本ページでは、書籍 ダニエル・テイラー著、岡崎淳子訳「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」(大日本絵画2005年) (原版 "Villers-Bocage Through the Lens of the German War Photographer" by Daniel Taylor, After the Battle publications) にて当時の写真が紹介されている場所を訪問しております。 本をお持ちの方は是非とも現在の様子と当時の激戦地の様子を見比べて見て下さい。 |
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1934年に国防軍に入隊し、1936年にSSに入隊、1937年にLSSAH の前身となる部隊に配属、オーストリアやチェコの無血併合に装甲車の連隊で参加した。 ポーランド侵攻で初の実戦を体験し、ギリシャ戦、東部戦線を3号突撃砲及び3号戦車で戦った。 1943年からタイガー戦車に搭乗。 1944年1月に騎士鉄十字章を授章し、直後に柏付騎士鉄十字章を授章した。 連合軍のノルマンディー上陸を受けLSSAHはこの地区に移動した。 1944年6月13日朝、ヴィルレ ボカージュの町外れから街中にかけて単独で走りぬけ、国道175線上の戦車、対戦車砲、輸送車合わせて24輌を破壊し、この活躍により剣柏付騎士鉄十字章を授章、大尉に昇進し、その活躍がドイツで(誇張されて)紹介されて一躍国民的英雄となる。 英雄を失うことを恐れたヒトラー総統はヴィットマンに教官となるよう要望するが、結局ヴィットマンは前線で戦い、そして運命の1944年8月8日を迎える。 カンの南南西10km程のサン テニャン ド クラメニル近郊にて英軍ノーザンプトンシャー ヨーマンリー隊の十字砲火を受け、シャーマンファイアフライが放った砲弾がヴィットマン搭乗のタイガー007の砲塔に命中、タイガー戦車は爆発し砲塔が吹き飛び、クルー全員が死亡した。 ヴィットマンの戦果は敵戦車138輌、敵砲132門の撃破で、その戦果の殆どは東部戦線によるものだった。 ヴィットマンとそのクルーは近くに埋葬された。 戦後の道路工事に伴い遺骨が再発見され、ラ カンブのドイツ兵墓地に移された。 写真は、フランスのノルマンディー地方、ラ カンブのドイツ軍兵士の墓地に埋葬されている、ミヒャエルヴィットマン(上)とタイガー戦車007号車のクルー。 49 20 31 N 1 1 41 W |
交通の要所で、一旦町を確保しればそこからの東進が楽に出来るはずだった。 カンは1944年6月6日の上陸初日か、少なくとも2〜3日後には確保する計画だった。 しかし初日にカンは取れなかった。翌日、モンゴメリーはパーチ作戦発動し、カンへの進撃を本格化させたが成果は無かった。 ところが、カンから20km西にいった、英軍地区と米軍地区の丁度境の、ドイツ軍防衛線にポッカリと幅12kmの穴があいた。 オマハビーチ以来消耗の激しい352歩兵師団がサンローに撤退したのだ。 英軍はこのチャンスを見逃すまいと、ティイ シュル ソルの戦闘に参加している英第7装甲師団を引き抜き、この穴を通じてヴィレル ボカージュに向かわせ、そこからティイ シュル ソルを守るパンツァーレーアの左側面を攻撃することにした。 12日午後に進撃を開始し、ラ ミュロティエールで一夜を明かし、その間にヴィレル ボカージュの攻撃計画を練った。 一方のドイツ軍は前線に開いた穴を埋めるため、第101SS重戦車大隊を送り込もうとしていた。 ボーヴェに駐留していた同隊は5日かけて260kmを行軍し、途中連合軍のヤーボ攻撃や長い行軍中の故障により、稼動できる戦車は45輌から17輌にまで減っていた。 ヴィットマンの指揮する第2中隊も戦車12輌のところ12日夜にヴィルレボカージュ郊外に着いた時には6輌(砲塔番号212、213、214、224、231、232)に減っていた。 6月12日夜、ヴィレル ボカージュの町は艦砲射撃にさらされたので、中隊は町に入らず、町の東にある213高の、旧カン街道の農場で夜を明かし、その間整備を行う事にした。 1944年6月13日朝8:30、英第7機甲師団がヴィレボカージュの町に入った。抵抗はなく、住民が歓迎に出てきた。 先導隊はそのまま町を抜け、事前偵察をせずに町の東にある213高地に進んだ。途中でキューベルワーゲンに遭遇しこれを破壊した。 難なく目標である213高地にたどり着き、戦車は守備の配置に着いた。 213高地のすぐ南に居たヴィットマン中尉は予想よりも早く英軍が現れたのに驚き、すぐさま攻撃を決意する。 |
ヴォル:「やつら、もう勝ったつもりですよ」 |
右手前がヴィレル ボカージュ方面、左奥が213高地方面。 画面左奥で道が少し曲がっているがこれは高速道路のインターを作った為で、当時は213高地まで一直線の道だった。 ヴィットマンのタイガー戦車は現在インターのある近辺で街道に飛び出し、ど肝を抜いた英軍の車両を次々と破壊していった。 (その前に213高地の戦車を攻撃した、という説もある) この奇襲により、画面手前から奥にかけて、道の右側(奥側)にハーフトラック7輌とユニバーサルキャリア2輌が破壊された。 「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」24ページの写真とおおむね同じ場所。 生垣(ボカージュ)の奥は空き地だったが、現在は工場になっている。 |
手前から奥にかけてユニバーサルキャリア、ハーフトラックが列をなして破壊されている写真は余りにも有名。 手前の標識は市街地の境界を示すもので、地名の標識が見えたら制限速度は50km/hになる。 一番上の黄色い菱形に黒の取り消し線は優先道路の終わりを示すもので、ここから先は、右から来る車優先になる(ただしロータリー交差点はロータリーに入っている車優先)。 その下のD675は国道675線。昔の175号線に相当する。 一番下は姉妹都市の名前。知らない町ばっかし。どうせならドイツのカールスハーフェンあたりと提携すればいいのに(マニアックすぎ)。 |
更に別のクロムウェルを2輌破壊し、目抜き通りの直線部に入った(ヴィットマンはこの時クロムウェル戦車1輌を見逃して通り過ぎている) |
結局ヴィットマンにより破壊されてしまい乗員は辛くも脱出する。 「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」29ページ参照。 |
「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」30ページ参照。 白い家は当時の殆どそのままで、その奥グレーの家は戦後に建てられたものの様だ。 白い家の手前には一回り小さい、三角屋根の小屋(家)があったが、この小屋は現在更に小さくなった。三角屋根を撤去した痕跡が白い家の手前の石積壁面に見て取れる。 |
ヴィットマンは緩い右カーブを抜けて、町の目抜き通りに入った。 右のBMWの位置か、あるいはもう少し手前にシャーマンOP(観測車)がこちら向きにいた。武装していない同車をあっけなく撃破。 殆どの建物はその後の戦闘、砲撃、空爆で破壊されてしまい、目抜き通りの建物は戦後建て直されたものばかりだが、全体的には当時の町の雰囲気を保っている。 |
この場所で間違いないのだが、同写真集90ページを見ても判るように、あたりの建物は徹底的に破壊されしまい、その後全面的に建て直されたらしく、当時の面影は全く無い。 |
そろそろ潮時、と判断したヴィットマンは元来た道を引き返し始めた。 その時、先ほど見逃していたクロムウェルが、引き揚げてきたヴィットマンのタイガーを攻撃してきた。 |
ダイアスのクロムウェルは画面左方向、ヴィレル ボカージュの中心部から離脱してきたヴィットマンのタイガーに2発撃ち込んだが、返り討ちに合いこの場所で頓挫。 当時と比べると家は建て直され、塀は低くなり、空き地にはガソリンスタンドが出来た。 |
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丁度ルノー車がいる場所に、ダイアスのクロムウェルが頓挫していた。 35ページの写真に対し、道の反対側から撮影したもの。 この角度から見る建物の様子は全く変わっていない。 |
道の左に6ポンド砲があり、これが画面奥から手前にかけて退却するヴィットマンのタイガー戦車を走行不能にした。 ロータリーは戦後(というか最近)設けられたもの。私が最初にヴィレル ボカージュを訪れたときにはこの辺りは道路整備中でロクに写真が撮れず、2度目に訪問した時は2重ロータリーが出来てしまっていた。ヴィットマンが生きていれば「おらの戦場が台無しじゃねぇが」と言っていたことだろう。 |
ヴィットマンはこの戦闘で戦車、ソフトスキン車輌合わせて24輌を撃破したと言われる。 ヴィットマンがヴィレル ボカージュの町を襲撃している最中、第101SS重戦車大隊第2中隊の他のタイガー戦車が213高地を襲撃した。 10時頃、第101SS重戦車大隊の増援が到着し、213高地の英軍は完全に包囲され、30名程は徒歩で逃げ出せたものの、残りは降伏した。 |
「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」45ページとおおむね同じアングル。右にシャーマンファイアフライとドイツ軍司令部付車輌、左にはクロムウェル戦車数輌が破壊されて放置されていた(ファイアフライは後にドイツ軍が稼動させた) 左右はボカージュ(背の高い生垣)で見通しが悪い(そのためタイガー戦車を発見しないまま丘にたどり着いてしまった)が、ヴィレル ボカージュ方面はよく見える。。 |
ドイツ軍は二波、すなわち目抜き通りを東から西に進むものと、町中心部の南側を制圧する者に分けて攻撃した。 英軍は町の広場で待ち伏せをした。待ち伏せや歩兵のPIATにより、タイガー戦車5輌、4号戦車1輌輌が街中で立ち往生した。 |
パンツァーレーアのW号戦車と、101SS重戦車大隊のタイガー戦車が仲良く破壊されて頓挫した場所。213高地は画面右奥。 |
「ヴィレル・ボカージュ ノルマンディ戦場写真集」63ページ参照。 |
画面左端にタイガーが頓挫していたがこの戦車は進撃方向ではなく213高地の方向を向いていた。 右奥、旗の立っているところが、午後の戦闘で英軍のクロムウェル、ファイアフライ戦車と6ポンド砲が待ち伏せしていた、町役場前の広場。 どうでもいいことだが、写真左のパン屋で買ったバケットは大変旨かった。 |
本を持っている方は是非見比べてください。徹底的に破壊された町中心部のすぐ裏なのに全く当時そのままの建物が残っている。ここまで見事に同じだとかなりうれしい。 タイガー戦車は奥から(白いバスが止まっている市場の方から)手前に道を進み、家の前で放棄された。 |
国道175号線が町に向かってゆるやかな右カーブを描く場所で奥が町の中心部方向。 手前の白い家はおおむね当時のまま その次の家の来いグレーの家のある場所は当時空き地でその前にW号戦車が頓挫(その反対側にダイアスのクロムウェルが破壊されて放置) その先2軒(グレーの家とベージュの家)は当時1軒の大きな家、その先(奥から軒目)は当時石造りの家を建て直した様子。市場の区の家は当時のまま。 ヴィットマンもここを通過して進出、退却している。 |
鉄道は廃線となり線路のあった場所は広い道路に変わった。 この道路の名前は「6月13日通り」。何じゃそりゃ。何考えてんだ、フランス人... |
このままでは持たないと判断した英軍は町から退却することを決め、煙幕弾を撃ち込んでもらいこれに隠れて夕方、撤退を開始した。 ヴィレル ボカージュの戦いでの損害は正確には分からない。 英軍の死者・行方不明者は200〜300人規模と見られ、その多くは213高地で捕虜になった者。 英軍は戦車20数輌とその他車輌、火砲多数を失った。 ドイツ側はパンツァーレーアの損失がヴィレル ボカージュと他の地区の損失を区分けしていないので不明。英側よりははるかに少ないと思われる。 ドイツ戦車は8〜15輌が失われ、内6輌が貴重なタイガー戦車だった。(ただし、この内少なくともヴィットマンの321号車は回収・修理された) 6月14日の夜及び6月30日に、町は連合軍による大空襲を受けた。13日の戦闘と合わせて町はかなり破壊されたが、空襲による死傷者の大部分は住民だった。 英軍によってヴィレル ボカージュが開放されたのは1944年8月4日のことだった。 |
ヴィレボカージュの町の南はずれにある城館、シャトゥー デ ヴィレル ボカージュ。 1145年にこの地に城が築かれた。堀で囲まれた城だったと伝えられるが、14世紀末には病気の蔓延、悪天候、収穫難などによりこの地が荒廃し、同時に城も廃墟となり解体された。 次の領主はここを広大な荘園にした。 18世紀末から19世紀初頭にかけ、フランス革命の混乱の最中、土地の持ち主が何度か変わり、1850年〜1860年にかけて現在の邸宅が作られた。 1944年6月11日、ノルマンディー戦の最中、ドイツ軍はここを病院として使用したが英軍が近づくと共に撤退し、13日朝にはドイツ軍は居なくなっていた。 以下、ヴィレル ボカージュの戦いに参加した兵器、車輌と同型(類似型)で現存するものを紹介する。 |
フランス・ソミュール戦車博物館の展示。運搬用の幅の狭いキャタピラを履いている。 |
ドイツ・ムンスターの戦車博物館の展示車。 |
ベルギーの開放記念にて。 |
ベルギーの開放記念にて。 |
牽引しているのはヴィットマンのタイガー戦車を阻止したのと同じ6ポンド砲 手前はヴィレル ボカージュとは関係ないがドイツ軍の75mm砲 ダックスフォード帝国戦争博物館の、砂漠戦実物大ジオラマ |
英国ボービントン戦車博物館にて。 |
これも英国ボービントン戦車博物館にて。 |