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ドーリットル空襲
Doolittle Raid


ドーリットル空襲については、英語版を作ってあります。 English Version
英語版の方が1次資料や爆撃地点・目標地点の航空写真を示すなど
内容構成は全体的に詳しいです。

19420418_DoolittleRaid_11.jpg
ジェームス 「ジミー」 ドーリットルは1896年米国カリフォルニア生まれ、1917年に陸軍航空隊入隊、飛行訓練を受けた後数々の飛行記録を打ちたて、軍籍のままマサチューセッツ工科大学で1924年に航空工学の修士、1925年に航空工学の博士号を取得している。
修士論文テーマの加速度計で求められる翼荷重及び、博士論文テーマの風の飛行特性への影響共に自ら飛行機を操縦し測定したデータを基に作成した。特に前者は操縦士のブラックアウトにまで研究が及んでいる。
同年エアレースのシュナイダートロフィー優勝。
民間航空に10年関わった後、第二次世界大戦に米国が参戦すると共に少佐で軍役復帰、翌年中佐に昇進し、日本初空襲の準備実行を任され、自ら隊長として参加した。
この功績により米軍最高のメダルオブオナーを受賞し、2階級特進して准将となる。
後に第8空軍司令官となりドイツ本土への空襲を指揮する。
1946年に大将で退役し石油会社シェルの役員となる。1993年没。
イギリスのダックスフォード帝国戦争博物館にて。


【ドーリットル爆撃の候補になった爆撃機】
19420418_DoolittleRaid_80.jpg
ダグラス B-18 ボロ(山刀の意味)。 旅客機DC-2を基に胴体を爆撃機向けに新設計している。
太平洋戦争が始まった時点でフィリピン、ハワイに配備されていた機体は日本軍の攻撃で大損害を受け、性能が時代遅れになっていたことから残った機体の多くは対潜哨戒機として使われた。
ドーリットル空襲の使用機として候補になったが、低性能と長大な翼幅により没となった。
アメリカ・カリフォルニア州のキャッスル航空博物館の屋外展示。


19420418_DoolittleRaid_86.jpg
こちらもドーリットル空襲の使用機として候補になった、同じくダグラスの B-23 ドラゴン(竜の意味)。こちらも長大な翼長がネックとなり採用されなかった。
B-23はB-18よりも高性能だったがB-25、B-26よりも劣る中途半端な立ち位置の為、結局実戦では使われず多くは輸送機に改造された。しかしこれが幸いし戦後の長く使われ、結果として38機というとても大量生産には届かない生産数ながら、現存機が8機もあるという驚くべき生存率。アメリカ・カリフォルニア州のキャッスル航空博物館の屋外展示。


19420418_DoolittleRaid_87.jpg
同じくドーリットル攻撃の使用機候補となったB-26マローダー(略奪者の意味)。着陸速度が早く事故が多発した為殺人機とも呼ばれた。この扱いにくさから候補を外れた。
フランスのル・ブルージェ航空宇宙博物館にて撮影。機体はB-25Gで自由フランス軍の塗装。
現在同機は米陸軍航空隊のB-25Bの塗装に塗り替えられ、ノルマンディー上陸作戦のユタビーチにある博物館に貸し出されて展示されている。


19420418_DoolittleRaid_27.jpg
結局、ドーリットル空襲はノースアメリカン B-25 ミッチェル 爆撃機を使うことになった。ミッチェルは空軍独立を働きかけた米陸軍少将で、米軍の爆撃機に個人名が付けられたのは現在に至るまで本機だけ。
写真はアメリカ空軍博物館の展示で、日本本土空襲に向け空母の甲板上で準備するB-25の等身大ジオラマ。
手前右がドーリットル中佐(最終階級は空軍大将)、左は空母USSホーネットの艦長ミッチャー大佐(最終階級は海軍大将)と思われる。ドーリットルは身長5フィート4インチ(160p)と小柄であった。
機体は元々はRB-25D (レジ43-3374 ちなみにRは戦闘参加禁止という意味で偵察ではない)で、デイビスモンサンで保存されていた所をノースアメリカンでB-25B相当に改造され(ただしエンジンのシュラウド周りは未改造なのかカバーをかけた状態で展示)、ドーリットル中佐機40-2344の塗装を施し、1958年にアメリカ空軍博物館に運ばれた。


19420418_DoolittleRaid_05.jpg
ドゥリットル空襲参加機は、通常のB-25Bに対し燃料タンク増設、軽量化、尾部銃座撤去(代わりにスチールカメラまたはムービーカメラ搭載)、ノルデン照準器取り外しなどの改造が行われている。
写真は同じくアメリカ空軍博物館でのドーリットル中佐機の展示で、爆弾4発を搭載中。
オリーブドラブ色を見慣れた目には黄色い爆弾というのは奇異だが、記録写真では明色に写っ
ており、また、日本側で黄色の爆弾という目撃談がある。
各機の搭載は焼夷弾4発または爆弾3発+焼夷弾1発で、この様に爆弾4発の組み合わせは実際には無かった。

東京初空襲に於いてドーリットル隊長機はパスファインダーでもある為全弾焼夷弾装備だったのだが...


【ドーリットル爆撃の候補となった機体の仕様・性能比較】
要目
ダグラス B-18
(テータはB-18A)
ダグラス B-23
マーチン B-26
(データはB-26A)
ノースアメリカン B-25B
ノースアメリカン B-25B
ドーリットル空襲改造機
原型初飛行 1935年4月 1939年7月27日 1940年11月25日 1940年8月19日 -
生産機数 350機 38機 5,288機 9,816機
内、B型は119機
B-25B 24機を日本本土空襲用に改造
実際に空母搭載、空襲参加は16機
全幅 89' 6" (27.3 m) 92' 0" (28.0 m) 65' 0" (19.8 m) 67' 7" (20.6 m) -
全長 57' 10" (17.4 m) 58' 4 3/4" (17.8m) 58' 3" (17.8 m) 53' 0" (17.7 m) -
全高 15' 2" (4.6 m) 18' 5 1/2" (5.6 m) 19' 10" (6.0 m) 15' 9" (4.8 m) -
翼面積 959 平方フィート (89.1 平方m) 993 平方フィート (92.2 平方m) 602 平方フィート (55.9 平方m) 610 平方フィート (56.7 平方m) -
重量 空虚重量
16,321 lbs (7,410 kg)
総重量
22,123 lbs (10,000 kg)
最大離陸重量
27,673 lbs (12,600 kg)
空虚重量
19,089 lbs (8,6700 kg)
総重量
26,500 lbs (12,000 kg)
最大離陸重量
32,400 lbs (14,700 kg)
空虚重量
21,741 lbs (9,870 kg)
総重量
28,367 lbs (12,900 kg)
最大離陸重量
33,022 lbs (15,000 kg)
空虚重量 20,000 lbs (9,100 kg)
総重量 28,460 lbs (12,900 kg)
最大離陸重量 31,000 lbs (14,000 kg)
空母発艦時
31,000 lbs (14,000 kg)
重量軽減は胴体下部銃座撤去、無線機及びノルデン爆撃照準器撤去など。
重量増は燃料追加
エンジン ライト R-1820-53 サイクロンエンジン
空冷9気筒×2基
ライト R-2600-3 ツインサイクロンエンジン
空冷14気筒×2基
プラット&ホイットニー R-2800-5 ダブルワスプエンジン
空冷18気筒×2基
ライト R-2600-9 ツインサイクロンエンジン 空冷14気筒×2基 -
エンジン出力 各 1,000 hp (750 kW)×2基 各 1,600 hp (1,200 kW)×2基 各 1,850 hp (1,400kW)×2基 各 1,700 hp (1,300kW)×2基 -
最高速度 高度15,000 ft にて 215 mph
(高度 4,600 m にて 350 km/hr)

高度 12,000 ft にて 282 mph
(高度 3,700 mにて 450 km/hr)
高度 15,000 ft にて 313 mph
(高度 4,600 m にて 500 km/hr)
高度 15,000 ft にて 300 mph
(高度 4,600 m にて 480 km/hr)
-
巡行速度 167 mph (270 km/Hr) 210 mph (340 km/Hr) 243 mph (390 km/Hr) 233 mph ( 370 km/Hr) -
着陸速度 69 mph (110 km/Hr) 130 mph (210 km/Hr) 105 mph (170 km/Hr) -
実用上昇限度 23,900 ft (7,300 m) 31,600 ft (9,600 m) 23,500 ft (7,200 m) 23,500 ft (7,200 m) -
航続距離 爆弾 2,496 lbs 搭載時に 1,150 mi
(爆弾 1,100 kg 搭載時に 1,900 km)
爆弾 4,000 lbs 搭載時に 1,400 mi
(爆弾 1,800 kg 搭載時に 2,300 km)
爆弾 3,000 lbs 搭載時に 1,000 mi
(爆弾 1,400 kg 搭載時に 1,600km)
爆弾 3,000 lbs 搭載時に 2,000 mi
(爆弾 1,400 kg 搭載時に 3,200 km)
燃料翌内タンク 646 ガロン (2,450 L)
他に爆弾未搭載時には爆弾槽内に 420 ガロン (1,590 L) 搭載可
2,400 海里 (4,400 km)
燃料 1,141 ガロン (4,320 L)に増強
翼内タンク 646 ガロン (2,450 L)
爆弾槽 225 ガロン (850 L)
爆弾槽上に折畳式タンク 160 ガロン (610 L)
胴体下部砲塔撤去後に 60 ガロン (230 L)
補給用 5 ガロン (19 L) 缶×10缶
乗員(標準) 6名
操縦士
副操縦士
爆撃手兼航法手
機銃手×3
6名
操縦士
爆撃手
航法手
無線手
カメラ操作手
尾部機銃手
6名(?)
操縦士
副操縦士
爆撃手兼無線手
航法手兼無線手
機銃手×2
5名
操縦士
副操縦士
爆撃手
航法手兼無線手
機銃手
5名
操縦士
副操縦士
爆撃手
航法手
機銃手
(機体により若干異なる)
爆弾搭載量 2,200 lbs (1,000 kg)
最大 4,400 lbs (2,000 kg)
2,000 lbs (900 kg)
最大 4,000 lbs (1,800 kg)
最大 5,800 lbs (2,600kg) 3,000 lbs (1,400 kg) 2,000 lbs (900 kg)
爆弾+焼夷弾または焼夷弾のみの組み合わせ
武装 0.30 in (7.62mm) 機銃 3丁
機首、胴体下、胴体上部
0.30 in (7.62mm) 機銃 3丁
機首、胴体下、胴体上部
0.50in (12.7mm) 機銃1丁
尾部
0.30 in (7.62mm) 機銃 2丁
機首、胴体後部下
0.50in (12.7mm) 機銃3丁
2連装胴体後部上砲塔、尾部
0.30 in (7.62mm) 機銃1丁
機首
0.50in (12.7mm) 機銃4丁
2連装胴体後上部砲塔、二連装収納式胴体下部砲塔
0.30 in (7.62mm)機銃1丁
機首
0.50in (12.7mm) 機銃2丁
2連装胴体後上部砲塔
胴体下部砲塔は撤去、尾部に機銃に見立てた棒が2本(ダミー)


【ドーリットル攻撃隊 各機の装備、乗員と攻撃地点】

発艦
順番
時間
登録
所属
ニック
ネーム
装備
武装
乗員
配置 姓 階級(最終階級) 生-没 運命
着陸方法
=攻撃目標=
実際の爆撃地点
特記事項
@

0720
40-2344

17th BGp
34th BSqn
CA
焼X4
攻撃隊長機

P:ドーリットル中佐(大将) 96-93
C:コール少尉(大佐) 15-19
N:ポッター少尉(大佐)18-02
B:ブレーマー軍曹(大尉) 18-89
E:レオナルド軍曹(曹長) 12-43 戦


中国上空パラシュートで脱出
=東京=
東京 早稲田 西大久保
12 34 58 N 12 35 89 E
A

0725
40-2292

17th BGp
37th BSqn
CA
爆X3
焼X1
フライトリーダー機

P:フーバー中尉(大佐) 17-04
C:フィッツヒュー少尉(少佐) 15-81
N:ウィルドナー少尉(中佐) 15-94
B:ミラー少尉(大尉) 16-43 戦
E:ラドニー軍曹(少佐) 17-94


不時着
=東京(北部)=
東京 尾久
35 45 09 N 139 46 16 E
35 45 06 N 139 46 09 E
35 45 07 N 139 46 08 E
B

0730
40-2270

17th BGp
95th BSqn

Whiskey Pete
MV
爆X3
焼X1
P:グレイ中尉(大尉) 19-42 戦
C:マンク少尉(中佐) 18-58 事
N:オズック少尉(大尉) 16-10
B:ジョーンズ軍曹(少尉) 20-83
E:ファクトァ伍長(同) 22-42 失


中国上空パラシュートで脱出
=東京(北部)=
1350頃
埼玉県 川口、潮止
東京 王子 葛飾
水元国民学校等機銃掃射
C

0733
40-2282

17th BGp
95th BSqn
MV
爆X3
焼X1
P:ホルストロム中尉 (准将) 16-00
C:ヤングブラッド少尉(少佐) 18-49 事
N:マックール少尉(中佐) 18-03
B:ステファンス軍曹(中尉) 15-59
E:ジョーダン伍長(曹長) 19-01


中国上空パラシュートで脱出
=東京(北部)=
相模湾(洋上投棄)
回転銃座故障
D

0737
40-2283

17th BGp
95th BSqn
CA
爆X3
焼X1
フライトリーダー機

P:ジョーンズ中尉(少将) 13-08
C:ワイルダー少尉(大佐) 17-64
N:マッグルー少尉(中尉) 17-42 戦
B:トゥルーラブ少尉(大尉) 19-43 戦
E:マンスケ軍曹(大佐) 21-98


中国上空パラシュートで脱出
=東京(中央部)=
川崎
E

0740
40-2298

17th BGp
95th BSqn

Green Hornet
MV
爆X3
焼X1
P:ホールマーク中尉(同) 14-42 処
C:メダー少尉(同)? 17-43 病
N:ニールセン少尉(中佐) 17-07 捕
B:ディーター軍曹(同) 12-42 失
E:フィッツモーリス伍長 19-42 失


海辺に不時着
=東京(中央部)=
川崎
横浜
横浜にて機銃掃射
F

0743
40-2261

17th BGp
95th BSqn

Ruptured Duck
MV
爆X3
焼X1
P:ローソン中尉(少佐) 17-92
C:ダベンポート少尉(大佐) 18-00
N:マックルー少尉(大尉) 16-99
B:クレバー少尉(中尉) 14-42 事
E:サッチャー軍曹(同) 21-16


海辺に不時着
=東京(中央部)=
川崎
爆弾の一つに
紀元二千六百年記念式典章を
結び付けて投下
G

0746
40-2242

17th BGp
95th BSqn
CA
爆X3
焼X1
フライトリーダー機

P:ヨーク大尉(大佐) 12-84 ソ
C:エメンス中尉(大佐) 14-92 ソ
NB:ハーンドン少尉(少佐) 18-07 ソ
E:ラバン軍曹(同) 14-78 ソ
G:ポール軍曹(少尉) 21-99 ソ


ウラジオストックの北に不時着
=東京(南部)、東京湾北中央部=
西那須野
36 52 60 N 139 59 18 E
新潟県中蒲原
37 48 38 N 139 09 12 E
回転銃座故障
燃料消費激しく中国到達が無理と判断、
栃木、新潟経由でソ連に向かう。
H

0750
40-2303

17th BGp
34th BSqn

Whirling Dervish
MV
爆X3
焼X1
P:ワトソン中尉(中佐) 16-91
C:パーカー少尉(少佐) 20-91
N:グリフィン少尉(少佐) 16-13
B:ビッセル軍曹(中尉) 21-97
E:スコット軍曹(中佐) 07-78


中国上空パラシュートで脱出
=東京(南部)、東京湾北中央部=
品川
回転銃座故障
I

0753
40-2250

17th BGp
89th RSqn
MV
爆X3
焼X1
P:ジョイス少尉(中佐) 19-83
C:ストーク少尉(大尉) 16-02
NB:クローチ少尉(中佐) 18-05
E:ラーキン軍曹(同) 18-42 戦
G:ホートン軍曹(曹長) 16-08


中国上空パラシュートで脱出
=東京(南部)、東京湾北中央部=
品川
J

0756
40-2249

17th BGp
34th BSqn

Hari Kari-er
CA
焼X4
フライトリーダー機

P:グリーニング大尉(大佐) 14-57
C:レディ少尉(中尉) 20-42 事
N:カッペラー少尉(中佐) 14-10
B:バーチ軍曹(少尉) 17-06
E:ガードナー軍曹(同) 20-42 戦


中国上空パラシュートで脱出
=横浜=
香取海軍飛行場(建設中)
35 43 46 N 140 36 40 E
K

0759
40-2278

17th BGp
37th BSqn

Fickle Finger
MV
爆X3
焼X1
P:ボワー中尉(大佐) 17-11
C:ブラントン少尉(中佐) 19-61
N:パウンド少尉(中佐) 18-67
B:バイサー軍曹(少佐) 06-88
E:ドゥクエッテ軍曹(同) 16-42 戦


中国上空パラシュートで脱出
=横浜=
川崎
L

0801
40-2247

17th BGp
37th BSqn
MV
爆X3
焼X1
P:マッケロイ中尉(中佐) 12-03
C:クノブロック少尉(准将) 18-01
N:キャンベル少尉(中佐) 17-02
B:ブルゲオワ軍曹(中尉) 17-01
E:ウィリアムス軍曹(曹長) 19-93


中国上空パラシュートで脱出
=横須賀=
横須賀
35 17 21 N 139 39 37 E
M

0807
40-2297

17th BGp
89th RSqn
CA
焼X4
フライトリーダー機

P:ヒルガー少佐(准将) 09-82
C:シムス少尉(大佐) 19-07
NB:メイシア少尉(大佐) 16-09
RG:ベイン軍曹(曹長) 17-43 戦
EG:イヤーマン軍曹(少佐) 13-94


中国上空パラシュートで脱出
=名古屋=
名古屋
N

0815
40-2267

17th BGp
89th RSqn
MV
焼X4
P:スミス中尉 (大尉) 18-42
C:ウィリアムス少尉(少佐) 20-98
NB:セスラー少尉(少佐) 17-01
SG:ホワイト中尉(少佐) 09-92
EG:セイラー軍曹(中佐) 20-15


海辺に不時着水
=神戸=
神戸
34 40 22 N 135 10 43 E
O

0819
40-2268

17th BGp
34th BSqn

Bat Out of Hell
MV
焼X4
P:ファロー中尉(同) 18-42 処
C:ハイテ少尉(中佐) 20-15 捕
NG:バー少尉(大尉) 17-67 捕
B:デシャザー伍長(軍曹) 12-08 捕
EG:スパッツ軍曹(同) 21-42 処


中国上空パラシュートで脱出
=大阪=
名古屋
名古屋から紀伊半島を縦断する際に
地上に機銃掃射

所属の略号は以下:

 17th BGp 34th BSqn :第17爆撃航空群 第34爆撃飛行中隊
 17th BGp 37th BSqn :第17爆撃航空群 第37爆撃飛行中隊
 17th BGp 95th BSqn :第17爆撃航空群 第95爆撃飛行中隊
 17th BGp 89th RSqn :第17爆撃航空群 第89偵察飛行中隊

武装装備は以下:

 CA: 尾部搭載スチールカメラ 1.5秒間隔で計60枚撮影 爆弾投下に連動(手動撮影も可)
 MV:尾部搭載16oムービーカメラ
 爆:500ポンド爆弾 尾部に1/40秒信管、先端に予備の1/10秒信管を付けた
 焼:500ポンドクラスター焼夷弾 (128個の焼夷弾をまとめて帯金で束ねたもの)

全機機銃弾は曳光弾1:徹甲弾2:焼夷弾3の比率



乗員配置は以下:
 P:操縦士・機長
 C:副操縦士
 N:航法手
 B:爆撃手
 E:航空機関士兼胴体銃座手
 G:胴体銃座手
 S:航空医官


乗員運命は以下:
 ソ:ソ連に着陸、捕虜
 戦:ドーリットル空襲ミッションからは生還したが、軍歴中別のミッションにて戦死または事故死
 失:脱出または不時着時に死亡
 捕:日本軍の捕虜となり、太平洋戦争終結で解放
 処:日本軍の捕虜となり、裁判にかけられ処刑
 病:日本軍の捕虜となり、病死


Dの機長であるジョーンズ中尉は、東京空襲の後北アフリカ戦線に参戦、撃墜されドイツ軍の捕虜となった。
ドイツ空軍第V捕虜収容所に収容され脱走のトンネル堀りに参加したが、結局終戦間際に解放された。



以下、ドーリットル空襲後の軍歴で戦死・事故死したクルー:

@のレオナルド軍曹
ドーリットル空襲の後一旦米国に戻り、その後英国を経て北アフリカ戦線配属、敵機の攻撃により戦死した。


Aのミラー少尉
ドーリットル空襲の後北アフリカ戦線に転戦、爆撃ミッション中に負傷し、それが元で死亡。


Bのグレイ中尉
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に残り、インド上空で戦死。


Bのマンク少尉
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に1943年6月まで残り、その後終戦まで米本国勤務。朝鮮戦争では日本と韓国に駐留。その後本国のネリス空軍基地に配属されラスベガス近郊でT-33練習機の墜落事故で死亡。


Cのヤングブラッド少尉
ドーリットル空襲後は本国勤務。1949年に航空機事故で死亡。


DのN:マッグルー少尉
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に残り、1942年6月にビルマ(現ミャンマー)のラシオから帰投途中戦死。。


Dのトゥルーラブ少尉
ドーリットル空襲の後北アフリカ戦線で戦い、1943年4月にイタリア上空で戦死。


Fのクレバー少尉
ドーリットル空襲後本国インディアナ州勤務となり、1942年11月オハイオ州で墜落事故により死亡。


Iのラーキン軍曹
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に残り、半年後にインドで乗機が墜落して死亡。


Jのレディ少尉
ドーリットル空襲後本国勤務となり、1942年9月アーカンソー州で航空機事故により死亡。


Jのガードナー軍曹
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に残り、1942年6月にビルマ(現ミャンマー)のラシオから帰投途中戦死。


Kのドゥクエッテ軍曹
ドーリットル空襲の後は中国・ビルマ・インド戦線に残り、1942年6月にビルマ(現ミャンマー)のラシオから帰投途中戦死。


Mのベイン軍曹
ドーリットル空襲の後北アフリカ戦線で戦い、1943年7月にイタリアのローマ爆撃から帰投途中上空で乗機がティレニア海に墜落し死亡。


【尾久空襲】
フーバー中尉の40-2292は隊長機に次いで2番目の離陸。この時海が荒れており波をかぶった飛行甲板は大きく揺れ、飛行機は半ば空中に投げ出されあわや失速であったが何とかリカバリーした。
日本本土上空まで、先に離陸したドーリットル隊長機の後を追い、その後別れた。
目標と思しき場所で、予定の高度1500フィート(450m)よりも低い900フィート(270m)から爆弾と焼夷弾を連続して投下、爆発による破片が飛行機よりも高く舞い上がった。
爆撃照準は工場(旭電化工業:現ADECA) と 火力発電所(鬼怒川水力電気株式会社) 35 45 06 N 139 46 36 E とに合わせたが、オーバーシュートする形で尾久の住宅街 35 45 09 N 139 46 16 E、35 45 06 N 139 46 09 E、35 45 07 N 139 46 08 E に落下、死亡10人 重症34人 軽傷14人 全焼43戸 全壊9戸 半焼1戸 半壊13戸の被害が出た。
隊長機の次に離陸したフーバー中尉機であったが、実際に爆弾投下をしたのはこちら尾久の方が早く、これが歴史上日本々土の初空襲となった。


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写真左の緑地が鬼怒川水力電気株式会社の発電所があった場所。現在は都立尾久の原公園になっている。
その右(浄水場)から高いビルにかけての場所に旭電化工業(現:ADEKA)の工場があった。
この高いビルがADEKAの本社で、その奥は同社の研究所。
画面左、高圧線鉄塔の左隣に赤白の鉄塔が見えるが、この鉄塔(東京電力の通信用)の近くには代替目標の千住火力発電所があった。
隅田川を渡る日暮里舎人ライナーより撮影。


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上の写真よりも少し南(日暮里寄り)での撮影。爆弾投下タイミングが遅すぎて発電所や工場に命中せず、横断歩道のあるT字路交差点近辺に最初の爆弾が投下された。

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2発目が落下した場所は現在幼稚園となっており、初空襲の説明版が立つ。また、3発目はこのすぐ近く(画面奥)の住宅街に落ちた。焼夷弾もこの付近一帯にばらまかれたという。

当初の目標は赤羽の陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(現陸上自衛隊十条駐屯地まわり) 35 45 19 N 139 43 34 E だったが、実際にはそのかなり(4q)東を爆撃したことになる。しかし、乗員は予定の目標を爆撃したと信じ、戦闘報告に「主要駅及び皇居の北に位置する川の近くの工場・火薬庫を爆撃」と記している。
また、爆撃地点の更に東2qには代替目標の千住火力発電所(いわゆるお化け煙突) 35 45 12 N 139 47 20 E があった。
その後中国に到達、水田に胴体着陸した。


彫刻家で詩人の高村光太郎は、戦争中戦意高揚の誌を多数発表しているが、1942年4月20日には「帝都初空襲」を発表している。
春さきにつづく大風がぱったり止んで/麗かな晩春初夏の晴れ渡った土曜日の午後、/開闢以来初めての空襲といふものが/東京の空に實演された。
いきなり高射砲の音がぽんぽん聞えて/學校のサイレンが頭の上で大きく鳴った。
用意の身支度をして部署につく。/隣の人が井戸の水を四斗樽に張ってくれる。
東北方の空に火事らしい煙があがる。/うしろの方で又ぽんぽんと音がする。/女性群のもんぺが揃って/いつでもいらつしやいと待つてゐる。
日はうらうらと中天に高く、/水を含んだ青い空にプロペラがこだまする。
張りきつたやうな又のんきなやうな、/ほんとのやうな又うそのやうな、/そのくせたる眼前の事實。
千駄木林町の高臺に時間は平らかに流れ、/やがて解除のサイレンが膨がるやうに鳴る。
畏きあたりの御安泰をラジオが告げ、/御苦労さまといつて/夕餉の支度にみんなもかへる。


千駄木林町にあった高村光太郎の邸宅 35 43 42 N 139 45 36 E から見て尾久は北北東に位置するので、「東北方の空に火事らしい煙」は尾久での火災を見たものと思われる。

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本来の爆撃目標だった陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠。主に小銃の弾薬を製造していた。
いくつかの建物が保存されている。写真は変圧所の一部とのことで、上部に見える白の点々は碍子。
35 45 26 N 139 43 42 E


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旧陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠の多くの部分は陸上自衛隊十条駐屯地となっている。
駐屯地の正門にも古い煉瓦が使われている。35 45 29 N 139 43 36 E
警備兵が持つのは旧式の64式7.62mm小銃で、弾倉が抜いてあるとか、備品表示のテプラが貼ってあるとか微笑ましい。平和な国だ。
新型コロナ対策のマスク位は迷彩模様のを着用してほしかった。


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陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠の倉庫の一つは改築されて図書館に転用されている。 35 45 23 N 139 43 44 E

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内部は大幅に改築されているが、煉瓦部も残されている。

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本部事務所だった建物。戦後GHQに接収され、後に米陸軍キャンプ王子となったが返還され、現在は北区文化センター。中にも入れる。
35 45 11 N 139 43 38 E


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住宅地に残る衛兵詰め所。 35 45 06 N 139 43 39 E

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当初目標の一つ、千住火力発電所は1926年稼働、トーリットル空襲では爆撃目標の一つだったが結局戦争期間中被害を受けることなく、1963年まで稼働していた。「お化け煙突」が有名で煙突の一部が解体後滑り台として活用され、現在はモニュメントになっている。写真右下は4本の煙突のオブジェ。

【早稲田空襲】
ドーリットル中佐機40-2344は攻撃隊長として0720、一番最初に離陸。
離艦後、コンパス修正と進路確認の為艦隊の上を周回した後、2番目に離陸したフーバー中尉機と共に東京に向かった。予定のコースよりもかなり北で本土上空に1200頃到達、水戸の北を回ってから南下して東京に向かったが日本の防空監視所の多くは味方機と誤認したため地上では防空体制を取るのが遅れた。
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ドーリットル中佐機は茨城県の常盤海岸を超えて日本本土上空に侵入した。
ソ連に向かったヨーク大尉機の他、東京、神奈川を爆撃した他の機体の多くもここから本土上空に入った。


ドーリットル中佐機はできるだけ超低空を飛行しながら、周囲では日本軍の軍用機が上空、地上とも多数見えたが殆どは小さな複葉機だった。戦闘機9機にも遭遇したが振り切った。
高度を1200フィート(360m)に上げて進路を南西に変更、1230に木造建築が並ぶ場所に焼夷弾を全弾投下、これらは当初目標であった陸軍造兵廠 東京工廠 35 42 15 N 139 45 03 E (現在の後楽園)よりも西に3q程ずれている。
実際に焼夷弾が投下されたのは早稲田鶴巻から大久保にかけてであり、早稲田中学では学童が亡くなっている。
その後再び超低空飛行で離脱し、洋上に出た。この間対空砲火を多数受けたが至近弾は殆ど無かった。
フーバー中尉機と再合流した後中国に入ったが天候が悪化、視界のきかない中2320にパラシュート脱出した。この時機載カメラのフィルムを持ち出したが、落下傘が開いたときに落としてしまったという。


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ドーリットル機の投下した焼夷弾で消失した早稲田キネマのあった場所。現在はマンションになっている。35 42 32 N 139 43 40 E

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岡崎病院 35 42 28 N 139 43 27 E は空襲を受けて患者を避難させ、建物は消失したものの患者・職員は全員無事だったという。

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早稲田中学校・高等学校の文化祭にて。空襲当時は早稲田中学校で、土曜日午後の特別授業を待つ学童が校庭で待機していた所、北西よりドーリットル機が近づき、焼夷弾を投下、その大部分は学校敷地に落下し、特に校庭には90本が落ちたという。校庭は現在は人工芝だが当時南(左)半分はアスファルト舗装であり、そこに焼夷弾が突き刺さり炎を吹き上げたという。

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早稲田中学の校庭にいた生徒は一斉に非難したが、小島茂さんに焼夷弾筒の破片が突き刺さり亡くなっている。
写真は慰霊の碑。 35 42 23 N 139 43 10 E


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早稲田中学校・高等学校の校史資料室に、ドーリットル空襲で投下された焼夷弾の部品が保管されている。
尚、隣の焼夷弾本体は後の空襲でB-29が投下したもの(ドーリットル空襲時よりも一回り大きい)の模様。

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爆撃を受けた一帯のすぐ東には陸軍戸山学校があった。 35 42 14 N 139 42 50 E

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ドーリットル隊長機の投下した焼夷弾により一帯に家屋消失の被害が出た東京都新宿区の大久保2丁目。当時は淀橋区西大久保だった。
ドーリットル空襲から3年後の1945年4月13日〜14日にかけての城北大空襲により、より広い範囲が焼け野原となり、今の建物は全て戦後のものだが道路区画は殆ど変わっていない。
35 42 10 N 139 42 22 E

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ドーリットル機の本来の目標であった陸軍造兵廠 東京工廠があったことを記念する碑。
東京ドーム横、小石川後楽園の敷地内にあるが、造兵廠自体は庭園を囲むように周囲に設けられていた
元々は水戸徳川家の邸宅と庭園で、明治時代に政府が兵器工場にしたが関東大震災で被災した為九州の小倉に移転し、庭園ドーリットル空襲当時、殆どの兵器工場としての機能は移転済みだった。
35 42 15 N 139 45 03 E

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小石川後楽園内に残る、製造設備の一部といわれるもの。
35 42 20 N 139 45 01 E

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旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。東京ドームホテル建設の際出土し展示されている。
35 42 15 N 139 45 12 E

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羽田を離陸し米国シカゴに向かう旅客機から見下ろした東京。クリックで拡大。
A:目標一つであった千住火力発電所。結局爆撃していない。
B:フーバー中尉が狙ったと思われる旭電化工業(現ADECA)の工場と、鬼怒川水力電気株式会社の火力発電所があった場所。
C:フーバー中尉が爆弾と焼夷弾を落とした辺り。
D:フーバー中尉機の本来の第一目標だった陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠
E:ドーリットル中佐機の本来の第一目標だった陸軍造兵廠 東京工廠
F:ドーリットル中佐機が焼夷弾をバラまいた早稲田・大久保



【川口、金町駅空襲と水元国民学校銃撃】
グレイ中尉の40-2270は3番目に離陸、先行するトーリットル中佐機、フーバー中尉機が茨城県の海岸上空から本土に侵入したのに比べかなり南の千葉県九十九里浜から本土侵入、荒川沿いに東京を通過し埼玉に入ったところで川口市弥平町の日本デイゼル工業 (後の日産ディーゼル梶A現在はUDトラックス) 35 48 06 N 139 45 14 E に爆弾を投下、大きく左旋回して兵器庫(東京陸軍兵器補給廠、赤羽火薬庫) 35 46 44 N 139 42 20 E 近辺を狙った焼夷弾は外れて赤羽駅近くの稲付町にある陸軍被服廠寄宿舎・三楽荘アパート 35 46 33 N 139 43 25 E 付近周辺にばらまかれた。
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赤羽にあった東京陸軍兵器補給廠の一帯は戦後大規模な団地となり当時を偲ばせるものは少ない。
公団の団地「ヌーヴェル赤羽台」建替えの際に掘り出された陸軍被服倉庫の煉瓦基礎を再利用したベンチが2か所に設置されている。
35 46 36 N 139 42 54 E



しばらく東進した機体は南東に進路を変えた。埼玉県潮止村にある日本煉瓦製造株式会社 35 47 33 N 139 51 22 E を狙ったと思われる爆弾は、手前(工場北)約100mの畑に落ちて爆発したが、穴をあけただけで被害は無かった様だ。
陸軍の報告書では汐留と記載されているが、地元の目撃談があり写真も残っており潮止で間違いないだろう。


その南東、水田地帯の中にぽつんと立つ水元国民学校(現葛飾区立水元小学校) 35 47 14 N 139 51 51 Eを機銃掃射、運悪く弾に当たり学童の石出巳之助さんが死亡。

次いで金町駅 35 46 11 N 139 52 14 E 付近に爆弾を投下した。

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銃撃により学童が死亡した水元国民学校(現葛飾区立水元小学校) 35 47 14 N 139 51 51 E。
1925年竣工で、1982年まで教室として使われた旧校舎が保存されている。


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水元小学校の壁に残されていた弾痕。切り出して額に入れて葛飾区郷土と天文の博物館にて保存展示されている。
板幅から推測すると0.5インチ(12.7mm)弾なので上部銃座から発射されたものだろう。

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B-25から発射された機銃弾に当たり享年14歳で亡くなってしまった学童、石出巳之助さんの墓。
それほどありふれた苗字ではないがこの辺りに多い名前なのか石出家の墓は周囲にもたくさんある。
墓石の左側面には戒名「悲運銃撃善士」の墓、及び命日である昭和17年4月18日と彫られている。
水元小学校から北西に800m程離れた法林寺内にある。35 47 21 N 139 51 22 E

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常磐線の金町駅ホームから西方向を撮影。
記録写真と照合すると、当時画面右奥近辺にポイント小屋があり、その至近、ポイントの左付近に爆弾が落ちたものと思われる。
爆弾の爆発により直径12m、深さ3mの穴が出来たが、ポイント小屋、電柱や近くにあった変電施設(画面右端外)は無事だった。
35 46 08 N 139 51 58 E (爆弾推定爆発場所)


以上は日本側の被害調査と目撃によるものだが、当機の戦闘報告では鉄工所を爆撃(命中を目視できず)、ガス会社を爆撃(直撃を確認)、3発目の爆弾は化学工場に投下し火災が発生、最後の焼夷弾は工業地帯一帯に広がったが実際に火災が発生したか確認できる前に飛び去り、離脱中に兵舎と人員に銃撃、とされておりかなりの相違がある。
アメリカ側の攻撃報告の信頼性が低いのは、初めて飛ぶ情報の少ない地を攻撃する以上は致し方なく、日本側も被害調査はともかく、飛行ルートなどはかならずしも信用できないのではないか。
その後、グレイ中尉機は中国本土でパラシュート降下したが、グレイ中尉、マンク少尉、ジョーンズ軍曹は負傷し、ファクトァ伍長は険しい地形への着地に失敗したのか死亡した。



【香取飛行場(建設中)空襲】
グリーニング大尉の40-2249は11番目に離陸し、横浜を目標としていた。
予定コースよりもかなり北にずれて日本本土上空に入り、そのまま低空飛行をつづけた。この時、近くの水戸陸軍飛行学校 36 22 30 N 140 35 25 E から九七式戦闘機と、機銃のテスト評価中だった試作機のキ61(翌年制式採用された三式戦闘機「飛燕」の試作2,3号機)が迎撃に上がった。
速度の遅い九七式戦闘機はすぐに振り切られたが、キ61二機の内先に離陸した梅川准尉機はグリーニング機を捉えて命中弾を与えた。しかし、訓練用の徹甲弾の為ダメージを与えられず、元々燃料が少ないこともあり敵機が九十九里浜沖に出たところで深追いを止めて引き返した。もう一機は荒蒔少佐がマ弾(炸裂弾)の準備搭載を待って離陸したが会敵出来なかったどころか、パトロール中の海軍の零戦3機に追われ、翼の日の丸が良く見えるようバンクして同士討ちを避けた。


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岐阜かがみはら航空宇宙博物館にて展示されている川崎重工の三式飛燕。展示機はII型の試作機で1944年製造。

米側の戦闘報告では新型戦闘機4機に迎撃され、内1機は旋回機銃で応戦した所飛行が不安定になり離脱したので恐らく撃墜、もう一機も火を噴き、やがてB-25の旋回機銃が弾切れとなった時、残り2機の戦闘機から軽傷を受けたとしている。しかし、日本側ではB-25の応戦により迎撃機が被弾したという記録はない。
更に洋上に出る手前で、よくカモフラージュされた大きな製油所と倉庫に向け高度600フィート(180m)から焼夷弾を全弾投下、80q以上離れたところからも煙が高く立ち上るのが見えたとしている。


日本側の戦闘機が撃墜された記録はなく、また、実際に焼夷弾が投下されたのは当時建設中の海軍香取航空基地 35 43 46 N 140 36 40 E であり、工員宿舎などが焼けたという。
洋上に出たグリーニング大尉機は東京湾入り口近くで警備艇3隻に(おそらく機種の機銃で)機銃攻撃を加え内1隻を炎上させたと報告している。
中国上空でパラシュート降下、レディ少尉が膝蓋骨骨折と頭部切創、ガードナー軍曹が両足首を軽く捻挫した他は問題なく、全員が生還した。


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グリーニング大尉機が攻撃した、建設中の海軍香取航空基地は1938年に計画、1940年に着工し、1942年に完成、1943年運用開始された。
X字形に交差する2本の滑走路を持っていた。
周辺は工業団地になっているが、南西〜北東に伸びる滑走路の一部は結局当時のまま残されている。
35 43 43 N 140 36 37 E
また、X字形滑走路の痕跡は航空写真などで現在もはっきりと認識できる。
北西〜南東に伸びる滑走路は日清紡ブレーキのテストコースになっている。

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昭和51年(1976年)建立の慰霊碑。香取飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり。
海軍香取航空基地には第一航空艦隊が配備され訓練に勤しみ、その後マリアナに出撃した。
35 43 47 N 140 36 19 E

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海軍香取航空基地は戦後民間に払い下げられ周囲は農地に戻り、滑走路周りは工業団地となった為、海上自衛隊とは関係無いのだが、海軍つながりで海上自衛隊のSNJ-5練習機 6198機 Bu.No.84838 (元々は米陸軍航空隊のAT-6D 42-84838) 米軍より海上自衛隊に供与され第三術科学校で使われた。
35 43 47 N 140 36 22 E

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飛行場跡地の北側に残る有蓋掩体壕。農耕期には水田の中に佇むことになる。手前の豪は空っぽだが、奥のものは農機具倉庫として使われている様だ。
元々航空基地跡を含むこの一帯は椿海という湖で、江戸時代の17世紀に干拓され農地となり、そこに飛行場が作られた。
35 44 13 N 140 36 13 E

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こちらは飛行場南東に位置する、神社近くに残る掩体壕。先の写真のものよりも大型で双発機用か。現在は農機具資材置き場になっている。
35 43 31 N 140 37 12 E

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これも香取航空基地関連の遺構と思われるが、飛行場から離れており、また、形状寸法的に航空機は入らないので他の装備品を格納していたのだろうか。
35 43 02 N 140 34 59 E


【川崎、横浜空襲】

ジョーンズ中尉機(40-2283)、ローソン中尉機(40-2261)、ホールマーク中尉機(40-2298)は川崎に至るまで同じ行動を取った。
この編隊は東京を目標としていたが、結局いずれも川崎の工業地帯を中心に攻撃することとなった。
当人たちは目標を外れている認識はあったが、では具体的にどこを攻撃したのかは認識していない。
南から侵入したジョーンズ機は、南渡田運河北側の日本鋼管(現JFEスチール)に1発目を投下、右旋回して東から攻撃、2,3発目の爆弾は今度は南渡田運河南側にある扇町の日本鋼管と、運河北側の横山工業所に落下し大きな被害を出した。
一方焼夷弾は、2,3発目の爆弾の合間に投下されたが被害は無かった。
戦闘報告では燃料タンク、発電所、大きな工場、ごちゃごちゃした地域を攻撃したとしている。
中国でパラシュート降下。


ジョーンズ中尉機が一発目の爆弾を投下するのと同時にローソン中尉は1,2発目の爆弾を投下し、ここで編隊を解いた。
ローソン中尉機が投下した爆弾は、南渡田運河と、その北側の日本鋼管に落ちたが特に被害はなかった。
右旋回して戻ってきたローソン中尉機は3発目を同じく日本鋼管に投下したがこちらも被害なし。
そのまま南西に進むと最後の焼夷弾を日本鋼管鶴見造船所に投下、こちらも大した損害を与えなかった。
中国に到達すると神戸を攻撃したスミス中尉機の近くに不時着、ローソン中尉を含む4名が重軽傷を負っていたが、合流できたスミス機のクルーの中には運よく攻撃隊唯一人の航空医官、ホワイト中尉がおり介護を受けることができた。
機長のローソン中尉は脚の怪我が酷く片足を切断している。本国帰国後、自身の体験を 30 Seconds over Tokyo という雑誌記事で発表(後に書籍化)、同名の映画(邦題は東京上空30秒)にもなっている。
"over Tokyo"って、東京上空は飛んでないから...



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ジョーンズ中尉機、ローソン中尉機に加え、ボワー中尉機も爆撃した川崎の扇町(水路の向こう側。手前は戦後の埋立地、扇島)。扇島を貫く首都高湾岸線を走る、横浜→木更津行きバスより撮影。

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太平洋戦争開戦前に、日本から贈られたメダルをドーリットル空襲参加機に搭載する爆弾の一つに結び付けたというエピソードや有名で、映画パールハーバーでも紹介されている。
記録写真、記録映画によるとメダルは4つ(3つ?)が針金で500ポンド爆弾の尾部フィンに括りつけられており、目立つ大きなメダルは間違いなく皇紀2600年祝典記念賞であることがわかる。これは式典参加者全員に配られたもので、1939年6月〜1941年8月まで日本の米国大使館で海軍航空の駐在武官を務めたユーリカ海軍大尉(最終階級は大佐)が持ち帰ったものと思われる。
写真は私の義理の祖父の形見。ケース入りで、メダルを包む紙には記章着用の心得が書かれている(色々と細かくうるさい)。
多数が配られたのか現在も記念コイン店やオークションなどで安価で(1000〜1万円程度)入手出来る様だ。

他に小さなメダルが見られるがこれは恐らく世界一周を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊のグレート・ホワイト・フリートが、1908年に横浜に寄港した際に渡されたものと思われ、日章旗と星条旗が友好の証に彫られている。メダルをもらった乗員もしくはその関係者が、日米開戦に伴いメダルを日本に返すよう政府に託し、海軍長官がハワイを出港する空母エンタープライズに運んでもらったものという。
これらのメダルはローソン中尉機が搭載した爆弾に結び付けられており、川崎に投下された。

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ローソン中尉機が焼夷弾を落とした日本鋼管鶴見造船所。現在はジャパンマリンユナイテッドユナイテッド(株)。

ホールマーク中尉はジョーンズ中尉機、ローソン中尉機と異なり、川崎で北上すると、多摩川上空で西に右旋回し、川崎工業地帯の最北端、当時の東京府との県/府境近くを攻撃した。
最初の爆弾は日本製鉄富士製鋼所(現在は川崎大師自動車安全祈祷殿)前の道路に落下、付近の住宅建物に被害が出た。


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写真は日本製鉄富士製鋼所のあった敷地。敷地前に解説版がある。富士製鋼株式会社発祥の地 大正6年11月30日 富士製鋼株式会社は製鋼鋳鍛鋼と諸機械の製造を目的としてこの地に誕生した。その後 日本製鐵 富士製鐵 さらには新日本製鐵 日鐵建材 日鐵建材工業と幾多の変遷とともに成長を遂げてやまない 多くの先達が波欄に満ちた星霜を不退転の意志を漲らせて この地この工場を護り発展のために日夜心血を注いた いま時と空間を超えて川崎にせい刻された伝統と技術は変わることなく脈々として生き続ける ここに先人たちの刻苦精励の跡を偲び功績を顕彰して記念碑を建て 後世に残すものである 昭和57年10月19日 新日本製鐵株式会社 取締役名誉会長 永野 重雄


そのまま河口方面に飛行し、河口近くの日本火工(現・日本冶金工業)の建物を破壊。一旦洋上に出ると横浜港に向かった。
恐らく湾港施設を狙って投下した最後の爆弾は、海中に落ち被害をもたらすことはなかった。
その後陸上を飛行した際行った機銃掃射により打越で幼稚園児の中村由郎さん5歳が死亡(記録を読むと跳弾か高射砲弾の破片で死亡した様にも見受けられるが)、堀之内町一帯にばらまかれた焼夷弾では民家に被害が出た。
中国に到達すると海岸に不時着、爆撃手と航空機関士が死亡し、残り3名は日本軍の捕虜となった。
民間人殺傷を理由に死刑判決となり機長のホールマーク中尉は銃殺、残り2名は減刑されたが副機長も病死し、ナビゲータのニールセン少尉のみが第二次世界大戦を生き延びた。


ボワー中尉機は先のジョーンズ中尉機、ローソン中尉機が爆撃済の地点至近を約1時間後に爆撃した。
最初の爆弾は川崎日本油化工場に投下、人的被害はなく施設も大きな破壊を免れた。次いで2,3発目の爆弾を昭和電工に投下、こちらも被害は殆ど無かった。更に焼夷弾は昭和電工と、隣接する日本鋼管にばらまかれたがこちらも被害は少なかった。
ボワー中尉の本来の目標は横浜にある小倉石油( 35 29 10 N 139 39 40 E 1941年に新日本石油と合併済、現ENEOS)と、三菱重工業渇。浜船渠 35 27 12 N 139 37 55 E をグリーニング大尉機共々攻撃予定だったが、結局阻塞気球に阻まれて到達していない。
横浜ではなく川崎を爆撃したボワー中尉機は、中国にたどり着きクルーはパラシュート降下した。


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ボワー中尉の本来の目標であった、横浜の小倉石油。現在はENEOSの製油所。

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ボワー中尉の本来の攻撃目標の一つ、三菱重工業渇。浜船渠の第1ドックは保存され、現在は日本丸が展示されている。横浜ランドマークタワー69階展望台からの撮影。

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こちらは水を抜いた状態で保存されている、同じく三菱重工業渇。浜船渠の第2ドック。

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川崎、横浜空襲の爆撃地点。アメリカに出張に行く時のエコノミー貧乏席から撮影。クリックで拡大。
水色矢印はグリーニング大尉機及びボワー中尉機が本来目標としていた横浜市のターゲットだが、阻塞気球が上がっていたりして結局爆撃できなかった場所。
左の青矢印が三菱重工業渇。浜船渠、右の青矢印は小倉石油。
ピンクの四角が川崎の扇島で、ジョーンズ中尉機、ローソン中尉機が同時刻に、1時間遅れてボワー中尉機も攻撃した。
黄色矢印はホールマーク中尉機の攻撃地点で、川崎北端と横浜の離れた個所を攻撃している。
右から2番目の黄色矢印が最初に爆弾を投下した日本製鉄富士製鋼所、一番右の黄色矢印が2番目の爆弾投下となる日本火工。
一旦洋上に出ると横浜港に向かい、3発目の爆弾左から2つ目の黄矢印付近で投下したがこれは海中に落下、
最後に焼夷弾を一番右の黄色矢印、堀之内町にばらまいた。また、一番左と左から2つ目の矢印の間で地上に機銃掃射を加えている。



【品川空襲】
ワトソン大尉機40-2303は東京湾から大井町に侵入、全弾を一気に投下し、マツダ工業の電球工場 (その後東芝病院を経て現在は品川病院) 35 36 11 N 139 44 06 E と山中、瀧王子に爆弾3発と焼夷弾が落ちた(内爆弾一発は不発)。
建造物や設備への被害は少ないものの人的損害は甚大であった。
中国上空で乗員は全員パラシュートで脱出した。


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ワトソン機が投下した1,2発目の爆弾が命中したマツダ工業の敷地は現在品川病院となっている。

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続いて焼夷弾を落とした近辺。35 35 59 N 139 43 46 E
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同じく焼夷弾が落ちたあたり。この近辺は細い道が迷路のように入り組み、スマホの地図アプリが無いと、とてもではないが歩き回れない。35 36 00 N 139 43 44 E

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最後の爆弾は滝王子に落ちた。この爆弾は不発で、民家を突き抜けて尾部を残して地中深く5m近く埋まり込んだ。
消防の記録で当時の住所(地番)が判るので、対照表を駆使しておおよその現在の場所が判る。奥のマンションの立つあたり。35 35 57 N 139 43 37 E

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本来の目標の一つだった、日本特殊鋼(株)(現在は大同特殊鋼(株)に合併)の大規模な工場があった場所。公営住宅、公園、学校などになっており工場があった形跡は判らない。
35 34 35 N 139 44 27 E

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同様に大井近辺で本来の爆撃目標だった東京瓦斯電気工業。同社はいすゞ自動車の前身であり、いすゞの本社が元工場敷地にある(ただしいすゞ本社は2022年に神奈川県藤沢市に移転予定)。写真はいすゞ自動車本社の入っている商業施設ベルポート大森で日本にしては珍しい解放感のある内部デザイン。
35 35 18 N 139 43 54 E

先行するワトソン大尉と別ルートで本土に入ったジョイス中尉機40-2250は、結局ワトソン大尉機が爆撃した至近を攻撃した。
東品川にある東亞製作所に爆弾2発を投下、焼夷弾1発を大井の鉄道車工場(現在の両基地)及びその東側一帯(現在の南品川6丁目)に落とし、最後の爆弾1発は鉄道車両基地西の被服工場近辺の住宅に落ちた。
中国上空で乗員は全員パラシュートで脱出した。

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ジョイス機が最初の爆弾2発を落とした、東亞製作所のあった場所。35 36 37 N 139 45 01 E
現在はハートンホテルになっている。
1発目は堤防近辺に落ちて被害は無かったが、2発目は多数の死者を出した。

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天妙国寺 35 36 44 N 139 44 35 E には、株式会社東亞製作所(現株式会社HOWA)に落ちた爆弾により犠牲なった従業員16名が祀られている。
ホームページによるとボルト・ナットの商社、株式会社齋藤源作商店が1921年に創業(殉職の碑の背面にも齋藤源作社長の名前がある)、航空機用ボルト、ナット類の生産拡大で株式会社東亜製作所の工場を品川区東品川に移転拡張とあり、爆撃を受けたのはここと思われる。場所は鮫洲の北隣の、当時の東品川5丁目(現4丁目?)と思われるが正確には確認できなかった。
正面に謹書されている 陸軍中将 長谷川 治良 は当時陸軍兵器本部の所属。

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ジョイス機は続いて焼夷弾を投下した。焼夷弾落下が記録されている南品川の一角。35 36 42 N 139 44 21 E

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同じく焼夷弾が落とされた南品川の住宅地。35 36 42 N 139 44 14 E

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鉄道省(後の国鉄、JR)の大井工場にも焼夷弾が36発落ちた記録がある。
現在は工場大井の車両基地で、環状線である山手線の車両が待機する。
写真中央、山手線車両基地の23組のレールが2組に合流する辺りに当時は食堂と木工工場があった。35 36 42 N 139 44 04 E
そこに焼夷弾が落ちたがすぐに消し止められた。写真右端の煉瓦の建物は1914年建造の元変電所。
手前の線路は東海道線と京浜東北線。撮影ポイント背後の南品川から写真中央にかけて焼夷弾を投下した後、鉄道省大井工場を写真右から左方向に飛び越し、被服工場近辺に最後の爆弾を落とした。

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ジョイス機の投下した最後の爆弾は、鉄道省の被服工場隣の民家に落ちた。 陸軍の記録では北隣となっているが、消防の記録に記載された住所からは南西隣の様だ。多分、住宅の集まっている後者だと思うのだが。
被服工場跡地は公園になっており、現在地下放水の為の下水管工事を行っている。画面左あたりの民家に爆弾が落ちたのではないか。
35 36 46 N 139 43 52 E


西那須野駅、阿賀野川鉄橋空襲】
ヨーク大尉の40-2242は燃料消費が激しく、爆撃目標である東京到達は無理であると判断し、茨城県の海岸を通過して日本本土上空に入ってから北西に進路を変更、(ロシアには絶対に行くなと指示されていたにも関わらず)ソ連を目指した。
クルーが未だソ連に拘束されている内にドーリットルがまとめた戦闘報告では、東京を爆撃したとあるが、実際には東京は爆撃していない。
途中、目ぼしい目標を探しながら飛行し、西那須野駅を狙って爆弾を投下したが手前の田園で爆発した。
この時の様子は尾部機搭スチールカメラ(おそらく)で鮮明に撮影されており、3枚の写真が米公文書館に保存されている。
(機体は結局ソ連が確保し返還されていないがどのようにして写真が米国に渡ったのだろう?阿賀野川の鉄橋攻撃の時の写真は撮っていないのか?など疑問は尽きない)
内一枚には爆弾炸裂が写っており投下された正確な位置 36 52 59.5 N 139 59 17.6 E が判る。
この場所は薩英戦争、明治維新から日露戦争に渡り活躍した大山元帥の旧邸宅 36 52 40 N 139 59 33 E (写真に写っている)や墓 36 53 06 N 139 59 34 E に近く、更に乃木神社 36 53 15 N 140 00 09 E も至近にあることから日本側は計画的な爆撃ではないかと思ったが実際には苦し紛れの目標選択であった。


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西那須野駅を狙ったと思しき爆弾が落ちた場所。当時は畑だった。手前の家近辺。

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爆弾が落とされた場所(画面左)から西那須野駅方向を見る。駅からは150m程ショートしている。

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現在の西那須野駅 当駅始発の東野鉄道が無くなり、貨物の取り扱いが無くなり、線路も減らされて東北新幹線も停まらない単なる地方の駅(失礼)だ。

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爆弾が落ちた地点の700m南西にある大山元帥の旧邸宅。米軍の写真にも周りの森が写っている。

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爆弾投下地点から500m北東には大山元帥の墓所。米軍の写真では墓所自体はフレーム外だが、そこに至る並木道(大山参道、大山公園)が写っている。

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こちらは大山元帥騎馬像。35 41 40 N 139 44 54 E 東京の九段南にあり、空襲とは直接関係ありません。

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更に爆弾投下地点から1.4q程北東に行くと乃木神社がある。 乃木希典はこの奥に別邸も持っていた。


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かつて存在した遠野鉄道は当時、西那須野〜黒羽を結んでおり、西那須野駅の次の停車駅が乃木神社前だった。ホームがモニュメントとして復元されている(実際に駅のあった場所とはずれている。駅はヨーク大尉機が撮影した写真のフレーム外だが線路の一部は確認できる。
36 53 04 N 139 59 56 E



日本海に出る前、新潟の新津では阿賀野川にかかる鉄橋 37 48 37 N 139 09 11 E を狙って残り全弾を投下したがこちらも外れ、実害は無かった。
しかしながら新津も油田 37 44 56 N 139 06 42 E (現在は採掘終了)があることから、日本軍は新津も計画された目標と思った。
ヨーク大尉機はソ連に入り、ウラジオストックの北に着陸した。戦闘報告ではウラジオストックの北40マイルとなっているが、実際に着陸したのは150q程北の 44 26 58 N 132 07 34 E にある飛行場という情報がネットにあるが、裏が取れなかった。
何はともあれこの飛行場、現在は廃墟の様だが航空写真を見ると無蓋掩体壕が多数並んでいて興味深い。
ヨーク大尉はソ連で給油してもらい中国に飛行して他の仲間と合流しようと考えていた様だが、当時ソ連はナチスドイツと戦争状態にある一方で日本とは不可侵条約を結んでいたため、ソ連としては日本を爆撃した米兵を歓迎したり協力したりはできず、飛行機は接収・乗員は捕虜となった。
結局乗員は1年以上拘束されたが、当時ソ連の一部だった トルクメニスタンのアシガバートに移された際、密輸人を買収してペルシャ(現イラン)に入り、テヘランのイギリス領事館に連絡して全員本国に戻ることが出来た。実はこれはNKVD (内務人民委員部)が仕組んだ脱出であることが後に判っている。同じ連合軍である米兵をいつまでも拘束できない、かといって日本の機嫌を損ねて東西二面戦争は無理、という状況でソ連としても扱いに困っていたのだろう。
解放されたヨーク大尉を始めとするクルーはその後陸軍航空隊の情報部参謀による尋問を受けている。
・燃料消費が早かったのはキャブレターが(自分の機だけ)交換されていたからではないか?
・爆弾、焼夷弾は全弾操車場をめがけて投下した。(阿賀野鉄橋付近で焼夷弾が回収されているが?)
・佐渡島が見えて、初めて自分が日本上空のどこを飛んでいたのか判った
・ソ連には当初「アラスカの方から来た」と答えたが、日本本土空襲のニュースが伝わりそれに参加したことを非難された
・飛行機の備品は持ち出せなかった(ということは西那須野駅爆撃の写真はソ連が回収して現像したのか?)
・飛行場の司令官である海ソ連軍大佐とは、機体に給油してもらい中国に向け離陸できる約束を取り付けたが、結局上に相談してクルーが全員拘束されることになった様だ
といった事を話している。
一方、情報部は(元々戦略的な効果はあまり期待していなかった)空襲よりも、ソ連の飛行場の設備規模や、工場の状況に興味津々だった。日本とソ連が戦争になった場合や、更にその先米ソが対立することを見据えての情報収集だったのだろうか。


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他機と完全別行動となったヨーク大尉機。ひたすら山を超え、栃木、福島、新潟と飛行しソ連を目指した。阿賀野川の道路橋からヨーク大尉機が飛んできたと思しき方向を見る。

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恐らく阿賀野川にかかる橋をねらったのだろうが川中、浅瀬や畑に落ちた焼夷弾は何の被害ももたらさなかった。恐らく今でも川の中に焼夷弾が多く沈んでいるのだろう。
左はJR東日本 羽越本線の阿賀野川橋梁で、橋柱はオリジナルだが、トラスは戦後架け替えられている。
右は国道460号の阿賀浦橋。第二次世界大戦時は木造橋だったが、戦後1947年に川の増水で一部が流されたため、全面的に架け替えられている。


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ディーゼル客車キハ110の2両編成が阿賀野川にかかる橋を渡る。新津発新発田行きで電化されてるのに何でディーゼル客車?
トラスは第二次世界大戦当時のオリジナルではなく1960年代に架け替えられている。 一番左(新津寄り)のトラスが他と形が異なるのは、土手上に設けられた道路との踏切で事故があり蒸気機関車と橋が川に落ちた事故の影響。現在は道路が線路をくぐる様になり踏切は解消されている。


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川を渡る部分以外、橋の大半はプレートガーダーになっている。EF510電気機関車が牽引する貨物列車も橋を渡る。

ヨーク機の副操縦士であったロバート"ボブ"エメンス中尉(最終階級大佐)は、1949年になって東京急襲とソ連拘束の体験を本に書き、日本語訳「クレムリンの客」は足達左京氏により1984年に翻訳出版されている。
ヨークのクルーは結局最後までどこを爆撃したか把握できなかったが、エメンスの書には脊梁山脈を超えた後の体験として「山稜と海との間では他の爆弾が使えたのであった。我々は複線の丈夫な鉄橋の上を低空で飛んだ。それは川底に平に架けられているように見えた。」と記述している。
複線は見間違いか、あるいは並行する道路橋(当時は木造)を鉄道橋と見間違えたか?「川底に平に架けられている」はまさしくこの写真の光景である。

【横須賀空襲】
マッケロイ中尉機40-2247は、空母を離艦すると波しぶきがかかるほどの超低空を飛行、1230頃本土が前方に見え、そのまま一旦本土上空に侵した。下界は農地で、人々がこちらに手を振っているのが見えた。侵入コースが北すぎると思い南に進路を変更、し一旦洋上に出て、海岸線沿いに南下した。高度を2000フィートに上げて自分の位置を確認すると東京湾と目標の横須賀が見えた。降下しながら大日本帝国海軍の横須賀鎮守府に南西方向から堂々と侵入した。
この時、副操縦士のクノブロック少尉はカリフォルニア州サクラメントにいる時に購入した私物のカメラを使い、左舷の横須賀市街 米が浜通方面(埋め立てで大分変っている)と、右舷の現在米軍基地北部になっている半島部を撮影した。
更に横須賀離脱後、洋上でも日本の漁船(?)を撮影している。
さて、横須賀軍海軍基地上空高度450mから爆弾焼夷弾を連続投下、更に機銃掃射も行い、戦闘報告では大型クレーン倒壊、乾ドックの空母が傾いたと報告している。また、対空砲火は激しかったものの命中弾は無かった。



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国内線から撮影した横須賀。黄色がマッケロイ中尉機の飛行ルート(左から右へ)、赤矢印が第四ドック。

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停泊船の船首後ろが第四ドック 35 17 21 N 139 39 37 E で、当時潜水母艦大鯨(たいげい)が空母龍鳳(りゅうほう)に改装中で、船体に穴が空いたことから修理に4か月を要したという。

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マッケロイ中尉が爆撃に成功した第四ドックが見える。 手前は軍港クルーズの船。観光客の殆どの皆さんドックには興味なく(当たり前か)、DDH-183 護衛艦(←ヘリ空母だろ)「いずも」に夢中。

横須賀を離脱したマッケロイ中尉機は中国上空でパラシュート降下し、この時ウィリアムス軍曹が膝を捻ったものの全員生還した。


【任務放棄】
ホルストロム中尉機40-2282は離艦前から回転銃座が故障していた。
爆撃目標の東京に南からアプローチすることにした。これは先行する3機のB-25を迎え撃つため日本の迎撃機が東京北部に集まっているのではないかとの判断だった。
しかし、結局相模湾上空には入ったものの、江の島南西10q程度の沖合 35 13 N 139 25 E 辺りに75フィート(23m)の超低空のまま爆弾と焼夷弾を全弾投棄、結局本土上空には入らずに中国に向かい、パラシュート脱出した。
戦闘報告では爆弾投棄の理由として激しい日本軍機の迎撃を受けたから、としているが、軍の記録では相当するのもがない。
ただし、1942年4月22日の朝日新聞には、キー61試作機でグリーニング大尉機を迎撃した陸軍航空審査部の梅川准尉(部隊は伏字、階級は紙面では少尉だが?)の談と共に、以下の迎撃が哨戒されている:


京浜上空にて哨戒待機中午後1時過ぎ高度千メートル以下にて西進中の米機ノース・アメリカンB二五型とおぼしき敵双発機一機を発見、品川沖二キロ付近より我編隊は猛然これに攻撃を開始す、我攻撃に周草狼狽せる敵機は高度を低下す、この時城南地区より高射砲の射撃を受け、敵機は弾幕をくぐりつつ更に超低空にて退避せんと西北地区より相模方面に回避す、敵は小癪にも機銃を以て応戦しつつ高度百メートル以下にて○○川に沿い海上に脱出、我急迫を恐れ残爆弾数発を海上に捨てて上昇を開始す。
この機を逸せず攻撃に移り伊豆大島近き海上、高度千五百メートルにて右発動機に黒煙の上がるを認む、此頃より敵機は機首をカクンと下げつつ急速に降下しつつありしが間もなく前方にありし断雲中に没して遠く逃走し得ざることは明瞭にして海中に墜落したものと判断さる


ホルストロム機は回転銃座が故障しているのに当該期は機銃で応戦などいくつか矛盾点はあるけど、洋上に爆弾焼夷弾を投棄しているのは彼の機だけなので、こ記事がでっち上げでなければホルストロム機に対する迎撃であろう。
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相模湾上空に入ったものの、爆弾は江の島の沖で投棄された。写真右の、本土に近い島が江の島。本土とは橋で結ばれている。「日本のモンサンミッシェル」。羽田から大分に向かう国内線から撮影。

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ホルストロム中尉機の落とした爆弾と焼夷弾は今も相模湾の海底に眠っているのだろう。
35 17 14 N 139 34 46 E (撮影場所)


【名古屋空襲】
ヒルガー少佐機40-2297は途中までスミス中尉機と行動を共にし、渥美半島沖で右に旋回、半島を横切り三河湾を北上した。この時半島突端、伊良湖岬の監視所に発見通報されている。
名古屋城に向け左旋回し、城に隣接する陸軍施設に焼夷弾2発を投下し、倉庫とその隣の陸軍病院(現名古屋医療センター 35 11 03 N 136 54 21 E)に物的被害が出た。
3発目の焼夷弾は名古屋駅機関庫 35 09 43 N 136 52 59 E 及び近隣の住居に落下、こちらも物的被害のみ。
そして最後の焼夷弾は名古屋陸軍造兵廠 35 08 03 N 136 54 46 E に投下し、建物に損害を与えた。
事前に襲来が予想され高射砲の洗礼を受けたものの、ヒルガー機は被弾せず目標に焼夷弾を命中させ、そのまま伊勢湾を南下し、中国に向かい、乗員はパラシュートで脱出した。


ファロー中尉機40-2268は一番最後に空母ホーネットを離艦した。
離陸のちょっと前、発艦準備中に甲板要員がフライトデッキ上の海水飛沫に滑って転倒し、プロペラに接触してしまい片腕を失う、また、波に揺れる船上の機体が別の機と接触し、爆撃手の風防に穴があくというアクシデントがあった。
離艦後はヒルガー少佐機とほぼ同じコースを、少し遅れて飛行し名古屋に到達、東邦ガスのガスタンク35 08 32 N 136 54 40 E に焼夷弾を1発投下し火災を発生させた。
次いで東邦化学工業 35 06 24 N 136 52 46 E へ焼夷弾を1発投下したが被害は無かった。
残りの焼夷弾2発は三菱重工業 35 05 13 N 136 53 33 E に投下、人員に被害を出した。
その後紀伊半島を南西に縦断しながら地上に機銃掃射を加え民間の非戦闘員に怪我を負わせた。
中国上空でパラシュート降下した乗員は全員捕虜となり、裁判の結果全員死刑判決となったが、銃殺されたのは機長とスパッツ軍曹で、他の乗員は処刑を免れた。


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焼夷弾の落ちた陸軍病院。現在は名古屋医療センターになっている。

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名古屋城の周りには陸軍関連施設が多数ありこれを狙った。
目標の一つ、大日本帝国陸軍 第3師団司令部が名古屋城敷地内にあったがドーリットル空襲は免れた。司令部建物は撤去されてしまい、煉瓦の壁だけが残る。
35 10 54 N 136 53 59 E


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第3師団隷下の、歩兵第6連隊跡地に残る記念碑。雑草伸びまくりでこのままだと樹海に埋もれてしまいそうだ。
35 11 00 N 136 54 03 E


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現存する第3師団 歩兵第6連隊 第10中隊の兵舎。
本建物は1873年に竹中工務店により建てられた。ドーリットル空襲やその後の名古屋空襲で至近が爆撃されたが消失を免れ、戦後は名古屋大学が使用した。1963年には解体され、1965年明治村に移築された。移築に際しいくつかの部屋が省略され長さが7割程度に短くなったが、大変貴重な軍事遺産・建築遺産である。解体と移築も竹中工務店が行った。

35 10 58 N 136 54 09 E (元々建っていた場所)
35 20 36 N 136 49 27 E (移築先)

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1階の廊下。左右に部屋が並ぶ。

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兵舎内部が再現されている。ライフルは第一次世界大戦から太平洋戦争末期まで使われた38式歩兵銃。

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こちらは下士官室。

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こちらも名古屋城内にあった、名古屋陸軍病院(旧名古屋衛戍病院)の建物。1878年建立された。
戦災を免れ戦後はGHQが接収、第6連隊の兵舎と同じく、明治村に1964年に移築されている。
35 10 55 N 136 53 53 E (元々建っていた場所)
35 20 36 N 136 49 29 E (移築先)
病院は管理棟1棟と、病棟6棟で構成されていた。
写真は明治村に1964年に移築された、管理棟(西半分)の建物
尚、ドーリットル空襲の際に消失しのは、この建物から東に800mほど離れた場所にあった同じく陸軍病院(市役所の北向かい、現在の名古屋医療センター)

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同じく明治村に移築された、6棟あった病棟の一つ。管理棟とは渡り廊下でつながれている。廊下を兼ねた吹き放ちのベランダが病室を囲う独特の構造。残念ながら病棟内部は見学できない。

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名古屋駅の南にあった笹島駅貨物ターミナル駅と機関庫の跡地は再開発され、ささしまライブ24というオフィス・商業施設・大学の集まる地区になった。。
35 09 41 N 136 52 57 E

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爆撃を受けた名古屋陸軍造兵廠を記念して公園に建てられた碑。35 08 03 N 136 54 46 E

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名古屋陸軍造兵廠の煉瓦造りの建物。中京倉庫が現役で使っている。35 08 03 N 136 54 35 E

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爆撃を受けた東邦ガス。
当時もガスタンクは3個あり(配置は微妙に違う)、一番西のガスタンクに焼夷弾が多数命中、噴出したガスに引火して炎が2〜3メートル上がった。
正門前の八百屋のお婆さんはビックリして死んでしまったという。
消火には苦戦し、ガスを市中に送出して消火できたが、2,6000〜2,7000立法メートルのガスの内、半分が燃えたと言われた。
3個のガスタンクはその後の名古屋空襲で完全に破壊され、その後概ね同じ場所に球形のガスタンクを設置した模様。35 08 33 N 136 54 39 E


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焼夷弾攻撃を受けた、東邦化学工業(ピンク)と、三菱重工業(黄色)。
画面右の日光川、庄内川の下流河口付近では作業船と海苔養殖船に向け銃撃し、1名が死亡している。


【神戸空襲】
スミス中尉機40-2267は途中までヒルガー少佐機と行動を共にし、渥美半島沖で名古屋に向かったヒルガー少佐機と別れた後、紀伊半島付け根を縦断、神戸上空で焼夷弾4発を投下した。
戦闘報告では鉄工所、川崎重工の造船所、小工場町工場住宅郡、川崎飛行機を攻撃、川崎重工のドックでは建造中の空母(飛鷹:ひよう)を目撃しているが侵入コースの関係上攻撃できず、左手に空母を見ながら通過している。戦闘報告書と日本側の被害調査の場所は極めて一致しているが、微妙なコースずれや投下タイミングの関係か建物・人的被害は少数に留まっている。
スミス中尉機の神戸空襲が、一連のドーリットル空襲の中で、最後の本土攻撃だった。


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国内線から見下ろした大阪湾。空襲当時と比べると神戸空港を始めとする埋立地が増え、それなりに発展しているのが判る。ただ、正直言って神戸空港って必要なの?と思ってしまう訳だが。
枠で囲った部分が連続して焼夷弾4発が投下されたエリア。


神戸を離脱後、中国に到達して海岸沿いに不時着水、スミス中尉機には攻撃隊の中で唯一人の航空医官であるホワイト中尉が乗っており、医療機器を回収して脱出した直後に機体は水没した。
この近くではローソン中尉機が不時着してクルーの内4名が重軽傷を負っており、彼らと合流した後ホワイト中尉が介護した。ドーリットルはこの功績を称えホワイト中尉を受勲することを推奨し、シルバースター勲章が与えられた。


【新聞報道】

以下朝日新聞よりドーリットル空襲に関連する記事を紹介。
軍部発表の情報にはかなりのウソが含まれていることが判る。
原文は旧体字、旧かな使いで当時の言い回しを使っており読みにくいのだが、表題はそのまま(旧体字は現代に直してある)、内容は概略を現代語で紹介。
記事は、後世の人間からするとツッコミどころ満載。
ただ、当然のことながら真実も記載されており、真実を確認出来た国民が、うその情報も合わせて信じるようになる。
現代のフェイクニュースの手法を既にこの時から使っていた訳だ。
こうやって一億人が軍部と政府を信じて天皇の名の下破滅に向かっていった訳だ。
太字が表題、普通文字が本文、青字は私のコメント。


昭和17年4月19日付

けふ帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微
東部軍司令部 午後二時発表 午後0:30頃敵機数方向より京浜地方に来襲したが、我が空地両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり、現在までに判明している敵機撃墜数は9機、我が方の損害は軽微なる模様、皇室はご安泰。

「けふ」は今日の意味だが、19日付の新聞なので昨日の出来事では?まぁこれは他の紙面に18日って書いてあるし、時間とかを考えると18日の事と判るだろうから問題ない。
逐次退散中なのは爆弾や焼夷弾を既に投下し終わったので離脱しているだけなのだ。
「我が方の損害は軽微」はこの後軍部、大本営発表ではものすごい確率で出てくる表現。まぁドーリットル空襲の実際の損害が軽微か重大かは意見の判れるところ。アメリカ側も「戦術的な戦果としては小さいが」と当時も今も言ってる。謙虚だ。しかし、死者は100人近く出ているものの、別紙面で石出君しか発表しないのでやっぱり軍司令部発表は過少評価なんだろう。
敵機撃墜数は9機というのは撃墜出来た思い込んだ報告、急旋回の回避行動を取るB-25を見て「あ、これは墜ちる」と確信した報告を合計して裏を取らずに東部軍司令部が発表したもの。以降「九機撃墜」の報道は無くなったが「あれは誤報」といった訂正はされていない(訂正文を見たことがない)。
皇室ご安泰は事実。確かに皇居周りに爆弾、焼夷弾は落ちなかった。この文章書いている2021年11月6日の方がスキャンダルでご安泰からはほど遠いかも。個人的にはイギリス王室みたいになってきて面白いかも。あと、防弾ガラス越に見た妹さんは可愛かった。やっぱ今日も安泰か。



沈着な隣組の大活躍 當局幕僚談
18日午後に爆弾投下現場を視察した当局幕僚によると、焼夷弾が落下した現場では隣組防火班が平素の訓練通り沈着に消化にあたっていた。焼夷弾の威力は大したものではなかった。

これは概ね事実なんでしょう。焼夷弾よりも爆弾による死者の方が多いし。


初空襲に一億沸る闘魂

敵機は燃え堕ち退散 "必消"の民防空に凱歌

バケツ火叩きの殊動 我家まもる女子 街々に健気な隣組群

威力なき焼夷弾

鬼畜の敵、校庭を掃射 避難中の学童一名は死亡
新聞では学童の名前を「石部巳之助」としているが、墓石の写真に見る通り「石出巳之助」が正しい。学校名は伏字にされている。
ドーリットル空襲は他にも各地で多数の死者が出ているが、空襲直後の新聞に名前が出たのは彼だけである。


頼もし大学生の援軍 女学生もバケツリレー

帝都で確認の敵機 ノース・アメリカン爆撃機

慎しめ 詮索や憶測 軍を信頼・職場を守れ

空襲下の地方視察 悠々たる首相

我が猛撃に敵機逃亡 軍防空部隊の士気旺盛

各地区の警報を解除 名古屋、神戸の被害も軽微

沈着冷静機敏な処理

東北地区にも警報

各地の状況 名古屋 神戸 和歌山

誓って尊き國土を護れ 備へあれば恐るるに足らず 小林防衛総参謀長談

防空必勝の信念 内相、決意と覚悟を要望



昭和17年4月20日付

非人道な日本爆撃 流石の米でも問題視
ブエノスアイレス特電18日発 サンフランシスコ来電 18日米コロンビア放送局は米機の東京初空襲に窮し東京ラジオ放送は左のごとく発表していると東京放送をそのまま放送している
敵機爆撃は今次戦争以来初めて東京上空に現れ、病院と学校に損傷を与えた、攻撃は18日正午過ぎに行われたが来襲期は軍事施設に損害を与えんとして失敗した。病院と学校の損害はまだ不明である、かかる非軍事施設と民間地域に対する非人道的爆撃は日本国民の間に??を??している。なお同放送局は米機が病院と学校を爆撃したちおう東京放送局の真偽に付き多数の問い合わせに接しているが、この件についてはまだ一切不明であると放送している。
問題視してないないない。


昭和17年4月21日付

敵航母三隻空しく退却

僅かに約十機分散飛来 残存機、志那大陸へ壊走


昭和17年4月22日付

かくて敵機を撃墜せり 戦闘報告 千葉、大島沖で猛追撃 遂に命中弾、黒煙を吐く


昭和17年4月22日付

米、報復を恐怖

精神力に感嘆 チリー記者の空襲報道


昭和17年4月26日付

中東支の敵基地壊滅 本土空襲の企画粉砕 我陸海鷲緊密な作戦


昭和17年4月26日付

見よ 残骸さらす来襲米機
靖国神社臨時大祭2日目となる25日昼下がり、靖国神社に押し寄せている遺族や参拝人の前に届いたのは、25日付陸軍省の告示板によると4/18に本州を空襲して逃走した米機が我が陸軍部隊に敗?されたその残骸と判った。へし曲がった翼やパイプ、その上には若葉の茂った銀杏の枝から敵のパラシュートも吊り下げられている。真新しいパラシュートの白絹の上にはアメリカ陸軍パラシュートと書いてその下には注文番号から1941年6月の製作年月、スウイトリックパラシュート装備會社の刻印までわかる、油槽の外側にはノース・アメリカンの字も見える。"これがあの小癪な敵機か・・・・" 押し重なりつつながめる群衆の顔は好奇から勝利の歓喜に輝く、まさに大東亜戦下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観をである。
ちゃんと撃ち落としてますよ、本当ですよ〜という証拠でっち上げの為に中国で墜落した機体を持ってきたのでしょう。1週間だと船は間に合いそうにないけど小さめの残骸部分を選んで空輸してきたんだろうか。残骸その後どうなったのかな?大方金属は溶かされて別の兵器になったんだろう。靖国神社のイチョウ並木は有名。パラシュートのメーカーはSwitlik Parachute & Equipment Company で、ポーランドからの移民であるスウィトリックが1920年創業、会社は現在も存続し、主力製品は救命胴衣や救命ボート。

【映画】

ドゥリットル空襲の模様は戦時中の1944年に作られた映画「東京上空30秒」で早くも描かれている。離陸は記録フィルム、爆撃は米国カリフォルニア州の工場を東京に見立てて撮影されている。

2001年の映画「パールハーバー」ではアレックボールドウィン扮するドーリットルが、空襲を準備実行するまでが描かれているが、戦闘機パイロットがいきなり爆撃機に転向など無理のある設定。爆撃するのは「笹原兵器工場」「リレビック発電所」。12機の編隊で攻撃してます。もう笑うしかありません。まぁそういう映画ですから...
ちなみに登場する寺院はハワイにある平等院のレプリカ 21 25 51 N 157 49 56 W
CG全開の同映画だが空母離陸などは実機と実船(CV-64コンステレーション)を用いており個人的にはこのシーンがこの映画唯一つの見せ場だと思う。


「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」2011年にはほんの数秒だがドゥリットル空襲の場面がある。航空機はCGで、2機密集編隊で飛行(実際には日本本土に入ると基本的に個別飛行)している。
爆弾が炸裂するのは新小岩駅近辺 35 43 N 139 52 E 辺り。1963年完成の放水路である新中川がはっきりと見えているので戦後の航空写真を元にしているのだろう。
他にも左右の翼上面に米国籍マーク記入など突っ込みどころはある。


「デスティニー・イン・ザ・ウォー」は2017年の中国映画。基本的にフィクション映画で、ジャック テイラー大尉という架空のドーリットル空襲隊員のサバイバルストーリー。突っ込みどころ満載。
全体的に出来の悪いCGのB-25が東京に到着した途端、緑色の零戦の攻撃を受けるが、後部の旋回砲塔の銃手が手動の機銃1丁でたちまち撃墜。
第一の目標Asahi Electricalに爆弾を投下。次に Yokoyama Warehouse に爆弾2発、そして最後に焼夷弾を Mitsubishi Aircraft Works に落とす。
この時3機のB-25が同じ地区を爆撃しているのが写る。
低空爆撃・機密保持・軽量化の為ノルデン照準器の代わりに装着した、アルミ材で作った簡易照準器「マーク トウェイン」が見える。
Asahi Electricalは尾久にある旭電化、Yokoyama Warehouseは川崎の横山工業所、Mitsubishi Aircraft Worksは名古屋の三菱重工業というように実際に爆撃された場所をモデルにしているのか。
そして3機同時に飛ぶのは川崎爆撃、パイロットが足を負傷したのはローソン大尉の体験をモデルにしているのでしょう。


「ミッドウェイ」2019年でも駆け足でドーリットル空襲が描かれている。爆撃するのは国会議事堂近辺 35 40 31 N 139 44 48 E で、皇居の堀の一部も見える。B-25は何故か主翼上面の国籍マークが1943年8月以降の袖付きタイプ(ただし白部分のみ)になっている。胴体は正しく赤丸付なのに。




【B-25現存機】

B-25は多数現存し、飛行可能なものも多い。以下、私が航空ショーや博物館で出会ったB-25。

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オランダのOverloonにある博物館で展示されているB-25D型。41-30792 英空軍の亡命オランダ飛行中隊に配備後、オランダ海軍で使われた機体。
ドーリットル空襲に使われたB型は完全な機体が残っていないが、C/D型はB型に最も近く、エンジンの排気管シュラウドなどが相違点。


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アメリカ・カリフォルニア州のキャッスル航空博物館で屋外展示されているB-25J 44-86891。アメリカ陸軍航空隊に配備されたが軍歴は不明。デビスモンサンでの保管を経て民間に払い下げられ山火事消火という王道の経歴。テキサスインスツルメンツでレーダー、赤外線探査機器の機上評価用に使われていた時期もある。
塗装は米陸軍航空隊 第X空軍 第345爆撃飛行群 第501爆撃飛行中隊 所属43-36012 のもので、同機は1944年1月9日レイテ島を離陸しルソン島のリンガエン湾上陸作戦支援に向かったが行方不明となり僚機が爆発の閃光の様なものを見たを報告。1963年になってミンドロ島北部に墜落した機体と遺体が見つかった。


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大英帝国戦争博物館ダックスフォードの、アメリカ軍用機館の天井から吊り下げられているB-25J 44-31171。
米海軍のBPJー1Jの塗装が施されている。この後米陸軍航空隊の塗装に塗りなおされたらしい。


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オランダ空軍博物館のB-25J 44-31258。 現在は天井から吊り下げられている模様。

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上と同じ機体のコックピット。機首のスペースに行くには機長、副操縦士の床下スペースを通る。 地上に機銃掃射を加える為の照準器が面白い。

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B-25J 44-29032で、オーストラリア空軍隷下のオランダ東インド飛行隊で対日戦に使用、その後オランダの植民地軍であるML-KNIL(オランダ東インド陸軍航空隊)がインドネシア独立運動勢力に対抗するため使用、インドネシア独立後はインドネシア空軍所属となり1970年初頭まで配備されていたといわれる数奇な運命を持つ機体。M-439ってオランダのレジのまま?インドネシアのジョグジャカルタにあるインドネシア空軍博物館にて。

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B-25J 43-28204 パシフィックプリンセス。米陸軍航空隊に配備されたが米国内で射撃訓練に使用され実戦参加していない。デビスモンサンでの休眠保管を経て、民間に払い下げられ、1000ガロン消火剤タンクを装備され森林火災消火機として活躍、その後フライアブルな爆撃機として映画キャッチ22に出演、他に映画1941での地上シーンや、映画パールハーバーにも出演。また、終戦50周年で空母カールビンソンからの発艦デモも行った。
1998年プレーンズオブフェームの航空ショーにて撮影。


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上と同じB-25J 43-28204。 時計メーカーブライトリングがスポンサーについていた時の塗装で、2002年のリノエアレースにて撮影。

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同じくB-25J 43-28204が、僚機(シリアル未確認と編隊を組む。1998年のプレーンズオブフェーム航空ショーにて。

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B-25J 44-28932 は専ら米国内で訓練に使われ、デビスモンサンでの保管を経て民間で山火事消火機として使用、1987年以降コリングス財団が飛行可能な歴史的航空機として保存維持している。

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米海兵隊PBJの塗装を纏っているが、本機は米陸軍航空隊に配属された44-86758。ただし配属時の1945年6月には戦争はほぼ終結しておりしばらくは保管されていた。
レーダー訓練に使われた後民間に払い下げられ輸送機として使用された。


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B-25J 44-31385 で、1945年にアメリカ陸軍航空隊に配備され、1958年にデビスモンサンで保管されるまで訓練任務に使われた。
1959年に民間に払い下げられN3481Gの民間レジ取得。
1969年に暴風で被害を受けたが修理され、Confederate Air Force (現.Commemorative Air Force)の手に渡った。この時 Show Me のニックネームが付けられ、民間レジはN345THとなり現在に至る。


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米国・テキサス州の航空ショーで東京空襲のデモンストレーションを行うB-25J 43-28059 「アパッチプリンセス」。
実戦参加しておらず主に訓練に使われた後民間に払い下げられ、山火事消火機などに使用、米国内でいくつかのオーナーを渡り歩いた。
嵐で尾部を破損したため、まるごと44-30090のものと交換されている。現在はフロリダにあるファンタジーオブフライトの所有。
アパッチ族には見えない巨乳おばさんのノーズアートは、元々は米陸軍航空隊 第X空軍 第345爆撃飛行群 第501爆撃飛行中隊 所属のB-25J 43-28152 のものを再現している。
こちらの機体は対日戦に参加し、1945年5月27日フィリピンを拠点に台湾攻撃中対空砲火を受け墜落、航空機関士兼銃手が負傷して動けず燃える機の中で戦死したが、他のクルーは脱出して隠れたもののまもなく捕虜となった。


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B-25J 44-30748 本機は1945年2月に米陸軍航空隊に納入されたが終戦が見え始めていた頃でいきなり米国内で保管、その後訓練任務を経て民間に払い下げられ、農薬散布機に改造。映画キャッチ22に出演している。

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同じくB-25J 44-30748 で、左側には Heavenly Body のノーズアート。 オレゴン州の Erickson Aircraft Collectionの所有。

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Comemorative Air Force のミネソタ支部が所有する B-25J 44-29869 「ミスミッチェル」
アメリカ陸軍航空隊配備後訓練、連絡などに使われた戦闘非参加機で、後に民間に払い下げられたもの。
塗装(大半は無塗装だが...)は地中海で活躍した 第310爆撃飛行群 第 380爆撃飛行中隊所属の43-27493 を再現しており、レストア時にノーズアートを描いた人はオリジナルを描いたのと同じ人とのこと。
大戦機に描かれたセクシーおねーさんノーズアートの元ネタは男性紙のピンナップイラストの模写もしくはアレンジが多く、本機も前出の Heavenly Body と同じポーズのねーちゃん。
最近は軍の女性比率が増えたのかノーズアートもセクハラと判断されセクシーおねーさんの絵を描いた現役の軍用機は見られなくなってしまった。
まぁ世相を繁栄してLGBT全開のマッチョ男の絵とか、タイ空軍でニューハーフのノーズアートとか描かれることは無いので安心しているのだが。


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同じB-25J 44-29869を反対側から見上げる。ドーリットル空襲の再現模擬飛行で高射砲弾の炸裂を模した黒い花火が背景に見える。


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枢軸の悪夢と名付けられたB-25J 45-8898 はノースアメリカン社との最後の契約に基き納入された機体で、最後から2番目のB-25生産機だった。米陸軍航空隊に納入された1945年12月の時点で戦争はとっくに終わっていたので保管に直行、その後連絡・人員輸送に使われた。テキサス州ヒューストンの航空ショーで撮影。

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上と同じB-25J 45-8898。 インベージョンストライプが映える。

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Comemorative Air Forceのテキサス本部が保有するB-25J 43-27868 は「イエローローズ」のノーズアート付。19世紀から伝わるフォークソング Yellow Rose of Texas をモチーフにしているのだろう。
現在飛行可能なB-25Jの中では最も生産が古いもの。本機は国内で訓練に使用後民間に払い下げられ肥料農薬散布に改造された。


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B-25J 44-30801。ノーズアートの Executive Sweet は Executive Suite のオマージュだろう。1997年アメリカカリフォルニア州サリナスの航空ショーで撮影。この頃は無塗装だった。
本機は米陸軍航空隊に納入され訓練、人員輸送に使われた後デビスモンサンの保管を経て民間に払い下げ、肥料農薬散布機として使われた後映画キャッチ22に出演した。
現在はAmerican Aeronautical Foundationが所有している。


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同じくB-25J 44-30801 Executive Sweet だが塗装され、ノーズアートも赤毛の着衣オバちゃんになった。手には尺八ならぬトランペット。微妙だ...ちなみに現在は更に別のオネーサンになっている。キャバクラで新人が、既に辞めた売れっ子の源氏名を受け継いで使い回している、みたいな...
後方はComemorative Air Forceが所有するカーチス C-46F 44-78663。
2002年にアメリカ カリフォルニア州のワトソンビル航空ショーで撮影。


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オーストリアのザルツブルグを拠点に古典機、アクロバット展示飛行機、ヘリなどを所有展示しているフライングブルスのB-25J 44-86893
本機は終戦間際の1944年8月7日に米陸軍航空隊納入、輸送部隊で庶務連絡に使われた後レーダー機器のテスト及び訓練機に改造、デビスモンサンでの保管を経て民間に払い下げられ、山火事消火機に改造、後に肥料農薬散布機となった。フライングブルスは1995年に入手。
2008年にドイツで開催されたILA ベルリン航空ショーで撮影。


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ベルギーの航空ショーでデモ飛行するB-25J 44-29507。アメリカ陸軍航空隊に配属され爆撃訓練に使用した後民間に払い下げられ、数々の米国内オーナーを経て1990年にオランダに渡り、英空軍の塗装で飛行していたが1999年からは本写真のML-KNIL(オランダ東インド陸軍航空隊)の塗装となった。




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