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シドニーとニューキャッスル攻撃
Attack on Sydney and Newcastle

【初期のオーストラリアの沿岸防衛】

オーストラリア大陸に1770年、イギリス人のクック船長が上陸し、英国領を宣言した。
それ以降、英国植民地・英連邦として英国と利害を共にした為に、地球の裏側にある国同士であるのに、大英帝国の敵=オーストラリアの敵、という図式が出来上がる。

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シドニー湾に入る敵船を攻撃する為、ジョージスヘッドに囚人の手により岩を掘って作られた1801砦の砲台。
名前に反し1801年の時点では未完成で、1803年から稼動、12ポンド砲4門と6ポンド砲2門を備え、当時英国の敵だったフランスの艦船進入に備え目を光らせたが、僻地故に砲のメンテが出来ず、1810年頃には放棄されたと言われる。
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シドニー湾の真ん中の島を要塞化したデニンソン砦
1839年にアメリカの軍艦が2隻湾に侵入したのをきっかけに湾内防衛強化の為、砲台の建設に着手し、1857年に完成したが、完成時既に時代遅れとなってしまった。
現在はレストランになっている。
後方のガーデンアイランドには補給艦HMASサクセス(左端:フランスのデュランス級をオーストラリアで1隻だけ建造したもの)、ヘリ空母HMASキャンベラ(右端)が見える。
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クリミア戦争(1853〜1856年)で英国との仲が悪くなっているロシアは、英国植民地であるオーストラリアを攻撃してくるのではないか?
これに備えてオーストラリアでは対ロシアの防衛を検討。
とはいっても広大な土地に少ない人口の為、全海岸を防衛するなど不可能で、
砲台を主要な港や入り江の周りに配置した。

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シドニー湾の、ブラドリーズヘッド堡塁。写真はライフル隊が迎撃する為の壁。
元々1840年〜42年にかけて建造され、1871年に兵舎追加などのアップグレードが施された。
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ビーハイブケースメートと呼ばれる3基の砲台を備えた強固な堡塁。1870年代前半に建設され、シドニー湾入口の船舶を砲撃することが出来る。
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ミドルヘッドにある、シドニー湾に進入する敵船を攻撃する砲台で、こちらは半島南東側のアウターミドルヘッド堡塁。
一帯には主に1870年〜1911年にかけて砲台が建造された。
少なくとも7基の砲座が確認できる。
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一方こちらは半島の北側にあるインナーミドルヘッド砲台。
深いので隠顕式の砲を収容していたのだろう。
近くにもう一門の砲台がある。
シドニー湾入口を監視できる見張りの塔は射撃の邪魔になるので、恐らく第一次世界大戦以降、砲台としては使われなくなってから設けられたものだろう。
正面がマンリー方向。
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19世紀末に完成した、シドニー南方ボタニー湾のベア島にある砦。
島全体を要塞化している。しかし、1902年には砦としては用廃になってしまった。
ここは映画ミッションインポシブル2の撮影地として有名で、屈指のダイビングスポットでもあらしい。
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1880年〜1881年にかけてブリスベン川の河口を守るために建造されたリットン砦。
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元々広大な敷地に設けられた砦で、河口防衛の他にボア戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦に出征する兵士の訓練所や帰還する兵の検疫所として使われた他、朝鮮戦争の時まで通信施設があった。
植民地時代に作られた堡塁部分のみ一般公開されており、現在その他の部分は隣接する石油精製施設となっている。
堡塁は5角形で、水を張った堀と盛土に囲まれている。

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堀に囲まれた堡塁中央の原頭(Parade Ground)と呼ばれる練兵・閲兵広場。
映画「レイルウェイ 運命の旅路」(2013年)のシンガポール陥落シーンはここで撮影されている。
映画「不屈の男 アンブロークン」(2014年)の日本軍捕虜収容所もリットン砦でセットを組んだとのこと。
この映画、渡邊伍長(後に軍曹)が日本兵ではなく地方のヤンキーにしか見えないんですが...

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当初の主兵装として堡塁の砲台に2門装備されていた、アームストロング前装式80ポンドライフル砲。
しかしこれは時代遅れとなり、英国に返却して写真の様に後装式に改造された。
1891年再輸入し、クイーンズランドのタウンズビル防衛の為にマグネチック島に配備されたが、結局期待された性能が得られず訓練用に使われた。

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メインの堡塁内にある2門の砲台の内の一つ。
当初は先の写真で紹介した前装式80ポンドライフル砲を装備していたが、、1888年までに写真の隠顕型後装式6インチ100ポンドライフル砲に入替えられた。これは1938年まで使われた。
砲身は本物、回転台座や上下機構は(出来の悪い)レプリカ。
本当は天井には砲身が飛び出せるよう長穴があいているのだが、転落防止なのか雨よけなのかレプリカでは塞がれてしまっており、正直意味不明の展示になってしまっている。

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砦建設当時からの武器の一つ、砲台に据え付けられた前装式64ポンドライフル砲。2門並んでいる内の一門。

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ブリスベン川を遡ろうとする敵艦船を破壊する為の、電気水雷とその遠隔操作室。
これも当初から装備されていたもの。1908年まで配備されていた。

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1882年に完成したスクラッチリー砦。写真は入口近辺の乾堀。
ここもロシアの攻撃を想定して建造されている。
尚、砦の名前になっているピーター・スクラッチリー英軍中佐はこのスクラッチリー砦の他、先に紹介したベア島砦、リットン砦およびグランヴビル砦(SA州)、クイーンズクリフ砦(VIC州)も設計した。
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同じくスクラッチリー砦。
砦が出来る前の1871年の時点では前装式の32ポンド砲がこの地に配置されていたが、
1874年に前装式68ポンド砲が置かれた。写真は68ポンド砲(だと思う...)
1882年に砦が完成してからは9インチライフル後装砲及び80ポンドライフル後装砲が置かれた。

結局、当時ロシアがオーストラリアへの侵攻攻撃を準備していたということを示す資料は見つかっていない。



【第一次世界大戦】
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モーニントン半島の突端に向かう。
左側はバス海峡、右がポートフィリップ湾。
メルボルンに入港する船は必ずここを通るので要衝として守りを固めていた。
突端に、第一次世界大戦で英連邦軍最初の発砲をした砲台を有するネピアン堡塁が設けられている。
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隠顕式砲の砲座と天井が残る。
砲身自身は失われている。

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レンガ造りの地下トンネル。

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1914年8月4日、ドイツ軍がベルギーに侵攻し、同日2300に英国がドイツに宣戦布告した。
これはオーストラリア東部標準時間の5日0900に相当する。
ドイツ船籍の貨物船SSプファルツは、英連邦とドイツ帝国とが戦争状態になった為、メルボルン港を出港し、ポートフィリップ湾から外洋に出ようとした。
英国に戦線布告がされた約4時間後の1914年8月5日1245、モーニントン半島突端にあるネピアン岬の砲台から海峡を通過しようとしていたプファルツ号に向けて停止命令が出され、後に警告射撃がなされた。
プファルツ号はメルボルンに戻り、乗員は拘束、船は拿捕された。
これが第一次世界大戦に於ける英連邦軍最初の発砲であり、また、同大戦中、オーストラリア本土での敵への唯一の発砲である。

オーストラリアに拿捕されたSSプファルツ号は、オーストラリア海軍籍の兵員輸送船HMATブーララ(HMATはオーストラリア海軍の徴用船を表す)となり、第一次世界大戦を通して使われた。
戦後は民間輸送船として活躍し、1928年にギリシャの海運会社に売却、ギリシャ神話にちなみネレウス号と命名された。
運命の1937年8月、北九州の門司を出港したネレウス号はカナダに向かったがバンクーバー諸島で岩礁に座礁し、乗員は救助されたものの船は失われた。

写真はドイツの貨物船プファルツ号に警告発砲した、ネピアン要塞にある6インチ砲 マークZの砲台。
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写真奥に見える陸地が湾入口の海峡対岸であるクイーンズクリフで、あちら側にも要塞が設けられていた。

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外から見た砲台。砲台背後の防御壁と天井は第一次世界大戦後に加えられたもの。

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右側が、実際に第一次世界大戦勃発直後、SSプファルツ号に向け警告射撃を発砲した砲身。
左側は、第二次世界大戦勃発後間もない1939年9月3日、未確認の船がメルボルン湾に入ろうとした為、今度は同じ砲台に据え付けられていた写真左側の砲を使って警告射撃をした。船は慌てて入港コードを示し、オーストラリアの沿岸貨物船ウォニオラ号である事が確認された。
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ネピアン堡塁のすぐ近く、ピアース堡塁の砲台と観測所。
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奥にはイーグルスネスト堡塁の観測所が見える。

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サーチライト小屋が見える。
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この近辺で1967年、泳ぎに来たオーストラリア現役首相のホルトが行方不明になり、遺体や遺留物は未だに見つかっていない。
オーストラリアも参戦しているベトナム戦争最中の出来事の為、中国潜水艦で亡命説、CIAによる暗殺説などの憶測があったが、離岸で沖に流され溺れたものといわれる

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ネピアン要塞周辺は戦後士官学校、射撃訓練場として使われ、現在国立公園になっている地域にも未処理不発弾が残っている可能性があり一部は立ち入り禁止。
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【大戦間、第二次世界大戦初期の沿岸防衛強化】

1930年代半ばに沿岸防衛強化・アップグレードの政策が出され、西海岸ではパース近郊にあるフリーマントル港防衛の為、ロットネス島、ガーデン島に砲台が作られた。
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写真はロットネス島にあるオリバーヒルの砲台。9.2インチMark10砲が2門配置されている。
9.2インチ砲はオーストラリア全土で7箇所に配置されたが、現存するのはここだけ。
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オリバーヒルの砲塔外観。

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砲塔内部。

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砲塔の下部。旋回機構がある。
弾丸は台車に乗せられ、エレベータで砲塔に持ち上げられた。

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オリバーヒルの地下プロッティングルーム(観測所からの情報を元に各砲台に指示を出す)への入口。内部は公開されていない。1935年に作られ、1942年にレーダーと連動する様アップグレードされた。

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ロットネス島の船着場から丘の上にある砲台まで、線路が引かれている。

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先に紹介したフォートスクラッチリーは8インチ隠顕式砲、1.5インチ速射砲を経て、1911年に6インチ砲2門にアップグレードし、壕を覆うことにより地下トンネル化した。門柱の奥に見えるのがアップグレード部分の一部。

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先に紹介したリットン砦も第二次世界大戦と共にアップグレードされた。
これは増設されたQF MarkW型 4.7インチ砲。
保護部は急造と予算不足の為、丸太の上にコンクリートの屋根を乗せている。
え?本当にこんな構造だったの?と無料ガイドツアーの案内人(元砲兵隊員)に聞いたのだが、たしかに1943年の写真通りだ。
建物内側のコンクリート壁にはオリジナルの塗装が一部残っている。
砲はレプリカで出来は正直いって悪い。

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これも大戦中に増強されたサーチライドを配備した建物。
後方のブリスベン川を下り太平洋に向かうのはパナマ船籍のばら積み貨物船IVS キティウェイク号。

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ブリスベンには米海軍潜水艦基地が置かれていたので、防衛には万全の備えをした。
これは2連装の6ポンド砲で、艦船に対し1分間に80発発射できた。
後方に丸太の櫓(やぐら)を組んだ司令塔があり(コンクリートの台座が残っているのが見える)、そこから遠隔操作で射撃をした。

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対空砲陣地。ここで結婚記念の写真を撮ったカップルが居たとか。うーん、微妙。

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1943年に完成したマラバー砲台の観測所は落書きだらけ。
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映画ミッションインポシブル2の最後近くでのバイク対決シーンはマラバー砲台前の岩場海岸で撮影されており、観測所やサーチライト収納所がちらほらと写り込む。

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シドニー近郊、ノースヘッドにある小さな観測所。
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シドニー湾のコッカトゥー島は監獄の島だったが、1870年から造船所として機能し、乾ドック2つを備え最盛期には4000人が船舶の建造、整備、修理を行った。1991年に閉鎖され、2010年以降、「オーストラリアの囚人遺跡群」の一つとして世界遺産登録されている。
1942年に防空壕が増設された。写真のものは既存の建物に繋げて建設されている模様。
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島内には他にも防空壕と思しきコンクリート建造物がいくつか確認できる。

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製鉄の町、ニューキャッスル市の北にあるストックトンビーチ近郊に配置されていた対戦車バリケード。
正三角形4面で構成されている。
第三帝国が作った西の壁(ジーグフリート線)の「竜の歯」はいくつもの歯が一体で地中に固定されているが、このバリケードは個々に独立し、移動することが出来た。
ブロックの横についているU字フックにはワイヤーを取り付けて別のブロックと結ぶことにより、連続したバリケードを構築できた。
いくつかのブロックには製造年月日(1942年2月〜3月にかけて)とシリアルナンバーが書かれている。
勿論日本軍の上陸を想定してのものだが、結局無駄になってしまった、というのは後世の人の無責任な発言か。
現在は駐車場と砂丘を区切る、車輌進入防止用の垣として有効(?)利用されている。
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シドニーのワトソンズベイにあるシグナルヒル砲台。元々は1892年〜1893年にかけて建設された砲台で、英国アームストロング製9.2インチマークY隠顕式砲1門を備えていた。1937年に6インチマーク\砲2門に置き換えられた(砲台も新たに作った)。写真はその2門の内、北側の台座。
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ギャップパークにある機銃陣地と思しき施設。
結局銃は装備されなかった模様。
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シドニーの南に位置する鉄鋼業の町、ポートケンブラを守る為、1942年にドラムモンド堡塁が建設された。
地表に見えている部分はほんの一部で、地下に発電・宿泊・貯水・空調等の施設が設けられ、長期篭城を可能にした。
コンクリートはコールドジョイントにならないよう、連続した建設作業が行われた。
9.2インチ マークX砲を2門装備。
1943年に砲を試射、1962年に砲その他装備を撤去。現在は茸の栽培をしている。
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ドラムモンド堡塁のもう一門の砲台。
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スクラッチリー砦の近くにある観測所。
ここにも砲台がある。
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ニューキャッスル防衛の為、1942年末に完成したトマリー砲台。
2基の6インチMark7砲台座が今も残る。(この写真は南側の砲台)
砲の後ろには扉があり、山の中の部屋(弾薬倉庫などがある)に通じている。
ほかにオッチキス3ポンド速射砲、ルイス対空機銃、魚雷発射管が据え付けられていた。
丘の上には空軍がレーダーを配備していた。
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同じくトマリー砲台の、北側の砲台。
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トマリー砲台のある半島の山頂に残るレーダーの基部。船、航空機両方の探知を行った。
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【特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃】

太平洋戦争が始まった翌年の1942年2月17日、日本海軍の潜水艦、伊25からカタパルト発進した零式小型水上機が夜明け前のシドニー上空を偵察し、停泊している艦船を確認して帰還した。
伊25はその後オーストラリアのメルボルン及びホバート、ニュージーランドのオークランド、フランス領フィジーでも偵察飛行を実施した。
この時のパイロットは後にアメリカ本土に焼夷弾を投下する藤田信雄飛行兵曹長。

同年の5月23日、伊29艦載の零式小型水上機がシドニー上空を偵察。
更に5月29日、伊21艦載の零式小型水上機がシドニー湾上空の偵察を行い、主要目標となる敵艦や防潜網の位置を確認した。
この時はオーストラリア側の観測員が水上機を見つけたが、米海軍のシーガル偵察機だと思いしばらくの間無視した。
しかし、付近に居るシーガル偵察機は全機が巡洋艦シカゴに搭載されており発進していないので、オーストラリア空軍のウィラウェイが索敵の為飛んだが何も見つからなかった。
零式小型水上機は母艦に帰還(乗員は戻ったが機体は着水時に失われている)、湾の様子を報告した。

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5月31日の夕方、シドニー湾の沖合い7海里(13km)に停泊している潜水艦伊27、伊22、伊24から特殊潜航艇甲標的が1隻づつ発進した。
写真の海峡を通り、外洋からシドニー湾に侵入。
シドニー湾に出入りする全ての船はここを通る。
左がノースヘッド、右はサウスヘッドとワトソンズベイ。画面奥が外洋。
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中央2隻が伊一六型潜水艦の模型。後部に甲標的を1隻づつ搭載している。
記念館三笠での、"特別展 三笠秘蔵 連合艦隊 艦隊コレクション"(ネーミングが....)にて。
特殊潜航艇を発艦させた伊22、特殊潜航艇発艦及びシドニー東部砲撃を行った伊24が伊16型潜水艦に該当する。
模型は、左が伊18、右が伊16となっているが、違いが....判らん!

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まず、伊27搭載艇がシドニー湾に2000前に侵入した。
乗員は中馬兼四大尉、大森猛一等兵曹
しかし、同艇のスクリューが防潜網に引っかかって動けなくなってしまった。
オーストラリア海軍のパトロール艇が近づいたが、到着する前に、特殊潜航艇は2237に自爆した。
自爆により中央部を大きく破損しているのが判る。

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2隻目の伊24搭載艇は、シドニー湾に2000頃侵入した。
乗員は伴勝久中尉、芦辺守一等兵曹
湾内に停泊していたUSSシカゴは特殊潜航艇の潜望鏡を500ヤードの距離に発見した。
シカゴは海面をサーチライトで照らし、砲撃を加えたが命中は確認出来なかった。
特殊潜航艇は魚雷を2発発射。USSシカゴを狙ったものと思われるが、1発は外れて不発のままガーデンアイランドの陸に乗り上げた。
もう一発はオランダの潜水艦K9の下をくぐり、ガーデンアイランド東側に停泊していたシドニー湾フェリー、クッタブル(発音はカッタブルに近い)の下の堤に命中した。(クッタブルに命中したわけではない)
6月1日00:30のことである。
同フェリーは当時、英海軍の宿泊艇として使われていた。
爆発の衝撃でクッタブルはすぐに沈み、オーストラリア水兵19名とイギリス水兵2名が犠牲になった。
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写真はクッタブル、シカゴが停泊していたガーデンアイランド東岸。

以降、伊-24発進の特殊潜航艇の行方は判らなくなった。

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現在もガーデンアイランドは重要な軍港でオーストラリア海軍の東方艦隊基地。
就航して間もない、オーストラリアの最新ヘリ空母HMASキャンベラ(3代目)が西側に係留されている。
HMASキャンベラの2代目(巡洋艦)は特殊潜航艇甲型の攻撃当時シドニー湾内におり、USSシカゴと並び優先攻撃目標だった。


6月1日未明、伊22から発進していた特殊潜航艇がシドニー湾に入った。
乗員は松尾敬宇大尉、都竹正雄二等兵曹
テイラーズ湾にて敵に発見され、爆雷攻撃を何度も受けた。
英海軍のダイバーが6月2日に艇を見に行き、そこで艇のモータはまだ生きており2重反転スクリューがゆっくり回っているのを確認した。艇を引き揚げた所、中で乗員がピストル自殺しているのが見つかった。

英海軍は、特殊潜航艇の、死亡した乗員4名の勇気を称え、遺体を海軍葬とした。
火葬された遺骨は、交換船により日本に帰った。

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ノースヘッドから見た、シドニー湾攻撃の位置関係。クリックで拡大。
33 49 23 S 151 17 54 E (撮影場所)
ちなみに映画ミッションインポシブル2でヒロインが身投げするのがここ。

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上の写真と反対側から見たシドニー湾。シドニー空港のR/W16への着陸時に撮影。
画面左上がノースヘッドと海峡、画面中央にハーバーブリッジ、オペラハウスの右上の半島がガーデンアイランド。
ガーデンアイランドはその名の通り島だったが、大戦中に本土との間に乾ドック「クック船長」が建造され本土と陸続きになり、事実上の半島になった。

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シドニータワーから見下ろしたシドニー湾攻撃の戦場。
クリックで拡大。
ちなみにオーストラリア海軍のイージス艦HMASホバート DDG39は複数回来日している。本ページ末のおまけ参照。

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オーストラリアでは、引き揚げられた伊22搭載艇(前部)及び伊27搭載艇(中央から後ろ)の残骸を組み合わせて1隻を復元し、戦時国債購入の宣伝の為にオーストラリアのNSW州、VIC州、SA州を陸路で巡った。
現在はオーストラリア戦争記念館に展示されている。
後方にはシドニー湾攻撃で撃沈されたフェリー、クッタブルのブリッジのレプリカが置かれている。

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特殊潜航艇甲型に搭載されていた魚雷。専用に開発されたもの。特殊潜航艇甲標的1隻に2本を搭載出来た。
ドックでのみ装着出来たので予備は無い。深度は2.5〜15メートルの間で、発射後の航行角度は左右±60度以内で調整できた。
オーストラリア戦争記念館にて

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ハーバーブリッジの歩道から見たシドニー湾。
伊24搭載艦はガーデンアイランドのUSSシカゴに向け魚雷を発射しHMASクッタブルを沈めた後、湾内を逃げ回り濠・英・米の追跡を振り切った。
写真右はオペラハウスで勿論戦後の建造。
ガーデンアイランドの手前側(西側)には大型上陸艦HMASトブルク(2015年7月に退役)が停泊している。
画面左の小島はデニンソン砦。
現在、湾内はフェリー、豪華客船、プレジャーボート、スピードボート、ヨットなど多数の船が行き交う。
33 51 10 S 151 12 37 E (撮影場所)

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母艦である潜水艦は6月3日まで特殊潜航艇の帰還を待っていたが、特殊潜航艇は一隻も戻ってこなかった。
写真は伊22、伊27搭載艦搭乗員の遺品で中馬、都竹の名前が書いてある。
キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館にて。

【潜水艦によるシドニー砲撃】

1942年6月8日未明、伊24がシドニー沖に浮上し、陸に向けて砲撃した。
4分の間に発射された140mm砲弾10発の内、9発がシドニー市東部に着弾した(残り1発は恐らく海に落ちた)が、1発のみが爆発し、他は不発弾だった。
不発が多いのは長い航海で信管が劣化した為か?
建物に微細な損害、骨折1名、軽い切り傷を追ったもの1名。
アメリカ陸軍航空隊第41追撃飛行隊のP-39が一機、潜水艦を攻撃する為に離陸したが、まもなく失速して墜落し、パイロットのカンテロ中尉は死亡。
墜落原因は判っていないが、急いで離陸した為、暖機運転不足ではないかと言われている。

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シドニータワーの展望台から東方向を見る。クリックで拡大。
伊24が放った砲弾は、黄色丸に1発、赤丸の範囲に8発が落ちた。
左下のガーデンアイランドの船着場に、ヘリ搭載フリゲート HMASワラムンガU(FFH152)が停泊している。


【潜水艦によるニューキャッスル砲撃】

伊24がシドニーを砲撃した少し後の1942年6月8日0217、ニューキャッスル沖に日本海軍の潜水艦伊21が浮上し、140mm砲の砲撃を開始した。ドックと製鉄所が主目標だった。

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潜水艦が浮上した位置は、スクラッチリー砦の砲手から見ると、ノビーズヘッドの丘(写真の、灯台がある所)の後ろの死角だった。
ノビーズヘッドにはサーチライトが配置されていたが、当日は整備中で、出力の弱いライトを仮に付けており、潜水艦には届かなかった。
河口を挟んで対岸に見えるのは広大なストックトンビーチの砂丘。

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ストックトンビーチ側から見たニューキャッスル。
クリックで拡大。
左端がノビーズヘッド。その右の盛り上がりがスクラッチリー砦。
32 51 58 S 151 49 38 E (撮影場所)

日本側の記録によると砲弾を全部で34発(内、8発は照明弾)を発射。
しかし、炸裂したのは3発のみで、残りは不発だった。
建物に軽微な損害を与えたのみで、人的被害はなかった。

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最初はスクラッチリー砦から見て死角に浮上していた潜水艦は、やがて潮に流されたのか、砲撃の炎が砦から見えるようになった。
潜水艦は今度はスクラッチリー砦にも砲撃を加えてきた。
写真のスクラッチリー砦の観測所から、砲手に対して敵艦距離、角度の情報が伝えられた。

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スクラッチリー砦の2門の6インチ砲が、潜水艦に対して計4発の砲弾を発射したが、いずれも命中しなかった。
この後、水先案内船ビルビ(当時はニューキャッスル港に入港する船を検疫していた)が潜水艦と砦との間を横切った。
ビルビの煙突からの煙で、砦から潜水艦が再び見えなくなった。
これに乗じて伊-21はより深度の深い場所に移動し、潜航して見えなくなった。
スクラッチリー砦は、第二次世界大戦中、敵艦と交戦したオーストラリア唯一の陸上基地である。


シドニー及びニューキャッスル攻撃に参加した大日本帝国海軍潜水艦と概要は以下(いずれも1942年):
潜水艦
艦長
シドニー
航空偵察
特殊潜航艇シドニー港攻撃
砲撃
搭乗員
戦果
伊21
稲田中佐
5月29日
シドニー港偵察
着水時転覆し
機体損失
(未搭載)
ニューキャッスル
6月8日0217
発射34発
伊22
揚田中佐
-
松雄大尉
都竹二等兵曹
5月31日1721発進
6月1日未明 湾に侵入
爆雷攻撃を受け0500沈没
乗組員は自決
-
伊24
花房中佐
-
伴中尉
芦辺一等兵曹
5月31日1740発進
2000 湾に侵入
USSシカゴに潜望鏡を発見され
湾内を逃げ回り、
6月1日0030頃魚雷2発発射
1発は外れて座礁し不発
もう一発はUSSシカゴを外し
ガーデンアイランドの堤に当たり
衝撃で宿泊艇HMASクッタブル
が撃沈
オランダ潜水艦K-9破損
湾内を逃げ回り外洋に出て
以降行方不明になるが
後に沈没していたことが判明
シドニー東部
6月8日未明
発射10発
伊27
吉村中佐
-
中馬大尉
大森一等兵曹
5月31日1728発進
1945湾に侵入
防潜網に引っかかり自爆
-
伊29
伊豆中佐
5月23日早朝
シドニー港、
シドニー東部偵察
(未搭載)
-


【その後】

シドニー港雷撃、シドニー東部砲撃、ニューキャッスル砲撃は、戦果としては乏しい。特に砲撃は嫌がらせ程度の効果でしかないが、オーストラリア中にパニックともたらした成果はあった。

特殊潜航艇を発艦させた伊22は1942年10月4日ソロモン諸島東方で消息不明。
同じく伊27は1944年2月13日モルジブ諸島で英駆逐艦の攻撃を受け沈没。
また、特殊潜航艇発艦及びシドニー東部砲撃を行った伊24は、1943年6月10日アラスカのセミチ島近辺で米駆潜艇の攻撃を受け沈没。
ニューキャッスルを砲撃した伊21は1943年11月29日ギルバート諸島で米艦上機の攻撃を受け沈没。

シドニー湾の攻撃目標であった巡洋艦USSシカゴは1943年1月29日レンネル島沖海戦で日本海軍の航空攻撃を受けて損傷、翌日曳航されている所を再び航空攻撃を受けて沈没した。

USSシカゴと並び攻撃目標であった重巡洋艦HMASキャンベラは第一次ソロモン海戦で日本海軍巡洋艦と交戦し沈没。

砲台、堡塁、要塞はいずれも軍事施設としては使われなくなり、殆どのものは砲を外されている。
多くは沿岸部の風光明媚な場所に置かれているので周囲に遊歩道などが整備され、気楽に訪問できる点では日本の要塞以上に恵まれている。

2005年にオーストラリアのTV局が1時間半のドキュメンタリー番組「He's Coming South: The Attack on Sydney」を製作放映した。
クッタブルの生存者、水雷艇乗組員、シドニー市民、伊21水偵パイロットだった伊藤進大尉など、関係者の証言インタビューを中心にシドニー攻撃が再現されている。
伊24搭載艦乗組員芦辺一等兵曹の弟さんが、「せめて兄の乗っていた特殊潜航艇の破片でも見つかれば」と言っているのが印象的。

2006年11月26日、シドニー湾攻撃から60年以上を経て、オーストラリアのダイバーがシドニーの北にあるニューポート沖で特殊潜航艇の残骸を発見し、伊24から発進した艇と確認された。
場所は 33 40 21 S 151 22 58 E 近辺。
(この座標は遺跡保護の為の制限区域中心座標で、沈没場所とはズレているらしい)

日濠トライデント演習に際し、2016年4月15日に海上自衛隊の潜水艦「はくりゅう」SS-503が、護衛艦「あさゆき」DD-132及び護衛艦「うみぎり」DD-158と共にシドニー湾に入り、東方艦隊基地に停泊した。
シドニー湾に日本の潜水艦が進入したのは実に74年ぶりの事となる。

【その他特殊潜航艇】
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甲標的は回収を前提としていたが、操縦操作が難かしく、シドニー攻撃の様に生還しないケースが多く、やがて1943年頃から特攻を前提とした人間魚雷が検討されていく。
回天は九三式三型酸素魚雷(550馬力)を推進に使った特攻兵器で、全長14.75m、直径1m、重量8.3t、炸薬1.55t。。
一型が420隻(420本?)生産され、1944年11月より実戦参加。
写真は靖国神社の遊就館に展示されている回天一型改一。

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一人乗り人間魚雷回天十型の試作型。それまでの回天の型と異なり電動推進となっている。
呉市の大和ミュージアムにて。

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こちらは特殊潜航艇、海龍。
魚雷もしくは体当たりで攻撃する。
魚雷をベースに開発された回天とは異なり、操縦が容易になる工夫がされている。乗員2名
200隻以上建造されたというが、実戦には参加していない。
同じく大和ミュージアムで展示。
ほかに海軍では5人乗りの蚊龍(甲標的丁型)を採用していたが殆ど実戦には参加していない。

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おまけ その1。
イタリア海軍の2人乗りSLC(低速魚雷)、通称「マイアーレ」7(豚)。
潜れない豚はただの豚さ...
ミラノの科学技術博物館にて。

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おまけ その2
2022年の国際観艦式で来日し、海上自衛隊横須賀基地でデッキの一部を一般公開していたオーストラリア海軍の駆逐艦(イージス艦) HMASホバート DDG39にて。
ハープーンミサイルのランチャーには、万一の燃料漏れの際の指示が非常に細かく金色の銘版に記載されているのだが、「イザという時そんなの読んでる暇ねぇよ」ということか、艦独自の大きな文字の張り紙で簡潔明瞭な指示がしてある。
「ハープーンの燃料が漏れたら猫用トイレの砂を使え」
そんなの積んでんだ...
あと、普通猫のトイレの砂はCat litterというらしいが、わざわざKitty(子猫ちゃん)としているあたりオージーかわいい。
Shore Connection Roomは接岸に必要な器具を入れておく物置部屋かな?
背後は同じく一般公開されていたオーストラリア海軍の補給艦HMASストルワート A304。

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おまけ その3。
潜水艦母艦と、発進前の特殊潜航艇甲標的...ではなくって、野生のカンガルーの親子。パース近郊にて。




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