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交通の要衝、サン ヴィット近郊の地図。クリックで拡大。
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アメリカ陸軍第106歩兵師団は、1943年3月に設立され、1944年12月11日、第2歩兵師団と交代でシュネーアイフルの守りに就いた。 この時点で実戦未経験の第106歩兵師団は、全長40km超に及ぶ長大な前線に配置されたが、ここを含む近辺は「幽霊戦線」と呼ばれ、大規模な交戦は無いと思われた。 ちなみに彼らの南にはヒュルトゲンの森の戦いで多大な損害を出したため休養、補充を兼ねて第28歩兵師団が配備されていた。要するにこの近辺はそういった感じの、大きな作戦からは無縁の、静かな前線と捉えられていた訳だ。 106歩兵師団は第422,423,424の3つの歩兵連隊から成る。 北から順に422,423,424が守りについていた。(その北側は第14騎兵グループ、南は第28歩兵師団) 写真は16日の時点で106歩兵師団422歩兵師団が配備されていた前線位置の森。 ここにはドイツ軍の西の壁の一部であるトーチカが残る。 50 17 23 N 6 24 20 E
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写真は16日の時点で106歩兵師団第423歩兵連隊が配備されていた前線位置の森。 50 15 19 N 6 21 27 E 12月16日から敵の攻撃を受け、撤退を検討したものの、第7機甲師団の増援が期待できるとのことで第106歩兵師団指令のジョーンズ少将が撤退を踏み留まる判断をしたことが命取りとなった。 結局北側からドイツ軍第18国民擲弾兵師団の第294連隊、南側からは同師団の第293連隊が回り込み背後を取られて、17日0900にシェーンベルグ近郊でドイツ軍の293と294は合流に成功する。これにより米軍422,423は包囲されたのだが、彼らはこの時点では囲まれてたことに気づいていない。
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ブライアルフの村。 ここにはアルデンヌ攻勢開始時、米第423歩兵連隊付属の第14騎兵グループ第18中隊隷下の部隊がいたが、ドイツ軍の激しい攻撃に耐えられず、西3kmにあるヴィンターシャイトに撤退した。 50 14 22 N 6 17 13 E
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ブライアルフの北1kmにある交差点。 ブライアルフから米軍が撤退したので、ドイツ軍はここまで進撃してきた。米群第423歩兵連隊は右翼を押さえられてしまった。 この場所は高台にある為、アルデンヌ攻勢以前からドイツ軍の砲撃を受けており、米兵は「88コーナー」と呼んだ。 右がスカイラインドライブと呼ばれる高台を走る道で、アオ(Auw)に通じる。左は森を抜けてシェーンベルグに通じる。 後方はブライアルフ。 50 14 53 N 6 16 50 E
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エンジニアカットオフと呼ばれる、88コーナーでの着弾を避けるため第168工兵大隊が造った、森の中の小道。 途中でスカイラインドライブと合流する。 16日〜17日にかけての夜、第106歩兵師団長は第423歩兵連隊支援の為、予備の1個大隊をサン ヴィットから出撃させた。 斥候に出たオリバー パットン少尉(米軍製作の記録映画に登場する)は、暗闇の中、この道を手前から奥に進むと、ドイツ軍の自走砲や歩兵に遭遇したものの敵には発見されず、無事に第423歩兵連隊隷下の砲兵隊と合流することができた。 50 15 26 N 6 16 46 E
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右に降りるとミュッツェニヒを経て、ヴィンターシャイトの集落にいく。 ブライアルフからヴィンターシャイトに撤退した第14騎兵グループの一部隊は、結局そこも危なくなったのでミュッツェニヒを経てこの交差点に差し掛かった。 50 15 31 N 6 16 24 E 交差点を左折(画面右奥から右手前方向)した時、隊列に画面左から来たジープが割り込んできた。 何とドイツ兵が乗っていた。M8グレイハウンド装甲車の37mm砲が火を噴き、ジープは側溝に落ちた。
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シェーンベルグの町は17日の0845にドイツ軍が確保した。 さて、ブライアルフ、ヴィンターシャイトを経由して途中ドイツ軍と鉢合わせしながらシェーンベルグの村に南から近づいてきた米第14騎兵グループの一部隊は、17日の午後、斥候を出して村の様子を偵察した。 斥候の装甲車3輌、ジープ6輌が橋(現在の位置よりも50m上流)を渡りサン ヴィット方向に向かったところ、西(画面奥)のサン ヴィット方面に向かって停車している米軍トラックの一群がいた。「味方だ」。 トラックはドイツ兵で一杯だった。 「ドイツ兵の捕虜だ。」と思ったその時、よく見るとドイツ兵"捕虜"は武器を持っているのが見えた。 違う!鹵獲した米軍トラックに分乗しているドイツ軍の国民擲弾兵だ! 米軍装甲車がドイツ軍を至近距離で攻撃し、ドイツ兵はパニックになったが、反撃で米軍は次々とやられてしまった。 ジープ1輌だけが村の南手前にいた本体に逃げ戻り、米兵の生き残りは途中で車輌を処分放棄、徒歩でサン ヴィット南東の、ブライツフェルの味方戦線にたどり着いた。 50 17 22 N 6 15 46 E
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ポトーの博物館にて、強そうな「ゴールデンライオン(金の獅子)」の第106歩兵師団エンブレムを付けたジープ。 18日の朝、第422,423連隊は師団からシェーンベルグの西に撤退せよとの命令を受け西進するが、ここで初めて包囲されたことに気づく。 その後の包囲網脱出の試みは上手くいかず、2つの連隊の連絡は途切れ、シェーンベルグの村外れまでたどり着いたものの、第422,第423歩兵連隊による同志撃ちまで発生してしまい、弾薬を使い果たして水、食料も少なく、2つの連隊は個別に19日夜降伏した。 捕虜となった米兵は8000-9000人といわれ、近代米軍史上ではバターン半島での日本軍への降伏(米兵12000人、フィリピン兵を含めると8万近くが降伏)に次ぐ規模である。 一方で、包囲網を脱出して味方戦線にたどり着いた者は150名程と言われる。
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第106歩兵師団の北側にいた第14騎兵グループの内の1部隊は、アンドレの町を守っていたが、17日の夜明けにドイツ軍第506戦車大隊(第6SS装甲隷下の部隊。本来の進撃路Eを一旦外れた模様)の戦車、歩兵の攻撃を受け退却し、シェーンベルグではドイツ軍第18国民擲弾兵師団の第294連隊の一部と交戦、西に再び撤退し、何とか敵の進撃を食い止めようと、ホイエム手前のヘアピンカーブで待ち伏せすることにした。 ここで他のグループ兵が画面右から手前にかけて敗走するのを見守り、やがて画面右からドイツ軍がやってくると装甲車6台と、機銃または迫撃砲を搭載したジープ15台で2時間に渡り敵の進撃を食い止めたが、17日の1050にはサン ヴィット方面への撤退命令を受けた。 50 17 11 N 6 14 32 E
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サン ヴィット東の、プリューマーベルクの高地。 50 17 16 N 6 11 13 E 写真は攻めるドイツ軍(及び退却する米第14騎兵グループ)の視点で、画面奥で丘を越えるとサン ヴィットに達する。 この丘をドイツ軍に占領されると、交通の要衝であるサン ヴィットの町を砲撃されてしまうので、米軍としては敵の手に渡す訳には行かない。 しかし17日の時点で第106歩兵師団は2個連隊が敵に包囲(同日夜降伏)、残る1個は南方で退却中、援軍はやっと一部が到着しだしたという状態で、工兵部隊の2個大隊が丘の防衛に当たることになった。
尚、ドイツ軍は元々はこの丘の北(画面右)のヴァルロード経由でサン ヴィットに進撃する計画だったが、18日の0800頃ヴァルロードから西進したところで援軍としてかけつけた第9装甲師団に撃退されている。
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プリューマーベルクの高地で、ドイツ軍の進撃をしばらく食い止めた場所のひとつ。21日の2130に撤退命令が出るまで一帯を守りドイツ軍の攻撃を跳ね返した。 第168工兵隊の記念碑が立つ。 50 16 45 N 6 08 56 E
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記念碑の奥の林の中には当時の塹壕の跡が残る。
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アルデンヌ攻勢に於けるドイツ軍の進撃ルートでは、バストーニュと並ぶ交通要衝であるサン ヴィットの町。 50 16 54 N 6 07 37 E (教会の座標)
第106歩兵師団の3個連隊の内、第422及び第423連隊は包囲されて17日に降伏してしまったのだが、第424連隊は無事で、17日の夜、ウール川の西に退却したが装備の多くは残してきてしまった。
アメリカ軍には援軍の第7、第9機甲師団が到着し、生き残った第424歩兵連隊と共にサン ヴィットを中心とする馬蹄形の防衛陣地を形成した。
ドイツ軍としては17日にサン ヴィットを確保するはずだったが、まとまった攻撃部隊の到着が遅れて(渋滞の他、国防軍の進撃路に第6SS装甲軍が「乱入」した影響もある)、結局12月21日に総攻撃を行い、4日遅れでドイツ軍の手に落ちた。
この時の攻撃で第106歩兵師団に残る第424歩兵連隊は多大な損害を出し、結局、同師団はアルデンヌ攻勢開始から1週間で捕虜、戦死、負傷により全兵力の3/4を失った。師団長のジョーンズ少将は22日に解任された。
ドイツ軍が一斉に町になだれ込み、再び渋滞が発生した。
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その後、ドイツ軍の進撃を遅らせるために、連合軍は町を爆撃した。 特に12月26日の爆撃は計274機の英空軍ハリファックス、ランカスター爆撃機により1140トンの爆弾が投下され熾烈を極めたが、実際にこの爆撃によりドイツ軍の交通が遮断されたのはたった1日だけだった。 一方で、12月25日には、サン ヴィットと間違えて米陸軍航空隊のB-26爆撃機×4機が、当時米軍の管理下にあるマルメディを(視界良好であるにも関わらず)誤爆してしまった。 尚、マルメディは23日にもB-26×6機により誤爆されている。 また、1月中旬にはドイツ軍の撤退を遅らせるためサン ヴィットは再度連合軍の爆撃を受けている。 これらの爆撃によりサン ヴィットの町は瓦礫と化し、民間の住民250名程が犠牲になった。 アルデンヌの戦いの終盤、反撃に転じた米軍は1945年1月23日にサン ヴィットの町を奪還した。
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1944年12月17日〜23日までの間、援軍として駆けつけた第7装甲師団「ラッキーセブンス」の司令部があったヴィエルサルムに展示されている、サン ヴィット周りの第7装甲師団の防衛戦を記念するシャーマン戦車。 シャーマン戦車はバリエーションが非常に多い。 これはM4A1(76)Wで、車体、砲塔共に一体鋳造のタイプ。主砲はM1型76mm砲。写真では見えないが垂直懸架サスペンション(VVSS)、湿式弾薬庫、星型ガソリンエンジンR-975を装備。 ちなみにR-975はアメリカ陸軍航空隊の練習機BT-15(-13のエンジン違い)やM18ヘルキャット駆逐戦車にも搭載。 後ろの看板にはフランス語で「戦車に登らないで下さい。怪我をしても町は責任を負いません」と書かれている。 50 17 09 N 5 55 13 E
ちなみに、第7装甲師団はアルデンヌ攻勢が始まったときオランダ南部のヘールレンにおり、17日の早朝出発してサン ヴィットに駆けつけたのだが、この時南下のルートは2つあり、スタブロー、トロワポン経由またはマルメディ、リヌーヴィル経由であった。 これら地名から判るように西進するパイパー戦闘団の進撃ルートを横切るルートで、第285野砲観測大隊はマルメディとリヌーヴィルの中間にあるボネの交差点付近でパイパー戦闘団と小競り合いの末捕虜となり、その多くを殺される(マルメディの虐殺)という憂き目にあう。 また、このリヌーヴィル経由のルートが使えなくなったので、マルメディからスタブローに向かう迂回路を取った一部の部隊は、18日の朝パイパー戦闘団とスタブローで交戦している。 そしてパイパー戦闘団との遭遇危機を脱しサン ヴィットに近づいた第7装甲師団は、今度は西へ退却(敗走)する米軍の渋滞に巻き込まれた。 援軍として駆けつけるのも大変である。
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サン ヴィットの町自体が21日ドイツ軍の手に落ち、付近一帯の米軍は23日の朝、西に撤退を開始した。 アメリカ軍は、サン ヴィットの西15kmのヴィエルサルムにてウール川に架かる橋(判りにくいけど横断歩道標識の当たり)を渡り、川の西側にいる増援部隊である第82空挺師団と合流した。 23日の夜、米軍最後の車輌は、迫り来るドイツ軍の第9SS装甲師団の攻撃を受けながら橋を渡った。 日付が24日なって間もなく、米第82空挺師団の工兵が橋を爆破した。 50 17 19 N 5 54 49 E 画面手前が米軍、奥がドイツ軍。
最終的には米軍がバストーニュを死守したこと、サン ヴィットを長らく保持したことがアルデンヌ攻勢の行方を大きく決めた。
サン ヴィット攻防戦はアルデンヌ攻勢中で非常に大きな意味を持つものだが、日本での知名度は低く、戦争映画の題材にもなっていない。
アメリカ陸軍が製作してTV放映されたBig Pictureの中のシリーズの中で、サン ヴィット攻防戦が前後編に分けて放映されており、Youtube他アーカイブで見ることが出来るので今回参考にした。 記録映像はアルデンヌ攻勢の米独全般のありきたりのものだが、米軍関係者(兵卒から将官まで約10名)、ドイツ軍関係者(ルントシュテットの参謀だったと、第5装甲軍司マントイッフェル将軍)が体験を語るという構成は生の一次資料として非常に興味深い。 戦争が終わり廃墟になったサン ヴィットに戻り生活を立て直す体験を語るベルギー人女性がドイツ語を話しているのが実に印象的だ。本ページでは一般的な呼称に従いサン ヴィット(サン ヴィト、サン ヴィートと表記する場合もあり)と呼んでいるが、本当はザンクト フィートとすべきなんだろうな....
映画「ジャスティス」(2002年)では第[軍団の司令部に勤務する主人公と、司令部を訪れていた第106歩兵師団の将校がサン ヴィット(米兵はサン ヴィースと呼んでいる)に向かう途中、マルメディとサン ヴィットとの間でドイツ軍の捕虜になる。 サンヴィットの戦闘とは殆ど関係ない。撮影はチェコで行われた。 ブルースウィルスが出てくるのでどんなアクションものなのかと期待していたが、内容はサスペンス映画。 主人公の肩パッチに8の文字があるにもかかわらず英語、日本語共に字幕では何故か第X軍団になっている、更に何故か第3軍の補給隊のジープに乗っているなど、考証は緩いが展開は結構面白い。 |
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