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ナポレオンが権力を握っている間には完成せず、セントヘレナ島から棺に納められて戻る時にここをくぐった。 後に第一次世界大戦の無名兵士の墓が置かれた。 1940年にはドイツ軍が占領記念パレードを行い、 1944年にはアメリカ軍と自由フランス軍が開放記念パレードを行った。 そしてそれ以降は8月25日にフランス軍の開放記念パレードが行われた様だが、現在は7月14日にフランス革命記念パレートが行われている。 ドイツ軍のパレード....ものすごく見てみたかったぞ。 |
連合軍の次の目標はベルリンだった。何としてもソ連よりも早く到達しなければならない。 連合軍の進路の前方には大都市にして花の都、パリがあった。 アイゼンハワーはパリを無視することにした。 もしもパリを解放したら、大量の連合軍の物資をそこに回さなければならない。 進撃スピードも落ちるだろう。そしてドイツ軍は街を破壊するかもしれない。 今はパリを迂回してドイツを目指す時だ。パリの開放は後回しでいい。 アメリカ第三軍、パットン将軍にもパリは眼中に無かった。彼はとにかくドイツに到達しようとしていた。 自由フランス軍の司令官、シャルルドゴールは焦っていた。 パリでは連合軍が近づいているのを察知してか、レジスタンスが活発になっている。 自分の息のかかったFFIはよくやっているが、それ以上に共産党系レジスタンスが勢力を伸ばしている。 既にレジスタンスはドイツ軍との戦いだけでなく、別勢力のレジスタンスとも勢力争いを始めている。 もしも共産系レジスタンスが勢力を握りパリ開放の英雄になれば、フランスは共産党が支配してしまう。 ドゴールは、単独でも自由フランス第二装甲師団をパリ開放に向かわせる、と脅した。 ドイツ国防軍で、中将に昇進したばかりの、フォンコルティッツはパリ占領区の司令官として8月9日に到着した。 前任者は7月のヒトラー暗殺に関わったとして解任されていた。 1940年のロッテルダム攻撃、セヴァストポル攻略などに参加した経歴を持ち、作戦の為村を徹底的に破壊したこともある。 今回、ヒトラー総統から直々に「パリを敵に渡すのが許されるのは完全に廃墟になった時だけだ」と命令を受けていた。 それは余りにも非生産的で非合理的な命令としか思われなかった。 異なった思惑が絡む中、連合軍はパリに刻々と近づいていた。 パリ解放での自由フランス軍の損害は死傷者300名、戦車車両150輌を失い、敗走するドイツ軍相手としては大きいといえる。 米軍の損害は発表されていないが比較的軽微と思われる。 レジスタンスと巻き添えになった市民との間に死者1500人、負傷者3500人を出した。 。 |
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私も宿泊してドイツ軍幹部の気分を味わいたかったのだが、宿泊費が高すぎて断念、パリに行くときはいつも環状線の外に宿泊して地下鉄で中心部に通った。 というか、パリ、物価高すぎ!駐車場なんか東京より高い。何様のつもりなんだろうか。パリ様? |
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占領下のパリの店を再現。フランス・アンブレウースの39-45博物館の展示。 |
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土地不足により古い墓を掘り起こして、元石切り場の開いたスペースに人骨を積み上げて並べている。 中はひんやりとしていて、2003年夏にヨーロッパを襲った猛暑の時は地元民に大人気の場所となったらしい。 (ヨーロッパの一般家庭にクーラーは無い) |
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フランスに上陸したノルマンディーのユタビーチ北外れにある。 |
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パリ開放戦にも完全に時代遅れになっていたこれら戦車が使われた。 フランス製戦車をドイツ軍から奪い返して使うフランスレジスタンスとか、フランス製戦車を使うドイツ軍に対し、アメリカ製戦車でイギリスから上陸したフランス軍が戦いを挑む、といった複雑なことも。 ソミュール戦車博物館に並んだオッチキスとルノー戦車。 |
連合軍の進撃が予想されるため、8月中旬からドイツ軍はパリの要所に爆薬を仕掛けだした。 |
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48 51 18 N 2 18 45 E 若くして病死した息子の墓はオーストリアにあったが、1940年12月15日、ナポレオンを尊敬していたヒトラーの計らいで、当時ドイツの一部だったオーストリアから、当時ドイツ占領下のパリに移された(ただし遺体の一部はハプスブルク家の伝統に従いウィーンに残っている。 映画「パリは燃えているか」にてドイツ軍が撤退する際、ヒトラーの命令により街を破壊するために、ここにも爆弾を仕掛けるシーンがある。 ドイツ将校は、床に記された、ナポレオンの戦い勝利を収めた場所を順に眺めていて、「モスクワ」で目が止まる。 ナポレオンはモスクワまで到達したが、ドイツ軍はモスクワの手前までしか進出出来なかった。 そしてナポレオン軍もナチスドイツ軍もロシア/ソ連への進軍が命取りとなり敗退する。 |
8月15日、パリの公務員は順次ストに入り、18日にはゼネストに発展した。 8月19日からレジスタンスFFIが本格的に動きだした。 バリケードを設置し、車両を調達し、武器弾薬を用紙してドイツ駐留軍の反撃に備えた。 |
車体に大きくFFIと書かれており、まあハーグ条約に何とか触れないかな、といった所か。 |
スウェーデン領事のノルドリングを仲介役に、ドイツ軍とFFIの一時停戦が成立した。 しかし22日、23日と市街戦は高まりを見せてきた。 自由フランス軍第二装甲師団のルクレールはパリに進むことを決意した。既に先遣隊が出発している。 アイゼンハワーが折れた。パリ解放は公式な任務となり、米第4歩兵師団も自由フランス軍第2装甲師団を応援する形で解放に参加した。 連合軍が近づいて来たためドイツ駐留軍は順次パリを脱出しだした。 フランス軍は進撃途中待ち伏せに合い苦戦した。米軍はフランス軍に構わずパリに向かった。 24日になって自由フランス軍の第2装甲師団の先遣隊がパリ外郭に到着した。進撃は歓迎する住民に阻まれ遅くなった。 25日に自由フランス軍本隊がパリに入りパリジャンの大歓迎を受けた。 同時に米第4歩兵師団もパリに入った。 コルティッツは同日連合軍に降伏し、パリは解放された。結局、ヒトラーの命令は実行されなかた。 同25日午後、ヒトラーは狼の巣で参謀と会議を開いていた。 パリが連合軍の手に落ちたことを知ったヒトラーは、傍らのヨードル元帥に聞いた。「パリは燃えているか?」 フランス軍は26日、まだドイツ軍狙撃兵が居残る中、シャンゼリーゼ通りでパレードを行った。 29日に再びアメリカ陸軍、自由フランス軍合同のパレードが行われた。 |
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栃木県鬼怒川の、東武ワールドスクエアにあるパリ凱旋門の1/25模型。 1/25のドイツ軍戦車模型を持っていって勝手に置いて、「ドイツ軍占領下のパリ」とかものすごくやってみたいぞ。国旗もスワチカに取り替えたりして。 この模型では第一次世界大戦の無名戦士の墓で式典を行っている。 周りの広大なロータリー、フランス人の「素晴らしい」運転マナーが全開。 フランスを運転すると日本の名○屋や○阪あたりは、実はものすごく運転マナーが良かったのだという気がする。 凱旋門はシャンゼリーゼでの軍事パレードの出発点となる。 |
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ドゴールは身長2mの長身だった。 |
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日本では「パリ祭」とか何となくおフランス的にお洒落な名前を付けているが、やっていることは軍事パレード。 パリ開放を描いた映画には名作「パリは燃えているか」(1966年)がある。 超豪華キャストのフランス映画。DVDは残念ながら出ていない。 昔深夜放映されたものを録画したビデオを何度も見ている。 パットンが物分かりのいいオヤジになってたりするが、それを差し引いてもいい映画だ。 「パリよ永遠に」(2014年)はコルティッツとスウェーデン大使ノルドリングの駆け引きを再現した舞台を元にした映画。緊迫感は判るのだが、やはり地味になってしまうのは否めない。 どちらか1本選べと言われたら断然前者だ。 連合軍によるパリ開放を目前に美術品をパリからドイツに移送しようとするドイツ軍大佐と、レジスタンスに通じている鉄道員の攻防を描いているフィクション映画は「大列車作戦」(1964年)。 フランス国鉄協力の元、何と惜しげもなく列車の脱線、衝突が繰り返される。これ、特撮とかではなく本物の蒸気機関車や貨車を脱線転覆破壊している。 レプリカらしいがやたらと強そうな装甲列車も出てくる。これはあっけなく爆撃で破壊されてしまうという設定。しかし装甲列車の運転手もフランス国鉄職員って、いいのか、それ、保安上? 飛行機も本物でスピットファイアとフランス空軍のA-26インベーダーが登場し、特にA-26の低空飛行、爆撃手視点の映像は必見。 字幕で「西部戦線指揮官のランステッド」って、フォンルントシュテットの事?でもパリ開放前後は西方総軍司令官はモーデルなのだが。 「ミケランジェロプロジェクト」(2014年)も「大列車作戦」と類似のテーマであるが、正直ちょっと盛り上がりに欠ける映画。こちらは概ね実話をベースにしているとのこと。 |