戦跡散歩Home

東京大空襲と本土防空戦
Tokyo Air Raid and home defence of Japan

【東京大空襲とB-29】
19450310_TokyoAirRaid_23L.jpg
1945年3月10日の東京大空襲をはじめとして、日本各地を爆撃したボーイングB-29爆撃機。リモコン銃座、与圧キャビンなどを備える。
米国アリゾナ州のピーマ航空博物館に屋内保存されている機体、44-70016「センチメンタルジャーニー」←松本伊代...(古っ)で第458爆撃飛行隊の所属。
本機は実戦経験しておりグアムから日本本土空襲に参加した。

19450310_TokyoAirRaid_98.jpg
米国カリフォルニア州のキャッスル航空博物館で屋外展示されているB-29。こちらは朝鮮戦争当時の塗装になっている。3機の部品を組み合わせているとのこと。

19450310_TokyoAirRaid_73.jpg
アメリカの航空ショーでデモ飛行する飛行可能なB-29爆撃機「FIFI」
オリジナルの登録は44-62070、実戦参加はしておらずチャイナレーク米海軍武器センターで標的として放置されていたが1971年にウォーバーズ保存団体であるConfederate Air Force (現Comemorative Air Force)の手に渡り、現地から離陸に成功、以降アメリカ、カナダの航空ショーで展示されている。写真は2001年に撮影。
実戦投入されたB-29の殆どはアルミ地肌剥き出しだったが、本機は保護の為か銀色に塗装されている。
その後本機はエンジンを装換したとのこと。
尚、チャイナレイクからは1998年にもう一機のB-29が救出され2016年以降飛行可能となった。(44-69972「Doc's Friends」)
現在飛行可能なB-29はこの2機のみ。
チャイナレイクには今もB-29の残骸が残っている様で 35 31 28 N 117 10 13 W で確認できる。

19450310_TokyoAirRaid_75.jpg
水平飛行するB-29

19450310_TokyoAirRaid_74.jpg
P-51ムスタング戦闘機の護衛を伴って飛行する。B-29の巨大さがよくわかる。

19450310_TokyoAirRaid_81.jpg
ネバダ州リノで行われたエアレースのアトラクションで低空をパスする。

19450310_TokyoAirRaid_80.jpg
テキサス州ヒューストンの航空ショーにて、巨大な翼が覆いかぶさるように通り過ぎた。
この後機内を公開したので折角なので見学。

19450310_TokyoAirRaid_78.jpg
B-29のコックピット。爆撃手席への通路を確保するため副操縦士席との間が空いている。前方は全面ガラス張りで眺めが良さそうだ。これ、スターウォーズに出てくるミレニアムファルコン...

19450310_TokyoAirRaid_77.jpg
フライトエンジニア席

19450310_TokyoAirRaid_76.jpg
前部居住区と後部の銃座クルーを結ぶ連絡トンネル。
映画エイリアン2でビショップがアンテナ調整の為潜って移動する通路を思い出してしまった。

19450310_TokyoAirRaid_C2.jpg
こちらはピーマ航空博物館のB-29。爆弾倉から内部を見る。天井を通るダクト状のものは、前部居住区と後部の銃座クルーを結ぶ連絡トンネル。黄色のタンクは万一与圧が失われた時の為の酸素ボンベ。
中翼のB-29は翼桁が胴体を貫いておりこのため爆弾倉は前後に分かれていた。

19450310_TokyoAirRaid_C1.jpg
ピーマ航空博物館に展示されている前出の機体の、右舷銃手のブリスター窓。ガンサイトが見える。
それまでのB-17やB-24の銃手がカンと経験で見越しを取りながら直接銃を敵機に向け発砲していたのとは異なり、B-29では銃手は敵機の大きさを見極め(機種により異なる翼幅で設定)、ガンサイトを敵に向けながら敵機までの距離(レティクルが目視の敵機の大きさ一杯になる様ダイヤルを調整)をリアルタイムで設定する(結構難かしそう...)。
敵機までの距離を測るレーダーこそ無いものの弾道計算による射角の設定はアナログコンピューターが行い、無人ターレットの銃を敵機に向けるというGE社のシステムを搭載した。

19450310_TokyoAirRaid_B8.jpg
東京都足立区の農地にあるB-29のタイヤ。近くに墜落した機体のものとのこと。 35 48 17 N 139 45 49 E

19450310_TokyoAirRaid_B9.jpg
タイヤメーカー・グッドイヤーのロゴがある。

19450310_TokyoAirRaid_C7.jpg
B-29のライト R-3350エンジンに付いていた銘版。ダッジ製。 大田区立郷土博物館の展示品。

19450310_TokyoAirRaid_A0.jpg
B-29の酸素ボンベ。調布市郷土博物館の展示品

19450310_TokyoAirRaid_06.jpg
六角形の棒状のものはM69焼夷弾。これを19本×2段に束ねたものがE46集束焼夷弾。B-29一機当たりE46集束焼夷弾を40束(M69焼夷弾1520発)搭載した。
上空700mで束が解かれ、地上に落下すると炸薬が破裂し、着火した油脂が飛散する。
木造家屋の多い日本の市街地への空襲の為開発された。
東京空襲資料館にて。

19450310_TokyoAirRaid_B5.jpg
集束焼夷弾の前部キャップ。直径約φ400o。 川崎市平和館の展示。

19450310_TokyoAirRaid_61.jpg
江戸東京博物館での東京空襲関連の展示の一部。
左上は飛燕が撃墜したB-29に搭載されていたブローニングM2機関銃。
左下は鶴見線の鉄橋を機銃掃射した弾痕。
右上はAN-M64 500ポンド爆弾の不発弾(レプリカ)
右下は焼夷弾の構成部品類。

19450310_TokyoAirRaid_79.jpg
撃墜されたB-29搭乗員を含む鬼畜米英捕虜が収容されていた大森収容所の跡地は平和島競艇場になっている。

19450310_TokyoAirRaid_62.jpg
焼夷弾の尾翼を利用して電熱線を組込み、コンロとして利用。
こちらも江戸東京博物館にて。

19450310_TokyoAirRaid_08.jpg
戦時下の民家の様子。
防空法により灯火の使用が厳しく制限されていた。照明にはカバーをして必要最低限の明かりで生活。
窓のテーピングは爆風や火災によるガラスの飛散を防ぐもの。
右下の瓶は米。配給量を維持するため、米穀搗精等制限令が1939年に発令。食料事情の悪化に伴い玄米の皮が多く含まれる米が流通、これを脱穀するためにビール瓶や一升瓶に入れて棒でついて精米した。
東京空襲資料館にて。

19450310_TokyoAirRaid_A1.jpg
軍管区司令部から警察、郵便局、放送局などを通じて警報を発令していた。
空襲警報の掛札の裏側には青字で「警戒警報発令中」と書かれている。空襲の危機が迫るとひっくり返して赤字の「空襲警報発令中」を表示する。
調布市郷土博物館にて。

19450310_TokyoAirRaid_A2.jpg
同じく調布市郷土博物館の展示。手押し消防ポンプと拍子木。

19450310_TokyoAirRaid_A4.jpg
左より鉄兜、ガスマスク(市民用)、空襲警報サイレン、防衛食陶器製容器、焼夷弾。品川歴史館にて。

19450310_TokyoAirRaid_A5.jpg
同じく品川歴史館にて。左よりゲートル、防空頭巾、慰問袋。

19450310_TokyoAirRaid_B6.jpg
本土空襲の次は本土決戦だ! 左端に立てかけてあるのが竹槍。
ライフルやサブマシンガンを持った戦闘訓練を受けている米兵相手にどうしろと…
川崎市平和館の展示。

19450310_TokyoAirRaid_25.jpg
灯火管制対策の、光の照射方向を制限する電球。
東京空襲資料館にて。

19450310_TokyoAirRaid_07.jpg
神の国だからといって戦争に負けない保障はありません。 東京空襲資料館にて。

19450310_TokyoAirRaid_40.jpg
何らかの理由で信管が作動せず、爆発しないままの爆弾類は不発弾と呼ばれる。
陸上自衛隊広報センターの展示。
爆弾はAN-M66 2000ポンド通常爆弾と思われる。
陸上自衛隊は2011年に約1580件、約38トンもの爆発物を処理したという。
これらには、太平洋戦争中に空襲で落とされた爆弾以外にも、旧軍の開発品、上陸作戦時の戦闘による砲弾、幕末のものなど様々なものが含まれる。危険と隣り合わせの作業ながら、自衛隊では一度も事故を起こしたことがない。

19450310_TokyoAirRaid_B4.jpg
町内で不発弾騒ぎがあり、朝霞駐屯地から不発弾処理に来てくれた陸上自衛隊第102不発弾処理隊の73式小型トラック。周辺とナンバープレートを画像処理しております。
騒ぎは、空襲の爆弾ではなく、火薬の抜かれている砲弾を長年持っていた持ち主が死去し、家を解体するときに発見という事らしい。

19450310_TokyoAirRaid_24.jpg
東京大空襲にり東京都23区の3分の一の面積が消失し、死者・行方不明者は10万人以上と見られる。
写真は荒川放水路上に架けられた首都高を走るバスから西方を見たところ。この地区の被害は特に多かった。
右は建設中の東京スカイツリー。中央奥に東京タワーが見える。2010年1月の撮影。

19450310_TokyoAirRaid_C9.jpg
隅田川にかかる言問橋。基礎はオリジナルで戦災で黒ずんだ状態と言われる。
35 42 51 N 139 48 12
E
19450310_TokyoAirRaid_D0.jpg
言問橋のたもとにある東京大空襲の慰霊碑。
地元の人がやってきて手慣れた手つきで花と水を交換、手を合わせて去っていったのが印象的だった。
35 42 55 N 139 48 09 E

19450310_TokyoAirRaid_60.jpg
東京スカイツリーから、爆撃された荒川放水路〜隅田川に挟まれた地域を見る。
左上が荒川。前方は東京湾。
東京、実に緻密に建物が密集している都市だ。
35 42 36 N 139 48 38 E

19450310_TokyoAirRaid_A6.jpg
上野東京大空襲の犠牲者の多くは上野の山に運ばれた。巨大な穴を掘って仮埋葬したが、2年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえで横綱町の震災記念堂 35 41 57 N 139 47 46 Eに祀られた。
写真は仮埋葬地の近くに建てられている東京大空襲慰霊碑。35 43 04 N 139 46 44 E

19450310_TokyoAirRaid_B3.jpg
空襲を受けて燃える町のジオラマ。川崎市平和館の展示。

19450310_TokyoAirRaid_B7.jpg
罹災証明書。これを提示すると、鉄道の乗車券優先発行、避難先で食糧の配給を受けるなどの便宜が図られた。
1945年4月15日夜〜16日未明にかけての川崎大空襲で被災したものだろう。
川崎市平和館の展示。

19450310_TokyoAirRaid_82.jpg
千住神社境内にある防空壕跡。
35 44 50 N 139 47 50 E

19450310_TokyoAirRaid_D1.jpg
京急本線の旧平沼駅跡地。1945年5月29日の横浜大空襲で被災、駅の遺構は残っているが、上部構造の骨組みは撤去されてしまった。
35 27 38 N 139 37 11 E

19450310_TokyoAirRaid_D4.jpg
新玉小学校(写真奥の校舎)横に残る爆弾着弾跡:小田原市教育委員会設置のパネルより
1945年8月13日の午前8時30分ころ、小型機による空襲があり30名の犠牲者を出しました。このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、若い教員1名と用務員2名が犠牲になりました。
この空襲で投下された爆弾の一つが、ここ蓮上院土塁に着弾し、土塁が大きく損壊してしまいました。
戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所です。
35 15 20 N 139 09 56 E

19450310_TokyoAirRaid_65.jpg
江戸時代から台場として使われていた猿島だが、1941年頃から鉄筋コンクリート製の高射砲座が5基設置され、米軍機を迎撃した。
35 17 11 N 139 41 39 E

19450310_TokyoAirRaid_69.jpg
同じく猿島にて。太平洋戦争の時の防空監視所らしい。


19450310_TokyoAirRaid_72s.jpg
神奈川県逗子市にある高台の披露公園には海軍の高射砲陣地3基と監視所の跡が残っており、現在は各々花壇、展望台、猿舎、レストハウスになっている。
写真は最もよく保存されている猿舎。
35 17 45 N 139 33 52 E


19450310_TokyoAirRaid_A3.jpg
三浦半島の大塚山頂上付近に大日本帝国海軍が設置した高射砲の台座部分。3基並んでいたが1基だけ残った。
現在は砲台山と呼ばれている。35 13 09 N 139 39 42 E



【調布掩体壕】
陸軍調布基地の掩体壕は太平洋戦争中、有蓋、無蓋合わせて60基ほど作られたが、現在は4基残っている。
19450310_TokyoAirRaid_04.jpg
国道20号線沿いにある白糸台の掩体壕。保存公開の予定があるということで今後が楽しみ。
35 40 4 N 139 30 48 E

19450310_TokyoAirRaid_03.jpg
民家、工場、畑に囲まれていて近づけない掩体壕。白糸台のすぐ北にある。
35 40 13 N 139 30 52 E

19450310_TokyoAirRaid_02.jpg
大沢2号掩体壕
35 40 39 N 139 31 39 E

19450310_TokyoAirRaid_05.jpg
大沢1号掩体壕と、その手前に置かれている三式戦闘機「飛燕」のブロンズ模型
35 40 36 N 139 31 42 E

19450310_TokyoAirRaid_01.jpg
飛燕のプロペラ。2009年に都立武蔵野の森の整備工場現場で、飛燕のプロペラ2機分、五式戦闘機のプロペラ1機分が地下2mから出土。
終戦時、日本陸海軍の航空機は再利用できないようひとまずプロペラを外されていたが、その時に埋められたものであろうか?



【印旛飛行場の掩体壕】
19450310_TokyoAirRaid_C0s.jpg
千葉県印西市の指定記念物(史跡)として保護されている、無蓋掩体壕。陸軍の印旛飛行場に併設されたもの。
クリックで拡大。
35 47 35 N 140 09 59 E



【茂原掩体壕】

千葉県茂原市には10基(11基?)の海軍掩体壕が残っている。
19450310_TokyoAirRaid_09.jpg
物件A:倉庫として使用。前、後が塞がれ、前方には出入りのドアが設けられている。
35 27 3 N 140 18 36 E

19450310_TokyoAirRaid_10.jpg
物件B:新茂原駅徒3分で交通至便。
屋根付き駐車場、資材置き場として使用されている。
35 27 1 N 140 18 10 E

19450310_TokyoAirRaid_11.jpg
物件C:唯一、茂原市が保存しているもの。大型。
35 26 59 N 140 18 47 E

19450310_TokyoAirRaid_12.jpg
物件D:雑木林の中にあり殆ど見えない
35 27 6 N 140 18 45 E

19450310_TokyoAirRaid_13.jpg
物件E:程度良好。空き地の真ん中にあり、内部に入れる。
35 27 4 N 140 18 53 E
近所の女の子2名が登ったりして遊んでた。
私に気づいて「これに飛行機入てたんだよ」「昔、ここに基地があったんだよ」と教えてくれた。
小学校で習うんだろうか。感心感心。
右手に見えるのは物件F。爆撃を受けても全滅しないよう、間口は様々な方向を向いている。

19450310_TokyoAirRaid_14.jpg
物件Eの内部。土まんじゅうを作り、その上に莚を敷き詰め、コンクリートを盛っていく。一応鉄筋が入っている。入り口周りの平面部は木枠を作ってコンクリートを流す。
その後土、莚、木枠を取り除いて出来上がり。茶色く点々と見えるのは触ったところ軽い石の様だが比較的均一に間引かれている。建設時の何らかの目印なのだろうか。

19450310_TokyoAirRaid_15.jpg
物件F:国道沿い、田んぼの真ん中。
35 27 1 N 140 18 55 E

19450310_TokyoAirRaid_16.jpg
物件G: 畑の奥にあり、周囲は木が育った。
35 26 59 N 140 19 3 E

19450310_TokyoAirRaid_17.jpg
物件Gの内部。農機具置き場として使っている。

19450310_TokyoAirRaid_18.jpg
物件H: 大きな家の庭にあり近づけず。
35 26 53 N 140 19 4 E

19450310_TokyoAirRaid_19.jpg
物件I:窓、出入り口が両端に設けられ、電気も引き込まれている。住居?作業場?
→「空から日本を見てみよう」で紹介されてました。個人宅の卓球場だそうで。
35 26 50 N 140 19 13 E

19450310_TokyoAirRaid_20.jpg
物件J:近づけない。前後の円筒の段差がくっきりと付いている。
35 26 49 N 140 18 43 E

19450310_TokyoAirRaid_21.jpg
茂原海軍航空基地の滑走路だった所。現在は道路になっている。長さ1000m。

【九州地区】
19450310_TokyoAirRaid_52.jpg
現在は興人の敷地内にある、旧佐伯海軍航空隊の指揮所跡。
守衛所で申請すれば見学出来る。感謝!
32 58 03 N 131 54 58 E

19450310_TokyoAirRaid_53.jpg
佐伯海軍航空隊指揮所跡のすぐ近くで、良好な状態で保存されている掩体壕。
こちらは国の登録有形文化財第44-0068号として保護されている。
解説パネルと、解説パンフレットの抜粋:
昭和9年佐伯海軍航空隊が開隊。次いで、昭和10年に飛行場が完成。
太平洋戦争末期になると各地で防備体制を整えるようになり、昭和19年に空襲から戦闘機を守るため掩体壕が建設された。
佐伯市は昭和20年3月18日に空襲を受け、佐伯海軍航空隊飛行場も昭和20年5月に大規模な爆撃を受け壊滅的な被害を受けた。
この掩体壕は鉄筋鉄鋼コンクリート木製枠造で、当時の滑走路に平行して造られた。
大きさは高さ4.5m 幅17.32m、奥行き12.52m、天蓋壁厚さ0.5mである。
32 58 09 N 131 54 59 E

19450310_TokyoAirRaid_54.jpg
すぐ隣にあるもう一つの掩体壕。茨城のものと比べて、内壁が非常に丁寧に仕上げられている。こちらは漁具等の物置として使われている。
32 58 11 N 131 54 60 E

19450310_TokyoAirRaid_56.jpg
太平洋戦争関連戦争遺跡の宝庫、九州の、日本陸軍大刀洗(たちあらい:太刀洗ではないので注意)飛行場の掩体壕。
現在周辺は農地になっている。
3 25 53 N 130 37 00 E

19450310_TokyoAirRaid_55.jpg
大刀洗飛行場の監的壕。以下パネルの解説より(座標追記)
大刀洗飛行場の南側にあった池のほとり(33 24 05 N 130 36 47 E)に設置されていた建造物で、軍用機による射撃訓練に使われました。具体的には、別の飛行機が曳航している射撃用の「吹き流し」に向かって、実弾を使って射撃訓練をする戦闘機や練習機の着弾を、この中に入った観測員が双眼鏡で確認していました。現在はこの場所(33 24 38 N 130 36 52 E)へ移動されています。

19450310_TokyoAirRaid_57.jpg
全国随所に見られる防空壕跡。こちらは大分県の鶴御岬近辺のもの。
32 56 09 N 132 04 44 E

19450310_TokyoAirRaid_45.jpg
熊本県菊池市泗水(しすい)町にある、菊池(花房)陸軍飛行場の高架水槽。
銃撃を受けた跡がある。
32 56 09 N 130 47 28 E

19450310_TokyoAirRaid_46.jpg
同じく菊池(花房)陸軍飛行場の弾薬庫。
32 56 09 N 130 47 37 E

19450310_TokyoAirRaid_47.jpg
菊池(花房)陸軍飛行場格納庫の土台が残る。
32 56 07 N 130 47 42 E


【本土防空戦】
19450310_TokyoAirRaid_58.jpg
日本を代表する戦闘機、海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)。
写真は52型で本土防空戦で主に使われたものと概ね同じ。
オリジナルの栄エンジン付で唯一飛行可能な機体。
米国カリフォルニアのプレーンズオブフェーム航空博物館所有。
主翼は作り直している。現在は殆ど飛んでいないらしい。
1995年の龍ヶ崎飛行場でのイベントにて撮影。
この時はP-51Dとセットで来日。比較すると零戦の軽快な飛行は印象的だが、皺だらけのペコペコの外板は涙を誘う。

19450310_TokyoAirRaid_41.jpg
零戦63型に乗り込むパイロットの人形。万一不時着やパラシュート降下した時、敵兵に間違えられて民間人に殴り殺しに合わない様に(実際その様な事件があった)、海軍旗が袖に縫い付けられている。
サンディエゴの航空博物館で展示されている機体。

19450310_TokyoAirRaid_C5.jpg
19450310_TokyoAirRaid_C4.jpg
防空用にはそれなりの性能を有していた日本陸軍の五式戦闘機。
主に西日本の防空を担った。英空軍コスフォード博物館に保存展示されている唯一の現存機で程度良好。

19450310_TokyoAirRaid_27.jpg
高高度で飛来する米爆撃機に対抗する為、それまでの零戦に代表される軽量の格闘戦向きの軽量低翼面加重からうって変わって、高速高々度要撃戦闘機として開発された日本海軍の局地戦闘機 雷電。
米国カリフォルニア州のプレーンズオブフェーム航空博物館での展示機。


19450310_TokyoAirRaid_B0.jpg
愛媛県愛南に展示されている局地戦闘機 紫電改。
第三四三海軍航空隊(剣部隊)所属機で、1945年7月24日の豊後水道上空々中戦に参加した後未帰還となった6機の内の1機ではないかといわれている。
1978年11月18日に久良湾海底41mで地元ダイバーが機体を発見、翌1979年7月14日に引揚げ、新明和工業で補修塗装後南レク馬瀬山公園で屋内展示されている。
着水時にプロペラが曲がった状態はそのまま。
機首下の6名の写真は空戦当日の未帰還者。
紫のマフラーは当時搭乗員が通った松山市内の食堂の女将と女学生から贈られたというイメージのもの。
オリジナルのマフラーも1枚展示されている。

19450310_TokyoAirRaid_A9.jpg
本機は実戦経験、不時着水機ということで、米国が評価の為持ち帰り現在まで保存している奇麗な機体とはまた違った気迫が感じられる。

19450310_TokyoAirRaid_A8.jpg
まぁこの展示が無かったら愛媛県最南端には来なかったかも。
ちなみに東京から青春18きっぷで高松へ⇒小豆島観光⇒栗林公園観光⇒青春18きっぷで松山へ⇒松山市内観光⇒レンタカーで宇和島、愛南町、高茂岬など巡り⇒松山から青春18きっぷで東京もどり という何とも壮絶な旅程。
いくつになっても心はバックパッカー。

19450310_TokyoAirRaid_B1.jpg
機内に残っていた機銃弾とベルト。

19450310_TokyoAirRaid_B2.jpg
機内にあった様々なパーツが展示されている。

19450310_TokyoAirRaid_C6.jpg
紫電改に搭載されていた誉エンジンのシリンダヘッドを鋳造するための木型らしい。
東京都の、大田区立郷土博物館の展示。

【機銃掃射】
19450310_TokyoAirRaid_48.jpg
数多く現存する九州近代産業遺産の一つ、旧国鉄久大線の豊後森(ぶんごもり)機関庫。1934年完成。手前は機関車の転回用ターンテーブル。
裏に回ってしげしげと眺める人は少ないと思うのだが...

19450310_TokyoAirRaid_49.jpg
裏の壁には機銃掃射の跡。

19450310_TokyoAirRaid_50.jpg
以下解説パネルより。
菊池武光銅像
正平14年(1359年)8月7日大保原(小郡市)で武家方の少弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隈原まで進出した。
この方面で戦っていた少弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光は更に小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。しかし夜明け前からの激戦で少弐方18,000人、菊池方6,900人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刃は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来、河水に笑って刃を洗えば、血は奔湍(ほんたん)にほとばしって、紅雪をふく ・頼山陽」
「そのかみの血潮の色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川・乃木大将」
個人はこのありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年(1937年)建立されたものである。
なお、馬腹や台座の弾痕は昭和20年(1940年)3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残です。
33 24 19 N 130 36 31 E

19450310_TokyoAirRaid_51.jpg
西鉄筑紫駅待合所を近くに移設保存している。
終戦1週間前の1945年8月8日、グラマン(諸説あり)による駅と列車への機銃掃射の弾痕(屋根部。赤矢印でマーキングされている2箇所)が残る。
33 27 42 N 130 33 07 E

19450310_TokyoAirRaid_42.jpg
いわゆる「グラマン」といえばこれ、F6Fヘルキャット。
ダックスフォード博物館にて、整備中。

19450310_TokyoAirRaid_44.jpg
本土の地上攻撃に参加したヴォートF4Uコルセア戦闘機。
アメリカの航空ショーで撮影。

19450310_TokyoAirRaid_C8.jpg
東京駅と神田駅の間、鎌倉橋に架かる鎌倉橋に残る爆撃と銃撃の跡。35 41 20 N 139 46 01 E

19450310_TokyoAirRaid_C3.jpg
機銃掃射の弾痕の残る、旧日立航空機株式会社立川変電所
35 44 7 N 139 25 17 E

以下、建物前の解説板より引用
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
東大和市文化財 史跡・震災建造物 旧日立航空機株式会社立川変電所
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯(がす)電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣りにあった設備で受電した66,000ボルトの電気を、3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。
2回目は4月19日、P-51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B-29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、更に多くの負傷者を出しました。

この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるに当たり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいと言う市民の活動や、元従業員の方々の熱意が一つの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
そして東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物には次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。
この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受け止めていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月
東大和市教育委員会
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
実にすばらしい戦跡保存です。
同じく空襲の爪跡の残る給水塔は取り壊されてしまいましたが、一部はこの変電所の横に移設保存されています。
19450310_TokyoAirRaid_67.jpg
JR鶴見線国道駅脇に残る機銃掃射の跡。
ちょっと見えにくいが緑色のネットで崩落保護されている箇所にも弾痕がある。
35 30 04 N 139 40 31 E
19450310_TokyoAirRaid_68.jpg
国道駅は、横浜市内にありながら無人駅で、線路下のアーケードは昭和40年代で時間が止まったような趣きがある。
ポストに貼られた民営化後のJP日本郵便シールと、自動販売機飲料の値段が、かろうじて現代の世界と一致している。
そして左の柱にもよく見ると弾痕が。

19450310_TokyoAirRaid_97.jpg
JR鶴見線の大川支線が運河を渡る鉄橋のプレートに多数の穴がある。
手前から奥に向かって貫通した(一部未貫通)穴の模様。
結構穴の大きさ形がバラバラだな...という事よりも、後ろに係留されている海賊船アニバーサリークルーズ号が気になるんですけど...

19450310_TokyoAirRaid_96.jpg
東海道線の二宮駅は1945年8月5日にZ Fighter Command 506th Fighter GroupのP-51による機銃掃射を受け、5名が死亡した。この時父親を無くした体験を元に児童文学「ガラスのうさぎ」が執筆された。駅前にガラスのうさぎを抱えた、防空頭巾にモンペ姿の女の子の像がある。

19450310_TokyoAirRaid_95.jpg 19450310_TokyoAirRaid_94.jpg
19450310_TokyoAirRaid_93.jpg 19450310_TokyoAirRaid_92.jpg
二宮駅のホームの、屋根の支柱は一部古い木製のものが残っており、機銃掃射の痕跡が何か所か確認できる。
35 17 55 N 139 15 30 E

19450310_TokyoAirRaid_D2.jpg
1945年8月に艦載機の機銃掃射を受けたときの弾痕が残る、小田原の青橋の橋げたの一部。
弾痕の穴は貫通しているが穴の直径は8o程度、一方当時の艦載機は全て12.7o機銃搭載のはずなので弾丸自体は鉄板を抜けなかったのだろうか。
35 15 58 N 139 10 04 E

19450310_TokyoAirRaid_D3.jpg
現在の青橋。小田原城、小田原駅のすぐ近く。
35 15 10 N 139 09 12 E
19450310_TokyoAirRaid_86.jpg
JR東日本中央本線の、高尾駅と相模湖駅の間にある湯の花(いのはな)トンネル。
35 38 24.2 N 139 15 17 E
中央本線下りの最初のトンネルで、この先には小仏トンネルがある。
当時は単線で上下線がこのトンネルを使っていた(1964年に南側に下り線専用線が開通し複線となったので、現在こちらのトンネルは上り専用になっている)。
1945年8月2日に八王子市が大規模空襲を受けた影響で中央本線が不通になっていたが、8月5日に復旧、電気機関車ED16-7が客車7輛を牽引する編成の419列車が出発、社内は満員だったという。
浅川駅(現在の高尾駅)に到着した時、空襲警報が発令されていたが構わず出発、1220頃にこの湯の花トンネルに差し掛かった所で硫黄島からの長距離ミッションで飛来していた Z Fighter Command 506th Fighter Group 462nd Fighter Squadron のP-51ムスタング数機による機銃掃射を受けた。

19450310_TokyoAirRaid_85.jpg
列車は先頭の機関車と客車1輛目がトンネル内に入ったものの、残りは浅川(高尾)側にはみ出したまま止まってしまい(銃撃で架線が切れて動けなくなった?)、反復して攻撃するP-51の機銃掃射を受けることになった。
警視庁によると死者52名、負傷者133名だが実際にはもう少し多いと言われる。
写真で特急列車が走っているのが銃撃を受けた辺りで、手前は戦後に作られた上り専用線。後方の高架道路は中央高速と圏央道が交差する八王子ジャンクション。それなりに険しい山間部で、銃撃する方も結構操縦が難かしかったのではないか。

19450310_TokyoAirRaid_A7.jpg
西側(相模湖側)から見た湯の花トンネル。左側のトンネルを、列車は奥から手前に向かって入ったところで銃撃を受けた。右側のトンネルは戦後に作られた上り専用線のトンネル。

19450310_TokyoAirRaid_99.jpg
かつては薬王院参詣の宿泊所、休憩所として営業されていた蛇滝茶屋。銃撃犠牲者の一時的な遺体安置所として使われたという。
35 38 20 N 139 15 28 E

19450310_TokyoAirRaid_87.jpg
現場近くにある慰霊碑。 35 38 23 N 139 15 27 E
中央の薄茶色の石が青年団により1950年に建てられた「列車戦没者供養塔」。
後方の黒石板はいのはなトンネル列車遭難者異例の会が1992年に建てた「慰霊の碑」で、判明している犠牲者名を刻んでいる。

19450310_TokyoAirRaid_84.jpg

19450310_TokyoAirRaid_83.jpg

19450310_TokyoAirRaid_64.jpg
JR中央線 高尾駅一番ホームの31番,33番支柱に残る、機銃掃射の弾痕
35 38 32 N 139 16 56 E


【大阪城】

大阪を代表する観光地の一つ、大阪城は、秀吉による築城から大阪夏の陣による落城、幕末の混乱時大半の建物の消失、明治政府による軍用地としての一帯の利用、天守閣の再建、そして第二次世界大戦での爆撃と、様々な時代の歴史の舞台となってきた。
とくに戦争関連の遺跡としては、明治3年(1870年)以降第二次世界大戦終結まで陸軍が軍用地として使用していたこと、そしてその為に度重なる米軍の攻撃を受けたことにより、様々な近代戦跡が残っている。
何と戦跡の地図のパネルもあり、観光地の一部になっている。
19450310_TokyoAirRaid_38.jpg
大阪城の天守閣は1930年に再建されたもの。
再建の為の費用は市民から募金で集められたのだが、集まった150万円によって天守閣(写真左)の再建だけではなく、ヨーロッパ調の建築で陸軍第4師団司令部庁舎が同時期に建てられた。
第二次世界大戦の激化と共に司令部庁舎には地下壕が掘られた。
爆撃により写真右下の石畳が破損、現在も修理の跡と波打っているのが見られる。
34 41 09 N 135 31 35 E
再建された大阪城と共に司令部庁舎も戦災を免れ、占領軍による接収の後、警察本部、博物館として使われた。

19450310_TokyoAirRaid_37.jpg
天守閣の土台は、爆撃により石垣がズレた跡がはっきりと残る。
天守閣自体は昭和にコンクリートで再建されたものなので歴史的な価値は低く(←あくまでも個人の感想です...)、この戦争の傷跡の方が歴史の記録という意味で貴重だと思う。
34 41 15 N 135 31 34 E

19450310_TokyoAirRaid_39.jpg
天守閣近くの石垣の角部に残る、航空機からの機銃掃射の弾痕。
34 41 17 N 135 31 33 E

19450310_TokyoAirRaid_66.jpg
大阪城に程近いJR大阪環状線森ノ宮駅前、ビルやマンションの谷間に残るように建つ鵲森宮(かささぎもりのみや 通称森之宮神社)
日本書紀にも登場する歴史ある神社で、589年に聖徳太子により建てられた。...って、しらねーよ、そんな大昔の事。
狛犬の台座に爆撃の跡(特に向かって右の方が損傷跡が多い)が無ければ、古代史にも神社にもあまり興味ない私は訪問していなかっただろう。
34 40 50 N 135 31 60 E


【吉見百穴地下軍需工場】
19450310_TokyoAirRaid_29.jpg
中島飛行機のエンジン工場を避難させる為に、埼玉県東松山市の史跡吉見百穴に作った地下工場の壕。右下の大きな間口が地下壕への入り口。
周囲には200以上の四角い穴が開いている。
吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓。
全国的にここでしか見られない貴重な横穴墓の内10数個はこの地下工場工事で破壊されてしまった。
そしてまた地下壕も歴史の一部となった。
36 2 23 N 139 25 17 E

19450310_TokyoAirRaid_28.jpg
地下工場の内部。全体の一部が歩ける。
工事には朝鮮人労働者が徴用された。


【名古屋空襲】
19450310_TokyoAirRaid_89.jpg
航空機産業を始めとするプラント工場が集まる名古屋は、本土初空襲となるB-25爆撃機によるドーリットル空襲(1942年4月18日)に於いて爆撃機2機の攻撃を受けた後、2年半のブランクを経て1944年12月13日の三菱重工名古屋発動機製作所大幸工場への空襲を皮切りにB-29爆撃機による爆撃を相次いで受け、その回数はB-25のものを含め63回に及ぶ。
1945年3月以降、焼夷弾を使った家屋への爆撃が増え、1945年5月14日の空襲では当時国宝の名古屋城の、天守閣を含む多くの建物も消失した。
1959年に鉄筋コンクリートで天守が再建され現在に至る。これは国の史跡に指定されている。
ただし耐震性に問題ありということで現在天守の中には入れない。
オリジナルと同じ構造の木造で立て直すという計画が持ち上がったが頓挫している。
35 11 08 N 136 53 57 E
一方で、本丸御殿は木造で見事に復元、2018年以降公開されており大変見ごたえがある。

19450310_TokyoAirRaid_88.jpg
乃木希典が名古屋鎮台に在住していた明治初期に建てられたと伝えられ、「乃木倉庫」と呼ばれている有形文化財の倉庫。当時は旧陸軍の弾薬庫だった。
本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取り外してここに保管したため被災を免れ、需要文化財に指定された。
35 11 10 N 136 53 51 E

19450310_TokyoAirRaid_90.jpg
名古屋市の南部にある高台に設けられた笠寺高射砲陣地跡に残っている、砲を据え付ける基礎。
高射砲が6門設置されていたが、残っている基礎はこれだけ。
35 05 56 N 136 56 23 E

19450310_TokyoAirRaid_91.jpg
同じくた笠寺高射砲陣地跡。遺構は弾薬庫といわれる。



【松代大本営】
19450310_TokyoAirRaid_30.jpg
長野県長野市松代にある、舞鶴山山腹の、天皇御座所外観。
現在は気象庁の地震観測所が使っている。


戦局の悪化と共に、大日本帝国の国家中枢機能を移転すべく、
陸軍は、現在の長野県長野県松代にある3つの山(象山、舞鶴山、皆神山)に広大な地下坑道を掘った。
工事は1944年11月から始まり、3箇所で日本人3000人と朝鮮人7000人の労働者が作業に当たった。
当時の金で2億円が費やされ、工事が7割程度進んだところで終戦となった。
合計200〜300名が事故、懲罰などで犠牲になったと言われるが、関係書類が焼却されており真相は不明。
19450310_TokyoAirRaid_31.jpg
舞鶴山山腹の、天皇御座所。いくつかある部屋の内の一つが外から見える。
36 32 39 N 138 12 24 E

19450310_TokyoAirRaid_32.jpg
天皇御座所の奥には天皇がご避難(←この日本語でいいのか?)する防空壕があった。
現在は気象庁の地震観測所となっており、防空壕は見られないが、入り口の階段までは行ける。
36 32 38 N 138 12 22 E
尚、血筋が絶えないよう、皇太子(平成天皇)は同じ信州ながら天皇とは離れた所に住まわれる予定だった。

19450310_TokyoAirRaid_36.jpg

大本営となるはずだった、舞鶴山メインの壕入り口
気象庁が精密地震観測を行っており中には入れないが、
写真を見る限り象山とは異なり壁面を綺麗にコンクリートで仕上げてある。
36 32 37 N 138 12 12 E

19450310_TokyoAirRaid_33.jpg
象山地下壕の入り口。
現在は観光地と化している。
入場無料、ヘルメット(貸してくれる)着用。
36 33 21 N 138 11 50 E

19450310_TokyoAirRaid_34.jpg
象山地下壕内部。
碁盤の目状にトンネルが走る。
ここには政府機関、NHK、中央電話局が入る予定だった。
象山地下壕は総延長5km超の内、片道500mちょっとが見学できる。
舞鶴山とは異なり、壁面、床面共に素掘り。
工事を担当した班によって技術の差があり、比較的綺麗に仕上がっているトンネルもあれば、荒い仕上げもある。
埼玉県の吉見百穴に比べて岩盤が固いのか、掘りにくかった様子が伺える。

19450310_TokyoAirRaid_35.jpg
発破や手作業で掘り出した瓦礫はトロッコで外に運び出された。
レールは無いが、枕木の跡が今も残る。
尚、備蓄庫になる予定だった皆神山地下壕は崩落が酷く、現在立ち入り禁止になっている。

日本の本土空襲を舞台にした映画としては、アニメ映画「火垂るの墓」(1988年)がある。
映画館でしっかり見たのだが、これを見に行ったわけではなく、となりのトトロを見に行ったらオマケでやっていた、というのが実情。
トトロはとにかく面白かった。一番気に入ったのは、ラスト近くで、人には見えない猫バスに犬が吼えている所。犬って猫を見つけて吼えまくるのが得意。
話を火垂るの墓に戻して、正直、主人公の少年少女に感情移入出来なかった。戦災孤児の話だが、戦災孤児にならない道もあったのに...とか勝手に思ってしまう。戦争未経験者の勝手な感想なんだが。

水彩画風の背景が美しいアニメ映画「この世界の片隅に」は、眺めの良い山の斜面の家に嫁いだ、のんびりしたお嫁さんの生活の中に戦争が入り込んでくる。
予備知識無しでDVDを借りて見たのだが、1945年(昭和20年)8月6日に近くの広島市で何が起きるかをこちらは知っている訳で、実際にその日のシーンになるまではどうなってしまうのか気が気でなかった。
機銃掃射や焼夷弾だけではなく、味方高射砲の炸裂段の破片が降ってくるのは知識として判っていても映像で見るとやはり恐い。
焼夷弾や爆弾の構造、伝単の処置など興味本位で知っているが当時はその知識が必須だったというのが戦争中と平和な時代の違いだ。




戦跡散歩Home

Copyright 2011 Morimoto, Makoto : All Rights Reserved.
本ページの写真、文章の無断転載をお断りいたします。

inserted by FC2 system