東京大空襲と本土防空戦
Tokyo Air Raid and home defence of Japan

【ドゥリットル空襲】
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ドゥリットルは1896年米国カリフォルニア生まれ、1917年に陸軍航空隊入隊、飛行訓練を受けた後数々の飛行記録を打ちたて、1925年には航空工学で初の博士号を取得している。同年シュナイダートロフィー優勝。
民間航空に10年関わった後、第二次世界大戦に米国参戦と共に軍役に復帰し、翌年の日本空襲を計画し自ら隊長機として参加した。
この功績によりメダルオブオナーを受賞。
後に第8空軍司令官となりドイツ本土への空襲を指揮する。
1946年に退役し石油会社シェルの役員となる。1993年没。
イギリスのダックスフォード帝国戦争博物館にて。

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1942年4月18日、空母ホーネットを離陸したB-25B型爆撃機×16機(クルーは各機5名)が東京を始め、横浜、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃した(内1機は爆弾を洋上投棄)。
これは日本への初空襲となる。
各機はその後中国を目指し不時着またはパラシュート降下したがこの時3名が死亡、
8名は日本軍の捕虜となり、日本上空通過中に民間人を銃撃していた事を理由に死刑判決となった(後3名処刑、1名病死、4名は戦後釈放)。
また、1機だけはソ連に着陸し、クルーは全員ソ連に拘束された(後に脱出)。

写真は米国の航空ショーで東京空襲のデモンストレーションを行うB-25J「アパッチプリンセス」で、実際に日本本土空襲に使われたB-25Bとはエンジン、武装などが異なる。
更にドゥリットル空襲機はB-25Bに対し燃料タンク増設、軽量化、ノルデン照準器取り外しなどの改造が行われている。
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こちらはオランダのOverloonにある博物館で展示されているB-25D型。
東京空襲に使われたB型は完全な機体が残っていないが、C/D型はB型に最も近く、エンジンの排気管シュラウドなどが相違点。


ドゥリットル空襲の模様は戦時中に作られた映画「東京上空30秒」で早くも描かれている。離陸は記録フィルム、爆撃はロサンジェルスの工場を東京に見立てて撮影されている。

映画「パールハーバー」ではアレックボールドウィン扮するドゥリットルが空襲を準備実行するまでが描かれているが、戦闘機パイロットがいきなり爆撃機に転向など無理のある設定。CG全開の同映画だが空母離陸などは実機と実船(CV-64コンステレーション)を用いており個人的にはこのシーンがこの映画唯一つの見せ場だと思う。

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」でほんの数秒だがドゥリットル空襲の場面がある。航空機はCGで、2機密集編隊で(実際には日本本土上空を飛行する時は基本的に全機個別に飛行)後のB-29による東京大空襲の舞台となる江戸川区上空を北上していたり(こんな飛行コースは取っていない。安直に東京大空襲前に米軍が撮影した写真を元にCG作っているのだろう)と突っ込みどころはある。

【東京大空襲】
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1945年3月10日の東京大空襲をはじめとして、日本各地を爆撃したボーイングB-29爆撃機。リモコン銃座、与圧キャビンなどを備える。
米国アリゾナ州のピーマ航空博物館に屋内保存されているもの。

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B-29の爆弾倉から内部を見る。天井を通るダクト状のものは、前部居住区と後部の銃座クルーを結ぶ連絡トンネル。黄色のものは万一与圧が失われた時の為の酸素ボンベ。

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六角形の棒状のものはM69焼夷弾。これを19本×2段に束ねたものがE46集束焼夷弾。B-29一機当たりE46集束焼夷弾を40束(M69焼夷弾1520発)搭載した。
上空700mで束が解かれ、地上に落下すると炸薬が破裂し、着火した油脂が飛散する。
木造家屋の多い日本の市街地への空襲の為開発された。
東京空襲資料館にて。

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江戸東京博物館での東京空襲関連の展示の一部。
左上は飛燕が撃墜したB-29に搭載されていたブローニングM2機関銃。
左下は鶴見線の鉄橋を機銃掃射した弾痕。
右上はAN-M64 500ポンド爆弾の不発弾(レプリカ)
右下は焼夷弾の構成部品類。

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焼夷弾の尾翼を利用して電熱線を組込み、コンロとして利用。
こちらも江戸東京博物館にて。

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戦時下の民家の様子。照明にはカバーをして必要最低限の明かりで生活。窓のテーピングは爆風や火災によるガラスの飛散を防ぐもの。右のビンには穀物が入っており棒でついて脱穀する。
東京空襲資料館にて。

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灯火管制対策の、光の照射方向を制限する電球。
東京空襲資料館にて。

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神の国だからといって戦争に負けないとは限りません。
石原知事あたりに言わせると大空襲も天罰、なんでしょうか?
東京空襲資料館にて。

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何らかの理由で信管が作動せず、爆発しないままの爆弾類は不発弾と呼ばれる。
陸上自衛隊広報センターの展示。
爆弾はAN-M66 2000ポンド通常爆弾と思われる。
陸上自衛隊は2011年に約1580件、約38トンもの爆発物を処理したという。
これらには、太平洋戦争中に空襲で落とされた爆弾以外にも、旧軍の開発品、上陸作戦時の戦闘による砲弾、幕末のものなど様々なものが含まれる。危険と隣り合わせの作業ながら、自衛隊では一度も事故を起こしたことがない。

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東京大空襲にり東京都23区の3分の一の面積が消失し、死者・行方不明者は10万人以上と見られる。
写真は荒川放水路上に架けられた首都高を走るバスから西方を見たところ。この地区の被害は特に多かった。
右は建設中の東京スカイツリー。中央奥に東京タワーが見える。2010年1月の撮影。

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その後完成した東京スカイツリーから、爆撃された荒川放水路〜隅田川に挟まれた地域を見る。
左上が荒川。前方は東京湾。
東京、実に緻密に建物が密集している都市だ。
35 42 36 N 139 48 38 E

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江戸時代から台場として使われていた猿島だが、1941年頃から鉄筋コンクリート製の高射砲座が5基設置され、米軍機を迎撃した。
35 17 11 N 139 41 39 E

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同じく猿島にて。太平洋戦争の時の防空監視所らしい。


【調布掩体壕】
陸軍調布基地の掩体壕は太平洋戦争中、有蓋、無蓋合わせて60基ほど作られたが、現在は4基残っている。
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国道20号線沿いにある白糸台の掩体壕。保存公開の予定があるということで今後が楽しみ。
35 40 4 N 139 30 48 E

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民家、工場、畑に囲まれていて近づけない掩体壕。白糸台のすぐ北にある。
35 40 13 N 139 30 52 E

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大沢2号掩体壕
35 40 39 N 139 31 39 E

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大沢1号掩体壕と、その手前に置かれている三式戦闘機「飛燕」のブロンズ模型
35 40 36 N 139 31 42 E

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飛燕のプロペラ。2009年に都立武蔵野の森の整備工場現場で、飛燕のプロペラ2機分、五式戦闘機のプロペラ1機分が地下2mから出土。
終戦時、日本陸海軍の航空機は再利用できないようひとまずプロペラを外されていたが、その時に埋められたものであろうか?



【茂原掩体壕】

千葉県茂原市には10基(11基?)の海軍掩体壕が残っている。
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物件A:倉庫として使用。前、後が塞がれ、前方には出入りのドアが設けられている。
35 27 3 N 140 18 36 E

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物件B:新茂原駅徒3分で交通至便。
屋根付き駐車場、資材置き場として使用されている。
35 27 1 N 140 18 10 E

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物件C:唯一、茂原市が保存しているもの。大型。
35 26 59 N 140 18 47 E

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物件D:雑木林の中にあり殆ど見えない
35 27 6 N 140 18 45 E

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物件E:程度良好。空き地の真ん中にあり、内部に入れる。
35 27 4 N 140 18 53 E
近所の女の子2名が登ったりして遊んでた。
私に気づいて「これに飛行機入てたんだよ」「昔、ここに基地があったんだよ」と教えてくれた。
小学校で習うんだろうか。感心感心。
右手に見えるのは物件F。爆撃を受けても全滅しないよう、間口は様々な方向を向いている。

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物件Eの内部。土まんじゅうを作り、その上に莚を敷き詰め、コンクリートを盛っていく。一応鉄筋が入っている。入り口周りの平面部は木枠を作ってコンクリートを流す。
その後土、莚、木枠を取り除いて出来上がり。茶色く点々と見えるのは触ったところ軽い石の様だが比較的均一に間引かれている。建設時の何らかの目印なのだろうか。

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物件F:国道沿い、田んぼの真ん中。
35 27 1 N 140 18 55 E

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物件G: 畑の奥にあり、周囲は木が育った。
35 26 59 N 140 19 3 E

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物件Gの内部。農機具置き場として使っている。

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物件H: 大きな家の庭にあり近づけず。
35 26 53 N 140 19 4 E

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物件I:窓、出入り口が両端に設けられ、電気も引き込まれている。住居?作業場?
35 26 50 N 140 19 13 E

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物件J:近づけない。前後の円筒の段差がくっきりと付いている。
35 26 49 N 140 18 43 E

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茂原海軍航空基地の滑走路だった所。現在は道路になっている。長さ1000m。

【九州地区】
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現在は興人の敷地内にある、旧佐伯海軍航空隊の指揮所跡。
守衛所で申請すれば見学出来る。感謝!
32 58 03 N 131 54 58 E

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佐伯海軍航空隊指揮所跡のすぐ近くで、良好な状態で保存されている掩体壕。
こちらは国の登録有形文化財第44-0068号として保護されている。
解説パネルと、解説パンフレットの抜粋:
昭和9年佐伯海軍航空隊が開隊。次いで、昭和10年に飛行場が完成。
太平洋戦争末期になると各地で防備体制を整えるようになり、昭和19年に空襲から戦闘機を守るため掩体壕が建設された。
佐伯市は昭和20年3月18日に空襲を受け、佐伯海軍航空隊飛行場も昭和20年5月に大規模な爆撃を受け壊滅的な被害を受けた。
この掩体壕は鉄筋鉄鋼コンクリート木製枠造で、当時の滑走路に平行して造られた。
大きさは高さ4.5m 幅17.32m、奥行き12.52m、天蓋壁厚さ0.5mである。
32 58 09 N 131 54 59 E

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すぐ隣にあるもう一つの掩体壕。茨城のものと比べて、内壁が非常に丁寧に仕上げられている。こちらは漁具等の物置として使われている。
32 58 11 N 131 54 60 E

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太平洋戦争関連戦争遺跡の宝庫、九州の、日本陸軍大刀洗(たちあらい:太刀洗ではないので注意)飛行場の掩体壕。
現在周辺は農地になっている。
3 25 53 N 130 37 00 E

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大刀洗飛行場の監的壕。以下パネルの解説より(座標追記)
大刀洗飛行場の南側にあった池のほとり(33 24 05 N 130 36 47 E)に設置されていた建造物で、軍用機による射撃訓練に使われました。具体的には、別の飛行機が曳航している射撃用の「吹き流し」に向かって、実弾を使って射撃訓練をする戦闘機や練習機の着弾を、この中に入った観測員が双眼鏡で確認していました。現在はこの場所(33 24 38 N 130 36 52 E)へ移動されています。

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全国随所に見られる防空壕跡。こちらは大分県の鶴御岬近辺のもの。
32 56 09 N 132 04 44 E

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熊本県菊池市泗水(しすい)町にある、菊池(花房)陸軍飛行場の高架水槽。
銃撃を受けた跡がある。
32 56 09 N 130 47 28 E

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同じく菊池(花房)陸軍飛行場の弾薬庫。
32 56 09 N 130 47 37 E

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菊池(花房)陸軍飛行場格納庫の土台が残る。
32 56 07 N 130 47 42 E


【本土防空戦】
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日本を代表する戦闘機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)。
写真は52型で本土防空戦で主に使われたものと概ね同じ。
オリジナルの栄エンジン付で唯一飛行可能な機体。
米国カリフォルニアのプレーンズオブフェーム航空博物館所有。
主翼は作り直している。現在は殆ど飛んでいないらしい。
1995年の龍ヶ崎飛行場でのイベントにて撮影。
この時はP-51Dとセットで来日。比較すると零戦の軽快な飛行は印象的だが、皺だらけのペコペコの外板は涙を誘う。

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零戦63型に乗り込むパイロットの人形。万一不時着やパラシュート降下した時、敵兵に間違えられて民間人に殴り殺しに合わない様に(実際その様な事件があった)、海軍旗が袖に縫い付けられている。
サンディエゴの航空博物館で展示されている機体。

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防空用にはそれなりの性能を有していた五式戦闘機。
主に西日本の防空を担った。英空軍コスフォード博物館に保存展示されている唯一の現存機で程度良好。

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高高度で飛来する米爆撃機に対抗する為、それまでの零戦に代表される軽量の格闘戦向きの軽量低翼面加重からうって変わって、高速高々度要撃戦闘機として開発された雷電。
米国カリフォルニア州のプレーンズオブフェーム航空博物館での展示機。


【機銃掃射】
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数多く現存する九州近代産業遺産の一つ、旧国鉄久大線の豊後森(ぶんごもり)機関庫。1934年完成。手前は機関車の転回用ターンテーブル。
裏に回ってしげしげと眺める人は少ないと思うのだが...

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裏の壁には機銃掃射の跡。

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以下解説パネルより。
菊池武光銅像
正平14年(1359年)8月7日大保原(小郡市)で武家方の少弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隈原まで進出した。
この方面で戦っていた少弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光は更に小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。しかし夜明け前からの激戦で少弐方18,000人、菊池方6,900人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刃は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来、河水に笑って刃を洗えば、血は奔湍(ほんたん)にほとばしって、紅雪をふく ・頼山陽」
「そのかみの血潮の色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川・乃木大将」
個人はこのありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年(1937年)建立されたものである。
なお、馬腹や台座の弾痕は昭和20年(1940年)3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残です。
33 24 19 N 130 36 31 E

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西鉄筑紫駅待合所を近くに移設保存している。
終戦1週間前の1945年8月8日、グラマン(諸説あり)による駅と列車への機銃掃射の弾痕(屋根部。赤矢印でマーキングされている2箇所)が残る。
33 27 42 N 130 33 07 E

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いわゆる「グラマン」といえばこれ、F6Fヘルキャット。
ダックスフォード博物館にて、整備中。

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本土の地上攻撃に参加したヴォートF4Uコルセア戦闘機。
アメリカの航空ショーで撮影。

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機銃掃射の弾痕の残る、旧日立航空機株式会社立川変電所
35 44 7 N 139 25 17 E

以下、建物前の解説板より引用
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東大和市文化財 史跡・震災建造物 旧日立航空機株式会社立川変電所
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯(がす)電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣りにあった設備で受電した66,000ボルトの電気を、3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。
2回目は4月19日、P-51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B-29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、更に多くの負傷者を出しました。

この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるに当たり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいと言う市民の活動や、元従業員の方々の熱意が一つの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
そして東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物には次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。
この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受け止めていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月
東大和市教育委員会
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実にすばらしい戦跡保存です。
同じく空襲の爪跡の残る給水塔は取り壊されてしまいましたが、一部はこの変電所の横に移設保存されています。
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JR鶴見線国道駅脇に残る機銃掃射の跡。
ちょっと見えにくいが緑色のネットで崩落保護されている箇所にも弾痕がある。
35 30 04 N 139 40 31 E
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国道駅は、横浜市内にありながら無人駅で、線路下のアーケードは昭和40年代で時間が止まったような趣きがある。
ポストに貼られた民営化後のJP日本郵便シールと、自動販売機飲料の値段が、かろうじて現代の世界と一致している。
そして左の柱にもよく見ると弾痕が。

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JR中央線 高尾駅一番ホームの31番支柱に残る、機銃掃射の弾痕
35 38 32 N 139 16 56 E


【大阪城】

大阪を代表する観光地の一つ、大阪城は、秀吉による築城から大阪夏の陣による落城、幕末の混乱時大半の建物の消失、明治政府による軍用地としての一帯の利用、天守閣の再建、そして第二次世界大戦での爆撃と、様々な時代の歴史の舞台となってきた。
とくに戦争関連の遺跡としては、明治3年(1870年)以降第二次世界大戦終結まで陸軍が軍用地として使用していたこと、そしてその為に度重なる米軍の攻撃を受けたことにより、様々な近代戦跡が残っている。
何と戦跡の地図のパネルもあり、観光地の一部になっている。
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大阪城の天守閣は1930年に再建されたもの。
再建の為の費用は市民から募金で集められたのだが、集まった150万円によって天守閣(写真左)の再建だけではなく、ヨーロッパ調の建築で陸軍第4師団司令部庁舎が同時期に建てられた。
第二次世界大戦の激化と共に司令部庁舎には地下壕が掘られた。
爆撃により写真右下の石畳が破損、現在も修理の跡と波打っているのが見られる。
34 41 09 N 135 31 35 E
再建された大阪城と共に司令部庁舎も戦災を免れ、占領軍による接収の後、警察本部、博物館として使われた。

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天守閣の土台は、爆撃により石垣がズレた跡がはっきりと残る。
天守閣自体は昭和にコンクリートで再建されたものなので歴史的な価値は低く(←あくまでも個人の感想です...)、この戦争の傷跡の方が歴史の記録という意味で貴重だと思う。
34 41 15 N 135 31 34 E

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天守閣近くの石垣の角部に残る、航空機からの機銃掃射の弾痕。
34 41 17 N 135 31 33 E

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大阪城に程近いJR大阪環状線森ノ宮駅前、ビルやマンションの谷間に残るように建つ鵲森宮(かささぎもりのみや 通称森之宮神社)
日本書紀にも登場する歴史ある神社で、589年に聖徳太子により建てられた。...って、しらねーよ、そんな大昔の事。
狛犬の台座に爆撃の跡(特に向かって右の方が損傷跡が多い)が無ければ、古代史にも神社にもあまり興味ない私は訪問していなかっただろう。
34 40 50 N 135 31 60 E


【吉見百穴地下軍需工場】
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中島飛行機のエンジン工場を避難させる為に、埼玉県東松山市の史跡吉見百穴に作った地下工場の壕。右下の大きな間口が地下壕への入り口。
周囲には200以上の四角い穴が開いている。
吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓。
全国的にここでしか見られない貴重な横穴墓の内10数個はこの地下工場工事で破壊されてしまった。
そしてまた地下壕も歴史の一部となった。
36 2 23 N 139 25 17 E

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地下工場の内部。全体の一部が歩ける。
工事には朝鮮人労働者が徴用された。


【松代大本営】
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長野県長野市松代にある、舞鶴山山腹の、天皇御座所外観。
現在は気象庁の地震観測所が使っている。


戦局の悪化と共に、大日本帝国の国家中枢機能を移転すべく、
陸軍は、現在の長野県長野県松代にある3つの山(象山、舞鶴山、皆神山)に広大な地下坑道を掘った。
工事は1944年11月から始まり、3箇所で日本人3000人と朝鮮人7000人の労働者が作業に当たった。
当時の金で2億円が費やされ、工事が7割程度進んだところで終戦となった。
合計200〜300名が事故、懲罰などで犠牲になったと言われるが、関係書類が焼却されており真相は不明。
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舞鶴山山腹の、天皇御座所。いくつかある部屋の内の一つが外から見える。
36 32 39 N 138 12 24 E

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天皇御座所の奥には天皇がご避難(←この日本語でいいのか?)する防空壕があった。
現在は気象庁の地震観測所となっており、防空壕は見られないが、入り口の階段までは行ける。
36 32 38 N 138 12 22 E
尚、血筋が絶えないよう、皇太子(平成天皇)は同じ信州ながら天皇とは離れた所に住まわれる予定だった。

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大本営となるはずだった、舞鶴山メインの壕入り口
気象庁が精密地震観測を行っており中には入れないが、
写真を見る限り象山とは異なり壁面を綺麗にコンクリートで仕上げてある。
36 32 37 N 138 12 12 E

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象山地下壕の入り口。
現在は観光地と化している。
入場無料、ヘルメット(貸してくれる)着用。
36 33 21 N 138 11 50 E

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象山地下壕内部。
碁盤の目状にトンネルが走る。
ここには政府機関、NHK、中央電話局が入る予定だった。
象山地下壕は総延長5km超の内、片道500mちょっとが見学できる。
舞鶴山とは異なり、壁面、床面共に素掘り。
工事を担当した班によって技術の差があり、比較的綺麗に仕上がっているトンネルもあれば、荒い仕上げもある。
埼玉県の吉見百穴に比べて岩盤が固いのか、掘りにくかった様子が伺える。

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発破や手作業で掘り出した瓦礫はトロッコで外に運び出された。
レールは無いが、枕木の跡が今も残る。
尚、備蓄庫になる予定だった皆神山地下壕は崩落が酷く、現在立ち入り禁止になっている。

日本の本土空襲を舞台にした映画としては、アニメ映画「火垂るの墓」(1988年)がある。
映画館でしっかり見たのだが、これを見に行ったわけではなく、となりのトトロを見に行ったらオマケでやっていた、というのが実情。
トトロはとにかく面白かった。一番気に入ったのは、ラスト近くで、人には見えない猫バスに犬が吼えている所。犬って猫を見つけて吼えまくるのが得意。
話を火垂るの墓に戻して、正直、主人公の少年少女に感情移入出来なかった。戦災孤児の話だが、戦災孤児にならない道もあったのに...とか勝手に思ってしまう。戦争未経験者の勝手な感想なんだが。




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