オラドゥールの虐殺
Killings at Oradour sur Glane

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当時のままのこされているオラドゥール シュル グラヌ村。
殆ど全ての建物がダスライヒの兵により燃やされた。
教会の前の目抜き通りを北東に少し行ったところから西方向を撮影。
道の片側(北寄り)に路面電車の線路が通っている。
ここが一番商店が集まっている。
村は再建されず、新しいオラドゥール シュル グラヌ村が国道を挟んだ西隣に建てられた。45 55 42 N 1 2 26 E (教会の位置)

【ロレーヌからの難民】

個人的感想なのだが、現在フランスの一部であるアルザス ロレーヌ地方、ありゃドイツだろ。
シュトラスブルグ(ストラスブール)とかムンスター(マンステール)とか町の名前はドイツだし、ワインは白くて甘いし、ソーセージは旨いし、ビールを造っているし、酢漬キャベツは付いてくるし、クリスマス市やってるし....
これは、アルザスロレーヌ問題と、共産党レジスタンスの身勝手さに翻弄された不幸な村の物語。
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アルザス ロレーヌは元は神聖ローマ帝国の支配下だった。
18世紀にフランス領となる。
鉄鉱石と石炭を産出する同地域は領土争いの的になった。
普仏戦争でプロシアが勝利し、アルザス ロレーヌはプロシア領となった。

私が小学校6年の時、国語の授業で使った教科書にフランス人作家ドーテの「最後の授業」が載っていた。
それが、普仏戦争後のアルザスを舞台にした小説であることを知ったのはずっと後のことだった。
主人公の少年が、学校をサボりたい気持ちを抑えて遅れて授業に出ると、今日はフランス語で行う最後の授業だという。
ベルリンからの命令で、次の日からはドイツでのみ授業を行うことになった。
主人公は、今までもっと授業をまじめに受けていれば、と後悔する。
しんみりとした雰囲気の中、フランス語での最後の授業が進み、全員いつになく真剣に授業を受けて、やがて終業。
アメル先生は感慨高ぶり言葉が出ず、黒板に「おフランス万歳」とフランス語で大きく書いて授業を終わらせた。
で、主人公の少年の名はフランツ...って、バリバリのドイツ系。
要するに、ドイツ語の方言であるアルザス語を母国語とするドイツ系のアルザス人の少年に、フランス語を無理やり教えて「フランス語は世界一美しい」と言っている、フランス人のご勝手都合のフザけたフィクション小説。
フランス人のマスターベーション。
ちょっと前に流行った架空戦記(←嫌い)といい勝負の低俗・悪質さ。
よくこんなの日本の教科書に載せてたよな....(今はさすがに載せてないらしい)

さて話を戻して、めでたくプロシア、後のドイツ帝国領となったアルザスロレーヌだが、第一次世界大戦でドイツが敗れると、1919年に再びフランスの領土になった。
やがてナチス党が台頭し、総統となったヒトラーは失われたドイツ領土の復活を求め、オーストリアとチェコを平和裏にドイツに併合し、戦争によりポーランド回廊をドイツ領に組み込んでいった。
このポーランド侵攻がきっかけとなり英仏がドイツに宣戦布告し、その後はしばらくおかしな戦争(Phoney war)の無戦闘期間があったものの、1940年5月、ナチスドイツは電撃戦によりベルギー、オランダ、ルクセンブルグを制圧し、フランスになだれ込んだ。
パリが陥落し、フランスのペタン元帥はナチスドイツと休戦協定を結んだ。
後にフランス大統領となるドゴールはイギリスに逃れた。
フランスの領土は分割され、ドイツ占領、イタリア占領、緩衝地帯などに分けられた。
フランスが自治を認められたのはフランス南部のヴィシー・フランスで、ペタンが首相に就いたが、所詮はドイツの傀儡政権国家だった。
アルザス ロレーヌは、当然のようにドイツの一部(ドイツ占領下ではない)となった。
すなわち、アルザス ロレーヌの住民はドイツ国民となった。
どうしてもドイツ国民になることに納得出来ない住民は、アルザス ロレーヌ地方から立ち退かされた。
ゴドゥラン一家もそんな「難民」の一つだった。
ロレーヌ地方のメス郊外に住んでいたゴドゥラン一家は、準備に1時間だけ与えられ、全部で30kgの荷物を持っていくことが許された。
一家は南西に400km程離れた村に移住した。その村にはロレーヌ地方から退去者が他にも沢山(1944年6月の時点では44名)居た。村にはロレーヌ退去者の子供が通う学校まで出来た。
ヴィシーフランス領内、陶磁器で知られるリモージュ郊外にあるその村の名は、オラドゥール シュル グラヌだった...

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休戦条約下のフランスの状態と、オラドゥールシュルグラヌ他今回登場する地名の位置関係。占領下の地域は実際には更に細分化されていた。

【第2SS装甲師団 ダスライヒ】

第2SS装甲師団「ダスライヒ」は東部戦線で消耗し、1943年12月、休養、再編成と再訓練の為ドイツを経由しフランスに移った。
SSと言えばエリート師団、と言われたのは大戦初期で、この頃には、もはや徴兵で強制的に集めた多国籍の部隊に落ちぶれていて、脱走兵も多かった。
ドイツに併合されている、アルザス地方から徴兵された兵も多数いた。
脱走兵対策として、脱走したら国の家族を強制収容所に送るぞ、と脅していた。

1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸した。
第2SS装甲師団「ダスライヒ」にもノルマンディーへ向う命令が下った。準備に6月7日一杯を要し、6月8日にフランス南西部の町、モントーバンを出発した。
移動を開始してすぐに、師団はフランスレジスタンスの執拗な攻撃を受けた。
フランスのレジスタンスは、ドイツとの休戦初期には小規模なまとまりのないものだったが、この頃には2つの大きな派閥に別れ各々まとまった活動をするようになっていた。
ロンドンからドゴールが指揮するFFIのグループが、連合軍航空搭乗員の脱出手助けや情報収集など「おとなしい」活動に徹したのに対し、フランス共産党の操るグループはFTPと呼ばれ、ドイツ軍を襲撃するだけではなく、ドイツ協力者と思われたものも殺しまくった。
ダスライヒを悩ませたのは主に後者FTPの方だった。

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隠れ家で密かにロンドンから指令を仰ぐレジスタンスのマネキン。
腕章、ヘルメットで民間人ではないことを示しておりこれは合法。
フランスの博物館では、まかり間違っても自国に存在した違法テロリストを堂々と展示したりはしない。フランス・ランスの降伏文書調印館の展示。


6月8日、FTPがリモージュの南々東50kmにあるチュールの町を襲撃した。チュールにはドイツ国防軍が駐留していた。
ハインリッヒ ヴォルフが指揮する、ダスライヒ第U偵察大隊の一部が応援に向った。
駐留部隊が全滅する寸前、ダスライヒが応援に到着した。装備、錬度に劣るFTPレジスタンスは、あっという間に撃退された。

FTPは降伏したドイツ兵を射殺・惨殺していた(性器を切り取ったり車で街中を引きずり回して殺していた)。
これを知って激怒したSSは、町の住民を集め、報復として男性住民120人を処刑することにした。
首にロープを巻きつけ、街灯の柱から次々に吊り下げた。
99人まで吊り下げた所でロープが無くなり、残りは強制労働の為ドイツ本国に移送した。

これに懲りずに、FTPの襲撃は続いた。6月9日、今度はリモージュの北東50kmにあるゲレが襲撃された。
ダスライヒの、鉄十字章保持者、ヘルムート ケンプフェ少佐の指揮する、第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の分隊がゲレに到着したが、国防軍が事態を収束させており応援は必要無くなった。

ケンプフェは無謀にも、残りの部隊よりも先に、単独で師団本隊の居るリモージュに戻った。
リモージュまで15km位の所でFTPレジスタンスに捕まった。
捕らえられてリモージュ市内を車で移動中、ケンプフェは身分証を路上に落とすことに成功した。

同じく6月9日、ダスライヒの将校、カール ゲアラッハが運転手と共にレジスタンスに捕まった。
二人を捕らえたレジスタンスは、途中村に立ち寄った。ゲアラッハはこの村がオラドゥール シュル グラヌだと認識した。
その後処刑場に連れて行かれ、運転手は処刑されたが、ゲアラッハは隙を見て脱走し、リモージュに戻るとシュタドラーに出来事を報告した。

シュタドラーはレジスタンスに連絡を取り、捕虜交換を要求したが返事は無かった。

6月10日朝、リモージュでレジスタンス対策会議をシュタドラーが招集した。会議に参加した第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の第1大隊長、アドルフ ディークマン少佐は「オラドゥール シュル グラヌにドイツの高官が捕らえられているという情報をミリス(ヴィシーフランスの民兵)から聞いたので救出に行きたい」と申し出た。
シュタドーラーは「見つからない場合、民間人30以上を人質にして交渉するように」と伝えた。
ディークマンは了解し、前日レジスタンスから逃れたゲアラッハに会って話を聞いてから、サン ジュニアンに居た第3中隊の兵を集めてオラドゥール シュル グラヌに向けて出発した。


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オラドゥールシュルグラヌ村の地図。

【死の土曜日】

1944年6月10日(土曜日)午後1:30、ディークマンは第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の第1大隊第3中隊の兵180名程を率いてオラドゥール シュル グラヌの南に点在する農家を片っ端から訪れた。
ドイツ兵は住民を見つけ次第連行した。家の中だけでなく、納屋や家畜小屋も捜索し、干草の束は銃剣で付いてだれも残さないように注意を払った。

午後2時ちょっと前、自動車、オートバイ、ハーフトラック、トラックに分乗した部隊がオラドゥール シュル グラヌ村の南東端に到着した。南東の出入り口を押えると、村の目抜き通りを横切り、北西端の出入り口を封鎖した。同様に他の出入り口も封鎖した。
四方からアプローチして出入り口を塞ぐならともかく、一箇所の入り口から入り町の中央を抜けて他の出入り口を封鎖するということは、レジスタンスによる抵抗や逃亡は想定していなかった、ということを意味する。
もしもオラドゥール シュル グラヌにレジスタンスが居れば、レジスタンスは開いている出入り口から逃げたり、目抜き通りを通る兵を襲撃したりしただろう。
しかしそんな事は無かった。誰がどう見ても、オラドゥール シュル グラヌはレジスタンス活動とは無関係な村だった。
そして、ドイツ側もそれを知っていたのだろう。
レジスタンスは居ない、という前提でドイツ軍は村に入った。

ディークマンは村の中心の広場に到着すると、村長を呼んだ。
村長のヤン ドゥス−ルトーが出てきた。ディークマンは通訳(恐らくアルザス出身の兵)を通じて、村に居る人全員の身分証を確認するので、例外なく全員を集めるように、と村長に伝えた。

オラドゥール シュル グラヌ村にこのようにまとまったドイツ軍部隊が到来するのは始めてのことだった。
大部分の住民は素直に身分証を持って広場に集まったが、面倒を嫌って隠れたり、こっそりと村を脱出するものも20名ほど居た。

学校は土曜日なので普通休みなのだが、その日は健康診断があったので学童は登校していた。
村には学校が4箇所(幼年学校、男子校、女子高、ロレーヌ退去者の学校)あった。
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オラドゥール村に4つあった学校の内の一つ、女子校。
当日は土曜日だったが、どの学校も健康診断の為の登校日で、村や近辺の集落の子供たちが居た。


ロレーヌ退去者の学校にはゴドゥラン一家の子供、8歳のロジャーと、二人の姉が通っていた。
ドイツ兵は学校にもやってきた。
一家は、もしドイツ兵が村に来たら、関わらずに村の墓地の後ろの林に逃げて落ち合う、と約束していた。
一家の子供たちは、まずは幼年学校に逃げた。
幼年学校にもドイツ兵がやってきた。ドイツ兵は教室に入ると先生と話をしだした。
ロジャーは「ここも逃げよう」、と姉に言ったが、二人の姉は「親と一緒にいたい」と動かなかった。ロジャーは隙を見て一人で逃げ出した。

ドイツ兵は村の広場に、見つけられる限りの村人を集めた。近隣の農家や集落から車で連行されてきた人も、オラドゥール シュル グラヌの広場で下ろされ集合させられた。
学校に居た子供たちは始めは怯えていたが、広場に来て親と一緒になり安心した。
650人以上が広場に集まっていた。身分証チェックと言われていたので誰も余り心配していなかった。知り合い同士でおしゃべりを始める姿も見られた。

村長の息子で医者のジャック ドゥス−ルトーが車で往診から帰ってきた。
村の入り口で身分証を確認したドイツ兵は「オラドゥールの住人だ。みんなと一緒に」と言った。
車は広場横に停まり、ジャックは他の人と一緒に集合した。
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往診から帰った医者で村長の息子が乗っていた車。
ここで車を降り、他の村人と一緒に広場に行った。
車は地図の赤点の場所に置かれている。
奥の芝地が村人の集められた広場。


集合を始めてからかなりの時間が経っていた。パン屋が「釜で焼いているパンを見に行きたい」と言ったが「心配しなくていい」と却下された。

ドイツ将校(ディークマンか?)が村長に、人質30人を出すように言った。村長は「それは私には出来ない。君たちがやってくれ」と言った。村長と将校は役場に行き、すぐに戻ってきた。この間何があったかは証人が生きていないので判らない。
村長は今度は「人質が要るなら私と私の家族ではどうか」と言った。結局ドイツ軍が人質をとることは無かった。
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役場。虐殺が始まる前、村長とディークマンがここに行ったが何があったのかは不明。
この奥には男子校がある。


午後3時、集合は終わった。どの建物にも人は残っていないはずだ。
ドイツ兵は通訳(おそらくアルザス出身の兵)を介して村民に伝えた。
「この村に武器・弾薬・密売品が隠されているという情報が入った。これから建物を全て調べる。その間、女子供は教会で待つように」
最初の理由は身分証チェックだったが、結局最後まで村民の身分証を調べることはしなかった...

女性と子供が集められ、教会に向った。子供たちは歌を歌いながら歩いた。
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女子供は教会の中に連れて行かれた。
教会の尖塔と屋根は火事で崩れてしまった。


時刻は3時半になろうとしていた。

ドイツ兵は「これから捜索を行う。武器弾薬禁制品を持っている者は名乗り出るなら今の内だ」と言った。
「猟銃を持っている。許可証もある」と農夫が言った。ドイツ兵は答えた。「それは我々が探しているものではない」

成人男性は6つのグループに分かれて物置/納屋・ガレージ・ワイン屋に連れて行かれた。
ロディの納屋に連れて行かれたグループの内、アルザス出身の村民が傍らの友人に言った。「気を付けろ、やつら、俺たちを殺す気だぞ」彼はドイツ語を解したのでドイツ兵同士の会話を聞いたのだった。

教会に女子供が全員入ると、ドイツ兵が大きな箱(発煙弾を集めたものか?)を持ってきて火をつけた。
箱は間もなく大きな音を立てて爆発し、黒い煙が礼拝堂に立ち込めた。
教会内はパニックになった。そこにドイツ兵が機銃を発射した。
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教会の中にはあちらこちらに弾痕が。
弾の入った方向から、入り口の方から発射されたのが判る。

マルグリット ルファンシュは二人の娘と共に教会に居たが、娘は銃弾に当たって傍らで死んだ。
ドイツ兵は更に、手榴弾を投げ込み、ガソリンやわらなど可燃物を投げ込んで火をつけた。
マルグリットは煙にかくれながら祭壇の後ろに行き、祭壇のロウソクに点火するために置いてあった脚立に登り、窓から身を投げた。
3m程下の地面に着地した。振り返ると、別の女性が赤ん坊を抱いて後から飛び降りようとしていた。
ドイツ兵が赤ん坊の泣き声に気づき、着地した女性と赤ん坊を射殺した。
マルグリッドも銃撃で怪我をしたが、何とか畑まで逃げてそこに隠れた。
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教会の祭壇
教会に連れて行かれた女子供の内、ただ一人の生存者ルファンシュ夫人は、祭壇の後ろにあった脚立に登り、3つ並んでいる下の窓の内、真ん中の窓から外に飛び降り、教会後ろの豆畑に隠れて助かった。

教会に連れて行かれた女子供の内、マルグリッド ルファンシュ夫人は唯一の生存者だった。
彼女はボルドーの裁判に証人として出席し、新しいオラドゥール シュル グラヌ村に住み、1988年に91歳で死亡するとオラドゥール シュル グラヌの墓地に犠牲者と共に埋葬された。

教会での爆発を合図に、6箇所に分かれた村の男性も殺された。
ドイツ兵は主に足を狙って撃ち、倒れて動けなくなった人の上にわらを乗せて火をつけ、焼き殺した。
ロディの納屋に居た6名の男性は建物の裏手から逃げることが出来たが、内、1名は見つかり射殺されてしまった。
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6箇所あった成人男性虐殺場の内の1つ、ブシェールの納屋(一番奥)

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6箇所あった虐殺場の内の、ミロールの納屋(手前)

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6箇所あった虐殺場の内の、デスルトーのガレージ

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6箇所あった虐殺場の内の、デニのワイン屋。
解説板は戦後に付けられたもの。

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6箇所あった虐殺場の内の、ボーリュの作業場。
この先の道を左に入ったところが村人の集合させられた広場。

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6箇所あった虐殺場の内の、ローディの納屋(右)。
ここから6人の男が裏に逃げ出し、内1名は射殺されてしまったが、5名は生き残った。


さて、学校から逃げたロジャーは途中で靴を片方なくしたものの構わずに走った。
墓地の近くでドイツ兵に見つかり撃たれた。ロジャーは撃たれて死んだフリをした。ドイツ兵は死んだかどうか確かめるためロジャーの腹をけって、納得したのかどこかに行ってしまった。しばらくしてロジャーはまた走り出した。別のドイツ兵に見つかったが、撃つ代わりに「逃げろ」と言ってくれた。グラヌ川を渡る時、犬が付いてきた。ハーフトラックに乗ったドイツ兵に見つかり、走るロジャーと犬に発砲してきた。ロジャーに弾は当たらなかったが、犬は死んでしまった。
ロジャーは木の陰に隠れ、翌日保護された。家族は全員死亡し、叔父に育てられ、後にフランス空軍に入隊した。
6月10日の出来事で一番ショックだったのは、犬の死だったとロジャーは後に語った。

午後4時にリモージュからの路面電車が村の入り口に到着した。これは試運転の車輌で、運転手と機関士見習いだけで乗客は乗っていなかった。
機関士見習いが降りてドイツ兵と話をしていたが射殺された。運転手はリモージュに戻るように言われた。
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リモージュからサン ジュニアンまで通じていた路面電車の、オラドゥールシュルグラヌ駅。
奥が旅客の駅舎で、手前は荷降ろし場。
村の殆ど全ての建物の屋根は焼け落ちてしまっており、この手前の建物のように残っているのは珍しい。
虐殺が始まってからは電車はこの駅までは到達せず、村の南西端の入り口まで来て引き返した。


集合した人々を殺し終わったドイツ軍は、今度は家に残っている人や、村への訪問者を殺しにかかった。
寝たきりの老人はベッドごと焼かれた。
家に残っていた乳児はパン屋の釜に入れられた。
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パン屋。パン焼き釜の中で二人の人間が焼かれていた。
内1名は乳児だった。

通りがかりのサイクリングの集団を射殺した。
学校から戻らない子供を捜しに来た、近隣の村に住む親を射殺した。
女子供が集められて殺された教会と、男性が集められて殺された6箇所の納屋・ガレージ・洗濯小屋以外に、村のあちらこちらで52人が殺された。
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死体が多数投げ込まれていた井戸


見つけられるだけの人を殺し終わると、午後6時頃から、ドイツ兵は町を燃やしだした。
ホテルに隠れていたユダヤ系の子供たちは、ドイツ兵が火を付け出したので慌てて外に出た。すぐにドイツ兵に見つかってしまったが、彼は黙って空き地を指差した。子供たちは逃げ延びた。

午後7時頃、リモージュ発で、オラドゥール シュル グラヌに途中停車する路面列車が到着した。
(機関士見習いを射殺された後リモージュに戻った試運転列車の運転手は、オラドゥール シュル グラヌが危険なことを通報しなかったのか?)。
ドイツ兵が乗り込んで乗客の身分証を確認し、オラドゥール シュル グラヌと近辺の住人だけが降ろされた。結局彼らは殺されず開放された。
残りの乗客を乗せた列車はそのままリモージュに引き返した。

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駅の西隣にある郵便局。火災の跡が残る。


午後九時半頃に、20〜30の兵を残して、ダスライヒの兵の大部分は引き揚げた。

翌日6月10日の早朝、兵が宿泊した最後の建物に火が付けられ、ダスライヒの兵はオラドゥール シュル グラヌから去った。
彼らと入れ替わるように、子供を捜しに来た近隣の住民や、村への訪問者、郊外から帰宅したオラドゥール シュル グラヌの住民が村に入った。
そして何が起きたかが次第に明らかになっていった。
村人、学童、近隣の住民、訪問者合わせて642人が殺されていた。
殺された人の中には、この村をたまたま訪問していた、アルザスの住人、すなわちドイツ国籍の人や、親ナチであるヴィシー政権の民兵ミリスのメンバーも居た。

約20人は広場へ村人が集められている最中に隠れたり逃げたりして助かり、虐殺が始まってからは6人が逃げ延びた。


【その後】

ダスライヒはノルマンディーへの行軍を再開した。鉄道は連合軍の爆撃とレジスタンスの破壊活動で寸断されていて、道路を進むしかなかった。
オラドゥール シュル グラヌの虐殺以来、レジスタンスの妨害はパタと止んでいた。村民虐殺の目的がレジスタンスへの見せしめと警告だとしたら、その効果は充分にあったのだ。
ダスライヒの部隊がロワール川を越えてノルマンディーに近づくと、今度は連合軍のヤーボの襲撃が激しくなった。
部隊は夜間の、短い暗闇の間しか移動出来なくなった。

住民皆殺しにショックを受けたシュタドラーは、ディークマンを軍法会議にかける、と言った。
しかし、軍法会議を開く前にディークマンはノルマンディーで戦死する。
6月29日、カン郊外の攻防戦で、砲弾の降り注ぐ中、ヘルメットも被らずシェルターの外に出て頭に破片を受けて死亡した。まるで自殺のようであったと言う。
また、ディークマンは結局死ぬ時まで解任や拘束されること無く、ダスライヒの第一大隊長を務めていた。恐らく、オラドゥール シュル グラヌの虐殺が見せしめの効果を発し、レジスタンスの妨害が無くなったので、その虐殺を指揮した人物を解任するのはSSの意に反したのだろう。
ディークマンの死により、結局、ドイツ側による虐殺の調査・軍法会議は行われなかった。

レジスタンスに捕まったケンプフェは、恐らく6月10日頃、リモージュの北北西25kmにあるブルイヨーファあたりでレジスタンスにより射殺されたものと言われる。

自由フランス軍のドゴールは、破壊された村をそのまま残すように決めた。
国道を挟んで西には新しいオラドゥール シュル グラヌ村が建設された。
そして、国道の東側には、燃えつくされ廃墟となったオラドゥール シュル グラヌが、65年以上前の出来事を伝えようと残っている。


【裁判】

虐殺から8年半が経った1953年1月、フランスのボルドーで軍事裁判が開かれた。
被告は、当時生存が確認されているダスライヒの元隊員で、オラドゥール シュル グラヌの虐殺現場に居た、あるいは責任があると思われる者。
ドイツ国籍52名(実際にはフランス統治地区に居た7名のみ裁判の為身柄を拘束。他の45名は不在裁判)
フランス国籍14名
よって、訴えられたのは66人で、内21人が実際に裁判で被告として出廷した。
フランス国籍とは、すなわちアルザス地方から徴兵された兵で、当時アルザスはドイツの一部だったのでドイツ人として徴兵された者が大部分だった。
彼らの多くは連合軍に降伏し、取調べを受けた後、1947年までには無罪放免となっていた。その後結婚して家庭を持ったものも多かった。
ルイ ヘーリンガー(名前がフランス風で、苗字がドイツ風という典型的なアルザス人だ)はオラドゥール シュル グラヌの虐殺当時、17歳だった。
オラドゥール シュル グラヌ虐殺の後、SSを脱走してレジスタンスに入り、戦後はフランス陸軍に入り、インドシナ(ベトナム)に派兵されて受勲した。
現地で警官になり、オラドゥール シュル グラヌの裁判で自分が被告になることを知ると、自ら出頭した。

裁判は荒れることが予想され、どのような判決であろうとも皆が満足することは有りえない事が始めから判っていた。
アルザス出身の被告、その弁護人と、地元アルザスの民衆は、ドイツ人とアルザス人を別の裁判で裁くことを望んだ。
一方、オラドゥール シュル グラヌのあるリモージュ近辺の人々は、ひとつの裁判で裁くことを望んだ。

最初は同じ裁判だったが、3週間目にはアルザス人とドイツ人を別の裁判で裁くことになった。
リモージュでは大規模なデモが行われた。

2月13日、判決が出た。
裁判に出たものの内2名に死刑、他は5年〜12年の懲役/重労働が下された。
不在裁判となったドイツ人は全員死刑。
被告は全員上告した。

判決を受けてリモージュ地区、アルザス地区双方でデモの嵐となった。
リモージュでは刑が軽すぎる、アルザスでは重過ぎる、と主張した。

そしてついにアルザスでは独立運動に発展した。
アルザスはフランスにとって重要な鉱工業地帯である。(だからドイツとの領土争いが絶えなかった)
事態を収束するため政府はアルザス出身の被告に恩赦を出した。

これでアルザスでの抗議活動は途端に収まったが、当然ながらオラドゥール シュル グラヌの被害者遺族は激怒し、「オラドゥール シュル グラヌへの政府からの公式訪問は今後受け入れない」と宣言した。
ドイツでは、同じ犯罪なのにフランス人にのみ恩赦が出るのは不公平だ、という意見が高まった。有罪判決を受けた元SSも大部分は徴兵された若者だったのだ。
ドイツ人被告の多くは捕虜・裁判中の拘束期間も懲役期間に数えられたので、やがて順次釈放されていった。
死刑判決を受けたドイツ人にも恩赦が出て、1958年には全員釈放された。

1983年に、東ドイツに住むハインツ バースが逮捕され裁判にかけられた。
特に目新しいことは無かった。命令で動いただけ、レジスタンスのメンバーも武器も見つからなかった、と証言した。
終身刑が言い渡されたが、東西ドイツ統一後の1997年に釈放された。


【何故?】

事件から65年以上経た今も、
・誰が虐殺と村の破壊を命じたのか
・何故村人と学童が皆殺しになったのか
・何故オラドゥール シュル グラヌ村が選ばれたのか
といった事は、結局判っていない。
推測だが、恐らく目的はレジスタンス狩りではなく、レジスタンスへの見せしめであろう。
ディークマンが人質を取らなかったのは、ケンプフェは既に処刑されていると思い込んだ、あるいはその様な情報が入った為だろうか。
そして、ディークマンが戦死したため、本当に彼の独断の判断で虐殺をしたのかどうか判らなくなってしまった。
虐殺の場に居た兵は上からの命令を実行しただけ、下士官と将校はディークマンの命令で動いただけと言い、ディークマンの上官のシュタドラー、更にその上のオットー カーンや、師団長ハインツ ラムメルディング大将は皆、自分では虐殺命令は出していないし承認もしていない、と言った。
本当にディークマンの独断なのか、あるいは死人に口なしなのか。

オラドゥール シュル グラヌはレジスタンス活動とは殆ど無縁の村だった。
レジスタンスに誘拐されて処刑前に逃げおおせたゲアラッハや、ディークマンに情報を流したヴィシーの民兵が、オラドゥール シュル グラヌと、25km南東にあるオラドゥール シュル ヴェイルを取り違えていた可能性はある。
どちらも似たような規模と様相の村だが、オラドゥール シュル ヴェイルには間違いなくレジスタンスが居た。
しかしディークマン率いる部隊の取った行動は、オラドゥール シュル グラヌ村にはレジスタンスが居ないし武器も無い事を知っている、という前提だ。
無防備にも村の目抜き通りを走り、武器の捜索はロクにせず、人質を取らずに皆殺しにした。
やはり目的は誘拐されたケンプフェやレジスタンスとその武器を探す事ではなく、見せしめの為の皆殺しだったのだろう。
そういう意味では、オラドゥール シュル グラヌ村の虐殺は見境無いドイツ兵殺戮を繰り返した共産党系レジスタンスに最初の原因があると言える。

"Oradour Massacre and Aftermath"(オラドゥール 大虐殺の謎)という本がある。
ロビン マックネスの著による「ノンフィクション」で、村には金塊が隠されていたというもの。
虐殺の生存者、犠牲者の家族、元SS隊員、元レジスタンス全てがその内容に不快感を表明したという悪名高い小説。ドーテの「最後の授業」と同じ類、ってことか。

フランス映画「追想」は村人を皆殺しにしたSSに、往診から戻った医師が復讐する、というもの。
映画に出てくる村もSSも、規模が小さいが、教会で村人が虐殺されているなどオラドゥール シュル グラヌの事件をモデルにしているのだろう。
最後に10名のSSが全滅してメデタシ、という、オラドゥール シュル グラヌ事件に対するフランス人のウサ晴らしのつもりなのだろうか。
みっともないぞ、フランス人。まあそれを言ったら少し前に日本で流行った架空戦記(←嫌い)も同じようなものだが。


【おまけ】

ディークマン率いる部隊がオラドゥールシュルグラヌ村の入り口近くで、フランスレジスタンスに襲われたと思しき救急車を発見した。6人が焼き殺されていた。
村に入り捜索を始めると、レジスタンスの隠している武器弾薬が多数見つかった。
捜索をする間、女子供は教会に避難させていたが、教会の屋根裏に隠していたレジスタンスの爆薬が突如暴発した。
SS隊員は女子供を助けようと必死に救助活動をしたが教会の中の人たちは皆死んでしまった。
男性の多くはレジスタンスの隊員で、逃亡したり反撃したりしようとした為、殆ど皆射殺されてしまった。
というのは歴史修正主義者バージョン。じゃあ、教会内に残る弾痕は???



注) 多くの英語の書物ではオラドゥール シュル グラヌ虐殺の部隊の指揮官をオットー ディックマン Otto Dickmann としており、日本語の書籍もオットー ディックマン 或いは アドルフ ディックマンと記載しているものが多いが、 アドルフ ディークマン Adlof Diekmann が正しい。

注) TPOに合わせて呼び名も変わる。民間人の格好をして群衆に紛れ、突如敵の正規軍に攻撃をしかける。イラクやアフガニスタンに駐留するアメリカ軍はそういった人たちのことをテロリストと呼び、第二次大戦のフランスで同じ事をしていた人たちはレジスタンスと言われる。テロリストもレジスタンスもやっていることは同じで違法行為だ。ここでは「慣例」に従いレジスタンスという言葉を使っているが、オラドゥール シュル グラヌの虐殺の責任の多くはレジスタンスが負うべき、と思う。
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おまけ。近郊の大きな町、リモージュは陶磁器の産地として有名。
リモージュの陶磁器博物館にて。第一次大戦のフランス兵と、降伏するドイツ兵が描かれている記念皿。ドイツとフランスの仲の悪さは筋金入り。
今でもドイツ人はフランス人が嫌いだ(ドイツ人多数に確認済み)。
でも国も生活も今は平和に回っている。
隣国と仲良く、なんていうのは幻想に過ぎない。それでも第二次大戦以降は何とかなっている。




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