戦跡散歩Home

アルデンヌの戦い〜バストーニュ開放と連合軍反撃〜
Battle of Ardennes - Relief of Bastogne and Allied Counterattack


19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_27_s.png
バストーニュ近郊地図。クリックで拡大。


19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_01.jpg
バストーニュ包囲60周年にて、バストーニュ上空を飛行するC-47輸送機。
ノルマンディ上陸作戦時以降の連合軍機識別の為の、白黒のインベージョンストライプが見える。

1944年12月21日、アメリカ陸軍第101空挺師団が守るバストーニュはドイツ軍に包囲され、翌22日の「降伏しませんか?」のオファーには、師団指令代行のマッコーリフ准将が「馬鹿野郎」(Nuts)と返事した。

バストーニュを押さえていればドイツ軍の進撃を遅らせ、ある程度引き留めることが出来る。
しかし食料、弾薬、医薬品といった消耗品は補給が必要となる。包囲前の19日頃から陸路での補給が難しくなり、包囲されることを覚悟した101空挺師団は、20日に空からの物資補給を要請した。

しかし22日まで悪天候が続いており、飛行機は発進できなかった。

23日朝、天候回復と共にレーダービーコンを設置し、3波に分けてフランスおよび英国を離陸したC-47輸送機計264機の内、253機が投下地点上空に辿り付き計334トンの弾薬、糧食、医薬品を落下傘投下した。
ドイツ軍の対空砲火により6機が撃墜され、9機は緊急着陸を余技なくされた。

24日には英国からC-47約160機による補給が行われ、内1機が緊急着陸したのみの軽微な損害。

25日は英仏海峡悪天候で飛べず。唯一、L-5連絡機が志願した軍医と医療医薬品を乗せて包囲網内に着陸した。

26日には天候の回復を待って約290機が昼過ぎに英国を離陸、
1機は投下地点手前で対空砲火に被弾しクルーも負傷したが、目標地点で無事に物資を投下した後不時着し、クルーは全員連合軍に助けられた。
他に対空砲火にやられて緊急着陸を余技なくされたもの多数。
この日はグライダー降下も行われた。
計10機のワコCG-4Aグライダーに、ジェリカンに小分けしたガソリン計3000ガロン(11000リットル:日本の小型タンクローリー約2〜3台分)を搭載した。
C-47に曳航されてフランスのオルレアンを離陸したグライダーは、対空砲火を受けてジェリカンに穴があいたものもあったが、日没直後に全機無事に着陸、曳航していたC-47も全機無事に帰投した。
同日、C-47に曳航されてフランスのオルレアンを離陸したワコCG-4Aには軍医5名、衛生兵4名が搭乗していた。P-47の護衛を受けながら300フィートで切り離し、視界が良好ではなく1730、敵陣に着陸してしまったが味方が収容し、早速101空挺師団の病院に向かった。

このグライダーによる補給は27日にも行われた。
今度はグライダー50機という大規模なもので、グライダーパイロットが不足していたので、副操縦士無しでフランスのシャトーダンを離陸した。積荷は主に弾薬である。
この頃にはパットンの援軍が到着しバストーニュの包囲は解かれていたのだが、弾薬の補給は101空挺師団のみならず第4機甲師団も必要としていた。
しかし着陸地点近くでの敵対空砲火はすさまじく、曳航機C-47 50機の内14機が撃墜された(搭乗員戦死17名、負傷が元で死亡1名、捕虜21名、帰投したが負傷しているもの12名)。
グライダーは17機が墜落したり敵陣に着陸してしまった(パイロット戦死3、捕虜14名)。
グライダーに続いて、英国を離陸したC-47 129機による物資空挺補給が行われ、こちらは敵砲火による損失が無かった(ただし機材故障により1機が引き返し胴体着陸している)

これにてバストーニュへの空挺物資人員補充は完了。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_31.jpg
空からの物資補給を受ける第101空挺師団の様子を再現した等身大ジオラマ。
バストーニュヒストリカルセンターにて。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_11.jpg
1944年12月25日のクリスマスの日、ドイツ国防軍第26国民擲弾兵師団の一部と、第15装甲擲弾兵師団のマウケ戦闘団が、バストーニュ西から防衛網突破を試みた。
ドイツ軍は米軍 第101空挺師団 第327グライダー連隊 A,B中隊の防衛線を突破し、画面左から攻め込み、W号戦車18輌に擲弾兵を乗せて進撃してきた。
ドイツ軍はエメロユル〜シャンを結ぶ街道(写真の道。奥がシャン方向)に入ろうとした所、シャンの応援にかけつけた第101空挺師団 第502空挺歩兵連隊 B,C中隊と鉢合わせになる。
50 01 59 N 5 40 36 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_12.jpg
こちらはドイツ軍の視点。米軍第502空挺歩兵連隊に付随していた第705対戦車大隊のM18ヘルキャット駆逐戦車2輌との交戦で時間を稼ぐ間、米空挺歩兵は写真奥の森まで後退し、そこから別の駆逐戦車と共にドイツ軍に対しライフル、対戦車砲、バズーカを発砲し、ドイツ戦車にしがみついていたドイツ擲弾兵はばたばたと戦車から雪原に落ちた。
米野砲の砲撃とあわせて、ドイツ軍をエメロユルに到達する前に撃退した。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_02.jpg
パットン将軍率いる第3軍は、D-DAYに遅れて1944年8月にフランス上陸以降、破竹の勢いで東進していた。
アルデンヌ攻勢でのドイツ軍の攻撃は第3軍とは直面せず、この時点でパットンはザール地方への攻撃を準備していた。
12月18日、パットンはルクセンブルグにある第12軍集団指令部を訪問し、そこでドイツ軍の大反撃が思いの他大規模で、このままでは第3軍の左翼を担う第1軍がかなりヤバイ事になるかもしれない、と初めて知る。
12月19日、連合軍総司令官のアイゼンハワー元帥はパリを出発し、第一次世界大戦の古戦場ヴェルダンに向かい米軍指揮官たちとの会談に臨んだ。
「バカ共をパリまで進撃させてから後方を遮断してズタズタにしてやろう」パットン将軍が過激な発言をした。
その場の雰囲気が和らいだ。
アイゼンハワーは真面目に話しをした。
「敵にミューズ川は渡らせない。ホッジス将軍の置かれた状況では、大規模な側面攻撃をしない限り第一軍は敗走してしまう」
アイゼンハワー:「ジョージ(パットンの名前)、いつルクセンブルグに行って指揮できるか?」
パットン:「今から」
アイゼンハワー:「今日にもできるというのか?」
パットン:「この会議が終わったらすぐに。」
アイゼンハワー:「いつから攻撃を開始できるか?」
パットン:「48時間後に」
アイゼンハワー「いや、現実的に…」
第3軍は攻撃の方向を左に90度転換する必要がある。
パットン:「日付はどうでもいい、とにかく間に合うようにしますよ」
パットンは地図を指しながら、今度はブラッドレーに向かって言った。
「今回、ドイツ野郎は挽肉器の中に頭を突っ込んできた。そしてハンドルはこっちが握ってる、って事だ。」
アイゼンハワーは命令を下した。22日から23日の間に北への攻撃を開始せよ、と。
パットンは会議に出席する前、軍参謀に、北への攻撃方向変換計画を立案して準備するよう命じていたのだった。
その日の真夜中、第3軍隷下の第4機甲師団はロンウィーに、第80歩兵師団はルクセンブルグ市に向け進撃を開始した。
写真はバストーニュにあるパットン広場のレリーフ。
49 59 53 N 5 42 59 E
尚、ヘルメットに大将を示す4つ星だがあるが、パットンが大将に昇進したのは1945年4月14日の事で、アルデンヌ攻勢の時点でパットンは中将(3つ星)だった。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_06.jpg
第3軍は22日の朝、3個師団(第4機甲師団、第25歩兵師団、第80歩兵師団)をもって攻撃の進路を北に転進させ、「バルジ」の南側から制圧を開始すると共に、包囲された交通の要衝、バストーニュ開放に向け進撃した。軍団規模がその攻撃の方向を一気に変えるのは一大事で困難を伴うが、何とかそれをやってのけた。
1944年12月26日の1500に、第4機甲師団第37戦車大隊長のエイブラムス中佐(後に大将となる。現行のM1戦車でお馴染み)と、第54機甲歩兵大隊長のラクエス中佐は写真のクロッシーモン南の交差点近くに到着し、次の行動を検討していた。
49 56 50 N 5 39 50 E
(ちなみに写真左の記念碑は第一次世界大戦のベルギー軍犠牲者追悼のもの)
と、その時、上空をC-47の編隊が通過し、バストーニュ上空で、物資を投下するのが見えた。
あの下に味方の勇敢な兵が包囲されている....
エイブラムス中佐は、写真右奥方向、標識が示すクロッシーモン、アセノワ方向に敵陣突破してバストーニュに到達しようと提案し、ラクエス中佐も同意した。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_07.jpg
進撃開始、クロッシーモンの集落は難なく通過した。
49 57 00 N 5 39 55 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_08.jpg
アセノワの村にはドイツ軍が守りを固めていた。砲撃により敵兵、敵対戦車砲を撃破し、米軍の戦車と歩兵が村に入った。
49 57 48 N 5 40 43 E
しかし連絡の不備か味方の砲撃が止んでおらず、米軍歩兵はあわてて建物の影に隠れた。
村に残っている敵兵(第5降下猟兵師団と第26国民擲弾兵の混成)と米兵との間で交戦となり、それを横目に米軍戦車は村を抜けてバストニュー方面に進んだ。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_09.jpg
19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_10.jpg
このトーチカは1935年に建造されたもので、ベルギーの国防大臣を戦前2期(1920〜23年、1932〜36年)務めた政治家、ドゥヴェーズの名前が付けられていた(戦後1949〜50年にも国防大臣)
49 59 04 N 5 42 00 E

1944年12月26日夕方、アセノワから米第4機甲師団第37戦車大隊のシャーマン戦車5輌とハーフトラック1輌が北上した。
途中、ハーフトラックはドイツ軍のテラー地雷(円盤形対戦車地雷)にやられてしまい、シャーマン戦車だけがこのトーチカに近づいてきた。
1650に、シャーマン戦車の隊長ボッゲス中尉は、このトーチカを攻撃する準備をしている兵を見つけた。
トーチカはドイツ軍が占拠しており、トーチカを攻撃しようとしていたのは近辺の守りについていた、米軍第101空挺師団第326空挺工兵大隊の兵だった。
戦車砲を3発トーチカに撃ち込むと、たちまちドイツ軍は降伏した。
これにて、米軍の第3軍と、第101空挺師団が合流に成功し、バストーニュの包囲が解かれた。
1700過ぎには早くもマッコーリフ准将がやってきて、エイブラムス中佐と握手している。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_25.jpg
フランスのユタビーチから、概ね米軍第3軍の進撃路に沿って1km毎に1146個置かれているマイルマーカー。
最終地点がここベルギーのバストーニュ。
50 00 39 N 5 44 11 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_24.jpg
目抜き通りに駐車されているダッジ WC54 救急車。
27日〜28日には第64医療グループによる、負傷者の後方への搬送が行われた。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_13.jpg
第101空挺師団の第502空挺歩兵連隊が司令部を置いたロレの城。クリスマスの日にドイツ軍が防衛線を突破しかけた場所から程近い。
50 02 14 N 5 40 56 E
1944年12月28日、パットン中将自らここを訪問し、師団長代理のマッコーリフ准将、連隊長のチャップイス中佐と面会している有名な写真が残されている。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_15.jpg
19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_14.jpg
パットン中将率いる第3軍の下でバストーニュへの回廊を守り広げる任務についた第35歩兵師団のモニュメントとベルギー軍が戦前に建てたトーチカ。
リュトルマンジュとヴィレー ラ ボンヌ オーの間に位置する。
49 56 15 N 5 45 23 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_26.jpg
おまけ。バストーニュの街中近くにあるトーチカ。
上の写真と同じ構造。
50 00 33 N 5 43 53 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_03.jpg
バストーニュの中央広場に展示されているシャーマン戦車の前で記念撮影に興じる第101空挺師団のコスプレ集団。
2004年12月のバストーニュ戦60周年パレード前の余興。
このシャーマン戦車はM4A3(75)W型で、製造番号S48935、登録番号3081532で1944年3月に米国ミシガン州のフィッシャーボディ社で製造された。
長年、バストーニュ包囲を解消した第4機甲師団所属といわれていたが、その後の調査により第11機甲師団所属ということが判明している。写真撮影時は右側に第4機甲師団(中央の兵士の肩越しに4の文字が見える)、左側に第11機甲師団のエンブレムを描いていた。
50 00 03 N 5 42 55 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_05.jpg
後部の被弾の跡。総統護衛旅団の擲弾兵が発射したパンツァーファウストが命中したものという。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_04.jpg
その後、レストアして塗装し直されて師団エンブレムは無くなり、「バラクーダ」(肉食魚オニカマス)のニックネームが記載された。
車体左側面、「バラクーダ」の文字の後ろの貫通穴は、75mm砲が命中したものという。

第11機甲師団「サンダーボルト」は1942年8月に編成、1944年10月に英国に到着し、12月16日(アルデンヌ攻勢が始まったその日)にフランス上陸。当初はフランス北西部、大西洋に面したロリアンに立てこもるドイツ軍と戦う予定だったが、急遽アルデンヌに向かうことになり、ヌシャトーからバストーニュにかけての街道を守った。

第11機甲師団第41戦車大隊B中隊所属だったこの「バラクーダ」戦車は、1944年12月30日のオモン、ラヴァゼル占拠作戦中、もう1輌のシャーマン共々、中隊からはぐれてしまう。
取りあえず北に向かった2輌は、ドイツ軍総統護衛旅団が占拠するルニャーモンに入ってしまい攻撃を受けた。
「バラクーダ」は逃げようとして泥濘と雪に足をとられてスタックした。
パンツァーファウストとW号戦車の75mm砲が命中し、クルーは脱出したが全員捕虜となった。
車長のアレクサンダー軍曹は重傷で数日後に死亡した。
乗員の内2名はユダヤ系アメリカ人で、強制労働を強いられた。
もう一輌のシャーマンも撃破され、クルーは全員死亡した。

被弾して放置されたままの「バラクーダ」は、屑鉄業者がトーチで切断して廃品回収しようとしたが、土地の所有者が水源汚染を心配して許可しなかった。後にベルギー軍が回収に来たが、この頃にはスクラップを免れた戦車は少なくなっていたので、バストーニュ市が購入、モニュメントとして1948年以降現在に至るまで中心部の広場に展示されている。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_22.jpg
さぁ、今度は米軍の反撃だ。
米国のTVシリーズ、バンドオブブラザーズで有名になった第101空挺師団第506空挺歩兵連隊E中隊は、バストーニュの北にあるフォの村を奪取すべく、1945年1月13日に攻撃を開始した。
ダイク中尉率いるE中隊は、待機していた森を出て、200mに渡る雪原を横断し、ドイツ国防軍第9装甲師団の一個中隊が保持するフォの村に突撃した。
50 02 24 N 5 44 58 E
ダイク中尉は干草の山の後ろでフリーズしてしまい、大隊専任のウィンターズ大尉は(たまたま振り向いたら後ろにいた)スピアーズ中尉に指揮を交代する様命じる。
スピアーズは雪原を猛ダッシュで動き回り指示を出し、他の中隊と連絡を取った。
これで米軍のモラルが向上した一方、ドイツ軍はあまりの無謀さに発砲するのも忘れるほどだった。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_17.jpg
フォの交差点にあるチャペル。
ドイツ軍が鐘楼(とはいっても低いが)に機銃を配していた。
米軍は左手前より進撃。
この交差点の先に破壊された4号戦車が遺棄されている写真が残っている。
50 02 41 N 5 44 56 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_23.jpg
TVシリーズ「バンドオブブラザーズ」では描かれていないが、フォを押さえた後、E中隊はスピアーズ中尉指揮の下、北隣のノヴィルを攻撃しドイツ軍を撃退した。
50 03 48 N 5 45 38 E

その後ラシャンまで進撃したが、1945年1月17日になって、第17空挺師団と交代し、第101空挺師団はアルザスに移動した。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_21.jpg
ラ ロシュ アン アルデンヌは1944年9月10日に米軍により開放されたものの、同年12月20日にアルデンヌ攻勢の中ドイツ軍支配下となり、この間12月26日〜27日にかけて米陸軍航空隊の爆撃を受け町は廃墟となり、民間人犠牲者114人が出た。
1945年1月11日、南下してきた英軍第51ハイランド師団と、米第84歩兵師団がこの町で合流し、町は無血奪還された。
写真は町の広場におかれたシャーマン戦車M4A1(76)Wで、近隣の村を開放した 第2機甲師団、第3機甲師団を記念するものとなっている。
前面装甲中央に被弾しておりクルーは全員死亡した。
アルデンヌの戦い60周年を記念してこの場所に記念碑として設置された。
50 11 00 N 5 34 31 E

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_20.jpg
19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_19.jpg
1946年1月16日、米第1軍の第84歩兵師団と第3軍の第11歩兵師団が合流し、これにて突出部(バルジ)が解消。
50 08 12 N 5 43 18 E
ただし、ドイツ軍が1944年12月16日のアルデンヌ攻勢開始の位置まで押し戻されるのは1945年2月7日になってのことであった。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_28.jpg
ルクセンブルグのディキルヒ周辺はアルデンヌの戦いの最中前線となった。
12月の終わりにかけて、ドイツ軍の第7軍第352国民擲弾兵師団はそれまでの攻撃から守りの体制に変わった。
一方、米軍は損害の大きかった第28歩兵師団第109歩兵連隊に代わり、パットン将軍の米第3軍隷下の第5歩兵師団第10歩兵連隊がディキルヒ東にあるベッテンドルフの奪還に向け動き出した。
1945年1月18日早朝、米軍第5歩兵師団の、第10歩兵連隊がベッテンドルフ、第2歩兵連隊がインゲルドルフ〜ディキルヒ地区攻略のためサウアー川渡河を同時に開始した。
渡河準備のためボートを押して川に向かう第10歩兵連隊の記録写真をレリーフ化した記念プレートが現場付近に飾られている。
(尚、プレートに刻まれている第4歩兵師団は第5歩兵師団の右翼に配備)

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_30.jpg
夜のうちに米兵は、ドイツ工兵が仕掛けていた地雷やブービートラップを避けながら、膝まである積雪をかき分けて上陸開始地点まで舟艇を押して進んだ。
同じく渡河準備の写真を等身大ジオラマ化したもの。
ディキルヒの博物館にて。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_29.jpg
日の出直前、煙幕が張られる中渡河が開始された。
写真は第10歩兵連隊がベッテンドルフ攻略の為サウアー川を渡った現場。
49 52 24 N 6 13 07 E
米軍は画面右から左に向かって渡河し、ドイツ軍は第一波の舟艇に気づかず、ベッテンドルフに簡単に侵入し、ドイツ軍を排除しながら北上できた。

一方、第2歩兵連隊は渡河中に機銃と迫撃砲攻撃にさらされ何隻かは沈没、大きな損害を出した。
19日に橋頭保を築き、第5師団はルクセンブルグを北上しドイツ軍の抑え込みに加わった。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_18.jpg
アルデンヌ攻勢で戦死したドイツ兵の墓地。
墓標の戦死日は殆どが1944年12月16日〜2月中旬までのもの。
50 02 54 N 5 44 27 E

19450207_End_Of_Bulge_01.jpg
米軍による2度目の開放を喜ぶ、ルクセンンブルグ・クレルボーの市民のレリーフ。建物の壁から首が突き出していてちょっとコワイ...
50 03 11 N 6 01 53 E

19450207_End_Of_Bulge_02.jpg
アメリカ万歳!
赤頭巾の姉が持っている米国旗は星50個の現代仕様のもの。
アメリカ合衆国国旗はこれまでに26回の改定を経ている。
13州からスタートし、州が加わる毎に星の数を増やし、第一次及び第二次世界大戦中は48個の星のバージョンだった。
1959年にアラスカ州が加わり、更に同年ハワイ州が加わり50個になり現在に至る。
口の周りをチョコでベトベトにしたクソガキ弟は、第75歩兵師団のエンブレムを胸に着け、米兵の帽子を被っている。
第75歩兵師団は編成後初の実戦がアルデンヌ攻勢で、1944年12月22日から敵と交戦している。
ポトーの博物館にて。
日本では「ギブミーチョコレート」が有名だけど、せめて後ろに「プリーズ」を付ける程度の国際マナーを身につけてほしかった。
1949年の映画「戦場」ではお菓子の欲しいガキんちょが、ちゃんと「プリーズ」と付けていた。
私は学生時代、聡明期の某コンビニチェーン店(後に別の某コンビニチェーンと合併)でバイトしている時、
バレンタインの2週間位前に「在庫商品の普通のアーモンドグリコにバレンタイン専用紙ジャケットを被せて値段を上げてバレンタイン商品として陳列する」
そして、バレンタイン当日の深夜には、「売れ残った商品から紙ジャケットを外して、普通の商品として値段を張り替えて(まだバーコードが普及していなかった)何事もなかったかのように再陳列する」という壮絶な業務をこなしました。
この業務を通じて「付加価値を付けてぼったくる」「付加価値を付けたからと言って思い通りには売れない」「若い女子があまり来店しない場所ではバレンタイン商品は売れない」といった、マーケティングの縮図を見た気がしました。
義理チョコ、ホワイトデー倍返しといった概念が未だ無く、コンビニ運営会社がバイトにチョコ販売ノルマを課して自爆営業といったことも無ければ、本命チョコをもらえない奴は人にあらずといった風潮もなかった時代の話です。

19450207_End_Of_Bulge_03.jpg
米兵「坊主、チョコ食うか?ところで後ろにいるのは君のお姉さんかな?」
ガキ「こいつ、チョコでおいらを買収してねぇちゃんと付き合いたいって」
姉「あたし、中佐以下は相手にしないことにしてるの...」
こちらのガキが持っている米国旗は当時の星48個を正しく再現している。
ボネの博物館にて。


以下、バストーニュで開催された記念パレードの様子。
3回に渡り見学したのだが、とにかく寒い!

19450207_End_Of_Bulge_24.jpg
ハーレーダビッドソンのWLAバイク。1940年より生産開始し、9万台を生産、ソ連やカナダ(WLC型)などにも供給された。

19450207_End_Of_Bulge_63.jpg
クッシュマン モーター ワークス (現在テキストロン傘下)が空挺部隊用に製作した空挺スクーター 53型 (G683)。
1944年に約5000台生産。
242cc単気筒4サイクルガソリンエンジン搭載、4.6馬力、重量116kg、航続距離160km、最高時速65km/h
M3A4型カートを牽引可能。

19450207_End_Of_Bulge_52.jpg
パパ:運転手、ママ:助手席、長男:機銃手。一家総出でパレードに参加。
米陸軍1/4トン 4x4トラック、通称ジープ。
ウィリス MB と フォード GPW が合わせて約64万台生産された(同盟国に輸出/供与分含む)。
ウィリスとフォードは同一仕様(外観上間違い探しレベルの差異はある)、交換部品レベルでは完全に互換性がある。
更にヨーロッパの戦勝パレードではフランス・オッチキスが戦後にライセンス生産したM201も混ざっていると思われる。
2.2リットル 60馬力 サイドバルブ式4サイクル4気筒ガソリンエンジン「ゴーデビル」搭載
米軍では後継にウィリスM38、後にフォード M151 マット、そして現在はハンヴィーを使用。
ジープの商標権は最終的にクライスラーのものになった。
ジープブランドの車は未だに生産されているが現在新車で買えるものはスポーツSUVで軍用ジープとは別物と考えた方がよい。
日本では戦後、三菱自動車がウィリスとの提携でジープを生産し、陸上自衛隊にて採用された他民間にも販売された。
1990年代前半、私はトヨタのランドクルーザー70系の1PZ (直列5気筒ディーゼルエンジン搭載)というマイナーな車に乗っていたのだが、晩秋の志賀高原にバーベキューをしに行くこととなり、仲間数人で集合した所、内一人が三菱のジープ(ディーゼルエンジンのタイプ)に乗ってきた。
無事バーベキューも終わり、当時住んでいた前橋に帰る段階になって「ちょっとジープ運転してみないか」と言われたので自分のランクルと交換、ジープで標高の高い山道を走ったのだが、日も暮れてくると「さ....寒いっ!」
ハンドルも結構重かった(ランクルはキックバックを少なくする為か、パワステが極めて軽く設定されていた)
こちらもそれなりに厚着して、手袋もはめて、幌を被せてヒーターを全開にしていたのだが、とにかく寒い!
ジープには液体式のだるまヒーターが装着されておりかなり強力なはずだが、さすがに追いつかない。
軽井沢から長野自動車道(当時はまだ長野まで通じていなかった)に乗るとスピードは上がり、吹き込む風も強くなり、「こりゃ死ぬ...」
ということで思わぬ所でアルデンヌのアメリカ兵体験となりました。

19450207_End_Of_Bulge_39.jpg
タミヤの初期リリースの1/35ジープにも付いていた、トレーラーを牽引するジープ。
非常にマニアックな、第13空挺師団の所属となっている。
同空挺師団は1943年8月設立、1945年2月にフランスに渡り、3月のライン川渡河「プランダー作戦」中の空挺作戦である「ヴァーシティ作戦」参加予定であったが輸送機材の不足により中止、結局欧州戦線では活躍の期会がなく、帰国した後、日本々土上陸に備えたが太平洋戦争も終結、結局1度も実戦を経験することなく1946年に解散し、戦闘員は第82空挺師団に再配備された。
バンパーの上から垂直に伸びる棒は、ドイツ軍が仕掛けたピアノ線で首を切られない様にするためのワイヤーカッターで、前線部隊が自前で追加した。

19450207_End_Of_Bulge_40.jpg
それ、飾りつけ用のもみの木....
メリークリスマス!

19450207_End_Of_Bulge_48.jpg
パットンの第3軍下で快進撃を続けチェコまで進撃した、第90歩兵師団付憲兵隊のジープはトレーラを牽引。
後方のジープにはバストーニュ包囲戦時の第101空挺師団臨時師団長、マッコーリフ准将の写真が。

19450207_End_Of_Bulge_26.jpg
Kレーションの木箱を搭載しているジープ。芸が細かい。1箱に12日・人分が入っている。
KSと書かれた箱は初期のタイプで、1944年頃からKと書かれたタイプに入れ替わっていく。
違いは、KSは朝・昼・晩が同じ茶色の包みなのに対し、Kは朝:赤茶、昼:緑、夜:青に色分けされている。

19450207_End_Of_Bulge_56.jpg
ジープの上に無造作に放置された小道具類。
「チェックメイトキングツー、こちらホワイトロック、どうぞ。」でお馴染み、ギャルビン マニュファクチュアリング社(後のモトローラ社)製の送受信機 BC-611-D型。分隊レベルに配布された。
短波3.5〜6MHZ(50チャンネルの内1つを選んで固定する) AM方式 出力0.27ワット
相手側司令部ではBC-1306で交信する。こちらは周波数を変えることが出来る。

19450207_End_Of_Bulge_54.jpg
パレート当日の、ベルギー軍駐屯地ハインツバラックスの様子。ここはアルデンヌ攻勢中第101空挺師団の司令部が置かれていた。
ジープ、米・ルクセンブルグ・ベルギー・カナダ国旗(イギリスは無くていいのか?)、担架に横たわるMPのマネキン。
何とも無法地帯な様相。
左端は戦後、ベルギー軍で使っていたM108型105mm自走榴弾砲。

19450207_End_Of_Bulge_25.jpg
ブローニングM1919重機関銃、無線機を装備したジープ。
ルクセンブルグにいた第9機甲師団第89騎兵中隊の所属。

19450207_End_Of_Bulge_30.jpg
流し撮り...

19450207_End_Of_Bulge_46.jpg
一部のジープには牽引バーが取り付けられ、タンデムに2台のジープを連結して、通常は2.5トントラックなどを必要とするM2A1型105mm榴弾砲等を牽引することができた。
横を歩くのはベルギー軍の将校?

19450207_End_Of_Bulge_42.jpg
M1919重機関銃、M2重機関銃で重武装したジープ。実際に似たようなものが存在したらしいが、口径の異なる2種類の銃って、かえって非効率では?とか、そこまで武装するんなら装甲車乗れよ、とか突っ込みたくなってしまう。

19450207_End_Of_Bulge_66.jpg
第5歩兵師団第11歩兵連隊所属のジープ。
運転手は第5歩兵師団のエンブレム「レッドダイアモンド」を着けているが、乗客の兵が着けている白/青の斜めストライプは第3歩兵師団のもの。第3歩兵師団はアルデンヌ攻勢には直接は参加していない。
映画「地獄の戦線」(1955年)はこの第3歩兵師団第15歩兵連隊に所属していたオーディ マーフィー中尉(最終階級)の活躍が描かれており、肩に同じエンブレムを着けているのが印象的だった。
マーフィー少尉(当時)は1945年1月、アルザス地方コルマールでの戦闘で部下を森に後退させた後、無線で自分の近くにいる敵兵への砲撃を誘導し、放棄されたM10駆逐戦車(映画ではシャーマン)によじ登り、ブローニングM2重機関銃で迫り来る敵分隊を1時間に渡り食い止め、弾丸が尽きるまでに敵兵50名以上を倒したことにより名誉勲章を受勲した。
この本人の口述自伝(1949年)に基き、西部劇などに出演してハリウッドスターになっていた本人が主演しているのが「地獄の戦線」という、ある意味ものすごい映画。
コンバットも顔負け、バタバタ倒れるドイツ兵も実話ということで納得。
マーフィーは1971年航空機事故で死去。

19450207_End_Of_Bulge_36.jpg
乗員とラジエータ周りに防弾を施した装甲ジープ。

19450207_End_Of_Bulge_34.jpg
MT-TUGと呼ばれた、6輪駆動のジープ。
オリジナルは少数のはずで、これは戦後に改造したもの?

19450207_End_Of_Bulge_80.jpg
ジープは本当に多数パレ-ドに参加するのだが(ここに写真掲載したものはごく一部)、ドサクサに紛れて戦後の型も混ざっていた。
第二次世界大戦の終了と共にウィリスMB(及びフォードGP)の生産は終了するが、ウィリス社では民間の需要を開拓しようと、民生用(主に農業を想定)にCJ-3を生産する。
写真はCJ-3の後期型である、CJ-3Aと思われる。
ウィリスMBとの違いは、縦グリル開口部の数がMBは9個なのに対しCJ-3A系は7個であること、大きくなり凹まないヘッドライト、ウィンカー配置など。
CJ-3AにはM38という軍用型もある。
三菱でもライセンス生産されることになる。
この後エンジン変更によりボンネットが高くなったCJ-3Bに移行た。
CJ-3B系は米軍には採用されていない。
米軍用ジープとしてM38A1(民間型はCJ-5)が登場、ボンネットが丸みを帯びイメージががらりと変わる。はっきり言ってカッコわるい。
このM38A1を最後に軍用のジープは終焉となり、米軍ではフォードのM151を採用しベトナム戦争を戦った。
そのM151も現在ではハマーに置き換わっている。
一方、ノックダウン組立、ライセンス生産から始まった三菱のジープは独自の発展を遂げ、1998年まで生産が続いた。

19450207_End_Of_Bulge_15.jpg
米軍の代表的な輸送トラック、GMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラック。56万台が生産された。

19450207_End_Of_Bulge_60.jpg
パレードを控え、中華料理店の前に駐車している、GMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラック。
幌の為の骨組みが判り面白い。
柱の影に隠れる兵がいい味。

19450207_End_Of_Bulge_43.jpg
珍しくオープントップにしてフロントウィンドーを倒したソフトトップのGMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラック。
ブリッジプレートの上段10はトレーラーを牽引している場合、下段7はトラックのみの場合。

19450207_End_Of_Bulge_38.jpg
女兵士、カウボーイ、イギリス兵、おっちゃん... もはや収集が付かなくなっているコスプレ集団を乗せてGMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラックは今日も走る。
キャビン上にM2機銃のリングが付けられている。

19450207_End_Of_Bulge_55.jpg
ハードトップとソフトトップのGMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラック。
どちらも第5歩兵師団第11歩兵連隊の所属。
第3軍のもとで、ノルマンディからチェコに至るまで戦い、アルデンヌ攻勢中はバルジの南側からドイツ軍を攻撃した。
ラジエータ上にプレストーン45(右は43)と書かれているが、プリストーンは1927年創業で現存するラジエータ液のメーカー、45は1945年〜1946年にかけての冬に不凍液を入替えた事を意味する。
この情報は不凍液を交換する毎に書き換える必要がある為、文字はガソリンで溶解する塗料を使い、1/2〜1インチ (13〜25mm) の高さで記入された。

19450207_End_Of_Bulge_78.jpg
ハードトップのGMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラックもフロントの窓を跳ね上げることができる。
第35歩兵師団第137歩兵連隊は第3軍の元、バルジを南から攻撃した。

19450207_End_Of_Bulge_79.jpg
GMC CCKW 2.5トン 6輪駆動トラックだが荷台に通信室を据え付けたもの。
バンパーの-Xは師団直属、Sは通信隊を示す。

19450207_End_Of_Bulge_47.jpg
ダイヤモンドT社のレッカー車、T969A型
黄色の丸に12の数字はブリッジプレートと呼ばれる、橋を渡るときの目安(概ね車両の重量と一致)。
英連邦軍の規格に従い米軍も採用したが、付けていない車両も多い。
ラジエータ液注入口には、冬季不凍液-30 (摂氏-34度相当)と記入されている。

19450207_End_Of_Bulge_41.jpg
アメリカ大陸を横断する超デカいトラックでお馴染み、マックトラック社(現在はボルボ系)のNO型 7.5トントラック。
ノーズ先端のマックトラックのブルドッグがラブリー。

19450207_End_Of_Bulge_32.jpg
M1A1 重レッカー車。ケンワース 社、ワード ラ フランス社双方で生産された。

19450207_End_Of_Bulge_06.jpg
何故か101空挺師団所属のダッジ WC-52 (ウェポンキャリアー) 3/4トン車に搭乗する、第3軍指令パットン将軍のコスプレ。
実際にパットン将軍はダッジ WC-57 (コマンドカー) を使っていたが、ウィンチ付、M2重機関銃付、サイレン付、ラジエーターに斜め防弾板付というものものしいものだった。

19450207_End_Of_Bulge_61.jpg
別の年に撮影したパットン将軍様。車は同じ、役者は別人。

19450207_End_Of_Bulge_33.jpg
パットンはジープにも乗っていた。
ただし専用の革張りの椅子、特大サイレン、ウィンドルシールドに追加防弾板付のものであった。本物が米国バージニア州フォートリーにある兵站博物館で見られるらしい。
右手に鞭を持っているのは1943年8月のシシリー戦中、野戦病院にいた砲弾神経症兵を殴ったことのイメージか?
実際にひっぱたいたのは、手袋とも、鞘にいれたままの短剣とも言われる。

19450207_End_Of_Bulge_21.jpg
第3機甲師団司令部付のダッジ WC 3/4トン車。ウィンチ付のコマンドカー仕様なのでWC-57だろう。
2つ星は少将なので、師団長ローズ少将の搭乗車を想定しているのだろう。
ローズは1899年生まれ、第一次世界大戦時には少尉としてミューズアルゴンヌ攻勢に参加、第二次世界大戦ではチュニジア戦を経て1944年8月、少将として第3機甲師団「スピーアヘッド」の指令となる。常に前線近くで指揮をとっていたが、1945年3月30日、タスクフォースに同行してドイツNRW州パーダーボルン近郊を移動中、ドイツ軍の襲撃にあい囲まれてしまい、ジープで逃げようとした所タイガー戦車と立ち木に挟まれ、ホルスターのピストルに手を伸ばした所をタイガー戦車のクルーが発砲、壮絶な戦死を遂げた。降伏しようとした所殺されたという説も。

19450207_End_Of_Bulge_77.jpg
第101空挺師団長、テーラー少将の車両という設定のダッジ WC-57
アルデンヌ攻勢が始まったとき、テーラー将軍は米本土で会議に出席しており不在だった。
第3軍の進撃によりバストーニュの包囲が解かれると共に師団の司令官に復帰した。
この写真、今改めて見ると米兵がパレードとは逆方向に向かっているのだが!?

19450207_End_Of_Bulge_81.jpg
ウィンチなしのコマンドカーなのでWC-56だろう。
第83歩兵師団はノルマンディ上陸、ルクセンブルグへの進撃、ヒュルトゲンの森の戦いを経てバルジの戦いではロッシュフォールでの米軍の反撃に参加した。その後バルビーでエルベ川を越えたが、この時の猛進撃では鹵獲したドイツ軍のありとあらゆる車輌を使ったため、Rag Tag Circus (ボロ着のサーカス)のあだ名が付いた。

19450207_End_Of_Bulge_20.jpg
統制のとれていないジオラマみたいな、パレードの為集合する様々な車両でカオスになりつつある所。

19450207_End_Of_Bulge_27.jpg
M3ハーフトラック。
米軍車両を示す白星は、遠めにドイツ軍のバルカンクロイツと間違えられることがあったため、味方からの誤射を避ける為、星の周りに白丸を描く処置がとられた。
シシリー上陸を前に、丸を太く、黄色くする様通達が出されたが、星も黄色くする、星自体を塗り消すといった独自の対処がされてしまい、写真のものもそのバリエーションの一つと思われる。

19450207_End_Of_Bulge_29.jpg
兵を満載したM3ハーフトラック

19450207_End_Of_Bulge_64.jpg
戦争映画では「ドイツ軍役でまたもやM3かよ」と毎回ガッカリキャラのM3だが、パレードで実物を見ると中々の迫力。
この写真だと判らないが、第5機甲師団第145通信大隊のマーキング。
バンパーのLST476は何だろう?戦車揚陸艦のLST-476は対日戦に投入されているのだが...?SV-13はサービス(整備)部隊の13号車
ドア横に書かれた、あくびをする女の子の絵はエスクアイア誌に掲載されていたもののはずで、これをアレンジしたものが陸軍航空隊第308爆撃航空群所属のB-24M爆撃機 44-50797のノーズアート「Sack Time」(おねんねの時間) としても描かれていた。
大根役者ハリソンフォードが出ている、考証も設定もストーリーも無茶苦茶な不倫奨励映画「ハノーバーストリート」(1979年)で主人公が搭乗しているB-25J-30NC(TB-25Nに改造) 44-30925 N9494Z にもこれをアレンジしたノーズアート「Gorgeous George-ann」が大きく描かれている。
同機は別の塗装で「キャッチ22」(1970年)「針の眼」(1981年)にも出演した。

19450207_End_Of_Bulge_12.jpg
「ミートチョッパー」M16対空自走砲。対空砲ではなく地上軍に対し4連装ブローニングM2重機関銃を水平射撃をすることにより絶大な破壊力を発揮した。

19450207_End_Of_Bulge_67.jpg
M8装甲車 グレイハウンド
映画「ダイハード」(1988年)シリーズの中でもダントツに面白い1作目において、バブル全開日系商社のナカトミプラザに突入しようとして対戦車ロケットで撃破されてしまう、ロサンジェルス市警SWATの6輪装甲車(架空の車両)はこのM8/M20系の改造車だ。
ポトーの襲撃といい、やられ役のイメージ。
M20と合わせても1万2千台程度の生産。

19450207_End_Of_Bulge_35.jpg
寒さの為か非常に寡黙な人たちが搭乗している、M8装甲車

19450207_End_Of_Bulge_58.jpg
こちらは37mm砲を外し、ブローニングM2重機関銃をリングマウントで搭載したM8の姉妹車M20。
車名「マレンゴ」はイタリアの町の名で、皇帝ナポレオンの愛馬の名前にもなった。
英陸軍第7機甲師団「砂漠の鼠」のエンブレム付。

19450207_End_Of_Bulge_44.jpg
オープントップでウィドーシールドを倒して走行中のダッジ WC系 3/4トントラック。多分WC-51型。
ジープ同様、幌を畳みウィンドーシールドを倒した状態で、縦に積み重ねることができた優れもの。
WC系は初期モデル、救急車モデル、6輪駆動モデルなど合わせて約26万台生産。

19450207_End_Of_Bulge_74.jpg
何の変哲も無いダッジ WC 3/4トントラック。 ウインチ付なのでWC-52。
ドイツ軍のヘルメット、地雷原注意のドイツ語看板など小物に凝っている。

19450207_End_Of_Bulge_45.jpg
「ああ寒い、やってらんないわ」WCの荷台では酒盛り進行中。

19450207_End_Of_Bulge_76.jpg
ぎゃぁ、銃身をこっちに向けないで!
ダッジ WCのスペアタイヤ上に乗る米兵。

19441226_BattleOfArdennes_ErasingBulge_16.jpg
ダッジ WCシリーズ 3/4トントラックをベースに固定キャビンを付けたWC-54 救急車。約23000台生産。
TVシリーズ「コンバット」の第一シーズン「逃げた奴ら」に出てきたのが印象的。原題はWalking Woundedで、軽症の兵(サンダース軍曹)を指すのだろうが、恐らくこれはWalking Dead(行ける屍)の引っ掛けで、軍医と看護婦が無傷ながらも心がそのような状態になっている。
赤十字の前に医療を示すギリシャ神話の「カドゥケウス」が描かれている。

19450207_End_Of_Bulge_65.jpg
救急車と同じWC-54だが、こちらは無線車で通信隊に配備されていたもの。

19450207_End_Of_Bulge_53.jpg
たまには白黒で当時の雰囲気を。とはいっても戦後仕様のナンバープレートとかでバレバレなんだが。
ダッジ WC-54 無線通信車とジープ。

19450207_End_Of_Bulge_28.jpg
ダッジ WC系 3/4トントラックをベースに6x6とし、搭載量が1 1/2トンに増加したのがWC62,WC63で、43000台が生産された。
写真はウィンチが付いているのでWC63。冬季迷彩塗装と天然ウェザリングがスゴい。

19450207_End_Of_Bulge_59.jpg
同じダッジ WCながら、一回り小型の1/2トンシリーズ。3/4トンの前身である。パレードには参加していない車両。

19450207_End_Of_Bulge_31.jpg
パレード前に小隊長の訓示を受ける。日本の会社の朝の朝礼みたいだ。
ヘルメットに十字架が描かれているのは従軍牧師で、鞄には礼拝セットが入っているはず。アーメン。
後方はバストーニュ出身の、第一次世界大戦、第二次世界大戦の犠牲者追悼碑。

19450207_End_Of_Bulge_57.jpg
パレードに備え、ハインツバラックスの前を行進する兵士。
後ろの建物はハインツバラックスで、見張りのトーチカがある。

19450207_End_Of_Bulge_71.jpg
ゆる〜い行進。左の兵のヘルメットの白い円弧は、工兵/兵站/憲兵を示すらしい。

19450207_End_Of_Bulge_73.jpg
パレードで行進する精鋭第101空挺師団、他、の皆様。
ちょっとブレているけど、向かって一番左の兵に注目。
モヒカン刈り(米語ではモホーク ヘアカットという)及び顔のペインティングは史実に基づくもの。
第101空挺師団(の一部?)の兵が空挺降下する時、この髪型とペインティングをしている写真が残っている。
これを再現して、パレードではヘルメットを被らずに見せる根性、というか、サービス精神がすごい。
本物のモヒカンなのか、普段はどういう職業の方なのか、お友達はどういう方々なのか、など疑問は尽きない。

髪型といえば私は人生の1/3、社会人生活の1/2が海外生活という国外追放予備軍なのだが、「床屋に行き、望む髪型を正確に外国語で伝える」という課題には毎回苦労し、望み通りの髪型に仕上がる勝率はあまり高くなかった。
そもそも日本語で伝えても望み通りにならない事が多い。「キムタクの雰囲気で」とお願いしても、山下清の雰囲気に仕上がるし...
しかし、テクノロジーの進化と共に解決法を見出した。
たまたま髪型が望み通りに仕上がった時を狙って、すぐに写真を撮っておくのである。(正面、横、後ろが望ましい)
その写真をスマホで持ち歩き、床屋で見せる。それ以来、ほぼバラツキの無い、安定した希望通りの仕上がりとなっている。
ただ、これも万全ではなく、歳と共に髪量が減る(禿げる、とも言う)ので、昔の写真通りの仕上がりが段々難かしくなるのである。
「あ、これなら向かいのカツラ屋さんに行ってください」と外国語で言われる日も近い。

19450207_End_Of_Bulge_49.jpg
あなたは、もしかして、マッコーリフ准将?

19450207_End_Of_Bulge_50.jpg
パレードの最後に行進した歩兵小隊。第101空挺師団だが第28歩兵師団の敗残兵も混ざっている。
パレードも終わりに近づき、観客がほとんど引き揚げてしまったのが物悲しい。

19450207_End_Of_Bulge_72.jpg
パルチザン...なんでしょうね。
正直、ちょっと貧乏くさいというか...

19450207_End_Of_Bulge_18.jpg
カナダ製のダッジ D15トラック。主に北アフリカ戦線で活躍した。

19450207_End_Of_Bulge_75.jpg
イギリス空軍塗装の、ベッドフォード MWDトラック。民間2トントラックをベースに走破性を上げるためシャーシを再設計して最低地上高を上げた。駆動系は4X2。72馬力ガソリンエンジン駆動、20万台以上生産され英連邦軍で汎用トラックとして使われた。

19450207_End_Of_Bulge_05.jpg
英連邦軍で主に砲を牽引するのに使われたAECマタドール。
写真のものは英空軍のマーキング。

19450207_End_Of_Bulge_19.jpg
ベルギーレジスタンスが乗るベルギー製Gillet Herstalの400ccバイク。

19450207_End_Of_Bulge_62.jpg
イギリスの代表的軍用バイク、ノートン 16H。
ガソリンタンク横のエンブレムは英陸軍第50(ノーサンブリア)師団で、フランス・北アフリカ・シシリー・ノルマンディ・マーケットガーデンを戦った後、1944年末には本国で予備となっていた。

19450207_End_Of_Bulge_07.jpg
第3機甲師団のスチュアート軽戦車「フィッシュアンドチップス」。

19450207_End_Of_Bulge_11.jpg
19450207_End_Of_Bulge_09.jpg
19450207_End_Of_Bulge_08.jpg
連合軍を代表するM4シャーマン戦車。合計5万輌近く生産。
2004年の、バストーニュ戦60周年記念パレードではシャーマン戦車3輌が参加(他にチャフィー、スチュアートが参加)
しかしそれ以降、戦車は来なかった....

19450207_End_Of_Bulge_10.jpg
バルジの戦いが初戦となるM24チャフィー戦車

19450207_End_Of_Bulge_22.jpg
パレードには参加しなかったドイツ軍仕様のオートバイ。
サイドカーが付いているのでBMWのR75かと思ったが、これはソ連製のKMZ M72をドレスアップした「なんちゃってR75」らしい。
どうりで持ち主がその場におらず、誰でも座り放題(私も座りました)だった訳だ。

19450207_End_Of_Bulge_16.jpg
19450207_End_Of_Bulge_68.jpg
19450207_End_Of_Bulge_69.jpg
アメリカ軍に鹵獲されたという設定の、NSUケッテンクラート。映画「プライベートライアン」同様、軽快な走りを見せてくれた。
戦後も生産され、農家でトラクターとして使われたりした。

19450207_End_Of_Bulge_17.jpg
フォルクスワーゲン ビートル。
戦後のモデルは2003年にメキシコで生産を中止するまで2150万台を生産した。

19450207_End_Of_Bulge_37.jpg
USA!なキューベルワーゲン。一応戦勝記念パレードですしね。
スペアタイヤを覆う星条旗が星48個だが、今でも新品が買えるのか?自作したのか?あるいは当時のもの(今でもオークションで手に入る)か?
キューベルワーゲンは5万台生産。こうやってみると、ジープを作っていたアメリカは、太平洋戦争と欧州戦線双方戦ったとはいえ、スゴい物量。

19450207_End_Of_Bulge_51.jpg
こちらはパレードには参加しなかった、大戦初期の塗装のキューベルワーゲン。

19450207_End_Of_Bulge_14.jpg
怪しい服装の兵士を乗せたシュビムワーゲン。1万4千台生産。

19450207_End_Of_Bulge_13.jpg
こちらもシュビムワーゲン。勝者に配慮して米国国旗を揚げているけど...

19450207_End_Of_Bulge_04.jpg
パレードには参加しなかったものの、パレード当日バストーニュを走っていたM35型 2.5トントラック。
GMC CCKWの後継で1950年〜99年まで生産された。
現在はFMTVに置き換えられている。

19450207_End_Of_Bulge_70.jpg
これもおまけ。
これはドイツ軍のダークグレー塗装で、2輌がパレードに堂々と参加していたけど、戦後1953年のメルセデスベンツL312。



戦跡散歩Home

Copyright 2018 Morimoto, Makoto : All Rights Reserved.
本ページの写真、文章の無断転載をお断りいたします。

inserted by FC2 system