フランスがタイをいじめて領土を奪う→フランスがナチスドイツに占領される→どさくさにまぎれてタイがフランスに戦争をしかけて領土を取り返そうとする→タイ劣勢→日本が交渉に乗り込みタイを助ける→助けてやったんだからと日本がタイに進駐する→しょうがないので日本と手を組む→日本の敵鬼畜米英がタイを爆撃する やっぱ一番のワルはフランス....でしょうね。 |
ラングーンに基地を置く英空軍113飛行中隊のブレニム爆撃機によるもの。 1月24日には同飛行隊の飛行可能機全部を動員した空襲があり、これを受けてよりタイは1月25日付で英、米に宣戦布告をした。 アナンタサマーコム殿は、初期のバンコク空襲で被害を受けた。 1942年1月27日の爆撃で中央部が破損している写真がバンコクナショナルメモリアルの展示にある。 |
東、東北、北線の殆どの列車と、南線の多くがここが始発。 そして殆どの列車が時間通りには発着しない。そんなのはマイペンライ。山手線に駆け込み乗車してしまうような人、時間にキッチリうるさい人はタイで生きていけない。私はとりあえず大丈夫。 先日タイ人のお客様と京浜急行に乗ったとき、「本列車2分程遅れております。お急ぎの所申し訳ありません」とのアナウンスがあった。一緒に呆れた。 13 44 20 N 100 31 00 E |
手前から タイ国鉄824号 パシフィック 1949年川崎重工製 タイ国鉄850号 パシフィック 1949年川崎重工製 タイ国鉄715号 C5617 1935年汽車製造製 タイ国鉄713号 C5615 1935年汽車製造製 パシフィックは戦後補償で日本から送ったもの、C56は軍事利用で日本軍が持ち込んだもの。 |
現在大規模再開発中で盛土により遠くまで見えないが、奥のほうまで線路が配置されている。 13 48 52 N 100 32 43 E |
1927年開通、戦争中の損傷を修復して1953年に再開通。オリジナルのものとは橋桁形状が異なる。 現在は南隣に高速道路橋が出来、北側には在来線の老朽化と拡張高架線化に伴い新たに橋を建設中で、非常に写真が撮りづらくなっている。 13 48 48 N 100 30 54 E |
開発の進む周囲に比べ、ここだけ取り残されている。さすがに600万人首都中心近くにこれだけの鉄道用地があるのは勿体無いのか、移転の話がある。 バイヨークタワーII展望台からの眺め。 右側にまっすぐ伸びるのはスワナブーム空港とバンコクを結ぶエアポートレールリンクの高架線。 |
エアポートレールリンクからの撮影。 エアポートリンクは高架線なので眺めがいいが、多くの車輌は全面ラッピング広告付なので視界が網掛かってしまう。しかし少なくとも1編成は広告無しで運用している模様でこれに運良く乗れれば外の写真が撮れる。 エアポートリンクにはエクスプレス(急行)とシティライン(各停)があるのだが、エクスプレスは2014年から廃止されている。 タクシーが諸経費込みで200-250バーツあればドアツードアで空港まで行けるのに、乗り換えの不便なエアポートリンクエクスプレスが一人150バーツも取っていたのでは、企画倒れといわれてもしょうがないだろう。 |
ここ、スクラップ置き場の様相だが、よく見ると貴重な蒸気機関車が... 屋根の下左は165号(1912年英ノースブリティッシュ製)、その右は54号(1909年独ヘンシェル製)、手前左は336号(1913年スイスロコモティブアンドマシン・ワークス製)。 |
37 21 53 N 120 34 43 W |
バンコクからタイ南部方面のみならず、泰緬鉄道にも接続しており、ラマY世橋共々破壊目標になった。 連合軍の攻撃により橋が落ちたが架け直され、更に現在は複線化に伴い隣に新しい橋が出来た。 13 48 22 N 100 11 10 E |
サタヒップ上空では高度250フィートの低空を低速で飛行し機雷を落とし、その後南に向かい軍港を脱出し高度300フィートで飛行していた所で、、日本軍艦艇の真上を飛んで20mm機関砲の銃撃を受け翼がたちまち火を吹きエンジン2基が停止、タイ湾に墜落した。 クルーは高度が足りない為パラシュート脱出できず、搭乗員10名中ケロッグ少佐と、格納式ボール銃座の銃手キンゼー軍曹のみが助かり捕虜となった。 同機のプロペラがタイ海軍博物館に保存されている。 |
後方は日本陸軍の97式戦闘機の残骸。タイ空軍博物館にて。 |
アメリカの航空ショーで撮影。現在唯一飛行可能な機体。 |
平野に作られた人工的な丘で、太平洋戦争中は日本軍がここに高射砲を設置したとのこと。 法面が漆喰で覆われたのは戦後の事。 全景が見えにくいのでパタヤにあるタイ判東武ワールドスクエア「ミニサイアム」の1/25模型の写真も。 13 45 14 N 100 30 24 E (本物の場所) |
まぁでもオリジナル部分が残っているというのはすごいことだと思うが。 |
B-29による大規模バンコク爆撃は1944年6月5日と1945年4月14日の2回行われた。特に後者は最後のバンコク大規模空襲でもある。 右下のサイン脇の44は1944年ではなくて、仏教暦の2544年(西暦2001年)作画。タイ空軍博物館にて。 |
しかし結局爆弾はかなり離れた場所に着弾し、橋は無事だった。 13 44 22 N 100 29 51 E |
屋根の上に爆弾が落下しているというアナーキーな展示オブジェ。 13 46 15 N 100 31 02 E |
日本陸軍の防空壕。 近辺はデンマーク系船舶会社East Asiatic Companyの倉庫(現在のアジアティークのモール建物)で、当時はこれを差し押さえて基地及び兵器庫として利用した。 そういえばケンチキのカーネルサンダース人形は日本以外では見かけない。タイにも居ない。 13 42 12 N 100 30 13 E |