シドニー湾に入る敵船を攻撃する為、ジョージスヘッドに囚人の手により岩を掘って作られた1801砦の砲台。 名前に反し1801年の時点では未完成で、1803年から稼動、12ポンド砲4門と6ポンド砲2門を備え、当時英国の敵だったフランスの艦船進入に備え目を光らせたが、僻地故に砲のメンテが出来ず、1810年頃には放棄されたと言われる。 33 49 45 S 151 15 52 E
シドニー湾の真ん中の島を要塞化したデニンソン砦 1839年にアメリカの軍艦が2隻湾に侵入したのをきっかけに湾内防衛強化の為、砲台の建設に着手し、1857年に完成したが、完成時既に時代遅れとなってしまった。 現在はレストランになっている。 後方のガーデンアイランドには補給艦HMASサクセス(左端:フランスのデュランス級をオーストラリアで1隻だけ建造したもの)、ヘリ空母HMASキャンベラ(右端)が見える。 33 51 17 S 151 13 32 E
写真はドイツの貨物船プファルツ号に警告発砲した、ネピアン要塞にある6インチ砲 マークZの砲台。 38 18 10 S 144 39 10 E 写真奥に見える陸地が湾入口の海峡対岸であるクイーンズクリフで、あちら側にも要塞が設けられていた。
外から見た砲台。砲台背後の防御壁と天井は第一次世界大戦後に加えられたもの。
右側が、実際に第一次世界大戦勃発直後、SSプファルツ号に向け警告射撃を発砲した砲身。 左側は、第二次世界大戦勃発後間もない1939年9月3日、未確認の船がメルボルン湾に入ろうとした為、今度は同じ砲台に据え付けられていた写真左側の砲を使って警告射撃をした。船は慌てて入港コードを示し、オーストラリアの沿岸貨物船ウォニオラ号である事が確認された。 38 18 12 S 144 39 10 E
ネピアン堡塁のすぐ近く、ピアース堡塁の砲台と観測所。 38 18 25 S 144 39 31 E 奥にはイーグルスネスト堡塁の観測所が見える。
サーチライト小屋が見える。 38 18 39 S 144 39 48 E この近辺で1967年、泳ぎに来たオーストラリア現役首相のホルトが行方不明になり、遺体や遺留物は未だに見つかっていない。 オーストラリアも参戦しているベトナム戦争最中の出来事の為、中国潜水艦で亡命説、CIAによる暗殺説などの憶測があったが、離岸で沖に流され溺れたものといわれる
ネピアン要塞周辺は戦後士官学校、射撃訓練場として使われ、現在国立公園になっている地域にも未処理不発弾が残っている可能性があり一部は立ち入り禁止。 38 18 29 S 144 39 44 E
1943年に完成したマラバー砲台の観測所は落書きだらけ。 33 57 55 S 151 15 47 E 映画ミッションインポシブル2の最後近くでのバイク対決シーンはマラバー砲台前の岩場海岸で撮影されており、観測所やサーチライト収納所がちらほらと写り込む。
シドニー近郊、ノースヘッドにある小さな観測所。 33 49 22 S 151 18 04 E
シドニー湾のコッカトゥー島は監獄の島だったが、1870年から造船所として機能し、乾ドック2つを備え最盛期には4000人が船舶の建造、整備、修理を行った。1991年に閉鎖され、2010年以降、「オーストラリアの囚人遺跡群」の一つとして世界遺産登録されている。 1942年に防空壕が増設された。写真のものは既存の建物に繋げて建設されている模様。 33 50 56 S 151 10 16 E 島内には他にも防空壕と思しきコンクリート建造物がいくつか確認できる。
製鉄の町、ニューキャッスル市の北にあるストックトンビーチ近郊に配置されていた対戦車バリケード。 正三角形4面で構成されている。 第三帝国が作った西の壁(ジーグフリート線)の「竜の歯」はいくつもの歯が一体で地中に固定されているが、このバリケードは個々に独立し、移動することが出来た。 ブロックの横についているU字フックにはワイヤーを取り付けて別のブロックと結ぶことにより、連続したバリケードを構築できた。 いくつかのブロックには製造年月日(1942年2月〜3月にかけて)とシリアルナンバーが書かれている。 勿論日本軍の上陸を想定してのものだが、結局無駄になってしまった、というのは後世の人の無責任な発言か。 現在は駐車場と砂丘を区切る、車輌進入防止用の垣として有効(?)利用されている。 32 46 57 S 152 4 28 E
シドニーのワトソンズベイにあるシグナルヒル砲台。元々は1892年〜1893年にかけて建設された砲台で、英国アームストロング製9.2インチマークY隠顕式砲1門を備えていた。1937年に6インチマーク\砲2門に置き換えられた(砲台も新たに作った)。写真はその2門の内、北側の台座。 33 50 58 S 151 17 14 E
ギャップパークにある機銃陣地と思しき施設。 結局銃は装備されなかった模様。 33 50 46 S 151 17 12 E
シドニーの南に位置する鉄鋼業の町、ポートケンブラを守る為、1942年にドラムモンド堡塁が建設された。 地表に見えている部分はほんの一部で、地下に発電・宿泊・貯水・空調等の施設が設けられ、長期篭城を可能にした。 コンクリートはコールドジョイントにならないよう、連続した建設作業が行われた。 9.2インチ マークX砲を2門装備。 1943年に砲を試射、1962年に砲その他装備を撤去。現在は茸の栽培をしている。 34 26 20 S 150 52 32 E
ドラムモンド堡塁のもう一門の砲台。 34 26 23 S 150 52 34 E
スクラッチリー砦の近くにある観測所。 ここにも砲台がある。 32 56 09 S 151 46 44 E
ニューキャッスル防衛の為、1942年末に完成したトマリー砲台。 2基の6インチMark7砲台座が今も残る。(この写真は南側の砲台) 砲の後ろには扉があり、山の中の部屋(弾薬倉庫などがある)に通じている。 ほかにオッチキス3ポンド速射砲、ルイス対空機銃、魚雷発射管が据え付けられていた。 丘の上には空軍がレーダーを配備していた。 32 42 50 S 152 11 19 E
同じくトマリー砲台の、北側の砲台。 32 42 48 S 152 11 17 E
トマリー砲台のある半島の山頂に残るレーダーの基部。船、航空機両方の探知を行った。 32 43 00 S 152 11 13 E
2005年にオーストラリアのTV局が1時間半のドキュメンタリー番組「He's Coming South: The Attack on Sydney」を製作放映した。 クッタブルの生存者、水雷艇乗組員、シドニー市民、伊21水偵パイロットだった伊藤進大尉など、関係者の証言インタビューを中心にシドニー攻撃が再現されている。 伊24搭載艦乗組員芦辺一等兵曹の弟さんが、「せめて兄の乗っていた特殊潜航艇の破片でも見つかれば」と言っているのが印象的。
2006年11月26日、シドニー湾攻撃から60年以上を経て、オーストラリアのダイバーがシドニーの北にあるニューポート沖で特殊潜航艇の残骸を発見し、伊24から発進した艇と確認された。 場所は 33 40 21 S 151 22 58 E 近辺。 (この座標は遺跡保護の為の制限区域中心座標で、沈没場所とはズレているらしい)