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オラドゥールの虐殺
Oradour sur Glane Massacre

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火を放たれ破壊された当時のままのこされているオラドゥール シュル グラヌ村。
殆ど全ての建物がダスライヒの兵により燃やされた。
教会の前の目抜き通りを北西に少し行ったところから西方向を撮影。
道の片側(北寄り)には、1911年に開通した路面電車の線路が通っている。
ここが一番商店が集まっている。
村には郵便局、鉄道駅、銀行、薬局が各1件づつと、簡易宿泊所10数件、カフェ3件、ホテル4件、パン屋2件、肉屋5件(内豚肉専門3件)、理髪店4件、 洋品店5件、帽子店2軒、靴屋3件、靴修理2件、タバコ屋2件、自動車整備工場2件、車輪修理4件、金物屋2件、材木店6軒があった

村は再建されず、新しいオラドゥール シュル グラヌ村が国道を挟んだ西隣に建てられた。
45 55 42 N 1 2 26 E (古い村の教会の位置)


【ロレーヌからの難民】

個人的感想なのだが、現在フランスの一部であるアルザス ロレーヌ地方、ありゃドイツだろ。
シュトラスブルグ(ストラスブール)とかムンスター(マンステール)とか町の名前はドイツだし、ワインは白くて甘いし、ソーセージは旨いし、ビールを造っているし、酢漬キャベツは付いてくるし、クリスマス市やってるし....
これは、アルザスロレーヌ問題と、共産党レジスタンスの身勝手さに翻弄された不幸な村の物語。
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アルザス ロレーヌは元は神聖ローマ帝国の支配下だった。
18世紀にフランス領となる。
鉄鉱石と石炭を産出する同地域は領土争いの的になった。
1871年に普仏戦争でプロシアが勝利し、アルザス ロレーヌはプロシア領となった。

私が小学校6年の時、国語の授業で使った教科書にフランス人作家ドーテの「最後の授業」が載っていた。
それが、普仏戦争後のアルザスを舞台にした小説であることを知ったのはずっと後のことだった。
主人公の少年が、学校をサボりたい気持ちを抑えて遅れて授業に出ると、今日はフランス語で行う最後の授業だという。
ベルリンからの命令で、次の日からはドイツでのみ授業を行うことになった。
主人公は、今までもっと授業をまじめに受けていれば、と後悔する。
しんみりとした雰囲気の中、アメル先生による、「フランス語での最後の授業」が進み、全員いつになく真剣に授業を受けて、やがて終業。
アメル先生は感慨高ぶり言葉が出ず、黒板に「おフランス万歳」とフランス語で大きく書いて授業を終わらせた。
で、主人公の少年の名はフランツ...って、バリバリのドイツ系。
要するに、ドイツ語の方言であるアルザス語を母国語とするドイツ系のアルザス人の少年に、フランス語を無理やり教えて「フランス語は世界一美しい」と言っている、フランス人のご勝手都合のフザけたフィクション小説。
フランス人のマスターベーション。
ちょっと前に流行った架空戦記(←嫌い)といい勝負の低俗・悪質さ。
よくこんなの日本の教科書に載せてたよな....(今はさすがに載せてないらしい)

さて話を戻して、めでたくプロシア、後のドイツ帝国領となったアルザスロレーヌだが、第一次世界大戦で1918年にドイツが敗れると、翌1919年に再びフランスの領土になった。

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アルザスはおフランスざんす…。
アルザス地方の民族衣装を着た女性の陶器の置物。リモージュの陶磁器博物館にて。
帽子にはフランスを表すラウンデル(フランス空軍機みたい…)。


やがてナチス党が台頭し、総統となったヒトラーは失われたドイツ領土の復活を求め、オーストリアとチェコを平和裏にドイツに併合し、戦争によりポーランド回廊をドイツ領に組み込んでいった。
このポーランド侵攻がきっかけとなり英仏がドイツに宣戦布告し、その後はしばらくおかしな戦争(Phoney war)の無戦闘期間があったものの、1940年5月、ナチスドイツは電撃戦によりベルギー、オランダ、ルクセンブルグを制圧し、フランスになだれ込んだ。
パリが陥落し、フランスのペタン元帥はナチスドイツと休戦協定を結んだ。
後にフランス大統領となるドゴールはイギリスに逃れた。
フランスの領土は分割され、ドイツ占領、イタリア占領、緩衝地帯などに分けられた。
フランスが自治を認められたのはフランス南部のヴィシー・フランスで、ペタンが首相に就いたが、所詮はドイツの傀儡政権国家だった。

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第一次世界大戦の英雄、ペタン元帥率いるヴィシー政権の子供向けのプロパガンダ本。
下中央がヴィシー政権の3つのモットー「労働、家族、祖国」。
ヴィシー政権以前のフランス共和国のモットーは「自由、平等、友愛」だった。
ベルギーの王立軍事歴史博物館の展示。


アルザス ロレーヌは、当然のようにドイツの一部(ドイツ占領下ではない)となった。
すなわち、アルザス ロレーヌの住民はドイツ国民となった。
どうしてもドイツ国民になることに納得出来ない住民は、アルザス ロレーヌ地方から立ち退かされた。
ゴフリン一家もそんな「難民」の一つだった。
ロレーヌ地方のメス郊外シャルリ に住んでいたゴフリン家は、準備に1時間だけ与えられ、全部で30kgの荷物だけ持っていくことが許された。
一家は南西に400km程離れた村に移住した。
その村は、1940年6月にはロレーヌ地方から60名の避難民を受け入れた。
大半はメッス近郊のシャルリ 49 10 27 N 6 14 22 E 及び モントワ=フランヴィル 49 07 16 N 6 16 53 E
また、アルザスのストラスブール隣のシルティカイム 48 36 16 N 7 44 51 E から避難してきた人もいた。
その後別の地域に移った人もいたが、1944年6月の時点でアルザス ロレーヌの避難民は45名いた。
村にはロレーヌ退去者の子供が通う学校があった。
他に、村にはスペイン内戦の難民が約20名いた。
1944年6月になると、パリやリモージュといった都会が爆撃を受けて安全ではないと思い、田舎の村に疎開してきた女子供も多数いた。
ヴィシーフランス領内、陶磁器で知られるリモージュ郊外にあるその村の名は、オラドゥール シュル グラヌだった...

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休戦条約下のフランスの状態と、オラドゥールシュルグラヌ他今回登場する地名の位置関係。占領下の地域は実際には更に細分化されていた。


【第2SS装甲師団 ダスライヒ】

第2SS装甲師団「ダスライヒ」は東部戦線で消耗し、1943年12月、休養・再編成と再訓練の為ドイツを経由しフランスに移った。
SSと言えばエリート師団、と言われたのは大戦初期で、この頃には、もはや徴兵で強制的に集めた多国籍の部隊に落ちぶれていて、脱走兵も多かった。
ドイツに併合されている、アルザス地方から徴兵された兵も多数いた。
脱走兵対策として、脱走したら国の家族を強制収容所に送るぞ、と脅していた。

1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸した。
第2SS装甲師団「ダスライヒ」にもノルマンディーへ向う命令が下った。
準備に6月7日一杯を要し、6月8日にフランス南西部の町、モントーバンを出発した。
移動を開始してすぐに、師団はフランスレジスタンスの執拗な攻撃を受けた。
フランスのレジスタンスは、ドイツとの休戦初期には小規模なまとまりのないものだったが、この頃には2つの大きな派閥に別れ各々まとまった活動をするようになっていた。
ロンドンからドゴールが指揮するFFIのグループが、連合軍航空搭乗員の脱出手助けや情報収集など「おとなしい」活動に徹したのに対し、フランス共産党の操るグループはFTPと呼ばれ、ドイツ軍を襲撃するだけではなく、ドイツ協力者と思われたものも殺しまくった。
ダスライヒを悩ませたのは主に後者FTPの方だった。

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上から、
・隠れ家で密かにロンドンから指令を仰ぐレジスタンス戦士(フランス・ランスの降伏文書調印館)
・武装したチャリンコレジスタンス(フランス・アンブレウースの39-45博物館)
・ドイツ兵のベルトバックルを改造したもの。神が共に、のドイツ語はそのまま(フランス・アンブレウースの39-45博物館)
・レジスタンスの各種装備(アンブレウースの39-45博物館)
腕章、ヘルメットで民間人ではないことを示していれば合法。いずれもドゴールの息のかかったFFIのもの。
フランスの博物館では、まかり間違っても自国に存在した違法テロリストを堂々と展示したりはしない。

このサイトの写真を大判のものに入れ替えるにあたり、今回改めてフランスの博物館で撮影した写真を見返してみたのだが、FTPを明示したものは全くなかった。これも深い闇だな...


6月8日、FTPがリモージュの南々東50kmにあるチュールの町を襲撃した。チュールにはドイツ国防軍が駐留していた。
ハインリッヒ ヴォルフが指揮する、ダスライヒ第U偵察大隊の一部が応援に向った。
駐留部隊が全滅する寸前、ダスライヒが応援に到着した。装備、錬度に劣るFTPレジスタンスは、あっという間に撃退された。

FTPは降伏したドイツ兵を射殺・惨殺していた(性器を切り取ったり車で街中を引きずり回して殺していた)。
これを知って激怒したSSは、町の住民を集め、報復として男性住民120人を処刑することにした。
首にロープを巻きつけ、街灯の柱から次々に吊り下げた。
99人まで吊り下げた所でロープが無くなり、残りは強制労働の為ドイツ本国に移送した。

これに懲りずに、FTPの襲撃は続いた。6月9日、今度はリモージュの北東50kmにあるゲレが襲撃された。
ダスライヒの、鉄十字章保持者、ヘルムート ケンプフェ少佐の指揮する、第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の分隊がゲレに到着したが、国防軍が事態を収束させており応援は必要無くなった。

ケンプフェは無謀にも、残りの部隊よりも先に、単独で師団本隊の居るリモージュに戻った。
リモージュまで15km位の所でFTPレジスタンスに捕まった。
捕らえられてリモージュ市内を車で移動中、ケンプフェは身分証を路上に落とすことに成功した。

同じく6月9日、ダスライヒの将校、カール ゲアラッハSS中尉が運転手と共にレジスタンスに捕まった。
二人を捕らえたレジスタンスは、途中村に立ち寄った。ゲアラッハはこの村がオラドゥール シュル グラヌだと認識した。
その後処刑場に連れて行かれ、運転手は処刑されたが、ゲアラッハは隙を見て脱走し、リモージュに戻るとダスライヒの連隊長シュタドラーSS中佐(最終階級SS准将)に出来事を報告した。

シュタドラーはレジスタンスに連絡を取り、捕虜交換を要求したが返事は無かった。

6月10日朝、リモージュでレジスタンス対策会議をシュタドラーが招集した。会議に参加した第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の第1大隊長、アドルフ ディークマン少佐は「オラドゥール シュル グラヌにドイツの高官が捕らえられているという情報をミリス(ヴィシーフランスの民兵)から聞いたので救出に行きたい」と申し出た。
シュタドーラーは「見つからない場合、民間人30以上を人質にして交渉するように」と伝えた。
ディークマンは了解し、前日レジスタンスから逃れたゲアラッハに会って話を聞いた。

その日の昼、ディークマンは民兵ミリス4名、ゲシュタボ、カーン大尉他将校及とサン=ジュニアンのホテル 45 52 55 N 0 54 02 E の地上階で打ち合わせをした。
裁判で証言したバート少尉によるとこの会議で「村人を抹殺する」命令をディークマンから受けた。

この時の兵は、SS第2装甲師団「ダスライヒ」の第4装甲擲弾兵連隊「デア フューラー」 第1大隊 第3中隊(定員160名)の一部、120名である。
師団指令はラマーディングSS少将(最終階級は中将)=同行せず
連隊長はシュタドラーSS中佐=同行せず
指揮したのは本来第1大隊の指揮官であるディークマンSS少佐。
第3中隊指令のカーンSS大尉が同行、他将校数名が同行していた。

1330にこの部隊がサン ジュニアンを出発。
トラック8輌、無限軌道車(恐らくハーフトラック)2輌、オートバイ1輌に分乗していた。
ディークマン自身はアルザス出身の兵が運転するシトロエンに副官と共に乗っていた。
直接のルートではなく、サン ヴィクテュルニアンを経由しオラドゥール村の東南端に向かった。

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オラドゥールシュルグラヌ村の地図。


【死の土曜日】

1944年6月10日(土曜日)午後1:30にサン ジュニアンを出発したディークマンの部隊は、オラドゥール シュル グラヌの南に点在する農家を片っ端から訪れた。
ドイツ兵は住民を見つけ次第連行した。家の中だけでなく、納屋や家畜小屋も捜索し、干草の束は銃剣で付いてだれも残さないように注意を払った。

オラドゥール村南東の入口に分隊が到着したのは1415。
トラック3輌と無限軌道車2輌はそのまま村の反対側まで目貫通りを抜けると、一部の車両は戻ってきた。
村からの出口は固められ、車輛から兵が降りてきて、村全体を囲った。
封鎖完了の合図に白い信号弾が発射された。

四方八方からアプローチして出入り口を塞ぐならともかく、一箇所の入り口から入り町の中央を抜けて他の出入り口を封鎖するということは、レジスタンスによる抵抗や逃亡は想定していなかった、ということを意味する。
もしもオラドゥール シュル グラヌにレジスタンスが居れば、レジスタンスは開いている出入り口から逃げたり、目抜き通りを通る兵を襲撃したりしただろう。
しかしそんな事は無かった。誰がどう見ても、オラドゥール シュル グラヌはレジスタンス活動とは無関係な村だった。
そして、ドイツ側もそれを知っていたのだろう。
レジスタンスは居ない、という前提でドイツ軍は村に入った。

ディークマンは村の中心の広場に到着すると、村長を呼んだ。
村長のヤン ドゥスールトーが出てきた。ディークマンは通訳(恐らくアルザス出身の兵)を通じて、村に居る人全員の身分証を確認するので、例外なく全員を集めるように、と村長に伝えた。

オラドゥール シュル グラヌ村にこのようにまとまったドイツ軍部隊が到来するのは始めてのことだった。
大部分の住民は素直に身分証を持って広場に集まったが、面倒を嫌って隠れたり、こっそりと村を脱出するものも20名ほど居た。

学校は土曜日なので普通休みなのだが、その日は健康診断があったので学童は登校していた。
村には幼年学校、男子校、女子校、ロレーヌ退去者の学校あった。
男子校:生徒64名
女子校:生徒106名
ロレーヌ退去者の学校:生徒21名

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オラドゥール村に4つあった学校の内の一つ、女子校。
当日は土曜日だったが、どの学校も健康診断の為の登校日で、村や近辺の集落の子供たちが居た。



ロレーヌ退去者の学校にはゴフリン一家の子供、8歳のロジェ、二人の姉が通っていた。
ドイツ兵は学校にもやってきた。
一家は、もしドイツ兵が村に来たら、関わらずに村の墓地の後ろの林に逃げて落ち合う、と約束していた。
一家の子供たちは、まずは幼年学校に逃げた。
幼年学校にもドイツ兵がやってきた。ドイツ兵は教室に入ると先生と話をしだした。
ロジェは「ここも逃げよう」、と姉達に言ったが、二人の姉は「親と一緒にいたい」と動かなかった。彼は隙を見て一人で逃げ出した。

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奥に見えるのがロレーヌ退去者の学校。手前の建物に隠れているがロレーヌ退去者の学校の向かって左隣には幼年学校があった。



ドイツ兵は村の広場に、見つけられる限りの村人を集めた。近隣の農家や集落から車で連行されてきた人も、オラドゥール シュル グラヌの広場で下ろされ集合させられた。
学校に居た子供たちは始めは怯えていたが、広場に来て親と一緒になり安心した。
650人以上が広場に集まっていた。身分証チェックと言われていたので誰も余り心配していなかった。知り合い同士でおしゃべりを始める姿も見られた。

村長の息子で医者のジャック ドゥス−ルトーが車で往診から帰ってきた。
村の入り口で身分証を確認したドイツ兵は「オラドゥールの住人だ。みんなと一緒に」と言った。
車は広場横に停まり、ジャックは他の人と一緒に集合した。

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往診から帰った医者で村長の息子が乗っていた車。
車種はプジョー202で、1938年〜1942年にかけて生産されていた(戦後の1945年〜1948年にも再生産された)。
ヘッドライトは失われているがフロントエンジングリルの奥に配置されていた。
医師はここで車を降り、ドイツ兵の指示に従い広場に集まっている村人と合流した。
車は通りを挟んで広場の反対側に置かれている。
下の写真奥の芝地が村人の集められた広場。


集合を始めてからかなりの時間が経っていた。パン屋が「釜で焼いているパンを見に行きたい」と言ったが「心配しなくていい」と却下された。

ドイツ将校(ディークマンか?)が村長に、人質30人を出すように言った。村長は「それは私には出来ない。君たちがやってくれ」と言った。村長と将校は役場に行き、すぐに戻ってきた。この間何があったかは証人が生きていないので判らない。
村長は今度は「人質が要るなら私と私の家族ではどうか」と言った。結局ドイツ軍が人質をとることは無かった。
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役場。虐殺が始まる前、村長とディークマンがここに行ったが何があったのかは不明。
この奥には男子校がある。


午後3時、集合は終わった。どの建物にも人は残っていないはずだ。
ドイツ兵は通訳(おそらくアルザス出身の兵)を介して村民に伝えた。
「この村に武器・弾薬・密売品が隠されているという情報が入った。これから建物を全て調べる。その間、女子供は教会で待つように」
最初の理由は身分証チェックだったが、結局最後まで村民の身分証を調べることはしなかった...

女性と子供が集められ、教会に向った。子供たちは歌を歌いながら広場から教会へと歩いた。
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女性と子供たちは広場(画面奥の建物の更に後ろ)を出発し、画面奥から手前に歩いて教会(左端画面外)に向かった。

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村の教会。宗派はカトリック。15世紀に建てられたのものでその後増改築された。聖マルティヌスを祀っている。
女子供は右の階段を上った入り口から教会の中に連れて行かれた。
教会の尖塔と屋根は火事で崩れてしまった。
建物の壁の前には十字架に貼り付けられたイエス・キリストの像がある。これは虐殺前からあったことが昔の写真で確認できる。その後ろの四角い板には「祈ってください」という趣旨。この板は少なくとも1回作り直されいる様だ(書かれている内容は同じだが書式が変わっている)。

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教会の内部を祭壇に向かって見る。尖塔は左背後に位置する。


時刻は3時半になろうとしていた。

ドイツ兵は「これから捜索を行う。武器弾薬禁制品を持っている者は名乗り出るなら今の内だ」と言った。
「猟銃を持っている。許可証もある」と農夫が言った。ドイツ兵は答えた。「それは我々が探しているものではない」

成人男性は6つのグループに分かれて物置/納屋・ガレージ・ワイン屋に連れて行かれた。
ロディの納屋に連れて行かれたグループの内、アルザス出身の村民が傍らの友人に言った。「気を付けろ、やつら、俺たちを殺す気だぞ」彼はドイツ語を解したのでドイツ兵同士の会話を聞いたのだった。

教会に女子供が全員入ると、ドイツ兵が大きな箱(発煙弾を集めたものか?)を持ってきて火をつけた。
箱は間もなく大きな音を立てて爆発し、黒い煙が礼拝堂に立ち込めた。
教会内はパニックになった。そこにドイツ兵が機銃を発射した。

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教会の中にはあちらこちらに弾痕が。
弾の入った方向から、入り口の方から発射されたのが判る。
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フランスは大抵どんな田舎の村でも第一次世界大戦の慰霊碑がある(この点オーストラリアも同じ)。
屋外に設置されていることが多いが、オラドゥールの様に教会内のものもある。
写真はオラドゥールの教会の中にある、第一次世界大戦々没者名簿の彫られた石板。
ここにも弾丸の跡がある。窓の外から発射されたものらしい。
A NOS MORTS GLORIEUX は死者に栄光あれ、の意味。
GUERRE 1914-1918は1914-1918年の戦争の意味。いわゆる第一次世界大戦という呼び方は当然第二次世界大戦以降のもので、フランスで当時はこう呼ばれていた。昔の英語ではTHE GREAT WARと呼んでいた。
第一次世界大戦ではオラドゥール村出身者97名が戦死した(石板には99名の名が...?)。
続く第二次世界大戦初期のフランス戦では、村の出身者4名が戦死、32人が捕虜となった。
その後、村の男性の内14名が強制労働の為ドイツに送られており、「運が悪い」と悪態をついたのだが、結局彼らは生還し命拾いすることになった。


マルグリット ルファンシュは二人の娘と共に教会に居たが、娘は銃弾に当たって傍らで死んだ。
ドイツ兵は更に、手榴弾を投げ込み、ガソリンやわらなど可燃物を投げ込んで火をつけた。
マルグリットは煙にかくれながら祭壇の後ろに行き、祭壇のロウソクに点火するために置いてあった脚立に登り、窓から身を投げた。
3m程下の地面に着地した。振り返ると、別の女性が赤ん坊を抱いて後から飛び降りようとしていた。
ドイツ兵が赤ん坊の泣き声に気づき、着地した女性と赤ん坊を射殺した。
マルグリッドも銃撃で怪我をしたが、何とか畑まで逃げて土を被って隠れた。

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教会の祭壇
教会に連れて行かれた女子供の内、ただ一人の生存者ルファンシュ夫人は、祭壇の後ろにあった脚立に登り、3つ並んでいる窓の内、真ん中の窓から外に飛び降り、教会後ろの豆畑に隠れて助かった。

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ロマネスク様式の教会の塔。尖塔部は火事か爆薬物の爆破で破壊され崩れた。
立方体の塔本体に対し、16世紀に起きた宗教戦争(ユグノー戦争)でフランスが内戦状態だった頃に、縦長の銃眼(ループホール)を持つ円柱の防御拠点及びそれを支える台座が増築され教会が要塞化された。右の壁の銃眼もこの時の増築だろうか。オラドゥール自体は宗教戦争に巻き込まれなかった。
殆ど注目されないが、実は、オラドゥール村の虐殺の最中に死んだドイツ兵がいる。
クヌグSS少尉は、教会の尖塔が崩れた時に破片で負傷し、死亡した。
家族には「祖国と総統の為に戦って死んだ」と連絡されたという。

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溶けた教会の鐘。


教会に連れて行かれた女子供の内、マルグリッド ルファンシュ夫人は唯一の生存者だった。
彼女はボルドーの裁判に証人として出席し、新しいオラドゥール シュル グラヌ村に住み、1988年に91歳で死亡するとオラドゥール シュル グラヌの墓地に犠牲者と共に埋葬された。

教会での爆発を合図に、6箇所に分かれた村の男性も殺された。
ドイツ兵は主に足を狙って撃ち、倒れて動けなくなった人の上にわらを乗せて火をつけ、焼き殺した。
ロディの納屋に居た6名の男性は建物の裏手から逃げることが出来たが、内、1名は見つかり射殺されてしまった。

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6箇所あった成人男性虐殺場の内の1つ、ブシェールの納屋(一番奥)。その更に奥にはグラヌ川が流れる。

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6箇所あった虐殺場の内の、ミロールの納屋。教会(左奥に見えている)のすぐ近くにある。

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6箇所あった虐殺場の内の、ドゥスールトーのガレージ。

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6箇所あった虐殺場の内の、デニのワイン屋は、T字路交差点の、画面向かって右角の建物。

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デニのワイン屋に戦後に付けられた碑。 6か所の虐殺場に同じ文言が掲げられている。
「ここで残酷なことに男性の集団がナチスに虐殺され燃やされました。黙祷しましょう。」

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6箇所あった虐殺場の内の、ボーリュの作業場。後述のサイクリング5人組もこの近辺で殺された。
この先の道を左に入ったところが村人の集合させられた広場。

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6箇所あった虐殺場の内の、ローディの納屋(右)。
馬車車を一旦外に出してから男たちを収容したという。
ここから6人の男が裏に逃げ出し、5名は虐殺を生き残ったが、1名は射殺されてしまった。
虐殺の生存者で最後まで存命だったロベール エブラは2023年2月11日に死去、享年97。

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Poutaraudはローディの納屋から逃げ出せたものの、ドイツ兵に見つかりこの辺りで射殺されたと思われる。
画面右の木の陰に遺体が見つかったという碑が立っている。

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Poutaraudが経営していたガレージ。

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看板のアップ。当時の色が失われず残っている。屋外にひさしもなく置かれており、由美かおるのアース渦巻蚊取線香や松山容子のボンカレーの看板(さすがに最近は見ない...)よりも古いのに程度が良さそう。
左上はルノーの純正オイル取扱店、左下はENERGOLブランド(英BP系?)の看板、右は自動車保険代理店。


さて、学校から逃げたロジェは途中で靴を片方なくしたもののなりふり構わずに走った。
墓地の近くでドイツ兵に見つかり撃たれた。ロジェは撃たれて死んだフリをした。ドイツ兵は死んだかどうか確かめるためロジェの腹をけって、納得したのかどこかに行ってしまった。しばらくしてロジェはまた走り出した。別のドイツ兵に見つかったが、撃つ代わりに「逃げろ」と言ってくれた。
グラヌ川を渡る時、犬が付いてきた。ハーフトラックに乗ったドイツ兵に見つかり、走るロジェと犬に発砲してきた。ロジェに弾は当たらなかったが、犬は死んでしまった。
ロジェは木の陰に隠れ、翌日保護された。家族は全員死亡し、叔父に育てられ、後にフランス空軍に入隊した。
6月10日の出来事で一番ショックだったのは、犬の死だったとロジェは後に語った。

午後4時にリモージュからの路面電車が村の入り口に到着した。これは試運転の車輌で、運転手と機関士見習いだけで乗客は乗っていなかった。
機関士見習いが降りてドイツ兵と話をしていたが射殺された。運転手はリモージュに戻るように言われた。

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リモージュからサン ジュニアンまで通じていた路面電車(トラム)の、オラドゥール シュル グラヌ駅。
奥が旅客の駅舎で、手前は荷降ろし場。
村の殆ど全ての建物の屋根は焼け落ちてしまっており、当時の屋根が残っているのはこの駅舎だけの様だ。
トラムの架線は前部残っている様だ。
虐殺が始まってからは電車はこの駅までは到達せず、村の南西端の入り口まで来て引き返した。


集合した人々を殺し終わったドイツ軍は、今度は家に残っている人や、村への訪問者を殺しにかかった。
寝たきりの老人はベッドごと焼かれた。
家に残っていた乳児はパン屋の釜に入れられた。
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パン屋。パン焼き釜の中で二人の人間が焼かれていた。
内1名は乳児だった。


虐殺は続いた。通りがかりの5人でサイクリングをしていた人たちを射殺した。
学校から戻らない子供を捜しに4人で一緒に来た、近隣の村に住む母親たちを射殺した。
女子供が集められて殺された教会と、男性が集められて殺された6箇所の納屋・ガレージ・洗濯小屋以外に、村のあちらこちらで52人が殺された。

見つけられるだけの人を殺し終わると、午後6時頃から、ドイツ兵は町を燃やしだした。
ホテルに隠れていたユダヤ系の子供たちは、ドイツ兵が火を付け出したので慌てて外に出た。すぐにドイツ兵に見つかってしまったが、彼は黙って空き地を指差した。子供たちは逃げ延びた。
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子供たちが隠れていたホテル。通りとは反対側の裏側に逃げた所ドイツ兵に見つかったが、見逃してくれて空き地に逃げることが出来た。


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家々に火がつけられ、燃え落ちてしまった。画面右端に教会が見える。

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全ての家は焼かれ、屋根は崩れ落ち、金属製で燃えなかったものが今日まで残っている。左下にミシンが見える。

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ミシンは少なくとも2台残っている様だ。遺構として保存するにあたり、どうしても補修やメンテナンスは必要になる。このミシンも虐殺当時ここにあったとは思われない。恐らく見栄えと雨除けを考慮してここに置いたのだろう。

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瓦礫の中に自転車。

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教会近くに自動車が沢山置かれている。当時ガソリン不足であまり走れないのでまとめて保管していたのだろうか。そしてその後(戦後)部品取りにされたのかボディ・シャーシ以外は殆ど残ってなさそう。
他にも村の随所で当時の自動車を見る。


午後7時頃、リモージュ発で、オラドゥール シュル グラヌに途中停車する路面列車が到着した。
(機関士見習いを射殺された後リモージュに戻った試運転列車の運転手は、オラドゥール シュル グラヌが危険なことを通報しなかったのか?)。
ドイツ兵が乗り込んで乗客の身分証を確認し、オラドゥール シュル グラヌと近辺の住人だけが降ろされた。結局彼らは殺されず開放された。
残りの乗客を乗せた列車はそのままリモージュに引き返した。

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駅の西隣にある郵便局。火災の跡が残る。
壁には少し文字が欠けているが、オラドゥール シュル グラヌの村名と、郵便 電信 電話と書かれている。
2階から通りに突き出している支柱には、電気、電信・電話用の電線を支えていたと思われるガラス製の碍子が沢山残っている。


2130頃に、20〜30の兵を残して、ダスライヒの兵の大部分は引き揚げた。

翌日6月11日の早朝、兵が宿泊した最後の建物に火が付けられ、ダスライヒの兵はオラドゥール シュル グラヌから去った。
トラックには酒などの略奪品を積み、兵はアコーディオンやハーモニカに合わせて歌っていたという。

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最後に燃やされた家(左)。
廃墟のオラドゥール村への北西側入口は撮影場所の背後。前方に郵便局が見える。
撮影時は真冬の訪問で訪れる人はまばら。


撤退したSSと入れ替わるように、子供を捜しに来た近隣の住民や、村への訪問者、郊外から帰宅したオラドゥール シュル グラヌの住民が村に入った。
ドイツ軍は村を一旦封鎖し、12日の朝になって、埋葬の為の兵を送り込んだ。この部隊は不明だがSSらしい。虐殺を行った デアフューラー連隊 第1大隊 第3中隊 の兵も居た模様。
虐殺が行われた納屋などの後ろ、教会の近くに溝を掘り死体を「テキトーに」埋めた。
埋葬部隊は昼間、リモージュ方面に向かって去っていった。

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死体が多数投げ込まれていた井戸。恐らくドイツ軍が戻ってきたときに死体を投げ込んだものではないか。


その後、ロッシュアールやリモージュの知事、司教、赤十字関係者などのオラドゥール村訪問を経て、15日になって遺体再埋葬の為、医師と赤十字計149名のチームが村を訪れ、19日まで作業を行った。

そして何が起きたかが次第に明らかになっていった。
村人、学童、近隣の住民、訪問者合わせて643人が殺されていた。
殺された人の中には、親ナチであるヴィシー政権の民兵ミリスのメンバーも居た。

尚、つい最近までオラドゥール村虐殺の犠牲者は642人とされており、巷に出回っている書籍やネット情報はこの数字のものが大半だが、フランコ政権のスペインから避難してきた女性の犠牲者が見逃されていたことが2019年に判明し、現在では犠牲者643人となっている。


村にいた人の内、約20人は広場へ村人が集められている最中に隠れたり逃げたりして助かり、虐殺が始まってからは6人が逃げ延びた。

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643名の死者の内、死体の身元が判別できたのは52名だけだった。
身元の判明した遺体は共同墓地に葬られた。

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犠牲者の追悼碑。
画面左下の透明カバーのケース2つには、身元の判明しなかった犠牲者の骨が収められている。
教会の遺体など炭化が激しく、遺骨として回収できなかったものも多い。


【その後】

ダスライヒはノルマンディーへの行軍を再開した。鉄道は連合軍の爆撃とレジスタンスの破壊活動で寸断されていて、道路を進むしかなかった。
オラドゥール シュル グラヌの虐殺以来、レジスタンスの妨害はパタリと止んでいた。村民虐殺の目的がレジスタンスへの見せしめと警告だとしたら、その効果は充分にあったのだ。
ダスライヒの部隊がロワール川を越えてノルマンディーに近づくと、今度は連合軍のヤーボの襲撃が激しくなった。
部隊は夜間の、短い暗闇の間しか移動出来なくなった。

住民皆殺しにショックを受けたシュタドラーは、ディークマンを軍法会議にかける、と言った。
しかし、軍法会議を開く前にディークマンはノルマンディーで戦死する。
1944年6月29日、カン郊外の攻防戦で、砲弾の降り注ぐ中、ヘルメットも被らずシェルターの外に出て頭に破片を受けて死亡した。まるで自殺のようであったと言う。
また、ディークマン少佐は結局死ぬ時まで解任や拘束されること無く、ダスライヒの第一大隊長を務めていた。恐らく、オラドゥール シュル グラヌの虐殺が見せしめの効果を発し、レジスタンスの妨害が無くなったので、その虐殺を指揮した人物を解任するのはSSの意に反したのだろう。
ディークマンの死により、結局、ドイツ側による虐殺の調査・軍法会議は行われなかった。

レジスタンスに捕まったケンプフェは、恐らく6月10日頃、リモージュの北北西25kmにあるブルイヨーファあたりでレジスタンスにより射殺されたものと言われる。

犠牲となった多くのロレーヌ避難民の出身元であるシャルリは、戦後、追悼の為シャルリ オラドゥールと名を変えた
自由フランス軍のドゴールは、破壊された村をそのまま残すように決めた。
国道を挟んで西には新しいオラドゥール シュル グラヌ村が建設された。
そして、国道の東側には、燃えつくされ廃墟となったオラドゥール シュル グラヌが、80年近く前の出来事を伝えようと残っている。
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「新しい」オラドゥール シュル グラヌ村の教会の塔。
45 55 48 N 1 02 03 E


【裁判】

虐殺から8年半が経った1953年1月、フランスのボルドーで軍事裁判が開かれた。
被告は、当時生存が確認されているダスライヒの元隊員で、オラドゥール シュル グラヌの虐殺現場に居た、あるいは責任があると思われる者。
ドイツ国籍52名(実際にはフランス統治地区に居た7名のみ裁判の為身柄を拘束。他の45名は不在裁判)
フランス国籍14名
よって、訴えられたのは66人で、内21人が実際に裁判で被告として出廷した。

フランス国籍とは、すなわちアルザス地方から徴兵された兵で、当時アルザスはドイツの一部だったのでドイツ人として徴兵された者が大部分だった。
内、2名は1939年〜40年の、おかしな戦争及び電撃戦の時にフランス軍にいた。

ダスライヒがノルマンディに到着してから英軍に投降したもの6名。
将校は裁判に不在。

彼らの多くは連合軍に降伏し、取調べを受けた後、1947年までには無罪放免となっていた。その後結婚して家庭を持ったものも多かった。

ルイ ヘーリンガー(名前がフランス風で、苗字がドイツ風という典型的なアルザス人だ)はオラドゥール シュル グラヌの虐殺当時、17歳だった。
オラドゥール シュル グラヌ虐殺の後、SSを脱走してレジスタンスに入り、戦後はフランス陸軍に入り、インドシナ(ベトナム)に派兵されて受勲した。
現地で警官になり、オラドゥール シュル グラヌの裁判で自分が被告になることを知ると、自ら出頭した。

師団長だったハインリッヒ (ハインツ) ラマーディングは西ドイツのイギリス占領区にいると思われたが、引き渡しには殺人犯罪の明確な証拠が必要という英軍のポリシーによりフランスは彼を諦めた。
代わりにラマーディングは裁判に書簡を送り、師団長だった彼自身も、また、連隊長のシュタドラーも虐殺については事後報告を受けただけ。
現場の指揮官だったディークマンが師団長や連隊長の命令を遥かに超える行為を部下に命じたものであり、それに従わざるを得なかった兵は無罪放免されるべきだと伝えた。

裁判は荒れることが予想され、どのような判決であろうとも皆が満足することは有りえない事が始めから判っていた。
アルザス出身の被告、その弁護人と、地元アルザスの民衆は、ドイツ人とアルザス人を別の裁判で裁くことを望んだ。
一方、オラドゥール シュル グラヌのあるリモージュ近辺の人々は、ひとつの裁判で裁くことを望んだ。

最初は同じ裁判だったが、3週間目にはアルザス人とドイツ人を別の裁判で裁くことになった。
リモージュでは大規模なデモが行われた。

2月13日、判決が出た。
裁判に出たものの内2名に死刑、他は5年〜12年の懲役/重労働が下された。
アルザス出身の兵で唯一人死刑判決を受けたボースSS軍曹は、徴兵ではなくSSに志願したということで虐殺よりも重い反逆罪で裁かれた。志願した当時はドイツ国籍だったので、自国の軍隊に志願したのだが…。
不在裁判となったドイツ人は全員死刑。
被告は全員上告した。

判決を受けてリモージュ地区、アルザス地区双方でデモの嵐となった。
リモージュでは刑が軽すぎる、アルザスでは重過ぎる、と主張した。

そしてついにアルザスでは独立運動に発展した。
アルザスはフランスにとって重要な鉱工業地帯である。(だからドイツとの領土争いが絶えなかった)
事態を収束するため政府はアルザス出身の被告に恩赦を出した。

これでアルザスでの抗議活動は途端に収まったが、当然ながらオラドゥール シュル グラヌの被害者遺族は激怒し、「オラドゥール シュル グラヌへの政府からの公式訪問は今後受け入れない」と宣言した。
ドイツでは、同じ犯罪なのにフランス人にのみ恩赦が出るのは不公平だ、という意見が高まった。有罪判決を受けた元SSも大部分は徴兵された若者だったのだ。
ドイツ人被告の多くは捕虜・裁判中の拘束期間も懲役期間に数えられたので、やがて順次釈放されていった。
死刑判決を受けたドイツ人にも恩赦が出て、1958年には全員釈放された。

1983年に、東ドイツで、ハインツ バートが逮捕され裁判にかけられた。
当時、SS少尉(最終階級SS中尉)だったバートは、東ドイツで本名で暮らしていた。
国防軍の憲兵隊に所属し、ハイドリッヒ暗殺の報復としての1942年6月に行われたリデッツエ村消滅に参加、1943年SSに移籍、東部戦線後オラドゥール村虐殺を経てノルマンディ戦で片足を失った。
特に目新しいことは無かった。命令で動いただけ、レジスタンスのメンバーも武器も見つからなかった、と証言した。
裁判で終身刑を言い渡されるが、東西ドイツ統一後の1997になって高齢(78歳)、健康状態、反省を考慮して放免された。

2011年に、SS デア フューラー連隊 第1大隊 第3中隊の元隊員6名がドイツのドルトムントで逮捕されたと報道された。
いずれも逮捕時に85〜86歳なので、本当に虐殺に参加していたとしたら全員当時10代だろう。
この内、少なくとも1名(ヴェルナー クリシュツカット)は2014年に証拠不十分で釈放(オラドゥール虐殺現場に居たことは認めているが殺害には加わっていないと主張)。他の5名については情報が見つからない...


【何故?】

事件から65年以上経た今も、
・誰が虐殺と村の破壊を命じたのか
・何故村人と学童が皆殺しになったのか
・何故オラドゥール シュル グラヌ村が選ばれたのか
といった事は、結局判っていない。
推測だが、恐らく目的はレジスタンス狩りではなく、レジスタンスへの見せしめであろう。
ディークマンが人質を取らなかったのは、ケンプフェは既に処刑されていると思い込んだ、あるいはその様な情報が入った為だろうか。
そして、ディークマンが戦死したため、本当に彼の独断の判断で虐殺をしたのかどうか判らなくなってしまった。
虐殺の場に居た兵は上からの命令を実行しただけ、下士官と将校はディークマンの命令で動いただけと言い、ディークマンの上官で連隊長のシュタドラー、更にその上の師団長ラマーディングは皆、自分では虐殺命令は出していないし承認もしていない、と言った。
本当にディークマンの独断なのか、あるいは死人に口なしなのか。

オラドゥール シュル グラヌはレジスタンス活動とは殆ど無縁の村だった。
レジスタンスに誘拐されて処刑前に逃げおおせたゲアラッハや、ディークマンに情報を流したヴィシーの民兵が、オラドゥール シュル グラヌと、25km南東にあるオラドゥール シュル ヴェイルを取り違えていた可能性はある。
どちらも似たような規模と様相の村だが、オラドゥール シュル ヴェイルには間違いなくレジスタンスが居た。
しかしディークマン率いる部隊の取った行動は、オラドゥール シュル グラヌ村にはレジスタンスが居ないし武器も無い事を知っている、という前提だ。
無防備にも村の目抜き通りを走り、武器の捜索はロクにせず、人質を取らずに皆殺しにした。
やはり目的は誘拐されたケンプフェやレジスタンスとその武器を探す事ではなく、見せしめの為の皆殺しだったのだろう。
そういう意味では、オラドゥール シュル グラヌ村の虐殺は見境無いドイツ兵殺戮を繰り返した共産党系レジスタンスに最初の原因があると言える。

尚、虐殺のあったオラドゥール シュル グラヌ村がレジスタンス活動と完全に無縁であった、とは言い切れない。
虐殺とは明らかに関係ないものの、1943年11月23日の夜、2基のエンジンが共に被弾した英空軍のウェリントン爆撃機がオラドゥール村の近くに不時着した。
乗務員6人全員はレジスタンスに拾われ、オラドゥール村に3晩かくまわれた後、レジスタンスが手配した移動手段でリモージュ、トゥールーズ経由でスペインに脱出し、不時着から約1か月後、英国に戻った。


【関連小説と映画】

"Oradour Massacre and Aftermath"(初版:1988年)という本がある。
ロビン マックネスの著による「ノンフィクション」で、虐殺は村に隠されたと思しきナチスの金塊が理由、というもの。
虐殺の生存者、犠牲者の家族、元SS隊員、元レジスタンス全てがその内容に不快感を表明したという悪名高い小説。
日本語訳「オラドゥール 大虐殺の謎」(小学館)は事実上絶版だが古書として入手できる。私は近くの図書館で借りた。何か中途半端な結末。ツッコミどころ多し。事実をベースにフィクションを絡めていて典型的なイギリスのミステリー冒険小説仕立てになっている。
前述の通りドイツ軍は村人を集めて「武器弾薬禁制品」を探しているので持っている者は名乗り出るように、と伝えたのだが、この「禁制品」というのに着目し、それが金塊である、という着想から物語を膨らませてノンフィクション仕立ての創作小説を書いたのだろう。
腐敗だらけのフランス役人、というのは笑えるが、正直言って読む価値なし。

フランス映画「追想」(1975年)は村人を皆殺しにしたSSに、帰省した医師が復讐する、という話。
原題の Le vieux fusil は古い銃という意味で、文字通り狩猟用の古い銃で復習をする。火炎放射器も使うのは反則…
映画に出てくる村もSSも規模が小さいが、教会で村人が虐殺されているなどオラドゥール シュル グラヌの事件をモデルにしているのだろう。
撮影はモントーバン近郊、ブリニケルの古城 44 03 22 N 1 39 58 E で行われている。
隊長(撃墜王アフリカの星とか、レマゲン鉄橋の工兵大尉と同じ人)はダスライヒのアームバンドをしている。しかしバイクと装甲車は国防軍ナンバー、キューベルワーゲンは空軍ナンバーと無茶苦茶...
最後に10名程のSSが全滅してメデタシ、という、オラドゥール シュル グラヌ事件に対するフランス人のウサ晴らしのつもりなのだろうか。
みっともないぞ、フランス人。まあそれを言ったら少し前に日本で流行った架空戦記(←嫌い)も同じようなものだが。


【おまけ】

ディークマンSS少佐率いる部隊がオラドゥール シュル グラヌ村の入り口近くで、フランスのレジスタンスに襲われたと思しきドイツ軍の救急車を発見した。6人が焼き殺されていた。
村に入り捜索を始めると、レジスタンスの隠している武器弾薬が多数見つかった。
捜索をする間、女子供を教会に避難させていたが、レジスタンスが教会の屋根裏に隠していた爆薬が突如暴発した。
SS隊員は女子供を助けようと必死に救助活動をしたが教会の中の人たちは皆死んでしまった。
男性の多くはレジスタンスの隊員で、逃亡したり反撃したりしようとした為、殆ど皆射殺されてしまった。
というのは歴史修正主義者バージョン。じゃあ、教会内に残る弾痕は???



注) 多くの英語の書物ではオラドゥール シュル グラヌ虐殺の部隊の指揮官をオットー ディックマン Otto Dickmann としており、日本語の書籍もオットー ディックマン 或いは アドルフ ディックマンと記載しているものが多いが、 アドルフ ディークマン Adlof Diekmann が正しい。

注) TPOに合わせて呼び名も変わる。民間人の格好をして群衆に紛れ、突如敵の正規軍に攻撃をしかける。イラクやアフガニスタンに駐留するアメリカ軍はそういった人たちのことをテロリストと呼び、第二次大戦のフランスで同じ事をしていた人たちはレジスタンスと言われる。テロリストもレジスタンスもやっていることは同じで違法行為だ。
ここでは「慣例」に従いレジスタンスという言葉を使っているが、オラドゥール シュル グラヌの虐殺の責任の多くはレジスタンスが負うべき、と思う。
ちなみに当時のドイツ軍はフランスのレジスタンスの事をBandenと読んでいた。ギャング、ならず者の意味。英語のBanditsと同じ語源だろう。

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近郊の大きな町、リモージュは陶磁器の産地として有名。
リモージュの陶磁器博物館にて。
第一次大戦のフランス兵と、降伏するドイツ兵が描かれている記念皿。ドイツとフランスの仲の悪さは筋金入り。
今でもドイツ人はフランス人が嫌いだ(ドイツ人多数に確認済み)。
でも国も生活も今は平和に回っている。
隣国と仲良く、なんていうのは幻想に過ぎない。それでも第二次大戦以降は何とかなっている。




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