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アルデンヌの戦い〜ミューズ川への進撃〜
Battle of Ardennes - Advance to Meuse River


アメリカ軍がサン ヴィット、バストーニュで粘りドイツ軍の進撃を遅らせることに成功していたが、この2箇所の間をすり抜けて西進しているドイツ軍の部隊があった。
時間が命のアルデンヌ攻勢。ドイツ軍はミューズ川に到達し、渡河し、アントワープにたどり着けるのか、連合軍はすばやく防衛線を築いてドイツ軍の進撃を止められるのか?

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バルジの先端となるフォアノートルダムまでの地図。クリックで拡大。


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バストーニュの北にあるウーファリーズ。1944年12月19日にドイツ軍の第116装甲師団が無血で確保した。
以降、1945年1月18日にアメリカ軍の第2機甲師団が奪還するまでドイツ軍支配下にあった。

第116装甲師団所属のパンサー戦車G型(元々は111号と言われる)は、ウーファリーズからラ ロッシュ方向へ向かう橋(50 07 52 N 5 47 18 E)で、運転を誤ったのか、或いは爆風に煽られたのか、川に天地逆に転落してしまった。
乗員全員、転落の衝撃あるいは溺れて死亡した。
戦後引き揚げられて遺体は回収、戦車は街中に展示されている(2017年現在レストア中とのこと)。
50 07 44 N 5 47 27 E

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バラック デ フレテュールの十字路。
50 14 58 N 5 44 15 E

ここを通る南北にバストーニュとリエージュを結ぶ道は当時も舗装された幹線道路であった。(現在はすぐ近くに高速道路のインターが出来ている。その位重要な位置と言える)
東西の道は地方道だがウルト川の北側を東西に移動するのに便利な道である。
1944年12月19日の午後、パーカー少佐率いる第589野砲大隊(第106歩兵師団隷下)の生き残り100名と105mm榴弾砲3門が共にシュネーアイフェルから撤退、サン ヴィット経由で移動して、この交差点の守りについた。
次の日には第7機甲師団の第203高射砲大隊所属の、12.7mm連装砲または37mm砲を搭載したハーフトラック4輌の増援があった。

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十字路の北側にある、第589野砲大隊が司令部として使っていた1880年に建てられた旅館Auberage du Carrefour(交差点旅館)は戦闘で破壊され、再建された。
クリスマスの時期なので、プレゼントを届けようと壁を登るサンタクロースの人形がいる。
Diekirchはルクセンブルグの町の名を取ったビール。
いいのか、ビールの本場ベルギーでルクセンブルグのビールなんか売って?愛知県でスバル車販売する様なもんだろ...

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20日の夜明け前、80名程からなるドイツ軍第560国民擲弾兵のパトロール隊が南東(記念碑前の大砲が向いている方向)から近づいてきたので、これを撃破した。
写真はドイツ軍が攻めてきた方向を見る。
敵の中には、SS第2装甲師団の偵察員が混ざっていた。
本来ここはドイツ軍第5装甲軍の進軍予定地だが、SS第6装甲軍の西進を支援する為隷下のSS第2装甲師団がこの付近からの北進を試みようとしていた。
SS第2装甲師団はこの交差点への攻撃を予定していたが燃料が足りず動けないでいたのだ。
この日の午後から22日早朝にかけて、米軍は更に増援を受ける。
交差点の回りを囲むようにライフル歩兵、機銃、榴弾砲、軽戦車、自走対空砲を配置した。

22日夜、パーカー少佐は迫撃砲弾で重傷を負い後方に送られ、同隊のゴールドスタイン少佐が引き継いだ。
充分な燃料を受領したSS第2装甲師団は22日夜から23日未明にかけて移動し交差点を包囲するポジションを確立した。
23日の夜明け前に交差点を軽く攻めたが、すぐに撤退した。
(第560国民擲弾兵の本隊は西に向かったのでもうここは攻めてこなかった)
23日の午後、ドイツ軍は本格的な攻撃を仕掛けてきた。4号戦車、突撃砲を伴い交差点を四方から攻撃し、米軍が砲撃により撃退しようとすると、ドイツ軍は鹵獲した無線機を使って通信を妨害した。また、通信で砲撃要請が流れると、ドイツ軍はそれを傍受して直ちに米軍の砲撃観測所近辺に砲弾を撃ち込み、着弾観測が出来ないようにした。
23日夜、ドイツ軍のSS第2装甲師団が交差点をついに制圧した。アメリカ兵は出来るだけ粘ったが最後は囲まれてしまい、交差点に配備された116名中44名は何とか脱出して味方戦線に辿り着き、残りは戦死または捕虜となった。
しかし、この交差点での抵抗により、後方(北)で第82空挺師団、第75歩兵師団、第3機甲師団、第7機甲師団が防衛線を張るための貴重な時間を稼いだ。

このバラック デ フレテュールの十字路は、指揮官の名前を取って米兵から「パーカーの交差点」と呼ばれたが、これはアメリカ合衆国本国にある古戦場へのオマージュでもある。
南北戦争中の1862年12月、フォレスト将軍率いる南部連合軍の騎兵隊は、テネシー州西部に於ける北軍の補給線を襲撃していた。
1862年12月31日の朝、フォレスト准将率いる1500名の騎兵、砲兵がパーカーの交差点(パーカーズクロスローズ)に近づき、前方(南)の北軍と交戦する。デュナム大佐率いる旅団であった。
パーカーの騎兵隊は馬を降り、北軍を左右から挟み撃ちにし、更に砲兵も攻撃に加わり午後にかけ優勢であった。
と、その時後方(北)から別の北軍(フラー大佐の旅団)が襲いかかってきたのだ。馬を押さえていた兵はパニックになり逃げ出してしまった。
挟まれたフォレストは「両方向に突撃せよ」と命令を出し、兵300名が捕虜になったものの挟み撃ちを脱することが出来た。
米国にある「元祖」パーカーの交差点は 35 47 32 N 88 23 16 W
いつか訪問してみたいものです。 出張に行ったときに訪問しました。
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おまけ。元祖・パーカーズクロスローズ古戦場のビジターセンター。

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パーカーの交差点(バラック デ フレテュール)から北西6kmにあるマネの村の5差路。
バストーニュとリエージュを結ぶ幹線道路が通り、西はこれまた交通の要衝であるオットンに通じている。
50 17 33 N 5 40 32 E

1944年12月24日クリスマスイブ、モンゴメリー元帥は命令を出し、米軍の長い戦線を短くする為にトロワポン〜ヴォー シャヴァンニュ〜グランムニルを結ぶ直線まで後退することになり、この日の夜、ここも退却する米軍であふれていた。
同じ頃、ドイツ軍のSS第2装甲師団は、前日確保したパーカーの交差点経由で、オデーニュ近辺から北上を開始し、撤退する米軍を次々と制圧しながらマネの村に近づいた。
米軍は交差点に戦車2輌を配置してドイツ軍の追撃を食い止めようとしたが、その時ドイツ軍のパンサー戦車が交差点に猛ダッシュしてきた。
バルグマン曹長の401号車である。かれは中隊の他のパンサー戦車の仲間とはぐれた、と勘違いしてトップスピードで前進していたのだが、結果として一番乗りでマネの交差点に突入してしまい、周囲が米軍だらけなのに気付き、そのまま幹線道路を猛スピードで北上(画面右から左)し、村を抜けると森に隠れた。
無論、ノルマンディの「バルクマンの曲がり角」で敵戦車多数を撃破して騎士鉄十字章を授かっているバルクマンの事である、今回もマネの村を通り抜けながら、バックで逃げるジープをキャタピラで踏み潰し、停車しているシャーマンにぶつかり、煙幕を張って脱出、追撃するシャーマン戦車を返り討ちにしている。
後続のパンサー戦車が歩兵を引き連れてマネの村を襲撃している。
アメリカ軍にはパニックが広がった。「タイガー戦車だ!」
この地域にはタイガーはいない。アメリカ兵にとって、全ての大日本帝国の戦闘機が「ゼロ」であるのと同様に、全てのドイツ軍戦車・突撃砲は「タイガータンク」なのだ。

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アメリカ軍は村を拠点にドイツ軍を足止めしようとしたが結局は撤退を余儀なくされ、マネの村はドイツ軍の手に落ちた。
村の北の森に隠れていたバルクマン軍曹は、村から敗走する米軍車輌を攻撃し、仲間と合流できた。
しかしその後27日に米軍は村の奪還に成功する。
写真はマネの村役場でガラスは割れたものの建物自体は無事だった模様。
50 17 28 N 5 40 32 E
24日夜から25日にかけての戦闘、及びその後奪還の為の米軍砲撃で、村はすっかり破壊されてしまった。

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アメリカ軍はマネの村の北で守りを固め、マネを制圧したドイツ軍はこれとの交戦を避けてマネの5差路を西へ進んだ。
西に進撃することにより、後述の国防軍第2装甲師団を攻撃している米軍に圧力をかける新たな狙いがあった。
ドイツ軍SS第2装甲師団はマネの西隣にあるグランムニルの集落を25日に制圧した。
更にエレーゼ方向に3km程西進したが、斜面沿いの細い道で米軍のバズーカが先頭のパンサー戦車を撃破し、後続車が通れない為進撃は頓挫し、ドイツ軍はグランムニルに戻った。
ドイツ軍のパンサー戦車は、米軍に破壊されたのか、或いは泥濘にはまったのか、マネからグランムニルにかけての道路沿いで多数放棄されている。
その内の1輌(パンサーG型 407号)が畑から回収されて、現在グランムニルの集落に展示されている。キャタピラは切れ、一部の転輪やマズルブレーキ、片方の排気管は失われているが、アルデンヌの古戦場で屋外展示されている3輌の中では一番状態がよい。トランスミッション、ギアボックス、エンジンも残っている。
50 17 26 N 5 39 37 E

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グランムニル奪還の為編成された、第3機甲師団の歩兵及び戦車各1個中隊からなるタスクフォース マックジョージの隊列が、ラグレース地区を出発して、25日の午後、グランムニルの西の森に終結していた。
これを、第7機甲師団の支援をしていた米第430飛行中隊のP-38×11機が誤爆し、将校3名と兵36名が死亡した。
写真はアメリカの航空ショーで撮影したP-38J。
P-38は山本五十六搭乗の1式陸上攻撃機を撃墜(6 47 10 S 155 33 08 E)したことでも有名(撃墜したのはP-38G型)。
また、フランス人作家サン テグジュペリが行方不明になった時の乗機は偵察型のF-5B。

26日には米軍が反撃を開始し、グランムニルとマネから27日の早い時間帯にドイツ軍は撤退した。以降、この地域でのSS第2装甲師団の進撃は無かった。

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第517パラシュート連隊の第1大隊は、アルデンヌ攻勢が始まると12月18日に出撃命令が下り、ナミュール経由でウェルボモン近郊に22日0000集合した。
22日の1600に、ソの北2kmの北で前線配備についた。
彼らの任務はソとオットンの間に防衛線を張ることである。
たちまちドイツ軍の第116装甲師団と交戦になり、膠着した。
同日夜から23日未明にかけて、第116装甲師団は第560国民擲弾兵師団と交代し、前者は南下してラ ロッシュでウルト川を渡った。
装甲師団であろうと国民擲弾兵であろうと手強い敵に変わりなかった。
アメリカ軍はソの村とオットンの町を押さえたものの、その間の街道はドイツ軍の陣地だった。
特に地元民はカトルブラ(4差路)と呼んでいたHaid-Hitsの交差点はドイツ軍が頑強に保持した。
23日の夜明けに米軍は再度この交差点を攻めたが敵の機銃と迫撃砲に押し戻された。
体制を建て直し、戦車9輌(シャーマン5、スチュワート4)の増援を得て、1215に攻撃を再開したが、たちまち戦車4輌が撃破されてしまった。戦車はソに戻った。
戦闘は夜通し続き、米軍はじわりじわりと前進した。
敵陣のドイツ兵が英語で叫んだのが聞こえた。「アメ公!メリークリスマス!」
(これが本当の戦場のメリークリスマスだ!ちなみに同名映画はクソつまらない)
犠牲者を出しながら米軍は交差点を24日朝までに制圧した。
写真はソ町外れの交差点脇にある、第517パラシュート連隊第1大隊の記念碑
50 16 44 N 5 29 12 E

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24日の午前中に米軍は再びシャーマン戦車2輌の増援を得て、交差点から西進して、途中突撃砲2輌を撃退し、ソからオットンまでの道を確保した。
写真は交差点からオットン方向に向かう道。森の中にドイツ軍は兵、機銃陣地、突撃砲等を配備してアメリカ軍を待ち構えていた。

B中隊のビドル一等兵はこの戦闘で名誉勲章を受章した。
以下表彰文より(カッコは管理人注釈):、

1944年12月23日及び24日、ベルギーのソ近郊での敵に対し極めて大胆かつ勇敢な行動をとった。
敵に包囲されたオットンの町を救う為の攻撃において偵察リーダーを務めていた。
木が深く茂る地域を積極的に突破し、400ヤード(約400m)進んだところで激しい敵の小銃弾にさらされた。
敵から20ヤード(約20m)の距離で的確な射撃により狙撃兵3名を殺した。
果敢にも更に200ヤード(約200m)前進したところで敵の機銃を見つけ、そこの2名を処置した。
次に上手く隠されていた敵機銃陣地のおおよその場所を確認し、匍匐で進むと手りゅう弾を投げ込みドイツ兵2名を殺し、1名に重傷を負わせた。
所属中隊に前進するよう合図した後、敵の強固な防衛線に差し掛かったので、冷静かつ計画的に場所を移動し、敵兵3名を撃った。
敵の砲火にひるまず、機銃陣地の20ヤード(約20m)まで接近すると、手持ち最後の手りゅう弾を投げ込み、それが爆発するとライフル(ちなみにM1カービン)を発砲しながら陣地に突撃した。(この時機銃手と助手を殺したが、弾薬手には逃げられた)
(この後他の偵察員3名を引き連れて敵戦車(突撃砲)の位置を探りに出かけたが、激しい砲火に合い他の偵察員を返して単独で偵察に出た)
(23日から24日にかけての)夜には、数時間をかけて単独で敵の位置を偵察確認した。
(この時敵の歩哨から声をかけられ、ドイツ語での返答が出来ず銃撃されている。また、敵パトロールから隠れている時、敵兵に手を踏まれるという経験もしている)
持ち帰った貴重な情報により味方の歩兵と戦車が敵戦車(多分突撃砲の事)2輌を撃破できた。
夜明けには再び進撃の先頭に立ち、側面の味方が敵砲火により身動き取れなくなると躊躇せずに敵機銃陣地に近づき、50ヤード(約50m)の距離から機銃手(2名)と援護の小銃手2名を殺した。残存する敵兵は自動火器の援護を失ったのでパニックとなり逃げた。
20時間に渡るビドル一等兵の大胆・勇猛果敢な行動により、味方大隊の損害を最小に留めつつ、敵のオットン制圧を挫かせることが出来た。

いやぁ、何がスゴいって、これだけ何度も交戦して、敵の弾が当たらないのがスゴい。
TVのサンダース軍曹みたいな人が本当にいるんですねぇ。
あ、M-1カービン持ってるからヘンリー少尉か。

アルデンヌ攻勢が始まった66年後の2010年12月16日に心臓発作で死去、87歳。
現在Youtubeで生前の本人のインタビューが見られます。

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オットンの町と、ウルト川にかかる橋。写真奥が東岸。
50 16 05 N 5 26 49 E
当時ここには2車線の木造の橋が架けられていた。
米軍は橋に爆薬を仕掛け、いざとなれば爆破できるようにしていた。
1944年12月21日0730頃橋周辺を守る米軍第3機甲師団をドイツ軍の第116装甲師団が西岸、東岸から攻撃した(西岸の兵は2km程上流のアンプトーでウルト川を東から西に渡っていた)。
ドイツ軍のパンサー戦車と米軍のシャーマン戦車、M10駆逐戦車との間で交戦となり、ドイツ軍は橋に迫ったが確保は出来なかった。
同日午後遅くにドイツ軍は橋に近づき爆破装置への配線を破損することに成功するが、米工兵は凍てつく水に胸まで浸かりながらワイヤーをつなぎ直した。
結局マルシェから第84歩兵師団の援軍が到着し、橋は爆破せずに済んでいる。

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オットンの橋の横、オルト川東岸の駐車場で見かけた米軍車輌。
いずれもベルギーの現役のナンバープレート付で公道を走れる。
前日のバルジの戦い記念パレードに参加した車輌だろう。
左からGMC CCKW 2 1/2トン トラックで機銃リング付、ウィリス MB ジープ 2輌、ダッジ WC53 キャリーオール

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オットンの川沿いの町。
画面中央奥に少しだけ映っている白い建物が、12月20日以降米軍第3機甲師団が前線司令部として使っていたオテル デ ウルト
50 16 09 N 5 26 43 E

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マルシェにて、第84歩兵師団駐留の50周年記念碑
50 13 48 N 5 20 51 E
ウファリーズから西進してきたドイツ軍第116装甲師団は、ソ〜オットンにかけての進撃を第560国民国民擲弾兵に12月23日朝までに引渡し、オットンの南西・マルシェの南東にあるグランビエモンに集合した。
ドイツ軍の偵察情報によると、米軍は周辺の防衛を強化しているとのことで、実際、米軍第84歩兵師団が新たに投入され、オットン〜マルシェ間の街道の南で守備を固めつつあった。
同日夜、ドイツ軍はこの戦線をヴェルデンヌ付近で攻撃し、夜遅く前線突破に成功、街道に近づいた。
24日には激戦の末ヴェルデンヌの村を確保したが、予備兵力や戦車で増援された米軍により25日に奪還され、バイヤー戦闘団の一部である戦車5輌と擲弾兵2個中隊が包囲されてしまった(26日に脱出成功)。
ドイツ軍には総統護衛旅団の援軍が25日に到着したが、翌日にはバストーニュ方面に回されてしまい、ドイツ軍は結局街道を押さえることも、交通の要衝であるマルシェの町を占領するとも出来なかった。

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ロッシュフォールの中心部
50 09 33 N 5 13 24 E
1944年12月24日0200頃、ドイツ軍の装甲教導師団がこの町を攻撃した。
守るのは第84歩兵師団の第333連隊で、この町中心の建物の周りに57mm対戦車砲や重機関銃を配置した。
1300頃、師団本部から撤退命令が届いた。
ドイツ軍は町中心部とそこを通り抜ける幹線道路の確保しか眼中に無く、1800に米軍は煙幕を張りながら何とか西と北に逃げた。

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ドイツ国防軍第2装甲師団は、12月22日にオルトゥーヴィルでウルト川の西岸に渡り、バリエール ド シャンプロンに前線司令部を移した。
その後北上してマルシェ〜ロシュフォール間のアルジモンとの村と幹線道路を押さえたが、マルシェを攻略する余力は無かったので、第116装甲師団が攻撃に参加するのを待った。(前述の通りドイツ軍は結局マルシェを確保できなかった訳だが)
その間、戦車を伴う偵察隊であるフォン ベーム戦闘団を西に送り、この戦闘団は12月23日の真夜中、フォア ノートル ダムにたどり着いた。
一方、それに先立つ12月23日の午後、西進するフォン ベーム戦闘団を支援する為フォン コッヘンハウゼン戦闘団を後続として送った。
1944年12月24日早朝、フォン コッヘンハウゼン戦闘団の先頭に立ってフォア ノートル ダム方面に向かっていたこのパンサーG型戦車は、途中のセルにて地雷を踏んでしまった。
50 13 55 N 5 00 16 E
アルデンヌの古戦場に屋外展示されているパンサー戦車3輌の中では最悪の状態で、部品の欠損が激しく、転輪は両側全て失われているが、これはこれでトーションバーサスペンションの取り付け周りが直接見られて面白い。組立途中のプラモみたいだ。

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ドイツ軍のまとまった部隊が最もミューズ川に近づいた地点であるフォア ノートル ダムの集落。
50 14 49 N 4 59 23 E

前述の通り1944年12月23日の真夜中にドイツ国防軍第2装甲師団隷下フォンベーム戦闘団の先鋒が到着し、続いて同戦闘団本隊が到着した。
更に後続のフォン コッヘンハウゼン戦闘団が23日の午後出発、右翼から米軍の妨害を受けながら同日の真夜中にフォンベーム戦闘団に追い付き、主にセルからコヌーにかけての近辺に集まった。
2つの勢力を合わせるとパンサー戦車48輌、自走砲16輌、ハーフトラック46輌、プーマ装甲車14輌、歩兵約3000名、工兵1個中隊、高射砲隊となるが、恐らくこれはアルデンヌ攻勢開始時のもので、フォア ノートルダム近辺に来たときには相当に消耗していたと思われる。また、鹵獲した米軍車輌を相当数使っていたことが判っている。
彼らは翌日の24日にディナンの南アンスレムあたりで川を渡ろうとしていたらしい。
23日の夜、地元出身のベルギー軍将校2名が白装束に身を包み、7時間に渡り付近のドイツ軍の正確な位置を確認し、ソランヌの英軍に通知した。
この情報を元に24日から英軍が砲撃を開始、また、同日、米軍第2機甲師団のコンバットコマンドAがアイッドから南下したためドイツ軍の第2装甲師団本隊から2つの戦闘団が孤立してしまった。
この時ビュイッソンヴィルの集落を占領したばかりの米軍は、ドイツ軍に間違えられて味方のP-38から攻撃を受けている(またP-38かよ...)
更に米英双方のヤーボの支援を受けた米、英の地上軍が2日間の攻撃でドイツ軍を殲滅しにかかった。
フォア ノートルダム周りのフォン ベーム戦闘団は、25日に指揮官のフォン ベーム大尉を含む約150名が降伏し、脱出できたのはわずかだった。
この頃にはドイツ軍第2装甲師団には同第9装甲師団が追い着き、余裕の出た前者は26日、包囲されているフォン コッヘンハウゼン戦闘団の救出に向かったが米・英の空及び地上からの攻撃を受け、1600頃ロシュフォールに戻るよう命令が出て、同日中に撤退を完了した。
一方、セルからコヌーにかけての、いわゆるコヌーポケットに包囲されているフォン コッヘンハウゼン戦闘団は、最終的にフォン コッヘンハウゼン少佐を含む約800名が翌27日までに脱出し、本隊との合流に成功しているが、車輌や重火器の殆ど全てを失っている。

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ディナンの町の南端にある、ロシェバイヤールの切通し。ミューズ川東岸沿いにある。

ここを超えるとディナンの街中に入り、その先にミューズ川を渡る橋がある。
ディナンには英軍第29機甲旅団が配備されており、この切り通しの場所にて検問所を設けていた。

1944年12月23日の夜、ドイツ軍の軍服の上にアメリカ軍のコートを着用したドイツ兵3名が、鹵獲したアメリカ軍のジープに乗って、手前から奥に向かって走りここに近づいてきた。

有名なオットー・スコルツェニー中佐が指揮するグライフ作戦に従事するSS第150装甲旅団のSS兵士なのか(それにしてはマルメディ方面を攻撃していたメインの旅団とは場所がかけ離れているが...)。

停止を命じた英兵を無視したため、英軍はこの先に仕掛けてある地雷を爆発させて、3名は死亡した。
彼らは、アルデンヌ攻勢中、最も西に進出したドイツ兵だった。
50 14 41 N 4 55 17 E

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おまけ。戦跡巡りの理想は、季節・天候・月日・時間を戦闘当時と合わせる事。
当時の兵士、関係者と同じ条件を体験できる。
無論夜間に郊外の戦跡を訪問しても何も見えないし(夜間でも見たければ満月を狙うしかない。ダムバスタースのメーネダムはこの要領で撮影した)、限られた日程で訪問するので日時が合うとは限らない。
上手く日時を合わせれば記念式典やパレードに巡り合うこもできてお徳なのだが、これはこれで見物客や来賓者が多くなって当時の空気や雰囲気というものは失われてしまうのだが。
この点、季節を合わせるのは比較的簡単である。アルデンヌ攻勢は12月〜1月にかけてなので基本的に冬に行けばいい。本サイトのアルデンヌ攻勢の戦跡の写真は一部を除くと真冬の撮影だ。
ただしさすがに天気はコントロールできず、アルデンヌの戦場巡りでは「当時は雪が積もっているはずなのに雪が無い」「本当は雪が積もる前なのに今は雪景色」といった事が結構あった。
いずれにせよ真冬のアルデンヌはクソ寒い。こんな時期に観光する馬鹿は少ない。
観光施設も閉まっているのが多い(冬のバルジを扱ったポトーの博物館も肝心の冬季は閉館しているのには呆れた)。
そんな中で立ち寄った、マルシェのレストランで食事。
これはさすがベルギーだけあって美味。
写真はデザートのブッシュドノエル。
ドイツ軍の反撃と同じく、クリスマスの時期限定。
冬のアルデンヌ観光も悪くない。



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