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南西からカンを回りこんで敵を包囲する為、エプソム作戦(Operation Epsom)が発動された。 1944年6月26日から30日にかけての戦いはオドンの戦いとも言われ、モンゴメリー指揮下の英軍は歩兵師団×2、装甲師団×2、戦車旅団×1を投入。 初日の進撃は順調でドイツ軍の守備ラインを崩すことが出来た。 続く2日間の戦いでオドン川を越えることが出来た。 6月28日に112高地の北側斜面を確保することが出来たが南側はドイツの強固な守りにより占領することが出来ない。 112高地を占領することは付近のコントロールを得ることを意味する為両軍必死の攻防戦となり英軍はこの日戦車40輌を失った。 翌6月29日、英軍は112高地西側からの攻撃を試みるが失敗、同日南側からの攻撃により丘を占領することが出来た。 その日のうちにドイツ軍は反撃を開始した。英軍は大規模な反撃をエニグマの暗号解読を通じて察知し、高地を放棄して後退した。 6月30日未明、英軍の撤退を知らないままドイツ軍SS第10戦車師団が高地を占領した。 ドイツ軍側は犠牲の割りに成果が乏しいのでこれ以上の反撃を中止する決定をしたのだが、英軍はそれを知らずこちらもまたこれ以上の進撃を中止し、エプソム作戦は終了となった。 そして10日が過ぎた。 112高地を始めとする周辺のドイツ軍は連日空襲、艦砲射撃、陸上からの砲撃にさらされて来たがそれに持ちこたえ、戦線は動いていなかった。 カンは7月8〜9日にかけて空襲・砲撃に続くカナダ軍の進撃により、街の北部を占領する。 7月10日に今度は2つの装甲旅団の支援を受けた英43歩兵師団が112高地への攻撃を開始した。ジュピター作戦(Operation Jupotor)である。 双方とも攻防に必死で、英軍機甲部隊は一旦丘の上にたどり着いたものの、ドイツ軍の反撃で追い返された。 同日、カン市中心部が連合軍の手に落ちた。 翌7月11日、一旦は高地の占領に成功したものの、再び午後にはドイツ軍に追い返された。 2日間の攻撃で英軍は死傷者2000名を数えた。 結局、7月11日が終わった時点で両軍とも高地の占領を諦め、前線の間で高地はしばらくの間無人地帯となり残された。 112高地を英軍が最終的に占領したのは7月19日の事で、グッドウッド作戦によりカナダ軍がカン市全域を占領し、南進したのに伴っての事だった。 一連のカン周辺の攻防戦でドイツ軍を引きつけておくことにより西部のアメリカ軍はシェルブールの占領、その後の南進(コブラ作戦)を少ない抵抗で戦うことが出来た。 カン周辺からドイツ軍が完全に居なくなるのは8月になって、ファーレーズ包囲が始まる頃だった。 112高地を巡る激戦は映画にはなっていないが、アメリカのテレビ映画コンバットの「丘は血に染まった」は、米軍が西の壁(多分)のトーチカを攻撃し、犠牲をはらって折角確保した丘を反撃を理由に放棄する話だが112高地攻略戦をヒントの1つににしているのだろう。 |
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戦争の傷跡は殆ど見当たらない。 |
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