泰緬鉄道
Death Railway


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これがいわゆる「戦場にかける橋」、旧メークロン川(現クワイ川/クウェー川)にかかる旧泰緬鉄道の鉄橋。
イベントの為ライトアップされ、観覧席、日本軍見張りの塔、病院などが設けられている。
橋は今やタイ王国の貴重な観光資源になっている。
14 2 27 N 99 30 13 E



大東亜戦争中、日本軍にとって西の防衛線であるビルマ戦線。
ここに兵や軍需物資を送る為にシンガポールからビルマを結ぶ鉄道が必要となり、
タイ〜ビルマ(現ミャンマー)間に日本軍が敷設したのが泰緬鉄道(英語:Thai Burma Railway通称Death Railway)。
この工事の為に連合軍捕虜(英、米、豪、蘭)6万名と、現地賃金労働者(タイ、中国、インドネシア、ビルマ、マレー、中国など)20万名が集められ、過酷な労働条件やマラリア・脚気などの病気で4割が命を落としたとも言われるが、1942年6月着工、1943年10月開通という驚くべきスピードで全長400kmを超える路線を開通させた。

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旧メークロン川にかかる旧泰緬鉄道の鉄橋を渡る下りの観光列車。
橋桁は、円弧型のトラス構造になっているのが戦争中にかけられたオリジナルの部分で、台形トラス構造で作られている中央2径間が、戦後日本企業が架け直した部分。

橋のあるカンチャナブリー付近は映画「戦場にかける橋」ですっかり有名となり、完全に俗化した観光地となっている。
また、映画の原題Bridge on the river Kwaiの影響が余りに大きく、橋のかかる川の名が一部クワイ川と名前を変えざるを得なくなった。
この映画、作品賞をはじめとしてアカデミー賞7部門受賞という歴史に残る名作だが、
映画では橋はイギリスの技術で作ったことになっている(実際には日本の技術)
映画では英軍捕虜が進んで橋の建設に参加(実際には捕虜は資材運びが主な仕事で、サボタージュの様なこともそれなりにしたらしい)
映画では脱走不可能なジャングルの奥地(実際にはバンコク方面に殆ど平地。ただ、白人が脱走すると目立ってしょがないだろうが...)
英特殊部隊の仕掛けた爆薬により橋が列車もろとも破壊(実際には米陸軍航空隊主体の空爆による破壊と修復を繰り返した)
といった点で事実と著しく異なり、米・英・日いずれにとっても見方によっては失礼な映画でもある。
この映画、原作がフランス人(フランス人には失礼極まりない人が多い)だからなのかもしれないが、所詮はフィクションと割り切るしかない。
ちなみに原作者ピエール・ブールは猿の惑星の原作でも有名。

一方、2013年製作の「レイルウェイ 運命の旅路」は原作者の実体験に基づく映画。
この映画、私は出張で乗ったタイ航空の機内で見た。
鉄橋やアルヒル桟道橋、ヘルファイアーパスなどが登場し、タイの観光案内も兼ねている感じの映画だが、その地味さ、重さ、史実への忠誠さといった点で、良くも悪くも戦場にかける橋とは対極の映画。
オリジナルのタイトルはRailway Manで、これは電車男とは関係なく、鉄オタ、鉄ちゃんというような意味。
主人公の英軍通信兵は「乗り鉄」「時刻表鉄」で、泰面鉄道の記録を付けた為に日本軍の拷問を受ける。

捕虜よりも現地徴用の工夫の犠牲の方が大きかった点は両方の映画でスルーされているが、これは映画のストーリー上しょうがないので予備知識として勉強しておくしかない。
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橋は歩いても渡れる。
欧米人観光客も多いが、この日はタイの休日なのでタイ人がやたらと多かった。
日本人は少ない。折角日本軍がかけて、日本企業が補修した橋なのに...
大抵の人は途中で引き返すので、カンチャナブリーの対岸まで渡りきると静か。

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イベントで、日本の国旗を掲げた蒸気機関車がライトアップされた橋を上り方向に渡る。
車両はSRT(タイ国鉄)の日本製C-56(数量動態保存している模様)。
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最初にかけられたのは木造の橋で、、鉄橋の下流100mの所に作られた。
戦争博物館の建物内に一部が保存されている。
この橋は泰麺鉄道の建設資材を運ぶのに使われたが、上流に鉄橋が完成し、その後泰緬鉄道が開通すると、木造の橋、鉄橋が並行して使われた。
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現在かかっている鉄橋の上から、下流方向を見る。
写真左端に戦争博物館の建物が見える。
そこから前記の、最初の木造の橋がかかっていた。
泰緬鉄道の多くの部分はジャングルを通るので爆撃が難しく、連合軍は開けたメークロン川にかかる2本の橋を狙った。
無論日本軍も橋の重要性を熟知しており高射砲で守りを固めていた。
双方の橋は何度も爆撃を受け破壊され、日本軍は橋を修復する間、無事なもう片方の橋をバックアップとして使った(鉄橋の方が耐荷重は大きい)。

1945年4月3日未明、ライネメン機長以下10名のクルーが搭乗する米陸軍航空隊第7爆撃大隊436爆撃中隊のB-24J 62番機がインドを離陸した。
機体は受領したばかりの新品だった。
途中、月明かりの無いビルマ上空で日本軍戦闘機1機が何故か編隊を組んできてしばらく一緒に飛んだが、攻撃してくることはなく、B-24も機銃を発射しなかった。
やがて戦闘機は離脱していった。あるいはB-24に気付かなかったのかもしれない。
予定では日本軍の対空砲陣地を制圧するため別のB-24が先行して対人爆弾を投下しているはずだったが、朝0900にカンチャナブリの橋に到達してみると先行機が到達した様子は無かった。
長距離ミッションの為燃料が足りなくなるのを恐れ、先行機の到着を待たず、すぐに橋の攻撃に移った。
高度6000フィートで、木造の橋と並行に飛んだ。
日本軍の対空砲火は最初の内、狙いがはずれていて余り心配しなかった。
投下タイミングがずれると近くの捕虜収容所に落ちてしまう。慎重にタイミングを計り、1000ポンド爆弾を木造橋めがけて2発投下した...はずだったが、1発しか落ちなかった。
しかしこの1発は橋に命中し、明らかにダメージを与えた。
旋回して2回目の攻撃に移った。
日本軍の対空砲火は相変わらず外れていたが、炸裂は前よりすこし近づいていた。
今度は爆弾2発を投下したが至近距離で外れた。
再度旋回して3回目の攻撃に入る。
3度目ともなると日本軍は高射砲の狙いが正確になり、ついに砲弾の炸裂に囲まれた。
残り3発全部を投下した。これも極至近距離で外れたが、最初のダメージをカメラで記録すべく、しばらく橋と並行に飛行した。撮影が終わり離脱しようとしたその時、高射砲の砲弾が命中し爆弾槽の扉(B-24のはシャッター式になっている)、右垂直尾翼の一部と右翼端約1mが吹っ飛んだ。更に無線機もやられたが奇跡的にクルーは無傷だった。
命中弾を受けたことにより機は右に降下をはじめた。
ライネメン機長は最初、エンジンがやられたものと思ったがエンジンは無事だった。
何と、エルロンが(ケーブルを切られたのか?)利かなくなっていたのだ!
B-24は非常に安定性が悪く、エルロンが使えない状態での飛行は無理と言われていた。
この点、信じられない程のダメージを受けても帰還することの多いB-17の方が信頼が厚かったが、航続距離はB-24の方が有利だった。
何とかエンジンのパワーと昇降舵で機体を水平に保ったが、クルーは脱出の用意をした。
しかしここは敵地奥深く、味方の前線とは1500km以上離れている。しかし機体は何とか飛んでいる。
降下した時に速度が増し、それによりラダーが(エルロン無しでも)充分に効くようになり、何とかコントロール出来ることが判った。
そうなればすぐに脱出せず、味方前線に出来るだけ近づいた方が良い。
山を避けるように高度をあげ、かつラダーの利きが悪くならないよう速度低下に気をつけながら、敵地タイ、ビルマ上空を抜けた。
何とかビルマの北西、現バングラデッシュの、コックスバザールにある英軍基地上空にたどり着いた。
しかし滑走路両側には爆撃機の隊列が並んでいる。コントロールの悪い機で着陸に失敗したら大変な事になる。
飛行場への着陸は諦めて並行するビーチの浅瀬に機を不時着水させた。
機尾銃手と爆撃手が軽症を負ったものの、全員機から脱出した。
新品だったB-24は失われたが、目標の橋の破壊は出来た。
しかし結局、同年6月まで泰緬鉄道は運行していた。
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ライネメン以下10名が木造の橋の攻撃に使ったのと同型のB-24J
アメリカ・カリフォルニア州の公開イベントで撮影。

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踏み切りでみかけた旧泰緬鉄道を走る下りの観光列車。

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工事の難所の一つ、ヘルファイアーパスへと下る道を博物館の見晴台から見下ろす。
奥に見える山の先はミャンマー(旧ビルマ)。
戦後、この付近の泰緬鉄道は線路が撤去されジャングルに戻りつつあったが、オーストラリア人の元戦争捕虜が自分の働いていた場所を探し出し、博物館を設立して廃線跡をハイキングコースに整備した。

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ヘルファイアーパスへ向かうハイキングコースは廃線跡。
線路のレールは鉄材として殆どが売却されたが、当時の枕木が所々に残る。
普段の戦跡訪問は自力で訪れているのだが、さすがに今回は路線バスに乗る時間やタイで車を運転する自身がなく、バンコクからの日帰りガイドツアーにした。
英語のツアーも検討したが何故か値段が高く(どうやらタイでは日本人よりも欧米人の方が高くふっかけられているみたい...)日本語のツアーにした。
数社・数パターンから選べるが、日本人向けでヘルファイアーパスまで行くツアーはマイナーなのか、私達夫婦ともう人家族だけでのこじんまりしたツアーだった。
緑の服の人が、日本語を話す現地人ガイド。
しかし、マニアックなツアーの為か鉄道や橋、切り通しについての知識は事前に当然勉強してる、という前提らしく、ガイドからの説明は殆ど無し。まあ別にいいけど。

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ヘルファイアーパスの切り通し。
ヘルファイアーパス(地獄の篝灯峠)の名は、昼夜を問わない交代制の突貫工事で、夜の作業場を照らすかがり火に浮かび上がる衛兵、労働作業に従事する捕虜のシルエットの様子から名付けたという。
14 21 26 N 98 56 58 E

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70年以上前に架けられた、アルヒル桟道橋を最徐行で進む上りの観光列車。乗客は殆どタイ人だった。
14 6 13 N 99 10 5 E
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泰緬鉄道をかつて走っていた蒸気機関車、現タイ国鉄715号
1935年に日本の汽車製造で作られたC5617。後ろに背中合わせで連結されているのは
同じくタイ国鉄713号(C5615)。両車両共に動態保存されている。
いずれも日本の国鉄用に作られたが、軍に徴用されタイに持ち込まれたもの。
泰緬鉄道をはじめタイの線路幅は1000mmなので、日本の国鉄の線路幅1067mmに対し、車輪を内側方向に厚くし、フランジを内側に寄せる改造が取られた。
動輪が線路から外側にはみ出して見えるのはこのため。
このほか日本軍に徴用されタイに持ち込まれたC56の多くはタイに静態保存されている。
また、靖国神社のC5631(静態)、大井川鉄道のC5644(動態)の機関車もタイで走っていたもの。
バンコク中央駅にて撮影。

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捕虜の生活の様子を絵や記録で伝えるJEATH博物館。白人の団体ツアー客が続々と入場。
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カンチャナブリにある、日本軍鉄道隊が建てた犠牲者(南方各国労務者と捕虜)の霊を慰める慰霊碑。とは言っても日本人しか来ないようだが。
裏に刻まれた建立の日付は昭和19年(1944年)2月。
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連合軍兵士の墓地。
14 1 53 N 99 31 31 E

以下おまけ。映画「レイルウェイ 運命の旅路」で、若き英軍通信兵の主人公が、シンガポール陥落まで立てこもっていた要塞の撮影地。
シンガポールにあるバトルボックスを想定しているのだろうが、実際にはオーストラリアにある、英植民地時代にブリスベン川河口防衛の為に作られたリットン砦(現在はフォートリットン国立公園)で撮影されている。
映画の予告編がYoutubeなどで見られるので見比べてみて下さい。

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日本軍に占領され、豆戦車やトラックが終結していた場所。上空を飛ぶ戦闘機CGではなく、オーストラリアの愛好家が保有するYak-18(あるいは南昌CJ-6か?)を飛ばしたとのこと。
27 24 37 S 153 09 05 E

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英軍全面降伏により、地下通信室から地上に出て来た時のトンネル。





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