パットン将軍
General George S Patton Jr

General George Smith Patton Jr.
ジョージ・スミス・パットン2世は1885年11月11日、アメリカ合衆国カリフォルニア州で生まれた。
父親は弁護士・政治家だが、歴代軍人の家系だった。
パットンは幼い頃から古典や戦史を好み、父親の友人だった南軍元騎兵隊長の体験を聞き、将来は将軍になりたいと思った。
1909年に陸軍士官学校を卒業し騎兵隊に配属された。
1912年にはストックホルム夏季オリンピックでこの時初めて開催された走近代五種競技(射撃,フェンシング,水泳,馬術,ランニング)の選手として出場し、総合5位となった。
ちにみに1916年にも同種目でベルリン夏季オリンピックにも参加予定だったが第一次世界大戦の為開催中止となった。
米墨戦争ではパーシング将軍の下で戦い、米国初の装甲車攻撃に参加しメキシコ側指導者2名を殺し英雄となった。

第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、パットンは英・仏軍による戦車の運用を観察し、米軍初の戦車配備に関わる。
この時には戦時の一次昇進で大佐になっていた。
サンミゲル攻勢、ミューズアルゴンヌ攻勢にルノー戦車で参戦し、1918年9月26日にドイツ軍機銃により負傷、療養中に第一次世界大戦は終わった。

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パットンが搭乗したのと類似のルノーFT戦車。
菱形戦車よりも洗練され、回転砲塔、後部エンジン室など現代戦車に通じるものがある。
フランス・パリの廃兵院にて。上から見下ろせるのが面白い。


戦後、階級は大尉に戻り、戦車運用戦術の研究をし、政府に戦車機甲師団を編成する予算を認めるよう働きかけていたが成果は無く、後に騎兵隊に戻った。
1939年になって、チャフィー将軍がようやく議会から戦車機甲師団の創設を認められた。
1940年に第1、第2機甲師団が創設され、パットンは第2機甲師団の第2大隊の指揮を任された。
1941年4月には第2機甲師団を指揮する少将となり、来るべき戦争に備えカリフォルニアのインディオにある砂漠の訓練施設で連日訓練に励んだ。
1942年11月からは北アフリカのモロッコに、トーチ作戦参加の為揚陸した。
1943年3月には中将となり第二軍団の指揮を取る。この時、副司令官にオマーブラッドレーが就いた。
パットンは部下に軍規を厳しく守らせ、結果として兵のプライドが上がった。
戦況も有利になり連合軍は反撃に転じた。

北アフリカの功績により第7軍の指揮を任され、シシリーに上陸することになった。
モンゴメリーが指揮する英軍との協同作戦で、米軍は英軍の左(西)側面を守りながらメッシーナを目指す。
パットンは臨時部隊を組織し西シシリーをすばやく移動し、首都パレルモを占領すると、港町メッシーナに入った。
このシシリー戦の最中の1943年8月3日、パットンは野戦病院で砲弾神経症の兵を殴り(「兵士殴打事件」Slapping incident)、更に悪いことに1週間後には同じ状況で別の兵士が殴られた。
世論に押されてアイゼンハワーはパットンを本国送りにすることも考えたが、結局はパットンはヨーロッパに残り、フォーティチュード作戦に組み込まれた。
すなわち、1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸しても、それは本命ではなく、主な上陸部隊はパットンの指揮下でカレーに上陸する、とドイツに思い込ませる作戦である。
この為ダミーの建物・車輌・航空機が英国の置かれ、パットンが偽基地を観閲する写真が公開、そして偽情報がドイツ情報部員に流された。
結局作戦は功を奏し、連合軍がノルマンディーに上陸後もドイツ軍はしばらくの間予備兵力を温存してしまった。
そして、戦闘に参加できないパットンは退屈していた。

米第3軍はノルマンディー上陸の先鋒にはいなかったものの、7月からノルマンディー地区の戦闘に参加し、パットンが指揮官となり、あっという間にノルマンディー地区を突破し、西方ブリタニー半島を制圧。
かつて副司令官だったブラッドレーは、パットンの第3軍とホッジスの第1軍を配下とする第12軍集団指令で上官となった。

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ノルマンディー地方アヴァランシュにあるパットンの開放記念碑
1944年7月31日、進撃の足がかりとなるこの町を開放した。
広場に面して「オテルパトン」もある。

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自由の道(英語:Liberty road 、 仏語:Voie de la Liberte)は パットンの第3軍が進撃したルートを主体とし、タイマツの描かれたマーカーが1km毎に立つ。
ハッキリ言ってデザインが恐ろしくダサい。スタートはユタビーチ、終点はベルギーのバストーニュ。
写真はフランスのランス近郊にあるマーカー。
第一次世界大戦のマルヌ会戦戦跡を訪問している最中に見かけたもの。
歴史に造詣が深く、第一次世界大戦にも参加したパットンは、どのような思いでこの戦場跡を駆け抜けていったのだろうか。


パットン率いる第3軍は、連合軍の最南を受け持ち、ロレーヌ川に達し、陸軍航空隊との連携のおかげもあり快進撃を続けた。
しかし8月末にはフランス・ロレーヌ地方の大都市、メッスの手前で進撃が止まる。補給が続かなくなったのだ。
元々ノルマンディーから陸路で補給を続けている為キャパに制限があり、更に9月にはマーケットガーデンの為物資人員を割かれてしまったのが原因だ。
ドイツ軍はメッス周辺の守りを固めた為、メッス開放は11月23日まで待たねばならなかった

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パットンの第3軍が開放した都市、メッスの大聖堂前にある記念碑
一見、第二次世界大戦の開放記念碑には見えないのだが、フランス語の解説を読む眺めると確かにパットンの文字と開放した日付がある。
49 7 10 N 6 10 32 E

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ルクセンブルグのエテルブリュックにあるパットン像。
同じ像は同市のパットン博物館、米国ニューヨーク州ウェストポイント陸軍士官学校にもある。
49 51 2 N 6 6 36 E

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冬のヨーロッパは悪天候が続き、航空支援が受けにくい。
1944年12月8日にパットンは従軍牧師のオニール大佐を呼び、天候を回復させる祈りを書いてもらった。
パットンは敬虔なクリスチャンだった。
祈りの文章をクリスマスカードに25万部印刷し、第3軍の兵に配った。
写真は、オニール大佐のヘルメットと、天候回復の祈りが書かれパットンの署名入りで配布されたクリスマスカード。
(映画で描かれている、バストーニュ開放の進撃に必要な航空支援を受ける為に祈りの言葉を牧師に考えさせたのではない)
ルクセンブルグ王国ディキルヒの軍事博物館にて。


1944年12月17日、ドイツ軍はアルデンヌの森で大反撃に出た。
米軍はマルメディ、サンヴィットなど交通の要所で抵抗しドイツ軍の進撃を遅らせたが、やはり交通の要所であるバストーニュでは守りについた101空挺師団がドイツ軍に囲まれた。
当時ザールブリュッケンで激戦を戦っていたパットンの第3軍は直接ドイツ軍の大反撃を受けなかったがパットンは早速バストーニュ救出を計画する。
記録的な寒波の中、進撃を西から北に転進させた。戦闘中の部隊を混乱なく90度向きを変える、というのは難易度が高く、第3軍そしてパットンの最高の成果としてその後も高く評価されている。
結局、パットン配下のエイブラムスが指揮する第4機甲師団がバストーニュに到着しドイツ軍の包囲を解いた。

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バストーニュにあるパットン広場横のレリーフ。
49 59 53 N 5 42 56 E

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バストーニュのパレードにて、パットンのコスプレ。
第一歩兵師団や101のエンブレム、貼るなよ....


1945年2月にはドイツ軍は全面的に退却しておりパットンは勢いに乗ってザール地方を制圧、1945年3月22日にはモンゴメリーに先駆けてライン川を渡った。
その後チェコに侵入しビールで有名なピルセンを開放、プラハ攻略を計画していたがソ連からの圧力を受けたアイゼンハワー総司令官がパットンに停止を命じ、ここで第二次世界大戦が終わった。
ヨーロッパの終戦後、太平洋戦争への参加を希望したがかなわず、南部ドイツ(バーバリア)の軍事統治を任されたパットンはエラく不機嫌だった。
元ナチス党員に甘くソ連と共産主義への悪口を慎まない態度は疎まれ、第3軍指令を解任され第15軍指令に左遷させられた。

それから間もない1945年12月9日、ドイツ・マンハイム郊外でパットンの乗っていた1938年型キャデラック75が米軍のGMC 2 1/2 トントラックと衝突した。
乗っていた人たちは皆無傷だったが、パットンだけは頭を車の前後席仕切りにぶつけたらしく頚椎を損傷し首から下が麻痺し、ハイデルベルグの病院で寝たきりとなり、1945年12月21に死去した。

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生前に「部下と一緒に埋葬して欲しい」と望んだ通り、ルクセンブルグ王国のハムの米軍墓地にパットンは眠る。
当初は他の兵と同じ列に埋葬されていたが、墓参りに訪れる人が多い為芝生が傷まないように、パットンの墓は他の兵の前に移された。
49 36 43 N 6 11 7 E

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米軍の戦闘車輌は歴代指揮官の名前を付ける。
パットンの名前は冷戦期に広く使われたM46,M47,M48,M60系戦車に冠されている。
パットンと関係のあったブラッドレー、パーシング、エブラムス、チャフィーらも、M2ブラッドレー歩兵戦闘車、M26パーシング重戦車、M1主力戦車、M24軽戦車の名前になった。

パットン将軍を描いた映画に「パットン戦車軍団」(1970年)がある。
「バルジ大作戦」同様、何とも酷いタイトルだ。
オープニングは巨大な星条旗(ちなみに星48個)をバックに兵に訓示をするパットン。
本当のパットンは結構甲高い鼻声だったというが主演のジョージCスコットの威厳ある低いダミ声の方がマッチ。
更に本物は4文字単語連発の汚い言葉遣いでしゃべっているのだが、それだと映画がR指定(お子様×)になってしまうので、脚本家(コッポラも参加)は冒頭のスピーチを始めとして随所でパットンの言葉をお行儀良く書き直したとか。
ドイツ軍戦車の役でパットン戦車が出てくるのはご愛嬌。
一番ビックリしたのはモンゴメリーが本物そっくりな事。
映画の撮影は殆どがスペインで行われた。
どうりで厳寒アルデンヌの戦いの場面の雰囲気が、これまたスペインで撮影された「バルジ大作戦」(これってパンツァーリードをフューチャーしたミュージカル映画?)と似ている訳だ。
映画自体は大傑作でアカデミー作品賞を含む計7部門を受賞
ところがここで主演男優賞のジョージCスコットが受賞拒否騒動をおこしたのもこれまた有名。
映画は史実をベースにチュニジア戦から第3軍司令解任までを描く。
戦争にしか生きがいを見出せない男の悲劇とも思われるほど戦争好きに描かれるが、実際の所もそうだったらしい。
パットンを知る者はこの映画を見て本物そっくりに描かれていることに驚嘆したという。
史実に基づいていると言われるがブラッドレーがアドバイザーに着いたということもあり心なしかブラッドレーが「いいおじさん」に描かれすぎれいる様な....
あと、バストーニュで包囲された101空挺師団の包囲を解く為に空軍の支援が必要で、天候が回復する祈りを従軍牧師に書かせた、というのはウソ。
実際には12月8日の時点で従軍牧師に頼んでいた。
主演のジョージCスコット=パットン将軍というイメージが出来てしまい、「パリは燃えているか」でカークダグラスが、「ブラスターゲット」でジョージケネディが演じるパットンがちっともらしくない。
また、ジョージCスコットが他の役を演じてもやはり違和感が... それほどまでに強烈な演技だった。
挙句に戦跡巡りをしていてパットンの像とか見ても、「顔が(ジョージCスコットに)似てない」...ってここまでくると病的。
あまりにパットンがジョージCスコットのハマリ役だった為か、交通事故に遭ってから死去するまでを描いたテレビ映画「パットン将軍最後の日々」にジョージCスコットが出演し、「パットン戦車軍団」の続編と言える出来になっている。
1981年(ベトナム撤退後、湾岸戦争前というのがポイント)に作られた「タップス」ではジョージCスコットが軍事学校の校長を演じているが、パットンがもし生きていたら....と思わせる、哀愁をも感じさせる役柄。




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