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ルーデンドルフ橋(レマゲン鉄橋)
Ludendorf bruecke

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写真:現在のルーデンドルフ橋の跡を、ライン川東側のエルペルの崖の上から見る。
米軍兵士が確保した鉄橋を見下ろす有名な写真があるが、それと同じ場所からの撮影。木は大きく育った。
手前のI字型の鉄柱はどうやら60年以上前からず〜っとあるものの様で、同じものらしきが昔の写真にも写っている。
写真左側が上流。
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ライン川は自然の防衛線だった。ヨーロッパ大陸で圧倒的な勢力を誇ったローマは、ライン川の東に帝国領土を広げる事は無かった。
ナチスドイツも、西の壁を作りはしたが、たとえこれが崩されてもライン川を連合軍が容易に超える事は出来ないだろう、と考えた。
勿論それにはライン川にかかる橋は連合軍が来る前に破壊してしまう事が前提だった。

事の発端は1944年秋。ノルマンディーに上陸して東に向かう連合軍は、対抗するドイツ軍の応援が前線に到着しにくくなる様に、ライン川にかかる橋を次々と爆撃した。
アメリカ陸軍航空隊のB-17爆撃機が、ドイツのケルンとミュルハイムの間にかかる橋を爆撃。
吊橋構造のこの橋に爆弾は命中しなかった。ハズレ、である。
と思いきや、橋に仕掛けられた爆薬が誘爆してしまった。橋はドイツが自ら仕掛けた爆薬により吹っ飛んだ。
イザという時に橋を爆破出来る様に、との配慮だったが、イザという時が来ない内に、橋がまだドイツにとって必用な内に不本意にも破壊してしまった。
お陰でその後、橋が爆破出来るハードルが高くなった。
ヒトラーは「前線から8キロ以上離れている橋は爆破用意は最小限にすること」「爆薬は事前に仕掛けるのではなく、爆破をする時になってから橋に仕掛ける事」「橋の爆破準備及び爆破の命令は書面で行う事」という通達を出した。
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写真:ケルン〜ミュルハイムを結ぶ、ライン川にかかる橋。
ドイツ軍の意図に反し、自爆用の爆弾が誘爆して破壊されてしまった。
この出来事が、結果としてレマゲンの橋の爆破準備を遅らせる事になる。
現在の橋は1951年に架け替えたもの。戦時中と同じ吊橋構造で、路面電車が走る。
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年が明けて1945年、ヒュルトゲンの森の戦いで多大な消耗をし、バルジの戦いで足止めを食らった米軍だったが、ようやくバルジは収束し、西の壁を突破し、ヒュルトゲンの森も制覇して、2月に進撃再開、3月始めには英軍共々殆ど揃ってライン川手前まで進出した。
1945年3月2日、米軍はライン川の西岸に始めてたどり着いた。場所はデュッセルドルフである。
デュッセルドルフの西側のオーバーカッセル地区と、東の旧市街地区を結ぶオーバーカッセル鉄橋が目の前にある。
しかし、米軍が橋を渡る準備を始めた矢先、目の前で、ドイツ国防軍により橋は爆破された。
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写真:現在のオーバーカッセル鉄橋。
昔も今も橋は自動車、路面電車が通る。
勿論歩いて渡る事も出来る。
デュッセルドルフのオーバーカッセル地区は日本人が多く住み、この橋を渡って中心部に仕事・買い物に出る日本人も多い。
写真手前側が日本人の多く住むオーバーカッセル側でアメリカ軍もこちらに到着した。
奥がデュッセルドルフ中心部側。ドイツ赴任中、私は日本人の集まる所はイヤなので写真右奥の旧市街地区に5年間住んでいた。
写真右が上流。
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写真:オーバーカッセル橋の土台に埋め込まれた、橋の変移を記したプレート。
第二次世界大戦中の爆破の後、しばらくの間は浮橋を使っていた。
デュッセルドルフ自体は爆撃や対岸からの砲撃を受けて多くの建物が破壊されたものの、米軍は結局ここではライン川渡河をせず、ルールポケットが包囲されドイツ軍が降伏するまで連合軍に占領されることは無かった。
未だにデュッセルドルフでは建築現場などで不発弾発見騒ぎがある。

米軍はライン川まで迫っている。一刻の猶予も無い。
続く数日間、ドイツ軍は橋を次々と爆破した。
連合軍も、ライン川の橋を渡る事は諦めており、舟艇による渡河作戦、あるいは空挺作戦との組み合わせにより渡河することを準備していた。
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写真:ボンと対岸のオーバーカッセルを結ぶコンラッド・アデナウアー(Konrad-Adenauer)橋。
映画「レマゲン鉄橋」の冒頭で、傷病兵を乗せた汽車が渡り終えた直後、疾走する米軍戦車が到達する直前に爆破されるのがここの橋。
現在の橋はコンクリート製で高速道路用。
写真奥が下流側
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写真:ノイスとデュッセルドルフを結ぶ鉄道橋の橋柱跡。戦争中に破壊。橋は再建されず、横に新しい橋が作られた。
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さて、進撃するアメリカ軍の第一軍第9機甲師団は1945年3月6日夜、メッケンハイムの街に到着した。ここはライン川まで最短直線距離で10kmしか離れていない。
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写真:メッケンハイムの町。町の周囲は戦闘による瓦礫に覆われ、レマゲンに向けて出発する時にはブルドーザー付の戦車で瓦礫を押しのけたという。

翌3月7日朝、どんよりとした空の下、砲撃目標を探していた観測機のパイパー・カブが、まさかの「破壊されていないライン川に架かる橋」を発見した。
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写真:パイパー・カブ。グラスホッパーと共に広く使われた汎用の連絡・観測機。民間でも多数が登録され、現在も多くが飛行可能だ。
オランダのWings of Liberation博物館にて。

ホッジ准将の命令で、早速タスクフォースが編成され、当時試験的に配備されていたパーシング重戦車の護衛を受けた27歩兵大隊はメッケンハイムを出発して東に向かった。
目的は橋の攻撃である。これにより退却するドイツ兵を、より多く捕虜に出来る。橋を攻撃せずとも米軍が近付けばドイツ軍は橋を爆破するだろう。
メッケンハイムの町を出た一行は、東進してアデンドルフ、アルツドルフの村を何事も無く通過し、一旦南進してフリッツドルフの村の入り口でドイツ軍の道路閉鎖に出会うがすぐにドイツ軍は降伏、再び東進して数分後、オエフェリッヒの村に入る手前でパンツァーファウストの攻撃をける(先頭のハーフトラックに至近弾)。ここでパーシング戦車を先頭に呼び敵を制圧した。
ニーデルリッヒでも抵抗に会いここも制覇、人気の無いライマーズドルフ村で一旦北に進路を取り、ビーレスドルフの村に入ると家々の窓には沢山の白旗が掲げられていた。(ご主人様、白旗の用意が出来ました...ってメイドが言う映画がありましたね)
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写真:メッケンハイムからレマゲンに至る、米陸軍第27歩兵大隊が辿ったルート。
ドイツ軍がパンツァーファウストで抵抗してきたオエフェリッヒ村入り口(上)、村の家に白旗が上げられていたビーレスドルフ(中)、前方の森林地帯を抜け川に向かって降りて行くとレマゲンの町がある(下)
いずれも米軍が進撃したのと同じ3月7日の撮影。

更に東に進む。森林地帯に入りこれを抜けると、正午頃にレマゲンの街の北側にある教会近くの高台に出た。そしてそこからは街をはさんで南側に、ライン川の東岸と西岸を結ぶ、破壊されていない鉄道橋「ルーデンドルフ橋」が確認出来た。
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写真:ラインの東側、エルペルの崖の上から見た、ライン川とレマゲン市街(川の奥)。アメリカ軍は奥の森を抜けて教会に達し、それから街を通り抜けて写真の左外に位置するルーデンドルフ橋に到達した。
米軍は写真中央奥の高原から川に向かって降り、教会近くの高台から橋が無事なのを確認した。(現在は木が育っていて同じ場所から橋跡は見えない)
写真右が下流側。川の手前の町はエルペルで戦争中大きな被害を蒙った。
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レマゲンの街の南に軍事目的の鉄道橋が建設されたのは、第一次世界大戦中の1916〜1918年。
ドイツのルール工業地帯から、混雑するデュッセルドルフ、ケルンを迂回して、効率よく西部戦線方面に兵士と物資を運ぶ為の新線の一部として計画された。
複線の鉄道橋で、歩道も併設されている。必用な場合は敷板をひいて車両が渡れる。
橋の長さは325m。西側はなだらかな地形だが、東は川岸が切り立ったエルペルの崖になっており、橋を渡った列車はそのままトンネルに入り、トンネル内で北に向きを変えてエルペルの町に出て北上するようになっていた。
鉄橋は橋の計画者で当時の英雄、ルーデンドルフの名を取ってルーデンドルフ橋と名付けられた。
橋の完成後間もなく、ドイツは第一次世界大戦で敗戦を向かえてしまう。
ドイツを第一次世界大戦の勝利に導くはずだったルーデンドルフ橋。結局その目的を果たせなかった。
ちなみにこの新線は結局完成しなかった。だから橋は完成したものの、新線が完成していないので橋の重要度は低かった。第二次世界大戦後、橋が再建されなかったのも橋の重要性が無いからだった。
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写真:ルーデンドルフ橋の模型
西側の塔の中にある平和博物館の展示。
特徴的な両端の塔は橋の防御が出来る様に兵員宿舎や倉庫があり、窓は銃眼として使えるよう必要最小の大きさだった。
第一次世界大戦後、進駐してきたフランス軍は、橋を自爆させる為の爆薬を仕掛ける空間(チャンバー)をコンクリートで塞いだ。
本来はここに必用最小限の爆薬を仕掛けて、イザというときに橋を爆破させるものだったが、戦争も終わり必要無しと判断されたのだろう。

ルーデンドルフ橋はライン川にかかる、当時最も美しい橋と言われていた。
橋はそれまでに何度か爆撃を受けていた。
1944年10月19日には第9空軍のB-17×33機による大規模爆撃を受け、アメリカ側は「破壊した」と報告したが実際には無事だった。
続く12月29日、翌年1月2日、1月28日と爆撃を受け損害を受けたが、その都度修復された。

さて、ドイツ軍の橋の防衛体制はお世辞にも満足とは言えなかった。
迫ってくるアメリカ軍に対抗するのは、工兵隊(橋の爆破も担当)、ナチス党下の国民突撃隊、高射砲隊と国防軍。
紙上の兵力は全部合わせて750名程度だが、実際に防衛戦が出来るのは100名も居なかったといわれる。勿論戦車隊などという気の効いたものは無い。
そして指揮系統も混乱していた。
1945年3月1日、ボン・レマゲン地区の防衛責任者にボトシュ中将が任命された。
彼はすぐさまルーデンドルフ橋を訪れ、状況を視察した。
敵が迫ってきたらどうせ橋は爆破してしまう。この為、橋の守りには最低限の人員しか割り当てられていない。
しかしこの状況は余りにひどすぎる。彼は応援を上層部に要請した。
着任間もなくボトシュは転属となり、引継ぎもままならないまま後任者のフォンボトマー将軍が着任した。
彼はレマゲンはないがしろにして、ボンの防衛にばかり気を配った。
3月6日、レマゲンにあるルーデンドルフ橋の防衛はヒッツフェルト将軍が担うことになったが、彼は橋から60kmはなれた地点に居たので、副官のシェラー少佐を防衛責任者に任命して橋に向かわせた。
3月7日の昼前にシェラー少佐が橋に到着する。椅子取りゲームの様な間の悪さである。
町の北側にアメリカ軍が近づいているのがはっきりと判った。引継ぎもそこそこに、現地の防衛隊を指揮していたブラトゲ大尉からシラー少佐が指揮を引き継いだ。
早速、橋を渡って撤退しようとしていた、機関銃を持った5人組みの兵士の車を停止させた。
「反転して米軍を阻止しろ」と命令した....つもりだったが、車はあっという間に橋を渡って逃げてしまった。
エルペルの崖の上には空軍の高射砲隊が居るはずだ。彼らに米軍を迎え撃ってもらおう....と思いきや、前の日にコブレンツへの移動命令が出て出発してしまった。代わりの高射砲隊は多くが脱走してしまった。敗走する軍隊の末期状況である。
やはりすぐにも橋を爆破するしかない。爆薬は午前中に届いていた。600kgの軍用火薬だ。予定では。実際には威力の弱い工業用火薬が300kgしかなかった。しょうがないので爆破の効果が最大に発揮されるはずの、アーチ根元近く1箇所に集中させて配置した。
と、そこに砲兵隊の大尉がやってきた。橋を吹っ飛ばす前に榴弾砲を何とか渡らせて欲しい。シェラー少佐は願いを聞き入れた。砲が渡りきるまで爆破は待とう。


ホッジ准将はジープを用意して自ら橋を見に行った。彼の決断は早かった。「破壊するな、橋を奪え!」
アメリカ軍には「橋は午後4時に爆破される」という情報が入ってきた。
実は何の根拠の無い、ドイツ民間人からの情報だったのだが、そんな話を聞くとアメリカ軍も焦ってくる。即座に橋の奪取に取り掛かった。
レマゲンの町は小競り合いだけで制圧出来た。

午後3時頃、ドイツ軍は橋の西側にある、橋導入部のアーチを爆破した。戦車が橋を渡れないようドイツ軍が仕掛けておいた爆薬だ。爆破の責任者、フリーゼンハーン大尉の独断による爆破だったが、これは上手く行った。石のアーチが崩れて10mの穴が出来、すぐには車両が進入出来なくなった。でも橋本体はまだ無事だ。フリーゼンハーン大尉は橋を渡って東に退避した。
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写真:ドイツ軍が爆破した、西側の橋の導入部。爆破で崩れた瓦礫が今も散乱している。
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東岸のトンネルに立てこもったドイツ軍守備隊に対し、アメリカ軍は西岸から攻撃する。
西岸にパーシング戦車が到着した。砲弾、煙幕が近くに着弾し、ドイツ軍は苦戦する。
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写真:試験運用中のパーシング戦車はルーデンドルフ鉄橋奪取で活躍した。
これは稼動状態で保存されているもの。ベルギー西部の開放記念パレードで撮影。

アメリカ軍が橋に近づいてきた。シェラー少佐はついにフリーゼンハーン大尉に口頭で爆破命令を出した。
フリーゼンハーンは規則に則り、書面を求めたが、もはやそんな時間の猶予は無い。
彼は起爆装置を作動させた。
しかし爆薬はウンともスンとも言わない。もう一度トライする。ダメだ。もう一回....やはりダメ。
戦車の砲撃で起爆用の電線が保護パイプごと切れたらしい。
ファウスト軍曹が爆破させに行く、と申し出た。
非常点火装置まで75mを匍匐で起爆装置に向かう。やっと点火。ファウスト軍曹は戻ってきた。そしてついに、爆薬が大爆発を起こす。辺りに舞い散る破片と煙。間一髪のところで橋は爆破された....はずだった。
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写真:アメリカ軍が西の岸にたどり着いたところで橋は爆破された...はずだった。

橋桁は一瞬浮いたが、煙がひいて見ると、橋はまだ残っていた。レールの間に敷いた渡し板は吹き飛びそのままでは車両が通れないものの、橋両側の歩道は渡れる。
今だ!アメリカ軍のティマーマン大尉は部隊に橋を渡るよう命じる。彼も自ら橋を渡りだした。
ドイツ軍が仕掛けた爆薬がまだ残っているかもしれないので工兵隊も橋を渡りながら点検を始めた。
東側の塔に据えられた機銃が橋を渡るアメリカ兵を狙う。
ティマーマンは一旦西岸に戻り、戦車に塔への砲撃を頼んでから再び橋を渡りだした。
今度は上流にある艀からドイツ軍の狙撃兵が橋を渡っている米兵に向け発砲した。
と間もなく、戦車からの砲撃で艀ごと吹っ飛んだ。
工兵隊は残っている爆薬を見つけて処理した。

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写真:東側の塔。ドイツ軍の守備隊は左右の塔に機銃を仕掛けて応戦した。
向かって右の塔の上部はパーシング戦車の砲撃で破壊され、不完全ながら戦後補修された様だ。
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塔からの砲撃が再び始まった。今度は20mm対空砲の砲撃も加わった。塔の一番近くに居たデリシオ軍曹が片方の塔を制圧した。そしてもう片側の塔も鎮圧した。
ついに最初のアメリカ兵がライン川対岸にたどり着いた。デリシオ軍曹配下のドラビックックだった。
ティマーマン大尉も橋を渡り、ライン東岸にたどり着いた初めての将校となった。

1944年3月7日午後4時、アメリカ軍は橋の確保に成功する。
爆破を間際まで待つ命令、失敗に終わった連合軍の空襲、自爆用チャンバーの閉鎖、爆薬の不備不足、米軍幹部の素早い決断と現場の兵士の勇気....連合軍にとってありとあらゆる強運と能力が橋の確保を可能にした。レマゲンの奇跡(Miracle of Remagen)と呼ばれる橋の奪取は成功した。

そしてその後、続々とアメリカ兵が橋を渡った。

シェラーは裏口のトンネルから脱出し、チャリンコに乗って司令部に応援を要請に行った。彼が2度とレマゲンの橋に戻ってくる事は無かった。

エルペルの町の住民が避難し、守備隊が居座るトンネルは出口、入り口共にアメリカ兵に固められた。
トンネル内に向け闇雲に射撃するアメリカ兵。

トンネル内に避難していたエルペル出身の高校生、カール・ブッシュは英語が話せる、という理由でアメリカ兵との交渉を任された。
彼は「撃つな」と英語で叫びならがトンネルを出て、ティマーマン大尉と会って英語で状況を説明した。
トンネルの中にはドイツ人200人が居る。民間人と疲れ切った兵隊だけだと。
今度はトンネルに戻り守備隊たちと話をする。
もう抵抗する気は無いが、アメリカ兵とは話したくない、と彼らは言った。
「僕が通訳する」。守備隊の将校が通訳のカール・ブッシュ少年と共にトンネルから出てきた。
ティマーマン大尉は降服を受け入れ、ブラトゲ大尉を始めとする守備隊は投降した。
ティマーマン大尉がブッシュ少年に言った。「偉いぞ、よくやった」。完璧なドイツ語だった。
彼は両親がドイツ人の移民だった。

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写真:守備隊、国民突撃隊が立てこもり、エルペルの住民も避難していた、東岸の橋塔の奥にある、トンネルの入口。
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第9師団の司令官は出来るだけ多くの兵を渡らせ、橋頭堡を対岸に築かせた。
アイゼンハワーは橋頭堡をより確実にする為、即座に5師団をレマゲンに送った。
アメリカ軍は続く24時間の内に8000人の兵を対岸に送り込み、鉄橋と平行して浮橋を渡した。
アメリカ軍にとって、「橋は、その重さと同じだけの金の価値がある」 (計り知れない価値がある) byアイゼンハワー。
貴重な橋を守る為、周囲には高射砲隊が配置された。

アメリカ軍の手に落ちたレマゲン鉄橋を破壊する為、ドイツ側は占領当日の夜からありとあらゆる手を尽くした。
組織的な陸上部隊の反撃こそなかったものの、列車砲の砲撃、フロッグマンによる爆薬仕掛け、Ju-87による急降下爆撃、アラドジェット爆撃機による爆撃、メッサーシュミットMe-262ジェット戦闘爆撃機による攻撃、そしてV-2弾道ミサイルによる攻撃。
いずれも橋を直接破壊することは出来なかった。V-2は橋から200mに落ちたものもあれば、遠く離れたケルンの町に行ってしまったものもあった。
橋を守る為米軍は対空部隊を集中的に配備し、レマゲン地区は第二次世界大戦中で最も対空火器が集中した場所となった。

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写真:アラド爆撃機(模型、ドイツ・ベルリンのドイツ空軍博物館にて)

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写真:V-2ロケット。イギリス・コスフォードの英空軍博物館にて。

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ルーデンドルフ橋から9km程ライン川を上った所にあるアレンフェルス城。
13世紀から城があったが、現在の形(中世の城の懐古)になったのは19世紀末。
ワイン用葡萄畑の丘に建つ城は、南から見ると絶景だが、西側には米軍との戦闘による多数の弾痕が残る。
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シェラー少佐、ブラトゲ大尉を始めとする5人に対し、橋を敵に奪われた責任を問う形で、というよりは見せしめの形で銃殺刑が言い渡された。
(ブラトゲ大尉はアメリカ軍の捕虜になっていて処刑を免れた)


橋は占領前からの連合軍の爆撃をはじめ、ドイツ軍による自爆の試み、V-2の至近着弾、そして近辺に据え付けた対空砲による振動などで橋は痛めつけられており、確実に弱っていた。
もはや上流側のアーチ桁は強度が無く、橋はもう片側のアーチによってのみ支えられている状態だった。
3月12日、橋を閉鎖して工兵隊が橋の補強工事に取り掛かった。この頃にはルーデンドルフ鉄橋に平行して浮橋が2本架けられ、戦車も渡れるようになっていた。
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写真:浮橋はルーデンドルフ橋の上流1.5kmの地点(リンツの対岸)と、下流200mの地点(エルペルの対岸)2箇所に設けられ、戦車を含む車両が渡ることが出来た。
写真は下流側の浮橋を架橋した場所。
現在は歩行者と自転車が渡れるフェリー(白と青の小船)が運行されている。
ルーデンドルフ鉄橋の塔が右に見える。
レマゲン側から撮影。対岸の町はエルペル。

3月17日午後3時頃、米軍による橋の確保から10日後、突然轟音と共にルーデンドルフ橋が崩れた。橋で作業していた米陸軍工兵隊員200名中、28名が命を落とした。
ドイツを勝利に導く為に作られた橋は、ドイツの降伏を早める為にアメリカ兵多数を渡らせ、そしてアメリカ兵を道連れにライン川に呑まれた。
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写真:現在残る、西側の塔は平和博物館になっている。
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戦後、ライン川の水上輸送を復活させる為、かつて橋を形成していた鉄骨の残骸は撤去された。
橋柱の土台は1976年まで残っていたが、船の航行に邪魔になるのでこれも撤去された。
土台の残骸のかけらは、博物館建設の資金金集めの為にレジン封入の鑑定書付で売られた。
これは2008年の時点でも博物館で売られていた。(高いので買わなかったけど)
今日、橋の西側の塔は平和博物館になっていて鉄橋の歴史や世界の紛争について展示を行っている。
橋は結局再建されず、ボン〜ノイヴィートの間約30kmに現在橋はかかっていない。

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写真:レマゲンと言えば鉄橋が有名だが、橋の東にはドイツ軍捕虜の収容所もあった。
収容所とは言っても建物が殆ど無く、捕虜は屋外に事実上放置され、多くが衰弱して死亡した。
戦争の勝者がアメリカ軍なのであまり知られていないが、捕虜の待遇などどこも似たようなものだった。
写真は捕虜収容所の跡地にドイツが建てた、悲劇を記憶する東屋と十字架。
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ルーデンドルフ鉄橋を巡る攻防戦は映画「レマゲン鉄橋」として有名。
史実をベースにしているものの、映画ならではの脚色、フィクションが多い。これはしょうがない。
一番のウソは橋を夜になって占領する所で、実際には明るい内に占領が終わっている。
ドイツ系の名を持つハートマンのモデルはやはりドイツ系のティマーマンだろう。
着任したばかりにして橋を奪取され処刑されるクリューガーのモデルはシェラー、イタリア系米兵アンジェロのモデルはデリシオ。
映画の撮影はチェコで、川幅が本物よりもちょっと狭くて、米軍の攻めて来る西側の地形が急すぎる嫌いはあるが、ドイツ風町並みが破壊される所など見ごたえは充分。
ちなみに映画とは異なり、レマゲンの町は大して破壊されなかった。史実で大きな被害を受けたのは対岸のエルペルの町のほう。
ルーデンドルフ橋奪取にまつわる話は、実話通りに映画化しても充分イケルと思うのだが。
この映画、テレビで何度も放映されているので、私と同年代(昭和30年代生まれ)の男性は何回か見ている人が多いはず。
テレビ放映だけで満足せずレーザーディスクを買って、ドイツに赴任してすぐに橋の跡地を見に行って、結局4回も橋跡を見に行ったおバカな中年オヤジは余り多くないと思うけど....




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