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国会議事堂のすぐ近くにあり、周囲の建物は殆ど崩れていた。 そのブランデンブルグ門前でソ連兵のコスプレ。 52 30 59 N 13 22 40 E |
西進するソ連軍により、1945年1月17日にソ連軍がワルシャワを占領、2月13日にブダペストが堕ち、3月30日にはオーストリアに入り4月13日にはウィーンがソ連の占領下となった。 ヒトラーは、避難を勧告する側近には耳を貸さず、ベルリンに留まることを決めた。 ドイツ軍はベルリンに向かうソ連軍をゼーロウ高地で迎え撃つことにした。 1944年4月16日〜19日までの間、ソ連軍とドイツ軍との間で激戦の末、ジューコフ麾下の部隊が突破に成功した。 ベルリンは包囲されつつあった。4月22日からベルリン中心部へのソ連軍の砲撃が始まった。24日には完全に包囲され、包囲の輪は段々と濃く、かつ小さくなっていた。 ソ連軍は南東、南、北の3方向から中心街を目指して進撃した。 ベルリンを守るドイツ軍側は国防軍、武装SS、ヒトラーユーゲント、国民突撃隊、警察合わせて4万5千の兵力だった。 この兵力でベルリン中心部攻略を目論む150万のソ連軍に抵抗することになる。 ドイツ側で文字通り命がけで戦ったのは東欧諸国出身の武装SSだった。彼らはソ連軍に捕まれば裏切り者として処刑されるので、とにかく全力でソ連軍と戦うしか道は残されていなかった。 4月29日未明、北から中心部に向かっていたソ連軍はモルトケ橋でシュプレー川を渡り、国会議事堂を包囲した。 同日、ヒトラー総統は遺書を記し、エヴァブラウンと結婚した。 翌30日朝、ソ連軍が国会議事堂への攻撃を開始したが、ツォー(動物園)の高射砲塔からの砲撃などドイツ軍の抵抗に会い、同日夜までソ連軍は建物に突入できなかった。 この日、ヒトラー総統はエファ夫人と共に自殺した。 ソ連軍は国会議事堂の部屋を一部屋づつ占領し、1945年5月1日未明、ソ連軍は国会議事堂の屋上に到達したが、まだ建物内のドイツ武装SSの抵抗と反撃は続いていた。 ソ連が完全に国会議事堂を掌握したのは5月2日になってからで、その翌日、屋上に赤いソ連国旗がひるがえった。 一方、総統官邸は1945年5月2日にソ連軍が到達し制圧した。 同日、ベルリン守備隊が降伏し、ベルリン攻防戦は終わった。 ベルリン周辺のドイツ軍も、順次ソ連軍やアメリカ軍に降伏した。 ゼロー高地の戦いに始まるベルリン攻防戦ではソ連軍死者8万、ドイツ側(民間人含む)死者10万と言われ、内、包囲されたベルリン市街地での戦闘ではドイツ軍人2万、民間人2万が犠牲になったといわれる。 |
「一億火の玉」のどっかの国と似たような末期的状況だけど、 鬼畜米軍がばら撒く焼夷弾から逃げ惑うだけなのと、地響きと共に押し寄せるソ連兵に会敵するチャンスがあるのと、果たしてどちらがマシだろうか? マネキンとは言え、チャリンコにパンツァーファーストを積んだ中年おじさんを見たときには絶句した。 ドイツ・ジンスハイムの技術博物館にて。 |
オランダのWings of Liberation博物館にて。 |
春の日差しの下、食事をする家族の後ろで壁は65年前の出来事を記憶している。 52 31 13 N 13 23 37 E |
橋のたもとには弾痕が残る ここを渡ったソ連軍が国会議事堂を占領した。 52 31 22 N 13 20 31 E |
19世紀末に完成し、ナチス政権時代の1933年に不審火により炎上した。 ナチスはこの事件を最大限利用し、放火犯人と思しき人物が共産党員であったことから共産党を非合法とし、一党独裁体制を固めていく。 以降、ナチス一党独裁により国会議事堂が必要無くなったということもあり、火災による被災は修復されず放置され、1943年のベルリン大空襲で更に被害を受けたまま放置されていた。 ベルリン攻防戦では武装SSが立てこもり、ソ連軍の攻略目標となった。 第二次世界大戦後、冷戦の間に内部が少し修復され、東西ドイツ統一後の1999年に全面修復された。 現在は国会の場と共に観光名所になっていて、見学は朝早く行かないと長蛇の列で待つ事になる。 ここを守るSSは建物内に立てこもっただけではなく、写真手前の芝生の部分に塹壕を掘り、ソ連の侵攻に対し時間を稼いだ。 52 31 7 N 13 22 34 E |
中央奥には戦勝記念塔「ジーゲスゾイレ」の、金色の天使が見える。 更に奥にベルリン動物園があり、高射砲塔(現在は撤去)の守備隊は最後まで抵抗した。 |
一番左の装飾尖塔にソ連兵がよじ登り、ソ連国旗の赤旗を翻す写真は余りにも有名。 |
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しかも2輌。 何とも悲哀を感じる話だが、博物館のを引っ張り出してきたともバリケードに使っただけとも。 型式はMk.Vらしい。写真は大英帝国戦争博物館に展示されているMk.V雄型。 |
防空壕跡地には東ベルリン時代にマンションが建てられた。 画面の左奥の地下に総統防空壕があった。 52 30 45 N 13 22 55 E |
ドイツ空軍司令の代わりすべく呼び寄せたフォン・グライムは、女流テストパイロットハンナ・ライチュの操縦するFi156シュトルヒでティーアガルテンに着陸し、ヒトラーとの面会を果たした。 写真はスイス・デューベンドルフの空軍博物館で天井から吊られているFi156シュトルヒ連絡機。 |
マルチンボルマンもここを渡ったところでソ連軍に殺されたと言われる。 しかしその後遺体が見つからず、「ボルマンは南米で生きている」という噂が広まった。 ボルマン生存説に終止符を打つ為か、1972年に遺体が偶然発見され、1998年にDNA鑑定によりボルマン本人であることが確認された....というが果たして真相は? 52 31 20 N 13 23 17 E |
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根元周りは銃弾、砲弾の傷だらけ。 52 30 52 N 13 21 0 E |
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破損の大部分は市街戦ではなく空襲によるもの。 夜間はライトアップされる。 戦跡としてライトアップされているのは、私の知る限りここと近くのアンハルター駅、あとは広島の原爆ドームだけだ。 クリスマスの時期なので周囲には沢山の屋台が並び、クリスマス市が開かれていて賑やか。 52 30 17 N 13 20 7 E |
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赤茶色のモニュメントは破壊された総統官邸からソ連が回収した大理石を使っているといわれる。 同じ石は地下鉄モーレンストラッセ駅にも使われているとのこと。 しかし本当にそうなのか?総統官邸は激しく破壊されているにもかかわらず、大理石をそう簡単に再利用出来る物なのか? この話は都市伝説? 52 29 13 N 13 28 13 E |
左上は同志レーニン。 ソ連らしく、押し付けがましく威圧感のある記念碑が並ぶ。 |
T-34や火砲が左右対称に並べられ、中央に超巨大なソ連兵士の像が建つ。 この場所は旧ベルリンにあり、冷戦中は毎日東ベルリンからソ連の衛兵がここにやってきて記念碑を見張った。 52 30 59 N 13 22 19 E |