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アーヘン市街戦
Battle of Aachen

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ドイツ最西の都市、アーヘンはローマ時代から温泉地として知られている。
町が大きくなりだしたのは、768年にフランク王国のカール大帝がアーヘンで初めてクリスマスを過ごして以降で、彼はここに聖堂(残っている)と宮殿(残っていない)を建てて、毎年の様に冬をすごした。

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936年にオットー1世がアーヘンで載冠式を行い、以後500年間、歴代ローマ国王は全てアーヘンで載冠式を行った。

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中世には羊毛製品の取引拠点として栄えたが、1656年の大火をきっかけに衰えていく。

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温泉地として勢力を復活、ナポレオン統治を経てプロシア帝国の傘下になった。

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1840年にケルンからベルギーに向かう鉄道が停まる様になり、以降第二次世界大戦までに鉄道車両、鉄鋼製品、羊毛製品、絹製品などの生産拠点になっていた。

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ヒトラーが政権を握ると、ドイツはフランス、ベルギー国境沿いを中心に西の壁(Westwall)を作った。
特にアーヘンの周りは壁が2重になっていて、アーヘンは西の壁に囲まれる形になった。
1938年11月9日の「水晶の夜」ではユダヤ人の家や店が他のドイツの都市同様に破壊された。



さて、第二次世界大戦後半、ノルマンディーに上陸した連合軍は、1944年9月中旬にはドイツ国境に達した。
ここで一気に勝敗を付けるべく、西の壁を避けつつ、ドイツ工業の心臓部、ルール地方進出を狙った連合軍はマーケットガーデン作戦を発動し、そして失敗する。
一方、フランス・ベルギーから一気に撤退したドイツ軍は、西の壁の内側で再び戦力を再編しつつあった。

アーヘン周辺にアメリカ軍が到着したのは9月上旬のことである。小競り合いがあり、アーヘン地区司令官シュヴェーリン将軍は町ごと降伏する予定だったがこれを知ったヒトラー総統はシュヴェーリンを逮捕し、守備部隊を司令官共々丸ごと入替えた。

アーヘンの町には軍事産業が殆ど無く、米軍は町を迂回する事も出来たが、アーヘンはアメリカ第一軍がルール工業地帯に向かう進撃ルートの平地の真ん中に立ちはだかっていたので占拠を決める。
一方、守るドイツ軍は、ドイツ第一帝国のカール大帝の町アーヘンを明け渡す事はすなわちドイツを明け渡す事になる、という高いモラルを持っていた。
曇りの天候が続き連合軍の航空機が飛ばないのを好機に、ドイツ軍は増援部隊をアーヘンに送り込んだ。
こうして両者の思惑が交錯する中、アーヘン攻防戦が始まりつつあった。

米軍はまず町を包囲すべく動いた。
周辺の丘をいくつか占領したがドイツ軍の増援が引き続き到着したので包囲が完了しない内に町の中心部を攻めることにした。
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準備として10月に降伏を勧告したが応じないので11日から12日にかけて砲撃と爆撃の嵐を浴びせたが、ドイツ側はトーチカ、防空壕、地下室にこもったため被害は殆ど無かった。

アーヘン防衛の新しい司令官はヴィリックで、1944年10月12日に着任し、司令部を豪華な温泉保養所であるホテル・クエレンホフに置いた。

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司令部のあったホテル・クエレンホフ
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10月13日、町中心部への進撃が始まった。
まず町の南西から、鉄道線路に乗って進撃し南に一列の前線を作る。
Knock 'em all down (全部崩してしまえ)を合言葉に建物を一軒づつ破壊しながら進んだ。
そして約2kmの幅に渡り並び、砲撃で目前の建物を破壊しながら西へ進撃する。
破壊しきれないものは爆薬、バズーカ砲で壁に穴を空け、手りゅう弾を投げ込みながら進む。
市街戦では道路を進めない。壁を崩しながら一軒づつ制覇し、進撃していった。
榴弾砲付M4戦車や、155mm自走砲で遅延信管付砲弾を水平に発射し、一ブロックに並ぶ数軒の家に通しで穴をあけることも行われた。


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街中に残る防空壕。一見普通の建物に見せようと言う努力の跡が。
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壁には激戦の痕跡が残る


ヒンデンブルグ通り沿いにドイツ軍が戦車を伴って反撃してきたが何とか撃退した。

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旧ヒンデンブルグ通りとその先にある劇場。ドイツ軍は前方から反撃してきた。
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一方、米軍は町の北部からも攻撃を10月13日に開始した。
まずユーリッヒャー通りを南進し、20mm砲とパンツァーファウストの攻撃を受け戦車が2輌損害を受けた。

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北からの進撃路、ユーリッヒャ通りを中心部(南)に向かって見る。
前方左の塔は聖エリザベス教会。
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聖エリザベス教会で強固な抵抗に合い、ここで進撃を右折(西進)して14日にファルヴィック公園の麓にさしかかった。

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ファルヴィック公園
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ここは防衛司令部のあるホテル・クエレンホフのすぐ近くで、トーチカが多数配置されていた。
アメリカ軍が接近したのでヴィルクは司令部を西の防空壕に移した。

一旦ホテル・クエレンホフまでたどりついた米軍だったがドイツ軍の反撃を受け公園の外まで退却する。

10月16日にはアーヘンの包囲が完了し、ドイツ軍に増援は来なくなった。

18日には北側の部隊の攻撃が再開され、ファルヴィック公園とSSが守るホテル・クエレンホフを占拠した。
ホテルの地下室に立てこもるSSには手りゅう弾と機銃で対抗した。

アーヘン制圧を完了させる為に米軍はタスクフォースを編成した。
ザルヴァトルベルグとロウスベルグの双子の丘を制圧し、ヴィルクの立てこもる防空壕に近づいた。

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ホテル・クエレンホフを退去してヴィルクが最後に立て篭もった司令部の防空壕。
壁には銃撃や砲撃の痕跡が多数ある。
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ヴィルクは最後まで戦う様命令を出したがドイツの防衛線は崩壊していた。
10月21日、米軍はそれとは知らずにヴィルクの司令部のある防空壕を包囲した。
155mm自走砲で砲撃をしようとした時、白旗が揚がった。

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かくしてアーヘン攻防戦は終了し、ヒトラーの敬愛したカール大帝による第一帝国の都は瓦礫の山となって連合軍の手に落ちた。


結局アーヘンの戦いで米軍は死傷者5000名、ドイツ軍は死傷者5000名捕虜5600名の損害を出した。

連合軍は目先のタンコブであったアーヘンを制覇してルール地方の攻略に向かうはずだったが、アーヘンでのドイツ軍の抵抗に懲りて、進撃の右翼に広がる森も制覇しておくことになる。それはアーヘン市街戦よりも遥かに泥沼となる森の戦いだった。

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廃墟の街となったアーヘンだが、中心部にある大聖堂は奇跡的に無事で、現在は世界遺産に登録されている。
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戦後、建物は修復された。
現在、一部の建物に残る弾痕を除けば、この街が徹底的に破壊された激戦地だったと知る由はない。



19441013_aachen_09.jpgちなみにアーヘンの歴史絵巻が描かれているのは防空壕の壁面。
負の遺産を有効活用した、なかなか粋な計らいだ。
アーヘン市内いくつもある防空壕やトーチカとは異なり破壊や銃撃の跡が見られない。
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