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ヒュルトゲンの森の戦い
Battle of Huertgen forest

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ヒュルトゲンの森に残る、「西の壁」(ジークフリート線)のトーチカ跡。
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ドイツ人にとっては今も昔も森は心のふるさと、らしい。
はるか昔、奥深い森に住んでいたゲルマン民族にローマ帝国は苦しめられた。
現在、森に住む人は減ってしまったが、休日に歩いて、あるいは自転車で、ドイツ人は森に行く。
ドイツで一緒だった同僚は「森は家の庭みたいなもの。他の国の人には判らない」と言っていた。
ヒュルトゲンの森の戦いはまさしくそのような、ドイツが慣れ親しんだ森での戦いで、アメリカ軍は無駄な流血を繰り返した。


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ヒュルトゲンの森はアーヘンの南、ベルギーとの国境沿いに位置する。
森は深く上空からの航空支援が出来ず、秋の雨に濡れていて車輌の通行できる道は限られていた。

ヒュルトゲンの森は米第1軍ホッジス将軍の進軍路に立ちはだかっていた。
時は1944年秋、相手のドイツ軍はファーレーズ包囲網を命からがら脱出し、士気も耐力も装備も貧弱なはずだった。

米軍が初めて森に足を踏み入れたのは1944年9月19日のことである。
しかし敵の反撃と、易しくない地形の為、一旦退却した。
10月5日に、第9歩兵師団がシュミットの攻略を目標に、その手前のフォッセナック占領を試み、甚大な死傷者を出した。
諦めずに進撃を試みたが、10月16日までに3kmしか進撃せずフォッセナック手前のゲルミーターの町までしか確保できなかった。
そして、4500名の死傷者が出た。
同日、第28歩兵師団(ペンシルベニア州軍)が損害の多い第9歩兵師団にとって代わった。

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アメリカ陸軍第28歩兵師団の司令部が置かれた、ロットの村のホテル兼レストラン。
当時第28歩兵師団の指令はコータ将軍で、彼はノルマンディー上陸作戦のオマハビーチで前線陣頭指揮したにもかかわらず、ヒュルトゲンの森の戦いでは前線をロクに視察せず、ドイツ軍は弱体化していると信じ込み、無駄に兵を次々と送った。
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第28歩兵師団は11月2日から本格的な攻撃を始め、同日フォッセナックの村を確保した。
ここを起点に、当面の攻略目標はシュミッドの町である。

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フォッセナックの村。
ヒュルトゲン地区の他の多くの町村同様、徹底的に破壊されたので、教会も村も戦後になって再建されたもの。。
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アメリカ軍が森をシュミットに向かって進みだしたが、ドイツ軍は守りを固めており、随所に地雷原があった。
ドイツ軍は砲弾に触発信管を使用した。
地面に着地してからではなく、高い所にある木の枝に触れた途端に爆発し、広い範囲に溶融した金属が降り注いだ。
通常、砲撃を受けたときは地面に伏せるがヒュルトゲンの森ではこれが通用せず、木に抱きつく様にして被害を最小にするしかなかった。
フォッセナックからシュミットまでは森の中の小川(カール川)を超えていく。
この道はカールトレイルと呼ばれ、狭く、戦車は通過できなかった。

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フォーゼナックからカール川に向かう道(カールトレイル)。
ここで米軍の対戦車自走砲(M10?)4輌が破壊された。
谷を越えた丘の先にシュミットの町がある。
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森に入ったカールトレイルの様子。
前方ががフォッセナック方向、後方はカール川に向かって下る。
アメリカ軍はシャーマン戦車で突破を試み、右斜面に破壊された3輌が、山道上に1輌が頓挫した。
その後、山道の左斜面(見えにくいが階段とキリスト張付け十字架がある)に野戦病院が設けられ、ドイツ軍、米軍双方が負傷兵を分け隔てなく運び込んだ。
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カールトレイルを下りきった所にある、カール川にかかる橋。
当時のまま残る。最近、戦争の解説パネルと記念碑が加えられた。
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カール渓谷の川沿いで、激戦の場となったメストレンガー製粉所跡
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橋を渡ってコンマーシャイト方向に少し登った農家脇にある、米軍車輌のキャタピラ
車輌(M4シャーマン?)は炎上し無限軌道の一部が今も道に埋め込まれたままだ。
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カールトレイルを始め、ヒュルトゲンの森では大型車輌の通行できない所が多い。
物資の輸送にはM29ウィーゼルを使用した。
写真はベルギーの開放記念にて。


米軍はシュミットの町を11月3日に一旦占領したが、カールトレイルの回廊を充分に確保していなかった為補給が途絶えてしまった。
ドイツ軍の反撃も激しくなり、シュミットは何度もドイツ、アメリカと占領者が変わった。

2日後、フォッセナックに退却を始めた兵にドイツ軍の砲撃、攻撃が容赦なく襲い掛かった。

余りの惨状にドイツの軍医が休戦を申し出て、両軍の兵が負傷者を収容した。収容先はカールトレイル入り口近くの森の中の野戦病院だった。

結局、第28歩兵師団は余りに大きな損害を出したので、休養と補充・再編成が必要となり、別の戦線に移された。
そこは前線でありながら静かな場所で、パトロールの小競り合い程度しか起きない、忘れられた様な幽霊戦線だった。
場所はルクセンブルグのウール川沿い。
再編成は順調に行き、第28歩兵師団はここで充分に休むことが出来た。1944年12月16日までは....

さて、11月16日からは米軍がヒュルトゲンの森の北部で大規模な攻勢を始めた。
11月29日にヒュルトゲンの村を占領した。

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ヒュルトゲンの村と教会。
オリジナルの教会は戦争で激しく破損したため、現代風の教会に建て直された。
元の教会の写真は「ラストオブカンプグルッペ」262ページなどに掲載されている。
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ヒュルトゲンの北3kmにある村、グロースハウの様子。
教会は激しく破壊されたが、戦後は元通りに再建した。
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一方、南部のシュミットはドイツ軍の手にあった。
この頃には米軍もダムの確保をヒュルトゲンで戦い続ける大義名分にしていた。
ダムは南部にあるのでこの地区での制圧が必須と考えた...というよりは、第1軍指令のホッジス将軍、第28歩兵師団指令のコータ将軍らが、後になって多い損害の言い訳にしたのだろう。
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ドイツ軍は最初からダムを守る為、そしてアルデンヌ攻勢での大規模な反撃を準備している地区を守る為にヒュルトゲンの森を必死に守った。
ダムは時が来れば水を一気に放水して、下流の米軍を押し流すことができる。
一方、米軍はダム攻略という目標を後から取って付けた理由にしている節がある。
写真はシュヴァンメンアウエルダムにより出来たルールシュタウ人造湖
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ドイツ軍の砲撃は、近辺で際立って高い山である400高地から観測している為有利だった。
それに気付いた米軍は、400高地を奪取にかかった。
3週間前に戦場に到着していた第2レンジャー大隊が1944年12月7日、麓のベルクシュタインの村から400高地を攻撃した。
地雷、トーチカを避けながら、砲弾と銃弾が降りしきる中、レンジャーは銃を乱射しながら突撃を始めた。
白兵戦の末に高地をドイツ軍守備隊から奪った。
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400高地にあるドイツ軍の観測用トーチカ
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400高地からの眺め(西方向)
米軍はベルクシュタイン(手前の村)方向から突撃してきた。

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400高地からの眺め(東方向)
この丘を占拠する者はヒュルトゲンの森を制す。
よってドイツ軍も死に物狂いで丘の奪還をめざした。
ドイツ軍は東のツァーカルの集落(ニデッゲンの村と400高地の間にある)方向から2度攻めてきたが、米軍は一度占領した丘を守り抜いた。




1944年12月16日からヒュルトゲンの森の南でドイツ軍が大規模な反撃(アルデンヌの戦い・バルジの戦い)を開始する。

翌1945年2月になって、バルジが収束した後、米軍はヒュルトゲンの森で最後の攻勢に出た。
ダムは2月10日に確保したが、ドイツ軍はダムの水門を破壊しており下流のルール渓谷が冠水、米軍のライン川への進撃に遅れが出た。

ヒュルトゲンの戦いを通じ、米軍は12万人を投入し、3万3千の死傷者が出た。
一方のドイツ軍は死傷者2万8千といわれる。

アメリカ軍にとってはヒュルトゲンの森の戦いは避けるべきだった、と評する者は多い。

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1976年にこの場所でアメリカ兵(身元判明)とドイツ兵(身元不明)の遺体が見つかった。
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フォーゼナックのドイツ軍兵士墓地。
墓標は2名一組になっている。
手前の墓標には、ルール包囲網の中で自殺したモーデル元帥の名前がある。
将軍も兵卒も区別無く埋葬されるので、事前に墓の番号を調べておかないと歴史上の著名人の墓は見つからない。
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ヒュルトゲンドイツ軍人墓地脇にある記念碑
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ヒュルトゲンの森を描いた映画には、テレビ映画「プライベートソルジャー」がある。
タイトルがB級臭くてだいぶ損をしているが、薄暗いヒュルトゲンの森での悲惨な状況を描いている。




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