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マルメディ虐殺現場の横隣に設立された博物館、ボネ44ヒストリカルセンター博物館の壁に描かれているパイパー少佐。
ヨアヒム パイパーは1915年生まれ、18歳でヒトラーユーゲントに入隊し、同年SSに志願、兵卒から軍歴をスタートさせ、士官学校を卒業した。 ヒムラーの副官を長らく務め、途中フランス戦で実戦参加をはさみ、1941年後半から再び実戦部隊配備となり東部戦線で活躍した。連合軍に寝返ったイタリアでドイツ軍支配下のイタリア兵武装解除の任務に就き、東部戦線に戻った後、ベルギーで再編、連合軍のノルマンディ上陸を受けて反撃に転ずるも黄疸を発祥し本国で療養した。 ラインの守り作戦、いわゆるアルデンヌの戦いではディートリッヒの指揮する第6装甲軍の隷下、メンケの第1SS装甲師団(LSSAH)を4つのKampfgruppe(戦闘団)に分け、その内の1つをパイパー戦闘団としてパイパーが指揮することになった。 (他の3つはハンセン戦闘団、サンディッヒ戦闘団、クニッテル戦闘団) パイパーは当時29歳、階級は中佐である。 パイパー戦闘団は戦車2個大隊、装甲擲弾兵1個大隊、砲兵1個大隊、空軍の高射砲隊1個大隊、工兵1個中隊から成り、兵5000名、戦車計100輌以上(W号戦車、パンサー戦車、キングタイガー戦車)、ハーフトラック150輌程度、150mm砲6門、高射砲数十門などを装備した。 進撃路(Rollbahn)はDとされ、戦闘団の目標はベルギーのユイでミューズ川を渡る橋を確保することである。
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パイパー戦闘団の進撃ルートと主要な地名の地図。クリックで拡大。 地名の読み方は概ねGoogleの地図に従っている。ベルギー東部はドイツ語圏で、ドイツ語読み、フランス語読み双方がある。 鉄道はリエージュ〜ルクセンブルグを結ぶ幹線(アンブレーブ川・サルム川沿い)以外は現在全て廃線になっている。 戦後の高速道路は省略。
アルデンヌの戦いにおけるパイパー戦闘団の行動については、戦後拘束され裁判にかけれれた本人の尋問はもとより、米・独双方の関係者の証言が多く記録されており、戦跡には多数の記念碑や追悼碑がある他、多数の書籍やインターネットサイトで紹介されている。当時と現在の戦跡を比較する写真集や、進撃ルートを辿るガイドブックも複数発売されている。
ということで、ミシュランの道路地図を頼りに、パイパー戦闘団の進撃ルートを辿ってみた。カーステレオのBGMは勿論パンツァーリートだ!
尚、以下、雪景色、晴れ、朝夕の写真を混ぜて掲載していますが、これは進撃ルートを違う日程で何度か訪問しているからです。 アルデンヌの戦いというと雪原のイメージがあり、マルメディ虐殺の現場などは雪景色の中に米兵の死体が放置されている写真が有名ですが、パイパー戦闘団の進撃から撤退までの期間、まだ雪は積もっていなかった様です。
あと、私はMMシリーズ世代なので、あくまでもキングタイガー戦車、パンサー戦車です。
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ブランケンハイムの森林地帯。この辺一帯にパイパー戦闘団は待機し、戦車を含む車輌多数を連合軍の航空偵察で見つからないよう、密かに集積させていた。 50 25 26 N 6 35 51 E
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SS第501重戦車大隊のキングタイガー戦車はパイパー戦闘団の一部だが最初から本体とは別行動をしている様で、1944年12月15日にドイツ・ブランケンハイム近郊のトンドルフ集落を通過する所が有名な記録映画に残されている。 村の様子は当時と変化ない。動画サイトで King Tiger Tondorf で検索されたし。 50 28 25 N 6 42 47 E
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1944年12月16日の0530、ドイツ軍は1600門の砲を使って、90分に渡る準備砲撃を、大反撃を行う幅130kmの前線で開始した。続いてサーチライトが敵陣上空の雲に向けて照射され、その反射光を頼りにドイツ軍は大反撃を開始した。 パイパー戦闘団は攻撃の先陣を切るのではなく、途中から先頭に立ちミューズ川を目指す役目を持っていた。 パイパーはその日の午前中、ハルシュラグ近郊の第12国民擲弾兵の司令部で作戦の推移をモニタしていたが、予定より大幅に遅れていることに落胆したという。 午後に戦闘団と合流、道は大渋滞していた。 1700にこの鉄道橋に来たが、橋は1944年9月に退却するドイツ軍が爆破したままだった。 とっさの判断で橋の横道を降りて、鉄道の線路を渡り、本線に戻った。
写真上は当時破壊されたままだった橋。右端に、パイパー戦闘団がバイパスに使ったわき道が見える。
写真中はパイパー戦闘団が実際に横断した鉄道線路(現在は廃線によりレールが撤去されている)
写真下は、橋の手前横に見える黄色い標識のアップ。 橋を渡れる軍用車輌の重量制限表示で、旧西ドイツ地域では小さな橋も含め全ての橋に見られる。 50 21 10 N 6 23 49 E
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国境を越えてドイツからベルギーに入る。ただし、元々(第一次世界大戦停戦以前)は、この地域はドイツの一部だった。地名はドイツ語風だし、住民もドイツ語を話す。 現在、ドイツとベルギーはEUでユーロ通貨なので、国境とは言っても標識があるだけのもので、パスポートチェックも両替も必要無いのは非常に便利。 右は、ベルギーとドイツとでは交通ルールが若干異なるので、その差異を説明している標識。 Bはベルギー。市街地50km/時、それ以外の一般道90km/時、高速道路120km/時(ただし現地に標識がある場合はそちらが優先となる)。 これがドイツの場合は市街地50km/時、それ以外の一般道100km/時、高速道路は速度制限無しだが推奨速度130km/時となる。 50 21 11 N 6 23 03 E
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ベルギーに入って間もなく、道は谷に向かって降りていく。 道路には米、独双方の地雷が埋められており進撃速度が落ちた。 工兵隊は渋滞している後方の隊列彼方。時間をロスしたくないパイパーは、戦闘車両数量を犠牲にして地雷原を走破した。 50 21 05 N 6 22 31 E
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パイパー戦闘団が通過したベルギー・マールシャイトの村のカトリック教会。 この手前にキューベルワーゲンが停まっている写真が残されている。 教会の外壁はその後漆喰を塗り直された模様で、Googleのストリートビューで見るとすっかり綺麗になっている。 50 20 58 N 6 21 09 E
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ランツェラートの集落にある、黄色い建物。現在はDe Henkenstel(オランダ語で大釜の意味)というレストラン(?)になっている。 50 21 27 N 6 20 06 E ここはパイパー戦闘団が到着する前に近辺を制圧していた、先遣隊である第9降下猟兵連隊第1大隊が臨時の司令部として使っていた。 パイパー中佐は16日の真夜中ここに現れ、何で進撃が進んでいないのか、と文句を言う。 北部の戦いのページでも同じ建物を紹介しているが、この時は違う外装となっている。
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夜明け前、パイパー戦闘団は出発した。 真っ暗な中、降下猟兵が白い布を持って車輌を誘導した。 50 22 16 N 6 19 19 E
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ブッホルツの集落。家が数件しかない。当時は写真右側に鉄道駅があった(現在は廃線で、線路と駅舎は撤去) 50 22 27 N 6 19 01 E 駅、集落回りは既に降下猟兵が押さえていた。 画面前方、森に入った所にアメリカ軍が残っていたが慌てて逃げた。 ここから先、パイパー戦闘団は先頭になって進撃することになる。
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ブッホルツの集落を抜け、オンスフェルに向かう途中の森林地帯。
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パイパー戦闘団が初めてまとまった抵抗にあったオンスフェルトの村。 米兵は村から逃げようとしたが道が渋滞し、車輌を捨てて逃げた。このためパイパー戦闘団は多数の米軍車輌を鹵獲した。 この村およびその近辺で捕虜になったアメリカ兵は、写真の、この村の中心にあるダンスホールに集められた。 50 22 54 N 6 16 53 E 捕虜から、リヌーヴィルの町にあるオテル ド ムーランに米軍第49高射砲旅団の司令部があるという情報を得た。「是非とも司令部丸ごと捕虜にしたい」とパイパーは思ったのだろう。
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オンスフェルの村にある水汲み場。アルデンヌの戦いで撮影された有名な写真に、水汲み場前に倒れる米兵の死体と、死んだ米兵の靴を略奪して履こうとしているドイツ兵の写真がある。これら写真が撮影されたのがこの場所。 50 22 54 N 6 16 44 E オンスフェルを0600頃出発する。 本来、左の道を使いエエシェドの村を通るのが進撃路Dなのだが、道が悪そうなこと、燃料が足りなくなりそうなことから右のビューリンゲンに向かうことにする。
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早くも燃料の少なくなったパイパー戦闘団は、本来の進撃路Dを外れ、米軍の燃料集積所があると思わしきビューリンゲンに向かった。 ビューリンゲンの町への侵入を阻止するため、アメリカ軍は町の外郭となる三叉路に兵を送った。 写真はアメリカ側から見た視線。 17日0730頃、画面奥からドイツ軍の戦車がやってきた。画面右の庭にいた米兵達はバズーカを至近距離(30m位)で発射、戦車は頓挫し、脱出した乗員に対し画面中央の兵が容赦なく銃撃した。 しかし銃が詰まり、結局かけつけた後続のSS擲弾兵により捕虜となった。 画面左で機銃を構えていたもう一人の米兵は負傷しており、ドイツ兵は彼を射殺した。 50 24 08 N 6 15 33 E
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ビューリンゲン町の北東外れにある鉄道橋(鉄道自体は現在廃線)。 50 24 34 N 6 15 46 E 17日の朝、ドイツ軍の襲来から逃げようとしたアメリカ兵は、ヴィルツフェル方向に逃げようとしてドイツ軍に追いつかれた。 アメリカ軍捕虜はこの橋の上に集められたが、ヤーボ(戦闘爆撃機)の攻撃を受けたため、ドイツ軍はアメリカ兵を橋から降ろして戦車や車輌の周りに立たせて人間の盾にした。
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米軍第371野砲大隊のビル マイヤー兵卒がビューリンゲンでパイパー戦闘団の襲撃を受けたときに履いていたブーツ。 エルスボンヌに撤退して無事だった。 ボネの博物館の展示物。
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交通の要所であるビューリンゲンの、西方向出口の分岐点。 左にいくとパイパー戦闘団に本来与えられた進撃路Dに戻る。右は進撃路C。 50 24 21 N 6 15 17 E
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ビューリンゲンには当時、アメリカ軍の燃料集積所があった。 パイパー戦闘団はここで給油することが出来た。燃料は米兵捕虜に運ばせた。 出発時、パイパー戦闘団は全工程に必要な燃料の1/4しか所持していなかった。 (旧日本軍並みの補給線の弱さ....) 50 24 17 N 6 15 11 E
この場所は現在は公園だが、元々は家畜市場だった。 下の写真は小屋のアップ。小屋には家畜というか、食材の絵が描かれている。 鴨、蛙、カタツムリ、ウサギ、山羊、羊、牛、鳩、鹿、魚 ...皆食材。さすがベルギー。 ちなみに私は上記の他に、カンガルー、ワニ、蛇、馬、ダチョウ、すずめ、ラクダ、虫なども食べてます(犬は食えません....すっぽん未経験)。 外人の接待では、居酒屋に連れて行き、「Would you like to try whale meat? How about Horse?」と言って相手の反応を見るのが好きです(悪趣味)。 小屋の窓に掲示された「犬の糞禁止」はドイツ語表記。 ベルギーというと北部オランダ語と南部フランス語の言語紛争が解決していないが、東端のビューリンゲンの町はその名で分かるとおりドイツ語圏。 仕事で一緒だったオランダ人が「ベルギー北部のオランダ語圏の人たちは、オランダ人とは全く違う人たち」と言っていたのが印象的だった。
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17日の0900頃、ビューリンゲンを後にして戦闘団は進撃を再開した。 この先、しばらくの間は敵アメリカ軍に出会わず、道は狭いけど平穏な進軍が続く。 ビューリンゲンから西に向かったロータリー。 真ん中に変なオブジェが置いてある。除雪車のブレード?豪雪地帯でもないのに何で? 50 23 45 N 6 13 47 E
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その先、幹線道路を外れてコンクリートの簡易舗装が現れる。1944年当時は舗装されていなかったのだろう。 50 23 41 N 6 13 13 E
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メーデルシャイドの村にある小さな教会。メーデルシャイドでは米軍と小競り合いがあったが特に問題なく制圧。 50 22 51 N 6 11 41 E
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メーデルシャイドを通り抜けて、村の出口で小川を渡る。 黄色いポールはバス停。バスほとんど見かけないけど... 50 22 56 N 6 11 29 E
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パイパーは専らハーフトラックで移動したという。 写真はポトーの博物館で動態保存されているSd.Kfz251 マーキングはパイパー戦闘団ではなく、第9SS装甲師団のもの。
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ショッパンの村。パイパー戦闘団の進撃路を辿る旅でなければ一生訪問することはないであろう村。 50 23 14 N 6 11 08 E
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ショッパン村の出口。写真の道を真直ぐ、北西にいくとウェームという町に行くのだが、ここは小道を左折して西に向かう。 50 23 38 N 6 10 03 E
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細い農道を走り抜ける。1車線ですれ違いは殆ど出来ない。 ハーフトラックや4号戦車、ましてやパンサーやキングタイガーでは相当に苦労したのだろう。 両側の牧草地を走った方がマシかも。 50 23 31 N 6 09 29 E
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雪が降るとこんな感じ。 50 23 28 N 6 08 60 E
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少しは広い道に出る。田舎道ドライブが気持ちいい。左は牧草地、右は何の畑だろう? 50 23 25 N 6 08 43 E
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再び細い道。 50 23 16 N 6 08 01 E
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進撃路脇の牧草地に居た人懐っこい馬。太めで短足なのが親近感を誘う。 君の先祖は、この道路を第1SS装甲師団が駆け抜けて行ったのを見たのだろうか。 右の道路を進むとオンダンヴァルの村。 50 23 23 N 6 07 56 E
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オンダンヴァルの村にて一旦幹線道路に入る。 ここを左折して西のティリモン方面へ。幹線道路をこのまままっすぐ行くとウェームに通じる。 50 23 25 N 6 07 16 E
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オンダンヴァルの村を西に抜ける。次の村はティリモンだ。 50 23 24 N 6 06 34 E
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ティリモンの村外れにある、この分岐路が戦後のパイパーの運命を決めたと言いっていい。 17日の昼前、パイパーがここに到着。 左が西への近道、右は北に迂回して、ボネの交差点を経由して西に向かう3km以上遠回りの道。 パイパーは先遣隊を左折させた。。 50 23 25 N 6 05 23 E
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当時、この道は相当な悪路だったという。現在も左折して間もなく舗装が途切れて未舗装路になる。 (私のFR車でも通り抜けは出来たが) 50 23 28 N 6 04 41 E
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当時谷底小川には橋がかかっておらず、ぬかるんでいたという。 パイパーはこの道を断念し、来た道を引き返し、ボネの交差点回りの道を辿ることにする。 50 23 28 N 6 04 38 E
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しょうが無いので、遠回りの道を使う。本当は燃料も時間も節約したいのに... この道をまっすぐ進み、国道を左折すればボネの交差点に出る。 50 23 28 N 6 05 29 E
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こちらはアメリカ軍の視点。 アメリカ軍の第285野砲観測大隊B中隊は、トラックの隊列でマルメディを出発し、リヌーヴィル経由でサン ヴィットに向かう予定だった。 (隊長のラリー中尉は、途中立ち寄ったマルメディで、ドイツ軍が迫っているので道を変更した方がいいとのアドバイスを受けるが、結局は予定の道を使った) ボネの変形5差路では、事前にMPが配備され、隊列を誘導した。 隊列が交差点にさしかかり、ここを右折しかけた所で、前方から来たパイパー戦闘団に追いつかれ、襲撃された。 野砲観測という任務上、自衛以外に大した武器を持たない米兵はすぐに降伏した。 50 24 14 N 6 03 59 E (東方向を見る)
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こちらは国道を交差点に向かって西進するドイツ軍の視点。 アメリカ軍は正面右から来て、画面向かって左に曲がろうとしていた。 50 24 14 N 6 03 59 E (西方向を見る)
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ボネの交差点での様子を再現したジオラマ。 左がマルメディから米軍が来た道、右はパイパーが進撃してきた方向、下(手前)はこれから進撃するリヌーヴィル。 画面奥が北。 ドイツ軍は降伏したアメリカ兵約120名を、交差点南西の牧草地に集めた。 パイパーは先を急ぐため(リヌーヴィルにアメリカ軍の将軍が居るという情報を得て、是非とも捕虜にしたいと思っていた)、戦闘団を率いて出発した。 ジオラマは捕虜を集めている場面で、その後戦闘団の大部分は出発、交差点付近には戦車、ハーフトラック数輌が残っていた。 虐殺現場の隣にあるボネ44ヒストリカルセンター博物館の展示。
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実際に誰が射殺を命令したのか、あるいは命令していないのか、アメリカ兵が逃げようとしたのか、全く偶発的なものなのかは今でも判っていない。(恐らく永遠に判らないだろう) 1944年12月17日の1400数分過ぎ、ドイツ兵が武装解除されたアメリカ兵に向けて発砲した。 最初は4号戦車からの機銃射撃だった。捕虜が皆倒れると戦車は出発した。 ドイツ兵が、牧草地に倒れている米兵を見て回り、息があると思われるものは殺した。 ドイツ軍は歩哨数名を置いて立ち去った。 死んだフリをしていたアメリカ兵は起き上がり、北の森林地帯に向かって走り出した。 ここで殺された米兵は86名(恐らくその前の戦闘で近辺で戦死したものが含まれている)、逃げ出せたものは43名。 これがいわゆる「マルメディの虐殺」といわれる事件である。 写真は米兵が集められて殺された牧草地。 写真一番上の、右の石造りの家は戦後建てられたもの。 映画及び記録写真の刷り込みで「雪原での虐殺」というイメージがあるが、事件当日は雪が積もっていなかったらしい。 後日米軍近辺を制圧して調査をした時の写真では雪が積もっている。 50 24 12 N 6 03 58 E
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虐殺の慰霊碑。死んだ米兵の名が書かれている。 記念碑(交差点の南東)の場所が虐殺の場所だと思っている人がいるが、道を挟んで向こう側(交差点の南西)の牧草地が現場なので念のため。 写真の石板に「この場所で」(英語で"On This Spot"、フランス語で"en cet endroit")と書かれているので確信してしまうのかもしれないが、これはちょっと不親切というか、悪質。 50 24 13 N 6 04 00 E (慰霊碑の場所)
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パイパーはボネの交差点を後にして、リヌーヴィルに急いだ。 画面左、ちょっとわかりにくいが未舗装の小道があり、これが国道に合流している。 この小道が、パイパーが近道に使おうと思い断念した悪路。 50 23 32 N 6 04 26 E
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リヌーヴィルの町。オテル ド ムーラン は当時、米軍第49高射砲旅団が司令部に使っていた。 17日の早朝、司令官のティンバーレーク准将は、敵が進撃していることから撤退を決意し、13:00過ぎに退去した。 入れ替わるようにパイパー戦闘団の先陣が到着した。 50 22 32 N 6 03 15 E 尚、ここは同日追って到着したメンケ准将がLSSAHの司令部として使い始めた。
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橋からパイパーの進撃してきた方向を見る。 画面左、木の枝に隠れているのが米軍第49高射砲旅団司令部のオテル ド ムーラン。 その手前、道路右側に教会。 その手前の白い3階建て屋根裏ロフト付の建物は、当時オテル デ アルデンヌという名前であった。 50 22 31 N 6 03 18 E その手前のベージュの建物は戦後のもの。 パイパー戦闘団が画面奥から手前に進み、隊列の3輌目のパンサー戦車(フィッシャー少尉の152号車)が教会前を進んでいる時、オテル ド ムーランの奥にある高台にいた(故障修理中で動けない)ブルドーザー付シャーマン戦車がパンサーの後方から砲撃を加え、パンサー戦車は頓挫した。 オテル デ アルデンヌの建物前に放置されたパンサー戦車の写真が残されている。 続いてシャーマン戦車は道を下るハーフトラックを砲撃し炎上させた。 パイパー中佐は指揮車である別のハーフトラックを教会前に停めて降り、パンツァーファウストを持ち、他の兵員と共にこの戦車を仕留めようとしたという (それ、管理職である中佐の仕事じゃないよな...)。 結局このブルドーザー戦車は破壊された。
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オテル ド ムーランの横にある慰霊碑。降伏後虐殺された米兵8名の名が刻まれている。
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リヌーヴィルを流れるアンブレーブ川を渡る橋。米軍は爆破せずに撤退し、パイパー戦闘団は難なく進撃を続けることが出来た。 50 22 29 N 6 03 19 E
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パイパー戦闘団はリヌーヴィルを1700頃出発した。国道62号線から国道660号線に入り、ポンの村を通過する。 50 22 09 N 6 02 33 E
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上を通る高速道路は戦後に作られたもの。ドイツのアウトバーンに通じている。 50 21 58 N 6 01 44 E
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しばらく会敵せずに、丘の斜面に作られた細い道を進む。 全体的に進行方向の左が山、右が谷。 ボーモン、ロドメの集落を抜ける。 途中、いくつかアンブレーヌ川の支流を小さな橋が渡る。 狭くて迂回ができない道は特に後続のキングタイガー戦車には辛かっただろう。 50 22 34 N 5 59 48 E (写真上) 50 23 00 N 5 58 60 E (写真中) 50 22 56 N 5 58 27 E (写真下)
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ラヴォーリシャールの集落。 写真では判りにくいがここで左に分岐する道があり、パイパーはW号戦車2個中隊を左折させた。 彼らはスタブローの町を通過せず、ワンヌ経由でトロワポンに向かい進撃路Dに戻る、いわば挟み撃ち部隊であった。 50 23 12 N 5 57 27 E
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スタブローの町へ下る坂の手前の左カーブ、他に迂回路が無い場所を選び、米軍の工兵は地面に地雷を配置した(画面手前)。 更にその先(画面奥道が左にもう一度カーブする当たり)にバズーカチームと機銃を配備した。 50 23 26 N 5 57 04 E 17日の1930頃、パイパー戦闘団の先遣隊がここに差し掛かり、米兵は「止まれ!」とドイツ語で叫んだ。 結局この先暗闇で何があるか判らないドイツ軍は停止、後退し、翌朝まで高台(標高400m)のラ ボー リシャール周辺で夜を明かした。 米軍工兵は麓のスタブローに戻りドイツ軍が近づいてきたことを報告した。 実はこの時スタブローにはまとまった米軍が不在で、単なる通過町だったが、18日0040、米軍側にはマルメディから第526装甲歩兵大隊A中隊と、第825対戦車大隊A中隊(いずれも独立大隊)から成るタスクフォースの援軍が到着し、スタブロー周囲の守りを固めた。 それまでイケイケだったパイパー戦闘団が何故停止してしまったのか? 資料により、当時前線にパイパー中佐が不在(リヌーヴィルのオテル ド ムーランに設けられたLSSAHの司令部にいた)で慎重な行動を取った、としているものと、 パイパー自身が現場にいて、スタブロー方向に多数の車輌が移動している(前述の通り通過点なのだが)を見て再編成を待ったという記録がある。
18日の0500-0600に米軍はこの写真の場所に2個小隊で戻ってきたが、間もなく始まるドイツ軍の進撃にあわてて逃げ帰ることになる。
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ボネの博物館にて。左下は、スタブローに18日0400到着し、早速町の防御を固めた第526装甲歩兵大隊A中隊長チャールズ ミッチェル大尉のヘルメットとバッグ。ちょっとシャイな人形は米軍戦車兵。 画面中央のパッチは米軍第6機甲師団のものでパイパー戦闘団とは交戦していない。
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18日0630、ドイツ軍は榴弾砲と迫撃砲で進撃路周辺を砲撃し、進撃を開始した。 写真は、進撃を開始して間もなく、進撃路右手に見下ろすスタブローの町(標高300m)。 赤い大きな建物は修道院。 写真では判らないが、修道院手前にアンブレーブ川 実は町の右奥(画面外)の丘には米軍の燃料集積所があったのだが、パイパーが渡された地図には表記が無く、知る由もなかった。 50 23 28 N 5 56 47 E
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スタブロー方面に向かって道は下る。前方にアメリカ軍を見つけ、ドイツ軍は発砲しながら進んだ。 50 23 28 N 5 56 19 E
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進撃路右側に並ぶレンガ、石造りの家の壁には、銃弾の跡が多数残る。いずれもドイツ軍が攻めてきた東側から発砲してきた弾が当たったもの。 50 23 27 N 5 56 22 E から 50 23 28 N 5 56 13 E にかけて。
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弾痕だらけの家が並ぶ、その反対側にある慰霊碑。 スタブローでの米兵犠牲者の名前が記されている。 50 23 29 N 5 56 06 E
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スタブローの町の手前でアンブレーブ川を渡る。この橋にはアメリカ軍が爆薬を仕掛けているのだが、何故かこの日は爆破されず、パイパー戦闘団の通過を許した(後日爆破した)。 ドイツ軍が渡る前に爆薬を無効化したのだろうか。 一説によると17日〜18日の夜にかけて、米兵に化けたスコルツェニー少佐配下の兵が何らかのサボタージュをしたのではないか? 米軍は橋の周囲でも守りを固めており、激しい銃撃戦、砲撃戦が展開され、ドイツ軍も戦車を数両失った。 何はともあれ、パイパー戦闘団はこの橋を渡ってスタブローの町に侵入した。 50 23 30 N 5 55 55 E
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橋を渡り、真っ直ぐ進むと写真の広場に出る。この広場に米軍は対戦車砲を構えドイツ軍を待ち構えていた。 (ここから橋は直接は見えない) 写真左下には、ここでアメリカ軍が対戦車砲を配置して守りについていたことを記す記念碑がある。 50 23 42 N 5 55 48 E 本当は広場手前でトロワポン方面に左折したいのだが、仕方が無いのでパイパー戦闘団は一本西の、峡い道(オー リヴァージュ通り)を通ることにした。
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パイパー戦闘団が通過したスタブローのオー リヴァージュ通り。 米兵なのかレジスタンス(今の米軍の基準で言うとテロリストだ)なのか、あるいは誤認された一般民間人なのかは判らないが、誰かがこの建物に立てこもっていたのだろう、ドイツ軍が銃撃した跡が今も残る。 50 23 36 N 5 55 46 E
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町を完全に制圧しないまま、パイパーは次の通過点、トロワポンに向け先を急いだ。 写真はオー リヴァージュ通りの終点を左折したアンリ マッサンジュ通りの入口。これも狭い道で現在は一方通行。 50 23 37 N 5 55 45 E パイパーはこの道を西(画面奥)に向かって進み、幹線道路国道N68号線に出た。 パイパー戦闘団が進撃した経路は現在もほとんどそのまま辿ることができるのだが、ここだけは一方通行逆行なので再現できない。
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パイパー戦闘団の進撃の先頭はハーフトラック、W号戦車とパンサー戦車が主体だった。 SS第501重戦車大隊のキングタイガー戦車は後方から追いかける形で進み、一部の経路はパイパー戦闘団の主流からも、進撃路Dからも外れている。 キングタイガー105号は1944年12月18日の午後、他の132号、133号、104号車(131号説も?)を引き連れてスタブローに進入した。 アンブレーブ川の橋の手前で、対岸に配置されていた57mm対戦車砲(あるいはM10駆逐戦車)の砲撃を受け、105号の88mm砲が使用不能となる。 構わず前進し、オー リヴァージュ通りのキツい坂を上りきり、アンリ マッサンジュ通りに入ろうとした所で弾丸2発を浴びた(米軍のバズーカ砲か、対戦車砲か?)が貫通しなかった。 105号は慌てて後退したが操縦を誤り3階建ての家に後ろから突っ込んだ。 瓦礫に乗り上げ、更に上から落ちてきた瓦礫がトランスミッションを破壊し、105号は頓挫したが幸い乗員は無事で、道は塞がなかった。これがパイパー戦闘団の最初のキングタイガー戦車損失となる。 後続の132号が敵に砲撃し、以降威嚇は無くなった。 写真は105号がバックで突っ込んで建物を破壊した場所(手前の家)。 50 23 35 N 5 55 46 E この家は、壁面が銃弾だらけの家とは車庫を挟んで2件隣。
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スタブローの町を突破されたので、米軍タスクフォースの司令、ソリス少佐は、スタブローの町からフランコルシャンに向かって伸びる国道にバリケードを築き、その道を進んだ所にある米軍の燃料集積所に向かった。 ここには400万リットル(日本の大型タンクローリー200台分)近いガソリンがあった。 守るベルギー軍に、ドイツ軍が迫っているので燃料に火をつける様命令した。
大佐自ら戦車に乗って燃料を奪いに来たドイツ軍に、ドラム缶をゴロゴロゴロ... というのは映画だけの話で、実際にはパイパーはこの集積所の事を知らなかった。また、燃料はドラム缶ではなくジェリカンに小分けにされていた。
写真は燃料集積所跡地(特別な施設があるわけではなく、膨大な量のジェリカンが道路の片側に並べられていただけなのだが) 50 24 32 N 5 55 47 E 結局昼前にフランコシャン方面から援軍が到着したので、全体の6/1程度を燃やした所で中止し、残りのジェリカンはトラックで避難させた。
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唐突にSSのヘルメット。いわゆるえんどう豆パターンのヘルメットカバー迷彩。
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こちらはSS戦車兵のユニフォーム。
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さて、パイパーの方はトロワポンに向かって西進していた。 アメリカ軍はトロワポンの町に入る手前のカーブに3インチ(76mm)対戦車砲を配置して待ち構えていた。 18日の1045頃、画面左奥のスタブロー方面からパンサー戦車がこちらに向かってきた。 米軍の対戦車砲が火を噴き、先頭のパンサー戦車に命中し道を塞いだ。 しかし、続く2輌目からの砲撃で米軍の76mm砲は全クルー共々無力化された。 50 22 34 N 5 52 34 E
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76mm砲が待ち構えていた先の右カーブ(ドイツ軍から見て)を曲がると、2重のトンネルが現れる。 両方とも上を鉄道が通る。手前のトンネル上の線路は単線のフェン鉄道(Vennbahn)で、オイペンまで通じている。 2001年まで観光列車が運行されていたが、現在は廃線となり、レールも撤去されている。 奥のトンネルの上を通るのは、リエージュとルクセンブルグを結ぶ幹線(とはいっても単線区間も多いが)。 2つのトンネルをくぐるとT字路に突き当たり、左折するとアンブレー川を渡る橋がある。 50 22 37 N 5 52 30 E (T字路の座標)
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3つの橋を意味するトロワポンの町には、その名の通り3本の橋がかかっている。 1本目はアンブレーブ川を南北に渡る鉄道橋、 2本目は鉄道橋に平行する道路橋。 町の北に位置する。パイパーは画面左から右に橋を渡る予定だった。 18日の1115に、米軍は道路橋を爆破した。 橋の袂には民間人犠牲者追悼碑があり、ベルギー国旗と共にアメリカ合衆国国旗が立っている。 ちなみにこの道路橋、1940年のドイツ軍電撃戦の最中にも、ベルギー軍が鉄道橋共々爆破している。 鉄道橋を渡っているのはベルギー国鉄SNCB/NMBSのクラス55ディーゼル機関車5510号。 鉄オタでも何でもない私でもこの情報を引き出せるのでインターネットは本当に便利だ。 50 22 32 N 5 52 25 E
橋が爆破されてしまったのでパイパー戦闘団の主流はトロワポンの町から西進することが出来なくなってしまった。 (鉄道橋は爆破されていないのでそれを渡ってもいいのだが、土手が急で戦車車輌は線路まで登れない) しかし大丈夫、スタブローの手前で、部隊の一部(2個中隊)を挟み撃ちとして(スタブローを通らずに)直接西に向かわせていた。 そちらのルートであれば、2番目の橋が落ちても、直接3番目の橋を渡って西進むできるはずだ。
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3本目の橋は、町の中心にある道路橋で、アンブレーブ川の支流であるサルム川を東西に渡る。 画面奥がパイパー戦闘団の目的地ユイがある西方向。 こちらの橋は、スタブロー手前で本隊と分かれた挟み撃ち部隊が到達する直前、1300に米軍が爆破し、進路を絶たれてしまった。 尚、3日後の21日、トロワポンに戻った米軍(第82空挺師団の第504落下傘歩兵連隊)は仮設橋で修復し、橋を渡ってドイツ軍を迎え撃ったが押し戻され、橋は再び米軍により爆破された。
50 22 20 N 5 52 18 E
仕方が無いので、パイパー戦闘団の本隊は、本来の進撃路Dを使い、トロワポンから北上し、ラ グレース方面に向かった。 何としてもラ グレース村の先でアンブレーブ川を渡り、ミューズ川に向け西進しなければならない。
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ラ グレース村に向かって進む。途中列車の橋をくぐる。 50 24 12 N 5 51 47 E
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ラ グレース村。この時点では単なる通過点。パイパー戦闘団の本隊は、18日の13:00に通過。 (トロワポンで挟み撃ち部隊の2個中隊が目の前でサルム川の橋を爆破され進路を立たれたのと同じ頃だ) 50 24 41 N 5 50 49 E パイパー戦闘団本隊は偵察隊がこの先、シュヌー近くでアンブレーブ川を渡れる橋を発見しており、そちらへ向かう。
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高台から見下ろした、アンブレーブ川を渡る橋。 手前が鉄道橋、奥はパイパー戦闘団が通過した道路橋。 50 23 53 N 5 49 21 E (道路橋の座標)
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こちらはパイパー戦闘団の視点。鉄道がアンブレーブ川を渡る。 綺麗な景色、戦跡を辿ってドライブするには、晴れていて気持ちいい。 アルデンヌ大反撃は悪天候の期間を狙って実施したのだが、時々は少し天候が改善する。 パイパーがこの辺りに差し掛かった頃も天候が一時的に改善していた、という。 50 24 02 N 5 49 10 E (鉄道橋の座標)
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やっとアンブレーブ川の南側に出られる。 シェヌの集落手前にあるこの橋は、米軍側ノーマークであり、周囲に米兵は居なかった。
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天候が回復したので、恐れていたアメリカ陸軍航空隊のヤーボ(P-47)がパイパーの隊列を襲撃してきた。 攻撃は1330から、2時間程続いた。 写真は飛行可能なリパブリックP-47戦闘爆撃機。アメリカの航空ショーにて撮影。
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隊列は慌てて橋を渡って遮蔽物を探した。 爆弾によりパンサー戦車131号が破壊され、爆風を受けて左の白い建物も大きく破壊され、地下室にいたベルギー民間人に多数の犠牲者が出たという。現在は修復されている。 50 23 47 N 5 49 11 E
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パイパー自身は、空襲の最中、上の写真を撮影した場所にある、ベルギー軍が第二次世界大戦開戦前に設置したトーチカに隠れたという。 50 23 46 N 5 49 11 E ヤーボはシェヌーからスタブロー東のロドメまで延々と続くSS隊列を広範囲に攻撃し、パイパー戦闘団はパンサー戦車2輌を含む車輌10数輌を失っているが、一方P-47×1機を撃墜したとされる。
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1615に、現国道N66(当時はN23)と合流する。ここを右折する。 ちなみに左折すると、トロワポンに通じる。本当はパイパーは左から来る道を通りたかったのだが、トロワポンの橋が爆破されたため叶わなかった。 左:トロワポン10km 右:ユイ49km 遂にパイパー戦闘団の目的地、ユイの地名が標識に登場する。 50 22 10 N 5 45 21 E
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パイパー戦闘団はアンブレーブ川の支流であるリエンヌ川をまたぐ、ヌフムーランの橋に近づいていた。 アメリカ軍は、P-47の空襲でパイパーの隊列が停止している貴重な時間を使ってこの橋の爆破を用意していた。 写真はアメリカ軍側の視点。 1645頃、画面奥のカーブからドイツ軍のパンサー戦車が現れた。ためらわずに橋を爆破した。 先頭近くにいたパイパー中佐自身、目の前で橋が爆破されるのを目撃し、「工兵の奴らめ!」と叫んだという。 50 22 03 N 5 43 27 E
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橋の袂には橋を爆破した工兵の功績活躍を記念する碑が立つ。
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米軍工兵隊に関する展示。
左端SPECIAL Friction Tapeは黒色の防水ガムテープが入っている。
起爆装置は映画でお馴染み。T字型ハンドルの、垂直部分にラックギアが切ってある。 取扱い上の注意が銘板に書いてあり、一部読めないのだが、 濡らすな、電気接点は綺麗にして固く締めること、軸受に油を頻繁に補充すること、ラックとピニオンギアにワセリンを塗ること、コミンテーターとブラシは00番(100番に相当)紙やすりで掃除しふき取ること、ブラシはコミンテーター(回転子側の電気接点)に確実に接触させること と書かれている。これから容易に内部構造が推測できる。 水筒及び左のヘルメットに書かれているのは米軍工兵隊のインシグニア。
右のヘルメット2つ及び肩パッチに描かれているのは連合作戦(Combined Operations)のインシグニア
工兵はCombat Engineerと呼ばれるが、軍隊内では単にEngineerと呼ばれることも。Sapper(イギリス英語)も同じ意味。
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諦めてはいけない、パイパーは渡れる橋を探すために、南北に斥候を出した。 写真は北に進む斥候の視線。 50 22 24 N 5 44 24 E
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幸い、2km程北上した所に橋があった。当時は木造の橋だったという。 戦車の通過は無理なので、とりあえずハーフトラックで渡る。 50 22 34 N 5 43 59 E もう一箇所北にある別の橋も渡った。(こちらは未訪問。50 23 17 N 5 45 29 E)
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おまけ。橋を渡って国道N66に向かう途中にある、第二次世界大戦前にベルギー軍が設置したトーチカ。 50 22 30 N 5 43 34 E
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リエンヌ川の西側に出られたので、再び国道N66に戻る。「やった!」と喜んだことだろう。 しかしそれもつかの間、国道N66の先にはアメリカ軍が待ち伏せしていた。
写真でガソリンスタンド(赤い屋根)の奥が爆破された国道上の橋。 ドイツ軍はこれを画面左方向に迂回し、小さな橋を見つけて渡り、再び国道方面に戻ってきた。 今度はガソリンスタンドの手前で国道に合流し、(画面手前に向かって)右折しようとした。
以下、画面左手前の白い家の壁にかかっている記念碑の説明。 1944年12月18日(時間は記されていないが2100頃)、この家から、米陸軍第30歩兵師団第119大隊F中隊のバズーカ手、メーソン アームストロング一等兵がSSパイパー戦闘団のハーフトラック2輌を破壊し、アントワープに向けたヒトラーの大攻撃の先頭を止めた。 彼はこの功績によりDSC(殊勲十字章)を授章した。
50 22 06 N 5 43 14 E (白い家の位置)
実際にはアームストロング一等兵一人が進撃を食い止めた訳ではなく、米軍はM10を配し、歩兵や地雷を持った工兵も守りを固めていた。また、ドイツ軍はこの家を通過して画面後方50m位まで進んでいる。
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更にこの先には米82空挺師団が到着していた。写真はその記念碑。 50 22 48 N 5 41 12 E
パイパーはこの方向の進撃を断念し、シェヌーの橋を守るために部隊の一部を残し、ラ グレース方面に一旦戻った。 2300頃、ラグレース村とその西にあるストゥモン村の間の森でこの日の進撃を停止した。
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さて、パイパー戦闘団の南、進撃路Eを使ってポトーに向かうはずのハンセン戦闘団は進撃が思わしくないことから、LSSAHでは後続のクニッテル戦闘団を北上させ、パイパー戦闘団を支援することにした。 クニッテル戦闘団は18日の1900頃スタブローを通過した。この頃スタブローは殆ど米軍の手中にあり、クニッテル戦闘団はかろうじて橋を渡り町を通過出来たというべきだろう。夜中には米軍は橋を渡ろうとするドイツ軍車輌を砲撃できる体制となり、スタブロー経由でのパイパーへの支援は風前のともし火であった。 何はともあれ、クニッテル少佐率いる増援の戦闘団は、日付が19日に変わって間もなく、ラ グレース村先のパイパー戦闘団と合流した。 写真は殆ど米軍の手中にあると言っていいスタブローの橋。 この後、19日夜についに米軍が北側(写真奥側)1経間を爆破して通行不可能となった。 現在はスタブロー周囲での戦闘を記念して米軍のハーフトラックが橋の南側に置かれている。(米軍は橋の北側で戦っていたのだが...) 50 23 29 N 5 55 56 E
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もはやスタブローの橋の周りはアメリカ軍が守りを固めており、ドイツ軍車輌が渡れなくなっていた。しかし、補給部隊はスタブローを迂回して南周りでペティスパイの橋を渡り、進撃路Dでラ グレース村に19日夜明け前、到着した。パイパーはこれで一息つくことが出来た。 写真は補給部隊が渡ったペティスパイの橋。手前から奥に向けて補給、補充部隊が橋を渡った。 50 22 40 N 5 53 05 E この橋は、ドイツ軍にとってスタブローの橋が渡れなくなって以降、パイパー戦闘団への貴重な補給増援ルートとなったのだが、21日にヤクトパンサーがクニッテル隊支援の為対岸に渡ろうと通過を試み、橋は45トン超の重みに耐え切れず、駆逐戦車共々川に崩落し、仮設橋を設置したものの車輌は通過できなくなってしまった。 戦後橋は架け直されたが、この道(現在は行き止り?)はグーグルのストリートビューはもとより地図にも表記されていないもので、通行規制標識は無いものの、未舗装で橋の手前が酷くぬかるんでおり、乗用車での通過はまず無理。 こんな道、よくもまぁヤクトパンサーが走ったな...
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1944年12月19日朝、パイパーは米軍のいるストゥモン村への攻撃を開始した。 戦車が街道を西に進み、歩兵が村の南側から攻撃した。 記録写真と同じ視点。 手前から奥に向かってパンサー戦車が進撃、教会の手前で対戦車砲により破壊された。 左の家は下半分が石、上半分が丸太という特徴的な作りで、記録映画に登場する。 50 24 21 N 5 48 34 E
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家のアップ。ドイツ軍の記録フィルムによると、この家の手前(ラグレース村側)は当時芝地で、ドイツ兵が奥にいる米兵と交戦していた。 撮影場所の足元に当時パンツァーファウストが落ちており、それを拾うペートシェケ少佐の首本に騎士鉄十字章が光るのが印象的。 50 24 21 N 5 48 32 E ストゥモンでの戦闘は0900から2時間程続き、米軍は犠牲者多数を出して降伏した。
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ストゥモンを制圧したパイパー戦闘団は、昼頃再び西進を開始する。 道は丘を下り、線路と同じ標高まで下がった。ここには鉄道駅がある(現在列車は停止しない) 50 25 02 N 5 45 54 E
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待ち構える米軍の視線。 駅の先で道は右にカーブしている(米軍から見ると左カーブ)。 ここに米軍は第734戦車大隊、第143対空砲大隊、第119歩兵師団第3大隊を配し待ち構えていた。 1944年12月19日の1430頃、パイパー戦闘団が画面奥のカーブから手前に進撃してきたところを米軍のシャーマン戦車とM10駆逐戦車が砲撃し、たちまち3輌のパンサー戦車が破壊された。 この場所が、パイパー戦闘団が最も北西に進出できた地点である。 (最も西と書いてある資料もあるが、座標や地図を見ると判るとおり前日夜に到達して引替えしたヌフムーランの方が西である) パイパー戦闘団はストゥモンの町まで引き返した。 50 25 02 N 5 45 54 E
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19日、LSSAHは全力でパイパー戦闘団を支援することになった(この時点で最も西進出来ていたのがパイパー)。 パイパー戦闘団後続のサンディッヒ戦闘団はスタブローに南から迫った。 一方、パイパー戦闘団と19日早朝に合流していたクニッテル戦闘団は、来た道を戻り、昼頃、トロワポンに到着すると、スタブロー方面及びその北側の米軍に対し攻撃を開始した。 写真はクニッテルがスタブロー方面への攻撃の時に司令部として使っていた、スタブローとトロワポンの間の国道沿いにある農家の建物。画面奥がトロワポン方向、後ろはスタブロー。 東側の壁は弾痕だらけで、比較的大口径の弾が当たったと思しき大きな穴が見受けられる。 スタブロー方面から攻めてきた米軍によるもの? 50 23 04 N 5 54 30 E
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元々パイパー戦闘団の進撃中、スタブローの町はドイツ軍がまともに支配下に収めておらず、通過に必要な最低限の回廊を確保しているにすぎなかった。 19日、スタブローの町は完全に米軍の手中にありドイツ軍は通過できず、西及び南からのドイツ軍SSの奪還攻撃は上手くいかなかった。 SS第501重戦車大隊のキングタイガー戦車222号は、本来パイパー戦闘団の一部だが、始終別行動をしているようで、ドイツ・ブランケンハイム近郊のトンドルフを通過してからは、カイザーバラックの交差点及びリヌーヴィルで擲弾兵を乗せて移動している様子が記録されている。 この222号車は、サンディッヒ戦闘団支援のため、19日にスタブロー入り口の橋の南側に現れた所を、対岸で配置に着いていたM10駆逐戦車が発射したAP弾を右側面に受けて、木組みの家の手前(植木のあたり)で停止した。 50 23 20 N 5 55 57 E 手前の橋は、前述の通り、19日夜にアメリカ軍が爆破した。
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パイパー戦闘団はそれまでの攻めから、守りに入った。 19日2100にストゥモンの町の西外れまで後退した。 ストゥモンの町の東にある農家に司令部を置いた。 50 24 32 N 5 49 35 E
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上記の農家のすぐ隣にはフロワクールの城館があった。 ここはパイパー戦闘団の野戦病院及び米兵の臨時捕虜収容所となった。 50 24 24 N 5 49 25 E
12月20日、米軍はいくつかのタスクフォースを編成し反撃に出た。 スタブローとラ グレースの間で米軍は国道に侵入し、これによりパイパー戦闘団は孤立した。 この日の午後、パイパー戦闘団の南西部、シェヌー方面が第504落下傘歩兵連隊の攻撃を受けた。 ストゥモン周りでも戦闘があったが、パイパー戦闘団が守り抜いた。
翌21日、この頃にはLSSAH内でパイパー戦闘団の撤退を検討したが、第6SS装甲軍司令部から却下された。 この日の昼頃、パイパーはストゥモンを捨ててラ グレースまで撤退することを決意する。 これによりフロワクールの城館に収容されていた独、米軍の負傷兵は衛生兵と共に残し米軍の手に委ねることになった。
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シェヌーの集落は家一軒一軒を巡る戦闘の末、この日第504落下傘歩兵連隊の手に落ちた。 画面奥がドイツ軍側、手前は攻める米軍側。 50 23 43 N 5 48 57 E
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シェヌー方面からパイパー戦闘団への包囲網を狭めていった82空挺師団のコスプレ。 ただしパイパー戦闘団と対決したのは505ではなく504連隊。 ジープ、人乗りすぎ! バストーニュのパレードにて。
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ラグレース村の中心部。クリックで拡大。 50 24 38 N 5 50 46 E
1944年12月22日、パイパー戦闘団はラ グレース村で米軍にとり囲まれてしまっていた。 砲撃に続き、夜明けの米軍による攻撃は何とか持ちこたえたものの、燃料、弾薬は不足し、食料は攻撃初日から補充されていなかった。
ドイツ軍は、燃料をパイパー戦闘団に届けるため、ペティスパイの橋の近くからジェリカンに入れたガソリンを川に流した。水に浮くよう、満タンにはしていない。 ジェリカンは冷たい水を浮き沈みしながら、どんぶらこ、どんぶらこ...と下流の、パイパー戦闘団のいるラグレーズ方面に流れていった.....のだが、ついにパイパーの手には入らなかった。 これ、やってる人たちは真剣なんだろうけど、手前のトロワポンは米軍が押さえているし、コの滝で引っかかりそうだし、たどり着く方がおかしい...
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ラグレース村の、現在博物館がある建物の地下室に残されていた医薬品類。 左の箱はイタリア製のモルヒネや精力剤のガラスアンプル詰め合わせ。 真ん中のColone Idrofiloはイタリア語表記で脱脂綿 Omanadinは抗原 暗くて判りにくいが左端に写っているのはバンドエイドで1920年からあったブランド。恐らく米軍から拿捕したか、ここに来た米負傷兵が持っていたものだろう。
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21日及び22日に、村の東側からタスクフォース マックジョージによる攻撃を受ける。米軍は右から左に攻めてきた。 ドイツ軍は左カーブの先にキングタイガー戦車(車体番号不明)を配置して防衛した。 50 24 42 N 5 51 38 E
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この日の夜2000頃、かすかな月明かりを頼りに、補給物資がドイツ空軍のJu-52輸送機3機により落とされたが、大部分はストゥモンの米軍に届いてしまった。パイパーが入手出来たのは1割程度と言われる。 写真はユンカース Ju-52型輸送機。アメリカの航空ショーにて撮影。
撤退申請は再び軍団により却下されたので、LSSAHでは何とか他の部隊がパイパー戦闘団と合流できるよう手を尽くしたが無駄だった。
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1944年12月23日1700頃、ついに軍団より撤退命令が出た。 東方向に車輌で脱出せよという事だったが、もはやそのような燃料は残っていなかった。 1944年12月24日0200頃、脱出を開始した。 少数の居残り部隊、米兵捕虜150名、貴重な戦車を含む車輌、重装備、負傷兵300名、軍医1名をラグレース村に残し、パイパー戦闘団の生き残り800名余りは、暗闇に乗じて徒歩で村の南方向に脱出した。 写真はラグレース村に展示されている、村中心部のパイパー戦闘団撤退時の様子。 米軍の砲撃で多くの家は破壊されている。多数の車輌が放置されている。 上のピンク色○はキングタイガー204号車、下は車体番号未記入でバルカンクロイツ入りのキングタイガー(104号車?) 空腹と寒さに耐え、米軍のパトロールやヤーボを避けながら、25日クリスマスの1000頃、パイパー戦闘団はワンヌのLSSAH司令部にたどり着いた。
一方、ラグレース村では12月24日朝、米軍が村に入り捕虜を解放、負傷者を収容し多数の装備車輌を手に入れた。
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「お帰りは手ぶらで...」パイパー中佐がラグレース村で司令部に使っていた地下室に残されていた、中佐自身の所有物だったドイツの歴史本。今ならスマホやタブレットでデータを持ち歩けるのだろうが... ラグレース村の博物館の展示物。
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パイパー戦闘団がラグレース村に残した、SS第501重戦車大隊のキングタイガー戦車213号。 50 24 36 N 5 50 46 E
定期的に何度も塗り直している様で、1番目の写真(2006年)と2番目(2008年)を比べると塗装が違っている。この際だから丸裸にして元の塗装を調べて見たい欲望にかられる。
一番上の写真では自分の車と並べて記念撮影しているが、その後この場所には駐停車禁止の標識が立てられてしまい、このようなおバカ記念写真は撮影できなくなってしまった。 キングタイガーよりも、おベンツCクラスの方が汚れている、というのも我ながらどうかと思うが...
前面装甲に被弾の跡があるが、これらはドイツ軍撤退後、米軍が「試射」した時のものと言われる。 泥除けは新造したもの。
以下ラグレース村の博物館ホームページの抄訳 213号車はラグレース村周りの終盤戦で、ヘルムート ドリンガーSS中尉が中隊長車として使った。 (途中で車輌を入替えた可能性あり) キングタイガー戦車213号の他に同221号(←211号?)と、W号戦車の計3輌が、村外れヴェリモン農場の高地で守りについていた。 1944年12月21日(←恐らく22日の間違い)の昼頃、ロアンヌ コ方向から襲来した米軍戦車15輌を迎撃するものの命中弾が無く、逆に米戦車の砲撃により213号車の主砲の前部1/3が吹き飛んでしまった。 ドリンガーも頭部を負傷し、農場の地下室に避難した。 24日にパイパー戦闘団が徒歩でラグレース村から撤退した時、213号車は遺棄された。 戦後、放置された軍需品を米軍が処分したが、1945年7月、村の旅館経営者の妻が213号車をアメリカ兵と物々交換で手に入れた(コニャック1本と交換)。 砲身は、マルメディ近くで放棄されていた、スコルツェニー少佐配下の偽装パンサー戦車の75mm砲を継ぎ足して再生している。 本車は製造番号280273で1944年10月製。
SS第501重戦車大隊は、本来キングタイガー戦車定数45輌を運用する。 実際に定数を受領しているらしいが、稼動率が悪いのか、アルデンヌの戦いでは定数割れしていたと思われる。 確実に確認できるのは21輌。 これらの内、13輌が故障、被弾、放棄により1944年12月16日〜31日までの間で失われている。
008号 (003号ではない) これは大隊本部副官の車輌。スタブローとトロワポンの間の道(クニッテル戦闘団司令部近く)でエンジントラブルにより動かなくなった。その後も(固定砲台として?)クニッテル隊支援に使われた後、放棄 (12.25)
105号 スタブローで進軍中、建物に突っ込み行動不能となる (12.18)
133号 クニッテル戦闘団とスタブロー奪還に参加するが被弾(12.22) ペティスパイの橋近くの北岸で守りにつき、後に動けなくなり爆破を試みる (12.24)。ヤーボにやられたという説も。
204号 ラグレース村中心近くで放棄(12.24)。米軍が稼動状態で鹵獲し、フランコルシャン経由スパまで自走(そこから先は恐らく332号と同じルートを予定)を試みたが、途中ヌーヴィル手前でエンジン火災により頓挫し、交通の邪魔になるので谷に落とされた後スクラップ処分となる。
211号 (221号説も) ラグレース村南の農場で被弾、電装系をやられて車長が負傷し放棄(12.22) 213号とほぼ同時に被弾している。
213号 ラグレース村南の農場で被弾し主砲を破損、車長も負傷し放棄(12.22) 211号とほぼ同時に被弾している。 その後、スクラップを免れ、レストア後村の教会横に展示中
222号 スタブロー橋の南手前でM10の砲撃で被弾 (12.19←20日?) 乗員は無事脱出。
304号 放棄されたと思われる。詳細不明
312号 放棄もしくは被弾。詳細不明
332号 コ近辺の国道沿いにて米軍と遭遇、米軍シャーマンは白リン弾を発射、発煙を火災と勘違いしたのかクルーが脱出した為、米軍が無傷で鹵獲(12.25) トレーラーで回収され、スタブロー経由のスパで貨車に搭載。アントワープ港から米国に渡り、アバディーン、パットン博物館での展示を経て、フォートベニングでレストア中
334号 ラグレース村北東で被弾(12.22)
番号不明 ラグレース村東の国道で放棄(12.24)
番号無し 唯一バルカンクロイツが砲塔側面に確認できる車輌。車輌番号が確認できないが104号か?ラグレース村中心近くで放棄(12.24)
King Tigerというのは米語で、アメリカ兵がこの型式の戦車をこう呼んでいた。 イギリス英語ではRoyal Tigerと呼ばれる。 いずれもドイツ語の通称Koenigstiger (oeはoにウムラウト)の誤訳で、本来はベンガルトラを意味する。 正式には Sd.Kfz. 182 Panzerkampfwagen Tiger Ausf. Bで、 Sd.Kfz.はSonderkraftfahrzeug(特殊車輌の意味)、Ausf.はAusfuehrung(ueはuにウムラウト。型の意味)の略。 すなわちティガーB型戦車という事になる。ティガーU型、タイガーU型等と表記されることもある。 自分の中では、田宮のMMシリーズの刷り込みで、こいつはキングタイガー以外考えられないのだが。
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アルデンヌの戦いでの活躍により、パイパー中佐は剣柏付騎士十字章を授章する。 戦後、第6SS装甲軍指令ディートリッヒ上級大将、パイパー中佐他パイパー戦闘団のメンバー74名は、アルデンヌ戦でのマルメディの虐殺、その他米兵捕虜虐殺の責任を問われる形で、ドイツのダッハウ元ユダヤ人収容所にて裁判にかけられ、パイパー他43名は絞首刑、ディートリッヒ他22名は終身刑、1名はフランスの法廷に引渡し、他は懲役10-20年の判決を受ける。 元SS側も、お前らソ連との冷戦が始まったので早めに決着付ける為に俺たちをスケープゴートにしているだろ、とか、マルメディの虐殺って言うけど、1944年12月23-25日にかけて米陸軍航空隊がマルメディを誤爆して米兵と民間人が200人以上死んだ事件の方が大虐殺だろ、とか色々言いたい事はあるのだろうが、勝者米国が主催する裁判では、敗戦国ドイツはなすがまま。 写真は拘留中のパイパーの再現。軍服を元に、記章類を一切外している。ボネの博物館にて。 しかし、裁判が公平では無かったとして被告は次々に釈放され、パイパーも35年に減刑、やがて1956年には釈放された。 その後ドイツで民間の仕事に就くも過去の経歴から上手くいかず、フランスに移住するも1975年何者かによって殺され、家に火が放たれた。
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映画「バルジ大作戦」(1970年) パイパーをモデルにしたと思われる、へスラー大佐が主人公で、先陣をきってアントワープを目指す。 大作の戦争映画だけど、お金をかければいいってもんじゃない、大スターを使えばいいというもんじゃない、ということを実証してしまう典型的な映画。 とにかく変な映画。 キングタイガーがパットン戦車なのは我慢するとして、 整列した若き戦車兵が突然歌い出す、ってミュージカルかよ!? スペインで撮影されているので村の様子が黄土色の石造りに赤いレンガ屋根の家であるとか、砂漠みたいな所で戦車戦が行われている、とか撮影ロケーションが変。 日本語タイトルの「バルジ大作戦」というのも意味不明。 バルジの戦いというのは、戦線が連合軍側に、深く、突出部として食い込んだので、後日アメリカ側が命名したもの。 作戦の目的はアントワープ到達による分断とそれにより講和に持ち込むことであるからして、最初から突出部を作る(それだけ切り離されて包囲される危険性が高くなる)のを目的とした作戦であるはずがない。 この頃の戦争映画大作って、空軍大戦略(1969)、パットン戦車軍団(1970)、戦略大作戦(1970)とか、皆日本語のタイトルが変。 Nutsとマルメディ虐殺って、全然リンクしてないんだけど。 米軍の拠点となるアンブレーブの町はどこを想定しているのか?オランダ語読みのアメルのこと? そして、司令官自ら不足する燃料を取りに行き、ドラム缶がゴロゴロ...っていう、ギャグというより悪夢の様なラスト。 自分の中ではアイアンイーグルシリーズと並ぶおバカ戦争映画だ。
映画「極寒激戦地アルデンヌ 西部戦線1944」(2003年) タイトルが思いっきりB級なので、その心構えで見ると、思ったほどは悪くない。 マルメディ虐殺が冒頭で描かれているが、それ以降は比較的面白い戦場サバイバルもの。 最近の映画だけあって軍装の考証とか充分凝っている。 |
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