ベトナム戦争
Vietnam War

王様がしょっちゅう入れ替わったりする、あまりにも昔すぎる歴史は正直どうでもいいと思っているのでこの辺りから。

・1885年 フランスがベトナムを完全植民地化。ベトナムの王朝(阮朝)自体は残る。
・1940年 フランスがドイツに降伏、フランスではヴィシー政権樹立、
      この政権認定の基に日本軍がベトナム(フランス領インドシナ)に進駐開始。
・1944年 ヴィシー政権消滅に伴い、ベトナム、カンボジア、ラオスが独立を宣言
・1945年 第二次世界大戦終結、ホーチミン率いるベトナム民主共和国が独立宣言、王朝消滅、日本軍撤退
・1946年 再度植民地化を試みるフランスと戦争状態に突入
・1954年 ディエンビエンフーの戦いでフランス敗北、
      ジュネーブ協定で南北に兵を分離した後統一選挙を試みるも、南北対立となる。
・1955年 フランスを引き継いだアメリカの傀儡政権である南ベトナム成立
・1961年 アメリカ、軍事顧問団駐留開始
・1964年 トンキン湾事件 北ベトナム魚雷艇が米駆逐艦を攻撃(したとされる)
・1965年 アメリカ軍による北爆開始
・1968年 テト攻勢
・1970年 アメリカ軍、南ベトナム軍がカンボジア侵攻。カンボジア内戦勃発(〜1993年)
・1971年 トンキン湾事件の一部が捏造と暴露される
・1973年 パリ協定 アメリカ軍撤退
・1975年4月30日サイゴン陥落

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ドンスアン市場は1947年2月、再植民地化をすすめるフランス軍と、ベトナムの解放軍との間で戦闘があった場所。
オリジナルの市場自体は火災で焼失し、再建されている。
21 02 18 N 105 50 56 E

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1955年に成立し、アメリカの支援を受けた南ベトナム・ジエム政権。大統領はカトリックで、仏教徒を弾圧する。
これに抗議するため仏教僧侶のティック・クアン・ドックは1963年6月11日、オースチンウェストミンスターA95でサイゴンのカンボジア大使館前に乗りつけ、トランクから取り出したガソリンをかぶるとマッチで火を着けた。
前日マスコミに「重要な事が起こる」と予告されていたが、仏教徒の抗議活動は長らく続いていたので当日は数人のマスコミしか集まらなかった。
しかし、結局車の前で結跏趺坐し炎に包まれる写真は世界中に配信され、「これ程世界中を震撼させた写真は無い」(ケネディ大統領)
追い討ちをかけるように、ジエム大統領の弟ヌーの夫人(ジエムが独身の為、事実上ベトナムのファーストレディであった)は、「また焼き坊主ショーが見られるなら拍手するわ」といった内容の発言(今でいう燃料投下)をした。
同年11月2日にクーデターが発生し、米国に見放されたジエム大統領と弟のヌー秘密警察長官は殺害される。
しかし結局その後に続く南ベトナムの政権も安定せず勢力争いを繰り返し、「反共」というだけで支持せざるを得ないアメリカはある意味御愁傷様であった。
写真はフエのティエンムー寺で保存展示されている、ティック・クアン・ドックが焼身自殺現場まで乗ったオースチンウェストミンスターA95。
この寺院は仏教徒弾圧抗議運動の拠点であった。
16 27 12 N 107 32 41 E

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アメリカ空軍第8戦闘航空団指令のロビンオルズ大佐(当時)が搭乗して北ベトナム空軍のミグを撃墜したF-4Cファントム戦闘機Scat XXVII の実機。
当時同航空団の主任務は対地攻撃で、ガンポッドは搭載しておらず、撃墜はいずれも空対空ミサイルによるもの。
オルズは第二次世界大戦でP-38,P-51に搭乗しドイツ機を12機、ベトナム戦争ではF-4で北ベトナム機を4機、合計16機を撃墜したトリプルエース。
その後准将に昇進したオルズだったが、アルコール問題などで実戦部隊を外された。

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5機の撃墜マークが眩しいF-4Eファントム。
空軍のミグキラー、スティーブリッチーが搭乗した機だと思うのだが、この機体で撃墜は記録していない模様。
デイビスモンサン空軍基地に隣接する飛行機の墓場、AMARCでの撮影。
この機体が置いてある座標は
32 10 16 N 110 50 58 W

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F-100スーパーセーバーは戦闘機として既に時代遅れになっていたが、対地攻撃に駆りだされた。
アメリカのデイビスモンサン空軍基地隣にある民間のピーマ航空宇宙博物館の展示機(F-100C型)。

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あんた、こんな所で何してんの?という疑問を米空軍幹部は持たなかったのか?
コンベアF-102A戦闘機。
東側陣営(といっても実質ソ連だけだが)の戦略爆撃機が攻めてきたら迎撃してやる、という対爆撃機専門の迎撃戦闘機。
当然北ベトナムにそんな爆撃機は無く、本来の出番無し。
結局胴体のミサイルベイにFFAR(本来は空対空無誘導ロケット弾)が積めるので、これで昼間対地攻撃をしたり、赤外線センサー(本来敵爆撃機のエンジン熱を探知するもの)を使って夜間ホーチミンルートを移動する共産主義者を探知し、赤外線誘導ミサイル(これも本来敵爆撃機に向けて発射するもの)を発射するという任務に使われた。
B-52の護衛任務(これも使い方間違ってるよな....)中にMig-21によりF-102が1機撃墜されている。
(F-102による敵機の撃墜記録はなし)
これに加えてベトコンのゲリラ攻撃や墜落事故により計15機がベトナム戦争中失なわれている。高価な機体を....
今で言うマルチロールを目指したのかもしれないが、これ爆撃機迎撃専用に開発された機体....
本機もピーマ航空宇宙博物館の展示機。展示機はグレーの塗装だが、ベトナム派遣機はいわゆるベトナム迷彩。
その右にF-104Dが見えている。超音速要撃機であるF-104もベトナムに送られ(単座のC型)被撃墜、事故などで14機が失われた。

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ベトナム戦争の為に生まれ、ベトナム戦争で散ったと言ってよい単発エンジンの巨大な戦闘爆撃機、F-105サンダーチーフ。
戦闘により 300機以上の損失はUH-1、F-4ファントムに次いで多い。
しかし、米空軍のデータで比較するとF-4(偵察型除く)が出撃1000回当たり0.77機の損失なのに対し、F-105は2.1機と格段に損失率が大きい。
これはF-105が北ベトナム奥深くに進入し、低空地上攻撃の危険な任務に就くことが多い為と思われる。
写真は複座のF型。ドイツの航空博物館、Flugausstellung L. + P. Juniorにて。

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北爆の主役、戦略爆撃機B-52
初飛行1952年、生産終了1962年、総生産数744機 2016年現在も76機が稼働中。
米空軍はこれを2040年代まで使い続けるという。すなわち一番新しいものでも80年近い。DC-3/C-47顔負けの長寿。
写真はD型。イギリスのダックスフォードにて展示されている。余りにも大きすぎて全景が収まらない。

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同じくB-52。同型機は例外なく、胴体機首周りがシワだらけ。実用上は問題ないんだろうけど、設計ミス?

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撃墜されたB-52爆撃機の残骸が、ハノイ市内の池の中に残っている。通称B-52池(B-52 Lake)
周囲は青空市場が開かれていた。
21 02 16 N 105 49 37 E

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上記池の近くにあるB-52戦勝博物館。ここにも撃墜されたB-52の残骸が展示されている。
ベトナム戦争中、17機のB-52が撃墜された(内15機がクリスマス爆撃中の損害)。
21 02 07 N 105 49 33 E
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ホーチミンルートの遮断、地上軍支援の為、通常の攻撃機では不可能な弾幕の集中による圧倒的火力攻撃を実現させるガンシップ。
時代遅れになりつつあったC-47輸送機を改造したAC-47を53機作り前線に送り込んだ。
古い飛行機を見たクルーが「何てSpooky(幽霊みたい)な飛行機」と言ったことからSpokyと呼ばれ(機首にもお化けのマーキングが見える)、コールサインもSpookyであった。
と同時に、夜間機銃の吐き出す火炎が竜の口から出る炎の様に見えたので、PPMの1963年のヒット曲パフにちなみ「Puff, the Magic Dragon」とも呼ばれた。
武装は左舷にミニガンM134(7.62mm弾)3丁。これは機体に固定されており、照準はパイロットが目標を中心とする円周を、左バンクを取りながら反時計回りに飛行することにより行う。
射撃速度は、1丁当たり50発/秒と100発/秒の切替可。
主に夜間使用。それなりの戦果があったが、やはり低速の旧式機ということもあり損害も多く、16機が作戦中に地上砲火等により撃墜/墜落している。
その後米空軍はC-119フライングボックスカー、C-130ハーキュリーズをベースにしたガンシップを導入し、AC-47の多くは南ベトナムやラオス王国空軍(RLAF)、カンボジア軍に譲渡され、引き続き共産主義と戦った。南米コロンビアで麻薬組織を相手にしたものもある。
写真の機体は元々DC-3旅客機として製造されたものを、AC-47ガンシップとして復元したもの。スケールの大きいコスプレだ。塗装はツヤ消しにして欲しかった...(ツヤ有の方が汚れにくいらしい)
アメリカの航空ショーで撮影。
塗装は米空軍 4 SOS (第4特殊作戦飛行隊)のもの。テールコードはフィクション?

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サンディエゴの航空宇宙博物館で展示されているF-4ファントム。
塗装はベトナム戦争中、米海軍で唯一のエースとなったVF-96のカニンガム、ドリスコール組のF-4J。
1972年5月10日の1日に地上攻撃ミッションを終えた後、B-52編隊を攻撃する北ベトナム戦闘機の編隊を見つけ、内2機のMiG-17を撃墜。
その後単機のMiG-17を撃墜した。それ以前に撃墜していたMig-17,Mig-21各1機と合わせ撃墜総数5機でエースとなった。
しかし帰還中にミサイル攻撃を受け、トンキン湾でベイルアウトし救助された。
パイロットのデューク・カニンガムは後にトップガンの教官となり、1987年に中佐で退役、
政治家に転向し、1990年からは共和党地方議員、2003年からは米国下院議員となる。
しかし、軍事産業会社からの賄賂を受け取ったとして、収賄と脱税で有罪となり、2006年から2013年まで服役。
ミグキラーのエースパイロットが犯罪者に...とはこれまた壮絶な転落人生です。

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A-1スカイレイダー攻撃機。米空軍、米海軍共に使用した。3tの爆弾搭載量を誇る最強のレシプロ地上攻撃機だが、Mig-17を2回撃墜するほどの運動性もある。
昔1/48のプラモ(モノグラム製)を買って箱を開けた瞬間、間違えて1/32を買ったか、と錯覚したほどに単発エンジンとしては巨大な機体。
フランスの航空ショーにて撮影。

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アメリカのPacific Coast Air Museumに展示(アメリカ海軍航空博物館からの貸出し)されているA-4Eスカイホーク攻撃機、Bu No.151194
1964年製造、空母5隻を含む様々な海軍・海兵隊部隊を転々とした後、デビスモンサンに保存されていたもの。
1966年10月24日、アメリカ海軍VA-164「ゴーストライダーズ」所属のデニスウェルチマン少佐は本機を駆って空母オリスカニー(CVA-34)から離艦、僚機8機と共にハノイ北方のPhuc Yen北ベトナム空軍基地(現ノイバイ国際空港)を先遣攻撃した。低空で飛行しながらシュライクミサイルをSAMに向けて発射、対空砲火が命中しSAMも自機めがけて発射された。
めげずに2度目の攻撃を実施、再び対空砲火とSAMが炸裂する中を突入、乗機の無線機器、航法機器に損傷を受け、機体が振動しだした。だましだまし空母に戻り何とか着艦。機体には140以上の穴が開いていた。
1968年1月11日には南ラオスで別のA-4E(151152)に搭乗して車列を攻撃中小火器弾が命中し、トンキン湾上空で墜落し、ウェイチマンは脱出成功しヘリに救助された。
ウェイチマンはアメリカ海軍屈指のベテランパイロットで、最終階級は大佐。東南アジアで625回と海軍最多の出撃経験を持つ。海軍の他南ベトナム空軍に顧問として派遣されていた事もあり、出撃した機種はA-1、C-123、A-4、A-7など多岐に渡る。飛行時間8200時間以上、空母への着艦回数1040回。1995年、満60歳の誕生日に没。

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映画「イントルーダー」で(一部の人に)お馴染み、グラマンA-6イントルーダー。
同じくアメリカのPacific Coast Air Museumに展示。
本機はBu.No.155595で1968年にA-6Aとして完成。
1971年10月から1972年6月まで空母コンステレーション(CVA-64)のVA-165「ブーマーズ」所属でベトナム戦争に参戦した。
後にA-6E仕様に改造され、空母レンジャー(CV-61)上のVA-155「シルバーフォックス」所属で湾岸戦争に参戦、戦車56輌と艦艇2隻を破壊。
1994年に除隊。写真は2002年に撮影。
2013年以降は湾岸戦争の塗装に化粧直しされている。
右後方はF-8クルセーダー戦闘機。
翼の迎角を変える独特の機構が付いている。
F-8はベトナム戦争に投入された米軍戦闘機の中では軽快で、対ミグ戦績はF-4に比べ高い。
F-4はスパローミサイルでの遠方からの撃破を目指した(そしてこれが意外と当たらない)のに対し、F-8はサイドワインダーと機関砲しか使えないので相手の背後に回りこむしかなく、結果として撃墜率が高くなった。
一方F-8は操縦が難しく事故率はF-4の倍以上である。

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ベトナム空軍の塗装を施したMiG-17。アメリカ空軍博物館での展示。
機体は元エジプト空軍のもので、1986年に寄贈されたもの。

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こちらはMiG-21PF 4324号機。1967年1月〜1969年5月にかけて、921飛行連隊の12人のパイロットが搭乗し、敵機14機を撃墜したと言われる。
ハノイのベトナム軍事歴史博物館にて。
21 01 56 N 105 50 24 E

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MiG-21PFM戦闘機。ドラッグシュート付。
ベトナム・フエの歴史革命博物館にて。
16 28 11 N 107 34 58 E

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撃墜マークが眩しいMiG-21MF 5121号機。国宝の扱いになっている。
胴体下中央に23mm砲を装備(2枚のエアブレーキの間)、背中が一段と大きくなっている。
921飛行連隊に配備。
1972年12月27日のラインバッカーU作戦(いわゆる「クリスマス爆撃」)期間中、ハノイ上空でB-52を撃墜した。

後方はMiG-17Fで、多分別機を塗装し直したもの?
本物の2047号機は、923飛行連隊に配備され、6人のパイロットが1965年から1968年の間に計7機の敵機を撃墜した。
1972年4月19日にはCLG-5 USSオクラホマシティーを攻撃し損害を与えている。
最初は戦闘機としての運用、後にパイロン、ドラッグシュート付に改造され、戦闘爆撃機として運用される。
(展示機にはドラッグシュートが無い)
ハノイのベトナム軍事歴史博物館にて。
21 02 02 N 105 50 26 E

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SAMといえばソ連製の地対空ミサイルSA-2「ガイドライン」の代名詞。本当は単に「Surface to Air Missile」の頭文字を取っただけなのだが。
牽引車輌付は英国ダックスフォード航空博物館の展示。
発射台座付の2基はベトナム ハノイのB52戦勝博物館 21 02 08 N 105 49 34 E にて。

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ハノイのベトナム軍事歴史博物館にて。
21 01 59 N 105 50 24 E

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ハイフォンとハノイを結ぶ鉄道がホン川を渡る鉄橋。インドシナ総督の名を取りポールドゥメール橋と呼ばれたが、現在はロンビエン橋と呼ばれる。
20世紀初頭の完成で全長1700mと長大。
現在は、単線の鉄道線路を中央に両側を歩行者&バイク・自転車が通れる。
ベトナム戦争当時は近辺に他に橋が無く、北ベトナムにとっての重要な物資供給ルートとなる為、米軍により何度も爆撃を受けた。
1965年3月〜1968年11月までのローリングサンダー作戦中、無誘導爆弾を多数落としたものの破損と修復を繰り返し交通はあまり遮断できなかった。
1972年5月に始まったラインバッカー作戦にてTV誘導、レーザー誘導爆弾を直撃させることにより長期に渡る交通遮断を達成出来た。誘導爆弾の時代の幕開けである。
21 02 40 N 105 51 41 E

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1967年10月26日、アメリカ海軍のジョンマッケイン少佐は、A-4Eスカイホークで北ベトナムへの爆撃ミッション中に地対空ミサイルで撃墜されて脱出、ハノイ市郊外の湖に着水、捕虜となりホアロー刑務所、通称「ハノイ・ヒルトン」に捕虜として拘束された。1973年3月14日に開放されると米海軍に戻り、大佐で退役すると政治家になり、2008年の大統領選挙では共和党指名候補として出馬し、オバマと選挙戦を戦った。
写真はハノイヒルトン。
21 0131 N 105 50 47 E
フランス植民地時代には独立運動家の「政治犯」が多く収容され、彼らがいかに酷い扱いを受けていたかを強調する一方で、米軍パイロットの捕虜にはいかに寛大な待遇だったかを展示している。米軍パイロット待遇は勿論プロパガンダを含んでいるが、北ベトナムが捕虜を交渉材料に使えることを充分認識していたのも確か。
第二次世界大戦で日本本土空襲に参加して撃墜されて捕虜になるのと、北爆で撃墜されて捕虜になるのとどちがか選べといわれれば、間違いなく後者だ。
ちなみに現在は本物のヒルトンホテルがハノイにある。

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ハノイヒルトンの展示。アメリカ本国の家族が捕虜になっているアメリカ兵に出したと思われる手紙の封筒。ハノイの捕虜収容所宛てだがソ連のモスクワ経由で、と書いてある。残念ながら届かずに差し戻された模様。

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ハノイヒルトンに展示されている、米軍パイロットの装備とパラシュート。

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世界遺産ミーソン遺跡は、ベトナム戦争中ベトコンの隠れ家となり、それを狙って米軍が爆撃を落とした。
特にグループE、Fの遺跡は殆ど崩れてしまっている(写真右端の綺麗な遺跡は再建したもの。一部オリジナルの破片使用。ドレスデンのフラウエン教会を思い出してしまった)。手前は遺跡のすぐ横にある爆弾による大穴。
15 45 52 N 108 07 30 E

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ハノイにある世界遺産タンロン城内の北ベトナム軍D67作戦会議室。奥の3人掛けの机は将軍クラス用。
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観光地クチトンネル。サイゴン(現ホーチミン)市内からいくつもツアーが出ている。ワーテルロー、広島平和記念公園などと同じ、戦跡が俗化した観光地になっているパターン。
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南べトナム解放民族戦線、いわゆるベトコンな皆さん。
ベトナミーズ コミュニスト 略してベトコン。
頭文字を取ってVC。フォネティックだとヴィクターチャーリー。
だからベトコンのことをチャーリーと呼ぶ。
正規軍である北ベトナム軍と、ゲリラのベトコンは別物なのだが実際には区分が曖昧。
米語でチャーリーといえば双方をさすことも多い。
地獄の黙示録でキルゴアが言った名ゼリフ「Charlie don't surf !」から判るように、Charlieには単数複数の区別が無い。
(Charlie doesn't surfでもCharlies don't surfでも無い)
ゴムタイヤをリサイクルして作ったサンダルがチャームポイント。銃はもちろんAK-47。

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トラップを再現。映画によく出てくるやつ。

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トンネル内部。体のデカいアメリカ人が入れないよう小さいトンネルにしていたとのことだが、観光用には、体の超デカい現代のアメリカ人観光客からも金を巻き上げられるよう、トンネルを大きめに掘りなおしてある。
とはいっても狭い。

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近辺から回収した、各種爆弾、グリネード弾、ロケット弾とロケットランチャー。

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ホテルサイゴンモーリンはフエ最古のホテルで、フランス植民地時代の1901年に建造された。
第一次インドシナ戦争の時には、ホテルに立てこもるフランス軍と攻撃するベトミンとの戦闘があり、部分的に破損・火災を受けた。
1957年から1975年までの間は、ホテルではなくフエ大学のキャンパスとして使用された。
ベトナム戦争中の1968年1月30日夜、ベトコンと北ベトナム軍が南ベトナム主要都市と基地に一斉に攻撃を仕掛けた(テト攻勢)。

フエでは31日早朝から攻撃を受け、ベトコン、北ベトナム軍が市街の大部分の占拠に成功した。
フエ大学も占領されたが、激しい市街戦の末、2月3日に米海兵隊が到着し、少しづつ敵を追い出していった。
フエでのテト攻勢は2月25日まで続き、ベトナム戦争で最も厳しい戦いの一つとなっている。
最終的にテト攻勢は全域で米軍、南ベトナム軍が領地奪還に成功しているが、サイゴンの米大使館が一時的に占領されるなど米国民に与えたインパクトは大きく、米国にとっての対ベトナム政策の転換点になった。

ベトナム戦争終了後、この建物は1989年から再びホテルとなり、1997年に改装され現在に至る。
老舗高級ホテルだが物価が安い所なので朝食付税込一泊8500円程度で宿泊出来た。
戦場の近く、戦場を見渡す場所には宿泊したことがあるが、大規模戦闘のあった現場そのものに宿泊するのは初めて。
16 28 01 N 107 35 26 E

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ホテルサイゴンモーリンの部屋から、国道1号線がフォン川(パーフューム川:香水川)を渡るチャンティエン橋を見る。
手前がフエの南(新市街)側、奥が北(旧市街と宮殿)側。
テト攻勢では、北ベトナム軍及びベトコンが新旧両方の市街を制圧。
1968年2月7日、ベトコンの工兵が橋の2径間を爆破した。この結果、陸路でのフエ市の南北往来が出来なくなったが、同時にベトコン・北ベトナム側も兵が分断されることになる。
ちなみにこの橋、エッフェル塔と同じ設計者とのこと。
16 28 08 N 107 35 20 E

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世界遺産のフエ王宮。城塞構造で周囲を堀と塀に囲まれている。
フエにはベトナム最後の王朝、阮(グェン)朝があった(ただし1945年に王朝自体は消滅している)。
王宮はテト攻勢の時、北ベトナム軍、ベトコンに占拠され、攻防・奪還戦の最中、かなりの建物が破壊されてしまった。
現在も少しづつ復旧されているが、まだ破壊されたままの建物を見ることが出来る。
また、当初から残る建物や城壁の多くも銃弾の跡がある。
16 28 10 N 107 34 37 E

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飛ばねぇ犬はただの犬だ...バードドッグ&ドッグ(尻尾巻いてますが...)。
タイのナコムパトムにあるジェサダ博物館で展示、というよりは敷地に放置されているセスナO-1バードドッグ(の残骸)。
O-1はベトナム戦争中はFACとして米空軍、米陸軍、米海兵隊、南ベトナム空軍、タイ陸軍、タイ空軍で使われた。
写真に写っているのはいずれも元タイ陸軍のもの。
タイ陸軍のO-1は殆どが米軍、フランス海軍の払い下げで、陸上自衛隊がL-19Aとしてアメリカから供与され使用し、その後期限切れで米国に返却し、タイ陸軍に移籍されたものもある。
この元陸上自衛隊機も何機かジェサダ博物館が入手している。
13 48 49 N 100 11 48 E

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オーストラリア空軍のUH-1Bによるヘリボーン。
この機体は1966年から1968年までの間、第9飛行隊下でベトナム戦争に参加し、489回の作戦に従事した。
1967年にはエンジントラブルで不時着し、テイルブームを交換している。
1985年に退役、現在はオーストラリア戦争記念館で展示されている。
ヘルメットも被らずヘリから飛び出す兵が持っているのは、当時NATOで広く使われていたFN FAL系自動小銃。その後ろでクルーが構えているのはM60機関銃。
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オーストラリアという国、英連邦であるが故にボア戦争やクリミア戦争に参加し、第一次世界大戦ではトルコのガリポリに上陸を試みるなどで多大な損害を出した。
続く第二次世界大戦でもやはり英国の仲間ということで欧州で戦ったりマレーで苦戦したり日本軍による本土攻撃を受けたり。
その後、ニュージーランドと共に「やっぱこれからは強いアメリカと一心同体だよな、また日本軍が責めてきたらヨーロッパはアテにならないから今度はアメリカと一緒に戦おう!」と、米国・ニュージーランド・オーストラリアの3カ国で太平洋安全保障条約(ANZUS条約)を結んだ。そのおかげでベトナム戦争に参加することになってしまった(実際にはそんな単純な経緯ではないらしいが)。もうちょっとお友達は慎重に選んだ方が...
写真はアデレードにあるベトナム戦争記念碑。
裏側にはSA(南オーストラリア)州から出兵したベトナム戦争犠牲者56名の名前が彫られている。
34 55 02 S 138 36 01 E

尚、オーストラリア全体の、ベトナム戦争での戦死者は500名。これはアメリカの6万、韓国の5千に次いで多い。
ベトナム人の戦死者については北ベトナム軍、ベトコン、民間人の区分けが難しく、南ベトナム軍も末期にはカオス状態でまともに統計が出来るような状態ではないが、合わせて数十万〜100万以上といわれる。

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戦場カメラマン、石川文洋氏の着用していた服と、当時使用していたカメラが寄贈展示されている戦争証跡博物館。

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タイ・バンコクのナショナルメモリアルにあるベトナム戦争の等身大ジオラマ。
Phuoc Tho村の戦闘を再現したもの。
タイ陸軍のQueen's Cobra Volunteer連帯所属の兵約90名が319号線を占拠し、ベトコンの補給が村に届かないようにしていた。
1967年12月20日の22:00時頃、ベトコンはグリネードランチャーでタイ軍の砲撃拠点を攻撃し、同時にタイ軍基地を北西、西、南西の3方向から攻撃してきた。
ベトコンは鉄条網を破り攻め込んできたがタイの兵士は諦めずにその場に留まり、近接戦の激戦となった。
味方の砲撃及び米軍AC-47ガンシップの支援を受け、翌日03:00頃には、敵は勝利できないと思ったのか退却に転じ、05:30頃に戦闘は終わった。
タイ軍の損失は死者8名、重傷者23名、軽傷者48名に対しベトコンは死者185名、負傷80名、捕虜2名及び捕獲武器多数。
この戦闘だけ見るとタイ側の大勝利に見えるが、実際にベトナム戦争でタイ軍が戦った戦闘ではこれが最大規模のもので、この戦闘で勝利しているので、タイ軍としてもPRしておきたいのだろう。
ベトナム戦争を通じてタイ軍は37000人をベトナムに派兵し、351名が戦死。
タイ軍は1972年5月15日にベトナムから最後の撤兵を行った。

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交通の要所、ハイヴァン峠に残るトーチカ。
レンガ作りのものは時代から見て恐らく19世紀のフランス軍のもの。
コンクリート作りのものはその後同じくフランス軍が作ったものか?
更にトーチカの上に屋根付見晴台が設けられているがこれは?日本軍か米軍が増設?
一部の建物は銃弾の跡だらけ。これは米軍撤退後の戦闘跡?
16 11 15 N 108 07 52 E

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1975年4月30日、サイゴンの南ベトナム大統領官邸(現統一会堂)の正門(写真中央の、真ん中の門)を突き破って戦車が突入し、サイゴンが陥落した。これにてベトナム戦争終了。
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旧サイゴン、現ホーチミン。ハノイと比べても洗練されており、普通に町歩きしている限りは、ここが共産国家だと思わされることはほとんど無い。
典型的な東南アジアの都市。ジャカルタ、クアラルンプールあたりよりずっと面白い。
像はホーおじさん。サイゴン陥落と共産国家ベトナム統一を見ることなく1969年9月2日に死去。
最近、この像、巨大な立像に入替えられたらしい。
背後はフランス植民地時代に建てられた、人民委員会庁舎(市庁舎)。
10 46 34 N 106 42 06 E

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ホーおじさんの胸像。
シンガポールにて。
共産主義禁止のシンガポールにて、バリバリ共産主義のホーチミンさんの像が何故あるのか、というと、ベトナム人民やベトナム政府の歓心を買ってベトナムとの取引を増やして儲けよう、という華僑国家シンガポールの思惑以外に説明が付かない。
1 17 12 N 103 51 07 E

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ホーチミンやその同志が政治局の業務で移動する時に使っていたZIS-115。
1954年にソ連から寄贈されたもので、1972年まで使われた。
スターリンも同型のものを複数使っていたのは有名。
ハノイの革命博物館前に展示されているがガラス張りで写真が撮りにくいのが難点。

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ハノイにあるホーチミン廟。
ホーチミンの死去後1973年9月2日に着工し、1975年8月29日に完成。
ホーチミンはレーニン、毛沢東、金日成・正日親子など他の共産主義指導者同様に遺体が保存処理された上で永久保存公開されている。
毎朝6:30に国旗掲揚、毎夜21:00に国旗降納式典が見られる。観光客(中国人が多い)も見に来る。中には朝夜両方見に来るおバカもいる(←私だよ....)
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ハロー、レーニン! ハノイにて。これみると、ベトナムって、やはりバリバリ現役の共産主義国家なんだな、と。
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現在のホーチミン市の玄関口、タンソンニャット国際空港。空港コードSGNはサイゴンの名残りか。
元々1930年代にフランスが設立し、後にアメリカが拡充した。ベトナム戦争中はアメリカ空軍、南ベトナム空軍が使用。
タキシングするベトナム航空A320の奥にコの字型の掩体壕が見える。また、手前はソ連製ヘリコプターMi-8で、軍民共用空港である。
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大規模なアメリカ軍の航空基地があったダナン国際空港。
現在も当時の格納庫が残り、一部はベトナム人民空軍が使っている。
水色の機体はスホーイSu-22M。この日は迷彩塗装を施した複座型Su-22UM共々、ひっきりなしにフライトがあった。
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ダナン南にあった米海兵隊のマーブルマウンテン航空基地に残る格納庫。
基地の名前は近くにある五行山の英語名から。
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ベトナム戦争のとばっちりというか、共産主義に扇動された被害者と言えるのはカンボジアであろう。
カンボジア内戦時の兵器を展示している野外博物館。観光客皆無。すぐ近くのアンコールワットにはあれほど居たのに...
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シエムリエップのホテルからアンコールワット遺跡に向かう途中にある市場近辺は、虐殺の場(キリングフィールド)だった。

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おまけ。
ベトナムと言えば何と言ってもPho。サイゴンにて。ウマッ。
食事だけに関して言えばフランス植民地だったのがプラスになっているはず。イギリス植民地だったマレーシアとか、オランダ植民地だったインドネシアとかは、そんなに美味しくない...



さて、ベトナム戦争「関連の」ハリウッド映画。以下のパターに分けてみる。

やっぱしアメリカ強くてカッコよくて正義だぜ!アメリカ万歳!ハリウッド万歳!パターン

グリーンベレー (1968)
ベトナム戦争最中の映画なのでこの内容・結末はしょうがないでしょう。ジョンウェイン(だけが)やる気満々。
アメリカ陸軍全面協力なのでこういう内容になるのは当然、ただ、一方的にアメリカが強い、という映画にはなっていない。北ベトナムとベトコン、結構強い。まあ、敵が弱すぎたら「そんなに軍事費要らないだろう」って予算削減されちゃいますから。
犬が死んでしまうことでアメリカ一般大衆の涙と同情をもらい、北=共産主義=悪というイメージを高めようとする魂胆見え見えの映画。
ちなみに私はベトナムで多層の荷台付大型トラック(豚等を運ぶヤツ)に生きた犬が満載されているのを見た。食用!?
この日以降、レストランのメニューは何時に無く丁寧に見るようにした事は言うまでも無いワン。
前半の砦の攻防戦はまるでアラモを彷彿とさせる。ベトコンなんか雄叫びしてるし。そこにAC-47(コールサインはパフ)が真昼間に登場して、あっというまに敵全滅。それなら、AC-47だけでグリーンベレー要らないじゃん....
後半は敵の将軍誘拐。フルトン回収システムで人間をMH-130に回収する所が興味深い。

地獄の7人 (1983)
ベトナム戦争が終わった現代(80年代)の話。
ランボー怒りの脱出と話が似ているけど、こっちの方が先。ベトナム戦争で行方不明になっているMIAな人たちを探すという今ではお決まりになったパターンの映画。舞台がベトナムではなくラオスというのが珍しい。
例によってベトナム帰りで病んでいる人が出ている。手りゅう弾をいつも首から下げるって、さすがに漫画チック。

ランボー怒りの脱出 (1985)
これもベトナム戦争が終わった現代(80年代)の話。
地獄の7人の時に比べ、今度はたった一人で潜入。しかしこの一人がやたらと強い。敵の弾も全く当たらないし。
ベトナム人は女工作員以外全て悪人。ロシア人も悪人。すごい勧善懲悪理論。
物語の舞台はタイとベトナムだが、実際の撮影はメキシコで行われている。
頭を空っぽにして見ないとダメな映画。考えたら負け。というか、こんな映画ばかり見てたらアホで間抜けなアメリカ人になっちゃうんだろうな、という映画。
スターローンの裸の上半身が好きでしょうがないといか、無敵最強の男になりたいとか、そういう願望が無ければ見なくてもいい映画。
といいつつ何度もこの映画を繰り返し見ている自分であった。実は馬鹿馬鹿しいながらも面白い映画なのだ。
当時のハリウッド、よっぽどベトナム戦争撤退したコンプレックスを何とかしたかったんだろうな、と思う。
クライマックスで登場する大型ヘリは空になったロケットランチャーを村に落として悪役ぶりをアピールするのが印象的。
このヘリ、Mil-24ハインドを目指したんだろうけど、「若き勇者たち」に出てきた、ほぼ完璧なMil-24A型のレプリカ(ピューマ大改造)と比べると、普通のピューマにパイロン付けただけで安直すぎ。この後「怒りのアフガン」にも登場している。
あと、ランボー君、RPGを機内から撃っちゃダメだろうが。

イントルーダー怒りの翼 (1991)
米軍撤退、サイゴン陥落で共産主義側勝利か決まって以降、暗いベトナム戦争映画ばかりだった所に出てきたこの作品、もうジョンミリアス節全開。
そいうえばグリーンベレー以外の映画で、始終ベトナム戦争が舞台で、米軍全面協力というのはこれだけ?
反戦とか史実とか敵側の顔が見えないとか、とにかくそういった事は忘れて見ましょう。
A-6イントルーダー、厚木の航空ショー(昔はフライトのデモをバンバンやってた)で見たときは、地味な、旧式低性能機のイメージだったけど、映画では小回りが利いて大活躍。
あんなに運動性が良いとは映画見て始めて知った、と航空ショーでA-6イントルーダーのパイロットに話したら「そうだろう」、と喜んでた。
しかし、日本語タイトルのセンスの無さ。映画の原題は単に飛行機の機種であるイントルーダー。
そう、これ、単に飛行機が主役の映画。
イントルーダーって、侵略者という意味があるけど、ベトナムに介入侵略してごめんなさい、という意味は....絶対に無いはず。ジョンミリアスだし。何事も割り切りは重要。
ちなみに原作の原題は「デビル500応答せず」とこれまたマニアック。Mig17やA-1も実機登場。
これは飛行機マニアの為に作られただけの映画ではないか。反戦のハの字も含まれない。戦争映画というのさえ疑問かも。でもいい、これは楽しめる。私自身飛行機マニアだし。


戦争負けちゃったの。間違ったことしてたの。戦争勝ってたらバレなかったのに。 パターン

カジュアリティース (1989)
マイケルJフォックスはシリアス映画に出てはいけない。

プラトゥーン (1986)
社会派オリバーストーンの映画ということで世間の評価高いけど、やっぱアメリカ目線なんだよな。アメリカ人、悪いやつもいるけど、ちゃんとイイやつもいるって。


北の共産主義者はそりゃもうひどいっす。アメリカ政府も守ってくれないっす。俺たちこんなに酷い目にあったっす。心も体もボロボロっす、パターン

ディアハンター (1978)
アカデミー作品賞受賞?ふざけるな、という映画。ニックの発狂ぶりはなかなか。発狂するのは当たり前、マイケルは冷静すぎ。っていうかこれがベトナム戦争?やっぱふざけるな、だよな。
サイゴン陥落の様子はそれなりに雰囲気出ている(収穫はここだけ)けど、これバンコクで撮影したらしい。

ランボー (1982)
改めてみてみると、その後シリーズ化される「怒りの脱出」、「怒りのアフガン」に比べ、初代はかなりまともな映画だったことが判る。
原作者は、後に変てこな続編でキャラが変わっちゃって、よくも文句言わなかったな、と。
1作目はまあまあ、2,3作目はいわば「怒りの駄作」。ミャンマーに行く4作目「最後の戦場」は...こりゃ全く別の映画だろう。何でトールボーイ爆弾がビルマ(ミャンマー)のジャングルに?
1作目「ランボー」に話を戻すと、舞台はベトナム戦争が終わってしばらく経った1980年代のアメリカ。
世間は帰還兵に冷たい。親友かつ戦友も枯葉剤の病気で死んでしまった。ヤケになって逃げ回り、暴れまくるランボー。
この時、実に寡黙なランボー。君の言いたい事は良く判る。何も言わなくていい。でもそれじゃぁ映画にならないから映画の最後で突如しゃべりまくる。黙って聞く元上官。理解者のフリをして、何でも知ってるフリをして、この映画一番のワルは彼なのだ。
暗い雨ばかりの、寒そうなアメリカの小さな町(実際に撮影しているのはカナダ)の雰囲気が何ともいえない寂しい気分にさせられる。

フルメタルジャケット (1987)
この頃1980年代からキューブリックの映画はつまらなくなっていく。黒澤先生と同じパターン。
遺作となった「アイズワイドシャット」なんかは、完全なB級映画。
フルメタルジャケットもダレているというか、結局何がいいたいんだよ、という感想。
主人公がStars&Stripes(米軍公式の新聞)の軍人記者というのは特異だけど、それを活かしたドキュメンタリー風映画にしかなっていない感じ。
前半では、アメリカ本土での訓練により青年が殺人マシーンになっていく。
微笑みデブ(言語ではGomer Pyleという1960年代TVドラマの主人公の名前...しらねーよ、そんなの)が食するドーナツが実に旨そう。ロードショーでこの映画を見た後、ドーナツを探したものだ。
そういえば昔、会社の同僚で、やたらとエアガンの射撃の上手いデブがいた。
訓練教官ハートマン軍曹を演じたリー アーメイは本物の元海兵隊員の教官。
映画製作時には、当初テクニカルアドバイザーとして雇われたが、訓練内容の録音を聞いたキューブリックが教官役の俳優抜擢したという経緯がある。
ハートマン軍曹の口から次々と飛び出す卑猥な言葉は、DVDの英語字幕をonにして語学の勉強に(何時使うんだ?)。
映画の後半はテト攻勢に於ける、フエの市街戦。ロンドン郊外の廃工場で撮影。
激戦と見せかけて実は一人のスナイパーに手間取っているだけだったりする。
冷静に考えると新兵訓練、兵士インタビュー、敵一人相手の戦いと、結構地味な戦争映画だ。
キューブリックは飛行機嫌いで撮影は全てイギリスで行われている。
まあとりあえずエキストラに三角帽子かぶれば誰でもベトナム人に見えますが。
海兵隊のヘリUH-34(レシプロエンジン)の代わりに英国で入手できたウェストランド・ウェセックス(ターボシャフトエンジン)を登場させているので機首周りの形状が異なる。

7月4日に生まれて (1989)
被害者はとにかくアメリカ人です、愛国心があっても報われません、という身も蓋もない映画。
これ駄作でしょう。


ベトナムあたりで戦争やってるみたいだけど、もっとほかの事のほうが重要 パターン

グッドモーニングベトナム (1987)
戦争しろよ...とおもってしまう。

地獄の黙示録 (1979)
この映画はベトナム戦争映画ではない、と断言する。
主題は仕事を楽しむ男(サーフィンしたくてベトコン村を焼き討ち)と、仕事に真面目すぎて破滅する男の対比。
どっちが実社会で得なのかは一目瞭然。仕事は楽しみながらしよう。仕事の中に何らかの楽しみを見つけ出そう、は私も常に心がけている(現実は厳しい...)。
ベトナム戦争はそのインスピレーションにすぎないし、実際にベトコン/北ベトナムが出てくるのは前半のみ。
おバカなオネーサンの慰問団とか、フランス人入植者とかをつなぎ(にもなっていないのだが)にして得体の知れない王国へ。
もはやそこはベトナム戦争とは無関係。
パットン戦車軍団の脚本を書いた人とは思えない程、コッポラの迷走が見られる。
やっぱり負け戦をハリウッドが映画化してはいけないのだ。

エアアメリカ (1990)
これはベトナム戦争映画ではなく、ラオスを舞台としたサスペンスコメディアクション映画。
ポジティブな意味でこういうベトナム戦争周辺のストーリが語られるのはいいことだと思う。キリングフィールドも同じ。
とにかくラオス、カンボジアは情報が少なく置いてきぼりになってしまう。
せめて映画でもっと見てみたいという願望はあるのだが。
この映画、PC-6ポーター、C-123プロバイダーが大活躍の飛行機映画でもある。何とシコルスキーS-58T(タイ空軍)というレアな機体も出てくる。だから頭を空っぽにして飛行機だけ見るのも良し。
私も最初に見たときは歴史的バックグラウンドを判っていなかったので(ラオスという国自体の理解が無かった)何の為にCIA、モン族、エアアメリカがあるのかよく判らなかった。
かばん持ちをさせられかける間抜けな悪役として描かれるモン族のパオ将軍は、フランス植民地時代の抗日戦士で、後に王立ラオ軍の将軍となり、ベトナム戦争中はラオス国内の共産勢力と戦った。
ベトナム戦争終結、ラオスが共産主義国家となるとアメリカに亡命、アメリカで暮らすモン族難民のリーダー的存在になる。その後2007年にラオスの共産政権打倒クーデタ未遂の疑いで逮捕されるが起訴されなかった。



何の為に戦争しているかはさておいて、とにかく戦場はサバイバル パターン

ハンバーガーヒル (1987)
昔見ただけなので細かく覚えていないのだが、とにかく戦え、という印象だ。

バット21 (1988)
これはまともな戦争映画といっていいだろう。
とにかくベトナム戦闘はアメリカにとって負け戦なので、戦争全体が見えるものだと大義名分とか情勢とかの点でアメリカ(ハリウッド)にとって暗くなりがち。
その点、この映画は主人公のサバイバルに焦点を当てている。
トラップを教えてくれる少年とか、誤解から民間人を殺して許してもらうとか、さすがにちょっとアメリカのご都合主義ではないかと思われる所があり、主人公のジーンハックマン自体余り好きな俳優ではないのだが、ダニーグローバーの頑張りもあり、サバイバル戦争映画として良い映画だと思う。

フォレストガンプ一期一会 (1994)
そんな上手い話があるわけないだろ!何でこれがアカデミー作品賞なんだ?(同年に作品賞候補になったショーシャンクの空へ、がイチオシに面白い。戦争映画ではないけど。)

戦場 (1978)
戦場という日本語タイトルの映画は複数あるが、これはテッドポスト(ダーティハリー2やコンバットの監督でお馴染み)が監督した映画。
英語タイトルはGo tell the spartansで、BC480年、テルモピュライの戦いで全滅したスパルタ軍の残した言葉「見知らぬ旅人よ、スパルタ人に伝えてくれ、"我々は命令通り留まりそして全滅した"、と」から来ている。
英語タイトルからして既に悲壮感全開で、実際その通りの悲惨な展開になる。
舞台は1964年のマクワの戦いで、アメリカ軍は軍事顧問団である所が非常に珍しい。
武器はベトナム戦争初期らしく古い(H-34、M3グリースガン自動小銃、トミーガンなど)
内容は反戦映画にも、戦争で病んでしまう人の映画にも、腐った南ベトナム批判にも、アメリカのベトナム介入の是非を問う映画にも解釈できるけど、私としては「後だしジャンケン」としか思えなかった。ベトナム戦争たけなわの1960年代後半〜1970年代初期にこの映画を作ったのなら凄いと思うけど、アメリカ人はそんな事しないだろうな、と。
米軍撤退、サイゴン陥落後に「これはベトナム人の戦争」とか言う映画を作っても、なんだかなぁ〜と思ってしまうのであった。ミエミエの低予算、米軍非協力(協力打診はしたらしいが、「軍事顧問団は精鋭を送り込んだのが史実」とか言われて断られた)、そして脚本がマズいのか盛り上がりの無い内容だし、見てもしょうがない映画の一つだ。

ワンスアンドフォエバー (2002)
原題と日本語タイトルがかけ離れている....いつもの事だが、原題とは違うカタカナタイトルは、内容は良くてもタイトルで損をしてしまうと思う。プライベートソルジャーとか、最近だとSF映画のオデッセイとか...
これも正統派の戦争映画。アメリカ軍が介入して初期の、1965年に起きた米軍初の大規模戦闘かつ、初のヘリボーン作戦であるイア・ドランの戦いが舞台。
21世紀になって作られた映画なのでベトナム戦争の結末を観客は知っている訳だが、その結末を意識させないように作っいる。冒頭ではフランス軍との戦闘も描かれており、北ベトナム側は地元で長い戦争を戦ってきた、これからも戦う、ということを強調している。
撮影は全て米本土で行われている(戦闘シーンはカリフォルニアの中央部で撮影)為、ベトナムのジャングル戦の雰囲気が伝わらない...と思ったが、実際のイア・ドランの戦場も高地で乾燥しており、いわゆる熱帯ジャングルではなかったらしい。
しかし戦死通知をタクシーが持ってくるって...



ベトナム戦争が泥沼化してからサイゴン陥落するまでの間、私は小学生だった。
とにかく大きな戦争をよその国でやっていることは判った。
ただ、共産主義、ドミノ理論とか、傀儡政権とかは判っていなかっただろう。
「アメリカ軍が撤退する」「サイゴンが陥落して戦争が終わった」というのは、周りの大人たちの会話から覚えている。
ニュースでヘリが海に廃棄されるのを見たのが印象に残っているのだが(例の、大使館から避難してきた南ベトナム協力者が乗ったヘリが続々と米空母に避難してくるので、次が着陸できるよう洋上投棄)、リアルタイムで見たのか、或いは後日放送のドキュメンタリーの印象だったのか。
それ以降、ベトナム戦争については映画(上述の通り歪んだものが殆ど)やドキュメンタリー、本でなんとなく自分なりにどのような戦争だったのか少しづつ掴んだつもりだった。
時は経ち、その後ドイモイ、冷戦終結、米国〜ベトナム国交回復と順調に事が進んでいた20世紀末に仕事でアメリカに駐在。
私が住んでいたのはカリフォルニア州だったが、ここはベトナム難民の方々も多く、初めてベトナムラーメンPhoを食べたのもアメリカだった。

そんなある日、アメリカ人数人とステーキハウスで夕食を共にし、いい年こいた大人達が車の話で盛り上がっていた。

R氏(50代 アメリカ人 取引先代理店の社長)   「昔はxx年式コルベットもっててねぇ、そりゃいい車だったよ。」

私(当時30代 日本人)  「そりゃ日本だと高嶺の花だ。滅多に見ない」
           (本音:そんな燃費の悪い故障だらけの形だけの車、
           日本じゃ一部のマニア以外誰も乗りたがらないぞ。
           これだからアメ車は....)

J氏(50代 元アメリカ海軍予備役。ベトナムには行っていない)  「コルベット、パワーもあるし、かっこいいし」

R氏  「でも手放さなきゃならなかったんだよね」

J氏  「ほう、そりゃまた何で?」 (本音:君、お金ならいくらでも持ってるだろう)

R氏  ステーキ肉を切りながら 「ベトナムに行かなきゃいけなくなって....」 
    (多分彼がベトナム帰還兵というのは、皆この時初めて知る)

一瞬の沈黙の後、

E君(20代後半 アメリカ人)  ニヤつきながら「ナイフ取り上げなきゃ危ない!」 ("Take the knife away from him!")

途端にその場が凍りつき、一種独特の、明らかに気まずい雰囲気が漂う。
E君、そりゃ映画の見すぎだよ!ベトナム帰還兵は皆ステレオタイプに精神病んでるのかよ!と内心大笑いしながらその時は思ったのだが、あとで判ったのだがR氏、実際にベトナムで人を殺したりして精神的なプレッシャーはかなりのものだったらしい。
それを知らずにベトナム帰還者ジョークを言うのはまさにKY状態。

アメリカ人にとってベトナム戦争は特別なもの。最終的に冷戦に勝っても。ということを実感した出来事だった。




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