ここではドイツ軍の第15軍、第6SS装甲軍の攻撃に関連する戦跡を回る。 尚、この内、第6SS装甲軍隷下の第一装甲師団(LASSH)については、パイパー戦闘団の活躍が主体となるため、そちらのページを参照下さい。
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アルデンヌ攻勢北部の地図。クリックで拡大。
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【アルデンヌ攻勢の最北端】 |
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ここがアルデンヌ攻勢の最北端となるフェン鉄道のコンツェン駅。 50 36 01 N 6 14 54 E モンシャウの街の北に位置し、丁度ベルギー〜ドイツの国境線にある。 ここは画面右から、道路、線路を越えて、ドイツ軍の第326国民擲弾兵が攻撃してきた。 米軍は線路の西側の窪地に第38騎兵中隊が鉄条網、地雷、機銃50丁で守りを固めていた。 後方からの砲撃も含め、アメリカ軍の防御は効果的で、ドイツ軍はこの近辺での突破をできなかった。 フェン鉄道は廃線で、現在はレールや枕木も撤去されている。
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谷あいにある、ドイツ・モンシャウの町。当時米軍が占領していたが、ドイツ軍反撃の砲撃を免れ、古い町は今も観光地として人気。 50 33 18 N 6 14 30 E
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【シュテッサー作戦】 |
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シュテッサー作戦と呼ばれる空挺作戦。 フォン・デア・ハイテ大佐指揮の下、空挺隊員がモンシャウとスパの間にあるバラク ミシェル(50 31 59 N 6 02 51 E)に降下して、米援軍の進撃を押さえ、地上部隊第12SS装甲師団の到着を待つ予定であった。 元々1944年12月16日の早朝に実施するはずだったが、集合出発地点の飛行場に機体と兵が半分しか到着せず、地上軍の進撃が遅れていることもあり、1日延期して出撃、17日の0300頃に降下した。 100機前後のユンカースJu-52輸送機のパイロットの多くは未熟で、天気予報よりも西風が強かったため、多くの兵は目標を大きく外れた。ドイツのケルン近郊に降りてしまったものもある。 870名の内目標近辺に降下できたのは約半数で、本来の降下地点に下りたのは100名程度と言われる。
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空挺隊員の装備。
大佐は、本来の目的達成は無理と判断し、周囲を偵察し情報を集めた。米軍配置に関する貴重な情報を入手したが、それを伝達する無線機は遠くに降下してしまった。伝書鳩は持っていなかった。伝令が19日になって何とか司令部に到着した。 兵員はもとより武器、弾薬、食料が不足しており、地上軍もやってこないことから、19日に大佐は任務を放棄し東に進み味方の前線をめざすことにした。 凍てつく川を腰まで浸かりながら渡り、敵パトロールと小競り合いがあり、折角つかまえた捕虜を解放し、負傷者は彼らに託した。 まとまった規模の敵パトロールがいたので少人数に分散して各自ドイツ軍陣地を目指した。 降下した兵の1/3は味方前線に辿り着いたものの、フォン・デア・ハイテ大佐自身は米軍占領下のモンシャウで米軍の捕虜となった。
結局この作戦自体は幹線道路の確保という任務が達成できず失敗だったが、空挺隊が広い範囲に分散したことにより、米軍は師団規模の大規模な降下作戦と勘違いし、後方に多くの兵を配することになり、本来の前線への進出が遅れた。
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【ヘーフェン】 |
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ジークフリード線に隣接するドイツ・ヘーフェンの村。 ヒュルトゲンの森の戦いの前線に近く、村に駐留した米兵は近辺のトーチカをしらみ潰しに破壊していた。 1944年12月16日の0530頃、ドイツ軍は榴弾砲とロケットの猛攻撃をしかけてきた。 電話線が全て切られてしまった。 米兵はこの民宿およびその手前のタコツボに立てこもった。 続いてドイツ軍歩兵が攻めてきたが、米軍は粘り攻撃を跳ね返した。 夜明けと共に米軍は電話線を修理した。 50 32 30 N 6 15 17 E
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民宿の北向かいにあるこの3階建ての建物は、村で一番高かったので観測所として使われていた。 ヒュルトゲンの森の戦いが長引いていたので前線は膠着しており、そのお陰で砲撃用の正確なマップが作成されていた。 12月16日、ドイツ軍は2度目の進撃を試みたが、正確な砲撃のお陰でドイツ軍は完全に追い払われた。 結局、アルデンヌ攻勢を通じてヘーフェンの町は米軍の手中にあった。
50 32 32 N 6 15 12 E
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【ハートブレーク クロスローズ】 |
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アイフェル国立公園外れの森の中にある交差点。 左はベルギーのビューリンゲン、右奥はモンシャウ方面、後方はドイツのシュライデン方面。元々は(今も)ワーラーシャイドと呼ばれていた。 50 30 07 N 6 19 40 E ヒュルトゲンの森の戦い最中、この交差点はドイツ軍の手中にあった。 ジーグフリード線(西の壁)がここを貫き、交差点の周囲を多数のトーチカが固めていた。 米軍にとっては、この交差点を超えて北(右前方)に行けば、ヒュルトゲンの森の目標であるダムに容易にたどり着けると思われた。 しかし交差点は森の中にあり、アメリカ軍は「ドイツ軍第277国民擲弾兵師団が守っている」という以外にこれといった情報が無かった。 1944年12月13日、夜明けと共に米軍はこの交差点を確保するため第9歩兵連隊(義和団事件で中国に派兵されたことから「満州」のニックネームで呼ばれた)による攻撃を開始した。奇襲を狙って米軍は準備砲撃をしなかった。 それまでのヒュルトゲンの森の戦いの経験から、森林地帯での補給は難しいので、各兵は24時間補給なしで戦えるだけの重い荷物を抱えた。 舞う雪と霧により視界は悪く、兵は濡れて荷物は重くなった。 突然、森が途切れ幾重にも鉄条網が現れた。戦車が通過できないよう堀も設けられている。地面には地雷が埋められ、交差点周りに多数の機銃陣地、トーチカが設置されており、加えて営林署の建物、税関の建物を防衛拠点に活用、更に周囲にタコツボにもぐった兵を配置し、臼砲、迫撃砲で交差点自体も攻撃できるよう射角を調整してあった。 たちまち米兵は見つかり機銃の餌食になった。米軍は砲撃を要請した。 ドイツ兵はタコツボやトーチカで砲撃を凌いだ。米軍は前進を再開したが、鉄条網を破壊するための爆薬は湿気ていて上手く点火しなかった。 米兵はここをハートブレーク クロスローズと呼んだ。 ある小隊は鉄条網を潜り抜け敵の塹壕に浸入できた。小競り合いの末、ドイツ兵1名を捕虜にした。捕虜は、自分を解放すれば仲間の所に戻り全員に降伏するよう説得する、と約束した。米軍は半信半疑ならが解放した。陣地に戻ったドイツ兵の返事が機銃掃射や手りゅう弾の形で返ってきた。 再攻撃は翌日に持ち越された。夜の間じゅう、ドイツ軍が森に潜む米軍を砲撃した。 14日の朝は米軍の砲撃により始まった。煙幕の援護の下、鉄条網を切断しようとしたが時間がかかった。何度も進撃を試み、その都度たまらず後退した。この状況に1400に撤退命令が出た。 米軍にM12型155mm自走砲が到着し、早速徹甲弾によるトーチカ砲撃が開始され176発を打ち込んだ。後でわかった事だが効果は殆ど無かった。 攻撃3日目となる15日、この日は航空攻撃を予定していたが霧でキャンセルされた。 1000頃、何故かドイツ軍の砲撃が止んだ。実は米軍は全く知らなかったのだが、丁度この時第277国民擲弾兵師団はアルデンヌの大反撃の為に引き抜かれ、練度の低い第326国民擲弾兵師団と交代している最中で、一時的に砲撃も中止されたのだった。 2100、暗闇に乗じて少人数の隊が鉄条網を抜けて塹壕への侵入に成功し、トーチカの裏側に回りこむことができた。道しるべに張られた白いガムテープを頼りに、後続の2大隊が続々と送り込まれた。ドイツ軍は全く気づいていない。 至近距離からトーチカにバズーカ砲、手りゅう弾、爆薬で攻撃し、次々と無力化していった。 日付は16日に変わっていた。米軍の攻撃は続いた。 0530、まだ真っ暗な遠くの空が砲撃やロケットで赤く染まっていた。交差点を攻撃している米兵はまだ理解していなかったが、実はそれはドイツ軍の大反撃の幕開けだった。 1000に米軍は交差点一帯の制圧に成功した。 13日から16日まで、足掛け4日の戦闘により、何と米軍は3つの大隊の兵1/2が死傷あるいは病気(凍傷等)という多大な犠牲を払いつつ、ついに交差点と近辺の道を確保した。 後続の第38歩兵連隊がダムへの進撃に備えた。 しかし、周囲ではドイツ軍の大反撃が進行中であった。 17日未明、第9歩兵連隊の所属する第2歩兵師団が後退を決定した。 敵が交差点の奪還攻撃を仕掛けてきた訳でもないのに、あれだけの犠牲を出して折角確保した場所を撤退しなければならない兵士たちの気持ちはいかなものだっただろう。
これって、規模も季節も違うけど、TVシリーズ「コンバット」の名作、「丘は血に染まった」の元ネタ?
米軍が再度この場所を確保出来たのは翌1945年の2月だった。前年に撤退する際、トーチカを完全破壊しなかった事を後悔したという。
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【エルゼンボルンの戦い】 |
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第1SS装甲軍団は、北から順に進撃路(Rollbahn)A〜Eを予め設定していた。 渋滞や混乱を避けるため、各部隊は予定されていた進撃路を外れないよう命令を受けていたらしい。(パイパー戦闘団の進撃を辿ると、本来のDではなくCやEに寄り道しているのだが) 写真は最も北の進撃路Aの始点(現在は車両通過禁止)。 50 27 08 N 6 22 32 E この先100m程でベルギーに入る(ただし第二次世界大戦中は失地回復で国境ははるか西にあった)。 米軍はこの森一帯にいた。ここは米軍から見て、先に紹介したワーラーシャイド交差点(ハートブレーク クロスローズ)攻撃の右隣となる。 アルデンヌ攻勢と共に、ドイツ軍は4個連隊が攻撃してきた。米軍はたまらず1km程後退した。しかし今度は折角奪取できたワーラーシャイド交差点への補給ルートを断たれる恐れが出たので、増援を得て17日朝、森の淵までドイツ軍を押し戻そうとしたが、ドイツ軍側にも援軍(というか進撃路Aを進もうとする後続の部隊)が到着し、結局米軍はクリンケルトまで退却することになる。 しかしその後クリンケルトでの激戦を経てエルゼンボルン(エルンボルヌ)でドイツ軍の進撃を食い止めた為、結局、第1SS装甲軍団では進撃路D,Eしかまともに進軍できていない。
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双子の村と言われたクリンクルト ロシュラトの、教会と、教会前に置かれた記念碑。 教会の前で頓挫したパンサー戦車の写真が撮られた。戦闘で破壊された教会は、その後再建されている。 50 25 55 N 6 17 47 E 第2歩兵師団、第99歩兵師団はこの村まで後退し、その後村の西にあるエルゼンボルンの高台まで退却したがそこで踏み留まり、その先ドイツ運の進撃をついに許さなかった。
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タコツボで敵を迎え撃つ、米陸軍第2歩兵師団の兵士たち。ヘルメットにインディアンのエンブレムが描いてある。 ボネ博物館の展示。
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ビュートゲンバッハにある、米陸軍第99歩兵師団の司令部だった建物。 アイゼンハワー大統領が11月に訪問しており、その記念プレートも残る 50 25 37 N 6 12 08 E
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2軒隣にある第99歩兵師団の通信施設だった建物。 50 25 40 N 6 12 06 E
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こちらは進撃路Cのスタート地点で、ロスハイムの北にある。 ドイツ軍は左奥の森の方から攻めてきた。右側にある建物に米軍は立てこもり迎え撃った。 50 22 47 N 6 20 35 E
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先の写真と反対方向を見る。進撃路C。ドイツ軍は手前から奥に向かって進撃したが、結局双子の村(クリンクルト ロシュラト)とエルゼンボルンの高台で抵抗する米軍に阻まれ、進撃路A,B,Cは殆ど進撃を果たしていない。 50 22 48 N 6 20 32 E |
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ブッホルツの駅と集落を襲撃した第9降下猟兵連隊第1大隊が、進撃路として使った谷間の鉄道線路。 現在は廃線となり、その手のマニアにはたまらない場所だろうが、現在線路は撤去されてしまった模様。 道路橋(当時は退却するドイツ軍により1944年秋に爆破されたままだった)からの撮影。奥方向にブッホルツの駅がある。 50 22 07 N 6 20 01 E
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ブッホルツの駅があった所。パイパー戦闘団の通過に先立ち、第9降下猟兵連隊第1大隊が占領した。 50 22 28 N 6 19 11 3 E
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ランツェラートにある、第9降下猟兵連隊第1大隊の司令部。野戦病院、捕虜臨時収容所も兼ねていた。 50 21 27 N 6 20 06 E パイパー戦闘団の隊長パイパー中佐が、16日夜ここに乗り込んできて、何で進撃が進んでいないのだ、と怒鳴り込んでいた。クレーマーか.... 右隣のディスコ カリプソは、当時学校だったという。
【ビッグレッドワン】 |
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ビッグレッドワンの愛称で知られる、アメリカ陸軍の第1歩兵師団は、アーヘンの戦いが終わり休養中であったが、アルデンヌでの大反撃が勃発すると共にエルゼンボルン地区での守りに付くため、リエージュ近郊から南進した。 写真の鉄道橋の下の道を行軍する写真が有名。鉄道はフェン鉄道のもので、当時は破壊されていた(退却するドイツ軍が1994年秋に爆破?)。 50 26 01 N 6 12 10 E
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ビッグレッドワンのヘルメット。 ボネの博物館にて。
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ビューリンゲンの西にある交差点ロータリーに建つ、ビッグレッドワンの記念碑。 50 24 31 N 6 13 49 E
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【カイゼルバラク交差点】 |
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進撃路E上にあるカイゼルバラクの交差点。クリックで拡大。 アルデンヌの戦いの期間中、米独双方で撮影された写真や映画の中で、「ポトーの襲撃」と並んで有名な映像が撮影された場所。 戦後の開発により近辺に工業団地、高速道路インターが出来てしまい、当時の面影が全くもって変わってしまっているが、かつては鬱蒼とした森の中の交差点だった。 交差点なので方向表示があるが、かつて1箇所にまとまっていたものは、道の両側に分かれてしまった。 左:マルメディ13km、右:サン ヴィット8km そう、シュビムワーゲンに搭乗したSS隊員3名が地図で場所を確認している有名な写真や、一連の進撃車輌の映像が撮影された場所である。 50 20 27 N 6 04 49 E
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カイゼルバラク交差点の再現コスプレディオラマ。 ハーフトラックは同交差点で撮影されたものと同じナンバー。 ボネの博物館での展示。
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こちらはポートの博物館で展示されている、カイゼルバラク交差点のの再現コスプレディオラマ。
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【ポトーの襲撃】
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12月17日、ようやく進撃の交通渋滞から抜け出した第1SS装甲師団(LSSAH)のハンセン戦闘団は、国防軍の交通整理将校に罵声を浴びせられながらも、本来第5装甲軍の割当であるアンドレを通り抜け、米第14騎兵グループの薄い防衛線を撃破し、カイゼルバラクの交差点を通過して、18日の早い時間に、サン ヴィットの北西9km、ポトーの北東2kmにあるレヒトを攻撃した。 ハンセン戦闘団は兵力4500名、W号駆逐戦車20輌を含む車輌750輌を有していた。 一方の米軍は、ドイツ軍全体の動きを把握できていなかった。米第14騎兵グループはレヒトに防衛拠点を築く様命令を受けていたが、17日の夜、ハンセン戦闘団の先遣隊がレヒトに到着し、米第14騎兵グループの本部中隊隊と戦闘になり、米軍は車輌を全て破壊されたので、南西のポトーの集落に徒歩で退却した。 次に援軍としてサン ヴィット地区に到着した第7機甲師団の予備の内、第17戦車大隊の1個中隊がレヒトを守ったが、ハンセン戦闘団の攻撃を受け、18日の0245に退却した。 50 20 02 N 6 02 34 E
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ハンセン戦闘団の指揮官、マックスハンセンSS大佐のマネキン。 ポトーの博物館にて。
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アルデンヌの戦いを扱った本には必ずと言っていい程掲載されている「ポトーの襲撃」(Ambush at Poteau)の現場。 近くの博物館から戦場ツアー客を乗せたM3ハーフトラックが停まっている。 50 18 54 N 6 01 07 E この地区はアルデンヌ攻撃が始まったときは殆ど米兵がいなかった。 17日にはパニックとなり西に撤退しようとする米軍で大渋滞が起きた。 1944年12月18日の夜明け前、ハンセン大佐は戦闘団の更なる到着をもって、レヒトからポトーに向けて進撃を開始した。 一方、米軍側はポトーの米第14騎兵グループの残存が反撃の命令を受けてタスクフォースを編成し、レヒトに向かって出撃した。 米軍がポトーの町を出て間もなく、18日の1000頃、ドイツ軍が先に米軍を見つけてW号駆逐戦車が攻撃した。 機動性に優れる同駆逐戦車は街道を外れ、米軍を機敏に攻撃した。 街道に釘付けになった米軍はM5軽戦車、M8装甲偵察車、M3ハーフトラック、ジープを次々と失い、多くの兵は徒歩で逃げた。 これがいわゆる「ポトーの襲撃」である。 実際には襲撃というより、双方やる気満々で絶賛進撃中に街道で鉢合わせして戦闘になって米軍惨敗、というのが正しいのだろうが。
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米軍の視点。ポトー(背後)を出発してすぐ、レヒトに向かう道で左カーブを抜けた当たりでドイツ軍の攻撃を受けて街道上で隊列が身動き取れなくなり、米兵は車輌を放棄して後方に逃げた。 50 18 47 N 6 01 02 E
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「ポトーの襲撃」の様子を動画撮影するカメラマンと、M8グレイハウンド装甲偵察車から燃料を抜き取る兵士の等身大ジオラマ。 襲撃の様子は随行している映画およびスチルのカメラマンにより記録されているが、その多くは米軍が逃げ去った後に「やらせ」で撮影されたものと言われる。 米軍は死体も捕虜も登場せず、鹵獲あるいは炎上している車輌のみ登場する。 いずれにせよ大戦末期のドイツ軍の様子を知る貴重な資料となった。 (オリジナルの動画、写真についてはPoteauのキーワードで画像、動画検索されたし) 恐らくカイゼルバラク交差点での映像と同じ撮影チームによると思われる。 (ポトーの襲撃を撮影した後カイゼルバラックに戻って撮影したのであろうか?) その後スチル、動画共に米第3装甲師団の手に入ったが、入手の経緯や、その後撮影チームはどうなったについては判っていない。 この映像の撮影場所は不明だったが、戦跡書で有名なアフターザバトルが1980年代に出版した「Battel of Bulge Then and Now」にてポトーの交差点近郊と特定されている。 ドラゴンモデルから「ポトーの襲撃」(Ambush at Poteau)という、映像を元に模型化したフィギュアも出ている。
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ポトーの集落にある交差点。右はレヒト(おお、ドイツ語でちゃんと駄洒落になってる!)、左はヴィエルサルム、後方はサン ヴィットに通じるので、ド田舎の交差点ながら立派な交通の要衝である。 レヒトに向かったタスクフォースを襲撃した後、ドイツ軍はポトーの集落に攻めてきた。 18日の正午には耐え切れず、米軍はヴィエルサルムに退却する。この時動ける車輌は装甲車3輌、ジープ2輌、軽戦車1輌だけで、これらに負傷者を乗せて残りは徒歩で退却した。 交通の要衝であるポトーがドイツ軍の手にあるとマズいので米軍は奪還を目指した。 ドイツ軍は村周囲の家に兵を配置して守りを固めていたが、アメリカ軍は18日の日没までに交差点を取り戻した。 結局、ドイツ軍のLSSAHはポトーから西には進まなかった。 LSSAHの主力が増員を必要としており、ハンセン戦闘戦闘団もポトーを引き上げてスタブロー方面でパイパー戦闘団の支援に向かった。 入れ替わりに第9SS装甲師団がポトーの奪還を目指したが米軍は交差点を死守した。 結局、米軍はサン ヴィット一帯の防衛線を放棄せざるを得ず、ポトーも1944年12月23日にドイツ軍の第18国民擲弾兵師団第293大隊が占拠したが、この時不手際から第9SS装甲師団による同志撃ちを受けてしまった。 50 18 43 N 6 00 44 E
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【クレヴィンケル】 |
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16日の早朝、準備砲撃が終わってすぐに第3降下擲弾兵師団が攻撃してきたクレヴィンケルの集落。 これが第6SS装甲軍の初日の攻撃範囲の最南端。 ここは米第14騎兵グループ隷下の第18騎兵中隊が集落を守っていた。 最初の攻撃で村の半分にドイツ軍が侵入したがこれを撃退。ドイツ軍は流暢な英語で「10分したら戻る」と言った。 再度の攻撃の際には米軍はより強固な守りを固めていた。 しかし、この日の昼前までに、攻撃に耐え切れなくなった米第14騎兵グループが撤退を決めたので、この集落も放棄された。 写真上は弾痕だらけの農家の納屋。 方向から判断するとドイツ軍の発射した弾丸か。 50 19 46 N 6 23 06 E 写真下の、もう一軒の農家にも弾痕が残る。
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おまけ。ポトーの博物館で飼われているわん公。雑種かな?かわいいワン。 昔住んでいた群馬県の床屋で髪を切ってもらっていた時、後ろで犬の気配がした。 切り終わってもらって後ろを振り向くと、白い仔犬が人懐こく当方を見ていた。 「おお、やはり犬がいましたか...」というと店主夫婦は申し訳なさそうに「すみません」と謝った。 別にそんな事全く無いですよ、と犬と遊んでいると、「犬お好きなんですね。雑種ですみませんが...」 いや、私としては雑種は大好きなんだが。 雑種に負い目を感じる必要は全く無い。型にはまらないかわいさ、個性、丈夫さとか、変わる毛色とか、雑種としての魅力を、その後床屋の店主夫妻は堪能してくれただろうか?
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1980年の「最前線物語」(原題は第1歩兵師団の愛称ズバリそのままのBig Red One)の一つの物語としてアルデンヌの北部での戦が描かれている(ロケ地は米国カリフォルニアのスキーリゾート近辺)。 それにしてもこの映画に主演しているマークハミルは、スターウォーズ以外では殆ど目にしない役者だ(砂の惑星も見ているのだが、言われるまでマークハミルと判らなかった)。 そう言えばキャリーフィッシャーもスターウォーズ専属のイメージになった(一応ブルースブラザースに出ているのだが)。 ちなみに私はスターウォーズマニアでも何でもないのだが、エピソード1〜7まで、全て封切時に映画館で見ているのだ(プチ自慢)。 2017.12.17追記 エピソード8「最後のジェダイ」も映画館で見てきた。やたらと長い映画だ。 特攻女提督は、どこかで見たとおもったらジュラシックパークの博士役だった。彼女の父親は、私の大好きな映画「ザ ドライバー」の刑事役が印象深いブルースダーンとのこと。と、すっかりアルデンヌ攻勢から話が逸れるのであった。
日本未公開映画、2018年の「バルジソルジャース」(原題 Wunderland ドイツ語でワンダーランドの意味)。 限られた人生、全ての映画を見る時間はない。戦争映画に限定しても無理だし、第二次世界大戦の戦争映画と範囲を狭めてもまず無理だろう。 「見なくてもいい映画」というのは確実に存在する。しかし、映画を見ないと判断できないのがツラい所。世間の評判や知人の推薦もあまり当てにならない。家族の間でも好みは分かれるし。 バルジソルジャースは間違いなく出来の悪いB級映画で、他人には勧めない。 アルデンヌの戦い緒戦でドイツ軍の進撃を受ける第2歩兵師団第23歩兵連隊(23rdとしか言わないので字幕では第23師団になっているが、第23歩兵師団は太平洋戦線にいた)の話。 ランツェラートの交差点を守るという設定で、けだるそうなドイツ兵が固まって歩いてきたり、銃を撃っているのに反動が無かったり(火炎はCG過)、やたら晴れてるとか突っ込みどころ満載。 ヘッツァーとW号戦車もどき(多分改造車)、ハーフトラックなどが登場するけど短時間のみ。 もっとじっくり見せてくれてもよかったのに、結局「サバイバルゲームを撮影しました」という出来にしかなってない。 最後はマルメディの虐殺を思わせるシーンで、その後アルデンヌの戦いで名誉勲章(メダルオブオナー)を受勲したアメリカ兵の名前と表彰内容(軍のサイト辺りからコピペしてきたな...)がダラダラと続く。ここでよほど見るのを止めようかと思ったが最後まで見ていたらどんでん返しがあった。 |
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