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ファレーズ包囲網
Falaise Pocket / Falaise Gap

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写真:英空軍のタイフーンはファレーズで地上攻撃に活躍し、20mm機銃とロケット弾をもって、逃げまとうドイツ軍を攻撃し、反撃を抑えた。
写真はカンの平和博物館の入り口に展示されているもので、オリジナル部品を一部使用したレプリカ。


ノルマンディーの海岸に上陸した連合軍はしばらく内陸部への進撃が出来ずにいたが、1944年7月20日にはカンが連合軍の手に落ち、また、7月25日、サンローを拠点に米軍がコブラ作戦を発動して南西部への進撃を開始し、7月30日にアヴランシュを開放した。
8月1日にはパットン将軍が新たに結成された米第3軍を率いることになり、第1軍はホッジス将軍が指揮することになった。
以降、米軍の進撃は破竹の勢いで進み、8月7日にブルターニュ半島の大半を開放した。
一方のドイツ側は西部司令官フォンクリューゲ元帥の指揮下、ヒトラー総統の無謀な命令により8月7日、コタンタン半島を横切り米軍を分断するべく西への反撃を行ったが、ドイツの暗号を解読していた連合軍側の防衛は固く、当然これは失敗に終わった。
単に失敗に終わっただけではなく、貴重なドイツ軍の装備・兵員を敵の奥深く、西に動かすことになってしまった。
米軍は8月8日にはドイツ第7軍司令部のあったルマンを開放し、8月10日にそこから北上を開始。
一方、カナダ軍が8月7日〜10日にかけてカン郊外からファレーズに向って南下(トータライズ作戦)した為、ノルマンディー地区のドイツ軍は連合軍に北、西、南を囲まれる形となった。
連合軍にとっては、10万以上の敵兵力を一網打尽に包囲殲滅する一世一代のチャンスが巡ってきた。

パットンの第3軍は猛烈な勢いで北上しており、8月12日にアランソンを制圧、翌日にはアルジャンタンに達した(ただし町を完全に占拠出来た訳ではない)。
米軍の余りに早い進撃により米軍と英連邦軍の同士討ちを恐れたブラッドレーは、停止を命じる。

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早期に包囲網でドイツ軍を囲えた可能性があったのはパットンの第3軍だけではない。
自由フランス軍の第2機甲師団は8月13日にエクーシェに到着するが、それ以上の北上を止めるよう命じられた。
写真はエクーシェの町の東外れに置かれている、自由フランス軍の第2機甲師団所属だったシャーマン戦車。
48 42 57 N 0 7 1 W




包囲網を閉じるのはカナダ軍の役目となった。
8月14日、トラクタブル作戦が発動され、カナダ第4装甲師団とポーランドの第一装甲師団がトランに向け南西に進み始めたが、ドイツの102戦車大隊の反撃に合い進撃は遅かった。
8月16日、フォンクリューゲ元帥はヒトラーからの反撃命令を実行不能と却下し、やっと退却を認められる。
8月17日にやっとカナダ軍がファレーズの町を占拠した。トランはまだドイツ側にあった。
同日、ヒトラーは、モーデル元帥を後任に任命し、フォンクリューゲ元帥を解任してベルリンに呼びつけた。
モーデルは早速退却を指揮した。フォンクリューゲはベルリンに向う途中、自殺した。
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写真:フォンクリューゲ元帥は、ルントシュテット元帥の後任として西部戦線のドイツ軍司令官を1944年7月から務めた。
ロンメル元帥負傷後はB集団の司令も兼ねていた。ファレーズ戦の最中、指揮をモーデル元帥に引継ぎベルリンに向った。ヒトラーに呼ばれてのことだったが、7月に起きたヒトラー暗殺未遂への関与を疑われたと察してか、1944年8月19日、ベルリンへ向う道中で毒物自殺した。自殺場所は、第一次世界大戦で自らが戦ったヴェルダン戦場の近郊だった。
元帥の杖がムンスターの戦車博物館に展示されている。


8月18日、トランがやっとカナダ軍の手に落ちた。いち早く南からの包囲網を狭めて待機している米軍に比べ、カナダ、ポーランド軍の進撃は遅かった。
ドイツ軍は東へと必死に退却していた。脱出口は徐々に狭まっていた。

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写真:
東に退却するドイツ軍がアブロヴィルの集落に放棄していった105mm砲。
アブロヴィルからドイツ軍は8月19日の朝に撤退した。
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48 47 6 N 0 10 10 W

8月19日、ポーランド軍がシャンボワの村に進み米軍及び自由フランス軍とついに接触した。包囲が完了したかに見えた。
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写真:カナダ軍、ポーランド軍が南下して米軍の待つシャンボワに到着し、一旦は包囲出来た。
写真はシャンボワの町でファーレーズ戦関係の記念碑がいくつも残る。
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48 48 19 N 0 6 22 E

ポーランド軍は早速、近くの262高地(モン オメル)に戦闘団を送り占拠した。

モーデル元帥は何とか脱出口を確保しようと、第2、第9SS装甲師団の一部に、包囲網の外からの攻撃を命じた。
8月20日の昼には攻撃が功を奏し、ポーランド軍陣地に穴が開き、包囲網脱出のための回廊を開くことが出来た。
その日の午後中頃までに1万のドイツ兵が脱出に成功した。
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包囲網から東に逃げるにはディーヴ川を越えなければならなかった。
写真はモワシーという集落にある浅瀬。右手には橋があるが徒歩のみで渡れる。
ドイツ軍の車輌はこの浅瀬を渡って退却した。
ドイツ製の車両で65年ぶりに渡河する....のも良いかと思ったが、さすがに言葉の通じないおフランスで、FR車でスタックするとヤバいので自分の車で渡ってみるのはやめた。
水深30cm程で新しい轍があるので、今でも農作業の車が通るようだ。というか、橋くらいかけてやれよ、おフランス!
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モワシーの少し北西にある、サンランベールシュルディーヴ。ここではディーヴ川を橋で渡れる。
写真は退却したドイツ軍が見た光景で前方に向かって退却。
ドイツ軍は近くの教会の尖塔(写真左の建物のうしろにほんの少しだけ見えている)から交通整理を行い、退却する部隊が橋をスムーズに渡れるようにしていたが、やがて兵がなだれこみカオスになった。
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ティーヴ川を越えた後、ドイツ軍は狭い回廊を抜けて北東に逃げなければならなかった。写真はドイツ軍が撤退した回廊。
奥から手前に退却した。ノルマンディー地方独特のボカージュ(背の高い生垣)が両側を覆う。
画面左からアメリカ軍、画面右からはポーランドとカナダ軍が攻勢をかけ、上空からは砲弾とヤーボのロケット弾が降り注ぐ中、必死で北東(画面手前方向)に向って退却した。

262高地を占拠するポーランド軍に包囲網を再び閉じる余力は無かったが、見晴らしの良い高地から砲撃を管制し、回廊を退却するドイツ軍に直撃を浴びせた。
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262高地には戦闘を記念してグレイハウンド装甲車が置かれている。
またそばにはシャーマン戦車も。
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262高地からの眺め。クリックで拡大。
目の前に広がるのが、ドイツ軍が最終的に包囲されたファレーズ・ポケット。
このような眺めの良い高台は砲撃観測に最適。
ドイツ軍は画面中央奥から手前左に向って、パニックの様に退却し、そこを連合軍の砲撃とヤーボ(戦闘爆撃機)が襲った。

激怒したドイツ軍は262高地からポーランド軍を排除しようとしたがポーランド軍は何とか持ちこたえた。
ドイツ軍の撤退は夜も続いた。

翌8月21日にもドイツ軍は262高地を攻撃し、ポーランド側に損害が出たものの再び攻撃を撃退した。
同日昼過ぎにカナダ軍が262高地に到着し、回廊を守っていたドイツ第2、第9SS装甲師団が退却を始めた。

8月21日の夜にはついに回廊が閉じられた。ファレーズ包囲網が再び破られることは無かった。
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写真:トゥルネー シュル ディーヴではファーレーズ包囲網から脱出出来なかったドイツ第7軍の兵数千名が降伏した。
内、2千名は一人のカナダ兵に対し降伏したという。
村には降伏を記念する碑とハーフトラックが置かれている。
48 48 44 N 0 2 39 E

ファレーズの包囲網に入ったドイツ兵の内、1万〜1万5千が戦死、4万〜5万が捕虜、2万〜5万は包囲網から脱出出来たといわれる。
戦車・自走砲・装甲車その他車輌多数が砲撃やヤーボの攻撃で破壊されたり破棄されたりした。
脱出出来た兵が多いことは連合軍にとって痛手だが、重装備を置いて着の身着のまま逃げているので再編成に時間がかかった。
包囲網でのドイツの戦車&自走砲の損失は500輌程度と見られ、無事包囲網を抜けてもセーヌ川を渡って退却できた車輌は極めて少なかった。
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回廊の北東10km程度にあるヴィムティエの町外れに置かれているタイガーE型戦車。
本当はティガーとか言うらしいが(ティーゲルとは余り言わない)タミヤのミリタリーミニアチュア世代としては、これは、タイガー戦車だ。
回廊を守った後、ファレーズ包囲に入らず北東に逃げ出したが、途中で燃料切れをおこして放棄された。
危うくスクラップになるところだったが今は道路沿いのパーキングに置かれている。
エンジンやミッションその他小物は失われ、砲塔上部にはスクラップ業者が解体を試みたときのトーチ切断跡がある。変な塗装と相まってあまりいい状態ではないが、戦争記念碑と言えばシャーマンばっかりの西ヨーロッパにおいて枢軸側戦車は貴重。
48 55 25 N 0 12 53 E

戦いが終わって、包囲網の内側には戦車・車輌の残骸、兵士や民間人・軍馬や家畜の死体が散乱していた。
夏なので腐敗匂がひどく、ウジが湧き、ハエが死体に群がるのが煙のように見えたという。
川は血で赤く染まり、しばらくの間地下水が汚染されていて飲料水に使えなかった。

ドイツ軍が敗走したため、その後連合軍の進撃は急進できた。8月25日にはパリを開放し、8月30日に最後のドイツ軍部隊がセーヌ川東岸に退却し、ここに3ヶ月近くに及んだノルマンディーの戦いは終結した。




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