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ベルリンの壁と東西冷戦
Berlin and the Cold War

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アメリカ合衆国で1998年に発行された、ベルリン空輸50周年を記念した切手。
絵柄はテンペルホフ空港に着陸侵入するC-54を近所の子供たちが見物しているもので、ベルリン空輸といえばこれ!という位有名な白黒写真に着色したもの。

現在日本で合法的に工業製品の輸出を行っている商社やメーカーはどこもそうだと思うが、
私の勤める会社も兵器輸出規制協定(ワッセナー協約)に従い製品を不法に輸出しないよう管理している。
この輸出管理用の記号には、ず〜っと前から「ココム」という名称を使っているのだが....
女子社員:「ココムってどういう意味なんですか」
わし:「ああ、それ昔あったCOCOM規制ってやつね。ソ連と仲悪かった時の名前。今は大量破壊兵器の規制になってるんだけど名前だけ昔の使ってる。」
女子社員:「ソ連?」
わし:「ニュースでやってたでしょう、○芝のラジカセをアメリカ人が壊してる映像。あれ、東○機械がCOCOM規制に違反して多軸の高級な工作機械を輸出したから。冷戦の真っ只中だったからね。」
女子社員:「冷戦?」
まずい、彼女は平成生まれなので物心付いた時にはソ連も東ドイツもベルリンの壁もCOCOMも無かったのだ....
私など、サイゴン陥落をリアルタイムのニュースで見たし、ベレンコ中尉MiG-25亡命事件も覚えているし、高校の社会科授業でソ連の怖さを教えられたし(今考えると全然左翼でも日教組でもない先生だった)、雑誌「航空ファン」でソのTASS通信が配信するソ連機のバリバリ修正写真に見入っていたし、西側陣営の参加しないモスクワオリンピックと東側陣営の参加しないロスオリンピックを見て、ファイアーフォックス(最近動きの遅いブラウザじゃなくて映画)はロードショーに行き、ベルリンの壁崩壊やソ連消滅は殆ど生中継で見て...
冷戦とは言っても米国とソ連が直接戦火を交えることが無かっただけで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻といった大規模な紛争もあった。
そして本当に突然の様に冷戦は終わった。
冷戦の最大の勝者は日本である。朝鮮戦争で特需景気となったために戦後の混乱を脱出する大きな足がかりとなり、憲法の縛り・日米安保の為に多大な軍事費を費やすことも海外で交戦することも免れた。
西ドイツもまた第二次世界大戦から急速に立ち直れたという点で冷戦の恩恵を受けていると思われるのだが、東西ドイツに分断され、東ドイツと陸続きの為に今になって考えれば色々と無駄なことを強いられてきた。
そして冷戦が終結すると共に、日本は不景気に突入し、元西ドイツ国民は旧東ドイツ支援に多大な税金を払わされることになった。
ソ連を始めとする東側陣営という敵を失った為、アメリカはイスラムという新たな敵と対立することになり、同時にアメリカ中心の社会から多極化へと向かいだし、そして中国が顕著に台頭してきた。
もはや冷戦は完全に過去の出来事になった。平成生まれの女子社員がCOCOMを知らないのは当たり前なのである。
自分は冷戦世代だと完全に思っているが、冷戦自体は第二次世界大戦終結直後に始まっているので、自分が生まれる前に起きた、すなわちリアルタイムでニュースを見ていない紛争も結構多い。
中でもキューバ危機などは第三次世界大戦(しかも核戦争)寸前の状態だったことが判っている。
それに比べればここで紹介するベルリン封鎖やベルリンの壁は意地の張り合い、経済政治対策といったもので軍隊同士の交戦ではないのだが、例えばキューバ危機での戦死者が撃墜されたU-2偵察機のパイロット1名なのに対し、ベルリン空輸では主に墜落事故で101名、ベルリンの壁では脱東中に100名以上が犠牲になっている。
彼らは冷戦の戦死者と言えるだろう。

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ベルリンエアリフト(ベルリン空輸)の航路。
一方通行、階層とすることでより多くの飛行機の発着を可能とした。
ドイツ空軍博物館の展示パネルより。

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ベルリン空輸で運ばれた物資の例。
粉乳、砂糖、米、マッシュドポテト、コーヒー、お菓子など。
食料のみならず、石炭をはじめとしてありとあらゆる生活物資が運ばれた。

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ベルリンの元テンペルホフ空港のターミナル。典型的なナチス時代の建築だ。
空港は1923年に設立され、ナチス政権下の1930年代半ばに拡張しヨーロッパの主要空港の一つとなった。
第二次世界大戦中も軍用としては使われず(ただし空港内の地下工場で完成したJu-87、Fw-190の発進地にはなった)
戦後は米軍の管理となり、軍民共用の空港となった。
ベルリン空輸の際は着荷拠点となった。
冷戦終結後の1994年に米空軍が撤退し、その後の2008年に閉鎖された。今後、敷地は公園になる予定。
52 28 56 N 13 23 21 E

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飛行可能な状態で保存されているダグラスC-47スカイトレイン輸送機。
Rosienbomberは干し葡萄爆撃機転じてお菓子爆撃機の意味。
飛行場の周りに集まる子供たちに、ハンカチで作ったパラシュートに吊るしたお菓子をバラ撒いたことに基づく。
2年に1度開催されるILAベルリン航空ショーでの撮影。
この航空ショーが開催されるのは、ベルリン空輸時ソ連の管理下にあったシェーネフェルト空港。
残念ながらこの機体はその後不時着して大破してしまった。
52 22 43 N 13 31 14 E

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ベルリンの科学技術博物館の天井から吊り下げる形で展示されている、ダグラスC-47スカイトレイン輸送機。
さすがの名機DC-3/C-47も、輸送量不足(搭載貨物3.5トン)が目に付き、更に尾輪式の為カーゴベイが斜めになっていて荷物の積み下ろしに時間がかかるので、ベルリン空輸では主役の座をダグラスC-54スカイマスター(搭載貨物10トン)に譲った。

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ベルリン空輸で米空軍の主力となったダグラスC-54スカイマスター。民間型のDC-4共々使われた。
写真はオランダで要人輸送に使われ、現在は航空博物館AVIODROMEに保存されているもの。

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手前はベルリン空輸中、英空軍の主力となったアブロ・ヨーク輸送機で、英空軍が運んだ総物量の約半分の23万トンを輸送した。
その奥に天井から吊り下げられているのはDC-3/C-47の英空軍版であるダグラス・ダコタ。更にその奥はヨークの後継であるハンドレーページ・ハスティングス輸送機。

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ハンブルグのエルベ川で荷を積み込んだ後、西ベルリン英占領区のガトウ基地横のハフェール川に英空軍のサンダーランド飛行艇が着水し、そこから艀で岸まで荷物を運ぶ様子の模型。
防錆対策が施されたサンダーランド飛行艇は主に塩を運んだが、冬になると水面が凍結して着水出来なくなり、代わりにハンドレーページハリファックス輸送機(同爆撃機からの改造)が使われた。
ドイツ空軍博物館の展示。
ちなみにドイツ空軍博物館は以前はハノーファー近郊にあったが、冷戦終結後にベルリン郊外のガトウ基地に移動した。
このガトウ基地は1935年にドイツ空軍の学校として開設、第二次世界大戦後は英空軍の基地でベルリン空輸にも使われた。

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元テンペルホフ空港脇にあるベルリン空輸の記念碑
根元には空輸作戦中の事故犠牲者の名前が刻まれている。
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第二次世界大戦後のドイツは、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連に分割占領されていた。
北東部(後の東ドイツ)はソ連が占領していたが、そのソ連占領区の中にベルリンがあり、そしてベルリンはイギリス、アメリカ、フランス、ソ連が占領管理していた。
1947年2月、トルーマン大統領はギリシャ(共産党と中道右派政権間の内戦中)と、トルコ(ソ連がボスポラス・ダーダネルス海峡にミサイル基地の設置を要求)に対する経済的・軍事的支援を議会に要請し、反共産主義製作を打ち出した(トルーマンドクトリン)。
それから3ヶ月後、アメリカはマーシャルプランを発表し、欧州経済を復興させる為の経済援助を打ち出したが、ソ連や東欧はこれに参加せず(彼らはコメコンを結成)、ここに東西対立は決定的になった。
ソ連はドイツの経済的弱体化(それにより自分たちの言うことを聞かせる)を狙っていたが、西側陣営占領地区ではインフレを防ぐ為ドイツマルクという新しい通貨を導入することになった。
ソ連占領区の中に島の様に存在する西ベルリン、そこで西側と同等の経済活動が行われるのはソ連にとって我慢ならなかった。ベルリンはソ連が、共産主義が完全支配すべきなのだ。
1948年6月24日にソ連は西ベルリンへの陸路の完全封鎖に踏み切った。
当時200万を超える人口を抱えていた西ベルリンは完全に孤立した。
ソ連のスターリンは西ドイツ市民が暴動を起こし、共産主義に賛同することを狙っていたという。
西側としては西ベルリンを失う訳にはいかない。西ベルリン市民の生活を安定させる為には生活物資を届ける必要がある。
道路、鉄道は勿論、運河も封鎖されてしまった。しかし、空路だけは通過が認められている。
(元々空路は取り決めで確保されていたが、陸路については取り決めが無く、善意で使わせてもらっていた)
しかし、空路で200万人分の生活物資を運ぶのは現実的ではない。
だからこそソ連も空路は封鎖していなかった。
もはやほかに手段は無かった。史上最大の空輸作戦が始まった。
米、英空軍が主体となりフランスやオーストラリアも参加して1948年6月24日から空輸がはじまり、ベルリン市民の生活を支え続けた。
1949年5月12日にベルリン封鎖が解除されたがその後も空輸は続き、空輸作戦が終了する1949年9月30日までの間に278,228回のフライトにより2,326,406トンの物資を運んだ。
ベルリン空輸についてはドイツのテレビ映画「エアリフト」がある。
飛行機が殆どCGだったり、アメリカ人同士の会話もドイツ語だったり、と気持ちの悪い部分もあるし、いくら米軍が指揮した作戦とは言え英軍が一切出てこないとか、
ストーリーにフィクションの部分が多いといった点を差し引いても結構楽しめる。


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ベルリンの壁は殆ど撤去されたが、一部は現存する。
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ベルリン空輸が終わって12年後の1961年8月13日、東ドイツは西ベルリンへの労働者の流出を避ける為、
西ベルリンへの交通を遮断した。
最初は鉄条網による封鎖で、その後、序所にコンクリートの壁を作っていった。
壁は東西ベルリンの境だけではなく、西ベルリン全体を囲むように周囲150km以上に渡って設けられた。

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現在はベルリン随一の観光スポットとなっている、チェックポイントチャーリー。
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ベルリンの壁はコンクリート壁だったが、東西ドイツの間は国境線が1378kmと長いことも有り、金網と地雷原、自動弾丸発射装置を組合わせたものを設けた。

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東ドイツに住む25歳の女性は、東ドイツを訪問していた、西ドイツに住む25歳の男性(後に2人は結婚)の車の屋根に積んだサーフボード2枚の間に隠れて西ドイツへの脱出に成功した。
ベルリンの壁博物館の展示。

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東ドイツに住むワーグナー一家5人は、1981年にこの手作りの飛行機で東ドイツに脱出しようとした。
しかし決行前日に逮捕・投獄されてしまい、飛行による亡命は実現しなかった。
裁判の為東ドイツは機体が飛べることを確認した。
全幅9m、全長6m、バイク用19馬力エンジン×2基、離陸重量580kg、滑走距離480m、最高速度210km/h
結局1年投獄された後、米国の政治家の働きかけにより一家は西ドイツに移住することが出来た。
ミュンヘンのドイツ博物館の展示。

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東西冷戦を象徴する、アメリカのU-2偵察機。
いくつかの博物館で見れることが出来る(厚木の航空ショーで展示されたこともある)が、
これはイギリスのダックスフォードで展示されているU-2CT型。
CIAに雇われたゲイリーパワーズが1960年にソ連上空で撃墜された時に搭乗していたU-2C型の複座バージョン。

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1960年5月1日にソ連上空で撃墜され捕まったU-2パイロットのゲイリーパワーズと、1957年6月21日に米国で捕まった東側スパイ、ルドルフアベルとの釈放交換が1962年2月10日に行われた橋
西ベルリンと東ドイツの国境にある。
橋中央の奥が旧東ドイツ、手前は西ベルリン。
52 24 48 N 13 5 25 E
アベルの逮捕から裁判、U-2撃墜、スパイ交換については2015年の映画「ブリッジオブスパイ」(スパイ2人なので原題の様に複数形Spiesになるのが正しいのだが)で描かれている。
スパイ交換のシーンは実際にこの橋で撮影されている。



1989年11月9日に東西ドイツ、東ドイツ〜西ベルリンの通行が自由化され、ベルリンの壁は崩壊した。
ベルリンの壁崩壊はニュースで見ていた。「共産主義が敗退して冷戦はいよいよ終わる」。
その当時、日本は好景気の真っ只中。
入社数年目で製造業勤務の私は、青空天井交際費といった好景気の恩恵を受けるでもなく、ただ「業務よりも優先して後輩の新入社員を獲得せよ」という業務(?)命令に「これは正しくないよな...」と疑問を感じていた。


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プラハの春の舞台となったヴァーツラフ広場
50 4 53 N 14 25 39 E


東西冷戦を描いた映画は非常に沢山ある。

例えば007シリーズは最初のドクターノオから始まり、ロシアより愛を込めて、007は2度死ぬ、私を愛したスパイ、ムーンレイカー、オクトパシー、ユアアイズオンリー、美しき獲物たち、そして、冷戦終結間際のリビングデイライツまでいずれもソ連と西側との冷戦が物語の土台にある。

更に、冷戦後に作られたゴールデンアイでも冷戦の話がある。
しかしトゥモローネバーダイになると冒頭でロシア国境近くの闇兵器市場が舞台なので冷戦の戦後処理の様相となり、メインの話は英国対中国なので、時代が移り変わってきたことを実感する。
更にダイアナザーデイでは北朝鮮が舞台となったのもご時世か。

冷戦らしく、戦闘シーンが無く、それでいてスリル満点なのがヒッチコック映画の引き裂かれたカーテンや、トパーズ。

共産主義が何であるか、をすっ飛ばして、とにかく共産主義者は怖い、という前提で作られているのが「影無き狙撃者」(1962)。これは本気で怖い。何が怖いかというと、共産主義よりも母親が怖い。というか共産主義という言葉は出てくるが共産主義の何が怖いのか、が描かれていない。マッカーシズムの本質はそれではないのか?

「博士の異常な愛情(Dr.Strangeloveの誤訳だ)あるいは....」(1964)はスタンレーキューブリック監督による米ソ対立を描いた作品。これは大変面白い。
ピーターセラーズの一人3役が見事!(言われなければ気づかない)。
米大統領のホットライン電話相手であるソ連書記長ドミトリは、顔も声も画面に全く出てこないのだが、それでいて電話の向こうの仕草、言葉や表情が手にとるように判る。これは脚本の勝利だろう。
"you can't fight in here, this is the war room!"はWar roomを作戦会議室と翻訳してしまうと面白くもなんともなくなってしまうが、war room を単語通り戦争部屋の意味に解釈して、ここで争ってはいけないと理解すると面白さが判る。
B-52のクルーの一人はジェームズ・アール・ジョーンズ。これがデビュー作。後に、ダースベイダーの声や、一連のジャックライアンものに出てくるグリーア提督でおなじみ。
他にもこの映画、米英の違い、ナチスネタ、ブラックユーモアなど飽きさせない。褒めてばかりだけど、当然米空軍が喜んで協力するような内容ではないので、冒頭の空中給油以外、B-52は合成特撮なのだが、これが2001年宇宙の旅と同じ監督とは思えない程チャチな出来(ちなみに1:18:47の所で、雪原をB-52が低空飛行するで、背景映像に映った影により、B-17がカメラプレーンなのが判る)。この点をマイナスしても必見の映画。冷戦終わって本当に良かったと思える映画だ。

この「博士の異常な愛情 あるいは....」と同じ年に公開された「未知への飛行」。
制作会社が同じなら、テーマも、流れも同じで、ソ連書記長との会談やソ連への撃墜依頼、「どうせならこのまま先制攻撃して...」と怖いことを本気で言い出す人がいるのも同じ。共に白黒映画。ブラックユーモア全開の「博士の異常な愛情 あるいは....」と比べると最初から最後まで重苦しい作り。私としては、「博士の異常な愛情 あるいは....」の方がお気に入り。
「未知への飛行」は、原作を読んでから映画を見たのだが、映画と原作はラストが違う、とガセネタを信じて映画鑑賞した所、「同じラストじゃん...」。「博士の異常な愛情 あるいは....」が究極の破滅なら、「未知への飛行」は究極の選択。とにかく冷戦終わって良かった。まだ爆弾沢山残ってるけど。
この映画、短命の超音速戦略爆撃機、B-58ハスラーの記録フィルムが使われている(夜間飛行はネガを使用)。

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アリゾナのピーマ航空博物館の、B-58爆撃機。
後方に引き込む前脚と巨大な増槽が干渉しそうだが、凝ったリンク機構により一旦少し前に動いてから引き上げる構造になっている。

私が大学生だった時は冷戦真っ只中で、そんな時、映画の宣伝パネル(タイトルだけ大書きされていた)を見て「今度のスピルバーグ製作映画はクレムリン舞台のスパイ映画か」と思ったのは私だけではないはず。正解はコメディホラー映画のグレムリン。この映画はつまんなかった。

戦争映画ということで派手な戦闘シーンが出てくるのは若き勇者たち(そりゃ話が無茶だろう)とかファイアフォックス(やってることはドロボー)、ランボー怒りの脱出(アメリカ人の自己満足)や怒りのアフガン(聖なる戦士は後のタリバン...)など。

冷戦時代に遡った内容の映画を冷戦後に作ったものもあり、如何に冷戦が小説や映画の題材として適しているか判るというもの。
13デイズは一応ノンフィクションだがアメリカの主張全開。ただ、アメリカ寄りの話の展開であることは製作者サイドもDVDの音声解説の中で認めており、ソ連側の事情描写が無いのは、当時ソ連の意図や出方が全く判らないというアメリカ側の苛立ちを表現する為、という話は判らなくも無い。
レッドオクトーバーは冷戦中に発表されたフィクション小説を、冷戦終結直後に映画化したもの。亡命を決意するまでの経緯が書かれている小説の方が面白い。
K−19は冷戦終結後で無ければ絶対に出来なかった映画。この映画、私は福島原発事故の後に見たのでリアルに怖かった。とりあえずその日は赤ワインを飲んだのは言うまでも無い。
「グッバイレーニン」は東ドイツの立場で冷戦崩壊を時系列の描いたちょっと物悲しいコメディ映画。ドイツ人の笑いのツボが判る。確かにドイツで売ってるピクルス、オランダ製でした。



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