イベントの為ライトアップされ、観覧席、日本軍見張りの塔、病院などが設けられている。 橋は今やタイ王国の貴重な観光資源になっている。 14 2 27 N 99 30 13 E |
日本陸軍の鉄道隊は1896年に鉄道大隊からスタートし、昇格と拡大を繰り返し、第二次世界大戦終結時には20連隊を有していたがいずれも千葉市の第一連隊、習志野市津田沼の第二連隊を母体としたものであった。 35 41 23 N 140 01 19 E |
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35 41 28 N 140 01 21 E |
35 44 52 N 140 00 09 E |
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35 41 22 N 140 01 25 E |
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600oゲージの軍用軽便鉄道で使われた。戦後、西武鉄道が入間川の砂利運搬で使用、レストアされて展示されており半屋外展示だが状態は良い。 35 44 03 N 139 40 19 E |
35 41 11 N 140 02 35 E |
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35 37 46 N 140 06 35 E |
大東亜戦争中、日本軍にとって西の防衛線であるビルマ戦線。 ここに兵や軍需物資を送る鉄道が必要となり、タイ〜ビルマ(現ミャンマー)間に日本軍が敷設したのが泰緬鉄道(英語:Thai Burma Railway 通称Death Railway)。 この工事の為に連合軍捕虜(英、米、豪、蘭)6万名と、現地賃金労働者(タイ、中国、インドネシア、ビルマ、マレー、中国など)20万名が集められ、過酷な労働条件やマラリア・脚気などの病気で4割が命を落としたとも言われる。 1942年6月着工、1943年10月開通という驚くべきスピードで全長400km超の路線を開通させた。 |
通過する対向上りの南線寝台列車(中国製)を牽引するのは、タイ国鉄4504号 日立製作所製のHDI型。 写真右端の石板は、泰緬鉄道起点駅を記念するもので、「1942年9月16日ここノンプラドック駅から建設が開始されました」と記載されている。 13 49 05 N 99 54 40 E |
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13 40 00 N 99 52 55 E この寺には泰緬鉄道建設当時、捕虜収容所が置かれていた。 寺の僧侶が捕虜に煙草を恵んだのを咎めた日本兵が僧侶を殴り(タイでは僧侶は偉い)、地元民と日本軍との間にトラブルとなり、銃撃戦にまで発展した。 |
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1945年版米陸軍地図を元に作成。国境線は現在のもの。ベトナムの鉄道網は省略。 戦後建設された路線、現在廃線になっているものについても判る限り記載した。 バンコク近郊の高架線BTS、空港線ARL、地下鉄MRTについては省略。 また、1894年〜1968年まで運行していたバンコクの路面電車も省略。 マハチャイ線、メークロン線はつながっていない。 カンボジアの鉄道は内戦で荒廃していたが、現在は復活。ただしタイからプノンペンまでは未だ運行していない。 マレーシアとタイの間はかつては相互に乗り入れしていたが、現在西海岸線は乗換が必要。東海岸線はマレーシア側国境近くで列車が運行していないのでバス乗継が必要。 太平洋戦争中に日本軍が建設したのは泰緬鉄道と、クラ地峡鉄道(チュンポーン〜カオファーチー間)。 クラ地峡鉄道はタイ地場土木建築会社と、主にマラヤ(現マレーシア・シンガポール)から連れてきた労務者を使って建設された(連合軍捕虜は使っていない)。 目的は泰緬鉄道と同様、ビルマ戦線への人員物資補給等。 1943年7月に工事着手し、レールはマラヤ(現マレーシア)から持ってきた。同年11月に開通した。 しかし連合軍の爆撃により線路や橋、積荷を船に移し換える湾口施設が破壊された為、1年未満で使用を中止し、線路は他で使う為日本軍自らが外した。 |
橋桁は、円弧型のトラス構造になっているのが戦争中にかけられたオリジナルの部分(日本軍の自前ではなくインドネシアから持ってきた)で、台形トラス構造で作られている中央2径間が、戦後日本企業が架け直した部分。 橋のあるカンチャナブリー付近は1957年の映画「戦場にかける橋」ですっかり有名となり、完全に俗化した観光地となっている。 この映画、作品賞をはじめとしてアカデミー賞7部門受賞という歴史に残る名作だが、 映画では橋はイギリスの技術で作ったことになっている(実際には日本の技術) 映画では英軍捕虜が進んで橋の建設に参加(実際には捕虜は資材運びが主な仕事で、サボタージュの様なこともそれなりにしたらしい) 映画では脱走不可能なジャングルの奥地(実際にはバンコク方面に殆ど平地。ただ、白人が脱走すると目立ってしょがないだろうが...) 映画では 英特殊部隊の仕掛けた爆薬により橋が列車もろとも破壊(実際には米陸軍航空隊主体の空爆による破壊と修復を繰り返した) といった点で事実と著しく異なり、米・英・日いずれにとっても見方によっては失礼な映画でもある。 この映画、原作がフランス人(フランス人には失礼極まりない人が多い)だからなのかもしれないが、所詮はフィクションと割り切るしかない。 ちなみに原作者ピエール・ブールは猿の惑星の原作でも有名。 映画及び英語版小説の原題「The Bridge on the River Kwai」(クウェー川に架かる橋)に反して、実際にはこの橋はメークロン川に架かっていた。クウェーはその支流であり、線路沿いに流れるもののクウェー川には橋がかかっていない(工期短縮の為、トンネルは無し、橋も必要最小限として建設した)。 しかし映画が余りにも有名になったので、知名度アップ、観光客誘致の為にタイ政府はしたたかにも橋のかかる部分の川をクウェー ヤイ川、従来のクウェー川をクウェー ノイ川に変えた(2本の川が合流した下流はメークロン川のまま)。 この話、都市伝説かと思っていたのだが、確かに昔の地図を見ると橋がかかるのはメークロン川になっている。 一方、2013年製作の「レイルウェイ 運命の旅路」は原作者の実体験に基づく映画。 この映画、私は出張で乗ったタイ航空の機内で見た。 鉄橋やアルヒル桟道橋、ヘルファイアーパスなどが登場し、タイの観光案内も兼ねている感じの映画だが、その地味さ、重さ、史実への忠誠さといった点で、良くも悪くも戦場にかける橋とは対極の映画。 オリジナルのタイトルはRailway Manで、これは電車男、とは関係なく、鉄ヲタ、鉄ちゃんというような意味。 主人公の英軍通信兵は「乗り鉄」「時刻表鉄」で、泰面鉄道の記録を付けた為に日本軍の拷問を受ける。 捕虜よりも現地徴用の工夫の犠牲の方が大きかった点は両方の映画でスルーされているが、これは映画のストーリー上しょうがないので予備知識として勉強しておくしかない。 あと、「戦場にかける橋」の続編でも何でも無いのだが極めて紛らわしいタイトルの、「戦場にかける橋2/クワイ河からの生還」(1989年)は太平洋戦争末期、カンチャナブリから日本に移動させられる連合軍捕虜の話。 これ、DVDが出ておらず、世間の評判も今ひとつ悪い(というか戦場にかける橋の続編・類似作品というだけでハードルは高くなる)のでずっと未見だったのだが.... 結論から言うと見てよかった。B級一直線かと思ったらそんな事は無く、少なくとも主演は最初から最後まで人道主義を貫く軍医役のエドワードフォックス(「ジャッカルの日」でお馴染み!ジャッカルの日は死ぬほど面白い)でなかなかのもの。 その周りを囲むのが仲代達矢(人道派だが酔っ払いというとんでもないキャラ)、スタートレックのミスターカトーでお馴染みジョージ武井、インディジョーンズのブロディ教授のイメージしかないデンホルムエリオット(何しに出てきたんだ...)。 しかしエキストラ級となると綺麗な英語の発音で「英語話しません」と言う日本兵とか、どう見ても日本兵には見えない色黒丸顔の兵士とか、妙に綺麗な民族衣装(モン族のつもり?)を着てゲリラ戦に参加する地元民とか怪しい映画の香りが。 それよりもこの映画、車輌等が面白い。決してB級だから、という訳ではなくそれなりに頑張っているのだろうが、いきなり日本軍の軍用車輌役でトヨタFQ15L型3/4トン4輪駆動トラック。2輌出演する。 橋を攻撃する米軍機及び、米陸軍航空隊のパイロットが奪って逃げようとする日本海軍機「ゼロ戦」は共にT-28トロージャンが一人二役を演じている。操縦席に「故障中」の荷札には笑わせてもらいました。そんなの隔離して早く修理しろよ。 日本に輸送される「ぶらじる丸」(徴用貨物船「伯刺西爾丸」を想定か?)の護衛に付いているのはフィリピン海軍のPS-19ミゲル マルバー級コルベット。元々は米海軍PCE(R)-852として1944年に就役した警備救助艦で、その後1966年に南ベトナム海軍に移り、1975年ベトナム戦争終結に伴いフィリピンに亡命し、そのままフィリピン海軍の所属となり2018年現在も就役している。 同型艦は68隻作られ、内11隻がフィリピン海軍で使われており、5隻が現役という。 カンチャナブリからシエムリエップを抜けてサイゴンまで兵を輸送する列車を牽引する蒸気機関車は「C5623」のプレートと713の車輌番号(他に719も確認出来る)を記入しているが、どこかの国の標準軌の保存鉄道を撮影に使っている模様。ご丁寧にテンダー車にタイ文字が記入されているのでタイ国鉄のC56動態保存機関車を模しているという訳。何で戦争中の仕様にしないのかな? |
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タイ及びビルマで泰緬鉄道建設に関わったアメリカ兵捕虜約700名、また特にその中で病気、栄養失調、過労、虐待で命を落とした356名を記憶するもの。 タイ人の女性が声に出して英語を読み上げていた。英語の勉強頑張って下さい。絶対役立ちますから... 14 02 30 N 99 30 14 E |
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ここを訪問するのは欧米人、次いで中国系が多く、日本人は少ない。 折角日本軍がかけて、日本企業が補修した橋なのに... 大抵の人は途中で引き返すので、カンチャナブリーの対岸まで渡りきると人も少なくなり静か。 |
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仏暦2495年(1952年)と、施工者日本橋梁株式会社を記載したプレートが桁に張られている。 |
機関車はフランス・アルストム社製の4110号。 |
機関車はフランス・アルストム社製の4420号。 |
車両はSRT(タイ国鉄)の日本製C56で2輌を動態保存している。 |
戦争博物館の建物内に一部が保存されている。 14 02 27 N 99 30 18 E この橋は泰麺鉄道の建設資材を運ぶのに使われたが、上流に鉄橋が完成し、その後泰緬鉄道が開通すると、木造の橋、鉄橋が並行して使われた。 |
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現在Newzealand Alleyという名の通りになっている。 画面奥で本線と合流、木造の橋は背後方向。右側一帯は捕虜収容所になっていた。 14 02 36 N 99 30 24 E |
鉄橋の約100m下流左側にある戦争博物館の建物から最初の木造の橋がかかっていた。 泰緬鉄道の多くの部分はジャングルを通るので爆撃が難しく、連合軍は開けた川にかかる2本の橋を狙った。 無論日本軍も橋の重要性を熟知しており高射砲で守りを固めていた。 米軍または英軍が1944年11月29日、12月13日、1945年2月5日、2月9日、2月13日、4月3日、6月24日の7回爆撃を繰り返し、双方の橋は何度も破壊され、日本軍は橋を修復する間、無事なもう片方の橋をバックアップとして使った(鉄橋の方が耐荷重は大きい)。 1945年4月3日未明、ライネメン機長以下10名のクルーが搭乗する米陸軍航空隊第7爆撃大隊436爆撃中隊のB-24J 62番機がインドを離陸した。 機体は受領したばかりの新品だった。 途中、月明かりの無いビルマ上空で日本軍戦闘機1機が何故か編隊を組んできてしばらく一緒に飛んだが、攻撃してくることはなく、B-24も機銃を発射しなかった。 やがて戦闘機は離脱していった。あるいはB-24に気付かなかったのかもしれない。 |
アメリカ・カリフォルニア州の公開イベントで撮影。 予定では日本軍の対空砲陣地を制圧するため別のB-24が先行して対人爆弾を投下しているはずだったが、朝0900にカンチャナブリの橋に到達してみると先行機が到達した様子は無かった。 長距離ミッションの為燃料が足りなくなるのを恐れ、先行機の到着を待たず、すぐに橋の攻撃に移った。 高度6000フィートで、木造の橋と並行に飛んだ。 日本軍の対空砲火は最初の内、狙いがはずれていて余り心配しなかった。 投下タイミングがずれると近くの捕虜収容所に落ちてしまう。慎重にタイミングを計り、1000ポンド爆弾を木造橋めがけて2発投下した...はずだったが、1発しか落ちなかった。 しかしこの1発は橋に命中し、明らかにダメージを与えた。 旋回して2回目の攻撃に移った。 日本軍の対空砲火は相変わらず外れていたが、炸裂は前よりすこし近づいていた。 今度は爆弾2発を投下したが至近距離で外れた。 |
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JEATH博物館にて。 再度旋回して3回目の攻撃に入る。 3度目ともなると日本軍は高射砲の狙いが正確になり、ついに砲弾の炸裂に囲まれた。 残り3発全部を投下した。これも極至近距離で外れたが、最初のダメージをカメラで記録すべく、しばらく橋と並行に飛行した。撮影が終わり離脱しようとしたその時、高射砲の砲弾が命中し爆弾槽の扉(B-24のはシャッター式になっている)、右垂直尾翼の一部と右翼端約1mが吹っ飛んだ。更に無線機もやられたが奇跡的にクルーは無傷だった。 命中弾を受けたことにより機は右に降下をはじめた。 |
14 02 35 N 99 30 13 E ライネメン機長は最初、エンジンがやられたものと思ったがエンジンは無事だった。 何と、エルロンが(ケーブルを切られたのか?)利かなくなっていたのだ! B-24は非常に安定性が悪く、エルロンが使えない状態での飛行は無理と言われていた。 この点、信じられない程のダメージを受けても帰還することの多いB-17の方が信頼が厚かったが、航続距離はB-24の方が有利だった。 何とかエンジンのパワーと昇降舵で機体を水平に保ったが、クルーは脱出の用意をした。 しかしここは敵地奥深く、味方の前線とは1500km以上離れている。そして機体は何とか飛んでいる。 降下した時に速度が増し、それによりラダーが(エルロン無しでも)充分に効くようになり、何とかコントロール出来ることが判った。 そうなればすぐに脱出せず、味方前線に出来るだけ近づいた方が良い。 山を避けるように高度をあげ、かつラダーの利きが悪くならないよう速度低下に気をつけながら、敵地タイ、ビルマ上空を抜けた。 何とかビルマの北西、現バングラデッシュの、コックスバザールにある英軍基地上空にたどり着いた。 しかし滑走路両側には爆撃機の隊列が並んでいる。コントロールの悪い機で着陸に失敗したら大変な事になる。 飛行場への着陸は諦めて並行するビーチの浅瀬に機を不時着水させた。 機尾銃手と爆撃手が軽症を負ったものの、全員機から脱出した。 新品だったB-24は失われたが、目標の橋の破壊は出来た。 しかし結局、同年6月まで泰緬鉄道は運行していた。 |
14 02 05 N 99 30 08 E |
荒削りの壁面が残る。画面左はクウェー ノーイ川。 13 59 52 N 99 30 23 E |
タイミング良くバスと併走してくれた。 手前はタロ芋畑。 |
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バンコク〜シンガポール間を運行し、カンチャナブリ線にも乗り入れている。 2014年にはカンチャナブリ線で脱線事故を起こし、日本人女性二人が怪我をしている。 更に翌年、牽引しているアルストム機関車が燃えるというハプニングが。 乗車は一人3000米ドルを越える価格設定になっている。ドレスコードあり。乗りたい人はどうぞ。 ぷらっとこだま 品川〜新大阪 グリーン車が人生最大の豪華長距離鉄道旅行である私にとっては恐らく一生縁の無い乗り物。 ちなみにこの時、大阪からの帰りは新幹線より安いLCCとしたのは言うまでもない。 |
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料理に使うのだろうか。タイ人は余り自炊しないのだが。 |
機関車は米国GE社製。 この日の乗客は殆どタイ人だった。 14 6 13 N 99 10 5 E |
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岩肌には簡単に手が届くのを確認済み(真似して何かあっても知りません)。 |
右を流れる川はクウェー ノーイ川。 ビルマ(現ミャンマー)との国境近くまでは概ねこの川に沿って線路が敷かれていた。 |
乾季の12月に撮影した上の写真に比べ川が増水し、タムクラセー橋駅前のリゾートホテルが水没している。 |
列車と岩肌はギリギリ。木の橋は軋んで音を立てる。 機関車4307号はフランス・アルストム社製。 |
どこまでオリジナルなのか、補修はどの程度まで実施されているのか? |
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14 08 17 N 99 07 36 E |
14 13 07 N 99 05 03 E |
(土日運行の観光列車のみがここまで来る。通常の列車運行はその1つ手前のナムトック駅まで) この先の線路は撤去されており、廃線跡の一部はダムの底に沈んでいる。 14 14 15 N 99 03 32 E |
現在はクウェー川にかかる鉄橋をモチーフにした遊歩道の橋がかかっている。 14 14 16 N 99 03 31 E |
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泰緬鉄道はこのすぐ前を通っていたので現在も線路が残っていればすごい観光ルートになったと思うのだが。 服のまま泳ぐのがタイ人のデフォルト。 14 14 19 N 99 03 29 E |
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戦後、この付近の泰緬鉄道は線路が撤去されジャングルに戻りつつあったが、オーストラリア人の元戦争捕虜が自分の働いていた場所を探し出し、博物館を設立して廃線跡をハイキングコースに整備した。 タイ軍の敷地内に位置するが、博物館とハイキングコース一帯はCWGC(英連邦戦争墓地委員会)のオーストラリア支部となるオーストラリア戦争墓地事務局OAWGが維持管理している。 線路跡はタンビザヤ方向に向かって全般的に左手が谷、右手が山側になる。 大量に生える竹は当時、住居、寝床、水筒などに使った。 |
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ヘルファイアーパス(地獄の篝灯峠)の名は、昼夜を問わない交代制の突貫工事で、夜の作業場を照らすかがり火に浮かび上がる衛兵、労働作業に従事する捕虜のシルエットの様子から名付けたという。 日本軍はコンユーの切通しと呼んだ。 14 21 26 N 98 56 58 E |
1890年代から1963年まで存続した英国のバロー製鉄所の刻印あり。 同社は当時レール生産の大手で世界中に輸出していたという。3/1898は1898年3月製造か? |
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記念プレートの大きいものはヘルファイアパスの解説、小さい方は捕虜の衛生状況に常に気を配り仲間を励ましたオーストラリアの軍医、ダンロップ中佐(最終階級大佐)を追悼するもの。 |
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稜線の向こうはミャンマー(旧ビルマ)。 廃線にせずここまで列車が運行していたら相当な観光路線になっただろうに。 14 21 28 N 98 57 02 E |
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14 21 36 N 98 56 49 E 画面奥がタンビザヤ方向。この先も廃線跡は続いているが、景色に変化がなく暑いこともあり引き返し。 |
一番左の橋は 14 21 57 N 98 56 30 E の辺り。 |
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上の写真は1935年に日本車輛製造で作られたC56 17号(現タイ国鉄715号)。 下の写真はC56 17に背中合わせで連結されているのは1935年日立製のC56 15号(現タイ国鉄713号)。 両車輌共に動態保存されている。 いずれも日本の鉄道省(後の国鉄)用に作られたが、軍に徴用されタイに持ち込まれたもの。 泰緬鉄道をはじめとして、タイ国鉄の線路幅は1000mmなので、日本の鉄道省/国鉄の線路幅1067mmに対し、車輪を内側方向に厚くし、フランジを内側に寄せる改造が取られた。 動輪が線路から外側にはみ出して見えるのはこのため。 このほか日本軍に徴用されタイに持ち込まれたC56の多くはタイに静態保存されている。 燃料が日本の石炭とは違い、薪木を搭載しているのが判る。 バンコク中央駅の100周年記念イベント中に撮影。 |
クウェー ヤイ川の鉄橋で夜になって行われるイベントの為に参加する為、古い貨車を連結してカンチャナブリ駅の待避線で待機中。 日章旗(規格を外れている様だが...)を付けているが、イベント初日の昼頃に黒いガムテープで貼付けたもの(朝見たら旗が無く、昼過ぎには付いていた)。車体前部のペットボトル、砂利の上に置かれたバケツには潤滑油が入っている。5Sの概念が無いのか....。 編成は先頭から蒸気機関車、有蓋貨車、有蓋貨車、無蓋貨車、車掌車、ディーゼル機関車で、貨車・車掌車には仏暦2516年〜2525年(西暦1973年〜1982年)の間のプレートが散見される。 編成3輌目の有蓋貨車には1965年日立製作所の英語プレートあり。 最後尾はGE製ディーゼル機関車 4044号。これは恐らく老朽化により非力な蒸気機関車が立ち往生した時の為のヘルプ。 |
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機関車本体はC56 15号だが、偏芯棒にはC56 28の文字が。整備の時に入れ替わってしまったか、部品取りに使ったのか。 本車以外のタイの蒸気機関車でも、また、靖国神社遊就館のC56 31号でも別車両の部品が見られるが、タイ特有のいい加減さなのか、国鉄でも同じだったのか…? |
14 02 35 N 99 30 18 E 米語でカウキャッチャーと呼ばれる赤いスカートは日本の国鉄で使われたC56には無いもので、タイで取り付けられたもの。 靖国神社の遊就館に現在展示されているC5631が泰緬鉄道開通式で走った時の写真では装備されていないので、それ以降に取り付けられたものだろう。 私が旧泰緬鉄道の路線に乗ったときも、線路にいた半ば放し飼いの牛が列車に追い立てられて逃げていたので、カウキャッチャーはタイでは必須装備なのだろう。 余談だがタイで買える牛肉の内、濠米日からの輸入品は高価で、国産はイマイチ固い。 |
歴史的な駅舎の前に展示されているのはC56の36号、タイ国鉄728号。 18 16 49 N 99 28 23 E |
タイでは、主要駅の構内または駅前に退役した蒸気機関車を展示しているケースが多い。 13 44 34 N 100 31 00 E |
プレートはフェイク? 13 47 57 N 100 18 11 E |
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1936年日本車両製造製で石川県の七尾機関区を走行していたが軍に徴用され泰緬鉄道の開通式に参加した。 戦後1977年までタイ国鉄で使用。 大井川鐵道のC56 44(現在動態保存)と共に日本に帰国し、1979年靖国神社に奉納された。 塗装やプレートは国鉄時代のものになっている。 しかし、軌道幅1000mm(展示のレール幅は実測した所1010mm位だったが...)、底い煙突やキャブ天井、脱線復帰用ジャッキ、前部見張り用のステー、デフレクターなし、薪燃料のためのガードなど泰緬鉄道用に改造された箇所はそのまま。 更に連結器は戦後のタイ国鉄使用になっている(しかしカウキャッチャーは外されている)ので、 日本の鉄道省・泰緬鉄道・タイ国鉄の特徴を混ぜた状態となっている。 |
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ちなみに原発は70kg/cm2位。 マッカサンはタイ国鉄のマッカサン車両基地の事だろう。2516は仏暦で西暦1973年相当。 |
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日本に於けるC56の110号は千葉県草加市の氷川中公園 35 49 37 N 139 48 02 E タイに於けるC56の23号はカンチャナブリのクウェー川鉄橋駅横 14 02 35 N 99 30 18 E 主な違いは以下: @ デフレクターの有無 A 煙突の高さ B 運転席屋根の高さ。尚、運転席横窓のひさしの有無はタイの車輛にもひさし付が見受けられる。 C 脱線復帰用ジャッキの有無 D 前後・上下に走る配管の有無。よくわからない。 E 薪を高く積み上げるための柵の有無 F 手すりの高さと、前部につながる配管(ブレーキホース?)の有無 ブレーキホースはタイ国鉄仕様?) G 連結器の形状(タイのものはタイ国鉄仕様と思われる) H 対応レール幅 I カウキャッチャー/排障器 (カウキャッチャーはタイ国鉄になってから) |
牽引しているもの、及び車体前部を乗せているのは九七式軽貨車。 クウェー川鉄橋駅横に展示されている。 14 02 36 N 99 30 19 E |
これによりきついカーブも曲がれるようになっている。 |
このような編成で実際に運行されていた写真が残っている。 |
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この慰霊碑のすぐ隣に木造の橋を渡る支線が通っていた模様。 14 2 29 N 99 30 20 E |
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「泰緬連接鉄道建設の間、不幸にも病にたおれた南方各国の労務者及び俘虜の為、此の碑を建て、恭しくその霊を慰む 昭和十九年二月 日本軍鉄道隊」 (元は旧字旧文体)と彫られている。 そして、こんな所にもあの棒が... ちなみに敷地に2本あった。 そんなに世界人類平和したければ北朝鮮に行って立ててみろ、といいたい。 |
太平洋戦争中はこの場所に捕虜のキャンプがあった。 14 1 53 N 99 31 31 E 泰緬鉄道沿いにある3箇所の墓地の内最大のもので、英連邦軍兵約5000名、オランダ軍兵約1800名を埋葬。 駅前ということもあり多くの観光客が訪問する。 |
(墓地を2箇所に分ける意味があるのか?...) ここも捕虜キャンプ跡地で、当時から埋葬場として使われていた。 英連邦軍1400名、オランダ軍300名を埋葬。 こちらは訪問する人は殆どいない。 14 0 19 N 99 30 52 E |
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余りの反日と突っ込みどころ満載の考証にコメントする気も起きませぬ.... 13 55 30 N 99 25 49 E ついでに「枕木1本 死者1人」について。 何の疑問もなくあちこちで表記されている。ネットは無論、記念碑や書籍にも書かれている。 (英語ではOne man died for every sleeper laidで検索されたし) 泰緬鉄道全長415km=415,000m (引き込み線、すれ違い区間、橋の2重化などで実際の線路長は更に長くなる) 20万人の4割が死亡した場合死者80,000人 なのでこれから逆算すると枕木の間隔は 415000÷80000=5.2m となる。 労務者、死者はもっと多いという説もあるが死者は最大でも12万、その場合枕木の間隔は3.5m。 やはりこれはおかしいだろ。 |
下写真は現役のタイ国鉄のコンクリート製枕木。 枕木のピッチは1m以下。 よって枕木1本≒死者1名は成立しない。 死者が途方も無く多いのは判るが、事実と著しく異なる、根拠の無い表記表現はやめるべきだ。 いずれにせよ泰緬鉄道建設の無謀な計画と死者の多さは究極のブラック職場といってよい。 敗戦により日本人は戦争を嫌うようになったが、組織として明らかに無謀なことを集団で実行しようとする体質は全く変わっていない。 昔のインパール作戦失敗と最近の東芝粉飾決済事件は原因が同じである。 東芝の場合はチャレンジ空しく、原資が無く粉飾決済に至ったが、泰緬鉄道が開通できたのは無謀な計画にもかかわらず捕虜労務者を多数確保できたからにすぎない。 その行く末が「枕木1本 死者1人」という数字を無視したバイアスのかかった反日である。 |
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14 00 59 N 99 31 50 E 彼は通訳として泰麺鉄道建設に関わり(陸軍省勤務で軍人ではない)戦後は遺骨捜索や慰霊活動、カンチャナブリの地域支援を行った。 写真下は永瀬が設立したクワイ河平和寺院で、鉄道駅の前にある。 14 02 36 N 99 30 20 E |
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こりゃちょっとヒドいよな... パタヤのミニサイアムにて。1/25スケールらしい。 12 57 11 N 100 54 37 E |
タイ国鉄で動態保存している蒸気機関車が走る。 先頭はタイ国鉄824号 パシフィック 1949年川崎重工製で、その後ろに逆向きにタイ国鉄850号 パシフィック 1949年川崎重工製を連結している。 年4回決まった日に観光用に蒸気機関車を運行しているが、その時はC56ではなく専らパシフィック形が使われている様だ。 私は鉄道の写真を撮る、鉄道で旅をする(青春18きっぷも)、登山列車に乗る、鉄道博物館を見る、鉄道を舞台にした映画を見る、などはそれなりに好きなのですが、別に「鉄」では無いので、ゆる〜く適当にやってます。 例えば、蒸気機関車と犬とどっちが好きか、と聞かれたら「犬」と答える、その程度です。 ですから犬と蒸気機関車と両方を同時に撮影する期会に恵まれれば、つい犬の方にピントを合わせてしまいます。 |
猫は犬ほど好きではないのですが(あいつら何考えてるのか判らん...)、蒸気機関車と猫ならやっぱり猫かな。 ビンボケの機関車はタイ国鉄950号 ミカド 1949年 日本車両製造製。元々は木を燃料にしていたが後に重油に改造。タイ国鉄の北線、東北線で使用。 旧トンブリ駅(バンコクノイ駅)の跡地(現シリラート病院)に静態保存。 |
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これはさすがに猫にピント合わせる時間が無かった。 しかし君たち猫は何で車両の直前を横断したがるのかね....犬に比べるとお馬鹿? あとタイ国鉄の線路はあまりにも凸凹。 車輌は日本製のNKF型。 |
猫と電車両方にピントが合っている。 広告はタイのPCG(パーフェクトコンパニオングループ:タイ最大の財閥チャロンポカパン傘下))が販売しているキャットフードのもの。 車両は高架線MRTのスクインビット線。 黒い点々は車体のの汚れかとおもったがよく見ると卵の模様。 猫って卵から産まれるのか。知らなかった...どこで買えるんだ、猫の卵... |
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野良犬君がC56 17号(現タイ国鉄715号)の前で記念撮影。(この後私に向かって遠吠えしてましたが…) カンチャナブリ駅にて。 |
バンコク駅近くに展示(というか放置)されている装甲列車とその内部。 13 44 42 N 100 31 00 E イギリスのウィッカム社製という。 M2型12.7mm機銃を装備している。 動力なしなので自力走行はできない。 その気になれば簡単に脱線させられる鉄道において、装甲列車がどの程度役立つのであろうか? でも、これ、現在の日本で列車の運転妨害する一部の撮り鉄の牽制用には使えるんでないか? 特別列車やイベント列車、レアな列車の先頭に装甲列車を連結して、線路に侵入する人に銃を向け、場合によっては放水や空砲威嚇射撃をしながら運転....撮り鉄とは違ったマニアも集まりそうだ。 お召し列車の先頭に装甲列車というもの最強セキュリティー。 大井川鐵道機関車トーマスの先頭に装甲列車とか、考えただけでも胸踊る。 ガキ共は夢壊されて泣きやまないかもしれないけど... |