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沖縄戦
Battle of Okinawa



旧琉球王国の沖縄県。
沖縄の幸と不幸、魅力と問題は、いずれもその地理的な位置に起因しているのだろう。

琉球諸島に散らばる豪族を尚家がまとめ、1429年に琉球王国が成立した。
中国、日本、朝鮮、東南アジアとの交易を行っていた。
しかし事実上は中国の属国であった。
1609年に日本の薩摩藩の軍勢3000名が侵攻、琉球王国を支配下に置く。
1853年米国海軍のペリー提督が訪問
1872年琉球藩設置、琉球王国滅亡
1879年廃藩置県、沖縄県となる
以降明治、大正、昭和の初期と激動する時代の中で、沖縄県は完全に日本の一部として太平洋戦争に突入する。
開戦後、大日本帝国はシンガポール、インドネシア、ビルマ、フィリピンと順調に支配を広げるものの、1942年6月のミッドウェー戦を転機に追い詰められていき、サイパン(1944年7月9日)、グアム島(1944年7月21日)、硫黄島(1945年3月22日陥落)が陥落。
1945年3月26日沖縄県の一部である慶良間列島に米陸軍第77歩兵師団が上陸を開始。
また、レイテ、サイパン、ウルシー環礁を出発していた第10軍の主力上陸部隊が沖縄本島に向かっていた。

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1945年4月1日、米軍を中心とする艦隊が沖縄本島西側の東シナ海に現れ、夜明け前から大小様々な艦船による砲撃、ロケット弾攻撃が実施された。
上陸は0830から始まり、中部西海岸に位置する読谷山(よみたんざん)、北谷(ちゃたん)の、幅13kmに渡る海岸に、艦載機による地上攻撃の援護を受けながら部隊が次々と上陸した。
写真左が米陸軍の上陸地点、右が米海兵隊の上陸地点
比謝川(ひじゃがわ)河口より撮影。
26 21 47 N 127 44 15 E (撮影場所)
 クリックで拡大。
日本軍の上陸阻止活動はほとんど無く、海岸沿いに日本兵はおらず、たまに砲撃を受ける程度で、地雷なども埋められていなかった。米軍は予定通りの上陸地点に混乱無く上陸出来た。まるで演習の様であったという。
上陸初日に米第10軍は陸軍、海兵隊合わせて6万の兵を上陸させ、幅15km、深さ3〜5kmの橋頭堡を構築した。

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渡具知(とぐち)ビーチには米海兵隊第1師団が上陸した。
26 21 53 N 127 44 16 E

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米陸軍第7歩兵師団の上陸地点となる、北谷町砂辺 砂辺ビーチ沿いの公園に設置されている米軍上陸のモニュメント。
26 20 02 N 127 44 44 E

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戦艦大和は1940年に進水、1941年12月に就航した基準排水量64000トンという史上最大の戦艦。
実戦での活躍成果がほとんど無いまま、1945年4月6日に沖縄海上特攻の命令を受けて待機していた徳山沖を出発、第二艦隊を率いて沖縄に向かう途中、4月7日に東シナ海で米海軍タスクフォース58の空母USSホーネット、USSベニントン、USSエセックス、USSバンカーヒル、USSバターン、USSイントレピッド、USSヨークタウン、USSラングレーから発鑑した計300機以上の戦闘機・爆撃機・雷撃機の爆撃を受けて沈没し、乗組員約3000人が死亡した。
写真は靖国神社の遊就館で展示されている戦艦大和の1/200模型で、奉納者は元空爆長の田母神さん....

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愛知縣護国神社の境内に祀られている、戦艦大和の主砲用46p砲弾。35 10 46 N 136 54 01 E

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これも靖国神社の遊就館で展示されている、大日本帝国海軍の水上特攻艇「震洋」(写真上:実物大レプリカ)と、大日本帝国陸軍の四式肉薄攻撃艇水上特攻艇「マルレ」(写真下:1/20模型)。
海軍の艇が特攻専用で爆薬を艇首に内臓しているのに対し、陸軍のは後部に爆雷を装備し、特攻体当たりで爆発させるが、爆雷を敵艦船至近に投下し離脱する肉薄攻撃も出来た。
震洋は6000隻以上、マルレは約3000隻が建造され、ルソン島と沖縄戦で実戦使用された。後者では
中型揚陸艦 USS LSM-12 を浸水させる(座礁し放棄される)
駆逐艦 USS チャールズ J バジャー DD-657 を行動不能にする(戦線離脱し、修理されて戦後復帰)
駆逐艦 USSハッチンズ DD-476 を行動不能にする(戦線離脱し、修理中終戦となりスクラップ)
上陸支援艇 USS LCS(L)(3)-37 を大破(スクラップ)
といった戦果がある。

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瀬底島(せそこじま)の本島との連絡橋下のビーチから見た伊江島(いえしま)。
米陸軍第77歩兵師団は、東洋最大の飛行場がある伊江島に4月16日上陸開始。
日本軍は島民を動員して島の中央にそびえる城山(ぐすくやま)で応戦したが、21日米軍による占拠完了。
現在も島の西側に米海兵隊の演習場イエジマレンジと補助飛行場があり、島の面積の1/3を占める。
26 43 11 N 127 48 25 E (城山の位置)

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嘉数(かかず)高地の入口に立つ、弾痕の残る民家の塀。撤去の際に移設したものだという。
26 15 30 N 127 44 12 E

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嘉数のトーチカ。出入り口のある後方は比較的損傷が無いのに比べ、銃眼のある前面はバズーカ砲などの攻撃を受けたのか酷く破損している。
26 15 33 N 127 44 11 E

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嘉数高地からの眺め。
26 15 32 N 127 44 13 E (撮影場所)
右に広がる飛行場は米海兵隊の普天間基地。 クリックで拡大。

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嘉数高地を攻略した米軍にとって次の障害として立ちはだかった前田高地。
壕の穴が米軍の方向を見下ろす。
26 14 51 N 127 43 53 E

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映画「ハクソーリッジ」(2016年)で有名になった前田高地。
26 14 48 N 127 43 56 E

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首里城(スイグスク)は15世紀に建てられ、その後消失と再建を繰り返し現在に至る。
沖縄戦で徹底的に破壊され、本殿を含めかなりの部分が新たに再建されている。
26 13 04 N 127 43 06 E

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首里城の守礼門。16世紀に建てられたが沖縄戦で破壊され、1958年に復元。
26 13 05 N 127 43 01 E

2000年に開催された九州沖縄サミットを記念して発行された2000円札には守礼門が描かれている。
(本当は外側から見た守礼門が描かれている様だが光線の関係で首里城側から撮影)
2000円札は自販機で使えない、5000円札と間違えやすい、レジの置き場が無い、、受け取ってもらえるのか判らない、などですっかり異端児・邪魔者扱いとなり殆ど見かけない。
そんな事より私としては1円玉の廃止を強く要望する。5円単位での現金取引。
どうせ電子マネーの類が普及しているので1円玉が無くなっても困らないだろう。
半径10mmのRゲージ、重さ1gの分銅として使えるのは内緒だ。

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首里城の下に位置する、第32軍司令部壕の入口。
首里城の地下に、南北方向にメインのトンネルが掘られており、支線も合わせ総延長は1kmを超える。
写真は第一坑口。内部は崩落浸水が激しく立ち入れない。
この壕には軍司令官の牛島中将(当時)、参謀長の長勇少将をはじめ陸軍将兵、学徒など計1000人程がいたという。
首里城は一大観光施設で多数の人が訪問しているが所詮は復元品。
こちらはオリジナルだけど誰も気に留める人はいなかった。
案内図にも載ってないし、そんなもんか。
26 13 06 N 127 43 04 E

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26 13 06 N 127 43 05 E
5月27日、第32軍司令部は首里を捨て摩文仁(まぶに)への撤退を開始、5月31日に首里は米軍が占領する。

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ハンタン山のアカギの大木。以下解説板より。
戦前まで約1mもの太い枝を首里城の城壁までのばし、道行く人々に涼しい木陰を提供していましたが、去る沖縄戦によって焼かれてしまい、枯れた幹だけが残りました。戦後、その幹も台風で途中から折れてしまいましたが、その後アコウ(クワ科)が寄生し、昔の面影を留めています。

26 13 05 N 127 43 06 E

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沖縄戦で使われた砲が靖国神社の遊就館入口ホールに展示されている。

手前は八九式15センチ加農砲で射程18km。
パネル解説によると、独立重砲兵第百大隊が使用したもので、首里付近の陣地から嘉手納の飛行場を制圧する等活躍した。砲身周りは弾痕だらけ。
戦後洞窟陣地から発掘され沖縄の米軍博物館、後に那覇の陸上自衛隊で展示されていたが1993年靖国神社に奉納。

奥は九六式15センチ榴弾砲で射程12km。
パネル解説によると、野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属し糸満市真壁(いとまんしまかべ)の陣地に於いて6月23日全弾を撃ちつくした。戦後米軍が回収し沖縄の米在郷軍人クラブに展示されていたが1966年に靖国神社に奉納。

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大日本帝国海軍 沖縄方面根拠地隊司令部の壕(通称 旧海軍司令部壕)とその展示品。
26 11 10 N 127 40 36 E

1944年に海軍の設営隊(山根部隊)により掘られた地下壕で、コンクリート製だが一部通路や小部屋はツルハシによる素彫りのまま。4000人の兵が収容されていたという。
坑道全長450mの内、2/3が公開されている。
1945年6月4日に小禄(おろく)飛行場(現那覇空港)北側に上陸した第6海兵師団の攻撃を受け、1945年6月13日沖縄海軍主力部隊の大田海軍少将がここで自決、沖縄の海軍陸戦兵力は玉砕する。

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沖縄県指定有形民俗文化財である富盛の石彫大獅子。
村落獅子として最大最古のもの。
1689年の建造。沖縄戦でこの石像を盾に日本軍側を観測する米兵の記録写真が有名。
表面には戦争で受けた弾痕の凹みらしきが多数見られる。
26 08 01 N 127 43 27 E

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沖縄を代表する「観光地」の一つ、ひめゆりの塔で有名な、沖縄陸軍病院伊原第三外科壕跡と慰霊碑。
26 05 47 N 127 41 27 E

沖縄戦に際し、県内の中等学校全21校が学徒隊を結成している、男子学徒は通信隊・鉄血勤皇隊を編成、女子学徒は看護活動を中心に任務に就いた。
教師・生徒合わせて2000名程度が動員され、半数が戦闘・自殺などで死亡している。
ひめゆり学徒隊もその様な隊の一つで、、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒で構成されていた。240名中136名が死亡。

1945年3月23日にひめゆり学徒隊は南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に配属される。
5月25日、南部撤退命令を受け、ひめゆり学徒隊は伊原第三外科壕を含む6箇所の壕に避難し、伝令・水汲み・食料確保などの任務に当たる。
6月18日 ひめゆり学徒に解散命令が出されたが周囲は戦場であった。

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首里の防衛線が崩壊した後も日本軍による抵抗は続いた。
1945年6月18日、米第10軍指令のバックナー中将は、海兵隊第2師団第8連隊の前哨観測所に立ち寄った。
1315に日本軍の砲弾により飛散した珊瑚の破片が胸に命中し、間もなく死亡した。
後任にはギーガー少将が就いた。
翌19日には陸軍第96師団の副指令であったイーズリー准将が近隣で敵弾2発を後頭部に受けて戦死した。
(イーズリー准将の戦死場所はプレートによるとYuza-Dakeとなっている。与座岳のこと?
手前はイーズリー准将の追悼碑、奥の丸い石がバックナー中将戦死場所。
階級が下である准将の碑の方がどう見ても立派、というのは何だが....
他に6月5日東風平(こちんだ)の伊覇(いは)で戦死した、陸軍第96歩兵師団第383歩兵連隊長メイ大佐の追悼碑も置かれている。

26 06 53 N 127 40 49 E


部隊を引き連れて前線を巡った南北戦争時代、将官の戦死は非常に多い。
北軍将官は戦死77名が戦死(負傷が元で死亡を含む)、南軍の将官は計73名が戦死。
その後の近代戦に於いて、将官クラスは後方の司令部に篭るイメージがあるが、それでもやはり戦死は発生する。
第一次世界大戦中は戦死した米軍将官はいないが、
第二次世界大戦以降、戦闘中・敵弾で倒れた米軍の将官は以下:

キッド海軍少将(第1戦艦隊司令)
1941.12.7 真珠湾攻撃で旗艦の戦艦アリゾナ撃沈 遺体未収容

スコット海軍少将(タスクグループ67.2司令)
1942.11.13 第3次ソロモン海戦にて旗艦軽巡洋艦アトランタが味方の重巡洋艦サンフランシスコによる誤射を受け死亡 (アトランタは日本海軍の魚雷、砲撃も命中し大破・自沈)

キャラハン海軍少将(タスクグループ67.4司令)
1942.11.13 第3次ソロモン海戦にて旗艦重巡洋艦サンフランシスコが戦艦霧島の命中弾を受け死亡 (サンフランシスコは修理により復帰)

フォート陸軍准将(第81フィリピン師団指令)
1942.11.11 ミンダナオ島で日本軍により銃殺刑となる。同年5月に降伏し捕虜となっていたが地元ゲリラの鎮圧に協力する要請を断った為処刑された

キーランス陸軍准将(第82空挺師団副指令)
1943.6.11 シシリー島上陸作戦における、第505空挺連隊降下視察の為搭乗していたC-47輸送機が味方艦船の対空砲火に誤射され墜落。墜落死した説と、その後行方不明となり恐らく戦死したとの説がある 遺体未収容

マクネア陸軍中将(第1軍集団司令)
1944.7.25 ノルマンディーのサンローで前線視察中、味方爆撃機の誤爆により死亡
第一軍集団は囮となる紙上の軍隊で、フランス上陸の本命はカレーであると信じ込ませる為に設定さた マクネアはパットン中将から指揮を引き継いでいた

ワートン陸軍准将(第28歩兵師団司令)
1944.8.12 師団の指揮をとってから間もなく、スルドゥヴァルの連隊指揮所にいた所をドイツ軍に狙撃され死亡

リム陸軍准将(元第41フィリピン師団司令)
1944.12.31フィリピンのルソン島モンティンルパで日本軍により処刑されたと言われる。遺体は発見されていない 1942年4月のバターン半島陥落で日本軍の捕虜となりバターン死の行進を生き延び、フィリピン人ということで開放された後対日諜報・ゲリラ活動を実施、1944年6月に再び捕まっていた。

パトリック陸軍少将(第6歩兵師団司令)
1945.3.14 ルソン島のバヤンバヤーナン近郊で前線基地を視察中、日本軍の機銃により重傷、翌日死亡

ブラウン陸軍准将(第34歩兵師団副司令)
1945.3.17 イタリア戦線を観測機で偵察中、ドイツ軍の地上砲火により撃墜され死亡

ローズ陸軍少将(第3機甲師団指令)
1945.3.30 ドイツのパーダーボルン近郊でタスクフォースがドイツ軍に襲撃されタイガー戦車のクルーにより射殺。降伏しようとしていた説も。

ダルトン陸軍准将(第25歩兵師団副司令)
1945.5.16 ルソン島で日本軍に狙撃され戦死

バックナー陸軍中将及びイーズリー陸軍准将 上記参照

バーデット空軍准将(第388戦闘航空団司令)
1967.11.18 タイのコラート空軍基地を発進し、F-105D戦闘爆撃機にてハノイ北部の航空基地を攻撃中、地上砲火により撃墜され行方不明となる。同日死亡していたことが1974年になって判明

ウォレー空軍少将(第7空軍副司令)
1968.7.23 RF-4C偵察機でダナン空軍基地の北西約100kmを飛行中、地上砲火により撃墜され死亡

ワーレ陸軍少将(第1歩兵師団司令)
1968.9.13 カンボジア国境近くをヘリで飛行中、ロックニン上空で対空砲火により撃墜され死亡

ボンド陸軍准将(第199軽歩兵旅団司令)
1970.4.1 前線視察の為サイゴン北西110km近辺にヘリで到着し間もなく敵銃弾により死亡

ディラード陸軍少将(ベトナム派兵工兵団司令)及びアダムス陸軍准将(第13工兵旅団司令)
1970.5.12 ベトナム中央高地上空を飛行中のヘリが地上砲火に撃墜され共に死亡

トールマン陸軍准将(TRAC副司令)
1972.7.9 アンロックの戦い終盤で、視察の為ヘリコプタで現地に着陸した所を敵に砲撃され重傷を負い、搬送先サイゴンの病院で同日死亡

モード陸軍中将(副参謀長)
2001.9.11 ペンタゴン勤務中、テロリストが乗っ取ったB757旅客機AA77便の自爆テロにより死亡

グリーン陸軍少将(CSTC-A副司令官)
2014.8.5 アフガニスタンのカブールで訓練施設視察中、アフガニスタン正規軍の反乱兵により暗殺


時代と共に海戦、地上戦、航空戦、テロと移り変わるのが興味深い。

他に任官中の将官クラスの事故死、病死、遭難行方不明などもある。有名な所では

プラット陸軍准将(第101空挺師団副司令)
1944.6.6 ノルマンディにグライダーで着陸・停止する際、積荷が崩れて圧迫死。映画「プライベートライアン」(1998年)で言及されている

ルーズベルト陸軍准将(第4歩兵師団副司令)
1944.7.12 心臓発作により死亡 死亡当日少将への昇進と第90歩兵師団司令が決まっていた 第26代米合衆国大統領の息子であり第32代米合衆国大統領の遠縁にあたる 前月のノルマンディ上陸作戦では初日に上陸した唯一の将官で、かつ最高齢(56歳)であった この模様は映画「史上最大の作戦」(1962年)で描かれている

パットン陸軍大将(第15軍司令)
1945.12.9 ドイツのマンハイム近郊で自動車事故、21日にハイデルベルグの病院で死亡 晩年がパットン将軍 最後の日々(1981年)でTV映画化されている他、「ブラスターゲット」(1978年)というフィクション映画では事故に偽装した暗殺として描写

ウォーカー陸軍大将(第8軍司令)
1950.12.23 韓国ソウルで乗っていたジープが韓国軍の車輌と衝突して死亡
M41ウォーカーブルドッグ戦車は彼に由来


1945年6月23日、沖縄守備隊最高司令官牛島大将が自決し、以降組織的な日本軍の軍事行動は無くなる。
しかし中央による統制が無くなった後も日本兵の抵抗は続いた。
沖縄戦による死者は日本側 19万人(内沖縄の民間人が約半数)、連合軍側1万3千人であり、米軍では、自軍の損害の多さの為に、次に実施する予定であった日本本土上陸作戦を躊躇し、原爆の使用により戦争終結を試みることになる。
7月25日 ポツダム宣言
8月6日 広島に原爆投下
8月9日 ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄して日本と開戦
8月9日 長崎に原爆投下
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 太平洋戦争終結
9月2日 戦艦ミズーリー艦上で降伏文書に調印
9月7日 沖縄守備隊の降伏調印式

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世界遺産今帰仁城(なきじんじょう)跡に隣接する今帰仁歴史文化センターの展示品。
海上に投棄された軍用機の増槽を回収して地元の方がボートに改造したもの。
増槽は戦後のノースアメリカン F-82 ツインムスタング戦闘機用のものだろうか?

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米海兵隊の航空基地、MCAS普天間。2740m×45mの滑走路 06-24 一本を持つ。
26 16 27 N 127 45 23 E
MAG-36とMACG-18が駐留。
何かと話題の、MV-22オスプレイ輸送機が計16機駐機している。
手前の機列は恐らくVMM-265所属のもので折りたたまれた状態。
奥の翼とロータを展開した機体は恐らくVMM-262の所属。


沖縄は戦後も長い間アメリカ合衆国の領土となった。この間米軍関連の基地が拡張された。
1972年に日本に返還された後も米軍基地が残り、在日米軍の3/4は沖縄県に駐留する(本島及び伊江島に集中)。
1995年米兵による少女暴行事件発生、普天間基地の移転問題が浮上加速する。
2004年軍普天間基地所属CH-53Dが沖縄国際大学敷地に墜落。
国連は2008年に、沖縄の人々を「先住民族」と認めるよう日本政府に対し勧告した。
戦後最悪お馬鹿連立政党の、これまた最低総理である鳩山が「最低でも県外」というとんでもないリップサービスをした(2009年、政権獲得前)為に普天間基地の他所移転が事実上「不可能」となる。
沖縄の米軍基地は、その地理的要件から、沖縄でなければ駄目なのである。
これは地図を見れば一発で判る(台湾、中国、東南アジア諸国への至近性)。
だから沖縄県内でいかに上手く共存していくべきか(=日米地位協定の再交渉)を考えるべきなのに、とんでもないことを発言してくれたものだ。
このおかげで県内辺野古(へのこ)への飛行場移転が決行できなくなってしまった。
何で辺野古では駄目なのか?明らかに余っている場所に米軍に移ってもらうのは、沖縄からの米軍追放は出来なくとも、少なくとも市街地の安全は確保できる。これで相当の人はハッピーになるはずなのに、県外移転を期待する人々は、辺野古に基地が移ると県外移転の見込み(そんなものは幻想)が遠のくとして辺野古基地拡大に反対する。
結局未だに県外はおろか、県内でも移転の目処が立たず、今日も住宅地上空を軍用機がアプローチする。
混乱を引き起こした鳩山元総理は沖縄県民と日本国民と在日米軍に謝れ!

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2014年2月にシンガポール航空ショーで撮影した、米海兵隊VMM-262所属のベル MV-22B オスプレイ テールコードET-09 Bu. No.168237によるデモ飛行。
現在同機は普天間に配属されている。

1980年イランの米大使館員人質救出作戦(イーグルクロー作戦)がRH-53の故障や事故により失敗し、大使館向かいのサッカー場に追加ロケットポッドでSTOL能力を強化したC-130を着陸させる計画(クレディブルスポーツ作戦)も検証段階で失敗したことから、垂直離着陸可能、大量人員輸送可能で、かつ高速高空飛行が可能な輸送機が必要であると判断され、ベル社によりオスプレイが開発・米海兵隊を中心に採用された。
陸上自衛隊もオスプレイを買ってしまったが....使う機会はないと思うぞ。
どうも自衛隊の兵器調達はここ20年迷走気味。

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同じくシンガポール航空ショーで公開されていたオスプレイの操縦席。通常のヘリコプタ同様、右側が機長席。
アナログ計器のない完全なグラスコックピット。
足の間にサイクリック・コントロール・スティックというか、操縦桿
足先に方向ペダル(さすがにアンチ・トルク・ペダルとは言わないらしい)
画面右下に見えているのがオスプレイ独特の、スラストコントロールレバー。
垂直離着陸モードの時に押すと上昇、引くと下降する。一方、固定翼機モードの場合はスロットルレバーと同じで押すと加速、引くと減速。
このレバーに回転式ダイアル(パソコン用マウスのホイールみたいなやつ)があり、これを左手の親指で前方向に回すとエンジンナセルが前方向にティルト(傾き)し(垂直離着陸モード→固定翼機モード)、手前に回すと垂直に向く(固定翼機モード→垂直離着陸モード)。
中央コンソールの大きなディスプレイはFDSで、その下(手前)には入力のキーボードだが、左右同じものが隣り合っている(意味あるのか?)。
中央コンソール一番手前の右側はフラップの操作レバー。Flapと書いてあるがオスプレイの場合、フラップとしてもエルロンとしても機能するフラッペロンとなっている。
左は脚の出し入れレバー。
その真ん中のは?ホイストのコントローラ?





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