ノルマンディ戦いまとめ
Battle of Normandy (Overiew)

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中央:後にアメリカ大統領となるアイゼンハワー元帥は、連合軍総司令官としてノルマンディー上陸と、その後の連合軍進撃の総指揮を行った。
写真はロンドンのアメリカ大使館の前に立つアイゼンハワー大統領。
同じ像がノルマンディーのバイユー郊外にもある。

左:海上作戦を指揮したラムゼー提督。ダンケルクからの撤退(ダイナモ作戦)、北アフリカ上陸(トーチ作戦)、シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)、ノルマンディー上陸(オーバーロード作戦)と、いずれも連合軍の勝利に直結した鍵となる作戦の洋上作戦の指揮をとった。写真はダンケルク撤退を指揮したドーバー城での撮影

右:モンゴメリーは地上軍の総司令官だった。
この像はウィストルアムの西、コルヴィルモンゴメリープラージュにある。
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ノルマンディー:この名前はありとあらゆる旅人のロマンをかきたてる。
美術の好きな人にはモネの描いたエトルタの断崖に代表される、印象派の画家が好んだ美しい地として、美食家には一年中食べられる牡蠣や、ドロッとしたカマンベールチーズの産地として(ちなみに日本で売っている国産カマンベールは硬すぎ、匂い無さすぎ。最近の納豆とかも匂いが無いが、醗酵食品とは本来こんなもんじゃないだろ!)、酒飲みにはカルバトス酒の産地として、ミーハーな観光客にはフランスの江ノ島と言われるモンサンミシェルのある地域として、中世の歴史好きにはバイユーのタペストリーとして、建造物マニアにはル アーヴルのつり橋でその名を知られるだろう。
しかし誰が何といおうと、地球の歩き方には1/2ページしか記載が無くとも、ノルマンディーと言えば上陸作戦の地だ。
プライベートライアンなどの映画の影響もあり、ノルマンディー上陸作戦が余りにも有名だが、ノルマンディーの戦いとは、1944年6月6日に開始された、空挺作戦と上陸作戦に始まり、南や西にも領地を広げつつ主に東に進み、概ねセーヌ川に進撃した1944年9月1日までの一連の戦いを指す。
ノルマンディーの戦場は極めて広範囲に渡り、(いわゆるノルマンディー地方以外も含まれる)エピソードも多いので当サイトでは細かく分けて紹介している。
このページではノルマンディーの戦いの全体的な流れを説明し、各ページへのリンクを設けると共に、他のページでは紹介出来なかった人物・場所・兵器などをフォローして紹介する。

ヨーロッパ大陸の殆どを枢軸国、枢軸国の傀儡政権国家、被占領国、中立国で固めることに成功したドイツであったが、英国上陸作戦を断念し、東部戦線では苦戦、イタリアには連合軍上陸と、徐々にその勢力範囲は狭められていた。
連合軍はソ連からの第二戦線開設の要求もあり、大陸への大規模な上陸は1942年より検討されていた。
英国はその後の領土主張で有利になるよう地中海からの上陸を切望したが、結局大規模な上陸はヨーロッパ大陸の北側で行われることになった。
ディエップ上陸作戦の失敗を教訓に、守りの堅い大規模な港のある場所を避ける、航続距離の短い英戦闘機が英本土から航空支援できる距離にする、といった条件から、ノルマンディーとパドカレーの2箇所が候補となった。
パドカレーは英海峡の最も狭い部分であったがその分ドイツ側も上陸を予測して守りを固めており、結局ノルマンディーの海岸が上陸地点に選ばれた。

BBC放送は国民に呼びかけ、戦前のフランスで英国民間人が撮影した休暇中の写真を提出してもらった。その中でノルマンディーの上陸予定地近辺のものを選び詳細な地形の分析に使用した。
特殊部隊は上陸予定地点の海岸に潜入し、砂を持ち帰り分析に回した。

一方で、ノルマンディー以外の場所が上陸地点とドイツ側に思い込ませる為にボディーガード作戦が発動された。
実在しない米軍部隊が上陸の為に編成・訓練されており、パットン将軍が指揮官である、という情報を二重スパイを使ってドイツに流した。この部隊の装備するダミーの戦車、トラック、上陸用舟艇、兵舎を作り、ドイツの航空偵察にも備えた。

連合軍の空爆、航空偵察はノルマンディー以上にパドカレー地区を重点的に行い、ドイツ軍側にはあくまでも本命の上陸地点がカレーである様に信じ込ませた。

一方のドイツ軍は、大西洋の壁を構築し、スペイン国境からノルウェーに至る長大な海岸線をくまなく要塞化している、という触れ込みだった。
しかし実態は、パドカレーや大規模な港の周囲はともかく、大部分の場所では上陸に持ちこたえるような規模ではなかった。
ロンメル元帥が1943年末にB集団の司令官に就任し、早速西の壁を見て回り、防衛施設の強化を命じた。

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空挺部隊に対する防御の一つ、:ロンメルシュパーゲル(ロンメルのアルパラガス)の模型


上陸に先立ち夜間の空挺作戦を行うことから月明かりが必要だった。
連合軍側は、上陸決行日を1944年6月5日に予定していた。
しかし6月4日の時点で風が強く波が高く上陸には全く適さない条件だった。
ドイツ軍の上層部の多くも上陸は無いだとうと油断し、ロンメルは奥さんの誕生日を祝う為ドイツ本国に戻った。
連合軍は大西洋沖にフリゲート艦を出しており、そこからの気象報告により6月6日に一旦天候は少しだけ回復するという予報を得た。
連合軍総司令官のアイゼンハワーは長く考えた末、6月6日にオーバーロード作戦を決行することにした。

6月6日未明、英国の空挺作戦が開始され、第6空挺師団が上陸地点の東にある橋の占拠と砲陣地の破壊の為降下した。
一方、米国の空挺作戦は第101空挺師団によるカランタン近辺の制圧と、82空挺師団によるサントメールエグリーゼ周りの確保である。
早朝から上陸が開始され、西からユタオマハゴールドジュノースウォードと名付けられたビーチに米、英、カナダを中心とする連合軍が上陸した。

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現在ノルマンディーの上陸地点はすっかり観光地化され、道路沿いには戦跡にまつわる看板が立つ。

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英軍が上陸の為用意した兵器の中には奇抜なものが多数あった事は有名。
これらは開発・訓練プロジェクト責任者の名を取ってHobart's Funnies(ホバートのおかしな仲間たち)と言われた。
写真は地雷処理の為回転するチェーンの先に錘を付けて、それで地面を叩いて地雷を爆破処理する「シャーマン・クラブ」。
オランダのオーフェルローンにある博物館の展示品。

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米軍に対しては英国から特殊車輌「ホバートのおかしな仲間たち」の提供が提案されたが米側はシャーマンDD(水陸両用戦車)以外は受領しなかった。
そのシャーマンDDも肝心のオマハビーチでは殆ど沈んでしまった。
一方、米側は水陸両用車輌DUKW(通称ダック)を多用した。
上の写真は動態保存されているものでベルギーの開放記念パレードで撮影。
また、現存車両には観光に使われているものもあり、ロンドンや関西、ケアンズではDUKWを使ったツアーが行われている。
下の写真はオーストラリアの観光地、ケアンズにて。

上陸は、オマハビーチで米軍が苦戦したものの上陸自体は成功した。
ただし、大部分の箇所で初日の目標ライン(内陸に概ね10km以上進んだところ。)は確保でていなかった。
交通の要所であるサンロー、カランタン、バイユー、カンはいずれも初日の攻略目標であったが制圧できていなかった。

一方、ドイツ側はパットンがまだ英国に居るのでノルマンディーの上陸作戦は囮で本命の上陸がパドカレーにあると信じ込んでいた為軍団の大移動は行わず、一部師団を増援に送ったに留めた。
その内のひとつ、SSのダスライヒ師団はフランス南西部からノルマンディーに異動する途中レジスタンスの執拗な妨害を受け、その見せしめの為かオラドゥールで村民学童皆殺しを行った。

米軍はサンローを攻略してシェルブールに向かい、港を確保する予定だったが、進撃はボカージュと呼ばれる背の高い、厚い生垣に隠れる敵に阻まれ思うように進まなかった。
シェルブールのドイツ軍守備隊は6月26日にやっと降伏したが、港の施設は徹底的に破壊されていたので港としての荷揚げが出来るようになったのは8月中旬であった。
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ノルマンディーの海岸に上陸したは良いものの、米・英軍共にすぐには海岸地帯を脱出出来なかった。
サン ローの北にある、ル デゼールには米軍が7月10日に到着したが、ドイツ側は精鋭のパンツァーレーアを持って反撃し、米軍は一時的に撤退を余儀なくされたが、航空支援を受けて再び奪回した。
写真はル デゼールの村に置かれているドイツ軍の75mm対戦車砲PAK40。
後ろの農家の納屋の壁には銃撃の弾痕が残る。
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一方の英軍、カナダ軍もカンを攻略すべく、まず西から回り込もうとしたがヴィレル ボカージュの戦いで進撃を阻まれる。
続くいくつかの作戦で112高地からドイツ軍を追い出し、カンの北側から攻め込み何とか町を占拠したのは上陸から2ヶ月近く経った時だった。

7月25日にコブラ作戦が発動され米軍は南への進撃を開始。
8月にパットンが第3軍を率いて参戦し、フランス西部の要所を占領しつつ南進した。
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パットンはノルマンディーで第三軍の指揮を握ると破竹の勢いで進撃を開始した。
アバランシュには開放を記念してシャーマン戦車とパットンの胸像が置かれている。
左後ろに見えるホテルは「オテル・パットン」
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このころにはさすがのドイツもパドカレーへの連合軍上陸は無いと判り、持てる戦力をノルマンディー地区に全力で向けてきた。
しかしファレーズで北を英・ポーランド軍、南を米・仏軍に囲まれ、8月21日には5万名が完全包囲されてしまう。

その後、快進撃を続ける米軍はパリを迂回する予定だったが結局8月25日にパリを開放、敗走するドイツ軍は8月30日までに全軍セーヌ川の東に撤退し、かくしてノルマンディーの戦いは終了した。
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ノルマンディーで戦死したドイツ兵の多くはラカンブのドイツ軍墓地に埋葬されている。
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ノルマンディーに上陸した連合軍、特に米軍は破竹の勢いで西進する。部隊への燃料、弾薬、修理部品、食料などの補充を行うため、ノルマンディー海岸から内陸の集積地までの物流ルートを確立させた。
鉄道網は連合軍自らの爆撃により分断されていたので、道路による輸送が必要であった。
これがレッドボールエキスプレスと呼ばれたトラックによる輸送システムである。
ノルマンディー戦終了間際の1944年8月25日にスタートし、ベルギーのアントワープ港が使用可能となる1944年11月16日まで続いた。
写真はオーフェルローンの博物館に展示されている集積所での荷降ろし作業の様子。
輸送トラック運転や荷揚げ作業には主に黒人が充てられた。

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レッドボールエキスプレスの中核となった、通称 デュース&ハーフ("Deuce and a Half" 2 1/2の意味)と呼ばれたGMC CCKW 6輪駆動トラック。ロング/ショート、オープントップ、銃座付、タンクローリーなどバリエーションが非常に多い。
バストーニュのパレードにて撮影。




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