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マーケットガーデン作戦 計画と準備
Operation Market Garden



【マーケットガーデン作戦承認までの背景】

1944年6月、連合軍がフランスのノルマンディに上陸し、英軍のカン攻略や米軍のボカージュ脱出には苦労したものの、8月のファレーズの包囲戦でドイツ軍に大打撃を与え、パリ開放を経て9月にブリュッセルを始めとするベルギーの多くを開放していた。

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ベルギーのリエージュにて、開放記念再現パレード。
リエージュは1944年9月8日にアメリカ陸軍第1軍の第3機甲師団「スピーアヘッド」により開放された。
再現パレードでは第2歩兵師団のコスプレだが、彼らは当時フランスの港町ブレストの攻略に借り出されていた。

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しかし、連合軍東進の為に重要な物資の補給港となるアントワープは、町と港を確保できたものの、北海の出入り口となるスヘルデ川の河口付近は未だ攻略できていなかった(アントワープ港で連合軍の物資荷上げが出来るようになるのは同年11月末)。
写真は英軍が上陸したゴールドビーチにあるアロマンシュで、荷揚げ拠点となる急造港のマルベリーBが作られた。
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当初は短期間の使用予定だったが、アントワープやダンケルクなどの港の確保に手間取ったこともあり8ヶ月に渡り使われた。
英国で製作して曳航し、自沈することにより防波堤となったコンクリートの箱「フェニックスケーソン」が今も残る。
同様の急造港が米軍のオマハビーチにも作られたが、こちらは6月19日の嵐で破壊されてしまい、荷揚げは上陸舟艇やDUKW水陸両用車両に頼ることになる。

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写真は連合軍の補給線「レッドボールエキスプレス」の中核となる、GMC CCKW 2 1/2トントラック、通称「デュースアンドアハーフ」。ベルギーのバストーニュにて撮影。
連合軍の作戦に必要な増援物資は9月の時点でもノルマンディーのビーチやシェルブールの港に上陸され、長い道程を陸送されて前線に届けられたが、さすがに補給が伸び切り、これに伴い進撃も滞り気味になっていた。

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更に、このまま東進した場合、第三帝国の誇る「西の壁」を突破しなければならずそれなりの困難が予想された。
写真はドイツ〜ベルギー国境沿いに配置された「竜の歯」。
ドイツのプロパガンダでは強力な防衛線であり、出来ればこれを迂回したかった。

英軍司令官のモンゴメリーは配下の英軍が抜き出てドイツの工業地帯の中心であるルール地方を攻略、戦争継続能力を奪う作戦を主張し、戦略物資を優先的に回すよう要求してきた。
一方、連合軍司令官のアイゼンハワー大将は突出部を作らず、全戦線を均等に前進させる作戦(Broad Front)を採る様譲らなかった。

連合軍の空挺部隊はノルマンディ上陸D-DAY(1944年6月6日)の未明に米陸軍第82および第101空挺師団、英陸軍第6空挺師団による空挺降下を実施していたが、それ以降9月中旬に至るまで、何度も降下作戦が検討計画されたが地上軍の進撃が早いなどの理由でキャンセルされた。
この間、8月2日に連合軍第1空挺軍が結成されている。
(米陸軍第17,82,101空挺師団および英陸軍第1,6空挺師団、亡命政府のポーランド独立第1空挺連隊により構成)

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報復兵器V-1飛行爆弾のロンドン攻撃は1944年6月13日に始まったが、すぐにこれは迎撃可能であることが判り、また、フランスにある発射基地を連合軍が次々と押さえた事により9月には飛来がめっきり少なくなっていた。

しかし9月8日には次の報復兵器、V-2がロンドンに着弾する。こちらは超音速で成層圏から落下するロケットで、探知迎撃は不可能だった。

ロンドンを狙ったこれらV-2はオランダのハーグ及びその周辺の、ワッセナーや珍名ビーチリゾートであるスケベニンゲン(残念ながらオランダ語の発音はスヘフェニンゲンが近い)から発射されたものだった。
ちなみにワッセナーはワッセナー合意およびワッセナーアレンジメントで有名。
前者は1982年代、失業率改善の為政府、経営者、労働組合が会談を持ち、賃金上昇の抑制・減税・ワークシェアリングを導入して効果をあげたもの。現在(平成末)の日本では賃金上昇(インフレ導入と景気向上)・移民受入(人口を増やす)・転職促進(オワコンの会社に見切りをつける)の状況打開策が良いのではないか。
後者は冷戦後の通常兵器の輸出管理に関する輸出規制で機械関連の輸出入に携わるとイヤというほど関わらされる。無差別破壊兵器であるV-2が発射された地の名前を付けるのがミソ。

写真はハーグ近郊でロンドンに向け発射準備中のV-2の模型。オランダの軍事博物館Wings of Liberationにて。
固定発射台を必要としないV-2は革新的な弾道ミサイルだった。同時代に発射された日本軍の風船爆弾の方が飛行距離が長いのは内緒だ。


こういった背景の中、敗走する弱体化したドイツ軍を叩くなら今、クリスマスまでに戦争をとっとと終わらせたい、米陸軍第3軍指令のパットン中将を出し抜きたい、空挺部隊にもう一活躍させたい、V-2発射を何とか止めたい、といった思惑を秘め、モンゴメリー元帥はマーケットガーデン作戦を立案し、9月10日、アイゼンハワーに承認させた。
尚、モンゴメリー元帥は、9月3日の時点で似たような「コメット」作戦を立案し承認されていたが、決行予定の9月7日が悪天候により中止せざるを得なかった。
マーケットガーデン作戦はコメット作戦を元に規模を拡大(米軍空挺師団参加など)したものである。


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マーケットガーデンの立役者、モンゴメリー元帥。ロンドンにある国防省建物裏にて。
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【マーケットガーデン作戦計画】
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1944年9月に置ける連合軍西部戦線(イタリア除く)の戦闘序列と、マーケットガーデン参加組織を示す。
クリックで拡大。

マーケットガーデン作戦は、空挺部隊のマーケット作戦と、地上部隊のガーデン作戦より成る。

マーケット作戦では、アイントホーフェン〜アーネムに架かる主要な橋梁を、連合軍第1空挺軍に属する3個+αの空挺師団が降下後速やかに確保し、英第XXX軍団が到着するまで保持する。
南から順に米陸軍第101空挺師団がアイントホーフェン〜ウェフエルまでの間の橋梁を、米陸軍第82空挺師団がグラーヴェとナイメーヘンの橋を、そして英陸軍第1空挺師団及び、ポーランドの独立第1空挺連隊がアーネムの橋を確保する。
空挺降下およびグライダー降下は、輸送機とパイロット手配の都合上1日では完了せず、仕方ないので2日+αに分けて行うことになった。

ガーデン作戦は、英陸軍の第2軍隷下、第XXX軍団がオランダ国境に近いベルギーのロンメルを出発しオランダに進出、初日に降下して橋を確保していた米英の空挺部隊と合流しながらいくつもの橋を渡り、1本の進撃路(コリドー)を使って100km先のアーネムまで進撃する。
作戦初日に米第101空挺師団と接触、2日目に米第82空挺師団と接触、4日以内に英第1空挺師団と合流する。
第XXX軍団の両翼を同じく英陸軍第2軍隷下の第]U軍団(左翼:西側)、第[軍団(右翼:東側)が進撃し、メインの進撃である第XXX軍団の側面を守る。

マーケットガーデン作戦が成功し、アーネムを確保したらそこから東南に進めば西の壁(ジークフリード線)を避けて平坦な地形を進み、ルール工業地帯に到達できる。
ここを押さえさえすれば、戦争を早期に、クリスマス前までに終結させられるはずだ。


【マーケットガーデン作戦の準備】

マーケットガーデン作戦の開始は9月17日とされた。準備期間は1週間しかない。
必要と思われる人員、物資機材が急いで集められ、出発拠点となる地域の確保が進められた。

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9月7日〜10日の戦闘を経て開放されたヘヒテルエクセルの交差点に飾られているシャーマンファイアフライ戦車。
この町を基点に「ジョーの橋」を確保に走った。
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(撮影時の座標。現在戦車はは少し西に移動したらしい)

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「ジョーの橋」と呼ばれる、ボホルト・ヘーレンタルス運河(ミューズ・エスコー運河)にかかる橋。

1940年の電撃戦では、ドイツ軍に使われない様ベルギー陸軍が鉄橋を爆破した。
ベルギーを占領したドイツ軍は、木造の橋を架けた。

1944年9月10日の時点でもこの木造の橋が架かっていた。
この日の夕方、英陸軍のアイルランド近衛連隊が橋を南側から攻撃した。
ドイツ軍は「ジョーの橋」の南側に1門、北側に3門の88mm砲を配置しており、英軍はこれを制圧しなければならなかった。。
攻撃開始から20分後に戦車が橋を渡った。
橋を爆破出来る様ドイツ軍は爆薬を仕掛けていたが、破壊前に英軍が橋を確保し、工兵が配線を切断した。

ドイツ軍は橋を奪還しようと17日までの間に何度か攻撃を仕掛けたが英軍は橋を確保し続けた。、

この「ジョーの橋」がガーデン作戦の英第XXX軍の進撃基点となった。

戦後、橋は戦前の橋と似た(同じではない)形状の、下路式アーチの鉄橋に架け直された。

「ジョー」の由来は、橋の確保を指揮した連隊長のJ.O.E. ヴァンデルーア中佐に由来すると言われるが、爆薬を解除した工兵隊が「Joe's Troops」と呼ばれていたから、という説もある。

写真は橋の北東に設置されている記念碑。
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一番下のQuis Separabitはラテン語で、「我々を分裂できる者はいない」といった意味。アイルランド近衛連隊のモットーになっている。

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「ジョーの橋」を確保した翌日の9月11日、英第XXX軍団直属の第2王室騎兵連隊D中隊の偵察隊が、ガーデン作戦で地上軍が最初に確保すべき、ドンメル川にかかる橋の下見に出た。
この部隊は1940年にドイツ軍に占領されて以来、初めてオランダに入った連合軍側の正規地上軍である。
ガーデン作戦で地上軍が9月17日に通過した後、9月20日と21日にはオランダ軍のイレーネ皇女旅団がここを通過している。
これらの出来事を記念する碑がベルギーとオランダの国境に建てられている。
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偵察隊は途中、最初に見つけたカフェに立ち寄った。 場所はベルギーとの国境から5km程入った所で、ドンメル川の4km弱手前。
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カフェにいた人たちは「解放軍が来た」と歓迎したので、隊員は「偵察で立ち寄っただけ、まだ開放ではないのではしゃぎすぎないように」、と忠告した(TVシリーズのコンバットにも似たような話〜ある村ーその生と死〜があった)。
英軍が去ると入れ替わるようにドイツ軍が現れたが、幸い置き土産のタバコやチョコレートは見つからなかった。

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オランダがドイツに占領されて以来、始めて連合軍側の正規地上軍兵士が地に足を付けた場所として、カフェの前に建てられている記念碑。
マーケットガーデン関連の記念碑にはこのように前衛的なものが多い。
正直、私は理解できない。現代アートの美術展とか発狂しそうになるし。

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9月12日にレオポルズブルグの町が英軍により開放された。
写真は開放を記念して飾られたシャーマン・ファイアフライ戦車。
元々はM4A4 製造番号21652,として生産され、ベルギーで戦後ファイアフライ仕様に改造されたものという。
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この町がマーケットガーデン作戦の内、ガーデンのベースとなる。
英陸軍XXX軍団の車両、兵員が終結を始めた。

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レオポルズブルグは今も軍事基地として機能している。
ただし、写真の大通りは戦車通行禁止。
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作戦開始の前日である16日の1100、レオポルズブルグの駅前にある映画館「スプレンディット」に英陸軍第XXX軍団の将校が集まり、軍団指令のホロックス将軍が「これは君たちの孫の代まで語れる出来事になる、孫はエラく退屈するだろうけど...」というジョークを前置きに、作戦を1時間に渡り説明した。
映画館は1973年に無くなっているが、記念プレートが飾られている。
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【準備爆撃】
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作戦決行の前夜となる1944年9月16日〜17日の夜〜未明にかけて、空挺降下予定地の近辺の敵対空砲陣地、鉄道駅、判明している敵駐屯地などが徹底的に爆撃された。
米陸軍航空隊は第8空軍がB-17を中心とした爆撃機約1000機を、英空軍は爆撃機軍団がランカスターを中心とした爆撃機約400機を出撃させ、全体で7機の損失で済んだ。
写真はアメリカのPima航空博物館撮影のボーイング B-17爆撃機と、オーストラリア戦争記念館のアブロ ランカスター爆撃機。

ドイツ軍側の状況】

西部戦線は西方総軍(OB West)の戦区で、総軍隷下にはB,G,Hの軍集団と、西方装甲集団が配された。
マーケットガーデン作戦で連合軍はドイツ軍B集団の守備範囲で対決することになる。

連合軍のノルマンディ上陸時点では西方総軍司令官フォンルントシュテット元帥、B軍集団指令をロンメル元帥が勤めていた。
連合軍の圧倒的物量を前に講和をヒトラー総統に提案したフォンルントシュテット元帥が7月2日にクビになり、西方総軍司令官フォンクルーゲ元帥、B軍集団指令ロンメル元帥となった。
間もなく7月7日のロンメル元帥負傷により西方総軍司令官及びB軍集団指令はフォンクルーゲ元帥が兼任となった。
7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂の疑惑の中、ベルリンに召喚され移動途中のフォンクルーゲ元帥は8月17日に服毒自殺し、西方総軍司令およびB軍集団指令には東部戦線からモーデル元帥が引き抜かれた。
しかし兼務はキツいと、9月4日付で西方総軍司令官にフォンルントシュテット元帥が2ヶ月ぶりに復帰し、モーデル元帥はB軍集団指令専任となった。
3ヶ月の間に連合軍上陸、総統閣下暗殺未遂事件、ファレーズ包囲&敗走といったビッグイベントが相次いだとはいえ、スゴい司令官の入れ替わり。
会社の人事異動も短期間に人が頻繁に動くようになるとその会社は危ない…

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B軍集団指令のモーデル元帥は、軍集団司令部をアーネムの西にあるオステルベークに構えた。
写真はモーデル元帥がB軍集団指令部として使った建物で、当時はホテルタフェルベルグと呼ばれた。
現在は大部分が建て直されたが入口は同じデザインで残されている。
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9月17日の作戦決行初日、英空挺師団の到来を見てモーデル元帥は「自分を捕まえにきた」と誤解し、アーネムの東20kmにあるドゥーティンヘムの第2SS装甲軍団司令部に移動した。

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ファレーズでの包囲以降、ドイツ軍は敗走していた。
北海海岸沿いで英軍と戦う第15軍と、内陸で米軍を相手にする第7軍の間には空隙が出来つつあった。
ここを埋めて敗残兵のモラルを取り戻し、体制を立て直して連合軍の進撃を抑えるために、シュトゥーデント上級大将指揮下のドイツ空軍 第1降下猟兵軍を任命した。
同軍は9月4日に発足し、降下猟兵というエリートの名前が付けられていたがベテランの降下猟兵は一部のみで、寄せ集めの構成の為に、撤退のさなか原隊からはぐれた(或いは原隊が消失してしまった)兵、空軍及び海軍の余剰兵員など空挺降下兵はおろか歩兵でさえもない者が多数配属されていた。
この第1降下猟兵軍はアルベール運河の北で配置に着いた。ガーデン作戦で北進する英第XXXの進撃路周辺に配備されることになる。
写真はフフトにある第1降下猟兵軍の司令部だった建物。
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シュトゥーデント上級大将は9月14日にこの司令部に入った。
9月17日の空挺降下決行初日には連合軍の輸送機、護衛戦闘機が絶え間なく上空を通過し、シュトゥーデントは「これだけの物量が我が手にあれば」と羨ましがった。
また、同日フフト近郊に墜落したグライダーで死亡していた連合軍将校が身につけていた作戦計画書はこの司令部に持ち込まれ、シュトゥーデント上級大将自らが見たという。
グライダーの墜落地点は特定されていないが、空挺軍団司令部付のワコグライダーに搭乗していた米軍大尉がイギリスに置いてくるべき書類を身につけていたのではないかと言われる。

そして、ビトリッヒ中将指揮の第2SS装甲軍団はノルマンディー戦を戦い、ファレーズで多数の装備兵員を失ったが、命からがら包囲を逃れた生き残りが本来の構成の2-3割残っていた。
モーデル元帥は、同軍団を構成する2つの師団(第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」及び第10SS装甲師団「フルンツベアク」)を休養と再編成の為、前線奥の静かで安全な場所、すなわちオランダのアーネム・ナイメーヘン周辺に配置した。

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オランダの地下レジスタンスはSS装甲師団配備の動きを捉え、英国に連絡した。また、暗号機エニグマを使ったドイツ軍間の通信を解読したウルトラ情報でも情報が入った。
ブローニング中将直属の情報将校であるアーカート少佐はレジスタンスその他から入る情報が気になり、英第1空挺師団の降下予定地に偵察機スピットファイアXI型での写真撮影を依頼した。
写真はアメリカ空軍博物館に展示されている同型のスピットファイアXI型で、米陸軍航空隊の第14写真偵察中隊の塗装。
XI型はIX型をベースにした偵察型スピットファイアで、エンジンをパワーアップ、潤滑油タンクを大型化、カメラ搭載(胴体下方向に撮影)、武装無し、防弾なし。

偵察機が撮影した写真には、降下地点のすぐ近くの木の下にドイツ軍の戦車や装甲車が隠匿されているのが写っていたという。
大戦中撮影された膨大な量の英軍偵察写真は現存するが、目録が失われておりこの時の写真は今の所再発見されていない。

ブローニング中将にこの事を報告したアーカート少佐は、「ストレスで疲れているので休むように」と命令された。
結局、降下地点にそれなりに強力なSS装甲師団が駐留しているという事実は握りつぶされた。

このエピソードは映画「遠すぎた橋」でも描かれているが、第1空挺師団長のアーカート少将(親族ではない)と混同しない様、映画では「フラー少佐」という架空の名前になっている。
アーカート少佐は戦後の国連設立に携わり、事務次長を勤め、ナイトの称号を受けた。

作戦1日目(1944年9月17日 日曜日)に続く



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