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アルデンヌの戦い〜バストーニュ包囲〜
Battle of Ardennes - Seige of Bastogne


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「血のバケツ」 ボネの博物館における展示。

アメリカ陸軍第28歩兵師団はアメリカ最古の歩兵師団で1879年に設立された。
第二次世界大戦では1944年7月ノルマンディ戦が初陣となり、パリの開放に参加。
同年ヒュルトゲンの森に於ける戦闘には10月16日〜11月中旬まで投入され、多大な損害を出した。
同師団は「Keystone(要石)」と呼ばれていた。Keystoneは母体となったペンシルベニア州が別名「Keystone State」に由来する。
ヘルメットやパッチにはこの要石が描かれていたが、ドイツ軍が「血のバケツ」と呼ぶほどに犠牲を出し、ヒュルトゲンの森から撤退し、ルクセンブルグの静かな戦線に配備された。
一帯は「幽霊戦線」と呼ばれ、小競り合い程度の戦闘しか発生していなかった。
第28歩兵師団の様に休養と補充を必要とする部隊、あるいはその北隣に配備された戦闘未経験の第106歩兵師団が、徐々に慣らしていくのに最適の地であった。

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ドイツルクセンブルグ国境からバストーニュにかけての地図。クリックで拡大。


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ダスブルグにて、ルクセンブルグ、ドイツの国境に架かるウール川の橋。
画面左がドイツ、右がルクセンブルグ。
50 02 58 N 6 07 35 E

1944年秋、撤退するドイツ軍はこの橋を爆破していた。
1944年12月16日未明、まだドイツ軍の全面的な準備砲撃が始まる前、ドイツ軍第2装甲師団の先遣隊となる歩兵がゴムボートで川を渡った。
工兵隊は、攻撃開始と共に架橋を開始した。その日の午後、この場所に仮設橋が完成し、先を急ぐドイツ軍第2装甲師団は早速戦車を渡らせ始めた。
第5装甲軍司令のフォンマントイフェル大将自ら交通整理をしたという。

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マルナッハにある第28歩兵師団と、同師団隷下第707戦車大隊の記念碑。
50 03 11 N 6 03 39 E
(撮影時の座標)
尚、この記念碑は現在は近くに移転した模様。
50 03 15 N 6 03 45 E

第28歩兵師団隷下の第110歩兵連隊B中隊が、対戦車砲と歩兵で16日の日中一杯ここを守った。
近辺の村ホージンゲン、ハイナーシャイト、ムンスハウゼンでも、第28歩兵師団隷下の第707戦車大隊が加わりドイツ軍の素早い進撃を食い止めた。

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マルナッハからクレルボーに向かうドイツ軍の視点。
50 03 12 N 6 01 30 E
12月17日朝、W号戦車を先頭に、クレルボーに下る最初のヘアピンカーブに差し掛かった時、右ヘアピンカーブの左側(療養所への入口がある)に隠れていたシャーマン戦車の砲撃を受け1輌が撃破されたが、すぐにドイツ軍の迫撃砲により無力化した。

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2個目のヘアピンカーブ。墓地に隣接している。
ここでもシャーマンが待ち伏せしていたが、ドイツ軍が応戦した弾が命中した。
翌年、米軍がクレルボーを奪還した時の写真では、ここにシャーマン戦車と3号突撃砲の残骸がある。後者は恐らくアルデンヌ攻勢からドイツ軍が撤退するときに置き去りにされたもの。
50 03 13 N 6 01 35 E

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3個目のヘアピンカーブ。
カーブを道なり右に行けばクレルボーの街中を通過してバストーニュまで28km。
左はドラウフェルト、ウィルツ方面。
ウィルツ方面から複数のシャーマン戦車が待ち伏せしており進撃するドイツ軍と至近距離で交戦となった。
この3つのヘアピンカーブでの戦闘で独、米双方共に複数の戦車/突撃砲を失っている。
50 03 15 N 6 01 30 E

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1944年12月17日の1800頃、ドイツ軍は今度はクレルボーの北側から攻めてきた。
パンサー戦車を先頭に、クレルボー駅向かいの、このホテル「クララバリス」に近づいてきた。
50 03 35 N 6 01 25 E
ここは第28歩兵師団隷下でフラー大佐が指揮する第110歩兵連隊の司令部として使われていたが、大佐を始めとする司令部要員は逃げ出した後だった(ホテル3階から鉄の梯子を渡して、裏側の斜面を登って逃げた)。
結局、彼らは18日の夜、西の味方前線にたどり着く前にウィルツ近郊でドイツ軍に捕まった。
フラー大佐はポーランドの収容所に収容されていた所を1945年1月29日、ソ連軍により開放された。
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クレルボー城の前庭に展示されているシャーマン戦車M4A3(76)
50 03 15 N 6 01 51
12月17日の1020頃、米軍第8軍団の予備兵力である第9機甲師団第2戦車大隊の内、B中隊がクレルボーに援軍として到着した。
他に、第28歩兵師団手持ちの、第707戦車大隊の戦車がおり、クレルボー城攻防戦が行われた17日〜18日にかけては、これら戦車が町中、周囲に混在していた。
先に紹介した3つのヘアピンカーブでアプローチするドイツ軍を迎え撃ったのは第707戦車大隊のシャーマンと言われる。
写真の現存するシャーマン戦車はクレルボーの中心部にいた他の戦車と同じく第2戦車大隊のもの。
12月18日、クレルボー城の入口前(現在の展示場所の10m程度東南)でドイツ軍と交戦していたが、砲塔に計3発の被弾を受けた。
1発目は砲塔の左上に小径の兆弾で被害なし、その後迫撃砲攻撃を避けようとバックでホテルに突っ込み、頓挫しクルーは脱出、その後、砲塔右側と車体との間に被弾(砲塔の下淵がめくれているのが判る)、砲塔右前部への命中弾で車内の弾薬が誘爆して砲が防盾ごと吹き飛んだ模様。
車体、砲塔の側面にワイヤーが溶接されている。これはオリジナル。
恐らく現地での追加で雑嚢や備品を車外に括り付けるのに使ったのだろう。
横に並べられているのはドイツ軍の88mm PAK 43/41 対戦車砲

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激戦地となったクレルボーの町。
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クレルボー城前の広場に居るアメリカ兵の銅像。
50 03 11 N 6 01 53 E

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町の中心にあるクレルボー城には事務職やパン焼きを含む米兵100名が立てこもり、ドイツ軍の侵入を撃退していたが屋根に火が着き、パンサー戦車が城門を突破、18日の1300に守備隊は白旗を揚げて降伏した。
50 03 08 N 6 01 47 E

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ルクセンブルグ国道N12とN18の交差点アントニシャフ。
50 04 08 N 5 56 09 E
クレルボーが突破されると判断した米軍は、予備兵力である第9機甲師団のCCR(Combat Command Reserve)を送り込み、日付が18日に変わって間もなく、タスクフォース ローズがここを防衛拠点とした。
18日朝、ドイツ軍第2装甲師団の先遣隊が到着、午後には戦車と兵が到着し、米軍守備隊は3方向を囲まれて北西のウッファリーズ方向に逃げ、ドイツ軍は交差点を左折してフェイッシュ方向に進んだ。

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フェイッシュの交差点で、同じくCCRのタスクフォース ハーパーが道路を封鎖していた。
18日1430、ドイツ軍はここを突破し、ハーパー大佐は戦死、米軍はロングヴィリーに敗走するか捕虜になるかの運命となった。
画面奥がドイツ軍の来たクレルボー方面、左がドイツ軍が進んだロングヴィリー方向。
50 02 12 N 5 53 12 E

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ロングヴィリーの西にあるノートルダム洞窟
ここで、バストーニュ防衛の為駆けつけた米軍第10機甲師団第811駆逐戦車大隊から抽出された、ハイデューク中尉が指揮する軽戦車・装甲車数輌と駆逐戦車1個小隊がドイツ軍第2装甲師団を1時間に渡り足止めさせることに成功した。
鉄格子には小径の弾痕が残る。弾の方向からドイツ軍が発砲したものだろう。
50 01 29 N 5 49 21 E
その後、大隊のチェリー中佐から撤退命令が出て、残存車輌を破壊し西に逃げた。後にハイデュークはバストーニュで戦死する。
攻めるドイツ国防軍の第2装甲師団はこの後バストーニュを経由せず、その北側を迂回する経路を取り、最終的にアルデンヌ攻勢中最もミューズ川に近づいた部隊となる。

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バストーニュの街中を歩く、第101空挺師団兵士のコスプレ。

17日の時点で、第1軍司令のホッジス少将は、第12軍集団長のブラッドレー中将に連絡を取り、予備兵力を送り込むことを要求した。
事実上の失敗に終わったマーケットガーデン作戦とその後の近辺の占領の後、第82及び第101空挺師団はフランスのランス近辺に休養と再編成の為に駐留していた。

当時、空挺軍団長のリッジウェイ将軍は英国におり、101空挺師団長のテイラー将軍は休暇で米国に戻っていた。
代理として空挺軍団はギャビン将軍、第101空挺師団はマッコーリフ准将が司令を勤めていた。

トラックをかき集めて兵を乗せて、17日の夜、2個の空挺師団は北上を開始した。
バストーニュに向かっていた82空挺師団はパイパー戦闘団を抑える為、ウェルボモンに向かうことになった。

101空挺師団も同様にウェルボモンに向かうことになった。

18日の16:30、第101空挺師団長代理のマッコーリフ准将は、状況説明を兼ねて途中、バストーニュ西のエルバンモンで右折して、第8軍団長ミドルトン少将に合いにバストーニュに立ち寄った。

ミドルトン少将は、ドイツ軍が近づいているということで第8軍団の司令部を避難させる用意をしており、更にホッジス少将から「第101空挺師団をバストーニュ防衛に充てる」約束を取り付けていた。

第101空挺師団は18日の真夜中までにバストーニュ西隣のマンド サン テティエンヌに集合を完了した。
すれ違って退却する米軍兵から食料、武器弾薬、防寒具をもらったという。

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101空挺師団はフランスのランス近郊で休養・再編中で、1944年12月25日のクリスマス当日には師団のフットボールチーム「スクリーミングイーグルス」と、空輸クルーで作る「スカイトレイン」との対抗試合「シャンパンボール」がランスで予定されていた。
アルデンヌの戦いに応援で駆け付けることになり、当然試合は流れた。写真は幻の試合への招待状。
ランスの降伏調印博物館の展示。

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第18空挺軍団長、リッジウェイ将軍のマネキン。ラ グレースの博物館にて。
マッカーサーの後任としても有名。

リッジウェイは18日夜バストーニュに到着し、19日にはウェルボンモンに司令部を設置しに向かった。

こうして第82空挺師団がパイパー戦闘団をはじめとする第6SS装甲軍と、サン ヴィットを突破した第5装甲軍の右翼を押さえる一方、第101空挺師団は第5装甲軍の進撃ルート中央にあるバストーニュを守ることになる。

この時のバストーニュの防衛兵力は以下:
第101空挺師団直下の空挺/グライダー歩兵4個連隊、砲兵大隊4個、工兵大隊1個で、
更に、第10機甲師団からCCBとして戦車大隊1個、歩兵大隊2個、砲兵大隊1個、対戦車大隊3個が第101空挺師団の指揮下に加えられていた。

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バストーニュ防衛に、第101空挺師団の下で活躍した第10機甲師団CCBのロバーツ大佐が司令部を置いた本ホテル。(右側の白い建物)
バストーニュの中心部にある。
50 00 05 N 5 42 50 E
左はGMC CCKW 2 1/2トン トラック。ナンバープレートが無いがパレードに参加する車輌。
バンバーの83は第83歩兵師団で、アルデンヌ攻勢には米軍の反撃から参加した。

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ノヴィルでCCBのチーム デソブリと、506空挺歩兵連隊の統合司令部として使われていた建物。
ロングヴィリーを出発し、バストーニュには向かわず北西に向かったドイツ軍の第2装甲師団は、19日0400頃ブルシーを通過し、ノヴィルに到着して1030頃霧が晴れてドイツ軍と米軍との戦車戦となった。
19日夜、司令部のすぐ近くに砲弾が炸裂し、506空挺歩兵連隊の指令官ラプラデ大佐は戦死、CCBの指令官デソブリ少佐は負傷しバストーニュに運ばれる途中捕虜となった。
20日の朝にはノヴィルの米軍は孤立してしまい、同日1700敵を突破してフォの味方前線まで後退した。
50 03 46 N 5 45 36 E

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マジュレの村。
50 00 50 N 5 47 10 E
ドイツ軍の装甲教導師団は第2装甲師団の南側を進み、オーバーヴァンパッハに到達、そこから送り出した先遣部隊が悪路を進み、日付が19日になって間もなくマジュレに到達した。(画面奥から手前方向)
一方その直前、米軍のチームチェリーがロングヴィリー方向(左)に通過していた。
この前方の敵兵力が判らないため、ドイツ軍は進撃を一旦停止した。

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19日に装甲教導師団が確保したヌフの村。
50 00 06 N 5 45 45 E

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マジュレの集落に下る道。
1944年12月19日、チェリー中佐のチームはここで前方をロングヴィリーにいるドイツ軍第2装甲師団、後方のマジュレ及びヌフをドイツ軍装甲教導師団に押さえられてしまい、身動きが取れずに渋滞していた。そこにドイツ軍装甲教導師団の砲兵隊が付近の高台から砲撃を加え、ほとんどの車輌を失い兵は敗走した。敵または味方により破壊された車輌は200近くあり、ドイツ軍は破壊を免れた多数の車輌を鹵獲して使った。
50 01 04 N 5 47 24 E

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1944年12月19日、ドイツ軍はウィルツの米軍を撃破、これによりバストーニュへの南からのアプローチも可能となった。
20日に第28歩兵師団司令部はバストーニュ南西のシブレまで交替する。
21日シブレが陥落し、ここから装甲教導師団が北西に進撃し、一方バストーニュの北側は既に第2装甲師団が西進している。
この結果、12月21日にはバストーニュの町はドイツ軍に包囲されてしまった事になる。

バストーニュに通じる幹線道路には、バストーニュ包囲のメモリアルとして、シャーマン戦車の砲塔が石積みの台座の上に飾られている。
必ずしも前線位置だった場所にあるわけではない。
全部で8個。
この写真は、南のアルロン方面に通じる国道N30号線沿いの、チャペル前のもの。
49 59 25 N 5 43 20 E

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東のウィルツに抜ける国道N84沿いのフォード車販売店前の砲塔
49 59 39 N 5 43 47 E

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激戦の場であるマルヴィの村にあるもの。被弾の痕跡がある。
49 59 12 N 5 44 50 E

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ルクセンブルグのクレルヴォーに通じる国道N874横、アソンの丘(現マーダソン記念碑がある場所)と聖堂との間にある砲塔。右側には第10機甲師団のエンブレム、左には被弾貫通穴
50 00 31 N 5 43 45 E

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ハインツバラックス近郊、ラロッシュ アン アルデンヌに通じる国道N834沿いには2個の砲塔がペアで配置されていた。
現在、写真奥の砲塔は撤去されたという。
50 00 38 N 5 42 57 E

これ以外に未訪問だが以下の場所に砲塔が置かれている。

マジュレの駐車場脇 50 00 52 N 5 47 06 E
シャンの村 50 02 23 N 5 40 08 E
国道N85 ヌシャトー方面 49 59 41 N 5 42 20 E

2017年11月現在、ハインツバラックス近郊のもの以外は全てGoogleのストリートビューで確認できる。

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農家に避難する「血のバケツ」第28歩兵師団の敗残兵のジオラマ。
ヒュルトゲンの森の戦いに続きアルデンヌ攻勢でも大損害を被った同師団は、もはや師団としての組織的な戦闘が出来ず、バストーニュ及びサン ヴィット防衛の一部に編入された。
ローストチキンから目を離さない犬がかわいい。
ディキルヒの博物館での展示。

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101空挺師団を始めとして、空挺部隊でM3 105mm砲と共に愛用された、M1A1型75mm榴弾砲。
初採用は1920年代で、いくつかのコンポーネントに分解して荷役の動物が運べる様に設計されており、その後発展した空挺作戦では、砲を7つのコンポーネントに分けてC-47輸送機の胴体下ラックに取り付け、パラシュート投下することが出来た。
射程約9km
写真の2門は1942年製で、めぐり巡ってタイ空軍博物館に置かれている。

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バストーニュの中央にある広場前にて。

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ベルギー米国協会が建てたマーダソン記念碑。
50 00 34 N 5 44 20 E

コンゴ女性とベルギー人男性との混血、アガスタ シーウィーは、生誕地コンゴからベルギーに渡り、看護婦になった。
1944年12月16日、ブリュッセルから父親の住むバストーニュへ行く列車に乗った。
ナミュールで列車の運行が停止され、トラック、ジープ、バス、自転車、徒歩で父親の住むバストーニュに到着し、クリスマスを過ごそうとしていた。

同じくブリュッセルで看護婦をしている、バストーニュ生まれのレニー ルメールも帰省していた。

ドイツ軍がバストーニュへの攻撃を開始すると、二人は街中にある第10機甲師団第20機甲歩兵連隊の救護所
50 00 0 N 5 42 52 E
でボランティアをした。

アガスタは、軍医プライヤー大尉の運転する2 1/2トラックで前線への「往診」に同行し、アソンの丘(現マーダソン記念碑がある場所)で敵弾の飛び交う中、負傷兵を手当てをした。

「バストーニュの天使」レニーは、24日夜のドイツ軍の空爆で診療所が崩れ、米兵34名と共に死亡した(30歳)。
アガスタとプライヤー大尉はかろうじて難を逃れ、ハインツバラックスの第101空挺師団の診療所に移った。

プライヤーは大佐で予備役を退役し病理学の医師となった。2007年没(90歳)。

アガスタは2011年になってベルギー、米陸軍から勲章を授かり、バストーニュの名誉市民となる。2015年没(94歳)。
レニーとアガスタ(アンナという名になっている)はHBO製作のミニシリーズ「バンドオブブラザース」で登場する。
TVで出てくる救護所はバストーニュの大聖堂で、昼間砲撃されるという設定だが、実際には上記の通り。

アガスタとプライヤーの話は、エミー賞に輝くドキュメンタリー映画Searching for Augusta The Forgotten Angel of Bastogne(2014年)で彼女の経歴が紹介されると共に、歴史研究家のマーチンキングが本人を探し出すまでが描かれており、戦史研究プロの手法が見られて興味深い。

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TVのミニシリーズ「バンドオブブラザース」でお馴染み、米陸軍 第101空挺師団 第506空挺連隊 第2大隊 E中隊がいたフォ南の森。タコツボの跡が今も残る。
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第101空挺師団の下には空挺降下歩兵連隊3個(501PIR,502PIR,506PIR)と、グライダー歩兵連隊1個(327GIR)があり、順にトランプのダイヤ、ハート、スペード、クラブの印をヘルメットに描いていた。
バストーニュの中心部でパレードの準備のため待機する506PIRのコスプレ集団。
バストーニュに来る前、フランスに駐留していた第101空挺師団は冬季迷彩の用意が不足しており、バストーニュと周囲の民家からシーツをもらい雪原のカモフラージュにしたという。

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1944年12月22日の1130頃、停戦・降伏勧告の使者であるドイツ兵4名が、白旗を掲げてルムワフォッスからバストーニュ中心部に向かうこの道を徒歩で北上(手前から奥)していた。
49 57 59 N 5 42 57 E

第47装甲軍団付のヴァーグナー少佐と、装甲教導師団のヘンケ少尉、及び付き添いの兵2名である。
米軍第101空挺師団第327グライダー連隊のF中隊が彼らに気付いた。

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米兵はドイツ兵の交渉団を、F中隊隷下の武器小隊が司令部として使っている農家に連れて行った。
49 58 46 N 5 43 17 E
それからドイツ将校2名に目隠しをしてF中隊の司令部に向かった。
中隊長のアダムス大尉は、降伏勧告団と文書が来たことを大隊に報告、大隊は連隊に報告し、連隊が師団に連絡した(大会社みたいだ...)。

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ドイツ軍からの降伏勧告書は、第101空挺師団司令部のあるハインツバラックスに届けられた。
50 00 30 N 5 43 07 E

文書はドイツ語、英語の2通あった。以下その内容:

1944年12月22日付
包囲されたバストーニュ町のアメリカ軍司令官へ
形勢は変わりました。
今回、バストーニュとその近辺で、アメリカ軍は強力なドイツの装甲軍に包囲されました。
より沢山の装甲軍がオルトゥーヴィル近郊でウルト川を渡り、マルシェを確保し(注:マルシェはアルデンヌ攻勢中始終米軍の手中にあり)、オンプレを経由してサン テュベールに到達しています。
リブラモンはドイツの支配下です。
取り囲まれたアメリカ軍の全滅を避ける方法は唯一、包囲された町の名誉ある降伏だけです。
この書面提示から2時間の間、考える時間をあげます。
この提案を拒否するなら、砲兵1個軍、対空砲6個大隊がバストーニュとその近郊でアメリカ兵を殲滅させます。
2時間が過ぎた直後に砲撃命令が下ります。
この砲撃で民間人に多大な犠牲が出れば、有名なアメリカの人道主義に反するでしょう。
ドイツ軍指令官より。

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バストーニュの広場に建つ、第101空挺師団の師団長代理、マッコーリフ准将の胸像。
50 00 03 N 5 42 55 E

マッコーリフ准将は参謀達と一緒だった。
「何て書いてあるんだ?」
「降伏の要求です」
笑いながら准将は「馬鹿な(Nuts)」と言った。実はNutsは彼の口癖だったらしい。
それからしばらく、鉛筆を片手に考え込んだ。
文書で要求が来ているので、ちゃんと返事しなければいけない(ビジネスの基本です)。
「何て返事すりゃいいんだ?」
参謀の大佐が提案する。
「やっぱ准将が最初に言おっしゃったやつ。鉄板でしょう。」
「ん?何って言ったっけ...」
「馬鹿な、ですよ」
参謀は皆大喜びで賛成し、返事はNutsに決まった。

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Nutsは木の実の複数形である。ピーナッツ、カシューナッツ、ココナッツ、マカダミアナッツ、など。
写真のミックスナッツだと、英語ではmixed nutsと呼ぶ。
フツーの英語を話したい、上品に振る舞いたい、ガイジンとケンカしたくないという人はこれだけ覚えていれば充分だろう。

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ココナッツ満載。
クソ寒い冬季アルデンヌ地方の写真ばかりだと凍えそうなので、たまにはカンボジアの写真を。

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私の場合、機械の設計が仕事なので、Nutsといえば雌ねじの切ってある締結用部品、ナットがまずは頭に浮かぶ。単数形はNut。
雄ネジのボルトとペアで使うもので、JIS等で規格化されている。
アメリカで仕事をしていた時は取引先がインチ系列のネジばかり指定するので困った。
お前ら、アメリカファーストでアメリカ=グローバルスタンダードだと思ってるだろ...
nuts and boltsで物事の基本、という意味になる。

さて、以上はNutsの真面目な使い方。

Nutsはスラングとして、ふざけんな、馬鹿な、アホかいな、ウソだろといった意味がある。
This is nuts! といえばこりゃ馬鹿げている、といったニュアンス。准将の反応はまさにこれ。
キ○ガイ、頭がおかしいといった意味にもなり、
He must be nuts!で彼はどうかしてるんじゃないか、という意味。
ちなみに、本当に精神を病んでいる方はNutsとはいわない。
キチ○イが転じて、夢中とかマニアという意味にも使える。
He is nuts about battlefields 彼は戦場オタクだ
She is nuts about nuts 彼女は木の実に目が無い
この場合Crazyと概ね同じニュアンスである。
nutではなくnutsと複数形にしないと上記スラングの意味にはならない。
He is a nutだと文法的には正しくても「彼は木の実」で意味不明。
何で複数形なのか、というと、隠語でNutsはキン○マの事だから...

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参考:犬のキンタ○。
巨漢で有名だったLBJことジョンソン大統領の伝記映画「LBJケネディの遺志を継いだ男」(2016年:日本人並みの根回しには涙が出ますが、もうちょっと暗黒の部分も描いてほしかった)で始まってから7分15秒当たり、スーツのズボンがキツイので仕立て直しを頼む時のセリフは
Give me another couple of inches from where my nuts hang down round to the back of my bunghole
nutsはキ〇タマ、bungholeは尻の穴。いやぁ、ハリウッド映画はスラングの勉強になるなぁ。

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バストーニュの広場に面した「喫茶食堂 ザ キンタ○マ」
50 00 04 N 5 42 56 E
っていうか、Nut'sじゃなくてNUTSなんだけど。
その左のネオン文字は、見にくいけどBrasserieでフランス語で酒場食堂。英語でいうパブですな。
右側Bofferdingはルクセンブルグのビール。その下のHoegaardenはベルギーのビール。
3階の窓には、小さいけど、「アパートの部屋貸します。問い合わせはNutsまで」、と張り紙がしてある。
電話して「あ、もしもし、部屋探してるんですけど、お宅ナッツですか?」→アメリカ人なら激怒。

マッコーリフ准将は、早速回答をタイプさせて封筒に入れ、第327グライダー連隊長のハーパー大佐に渡した。

ちなみにご丁寧にも全部大文字で、スペースを空けて N U T S ! としたらしい。
大文字で英文を打つのは特定の単語を強調する必要がある時使う。
文章全部大文字で打つと攻撃的な、失礼な文章とみなされるのでご注意。

ハーパー大佐は、F中隊の司令部に返事の入った封筒を持って向かった。
ドイツ将校2名は相変わらず目隠しされ、米兵に警備されていた。
「回答は?書面?口頭?」
「書面だ」ハーパー大佐は封筒を渡した。
ヴァーグナー少佐が優越感満々に「で、あんたら降伏するの?しないの?するんなら俺達が詳細を協議する権限あるけど、どうすんの?」と聞いてきた。
ハーパー大佐はドイツ軍の「降伏するっきゃないね」という態度に頭にきた。
「断然しない。馬鹿げた攻撃を続けるんだったら貴様らの損失は甚大なものになるぞ」
大佐はドイツ将校2名をジープに乗せて、最初に米軍と接触した道路まで送った。
目隠しを外したドイツ将校達に「回答のNutsの意味が判らないかもしれないが、地獄に落ちろという事だ。もう一言いっておく、このまま攻撃を続けるなら、わが軍は町に侵入するドイツ野郎を皆殺しにする。」と伝えた。
ヘンケ少尉はドイツ語に訳してヴァーグナー少佐に伝えた。二人とも顔が真っ赤になった。
ハーパー大佐に敬礼し、「これは戦争だ。アメリカ兵を沢山殺すことになる。」と少尉が捨てゼリフを吐いた。
時間は1350になっていた。
ハーパー大佐は敬礼を返し、「さあ、もう帰ってくれ」とドイツ将校達を送り出しながら、うっかり口を滑らせてしまった。
「頑張ってな!」(Good Luck to You)



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