時に開業。
これも解せない駅名。
ダコタ...アメリカ先住民のことではない。
駅近くにあったシンガポール空港(カラン空港)にダコタ輸送機多数居たから、ということらしい。
民間旅客機のDC-3も多数離着陸していたのだが、駅名を民間のDC-3ではなく、英空軍のダコタにしている、というのがミソ。
1 18 31 N 103 53 21 E
ダコタは民間用DC-3旅客機の軍用型。アメリカ陸軍航空隊仕様はC-47スカイトレイン。日本では零式輸送機、ソ連でもLi-2としてライセンス生産された。
つまりダコタという駅名は英空軍の輸送機の名前であり、「英軍帰ってきてくれてありがとう」という事に他ならない。
英空軍のダコタV型 FL510 「シスターアン」(米軍レジ42-24166)は1946年1月14日、要人を乗せて上海から東京に向かう途中、悪天候で新潟県佐渡島の海岸に不時着。住民の協力の元簡易滑走路建築と修理を実施し、40日後に離陸した。このエピソートは「飛べ!ダコタ」で映画化されている。
「シスターアン」は極東司令官マウントバッテンがビルマで介護を受けた看護婦にちなむという。
撮影には米陸軍航空隊→米空軍(途中AC-47Dに改造)→南ベトナム空軍→タイ空軍で使われたC-47 米軍レジ43-48501を買い取って使用。

19420216_ShonanTo_90.jpg
英連邦軍ではダコタと呼んだ輸送機。写真はニュージーランド空軍博物館の展示でVIP機として使われていたもの。
本機は占領軍として日本にも飛来している。

19420216_ShonanTo_96.jpg
こちらはマウントバッテン卿の専用機としても使われた後、戦後に連合軍占領下の佐渡島に不時着したという英空軍所属ダコタFL510の塗装を施したC-47。

機体は米陸軍航空隊向けの43-48501で、ベトナム戦争でAC-47ガンシップに改造され、南ベトナム空軍・ラオス空軍を経て1968年タイ空軍に所属。1986年に予備として保管、1989年にタイのロッブリーで遺棄されている。
2011年に日本の映画会社が「飛べ!ダコタ」撮影用に買い取った。
尾部は43-49210のものを使っている。当機は米陸軍航空隊、米空軍を経て途中要人輸送用VC-47となり、南ベトナム空軍からタイ空軍所属となる。1992年にバンコク郊外のドンムアン空港で着陸に失敗しフェンスと側溝にぶつかり用廃となった。

映画の撮影後、現在は浜名湖の湖畔に置かれている。

尚、本物のダコタ FL510も現存し、米陸軍航空隊向けに42-24166として製作されたが、英空軍にFL510として配備、極東で使われ、マウントバッテン卿の専用機だった時もある。 機のニックネーム「SISTER ANNE」はその時につけられたもので、シスターアンはビルマでマウントバッテン卿を介護した海軍の看護婦という。
1946年1月18日、上海に向かう途中で佐渡島に不時着。現地で修理し海岸の急造滑走路から離陸した話が前述の映画ネタ。ALFSEA(東南アジア英国地上軍)を経て英国本土で使われた後、英国で民間登録、フランス空軍を経てフランスで民間登録、カナダの民間輸送会社から1998年キューバに売却された。2003年に何とハイジャックされ米国フロリダに飛んできて機体が押収された。オークションにかけられ民間所有となったがその後は耐空証明が登録されておらず飛行していない模様。

DC3/R4D/C-47/C-53/ダコタ系は非常に長く使われている機体が多く、各機の経歴も非常に豊かだ。

19420216_ShonanTo_01.jpg
シンガポールの犠牲者追悼の碑。4本の柱は中国系、マレー系、インド系、ユーラシア系(白人等)を意味する。
1 17 34 N 103 51 17 E

19420216_ShonanTo_02.jpg
戦没者慰霊碑。
1 17 25 N 103 51 14 E
1922年建造で、当初は第一次世界大戦に於けるシンガポール出身の戦没者犠牲者124名を追悼するものだった。
その後、第二次世界大戦の戦没者追悼も加えられた。
2013年4月にマレー系シンガポール人の警備員がこの塔に落書きをし(写真の反対側である第一次世界大戦の方)、懲役3ヶ月+鞭打ち3回+修理費208シンガポールドルの判決となった。
さすが無法者には厳しいシンガポール。
シンガポールには個人的には色々不満や物申したいこともあるのだが、アーチストと称しながら歴史を破壊する馬鹿への厳罰については絶賛したい。グッジョッブ!


オーストラリアのTVミニシリーズ「Heros」(1989)でジェイウィックが連合軍側視点で描かれている。概ね史実を元に構成されている模様で、Youtueで見ることができるのでそれなりに参考にさせてもらった。
リマウ作戦については「南十字星」(1982)という映画が日本オーストラリア共同で作られたらしいが、現在DVD化されていない。
また、Herosの続編としてHeros U The Return (1991)というミニシリーズでリマウ作戦の失敗と、戦後の調査がドラマ化されているらしい。



戦跡散歩Home

Copyright 2017 Morimoto, Makoto : All Rights Reserved.
本ページの写真、文章の無断転載をお断りいたします。

inserted by FC2 system